懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
夜も更けた病院の、特別個室のベッドの上で、レオン・オリベイラはほくそ笑んでいた。
SNSの仕掛けは上々であった。自分が卑劣な不意打ちにあったという内容の告発は大変な反響で、しかもその内容はオリベイラには好意的、つまりあの小憎たらしいメスガキとTBSBに対して辛辣で攻撃的な内容になっている。
連中の慌てふためく顔か目に浮かぶようだ。
「けっ、ざまあみやがれってんだ」
顎関節を医療器具で固定したオリベイラは、片頬を歪めようとしたが、引き攣る痛みを覚えて断念した。
あの忌々しい、卑劣極まりない一撃を食らってから、もう20日ほども経とうかというのに、オリベイラはまだまともに食事が出来ない。いや、食事はおろか、会話すら満足に出来ないのだ。理由はもちろん、フィナとかいうガキの膝蹴りによって負わされた大怪我だ。
正々堂々戦おうとしたオリベイラを嘲笑うようにして繰り出された一撃は、正しく卑怯そのものの不意打ちであり、オリベイラは哀れな被害者以外の何者でもない。
その結果、少なくともあと一月の間は、顎と頭を不細工な医療器具で固定されて、飯もろくに食えず、不自由で屈辱的な生活を甘んじなければならない。これは、TBO金メダリストである自分の、正当な権利を著しく侵害するものだ。
オリベイラはそう確信していた。
だから、SNSでウォルを一方的に悪者に仕立て上げたのも、人権審議委員会に告発したことも、自らの不当に貶められた権利を回復するための当然の選択肢だと確信している。
オリベイラは、狭窄した自己の価値観と、肥大化させた自尊心の中では、公明正大な正義に従って行動しているつもりだった。
――さて、今頃、連中はどれほど愉快な顔色で、対応策を協議しているのだろうか。
あのクソガキの卑怯な真似があれほど明確に映像として暴露されたのだ。逃げ道などあるはずがない。遅かれ早かれ、TBSBはこのオリベイラ様に、平身低頭で詫びを入れてくるだろう。あのいけ好かないクソガキも、どうか放校処分だけは許してくださいと、半泣きで俺に頭を下げるに違いないのだ。
そう簡単に許してやるつもりはない。目の前で土下座させて靴の裏を舐めさせてやる。いや、それだけでは足りない。あのガキには、自分が所詮は女で、男の情けがなければ生きられない、弱い生き物なのだと理解させてやる。
そうだ、この特別個室にあのガキを招待して、一晩か二晩、男の偉大さと恐ろしさを思い知らせてやるのもいいだろう。そうすれば、あのこまっしゃくれた表情も、もっとしおらしくて男に媚びた、女という生き物に相応しいそれに変わるだろう。
そんなことを、少なくともオリベイラの中では、彼の当然の権利として実現させるつもりだった。そうしてこそ、この世の正義が守られるのだと信じていた。
如何にしてあの美しい少女を嬲るか、妄想の沼地で思う存分醜い泥遊びに興じていたオリベイラの精神は、自身の携帯端末の呼び出し音で現実へと引き戻された。
画面を確認すると、それはオリベイラの友人であった。ただし、表の友人ではない。決して連邦大学では知られてはならない、裏の友人である。
オリベイラは携帯端末を手に取り、通話ボタンを押した。
「どうしたい、兄弟。暴漢に襲われて入院中の可哀そうな俺に、見舞いのメッセージか?」
顎を満足に動かせないため少したどたどしい口調であったが、おどけた調子で言うオリベイラに、しかし携帯端末の向こう側の男は焦った声で、
『オリベイラ、お前、てめぇのSNS見たのか!?』
「ああ、見てるぜ。卑怯な不意打ち喰らって大けがを負った俺に同情的な論調で溢れてる。あれなら、TBSBもあのクソガキも、さぞ無様な吠え面かいてることだろうよ。あのクソガキの親の懐具合によっちゃあ、それなりの銭を巻き上げることだってできるだろ。そうすりゃ、兄貴だって今回のことは大目に見てくれるだろうさ」
『馬鹿野郎!そんな次元の話じゃなくなってるんだよ!今、すぐにもう一回見てみろ!』
そう言って通話はぷつりと途切れた。
何をあんなに慌てているのか。
確かに、今回のことは組織に多大な迷惑をかけた。TBO金メダリストとしての立場を利用して税関の検査をごまかし、この星に禁制の薬物を運びこむこと。それがオリベイラの役割であり、そのために、日向に日陰に、組織には多大な支援をしてもらった。対戦相手に軽い毒物を仕込んで弱らせる、逆にオリベイラのドーピング検査をごまかす、その他もろもろにはそれなりの経費がかかっているはずだ。
連邦大学が治安がよろしく、警察の目をかいくぐって薬物を売りさばくのにはそれなりの労力がいる。しかしリターンはその労力を補って余りある。単純に金銭の話ではない。何せ、この星で学んでいるのは、将来の共和宇宙の政治的、経済的エリートばかりなのだ。彼らのスキャンダルを握っておくことが、長期的に見てどれほどの利益をもたらすか、計り知れないものがある。
そのためにも、薬物の運び屋であるオリベイラの果たす役割は大きい。そして、彼がTBOの金メダリストになってから、組織のトップを十分に満足させるだけの役割をオリベイラは果たしてきたのだ。
そのオリベイラが、半年近くもまともに動けないのは、組織にとって確かにマイナスだ。しかし今回のことは不意の事故であり、オリベイラには一切責任はない……と、彼自身は確信している。それが証拠に、SNSの論調だって、ほとんど彼に同情的ではないか。
そう思っていたオリベイラは、しかし念のためということで、もう一度自身のSNSを確認してみた。
するとそこには、朝方確認したのとは、全く違う論調の書き込みで溢れかえっていた。
『オリベイラは嘘つきのくそ野郎だ!』
『対戦相手のこの子はTBSBのキャスターなんだろう?すごく強くて可愛いね!オリベイラのファンなんかやめて、この子のファンになるよ!』
『臆病者のオリベイラ!もしも自分が正しいというつもりなら、正々堂々とこの子と再戦してみろ!』
オリベイラは目を疑った。朝方には、確かに自分が哀れな被害者であり、デモンストレーションの際中に突然卑劣な攻撃を加えてきたウォルこそ悪者であると信じて疑わなかった自身のファン達が、矛先を変えて、辛辣にオリベイラを批判しているのだ。
果たして何があったのか。全身から嫌な汗を噴き出させながら、オリベイラは原因を探ろうとする。すると、書き込みの途中でいくつかのリンクが貼られており、その前後で論調が大きく変わっていることに気が付いた。
震える指で、そのリンクをタップすると、遷移したのはTBSBの公式アカウントであり、そこにはオリベイラにとっては憎悪の対象でしかない少女――ウォルが、どこかのMMAのトレーニングルームで練習する動画が映し出されていた。
その動画を見て、オリベイラは大きく目を剝いた。
少女の細い腕が唸り声を上げるたび、ミットがはじけ飛び、サンドバッグが悲鳴を上げて跳ね上がり、あまつさえ頑丈な鎖を引きちぎって、大人二人でようやく抱えられるようなサンドバッグが吹き飛ばされたのだ。
到底、人の力に為せる所行とは思えない。
そして、次に少女と、大柄な男のスパーリング風景が映し出される。
男のほうには見覚えがある。確か、セム大学の、ディル・クレイグという選手だったはずだ。ライトヘビー級で、前回のTBOではベスト8、その試合の相手が金メダリストで判定までもつれ込んだことを考えれば、銀メダルを手にしていても不思議ではなかった選手だ。
オリベイラは、自身の属するヘビー級以外は、所詮はガタイに恵まれなかった不運なチビどものお遊び程度にしか考えていないので、それほど興味があるわけではなかったが、しかし世間的には高い評価を得ている選手であることは否定しようがない。
そのクレイグが、ウォルと戦っているのだ。一体どういう経緯でそういう話になったのか、そのあたりは全くわからないが、しかし結果はウォルの圧勝であった。クレイグの素早い攻撃を完全に見切ったウォルが、その隙に恐ろしいローキックを放ち、完全に体勢を崩したクレイグに対して右ストレートを寸止めするという、余裕の勝利を得ていた。
そして決定的だったのが、映像の最後、クレイグに対するインタビューである。
『完敗だよ。彼女は強い。恐ろしいほどにね』
唯一少女の攻撃を喰らった左足に氷嚢を巻き付けながら、清々しい笑顔でそう言った。
そして、インタヴュアーである男性は、決定的な質問をした。
『では、話題になっているオリベイラ選手との一件はどう判断されますか?』
クレイグは笑いながら首を横に振り、
『あの動画だけで、オリベイラ選手の言い分が正しいのかどうか、分からない。ただ一つ言えることは、彼女が一対一、リングの上でオリベイラ選手と向き合っても、十分に勝つだけの実力を備えているということだけだ。オリベイラ選手の言うところの、卑怯な真似なんかをしなくてもね。つまり、彼女がどうして、敢えて卑怯な真似をする必要があったのか、僕には全く理解できない。そういうことさ』
冗談ではない。言い方こそオブラートに包んでいるものの、はっきりとオリベイラの言い分こそが嘘偽りであり、ウォルは実力でオリベイラを叩きのめしたのだと、TBSBは主張しているのだ。
オリベイラは瞬間的に怒りに駆られた。激怒で、自身の通信端末を壁に叩きつけかけた。しかし、ぎりぎりの自制心でなんとか思いとどまったオリベイラは、震える指で、もう一つ貼られていたリンクをタップした。
リンク先は、やはりTBSBの公式アカウントであり、先程とは全く違う動画であった。
『……あなたのその怪我は、オリベイラ選手とのスパーリングで負ったものということですね?』
『はぁ……まぁ、言ってしまえばそういうことになるんですけどねぇ』
『つまり、オリベイラ選手は、素人のあなたに、練習に名を借りた過剰な暴力を振るい、腕を折ってのけたというわけですね?』
『あの日のことを一々言葉に直すなら……そういうことになるんですかねぇ?』
画面に映し出されたのは、椅子のサイズからして、明らかに人外といっていいほどに、巨大な男であった。
その男が、痛々しげに左腕を三角巾でつりながらインタビューに応えている。顔にモザイクこそかかっているものの、あの日、オリベイラが暴行を加えた、ヴォルフという大男であったのは明白だった。
『当局に所属する、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンというキャスターが、オリベイラ選手から人権審議委員会に訴えられているという事実はご承知でしょうか?』
『いや、それは初耳ですね……くそ、あいつ、そんなこと、一言も言わなかったじゃねぇか。そうすりゃ、妙なバーターなんてしなくても、こんなインタビューくらい引き受けたっていうのに。水臭いっていうかなんていうか……』
悔し気に呟くヴォルフに、気を取り直してインタヴュアーは続ける。
『あの、ウォル女史が、オリベイラ選手をKOする動画は見られましたか?』
『ええ、見ましたよ。現場で見ていても、目が覚めるような見事な一撃でしたよ』
『現場であなたは全てを見ていたのですね。詳しく教えていただけますか?』
ヴォルフは肩を一つ竦めて、
『恥を忍んで言いますがね。俺が、性懲りもなくあのオリベイラっていう子供に突っかかっちまったんですよ。確かに、喧嘩をやろうって声をかけてきたのはあちらさんだ。でも、それを受けちまった時点で、俺も同罪だ。その結果、腕をぽきりとやられた。それだけの話です』
『突っかかっていったと。それはどういうきっかけで?』
『……あの子供が、俺の友人の、中等部生の女の子達に声をかけてきてね。これから一緒にパーティに行こうだとかなんとか。そのままほっとくと少しばかり危ない方向に話が進みそうだったんで、まぁそこらへんにしときなって感じで。あとは、場末の酒場なんかではお決まりのパターンですよ』
『つまりあなたは、オリベイラ選手が未成年の女生徒に声をかけてきたのを危険だと判断し、オリベイラ選手を諫めたと』
『うーん言ってしまえばそういうことなんですけど……微妙にニュアンスが違うところもあるんだけどなぁ』
確かに、ヴォルフは危険だと判断してオリベイラを諫めたのだが、それは主に、オリベイラの身体的健康が、メイフゥの鉄拳制裁によって損なわれる可能性が高いという判断である。決して、メイフゥやウォルが、オリベイラ程度に手籠めにされると危ぶんだというわけではない。
しかし、聞く人にとっては、ヴォルフが女性を守ろうと、騎士道精神に従って行動したようにしか思えない。
『では、あなたがオリベイラ選手によって重大な怪我を負わされた。その後のことをお聞かせください』
『……あの場にいた俺の友人が、さぁ誰が仇討ちをするかって話になりましてね。そんで、ウォルの奴が手を挙げたんです』
『なるほど、つまりウォル女史にとっては、友人の仇討ちだったわけだ。随分と勇ましいことですね。しかし、少々野蛮だとの誹りも免れないものではないでしょうか』
インタヴュアーの一言に、ヴォルフは眉を顰めて――無論、モザイク越しでははっきりとわからないが――応える。
『あの、勘違いしてほしくないんですけどね。別に、俺があの子供に単純にぶちのめされただけなら、ウォルの奴は、さぁ敵討ちなんて話はしませんよ。所詮は腕の一本だ、別に一生治らないわけでもなし、あいつはきっと『酷い目に遭ったな、今後は分をわきまえるといいぞ』みたいなことを言って笑うだけでしょうよ。ただ、あの時は、俺がまいったって言ってるのに、あの子供が腕を負ったから、それを腹に据えかねただけで……』
『なんと、オリベイラ選手は、素人のあなたが白旗をあげているのに、腕を故意に負ったということですか?』
インタヴュアーの食いつきに、しまった、余計なことを言ってしまったとばかりに、ヴォルフは巨大な右手で顔を覆った。
『……有り体に言えば、そういうことです』
『流れを整理させてください。貴方は、自身の友人である中等部の女生徒を、オリベイラ選手から守るために彼を諫めた。それに激昂したオリベイラ選手が貴方を半ば無理矢理リングに立たせて暴行を振るい、降参している貴方の腕を故意に折ってのけた。その暴挙に義憤を覚えたウォル女史が、その仇討ちということでリングに昇り、オリベイラ選手を叩きのめした。そういうわけですね?』
『……あの日の出来事を、第三者が理解するなら、そういうふうになるのかも知れませんな』
半ばやけっぱちな口調でヴォルフは応えた。
確かに、インタヴュアー――当然、TBSB所属のノーマンである――の言っていることは間違いではない。事実を言語化するならば、ノーマンの言い分は正しい。
しかし、ヴォルフが怪我を負う可能性を覚悟してリングに上がったのは彼自身も承知していたことなのだし、そして何より、あの場に居合わせたヴォルフの友人が、揃いも揃って人外連中であることなどは完全に省かれている。彼らを守るなど、一応は自身を一般市民と弁えているヴォルフなどには、あまりにおこがましいことだと思ったりもするのだ。
これは印象操作ということになるのではないか、ヴォルフは少し疑ったが、しかし今の自分はいわば操り人形である。操り手の思うままに踊るのが仕事であるし、別に間違えたことを言っているわけではないから、細かいことには目をつぶることにした。
『オリベイラ選手は、ウォル女史が、デモンストレーションの途中に卑怯な不意打ちを仕掛けてきたのだと、そう主張しています。その点についてどう思われますか?』
『……デモンストレーションの途中に不意打ち?そんなことをして、ウォルのやつになんか得があるんですか?』
きょとんとした調子のヴォルフの言葉に、スタッフの数人が失笑を溢す。
インタヴュアーも、少し笑いを堪えたような調子で、
『その点は不明です。きっと、オリベイラ選手からはもっともらしい理由が返ってくるんでしょうけれど……』
『はぁ。まぁ、俺に言えることは一つだけですよ。あの日、デモンストレーションとやらはなかった。少なくとも、俺の認知する範囲では。あとは、当人同士の認識の問題だ。真剣勝負をデモンストレーションと勘違いしているかどうか、それは俺に判断できることじゃありませんけどね……』
動画はまだ続くようだが、オリベイラは今度こそ携帯端末を全力で壁に叩きつけた。
オリベイラの胸中で、燃え盛るような怒りがふつふつと沸き立っていた。
「くそ野郎が!男の風上にも置けない、恥知らずめ!どんな怪我を負っても自分持ち、そういう約束の勝負だったのに、俺様を一方的に悪者に仕立て上げやがって!」
防音の効いた特別個室でなければ、おそらくは階中に響き渡るような声でオリベイラは叫んだ。
確かに、オリベイラの言い分にも一理はある。あの時、ヴォルフは『怪我は自分持ち』という約束でリングに昇ったのだ。その後でどんな怪我を負わされても、文句を言う筋合いではないのかも知れない。ならば、SNSで一方的にオリベイラを糾弾するのは恥知らずの所行だ、そういう理屈も成立しうる。
ただ、それは約束が『怪我は自分持ち』という一点だった場合のみに成立する理屈である。あの時、ヴォルフとオリベイラは、他にもルールを取り決めている。急所はできるだけ狙わない、そして相手が降参すればそこで試合は終了という約束だ。
その点、先に取り決めを破り、降参しているヴォルフに暴行を加えたのはオリベイラの方であり、ヴォルフを非難する資格などあるはずがないのである。
さらに言えば、同じルールで戦ったウォルにこてんぱんに叩きのめされ、そのことを逆恨みして人権審議委員会に訴えるまでしたオリベイラであるから、どのような反撃を喰らったとしても正しく自業自得のはずなのだが、今の彼にはその程度のことが理解できないのだ。
つまり、癇癪を起こした子供と同じである。自分の思い通りにいかないことは、全て自分以外が悪いという思考に陥っているのだ。
荒々しく息を継ぐオリベイラは、突如差すような顎の痛みで思わず蹲った。本来、まだ絶対安静の重症を負っているのだ。興奮すれば痛みがぶり返すのは当たり前の話である。
その時、なんとなくつけていたテレビが、『スポーツスチューデントトゥデイ』を放送し始めたので、痛みに呻くオリベイラは、思わずそちらに目をやった。
あの、ノーマンとかいう冴えない男が担当していたのが、確かこの番組だったはずだ。ならば、もしかすると自分が起こした騒ぎについて言及されるかも知れない、そう思ったのだ。
番組にはお決まりの前口上を終えた男性キャスターは、少し口振りを変えて話し始める。
「本日のスポーツスチューデントトゥデイは、予定を変更して、特別企画を放送させていただきます。テーマは、性別を超えたスポーツへの挑戦です」
カメラが引き、画面に、きちんと女性用スーツに身を包んだ、黒髪の美しい少女が映し出される。
言うまでもない。ウォルである。
キャスターは、ウォルの方に手を向けて、
「スタジオに、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン選手に来ていただいています」
「本日はよろしくお願いいたします」
ウォルが、理知的な微笑みを浮かべる。外見上の年齢にそぐわない、何とも落ち着いた笑みだった。
その笑みを見て、オリベイラの胸中に、またしても怨嗟の炎が巻き起こる。今すぐ、この画面を殴り飛ばしたくなる。
しかし、ぎりぎりの理性で蛮行を思いとどまったオリベイラは、目を剥き口を引き絞った野獣の表情で画面を睨みつける。
そんなオリベイラのことなど露知らず、画面の中のウォルは涼やかな微笑みでキャスターに相対する。
「デルフィン選手は、実はTBSBのスタッフなんです。私も今日初めてお会いしました」
「はい。TBSBに入局させていただいたのがだった数日前のことです。若輩者ですがよろしくお願いいたします」
「先日放送されました、ホプキンス大学のキアラン選手へのインタビューは大変高い評価を得ていると聞いています」
「面映ゆい気持ちでいっぱいです。ただ、あの取材が成功したのは、真摯に協力いただいたキアラン選手のおかげです。その点、自分を過大評価するつもりはありません」
如才ない受け答えのウォルは、完全にテレビ慣れしている様子で、少しも緊張したところがない。無論、王という重責を担い続けてきた彼女にとって、テレビを通して万人に見られるくらいで緊張などするはずもないのだが。
キャスターは、笑顔で頷き、話を変える。
「番組冒頭でも申し上げましたが、本日のテーマは性別を超えたスポーツへの挑戦です。それでは、デルフィン選手はいったいどのような競技に挑戦されるのですか?」
「格闘技、中でもMMAというジャンルに挑んでみたいと思っています」
「格闘技……」
キャスターが絶句する。
「デルフィン選手、一般的に言えば、スポーツとは性差による影響をどの競技でも免れえませんが、その中でも格闘技というジャンルは特に性差による影響を如実に受けてしまうジャンルに思えます。単純なパワーの差、スタミナ、耐久力の差、そして万が一怪我をしてしまった時の後遺症。どれをとっても、あなたの挑戦が理性的とは思えません」
ウォルは、キャスターの言い分に対して深く頷き、
「あなたの仰ることはごもっともです。男女の性差に対しては、寛容をもって是とする時代の流れの中で、しかしスポーツ、中でも格闘技というジャンルにおいてそれは今までタブー視されていた。個々の選手の性自認をもって、男女いずれの競技に参加できるかを選べた時代もありましたが、結局は男性の身体の優位性が証明され続けられるに至って、最終的には身体の性別をもって線引きされることとなった」
すらすらと、男女観の歴史を述べるウォルであるが、無論のこと、ウォルがそのことを知ったのはつい最近の話である。ここまで知った顔で自論を披露できるあたり、彼女の面の皮はアルマジロのそれよりも更に分厚く頑丈というべきだろう。
ウォルは続ける。
「そのこと自体の是非は今でも議論されるところですが、そこには一つの法則性があった。性自認が女性で身体は男性という選手が、女子大会に出場し結果を残すことはあっても、その逆、私のように、身体が女性の選手が男子大会に出場し、結果を残すことは残念ながらなかったということです」
キャスターは、興味深そうにウォルの方を見て、
「あなたは、その法則を打ち破るつもりだということですね。ちなみにデルフィン選手、先ほどのあなたの仰りようですと、あなたの性自認は男性ということですか?」
ウォルは真面目くさった顔で首を横に振り、
「非常に難しい質問です。私は、この身体を唯一無二の自身の身体だと理解している。それでも、自分が単純に女性ではないと認識もしているのです」
「そんなあなたが、男子総合格闘技の世界に挑戦する……。失礼をお許しください、それでもやはり、私にはその挑戦は無謀なものに思えてなりません」
「あなたの仰るところは私にも十分理解できます。そして、私自身も、そのような意見に対して何の反証も出来ないまま挑戦したのでは、身の程知らずとの誹りを受け、周囲にご迷惑をおかけしてしまうだろうことも理解しています。なので、このような映像をご用意しています」
そして流されたのは、SNSでオリベイラが見た、ウォルの練習風景であった。
先程はウォルの攻撃の破壊力に瞠目するばかりのオリベイラであったが、しかしあらためて見ると、ウォルに向ける好悪の念は別にして、その身のこなし、何よりも目の良さに、驚嘆せざるを得ない。
特に、クレイグとのスパーリングでは、彼の動作の起こりを見逃さず、瞬時に身体を動かしてその攻撃を躱している。きっと、ずば抜けた動体視力、そして反射神経を兼ね備えている。
そして、言うまでもないことだが、とてつもないパワーとスピードの持ち主である。
競技者としてのオリベイラは、業腹であっても、そのことは認めざるを得ない。
映像が終わり、画面は再びスタジオに戻される。そこには、唖然としたキャスターの表情があり、そしてそのことを自覚したのか、咳ばらいを一つして、元の表情に戻る。
「し、失礼しました。確かに、デルフィン選手、あなたには男子大会に出る資格がおありになる。そのことは認めざるを得ないようです」
「ご理解を賜れて嬉しく思います」
「ちなみにデルフィン選手。今、貴方はSNSで話題の人となっています。そのことはご存じですか?」
ウォルは、先程までとは打って変わった、挑戦的で鋭い笑みを浮かべる。
「ええ、もちろんです。私との練習で少々の手傷を負われた、確かオリベイラさんと言いましたか、その方が色々と難癖をつけられているのは存じております」
「今回の挑戦は、もしかするとオリベイラ選手に対する意趣返しということでしょうか?」
ウォルは笑顔とともに首を横に振る。
「私が、語弊を恐れずに言えば、男性の世界である格闘技に挑戦するのは、あくまで自分がどこまで戦うことができるかを試すため。私がオリベイラ選手に卑劣な不意打ちを加えたということ自体は明確に否定させていただきますが、かといって私は彼をそこまで重要視していません。私が目指すのは、あくまでこの宇宙での最強という称号です。その過程で、彼と相まみえることがあるかもしれませんが、それは過程の話で、それ以上ではありません」
「今後は、どのように活動をされるご予定ですか?」
「差し当たり、男性の身体であることが出場制限とされていない、あらゆる大会に出場し、私の実力を試してみたい。そして、いつの日か、MMA共和宇宙リーグの男子無差別級のチャンピオンベルトを、この手にしてみたいと思っています。ああ、そういえば、もしかするとこの番組を見られているかもしれないオリベイラ選手に、念のために一言だけ――」
ウォルは、今までで一番好戦的な、輝くような笑みを浮かべ、
「オリベイラ選手。私が、貴方の仰る卑怯者なのか、それとも正々堂々貴方を叩きのめして差し上げた勇者なのか、いずれの主張が正しいか、リングの上で互いの強さをもって証明するとしましょう。貴方は、全治三か月の大怪我を負われたと聞いています。大変痛ましいことです。心の底からお悔み申し上げますわ。そして、今から三か月後、貴方とリングの上でお会いできることを心から楽しみにしております。どうぞ、その時になってから、別の怪我や病気を理由にして、私との対戦からお逃げあそばされないよう祈念いたしまして、わたしからの挑戦状とさせていただきますわ」
その言葉を聞き終えるまでが、オリベイラの限界だった。
振るえる指でリモコンを操作し、テレビの電源を落とす。
「……冗談じゃねぇぞ……」
今から三か月後、この怪我が治ったら、自分はあの化け物と戦わなければならない。逃げるわけにはいかない。何せ、最初に火をつけたのは自分である。もしも何か言い訳をつけて勝負を回避すれば、ファンが黙っていないだろう。あんな女の子に、あれだけ挑発されてとんずらこきましたでは、どれほど熱心なファンであってもそっぽを向くに違いない。
では、あの化け物と戦って勝てるのか。
勝つさ。勝ってやるさ。おれは、TBO金メダリストのレオン・オリベイラだぞ。
そう思う自分がいる。しかし、競技者としてのオリベイラの本能は、あの化け物には絶対に勝てないと、尻尾を丸めてしまっている。
どうすればいい。どうすれば、最悪の事態を防ぎ、あの女の挑発を躱すことができる?
オリベイラは必死に考えた。あの女は、全てを見越していたのだ。俺があの女を訴えることも、きっと想定の範囲だったのだ。全部、あの女の策なのだ。悪いのは、あの女なのだ。
打算と、怯懦、何よりも自身の行為を正当化し被害者化する思考がオリベイラの脳内を渦巻く。それでも、有効な手段は思いつかない。
いや。
そうだ。一つだけ手段がある。
単純な話だ。あの化け物がこの世からいなくなればいいんだ。そうすれば、試合なんてなかったことになる。もし生きていたら俺が叩きのめしたやった、そう胸を張ることができる。
血の気の失せた顔で、引き攣るような笑みを浮かべたオリベイラは、先程壁に叩きつけた携帯端末を拾い上げ、そして自身の兄貴分に連絡を取ろうとした。
兄貴は、いつだって俺の味方だった。今回も、きっと、あの女の悪辣な罠にかかった俺を憐れんで、力を貸してくれるに違いない。あの小生意気な女を、この世から消し去ってくれるに違いない。
近視眼な思考の中でようやく解決策を見出したオリベイラは、何とか精神的均衡を取り戻すことができた。
震える指で端末を操作していたオリベイラの耳に、その時、病室の扉がノックされる音が届いた。
オリベイラの心臓が、どきりと跳ね上がる。あの女が、自分を追いかけてこの病室まで来たのではないか、そう思ってしまう。
しかし、冷静に考えればそんなはずはない。何せ、先程の番組は生放送のはずなのだ。ならば、例え撮影スタジオがどこであろうと、この病院に来ることなどできるはずがない。
おそらく、看護婦の定期健診だろう。そう考えて一応の平静を取り戻したオリベイラは、かすれた声で、
「あ、開いてるぜ」
オリベイラがそう言うや否や、扉は物凄い勢いで開き、オリベイラがそのことに抗議の声を上げる前に数人の屈強な男が病室に飛び込んできた。
あっけに取られるオリベイラの前に、男たちの中では一番年配らしい男性が立ちはだかり、太々しく落ち着いた様子で、
「夜分遅くに申し訳ないね。一応確認するが、君がレオン・オリベイラくんだね?」
「な、なんだ、てめぇら!いったい、誰の許可を得て俺様の病室に――」
「我々は、連邦大学中央警察のものだ。これが身分証。そして、こちらが君の逮捕状だ」
男達は自らの写真入りの手帳のようなものと、そして一枚の紙片をオリベイラに提示した。
その拍子に、幾人かの男がオリベイラの両側から彼に近寄り、両手を拘束して、後ろ手に手錠をかける。
「君の容疑は、麻薬の密輸とその密売だ。ええっと、一応読み上げておこう。君には黙秘権がある。君の供述は、法廷で君に不利な証拠として用いられる場合がある。君は弁護士の立会いを求める権利がある。君は、もし自分で弁護士に依頼する経済力がなければ、質問に先立って公選弁護人を付けてもらう権利がある。それと何だっけか、ああ、そうだそうだ、君はいつでもこの権利を用いることができ、質問に答えず、また供述をしないことができる。以上だ。何か質問は?」
唖然としたオリベイラは、とっさに何も言うことができない。その様子をどう理解したのか、年配の刑事は笑顔で頷き、
「質問がないなら結構、顎のあたりが少し不自由な様子だが、我々と一緒に来てもらおうか。君に暴れられると一苦労だと思っていたが、その怪我だとそれも難しいか。君にその怪我を負わせた誰かさんに、感謝せんといかんなこりゃあ」
オリベイラは両脇を抱えられ、無理矢理部屋から引きずり出された。
俺は無実だ、不当逮捕だと喚くオリベイラの姿は、入院患者かそれとも医療関係者の誰かさんの携帯端末で動画として収められ、しばらくの間SNSを騒がせることになったが、それも大して長い期間ではなかった。
そして、今回の逮捕がオリベイラにとっては不幸なものだったとしても、たった一つ、彼の心を慰めることができるとするならば、恐れていたウォルとの再戦は永遠になくなったのである。
◇
「ああー恥ずかしかったー!絶対にもう二度とテレビなんて御免だからな!」
「いや、おれから頼んでおいて何だが、本当にお疲れ様だ、ヴォルフどの」
顔に手を当てて、本当に恥ずかしそうなヴォルフと、半笑いの表情で彼を慰めるウォルである。
二人は、既に日も落ちて久しいセム大学のキャンパスを、ぽつりぽつりといった様子で歩いている。街灯が整然とした様子で灯り、中天には満月が輝いているから、足元が不案内ということもない。
なんとも気持ちの良い夜だった。
そんな夜に、人気の薄いキャンパスを、二人の人間が歩いているのだ。
御伽噺に出てくる巨人のようなヴォルフと、中等部でも平均より小柄かというウォルであるから、並んで歩くと倍近いスケール差がある。事実、体重でいえば四倍近い開きがある二人だった。
「それにしてもウォルよう、あんなもんで、お前さんの読み通り、あの悪ガキのファンを根こそぎかっさらえるのかい?」
ヴォルフの疑問にウォルは頷き、
「根こそぎというわけにはいかんだろうが、過半数はおれのほうに靡くと思うぞ。何せ、ああいう手合の支持者は、より過激な言動をする人間に心惹かれるものだからな。加えて、今回、あの男は自分を被害者という立場に置いておれに喧嘩を売りつけたわけだが、人心掌握という観点からすればそれは完全な悪手だ。今まで強気を貫いて付いてきたファンだ、自身を被害者として一時の同情心を買うことはできても、少し経てば幻想から冷めてしまう。おれからすれば、正しく絶好のチャンスだ。労なくして得るもの多しだな。有難い話だ」
そう言ってホクホク顔のウォルである。事実、オリベイラを見限ったファン達は、ウォルこそ次のスターに違いないとばかりに熱を上げ、彼女の応援用のアカウントなどを次々と立ち上げており、その盛況ぶりはTBSB関係者を大いに驚かせていた。
喜色満面といった様子の少女を横目に見ながら、ヴォルフはオリベイラという哀れな被食者に内心でお悔みを申し上げた。どう考えても、喧嘩を売る相手を間違えたとしか思えない。それは、武力的な意味でも、策略的な意味でも、だ。
人知れず肩を竦めたヴォルフの気持ちなど知らぬふうで、ウォルは続ける。
「TBSBも、自分達が訴えられるという危機的状況がなければ、こうもおれの好き放題を許してくれなかっただろう。これで、おれの目標に大きく近づいた。あとは、おれの腕力一つだ。アイドルと選手の二足の草鞋、明日から色々と忙しくなるな」
「そうだな。お前は、この共和宇宙全ての、格闘技ってカテゴリで飯を食ってる全ての人間に喧嘩を売ったんだ。女だてらと見下して挑戦してくる選手やら、オリベイラの人気を食ったお前を更に食ってやろうっていう跳ねっかえりやらの相手をしなくちゃならんだろう。面倒くさい話さ。俺みたいに世間様に迷惑をかけない範囲で、出来る限りのんびりと生きていこうって小市民からすれば、ご愁傷様ってやつだ」
「違いない。何とも面倒な話だが、自分で選んだ道だ。不平は言わんさ」
そう言ってウォルはからから笑った。
ヴォルフもつられて笑う。全く、内面は異世界の王様だというこの小さな女の子と知り合ってから半年ほど、人生に退屈を感じた瞬間が一瞬たりともありはしない。そして、これからも面白い話には事欠かないだろう。
はてそれは、幸福の領域に属する出来事なのか、それとも面倒事に属する出来事なのか。少し頭を悩ませたヴォルフだったが、苦笑とともに思考を打ち切った。
そんな思考は不要だと思ったのだ。少なくとも、こんな気持ちの良い夜には。
そして二人は、やはりぽつりぽつりと歩き続ける。
だから、それは、完全な偶然だった。
そして、不幸な偶然の重なった結果でもあった。
もしも。
もしも、二人がこの日、こんな時間に、セム大学のキャンパスを歩いていなければ。
もしも、リィやルウ、そしてシェラが、事前に彼らの存在を、ウォルに伝えていたならば。
そして、もしも、レティシアが、この夜、ふらりと街に繰り出すことがなければ。
彼らは、こんなタイミングで出会うことはなかっただろうに。
だが、偶然は彼らを引き寄せた。そして、彼らは出会ってしまったのだ。
ほぼ直角に曲がった道の向こうから、ひょろりと痩せた金髪の少年が姿を現したことに、ウォルとヴォルフは同時に気が付いた。
そして、彼の身に纏った異様な雰囲気にも。
ヴォルフはその少年を見たとき、彼を人間だとは思えなかった。人のかたちをした猛獣、それとも毒蛇、いや、殺意そのものが歩いているのだと思った。
あれは、決して人間ではない。おそらくは、人を殺すという単一の目的を持った機械。
全身の毛穴という毛穴から冷や汗が吹き出し、脳髄ではなく全身の細胞そのものが、最大級の警報を鳴り響かせる。
今までどの戦場でも出会ったことのない、異質な存在。人の皮を被ったキリングマシーン。存在するだけで周囲に死をまき散らす、最悪の疫病の具現。
己の身に降りかかる圧倒的危機に、咄嗟に動くことすらできなかったのは、ヴォルフの長い軍属経験でも初めてだった。動くことが、即ち死につながると、思考ではなく身体が理解してしまっていた。
そして、それは金髪の少年――レティシアも同じだった。
軽いアルコールに思考を痺れさせ、その解放感に酔いしれながら夜道を歩いていたら、突如、明らかに人外と分かる大男と、そして得体の知れない気配を放つ少女という、奇異な二人組を見つけたのだ。
もしも素面の彼ならば、おそらく100メートル離れていても気が付いていたはずだ。それが、こうも接近して遭遇してしまった。
咄嗟に動くことができない。銃器の取り扱いに極端に厳しい連邦大学であるから、おそらくこの二人が銃を携帯しているということはあるまいが、少なくとも巨躯の男は、全身に武器を仕込んでいる。その鋭い気配を含めて、レティシアにとっても容易な相手ではないことがよく分かる。
加えて、その隣に立った少女の醸し出す異様な気配。その気配に、レティシアは覚えがあった。この上なく知っていると言っていい。なにせ、その気配を持つ生き物と、かつて命のやり取りをして、敗れ去ったことがあるのだ。
咄嗟に、レティシアは理解した。同僚であるヴァンツァーの言っていた、王妃と同じ生き物。そして、あの不思議な男の言っていたターゲット。
その二つが同一人物であり、そして今、自分の目の前にいるのだと。
流石のレティシアも、事態に思考が追いつかず、一瞬、身体を固めてしまった。
故に、動き得たのはただ一人。
レティシアを危険人物と知り、大量殺人犯と知り、そして何より妻の命を狙った怨敵と知っていた、少女。
ウォルが、刹那の逡巡もなく駆け出し、レティシアに向けて飛び掛かった。