懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
レティシアは、夜の街をぶらぶらと歩いていた。
連邦大学は学生のための星である。殊更風紀や犯罪の取り締まりには厳しいが、だからといって歓楽街がないわけではない。学生のために働く人間や、その人間のために働く人間。人が集まるということは経済が回るということであり、そうなれば当然、歓楽街は必要となるからだ。
また、学生は学生でも、成人した大学生ならば、こういった大人の街もまた必要だ。純粋培養されて夜の街も知らないお坊ちゃんお嬢ちゃんなど、社会に出ればいい鴨である。親切の仮面を纏った悪人に、これみよがしに狙いを定められ、あっという間に身包みを剝がされてしまうだろう。
そういう意味で、ある程度の経験と免疫をつけるためにも、学生に対して夜の歓楽街の利用そのものが禁止されているわけではない。無論のこと、学生が利用すべき行儀の良いエリアと、学生以外の人間がガス抜きに使う少し猥雑としたエリアはきちんと分けられ、それぞれの縄張りを犯さない不文律ができあがっている。
レティシアは、ちょうどその境目あたりを、ぶらぶらと歩いていた。
別に、酒が飲みたくなったわけではない。白粉の匂いが恋しくなったわけでもない。ただ、ざわめいた雰囲気の中に身を置き、誰でもない自分に戻ることが、ふと恋しくなる。そんな時が、彼にもあるだけのことだ。
月の綺麗な、夜だった。
夜風は、初夏から盛夏へと移り変わりつつあるこの時期にしては、ひんやりと涼やかだ。半袖のシャツでは肌寒さを覚えるだろう。然り、レティシアも洗いざらしの長袖シャツ、細身のジーンズにスニーカーという、どこの若者がしても不思議ではない、ラフな恰好である。
そんなレティシアが、少しだけ酒をひっかけ、いい気分で歩いていた。高校生の身分の彼だから、当然褒められたことではないが、人の法やマナーなど、如何ほどのこととも考えてはいないから今更である。
満月である。レティシアにしてみれば、まるで真昼のように明るい。加えてネオンが煌々と輝くものだから、目も眩まんばかりだ。
人は多い。結構な道幅の歩道を、がやがやとした人の波が、あっちからこっちへ来る列、こっちからあっちへ向かう列に別れ、折り目正しく流れていく。ちょうどその中間あたりを、レティシアは猫のように目を細め、機嫌よさそうに歩いている。
ふと車道を見れば、ヘッドライトを付けた車が、時折クラクションを鳴らしながら走っている。そのエンジン音やタイヤが地面に擦れる音も、今のレティシアには心地よい音楽だ。
たまに人込みの方から、喧嘩腰の怒鳴り声や、酔漢の騒ぐ声などが聞こえる。レティシアは後ろの方からひょいと覗き込み、トラブルや乱痴気騒ぎを見て、やはり微笑む。
人の心が分からないレティシアだが、人が楽し気に騒いでいるのを傍から見るのは、結構好きだ。
そんなふうにして、ぼつぼつとした歩調で歩いていたレティシアが、ふと足を止めた。
人の流れの中に、こちらに視線をやって、じっと動かない、男を見つけたからだ。
きっとその男も、レティシアが自分に気が付いたのと同じタイミングでこちらに気が付いたのだろう、にこやかに微笑みながら、挨拶を寄越した。
「こんばんは、今日は気持ちの良い夜ですねぇ」
ほろ酔い加減のレティシアも、笑顔でそれに応える。
「ああ、こいつはどうも。あんた、おれの知り合いかな?悪いけど、こっちは見覚えがないんだけどさ」
「いえ、あなたとお話するのは初めてです。ワタクシは、これからあなたと仲良くなりたいのですよ」
男はにこやかに言う。
気持ちよさそうに微笑んだレティシアは、しかし冷静に男を観察する。
男は、きちんと折り目の付けられた、仕立ての良いスーツに身を包んでいる。よく磨かれた革靴、綺麗に結ばれたネクタイ、少し目深に被った中折れ帽。一部の隙も無いような着こなしである。
体躯は中肉中背、特に鍛えこまれた肉体ではない。顔は普通、さして男前でも不細工というわけでもない。顔の造りに目立ったところもない。まるで、全世界の人間の顔写真を合成して、その平均値で作ったような顔。特徴がないことが、何より特徴のような顔。おそらくレティシアなどでなければ、例え会話を交わしたとしても、目を離した次の瞬間に忘れてしまうような顔。
それが、何とも不気味だった。
その特徴のない男が、礼儀正しく中折れ帽を脱ぎ、レティシアに相対する。ブラウンの、綺麗に撫でつけられた髪が、初めて男の特徴として印象的だった。
その男に向けて、レティシアは嬉しそうに声をかける。
「そうかい、そりゃあ良かった。なら、もう少しお近づきになろうや。この距離は、これから仲良くなろうとする二人がお話するには、少し遠すぎるだろう?」
二人の距離は、およそ10メートルはあるだろうか。
到底、普通ならば会話を交わせる距離ではない。だが二人は、お互い声を張り上げるでもなく、互いの声を聴き取っていた。
そして、何故か二人の間に人はいない。別に二人を恐れて距離を空けているわけではない。ただなんとなく、そこを人が避けて歩いているようにしか見えない。ただ、人の流れの中で立ち止まったレティシアと男を、少し怪訝そうに眺めてから、やはりそのまま通り過ぎていくのだ。
然り、レティシアからたっぷりと距離を取ったその男は、なんとも情けないように顔を青ざめさせて言った。
「大変嬉しいお誘いですが、遠慮させていただきます。ワタクシはあなたを相手に、これ以上近づけるほどに気骨者でも命知らずでもないのですよ。どうぞご勘弁を、レティシア・ファロットくん」
「なんだ、やっぱりおれの名前は知ってたんだ」
危険な微笑みを浮かべたレティシアに、しかし男も微笑みかけ、
「ええ、失礼とは存じますが、ワタクシにも色々とコネクションがありまして」
意外な返答ではない。寧ろ当然というふうに、レティシアは頷いた。
「誰から聞いた?」
「それを言えるとでも?」
「あんたの体に直接聞こうか?」
「あなたにはそれはできませんよ、レティシアくん」
レティシアの、危険水域に達しつつある台詞を聞いても、やはり男は微笑んでいる。
レティシアは内心で嘆息した。これはこの男の生き物としての危機感が故障しているからなのか、それとも殊更豪胆だからなのか、どちらだろうかと訝しんだ。
訝しみながら、しかし口調は平然として、問うた。
「どうしておれにはできないんだい?」
「ワタクシはあなたに仕事を持ってきた、依頼主ですからね。あなたがたの牙は常に標的に向けられるものであって、依頼主に刃を違えることはない、それがファロット一族の掟でしょう?」
男の、決定的とも言える一言に、しかしレティシアは毛ほども動じない。
何故なら、レティシア自身、こちらの世界で他人に自分の尻尾を掴ませるようなへまをした覚えがないからだ。無論、あちらの世界でもそれは同じことなのだが、もしも自分の暗殺者としての身の上をこの男が知って声をかけてきたなら、おそらくは後者から把握したからなのだろうという確信があった。
「ふうん……物知りだね、あんた」
「繰り返しますが、ワタクシはあなたに依頼をしにきたのです。お客様を無碍に扱うと罰が当たりますよ?」
男の台詞を聞いて、レティシアは苦笑する。
「客とおれを繋ぐ斡旋業者は、残念だがこの世界にはまだいないんだよ。つまり、あんたを客とするかどうかは、おれが決められるってことさ。そしておれは、あんたを客にするかどうか、まだ決めたわけじゃない。ってことは、あんたをどう捌こうが、三枚におろそうが、おれの自由ってこった」
男は、レティシアのもっともな意見に大いに頷き、しかし口に出してはこう言った。
「いえ、あなたはワタクシを客と認めるでしょう。認めざるを得ない」
「へぇ。何でだい?」
「ワタクシの依頼が、あなた以外には成し得ない、飛び抜けて困難なものだからです。この世で最も困難な仕事だと評しても過言ではない」
なるほど、この男は自分のことを良く知っているらしい。その事実を認めざるを得ない。レティシアはそう思った。
自分が持つ、仕事に対する姿勢、価値観、倫理観。そういったものを熟知していないと、こんな台詞で自分を釣り上げようとするはずがない。
それでもレティシアは肩を大きく竦め、
「面倒臭い仕事は嫌いなんだがね」
「何を仰る。仕事は困難であればあるほど燃えるのが、あなたの性でしょうに」
「ずいぶんおれを高く評価してくれているらしいね」
「それはそうですよ、何せあなたはファロット一族の最高傑作であり、最も忌むべき異端者であり、そして最後のファロットだった……」
男の、明らかに一線を超えた言葉に、レティシアは感情を消した微笑みを浮かべる。
感情だけではない。レティシアから、体温が消え、気配が消え、まるでそこに誰もいないかのようになる。人のかたちをした毒蛇が、鎌首をもたげたように見える。
レティシアの、僅かに開かれた指先から、目を凝らさなければ見えないほどに細い銀糸が、たらりと4本、垂れていた。つまり、もう彼は、いつでも男をこの世から消し去ることができるということだ。
「色々と知ってるんだな、あんた」
「ええ、知っているのですよ、色々と」
「他にも色々と知ってそうだ」
「知っていますよ、色々と」
「どうすれば、あんたが知っている色々を教えてくれるのかな」
「方法は一つだけです。あなたがワタクシの依頼をこなしていただければ、その時にお答えしましょう」
打てば響く会話とはこのことだろう。
レティシアは目の前の男をばらばらにする準備を終え、しかし男との会話を楽しんでいる自分を自覚した。
なんとも愉快だった。それはきっと、この夜の月が綺麗だったからだ。
「なるほどね。でも、もっと簡単に答えてもらう方法があるんじゃないかな」
「それは?」
「いやだな、わかってるくせに」
男は苦笑した。
もう、最初に言葉を交わしたときの、表情を青ざめさせた男はいない。レティシアがそうであるように、男も、自身を偽る必要性を見出していないのだろう。
目の前にいるのが、死神と呼ばれた一族の中でも最も恐るべき男であることを知りながら、図太い笑みを浮かべて言う。
「無駄ですよ。ワタクシはワタクシではありますが、私ではないのです。あなたがワタクシを、肉体的苦痛でどれほど責め苛んだとしても、ワタクシは口を割ることはありえません」
レティシアには、男の言葉の意味は分からない。しかし、男が虚勢やはったりを口にしているのではないことは分かった。
「へぇ。ずいぶん自信満々だ。是非とも試したくなるね」
「試したければ御随意にどうぞ。しかし、お互いにとっての今後の良好なパートナーシップと、何より貴重な時間のために、無駄なことは慎まれるよう、お願いする次第です」
苦笑したレティシアは、銀線を垂らしていない方の手で、頭を掻いた。
「まいったな」
「何がですか?」
「あんたのことを好きになりそうだ」
恥ずかし気にそう言ったレティシアの言葉に、男は嬉しそうに微笑んだ。
「それは光栄です」
「本当にそう思う?」
「ええ、心から」
本当に、心からの笑みを浮かべている男に、レティシアは猫なで声のように優しく語りかける。
「なら、知ってるかな?おれが心から好きになって、今、息をしてる人間は、この世界に一人きりだよ。あっちの世界を合わせてもそうだ」
返す男の声も、本心から嬉しそうな声だった。
「ええ、それも知っています」
レティシアは、笑顔のままだったが、流石に呆れて肩を竦めた。
「本当に色々と知っている」
「お褒めに与り光栄です」
「二人目になれるといいね、あんた」
「そう願っていますよ」
レティシアは、くすくすと、口元に手を当てて微笑った。
この男が何者かは分からない。しかし、確実に自分のことを熟知している。表の顔も、裏の顔も。
自分のことを熟知している男が、危険を承知で一体どんな話を持ってきたのか、興味が湧いてきたのだ。
「いいよ、その度胸に免じて話だけは聞いてやる。あんたの持ってきた仕事の標的は誰だい?」
男は、のっぺりとした笑顔を特徴のない顔に貼り付けたまま、言った。
「ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン」
いくらレティシアでも、男の言葉には耳を疑った。
無論、レティシアはその名前を知っている。というよりも、あちらの世界で、あの時代以降を生きた人間ならば、誰しもがその名前を知っているはずだった。
そして何より、レティシアにしてみれば、彼の過去最高の獲物であったデルフィニア王妃グリンディエタ・ラーデンの夫だった男だ。忘れようとて忘れられない名前とは、このことを言うのだろう。
冷静なレティシアも、我を忘れたような様子で男に訊き返していた。
「正気かよ、あんた」
「正気ですとも」
平然とした男の様子に、レティシアはなるほどと頷く。
つまり、そういうことか。
「そうか、王妃さんの旦那も、この世界に来てたのか」
「理解が早くて助かります」
ぞくぞくとした好奇心が、からっぽの心に満ちていくのを、レティシアは感じた。
この世界での生活に不満があるわけではない。医師を目指して学業を修めることに嫌気が差したわけでもない。
ただ、男の言う話が、酷く魅力的に思えてしまったのだ。
「どこにいる」
「すぐに分かりますよ。きっと、驚くくらいすぐに」
「報酬は?」
「思いのままに」
「剛毅な話だ」
「それだけの対価に相応しい仕事だと確信しています」
レティシアは頷いた。
つまり、そういうことだ。
「あんたとの繋ぎは?」
「ワタクシの名前を呼んでいただければ、いつでもどこでも馳せ参じます。そう、太陽と月と闇の届かない場所ならば、どこにでも」
「どこにいても?」
「それがこの世なら」
そんなこと、ありうべき話ではない。
レティシアが知る異端連中の中でも、おそらくあの黒髪の占い師と、その仲間くらいにしかできないはずの芸当である。
しかし、この男がそう言うならば、きっとそれはそういうことなのだ。
レティシアは頷いた。
そして、最後の質問をした。
「なら、あんたの名前は?」
「ワタクシの名前は、テルミン。アイザック・テルミンです」
男が、自らの名前を明らかにした、次の瞬間、男の姿はどこにも無かった。
レティシアの目をもってしても、男が消えた瞬間を捉えることができなかった。男は、まるで最初から幻影だったかのように、そこにはいなかった。
立ち止まったままのレティシアの横を、彼に奇異の視線を寄越す群衆が通り過ぎていく。おそらくその誰しもが、レティシアの前に一人の男が立っていたこと、そして今はどこにもいないことに気が付いていないに違いない。
――さて、もしも今、あの男の名前を呼べば、どんな間抜け面を晒して本当に姿を見せるのか。
心中でそんな冗談事を考えたレティシアは、久しぶりに、自らの血がぐつぐつと煮えたぎっていく感覚を楽しんでいた。