懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第十話:再会

『ふーん、そんなことがあったのかい』

 

 ヴォルフガング・イェーガー少尉は、寝台に腰掛けた少女――ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンの隣に腰掛けて、並んで座っていた。

 何故彼がベッドの上に――それも少女の隣に腰掛けているかといえば、それは偏に彼の体が大きすぎて、折りたたみ式のビニール椅子には到底座ることが出来ないからだ。

 彼は、自分は立ったままでいいと言い張ったのだが、それでは自分も立つと少女は聞かない。では俺は床に座ると答えると、ならば自分も床に座ると少女も言い張る。

 結局、お互いの妥協点として、ヴォルフはウォルの横に腰掛けるというもっとも無難な選択肢を選んだのだ。しかし、彼の座ったベッドのスプリングは憐れなほどに撓み、彼が身動ぎをする度に情け無い声で悲鳴を上げる。もしも彼がこのベッドの上で跳び跳ねでもすれば、このベッドはすぐにでも天に召されることになるだろう。

 結果として、人生においてこれほど美しい少女の隣に座ったことのないヴォルフは、どうにも恥ずかしいような気まずいような、微妙な感覚を味わっていた。別に性愛の対象として少女を見ているわけではないが、生まれたての目も開かない子猫や子犬が隣にいるようで、どうにも落ち着かない。自分が下手に身動ぎすれば、何かの拍子で下敷きにして押し潰してしまうような気がするのである。

 そんな内心をごまかすように、ヴォルフは、自分が持ってきたお見舞いの品であるケーキを素手で掴んで、ぽいっと大きな口の中に放り込んだ。本来であれば優雅な皿とフォークでもって食べるのが相応しい高級なケーキも、彼が食べるならばその方法が一番相応しい気がするから不思議である。

 その様子を興味深く見守っていたウォルは、彼に倣ってお見舞いのケーキを素手で掴み、その小さな口の中に放り込もうとした。しかし少女の口は大男の口より当然小さかったので、上手に収まることはなく、彼女の口の周りは真っ白い生クリームでべたべたになってしまった。

 ウォルは、盛大に眉を顰めた。以前の体であればこんなことにはならなかったのに、とでも思ったのかもしれない。

 一方のヴォルフは、そんな彼女の存在など忘れてしまったように、口の中に広がる至福の甘さに酔いしれていた。彼は酒を好むが、しかし同じくらいに甘いものも大好きだった。外見がこんなふうなので、街中のカフェで生クリームたっぷりのパフェは注文できないから、こういう機会には心ゆくまで甘味を堪能するのが彼の主義だった。

 ヴォルフは、隣に腰掛けた少女が一つ目のケーキを食べ終わらないうちに、早速二つ目のケーキの征服に取りかかった。先ほど食べたのは濃厚なモンブランだったので、次に選んだのはさっぱりとした莓ババロアである。

 

『……なぁ。ヴォルフ殿。これは、俺への手土産ではなかったのか?』

『それはそうなんだが、俺の分も混じってるみたいでな。まぁ、分かりやすく言えば、早いもん勝ちってところだ。しかしウォルよ、たった一つでいいのかい?』

 

 すでに莓ババロアを口に放り込み三個目を物色しているヴォルフが、ようやく莓のショートケーキを食べ終えたのに次のケーキを食べようとしない少女に問うた。

 

『……うむ。この方面では卿と競い合っても、不毛な結果しか生まん気がするのでな』

 

 呆れたような顔で、ウォルは言った。

 以前の体よりも甘味が美味しいと感じるようになって微量の戸惑いを感じていた彼女であるが、隣りに座ったこの大男が貪るようにケーキの山を食らい尽くしていく様子を見て、一つ目のショートケーキを平らげた時点でその食欲を収めた。

 ヴォルフがあまりに美味しそうにケーキを頬張るのでその取り分を減らすことに罪悪感を覚えたのかも知れないし、彼が猛烈な勢いで食べる様子を見ただけで胸焼けを起こしてしまったのかも知れない。

 とにかくウォルは、口の周りに付いた生クリームを舐め取り、そしてヴォルフの煎れた紅茶で喉を潤した。

 

『ほう……』

 

 ウォルは、思わず唸った。薫り高い茶葉を使っているとは思っていたが、しかしその琥珀色の液体を口の中に含むと、得も言われぬ芳醇な香気が鼻の奥に抜けていく。それに、砂糖を少しだって入れていないはずなのに、渋みよりも甘味を強く感じるのだ。もちろん、砂糖たっぷりのショートケーキを食べた後であるにも関わらず、だ。

 これは、茶葉がいいだけではなく、紅茶を煎れた人間の技も素晴らしいものだったからだろう。この手のことには名人芸だった妻の従者のことを思い出し、ウォルは知らずに微笑っていた。

 

『卿は、紅茶を煎れるのも上手いのだな』

 

 ヴォルフは、箱に収められた最後のケーキを、何の遠慮もなく掴み取って、ぽいと口の中に放り込んでから答えた。

 

『まぁ、食い物を美味くこしらえてやるのは人間の義務だよ。というよりは、貧乏人の義務だ。金持ちはいい素材をそのまま食ってりゃいいが、俺達はそうはいかないんだ。とても食い物には見えない食い物を、どれだけ騙して煽てて食い物に誤魔化してやるか、そこが腕の見せ所だ。小さい時分はそんなことばかり考えてたから、料理は上手になったなあ』

 

 ヴォルフは、指に付いた生クリームを丹念に舐め取った。栄養と名の付くものは少しでも逃がしてたまるかというその様子は、ご馳走である蜂蜜をたっぷりと手になすりつけた熊が幸せそうにそれを舐め取っている格好に似ていたかも知れない。

 小箱の中身をすっかりと胃の中に治め終えた大男は、自分の煎れた紅茶で口の中の甘さを洗い流すと、満面の笑みでこう言った。

 

『いやぁ、美味かった。甘いものを食べているときが、至上の幸福だ。人生における最も輝かしい瞬間だ』

『先ほどヴォルフ殿は、きんきんに冷えたビールが喉を通る瞬間にこそこの世に生まれた喜びを何よりも噛み締められると、そう言っていなかったか?』

 

 少女は苦笑しながら言った。

 ヴォルフは、蜂蜜色の短い頭髪の生え揃った頭をかりかりと掻きながら、一度考え込んで、そして言った。

 

『そんなこと言ったかね。すまん、覚えていない』

 

 要するに美味い食べ物ならなんでもいいらしいと、ウォルは理解した。

 二人はしばらく、隣り合わせで紅茶を啜っていた。ヴォルフもまだ年若い青年であるので、少々年の差はあるにせよ年頃の男女が二人っきりでベッドの上にいるのだからもう少し色気というものがあってもいいものだが、彼らの間に流れる空気は、とうの昔に隠居した老人同士が日向ぼっこをしながら昔話に花を咲かせているような、そういう雰囲気であった。

 ほう、と、満足の吐息が二人の口から漏れだした。

 

『しかし、ウォルよ』

『うん?』

『いや、まぁ、なんというかな……』

 

 大男は口籠もった。

 少女は何事かと男の横顔を見上げたが、そこには何かを迷っている、岩のような男の顔があった。

 果たして今自分の考えていることを口にしてよいものか、迷っているらしかった。

 それは、あまり彼に相応しい様子ではなかったから、少女は続きを促した。

 

『しかし、の続きは何かな?』

『うーん、どうにもお前さんらしくなかったんじゃあないかなぁ、と思ってな』

『俺らしくはない、とは?』

『うん。あんまり、爺さんをいじめてやるなよ』

 

 ウォルは、隣に座った巨体を、その漆黒の瞳でまじまじと見つめた。

 ヴァルフは、何やら居心地が悪そうに体を揺すった。そんな彼の下で、憐れなスプリングが悲しげに軋んだ。

 

『あれはあれで、必死こいてやってるんだろうさ。だからさ、なんとも言いにくいんだが、ある程度は大目に見てやってもいんじゃないかな、と思う』

『あれとは、卿の上役のことか?』

『上役の上役の上役の上役の……いくつ重なるのか知らないけど、それを上役と呼んでいいなら、上役のことなんだろうなぁ』

 

 ウォルは、その表情から笑みを消し去り、ベッドの上にあぐらを組んで、正面からヴォルフの巨体と相対した。

 ヴォルフも少し慌ててそれに倣った。

 そうすると、大人と子供以上の体格差、ほとんど異生物くらいの体格差が二人の間にはあるのだが、その中に詰まったものの大きさでは、少女の方も一歩たりとて負けていない。

 それでも見た目は、やはり熊と少女だ。

 ヴォルフは、少女の黒い瞳をまじまじと覗き込んだ。自分の巨躯を見上げながら、しかし少しも怯んだところのない生き物を、彼は本当に久しぶりに見たのだ。

 

『大目に見てやってもいいことと、そうではないことがある』

 

 はっきりとした口調だった。

 ヴォルフは、頷いた。

 

『もっともだ』

『俺の妻と、そしてこの少女が受けた屈辱は、決して大目に見てやっていいことではない。そして、あの男はこの国の王だ。ならば、この国において生じた全てのことに、責任を持つ必要があると、俺は思う』

『あんたはそうだったのかい?』

 

 ウォルは首を横に振った。

 

『わからん。俺はそうあるべきだと思い、そのように行動してきたつもりだ。少なくとも、己の行いによって不当に権利を害された人間がいるならば、その行為の報いはいつだって負うつもりでいた』

『いつ死んでもいいと?』

『そうではない。俺を恨む人間が戦いを挑んできたら、いつだって正面から受けて立つ覚悟があると、そういうことだ。例えば戦だ。どちらかが勝ち、どちらかが負けるな。当然、人も死ぬ。これでもかと死ぬ。であれば、そこには必ず恨みが残るはずだ』

 

 ヴォルフは真剣な面持ちで頷いた。それは、決して気の籠もらない相づちなどではありえない。

 彼は軍人として数々の作戦にて武勲を打ち立てている。つまり、それだけの人間を公然と殺してきたということだ。彼自身から見れば粉う事なき逆恨みだろうと、彼が殺した者の遺族にとっては正当な怒りである。積もり積もったその重さが、いずれは自分の背中に銃弾を撃ち込むのだろうことを、彼は覚悟していた。

 だから、目の前の少女が――その内に宿った戦士が何を言っているか、実感として理解できた。

 

『俺には、その恨みと戦うだけの覚悟があった、と思っている。それが、如何に強大な相手であってもだ』

『あの老人には、それが足りない、か』

『足りないというよりも、覚悟そのものがない。あれは、一度たりとて自分の命を交渉のテーブルに乗せたことのない、そういう男だ。それが気に食わん。もしもあれが真摯に俺――というよりはウォルフィーナに謝罪するのであれば、わざわざ俺の妻のことを持ち出す必要はないだろう。逆に彼らの怒りが恐ろしいならば、彼らに直接そのことを伝えて詫びればいい。俺に謝罪することが、彼らの許しを得ることと同義であると、そう勘違いしているのだ。俺が許そうと許すまいと、彼らは怒るときはおおいに怒る。俺の知る彼らならば、間違いなくそうする。ならば、怒り狂ったあの二人を宥めるのは俺の役目と責任か。冗談ではないぞ』

 

 少女の憤りは留まるところを知らない。

 

『そして、そのような大事を俺のような、見た目はただの小娘に任せようという気概も気に入らん。仲立ちを頼むというならばまだしも、俺に任せれば万事が上手く行くと勘違いしているような有様だった。あれがこの世界の最高権利者とはな。些か俺のいた世界とは毛色が異なるようだ』

 

 ウォルはサイドテーブルに手を伸ばし、カップに残った紅茶を一息で飲み干した。カップをソーサーに戻すとき、がちゃりと神経に障る音を奏でた。

 ヴォルフは、少女の言葉を聞いて、曖昧に頷いた。

 

『まぁ、お前さんの言いたいことは何となく分かるよ。でも、それがこの時代の権利者の在り方といっていい。別に、あの爺さんだけに始まったことじゃあないからな、あれ一人を責めるのも酷ってもんだ』

『分かっている。しかし、何度も言うようだが、全ての責任はあの男が、いや、あの男が座っている椅子こそが背負うべきなのだ。なのにあの体たらくでは、到底全ての責任を背負えるとは思えん。いずれ、一つや二つの荷物は容易く放り投げてしまうぞ』

 

 そう言いきって、ウォルは細い肩を竦めた。

 そこで、少しだけ疲れたような微笑みを浮かべた。少女の人懐っこさと王者の威厳を等量に含んだ、憂いのある微笑だった。

 

『――と、それを理解した上で大目に見てやれと、ヴォルフ殿はそう言っているのだろう?』

 

 巨躯の男は、無言だった。それは即ち、少女の言を肯定しているのと同じことだった。

 しばらく少女は無言だった。二人とも何も話さず、時計の秒針が進む音だけが、狭い病室を満たした。

 

『誰かが、言わねばならなかった』

 

 ぽつり、と少女は言った。

 男は、やはり無言だった。

 

『ウォルフィーナの無念は、誰かが声を限りにして叫ばなければならない。彼女のために怒ってやらなくてはならない。それが欺瞞だとしても、誰かが怒らなければ、彼女の魂が報われない』

『その通りだ』

『あの老人が、俺の同盟者に痛い目に遭わされたのは知っている。もう、彼らの顔を二度と見たくもないのだろう。だからこそ、俺のような無力な存在にもあれほど熱心に、あるいは必死に頭を下げていた。それも分かる』

『ウォル、あんたが無力だっていうところを除けば、おおむね同意できる』

『だが、これは俺の足下に引かれた、最後の一線だ。これより後ろに下がれば、俺は俺としての一番大事なものを捨て去ることになる。だから、俺はあの老人を許さなかった』

 

 ウォルは、記憶というよりは記録に近いものとして、ウォルフィーナの経験した人体実験を覚えている。それが如何に屈辱的で、彼女の誇りを踏み躙るものであったかを、絶対に忘れてやるつもりはない。それは、誰かが覚えていなければならないことなのだ。

 だからこそ、ウォルは真剣に怒った。もう、心身共に疲れ果て、藁にも縋る思いで自分のもとを訪れた老人を一喝し、恫喝し、そしてたっぷりと恩を売って脅しを掛けた上で追い払ったのだ。もしこの世の全ての事情を知る神のような存在がいるとするならば、あるいはウォルの行いをこそ咎めるかも知れなかった。

 ならば、全てを知らない、卑小な人間たる少女に何が出来たか。彼女は、ただ仏のように国家主席とその背後にいる全ての罪深き者を許し、意気揚々と病室から引き上げる彼を笑顔で見送ればよかったのか。

 それこそ冗談ではない、と思う。もしも当のウォルフィーナがそれを望んでいたとしても、ウォルにそのような結末を選ぶつもりはなかった。それは、誰が許したとして戦士の魂が許さなかったのだ。

 全ての想いを押し潰すように、少女は呟いた。

 

『誰が許せるか』

 

 ヴォルフは、困ったような顔で鼻の頭を掻いていた。

 こういうときは、どうするのだろうか。怒り狂い、その激情を燃やし続ける少女が目の前に座っている時は、どのように接すればいいのだろうか。こちらが無手で、完全武装した敵に四方を囲まれたときにどう対処すべきかを教えてくれた鬼教官も、このような場合にどうすべきかは教えてくれなかった。

 少し気の利いた男なら、少女の華奢な肩でも抱き締めてやるのだろうか。いや、いくら色事に鈍い彼であっても、もし目の前に座った少女が悲しみの涙に暮れ、その細い肩を振るわせていたのならばそうしただろう。

 しかし彼の前に座っているのは、少女のかたちをした獅子である。怒り狂った百獣の王に同情心から手を差し伸べようものなら、手どころか肩の付け根までを一気に食い千切られるのは火を見るよりも明らかだ。

 ヴォルフは、観念したような様子で手を肩の辺りにやり、こきこきと首を鳴らした。先ほどケーキを馬鹿食いしていたときに見せた、幸福を体現したような表情とは雲泥の、千振の束を噛み砕いたような渋い顔をしている。そして、言った。

 

『まぁ、ウォルよ。これに関しては、あんたの言い分が正しい。誰もそれを非難し得ない、と思う。だから、謝らせてくれ。栓のないことを言った』

『いや、ヴォルフ殿の言うことももっともなのだ。しかし、これだけは譲れないというところがあったと、それだけの話だ』

 

 ヴォルフは深く頷いた。

 

『人それぞれ、立場があるというだけの話だろう。あの老人にはあの老人なりに守るべきものがあり、あんたにはあんたなりに守るべきものがある。そして、勝敗ははっきりと着いた。だからもう、これ以上は勘弁してやれよ、ウォル』

『そうだな。俺も、老人を不要にいたぶるのは心が痛む』

 

 実年齢でいえば国家主席その人よりも更に一回り人生経験豊富な少女は、そう言って笑った。その顔を見て、熊のような男もやはり笑った。

 

『よく言う。お前さんが世紀の大嘘つきじゃあなけりゃあ、お前さんの方が老人じゃないか!』

『それもそうだ!いつの間にかこんな体になってたからな、すっかり忘れていた!』

 

 狭いベッドの上で二人が大笑いしたので、ベッドは大変に軋んで、所々で不吉な破砕音が鳴り響いた。このベッドは、ひょっとしたら今日が命日だったのかもしれない。

 目の端に浮かんだ涙を太い指で拭い取ったヴォルフは、彼よりは一足先に笑いを収めていた少女の顔を、あらためて眺めた。

 美人だと思う。今だってそうだが、これから五年、十年後にはどれほどの美女になっているか、想像もつかない。なのに、これの中に入っているのが、齢70を越えた老人、しかも異世界の王様の魂だというのだから因果な話だ。

 なんとも勿体ない事だと思ったが、その上この少女には恋人がいるらしい。この少女が未だ若々しい戦士であった頃にあちらの世界で知り合ったと言っていたから、きっとこの少女と同じくらいに美しい女性なのだろう。

 彼はその人に一度会ってみたいと思った。その人と目の前の少女の二人が並んでいるところを見れば、さぞ眼福だろうと思ったのだ。

 しかし、口に出してはこう言った。

 

『ところでウォルよ。あんた、何故俺を呼んだんだ?』

『おお、そういえば』

 

 スプリングが弾け飛んで斜めに傾いたベッドの上で、少女はぽんと手を打った。こういうときは妙に無防備な表情を見せるから、ひょっとしたら自分はとんでもないどっきりに担がれているのではないかという気もするヴォルフだった。

 だが、もしそうならば、それはそれで楽しい。この、目の前に座る少女が彼女自身の言う身の上でないならば、果たしてどのような人生を送ればこれほど愉快な人格が出来上がるのか、一度聞いてみたい程だ。

 そんなヴォルフの内心には気づかずに、少女は言った。

 

『先ほども話したがな、俺はこの世界に、ある人と再び会うために来たのだ』

『それもさっき言ってた、王妃さんのことだな』

 

 ウォルはその通りと頷いた。

 

『名を、グリンディエタ・ラーデンという』

『へぇ。そりゃあ、なんともたいそうな名前じゃないか』

 

 別にその名に聞き覚えがあるわけではなかったが、ヴォルフはとても楽しそうに言った。

 明らかに、彼は少女との会話を楽しんでいる自分がいた。

 アルコールなど一滴たりとも体に入れていないのに、軽い酩酊状態にも似た気分の軽さを味わっていた。今ならば目の前の少女に愛の告白の一つだって出来てしまいそうである。

 そこまで考えてから、ヴォルフは自分の思考の軽やかさに呆れた。全く、いつもこれくらいに軽やかな思考をしていれば、今までに一人くらいの恋人を得る時期があったのかもしれないのだが。

 

『会いたいのか?』

 

 何の気はなしに、ヴォルフは尋ねた。

 そしてウォルは、今までで一番真剣な声で、答えた。

 

『会いたい。何とかならないか?』

 

 黒髪の少女は、やはり今までで一番真摯な瞳で、ヴォルフの瞳を覗き込んだ。

 これじゃあ反則だ、とヴォルフは内心で白旗を上げた。

 女性と名のつく生き物に、これほど真っ直ぐな瞳に心を覗かれて、動揺しない男のあろうことか。然り、彼もその例に漏れず、たっぷりと動揺した。そして、少しだけ裏返った声で答えた。

 

『俺は実は、軍の中では鼻つまみ者でな。自慢ではないが、機密情報などには近づけん』

『うん、なんとなく分かるぞ』

 

 ウォルは飛びっ切りに微妙な顔をして言った。それは、笑っているような呆れているような怒っているような悲しんでいるような、どうにも命名の出来ない表情だった。

 

『だからな、俺一人じゃあそいつを探すことは出来ない。もっと上、そうだな、俺の上の上の上の上の……いくつ言ったらいいか分からないが、とにかくてっぺんにいる人間に話を聞けよ。それが一番てっとり早いだろう』

 

 ウォルは、つい先日、そういった立場の人間に知己を得た。

 無論あちらにはあちらの言い分があるだろうが、利用できるものは精々利用させてもらうつもりだった。

 

『そうか、ならその者にやっていただこう』

『伝手が出来次第、また連絡してくれ。送り迎えくらいならしてやってもいい』

 

 ヴォルフは、その巨体をゆっくりとベッドから下ろした。その拍子に壊れたスプリングが盛大に弾け飛び、少女の小さな身体がぽんと宙に浮いた。

 普通であれば可愛らしい悲鳴の一言でもあるのだろうが、到底普通とは呼べないその少女はいとも容易く空中でバランスを取り、ひらりと体を一回転させてベッドの上に着地した。それを見ていたヴォルフの唇が、ひゅうと甲高い音で口笛を鳴らした。

 

『まるで猫だ』

『ああ、俺が一番驚いている』

 

 目を丸くした少女は、どうやら本当に驚いているらしかった。

 ヴォルフは苦笑して、病室を後にした。どうせ明日か明後日にでも再会することになるのだから別れの挨拶は不要だろう。それに、あれだけの動きが出来る病人に『お大事に』もなにもあったものではない。

 だから、中途半端な高さに片手を上げることで、一時の辞去の挨拶とした。扉枠をしゃがみ込むように通り抜けた彼の背に、少女の柔らかい視線が感じられた。

 

 翌日、ヴォルフは再びウォルの病室を訪れた。昨日の砕けた格好ではなく、きちんと折り目のついた黒のスーツを身に纏い、端から見ても物々しい雰囲気を身に纏っている格好だった。

 そして、今度は手土産にケーキを持っていない。その代わりと言っては何だが、ようやく軽い物なら握れることとなった彼の左手には、小さな小包がぶら下げられている。

 先日と同じように、ウォルの病室のドアを三度ノックすると、無造作にドアを開けた。

 

「お前の恋人、ありゃあ何もんだ?」

 

 それがヴォルフの第一声だった。

 

 

 昨日、ヴォルフが病室を後にしてから、ウォルは主席官邸に直接電話を入れて事の次第を主席に伝えた。主席は、最初のうちこそ消え入るように細い、絶望の色濃い声で対応していたのだが、ウォルがもったいぶった調子で悪いようにはしない旨を伝えると、喜色満面で彼の要求に応じること旨答えた。

 ウォルが要求したのは、グリンディエタ・ラーデンの、現住所を含めて彼に関する出来るだけ仔細な情報の提供と、彼のもとまで自分を運んでくれる、運転手付の移動手段の確保である。

 その運転手に誰が選ばれたか、少女が誰を選ばせたのか、言うまでもないことだった。

 また、この人事には、別の思惑もあった。今回、問題の少女が入院するきっかけとなった負傷を負わせたのがヴォルフガング・イェーガー少尉その人だったため、彼と顔を合わせたグリンディエタ・ラーデンの直接的な怒りが彼に向かい、それで少しは発散してくれるのではないかという甘い期待である。そのことを進言したのは、彼の上司であるアレクセイ・ルドヴィックであった。

 結果として、ヴォルフガング・イェーガー少尉の肩書きは、連邦最高評議委員会付特別安全調査委員会主任調査官アレクセイ・ルドヴィック付補佐官というものから、エドナ・エリザベス・ヴァルタレン付特殊要人警護官という職名に変わっていた。

 朝早くいつも通りに出勤したヴォルフは不機嫌な上司に呼ばれ、ほとんど略式とも呼べる異動通知を拝命した。その後で、彼にはいくつかの注意事項が伝えられた。極論すれば、それらの注意事項は、ただ一つの結論に辿り着くものだったので、そういった細かいことを覚えるのが些か苦手な彼でも、容易に覚えることが出来た。

 

 曰く、『グリンディエタ・ラーデンとルーファセルミィ・ラーデンを絶対に怒らせるな』。

 

 ウォルの身柄をグリンディエタ・ラーデンのもとへと送り届けるのが、エドナ・エリザベス・ヴァルタレン付特殊要人警護官ヴォルフガング・イェーガー少尉のほとんど唯一の任務であったから、彼がグリンディエタ・ラーデンと接触するのはどうしようもないことである。

 一見すればほとんど子供のおつかいにも似たような、どうでもいい任務であるが、しかし彼の上役たちには大きな不安があった。

 ヴォルフは、職務態度こそ真面目であり優秀な結果を残している軍人だったが、上官に対する不遜極まる態度については少なからぬ問題を抱えている軍人だったのだ。今回、彼と『歩く超新星爆発』が顔を合わせ、その無礼な言動がその逆鱗に触れないか、彼の履歴を見た首脳連中は真剣に頭を悩ませたのである。

 しかし、当の少女が彼を指名した以上、彼以外にこの任務を務める資格が無いのは明らかである。無理に他の人間を割り当てようとして少女が臍を曲げてしまっては、本末転倒も甚だしい。

 

『いいか、イェーガー少尉。これからの君のキャリアの無事を考えるならば、今は何も考えるな。しゃべるな。ただ、彼女をグリンディエタ・ラーデンに送り届けるだけの機械になったと思え』

『了解しました、閣下』

 

 気のない返事でそう返すと、彼は漆黒のスーツに身を包み、顔が映り込むほどに磨き抜かれた黒いリムジンのハンドルを握って、一路ウォルの待つ病院まで急いだのだった。

 その途中、ヴォルフはグリンディエタ・ラーデンに関する情報のいくつかを飛ばし読みにした。彼に与えられた資料からは機密と呼べる情報のほとんどがマスキング処理されていたが、政府関係者がその人物との接触を図ることを厳に禁じていること、そして今はその人物は惑星ベルトランの片田舎、コーデリア・プレイス州の州知事であるアーサー・ウィルフレッド・ヴァレンタインの息子であるエドワード・ヴィクトリアス・ヴァレンタインのもとに身を寄せていることはわかった。あといくつかの情報が記載されていたが、彼は自身の任務には関係ないことだと思い、それ以上を読まなかった。

 結論からすれば、その人物は超弩級の危険物なのだ。それも、この共和宇宙全体の平穏に関わるような。そして、その人物が身を寄せているエドワード・ヴィクトリアス・ヴァレンタインもまた、グリンディエタ・ラーデンと同じくらいに危険な人物であるらしかった。

 それほどの危険人物が同じ住所に共に住んでいるとは、どうにも信じがたいことだった。アクの強い人間は、普通はあまり横の繋がりを良しとしないものなのだが……。

 ヴォルフの疑問も当然のことである。何故なら、その二人は全くの同一人物なのだから。政府の上層部は、ヴォルフに余計な情報を与えることを厭い、その多くを小出しにした結果、最も重要な身元の部分について誤った情報を伝えてしまっていたのだ。

 そんなことは露とも知らない彼は、一路病院へと向かい、その得体の知れない人物に対する疑問を、目の前の少女にぶつけたのである。だから、彼は言ったのだ。『お前の恋人、ありゃあ何もんだ?』、と。

 そんな当然の疑問に、ウォルは困ったように眉根を寄せた。

 

「俺に聞かれても困る。俺は、あいつのことについて何一つわからん。六年間共に過ごして情け無い話だと笑われれば、正しくその通りなのだが」

「いや、人間なんてわからんもんだ。どれだけ長い時間一緒にいようが、理解なんて出来やしない。精々理解できた気になるくらいで、それだけでも一苦労だろうよ」

「では、ヴォルフ殿はアレの何を知りたいと?」

「そうだな……」

 

 自分から問いかけたのに、ヴォルフは考え込んでしまった。

 しばらくの間考え込んで、そして言った。

 

「お前さん、何でそんな危険人物と会いたいんだい?」

 

 黒髪の少女は、はにかむような笑みを浮かべて、こう答えた。

 それは、彼が魂として不思議な空間を彷徨っていたとき、不思議な少女に向けて答えたのと同じ台詞であった。

 

「夫が家出した妻に会いに行くのに、理由は必要か?」

 

 

 そして少女は、ここにいた。

 

 いくつもの港を乗り継ぎ、星の大海を渡り、その惑星の大地の上にいる。

 広々とした車内は、リムジンに特有のものだ。

 スモークの効いたサイドガラスから、豪奢な屋敷の玄関を見守る。

 そこには、この世界で最初に出来た友人の大きな体と、その影からひっそりと見える黄金の髪の毛があった。

 夕焼けを従え、君臨するような黄金。あの、緑柱石色の瞳以外、如何なる色にも相応しく無い。

 見間違いようもない。一体どうすれば見間違えることが出来るだろう。

 もう、四十年も前に見たきりなのに、まるで昨日見たような、そんな気がする。

 こうしてみると、今の自分が着ている服が、少し子供染みた悪戯に思えて、どうにも気恥ずかしかった。

 ヴォルフは、診察衣しか持たない少女を慮って、彼女に合う服を買ってきてくれたのだ。それも、少年が着るようなシャツとズボンの組み合わせと、少女が好むような花柄のワンピースを、だ。

 どちらを着ていくか、少しだけ迷った。馴染み深いのは圧倒的に前者だったが、後者を選んでみようかとも思う。

 果たして、あいつは少女になった自分を、自分だと分かってくれるのだろうか。

 それとも、全く自分だと分からないならばそれはそれで面白い。あちらの世界のお前のように、女の体になってしまったのだと種明かしをすれば、一体どれほど驚いてくれるだろう。

 それでも、まぁ、一目で気づいてくれたほうが嬉しい。

 そんなことを考えながら、少女は花柄のワンピースを選んだ。それは、ただの悪戯だった。

 初めて着る女性の装束は、どうにも股の辺りがすうすうして落ち着かなかったが、なるほど女性とはこういう気持でいるのかと少しだけ納得もしたものだ。かつて自分の妻が女性の装束を死ぬほど嫌がったのも、なんとなく分かる気がした。

 もう二度と袖を通すことはないだろうその服を着たまま、少女は車の中で待った。いっそ、今までの四十年間の方が短かったのではないかと、そう思いながら待った。

 コンコン、と窓ガラスが叩かれた。

 無言で、ドアを開ける。

 気のいい大柄な男が、悪戯を成功させた悪童みたいな顔をして、こちらを覗き込んできた。片目だけが、その厳つい表情には似合わないウインクをしている。

 

「おう、会ってくれるってよ」

 

 素っ気ない調子は打ち合わせ通りである。名前だって、絶対に呼ばないように頼んである。その点、この大男は少女に忠実であった。悪戯は、一人でやるより二人でやったほうが、成功したときの感動が大きい。

 その男の頭の中から、『グリンディエタ・ラーデンを絶対に怒らせるな』という将軍からの指令は、綺麗さっぱり消え失せていた。

 

「そうか、ヴォルフ殿にはご迷惑をおかけした」

 

 向こうの方で、誰かが聞き耳を立てている雰囲気がある。

 どうにも油断のない様子だ。この分だと、ひょっとしたらもう一人、知己の人物と出会えるのかも知れない。

 少女の胸が、果たして何年振りか分からない感動に、ときめいた。

 

「なあ、嬢ちゃん。一応言っとくけど、お前さんが会いたがってる奴は一筋縄じゃあいかない難物だぜ?本当に、あれが嬢ちゃんの会いたがっていた恋人なのかい?」

 

 恋人などではない。

 

「ふむ。もし、いかにヴォルフ殿であっても容易くあしらうことが出来るようであれば、それは俺の探していたグリンディエタ・ラーデンではないということだ。そして、恋人という表現は少々語弊があると思うが」

 

 あれは、俺の妻なのだ。

 

「ああ、そうだったっけか。ま、どうでもいいや」

 

 男の巨体が、視界から消え失せる。

 大きく開いたドア、そこから体を外に出してやる。

 車の外を流れる、鮮烈な初夏の空気。ここは、あの病院のあった星と同じ季節を謳歌しているらしい。

 少女は、柔らかな風に遊ばれる黒髪を、その淑やかな手つきで軽く押さえた。

 そのまま、門の向こう側に立った少年を眺める。

 それは、別れの朝に見た、あの青年ではなかった。

 少女が――少女に宿る戦士の魂が、もはやこれまでと全てを諦めかけていた時に、問答無用に彼の手を掴んで助け上げた、あのときの様子と全く変わらない。

 その少年が、もう、これ以上ないというくらいに驚いていた。少し青ざめているようにすら見えるその顔は、あちらの世界の六年間で、一度たりとて見たことのない、そういう顔だった。

 その顔を見ることが出来ただけで、こんな遠くまで足を伸ばした甲斐があるというものだ。少し遠すぎる気もしないでもないが、しかしこんなところまで家出をするあたりが彼女、いや、彼らしい気もする。

 

「リィ、どうしたんですか!?」

「…おい、うそ、だろ…?」

「リィ!リィ!しっかりしてください!」

 

 二人の少年の会話が、遠く記憶の底に埋もれかけた美しい水晶の糸を掻き鳴らす。

 二人は、ちっとも変わってはいなかった。二人は、この世界でも二人のままだった。

 それが、少女にはとても嬉しかった。

 だから、少女は無造作に言った。無造作に言った、つもりだった。

 なのに、その声は、少しだけ震えていた。

 

「おう、シェラ。壮健そうではないか。些か縮んだようだが、それもラヴィー殿の魔法かな?」

「なっ!?」

 

 銀髪の少年の瞳が、彼の主と同じく、驚愕に丸くなる。

 なるほど奇術で人を驚かすことを生き甲斐とする、旅芸人の気持ちとはこのようなものか。少女は、自らの心に羽根が生えていることを自覚した。

 悪戯は失敗した。彼は、一目で自分が自分だと見破ってくれた。

 でも、悪戯は成功だ。一体誰が、こいつをこんなに情け無い顔にしてやれるだろう。

 

「…なんで、お前がここにいるんだ…?」

 

 青ざめた頬に、淡く色づいた薔薇のような血の気が差してくる。

 握り込まれた拳が微妙に震えているのは、驚きのせいだろうか、怒りのせいだろうか、喜びのせいだろうか。

 一番最後であって欲しい。それは、少女の偽らざる本心だった。

 

「それが、40年振りに顔を合わせた夫への台詞か?」

 

 それでも、口に出してはこう言った。

 自分達には、それくらいが相応しい。感動の熱い抱擁は、自分達以外の誰かに任せてしまおう。

 だから、お願いだ。

 あの頃みたいに、俺の名前を、呼んで欲しい。

 

「答えろ!答えによっちゃあ、ただじゃあおかないぞ、ウォル!」

 

 ああ。

 

 報われた。

 

 四十年間の待ちぼうけは、無駄ではなかったんだ。

 

「やれやれ、久しぶりに顔を合わせてみればこれか。全く、いつまで経ってもお前は変わらないのだな、リィ」

 

 我ながら、涙を流さないのが不思議だった。

 でも、涙を流すのは、やはり自分達には相応しくない。あのとき、俺達は笑顔で別れたんだから、再び出会うときも笑顔であるべきだ。

 だから、少女は自分が泣き笑いの顔をしていることを、辛うじて誇りに思ったのだ。

 そして、少女が次の台詞を口にしようとした、その時。

 

「エディ!」

 

 もう一人の、少女にとって懐かしい人の声が、宵闇に染まりつつある屋敷の門に、こだました。

 

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