懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第百一話:仕置き

 目の前に女が立っている。

 リングの上だ。戦う場所だ。そんなところに、女のくせに、身の程をわきまえず、立っていやがる。

 まだ、しょんべん臭いようなガキだ。男に抱かれたこともないようなガキだ。男と手を繋いだだけで顔を赤くするようなガキだ。

 顔はいい。俺の好みだ。

 俺は別にロリコンじゃないが、子供は願い下げって訳でもない。好みの女なら、食えるだけ食ってきた。その中には、目の前のガキくらいの女もいた。

 合意の上で抱いた女ばかりじゃない。どうしても我慢出来ない時は、襲ったこともある。もちろん、ばれないようにする。例えそれが犯罪行為であっても、バレなきゃ犯罪じゃないからだ。そして、もしもばれたとしても、馬鹿な女の口をふさぐ手段など、星の数ほどある。

 とにかく、目の前にいるのは、今まで俺が食ってきたのと同じ、女という生き物だ。

 身長は150センチをどれだけ越えているか。体重は45キロほどか。

 いずれにせよ、普通のガキだ。少なくとも、体格は。

 そんなガキが、俺の前に立っている。この、MMA金メダリストの、俺の前に。身長は196センチ、体重は120キロもある、俺の前に。

 このリングの上に立つ資格があるのは、選ばれた本物の戦士だけのはずなのに、その資格もなく、立っている。涼しい顔で立っている。ここにいるのが普通のように、当然のように立っている。

 構えは作っていない。両手を下げ、足は肩幅程度に横に開き、身体の正面をこちらに向けている。攻撃する気配も、防御する気配も、動く気配すらもない。

 ただ、立っている。こちらを静かな視線で見遣りながら、じっと立っている。

 その余裕のある様子が、気に入らない。

 だから、ガキを睨む。試合の前はいつもそうだ。試合の相手がどんなやつでも、まずは目で殺すのだ。相手の闘志をへし折るのだ。気の弱いやつなら、それで勝負は決まりだ。一発殴る必要もない。心の折れたチキン野郎にできるのは、リングの上で無様に逃げ回ることだけだ。

 だから、ガキを睨む。いつもと同じように睨んでやる。

 なのに、ガキの表情は露ほども動かない。

 去勢を張っているのではない。向かい合い、相手の呼吸を感じれば、それくらいは分かる。

 つまり、このガキは、俺の殺気でちっともびびっていやがらないのだ。生意気にも、俺と正面から戦うつもりなのだ。

 舐めやがって。牝ガキの分際で。

 怒りの炎が、じくじくと胸中に広がるのを感じる。例えば相手が男なら、試合中の事故に見せかけて殺すつもりで襲いかかってやる、そういう怒りだ。

 MMAはそこがいい。確実に相手の息の根を止めることができる。ボクシングのノックアウトのように、中途半端がない。試合が終わる時は、相手が失神したときか、それとも無様にギブアップしたときか。つまり、身体と心のどちらかが壊れた時でないと、試合は終わらない。

 そして俺は、今まで一度も負けたことがない。悉く、相手の身体か心をへし折ってやった。試合でも、ケンカでもだ。公式戦じゃないなら、さっきの大男のように、無様な命乞いをさせてから骨をへし折るのが一番好きだ。

 このガキも、同じ目に遭わせてやろうか。煮えたぎる欲望が、ムクリと鎌首をもたげるのを感じる。目の前のすました顔をぐちゃぐちゃにして、鼻を潰して歯をへし折り、絶望の泣き声をあげさせてやろうかと思う。

 だが、今はだめだ。俺は馬鹿じゃないから、それくらいはわきまえている。もしもこのガキを叩きのめしたら、TBSBの連中が黙っていないだろう。さっきの大男は、はねっかえりの素人が調子に乗って突っかかってきたのを返り討ちにしたことにすれば、いくらでも言い繕える。しかし、中等部の子供、しかも女をボコボコにしたら、どんな言い訳をしてもこっちが悪者だ。下手をすれば、金メダルの剥奪だってありうる。

 そんなことになったら全てが台無しだ。社会的な地位も、収入も、約束された輝かしい将来も、全てがおじゃんになってしまう。

 それよりなにより、そんな馬鹿なことをすれば、兄貴を怒らせることになる。それだけは避けなければならない……。

 あ。

 そうか。

 それが、お前の狙いか。

 俺に殴らせて、大げさに泣きわめいて、その様子をカメラに収めさせるつもりか。

 そうして、俺の社会的な立場を痛めつけて、さっきの大男の意趣返しにするつもりだったのか。

 なんて卑怯な、姑息な真似を!

 そうだ。そう考えてみれば、このガキの冷めた視線も、女という生き物が、自分の弱さを武器にするという最も汚い戦い方をするときのそれだ。

 殴ってみなさいよ、と。もしもわたしを殴れは、あなたは一体どういう目にあうのか分かってるんでしょうね、と。警察に駆け込んでやる、裁判を起こしてやる、退学に追い込んでやる、と。女の涙を、弱さをもって男を貶めるときに浮かべる、一番醜い視線だ。

 そうか、そのつもりだったのか。だから、防具をつけるのも断ったわけだ。ヘッドギアのつけた顔を殴られるよりも、何もつけてない顔を殴られる画の方が、遥かに強烈で、自分が被害者だとアピールできるから。派手に鼻血を流し、涙を流し、俺が悪者だと印象付けられるように。

 なるほど、それがお前の狙いだったのか。危ないところだった。危うくのせられるところだった。

 だから、そんなに静かに立っていられる。もう、殴られる覚悟ができているから。

 だから、両手をぶらりと下げている。殴られるのが目的だから。

 だから、そんなに優しそうに微笑っている。お前を殴った後の俺の壊れた未来が見えているから。

 そうか、そうか。

 この卑怯者め。お前の考えは、全てが理解できたぞ。

 だが、それはそれで大したものだ。例えそれが一撃でも、俺が殴れば、下手すれば死んでもおかしくない。確実に怪我はする。鼻は折れ、歯が砕けるかも知れない。だが、その覚悟はもうできているというわけだな。その上で、そんなに静かに立っている。なら、その覚悟だけは大したものだ。認めてやるよ、このくそがきが。

 

「どうした、来ないのか?もう戦いは始まっているぞ?」

 

 ガキが、可愛らしく小首を傾げて、さも不思議といった様子を装いながら、挑発してくる。

 小憎たらしい、舐めくさった口調で。

 思わず、飛び掛かりそうになる。殴って、その舐めた台詞を、舐めた態度を後悔させてやりたくなる。男の恐ろしさを思い知らせてやりたくなる。・

 でも、もう駄目だよ。俺はその手には乗らないよ。

 それに、俺ができないのは殴ることだけだ。大の男が女を殴るっていうのは、かなり強烈な絵面になる。マスコミは飛びつくだろう。逆に言えば、強烈な絵面になりさえしなければ、俺はお前に何でもできるっていうことだ。

 

「焦るなよ。せっかく金メダリストとスパーリングできるんだぜ?じっくり楽しもうじゃねぇか」

 

 余裕たっぷりに言ってやる。

 すると、ガキの表情が僅かに、本当に僅かに動いた。俺じゃなければ見逃してしまうくらい、ほんの僅かに。

 きっと、俺が言った、じっくりという意味を理解したのだ。俺が、お前の考えを見抜いているぞと、理解したのだ。だから、表情が僅かに強張った。自分の作戦がおじゃんになったからだ。

 いいじゃないか。その、無様に強張った表情が、女には似合いだ。所詮、力でも知恵でも、女は男に及ばない。弱い生き物だ。女が男に勝てるのは、いや、勝った気になれるのは、自分の弱さを武器にして、社会という後ろ盾を得たときだけなのだ。

 だから、俺はそうはしてやらない。

 決めた。お前は押し倒してやる。強姦魔が、その獲物をそうするように、仰向けに押し倒して、俺の体の下で甚振ってやる。思うさま暴れさせて、疲れされて、絶望させて、その様を嘲笑ってやる。

 その年だ、もしも経験がなかったとしても、セックスの知識は十分にあるだろう。男の下に女が組み敷かれることの意味は十分理解しているだろう。両足の間に男の腰をねじ込まれることの意味くらいは分かるだろう。

 どれほど気丈な女でも、恐怖を感じないはずがない。

 例え体に傷一つ付けないでも、心をずたずたにしてやることなど、いくらでもできるのだ。男にのしかかられて、何も抵抗することのできない絶望を味わって、それでも今の涼しい顔を続けられるか、確かめてやろう。

 ならば、することは一つだ。まず、このガキを捕まえることだ。捕まえさえすれば、あとは組みついて、力でねじ伏せるだけのこと。

 どうやって捕まえるか。一番いいのは、このガキが殴りに来ることだ。顔でも、腹でも、どこでもいい。最初の一発を殴らせて、その代わり、手首でも肩でも腰でも、どこかを掴む。そして強引に引き寄せ、そのまま押し倒す。そうすれば、後は思いのままだ。

 早く殴りかかって来い。

 そう思う。

 しかし、このガキはちっとも動く気配がない。両の腕をだらりと下げ、体の正面をこちらに向けたまま、全く動く気配がない。

 ならば、こちらもガードを解く。両手を下げ、顔を無防備にしてやる。

 そして、顎を前に突き出し、殴って来いと挑発してやる。

 

「どしたお嬢ちゃん。俺は本物の戦士だ。流石に、少しはハンデをくれてやらないと不公平だからな。最初だけ、一発殴らせてやる。さぁ、どこを殴ってもいいんだぜ?」

 

 殴らせてやるという言葉は本当だ。

 だが、たったの一撃なら、来ると分かっている打撃を我慢するのは、よほどのことがない限り、それほど難しいことではない。無論、素人がプロの打撃を我慢するのは不可能だ。肉体のタフさ、精神力、経験値、覚悟の量、全てが比較にならないからだ。

 しかし、それがプロ同士であるなら。まして、相手が素人でこちらが金メダリストであるなら。さらに言えば、相手が女子中学生で、こちらが大人の男であるなら。

 例えば、眼球や金的などの急所を除けば、我慢するのは難しい話ではない。

 だから、殴らせてやるのだ。その後は、倍返し、いや、百倍にして痛みも屈辱も、返してやる。

 殴って来い。早く殴って来い。そう思う。

 それでも、ガキはちっとも動かない。ほんの薄っすら微笑んでいるようにすら見える、静かな表情のままで、こちらを見ている。

 それが、まるで俺を馬鹿にしているように見える。

 馬鹿にするな、と思う。俺は、TBOの金メダリストのレオン・オリベイラ様だぞ、と思う。誰も、俺には勝てない。俺は、この世で一番強い男なんだ、と思う。

 そうだ。それなら、どうして俺はこんな真似をしているのか。この世界で一番強く、気高い戦士が、小賢しく小娘を挑発し、相手に手を出させてから捕まえるなど、そんな小細工を弄しているのか。

 不要だ。

 もっと単純に、相手を捕まえるだけでいいのだ。その途中に、どこを殴られてもいい。その程度でぐらつくような、やわな鍛え方はしていない。

 よし、戦法は決めたぞ。ならば、疾く実行するだけだ。とっととこのむかつくガキを泣かせて、男に二度と歯向かう気がおきないよう躾けてやって、それからしち面倒くさいインタビューとやらを終わらせて、あとは可愛い女達とパーティーを楽しむのだ。その中の一番可愛く従順な女をベッドに連れ込み、可愛がってやるのだ。それが、金メダリストの俺に相応しい、余暇の過ごし方だ。

 そして俺は前に足を進めた。いや、足を前に出すために、足を浮かせた。

 その時だ。

 ガキが、凄い速さで動いた。

 まるで地を這うような姿勢で、俺が不用意に上げた足に向かって飛びついてくる。

 正面に向けていた俺の視界から、ガキの姿が消えるくらい、低い姿勢で。

 俺が動くのを待っていたかのように、いや、俺が動き出すタイミングが分かっていたかのように。それとも、そこに至るまでの俺の思考の全てを読んでいたかのように。

 まずい。本能が叫ぶ。これは、不用意な一歩だった。浮かせた足をマットに着けるまでの僅か数舜であるが、こちらは動けず、あちらは自由に動ける。

 その数舜の間に、ガキは間合いを詰め、こちらの懐に飛び込んでくる。

 目が覚めるような速度のタックルだ。

 狙いは、あっちも、こちらを押し倒すことだったのか。

 果たしてあの小さな体で、俺を押し倒すことができるのか、それは分からない。押し倒したあと、グラウンドの勝負になったところで、俺に敵うとも思えない。だが、相手の狙いがそれであることは間違いない。

 おそらく、最初からこの瞬間を狙われていたのだ。であれば、今の流れは、相手の狙い通りということだ。

 勝負で何が一番まずいかといえば、相手が作った流れに飲み込まれるのが、一番まずい。そして、俺はその流れに飛び込んでしまった。

 何て間抜けだったんだ、俺は。

 そこまでが、一瞬の思考。

 そして、永遠とも思える一瞬の後で、足がマットに着く。

 まだ、ガキの身体はぶつかってこない。

 よし、何とか間に合った。ならば、まずはタックルを受け止めることだ。タックルを切り、がぶって上から体重をかけてやれば、あの小さな身体で俺の体重を受け止められるはずがない。押しつぶすことができる。そうすれば、最初のプランどおりだ。今度は、こちらの流れに相手を飲み込むことができる。

 両足を引き、タックルの迎撃体勢を整える。

 よし、これで大丈夫だ。いつでも来い。叩き潰してやる。

 そこまでが、次の一瞬の思考。

 そして、視線を足元に向ける。そこに、ガキがいるはずだ。俺の足に組みついて、しかしどうあがいても倒すことができず、無様に苦闘するガキがいるはずだ。

 しかし、そこには、誰もいなかった。

 ガキは、どこにいったのか。

 そう思った。

 次に、がつん、と、顎にすごい衝撃。

 肉の潰れる音。骨のひしゃげる音。

 吐き気を催すような激痛。

 視界に無数の星が散り、その光が視界を埋め尽くし、真っ白になる。

 全てが白く塗りつぶされて、意識が細く、薄くなっていく。

 ただ、理解した。

 俺は、あのガキにいっぱい食わされたのだと。

 あのガキの狙いは、グラウンドに持ちこむことなどではなかったのだと。

 全て、あのガキの計算だったのだ。

 ちくしょう、絶対ゆるさねぇ。

 正面から戦っても勝てないから、こんな卑怯な小細工しかできないんだ。

 卑怯者め。

 もう、金メダルのことなんてどうだっていい。将来も、なにもかも、どうでもいい。

 絶対に、殴り殺して、死体を犯して、犬に食わせてやる――。

 

 

 勝負が決したのは一瞬だった。

 悠然と、自然体で構えるウォル。そして、嫌らしい薄ら笑いをへばりつけ、オーソドックススタイルに構えたオリベイラ。

 最初は、どちらも動かない。じっと相手を見るだけだ。 

 少女のウォルと大男のオリベイラが、リングの上で微動だにせず、対峙している。牽制のジャブも、相手を惑わすフットワークもなく、ただじっと対峙している。

 はらはらとした内心で観戦しているTBSBの学生や、オリベイラの取り巻き連中には、どうしてオリベイラが攻めないのか不思議だった。どのように料理するかは別にして、オリベイラの相手はただの女の子だ。如何様にでも攻め方などあるはずなのに。そう思った。

 だが、リィ達の見方は違った。オリベイラは、意識してか無意識にか、ウォルを警戒していた。だから、内心で色んなことを考え、それが表情にあらわれ、顔色が赤くなったり青くなったりしている。無論、リィ達でないと分からない程度に、ごく僅かに。

 当然、何を考えているかまでは理解できない。だが、欲望と打算が渦巻いていることだけは、十分に理解できる顔であった。

 

「どうした、来ないのか?もう戦いは始まっているぞ?」

 

 不思議そうに、ウォルが訊いた。ウォルの表情も立ち姿も、試合が始まったときと何も変わらない。あくまで自然体のままだ。

 しかし、そのウォルの表情を見て、オリベイラが、頬を引きつらせるように嗤った。

 そして、一度も拳を交えていないにも関わらず、僅かに息を乱し、汗を流しながら、

 

「焦るなよ。せっかく金メダリストとスパーリングできるんだぜ?じっくり楽しもうじゃねぇか」

 

 言葉とは裏腹に、狩りで追い詰めらた獣のような切羽詰まった様子で言った。

 ウォルは、分かりやすく溜息を吐き、さも面倒そうな表情になった。

 そんなウォルの顔を見て、果たしてどのような内心の葛藤があったのか、オリベイラはガードを解き、ウォルの前に無防備な顔面を晒し、言った。

 

「どしたお嬢ちゃん。俺は本物の戦士だ。流石に、少しはハンデをくれてやらないと不公平だからな。最初だけ、一発殴らせてやる。さぁ、どこを殴ってもいいんだぜ?」

 

 一般人が見れば、オリベイラが余裕を見せてウォルを挑発しているようにしか見えないが、しかしリィ達にしてみれば、攻め手を欠いたオリベイラが苦肉の策としてウォルをどうにか動かそうとしているのが見え見えだ。

 当然、ウォルはそんな挑発に乗らない。殴れば一撃で勝負が終わるかも知れないが、そこにどんな意図があろうと、相手の狙いに乗ってやる必要など一握りもありはしないのだ。

 ウォルは、やはり動かない。じっとオリベイラを眺め、立っているだけだ。

 そしてオリベイラはといえば、いよいよ策が尽きたのか、それとも何かを決心をしたのか、目を据わらせて、ウォルの方に近づいた。否、近づこうとして、足を動かしかけた。

 

「馬鹿」

 

 含み笑いを浮かべたリィが、小さく呟いた。

 今までのオリベイラの対応は、じつは正しい。ウォルを警戒し、安易に攻めないのは評価できる。それが意図してなのか、それとも本能的なものだったのかは、ともかくとして、である。 

 だが、今の動きは不用意だった。そして安直だった。おそらく、次の展開を作れなかったオリベイラが、とにかくウォルを捕まえてしまえば何とかなるとでも思ったのだろう。

 そして、そんな隙を見逃すウォルではない。

 リングの上に立った時から、この瞬間を狙っていたのだろう。オリベイラの足が上がった瞬間、いや、おそらくはオリベイラが自身に向けて足を動かそうとしたその瞬間に、ウォルの小さな身体はばねに弾かれたような勢いで前に飛び出していた。

 最初の一歩目からほぼ最高速の、素晴らしい踏み出しで、ウォルは身体を低く、オリベイラの足元に飛びつこうとしているように見えた。

 あれでは、おそらくオリベイラは、ウォルの姿を一瞬見失ったに違いない。ただでさえ小さなウォルが、地面スレスレの超低空の姿勢で懐に飛び込んだのだから、無理もない。

 次に、オリベイラは、長年のトレーニングによって身体に染み付かせた動きとして、タックルを警戒する姿勢を取った。重心を低くし、ぶつかってきた相手を上から押しつぶそうと、そういう体勢を取った。

 もしもウォルの意図するところが、オリベイラへタックルしてテイクダウンを狙うことなら、オリベイラの対応は功を奏しただろう。小さなウォルの身体は下に押しつぶされ、逆にオリベイラがウォルに対して有利なポジションでグラウンドに持ちこむことができたに違いない。

 しかしウォルの狙いはそうではなかった。オリベイラの懐に飛び込んだところで足を止め、深くしゃがみ込んだ姿勢から一気に飛び跳ね、無防備に曝け出されたオリベイラの顔面に向けて飛び膝蹴りを叩きこんだのだ。

 ごしゃり、と、凄い音が聞こえた。

 ただの一撃で、肉が、骨が、関節が、一気に砕ける音だった。

 リィ達以外は、果たして何が起きたのか分からなかった。しかし、リィ達には、何が起きたのか分かりすぎるほどに分かった。

 勝負ありだ。ウォルの勝利だ。

 ウォルが、水鳥のように優雅な様でマットに着地するのと、顎を変形させたオリベイラが仰向けに倒れるのが、ほぼ同じタイミングだった。

 

「ひ……きょう……もの……」

 

 砕けた顎を痙攣するように動かしたオリベイラは、何とも聴き取りずらい声でそう呟いて、動かなくなった。

 汗一つ掻いていないウォルは、マットに倒れてピクリとも動かないオリベイラを見下ろし、

 

「貴様のような人間は、風が吹いて砂が目に入ったのも、小石に蹴躓いたのも、それが自分の敗因であれば、全てを相手の卑怯にするのだろうさ。その程度の輩が戦士と名乗るなど、片腹痛い」

 

 感情のこもらない声でそう言いながら一瞥し、そして一度も振り返ることなくリングを下りた。

 そして、リングの脇で、目を丸くしながら声を失っていたノーマンに、

 

「ノーマンどの、済まなかったな。少々、灸が強すぎたようだ。あの様子では、インタビューとやらを今日することはできまいよ。卿らの仕事の邪魔をすることになってしまったな」

「いえ、それは別に大丈夫なのですが……いえ、大丈夫というわけではないのですが……」

 

 茫然とした様子でノーマンが応える。

 ウォルはにかりとした笑顔で、

 

「おれは、アイクライン校のフィナ・ヴァレンタインだ。もしもこの件で卿らに迷惑が及ぶことがあれば、おれの名前を出してくれて構わない。この男にも、目が覚めたら伝えておいてくれ。再挑戦する気概があるなら、いつでも受けて立つとな」

 

 ウォルはそう言って、リィ達のところに戻っていった。

 そしてリィ達はといえば、ウォルの勝利を微塵も疑っていなかったから、既に帰り支度は終えている。

 TBO金メダリストを正面から倒すという、傍から見れば大金星のはずの殊勲に、労いの声をかけることすらしない。当然の予想が、当然の如く的中しただけで、別に驚くことは一つもないからだ。

 

「よし、じゃあいい時間だし、帰るか」

 

 リィの言葉にメイフゥが、

 

「その前に飯だな。せっかくヴォルフが奢ってくれるっつってんだ。断ったらばちが当たるってもんだぜ」

 

 うきうきとしたメイフゥに、左ひじに氷嚢を巻き付けたヴォルフが苦笑して、

 

「おいおい、メイフゥ。怪我人に飯を奢らせるつもりかよ」

「なんだ、ヴォルフ。その程度のかすり傷で怪我人づらかよ。そんな軟弱な様子じゃ、あたしの将来の旦那様候補にはなれないぜ?それに、折られたのは左腕だろう?なら、右手で十分飯は食えるだろうが」

「まぁそうなんだがなぁ……。もう少し、早く病院に行けとか、安静にしていろとか、常識的な気遣いってもんがあってもいいんじゃねぇか?」

 

 不服そうに唇を尖らせたヴォルフに、ルウが微笑みながら、

 

「大丈夫だよ、ヴォルフ。今日の僕の車はワゴンタイプだから、あなたが運転できなくても、全員をごはん屋さんに運ぶことはできるからね。この近くで、安くて美味しくてボリュームがある、学生の味方みたいなごはん屋さんを知ってるんだ。きっとヴォルフも気に入ると思うよ」

「お、そいつは楽しみだなルウ。じゃあ、運転しなくていい俺は、気兼ねなくビールを飲めるってわけだな。なら話は早い、さっさと飯食ってビールを煽って、それから病院行くとするか」

「おい、ヴォルフ。酒が飲めない未成年の前で、ビールを飲むのは反則だぞ。今日はお前は怪我人なんだ。大人しく飯だけ食べていろ」

 

 本当は自分もビールを飲みたい、無二の酒好きのリィが悔しそうに言う。

 ヴォルフは些か呆れて、

 

「お前ら、俺を怪我人にしたいのかしたくないのか、どっちなんだ?それにリィ、人前で堂々酒を飲めるのは、大人の特権ってやつだ。汗を流した後の一杯だ、さぞ旨いだろうなぁ。さぁ、リィ、俺が旨そうにビールを飲むさまを、指を咥えて見ているがいいぜ」

 

 一同は、わいわいと、普通の学生のような口調で会話を交わしつつ、格闘技場を後にした。

 そして残されたTBSBのスタッフ達は、唖然として彼らを見送った。

 そのうちの一人が、ぽかんと口を開いたままのノーマンに、辛うじて平静を保った様子で声をかける。

 

「おい、ノーマン、どうする?あの子が言うとおり、オリベイラのインタビューはもう無理だ。企画の差し替えを考えなくちゃいけないけど……」

「……そんなことより、僕たちにはもっと重要なことがある。なぁ、モーリッツ、今の映像、撮っていたよな?」

 

 ノーマンは、カメラスタッフに声をかける。

 モーリッツと呼ばれた青年は、やはり目の前の光景――中等部の美少女が、TBO金メダリストを一対一で叩きのめした――の現実感の薄さに、夢遊病患者のような面持ちで頷く。

 

「ああ、もちろん撮っていた。凄い映像が撮れたぞ。あの子の強さは本物だ。偶然なんかじゃなく、狙いすまして、一撃であのオリベイラをKOしたんだ。そして、輝くような可愛らしさ。間違いない、スターの誕生だ。こんなの、TBSBのスポーツニュースの一面じゃ済まない。発表すれば、きっと全宇宙で話題になる。凄いスクープになるぞ」

 

 まだ、心無し青ざめたノーマンは、一同に振り返り、そして引き攣った笑みで言った。

 

「僕たちは、この映像をどうするべきだろうか?映像を見ても、誰も信じてくれないかもしれない。なら僕たちは、何もなかったとしてこの映像を闇に葬るべきなのか?それともジャーナリストの端くれの責務として……真実を真実であると報道すべきなのか?」

 

 息をのんだ一同は、誰もその質問に答えようとしなかった。

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