懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
アヴェイロ中央病院の、513号特別個室は、その瞬間、突然超大型ハリケーンが発生したかのような混乱に見舞われた。
レティシアこそウォルを傷つけた張本人だと野性的直感で理解したインユェが飛び掛かろうとするのを寸でのところでルウが押さえ、突然の仇敵の来訪に大喝しようとしたウォルの口をリィが塞ぎ、脱兎の勢いで窓から逃げ出そうとしたメイフゥの足首を辛うじてヴォルフが掴んだ。
「馬鹿、落ち着けメイフゥ!いったいどうしたってんだ!?」
メイフゥは駄々っ子のように手足をばたつかせ、
「は、放しておくれよヴォルフ!あ、あたし、たいていのゲテモノは平気だけど、へ、蛇だけは駄目なんだぁ!」
「蛇!?そんなもん、どこにいるんだよ!?」
「そこにいるじゃないか!人の形に擬態した、とびっきりの毒蛇が!」
完全に涙目のメイフゥが、レティシアの方を指さしながら泣き叫ぶ。
ここは病院の5階である。窓から飛び出せば、いくら頑健なメイフゥとはいえ、いったいどんな怪我を負うかわかったものではない。常人ならば、間違いなく死ぬ。それでも逃げ出そうとしたあたり、メイフゥの蛇嫌いは極めつけなのか、それとも、人の形をした毒蛇を、5階からの自由落下以上の脅威とみなしたのか。
そしてその光景を興味深そうに見守っていたレティシアは、隣に立ったヴァンツァーに向けて、結構真剣な調子で問うた。
「蛇?蛇なんてこの部屋にいるの?」
「鏡を見てみろ。そこにいる」
レティシアは病室の洗面台に設えられた鏡を見てみたが、残念ながら正面から覗き込んだわけではなかったので、そこに蛇らしき存在は映り込んでいなかった。
不思議そうに首を傾げたレティシアは、部屋の脇からパイプ椅子を取り出して、泰然とした様子で腰を掛けた。
「ま、いっか。で、王妃さん、こんな時間に俺たちを呼び出して、何の用だい?」
流石に少し落ち着いた様子のウォルを見て、その口から手を離したリィが、大きなため息を吐き出した。
「電話で伝えただろ。今回みたいなことがもう二度と起きないよう、面通しをしておきたいって」
「それはわかってるけどさ、さっきの喧嘩は別に俺、悪くないぜ。突っかかってきたのはそこの王様から。なら、俺にとやかく言ったところで、そっちが納得してくれなけりゃどうしようもないんじゃねぇの?」
レティシアがにやにや笑いを浮かべながら言うと、かちんとしたウォルが何事かを叫びそうになったので、寸でのところで再びリィがウォルの口を塞いだ。
「ああ、もう、話が前に進まない!」
思わず頭を抱えそうになったリィの嘆きに、助け船は思わぬところから現れた。
突然開け放たれた病室の扉の向こうから顔を出した、年かさの、ふくよかな顔立ちの看護師が、鬼の形相でそう叫んだのだ。
「何を騒いでいるんですか!ここは病院ですよ!ほかの患者様のご迷惑です!静かにしていただけないなら、即刻お帰りください!」
これは全くもって非の打ちどころのない正論だったので、流石のレティシアも、思わずうなずき返す。
一応は騒ぎの収まった様子の室内をぐるりと睨みつけ、憤懣やるかたなしといった表情の看護師は、ばたんと扉を閉めた。
そして、先ほどの混乱が嘘のように静まりかえった室内で、シェラが控えめに言った。
「あの、とりあえず皆さん、座りましょうか。そうしないと落ち着いて話もできませんから……」
これもまた正しい意見に思われたので、全員が従った。
◇
そして、全員が、一応は落ち着いた様子で腰掛けた。
総勢10人近い大所帯である。かなり広い病室だったのは幸いだった。
ウォル、インユェ、メイフゥはベッドに腰掛け、その隣に、流石に華奢なパイプ椅子には腰掛けられないヴォルフが立っている。
その正面、扉側に、シェラ、レティシア、ヴァンツァーの死神組が椅子に座り、ちょうどコの字になるように、リィとルウが座るという配置となった。
「えーっと、こっちの二人が、シェラと同じで別世界からお客さん。奥がレティシア、手前がヴァンツァー」
「おっ、こいつは別嬪な虎の姉さんだねぇ、そんで可愛らしい子犬のわんこちゃんか!」
「……」
無邪気な様子のレティシア、そして相も変わらず寡黙なヴァンツァーである。そんな二人の様子を、同郷のシェラが、横目に厳しい視線で睨みつけている。
対するウォル達はといえば、ウォルは親の仇を見るような視線でレティシアを射抜き、インユェはそんなウォルを背に隠すようにして威嚇の唸り声を隠そうともせず、メイフゥは薄く涙を浮かべながらヴォルフの巨体に半ば体を隠している。
まるで人見知りの幼子のような様子のメイフゥが、ぐずるように鼻にかかった声で、リィに問う。
「あ、あのさ、リィ、あたしたちのこと、こいつらに話したのかい?」
虎の姉さんと言われたことについて不思議に思ったのだろう。
だがリィは首を横に振り、
「話してない。流石に、そんな大切なことを本人の許可を得ずにぺらぺらと話すほどおれも無神経じゃないさ。ただ、少なくともレティについては、おれと同類だ。荒事や他人の戦闘能力に関する嗅覚は並外れてる」
レティシアは気安げに頷き、
「そういうこと。いやぁ、しかし王妃さん、あんたの周りには、相変わらず面白い人間ばかりが集まるんだねぇ。こういうのって同病相憐れむっていうのかな?」
「それを言うなら類は友を呼ぶだ、馬鹿者」
シェラの厳しい突っ込みに、しかしレティシアは機嫌のよい猫のように目を細めている。
そんな死神組のいつも通りの様子を見遣ったリィは、気を取り直して、
「レティ、黒すけ。こっちが、おれの夫のウォル。あっちの世界にいたときとはちょっと姿かたちが変わっちゃったけど。そして、インユェ、メイフゥが双子の姉弟で、一番奥のおっきいのがヴォルフ。三人とも、最近知り合った大切な友達だ」
「ああ、そっちのおっさん……じゃなかった、兄さんとはさっきぶりだね。俺、レティシア。これからもよろしくね」
満面の笑みのレティシアは、片手を挙げて、先ほど自らが殺そうとした大男に対して、いかにも気さくな挨拶をする。
対するヴォルフは、あまりに素っ頓狂な事の成り行きに、憮然と肩をすくめた。
これが果たして、小一時間も前に殺し殺される寸前だった人間にかけるべき挨拶だろうか。
ついこの間まで、軍人という、いわば殺し殺されるのが生業だったこともあり、人の生死には常人よりも距離感の近い彼だが、この青年の距離感たるや、隣人に作りすぎた料理をおすそ分けに伺う程度のそれでしかないのではないだろうか。
これは、またしても平穏無事な人生が、自分から一歩遠ざかったに違いない。果たして運命のエスカレーターは、自分をどこへ運ぶつもりなのだろう。ヴォルフは軽くため息を吐き出した。
そんなふうに、一応の面通しが終わった一同の中で、一番最初に口を開いたのは、怜悧な美貌の青年だった。
「しかし王妃よ、あなたにしては随分お粗末な結果だ。もっと早く俺達の存在を彼らに明らかにしていれば、こんな事態は起きなかった。違うか?」
いつも通り沈思な表情のヴァンツァーの舌鋒鋭い指摘の、リィはバツが悪そうに頭を掻き、
「黒すけ、お前の言う通りだよ。本当に申し訳ない。ただ、言い訳をさせてもらうなら、この馬鹿がこっちの世界に来てから、本当に色々あったんだ。だから、こういう場を設けるのが遅くなっちまった」
そしてリィは、ウォルがこの世界に来ることになった経緯、そしてこの世界で巻き込まれた大事件、その過程で友誼を結ぶこととなったインユェとメイフゥの姉弟とヴォルフについて、簡潔に語った。
逆に、インユェとメイフゥ、そしてヴォルフには、レティシアとヴァンツァーがあちらの世界の出身であること、もとは敵対関係にあったが現在は微妙なバランスの上で奇妙な協力関係が成立していることを語った。
無論、インユェとメイフゥが半人半獣の一族であることや、逆にレティシアとヴァンツァーが伝説的な暗殺者一族であることなど、立ち入ったことは言っていない。それらの事情は、彼らが、お互いが必要だと思った時に打ち明けるべき話であり、自分が我知り顔で語るべきことではないと思っていたからだ。
しかし、インユェ、メイフゥ、そしてヴォルフも、あちらの世界出身だというこの二人を只者ではないと理解したし、レティシアとヴァンツァーにとってもそれは同じだった。
「……ということで、別に仲良し小好しをしてもらう必要はないけど、お互い、無用なトラブルは避けてもらえるとありがたい。ヴォルフを除いて、全員が連邦大学の学生なわけだし、つまらない喧嘩ごとで停学やら退学やらはごめんだろう?」
少し疲れた様子のリィは、個性豊かな面々を見渡しながら言った。
ただ、何人かは俄には承服しかねるといった表情だった。特にインユェなどは、今すぐにでもウォルの仇を取ってやるといった凶暴な表情だったが、他ならぬウォルが自制しているので、仕方なく『待て』の状態に甘んじているようだった。この点、やはりこの少年の本質は犬や狼に近しいのかもしれない。
そんな険しい表情のインユェを意図的に無視して、口を開いたのは怜悧な美貌の青年だった。
「なるほど、王妃の言い分は理解した。しかし、何点か問題がある」
ヴァンツァーが、睨め上げるような表情で続ける。
「まず、そこな少女……何とお呼びすればよいか?」
ヴァンツァーの視線の先にいた少女──ウォルが、無愛想な調子で答える。
「好きに呼べ」
「ではお許しを得て、国王陛下とお呼びしよう。国王陛下がレットと争いになったのは、陛下から戦いを仕掛けられたのがそもそもの発端だ。それは間違いないないな?」
ヴァンツァーの質問に、ウォルは無言で頷く。
「理由は?」
「貴様らがあちらの世界で──俺の治めた国で何をしたか、忘れたとは言わさんぞ」
灼熱とした糾問の言葉に、しかし氷の貴公子と呼ばれる青年は、あくまで涼やかな表情を崩さない。
「忘れたなどと言うつもりはない。それが、あちらの世界でも、そしてもちろんこちらの世界でも、極刑に値する重罪だとも心得ている。しかし重要なのは、あちらの世界で俺達の犯した罪については、もはや誰が裁くことも出来ないということだ」
まるで、時効まで逃げ切った犯罪者が、薄汚く勝ち誇りながら口にするような台詞であったが、ヴァンツァーは淡々と事実を告げる口調である。
「裁きがあり、罰があって、初めて罪は許される。それが一般論だ。しかし俺たちがあちらの世界で犯した罪科について、当然のことだが、こちらの官憲が裁くことはできん。もしも警察に自首してあちらの世界で犯した罪を自白したとして、悪戯か狂言の類として聞く耳ももってもらえないだろう」
「ま、そりゃそうだわな。ここじゃない別の世界で、人を何人、これこれこんなふうに殺しましたなんて言って、信じてもらおうってのがまず無茶だ」
レティシアがヴァンツァーの意見に同意する。
「加えて言えば、古今東西、罪に対する罰として最も重い刑罰は死罪だ。そういう意味で言うならば、俺たちはともにあちらの世界で一度死を賜っている。無論、首切り役人にそうされたわけではないがな」
その言葉に顔を顰めたのは、あちらの世界でヴァンツァーに死を与える羽目になったシェラである。別にそのことについて疚しい想いがあるわけではないのだが、未だに消化しきれない感情があるのも事実なので、あの時のことを思い出すと、どうしても渋い表情になってしまうのだ。
対して、レティシアと死闘を繰り広げ、結果として命を奪うこととなったリィはといえば、寸分の動揺もなく平然とした様子である。リィにとってレティシアとの闘いは正式な決闘であり、その結果について後悔も反省もしようがないものだったからだ。
「さて、賢明なる陛下に問いたい。俺たちは、いったいどのようにして罪を償うべきか。そも、今の俺たちに償うべき罪の在りや無しや」
「そうそう、そのあたり、俺も気にはなってたんだよね。もちろん、こっちの世界では、俺たちは大人しいもんだぜ?俺もこいつも、品行方正を絵に描いたような一般学生で通してる。ま、実のところ一人も殺しちゃいないなんて言わないが、だいたいは降りかかる火の粉を払っただけだ」
「加えて言うならば、あちらの世界で数多の人を殺めたというならば、そこの銀色も同じはずだな。しかし、あなたは、片や自らの友人として遇し、片や罪人として裁こうという。その判断の基準や如何に」
あくまで冷静なヴァンツァーであったが、舌鋒の鋭さは、彼の異名の通り、氷の如くである。
流石のウォルも、咄嗟に反駁することができない。
対して、この言葉に強烈に反応したのがシェラである。椅子を蹴倒すように立ち上がり、
「詭弁を弄するな卑怯者め!我々の罪の在り無しなど論ずるを待たない!それに、私は罪を許されたのではなく、ただ陛下の温情によって生かされているに過ぎない!私を理由に貴様らの罪が問えないならば、いいだろう、今この場でこの腹をかっさばいてくれる今までの罪を詫びてくれる!」
激高したシェラが本当に短刀を取り出したので、これはルウが飛びついて止めた。
「ちょっと本当に落ち着いてシェラ!そんな大声だしちゃ、さっきの看護師さんに本当に追い出されちゃう!それに、これはそういう話じゃないんだよ!」
「ああ、そうだな。この件については、ウォル、お前が悪いと思う」
リィが冷静な口調で言った。
「つまり黒すけ、お前が言いたいのは、罪のあるなしなんていうあやふやな理由がウォルが怒っているのが原因なら、いつウォルがお前たちに襲い掛かるかわからない、そういう宙ぶらりんな状態では困ると、そういうことだろう?」
ヴァンツァーは何も答えないが、しかし変化のない表情が、リィの言葉を是としていた。
リィはため息を吐き出し、
「ウォル、繰り返すけどこの件についてはお前が悪い」
自らの夫であり婚約者であり、そして何より戦士の誓いを結んだ同盟者に対して苦言を呈した。
ウォルは、流石に少し驚いたようだが、無言で続きを促す。
「こないだお前、言ったよな。人間は、自分が直接知らない人間の死に、心から怒ることができるほど器用な生き物じゃないって。おれもそう思うよ。だから、お前がレティに襲い掛かったのは、こいつらがあっちの世界でさんざ人を殺したとか、その罪に対して正当な裁きが下されていないとか、そういう理由じゃないだろ?」
図星を突かれたウォルは、諦めたように天井を仰ぎ、それから不承不承な様子で頷いた。
「……ああ、リィ。お前の言うとおりだ。確かに、おれはあちらの世界では誰よりも法を守護する立場にあった。だから、あちらの世界でのおれなら、この二人を誅する理由があった。しかし、こちらの世界にきたばかりのおれが、この二人に、そこまで敵意を向ける理由にはなりえない」
リィはほっとした様子で頷き、
「お前がレティに我を失って襲いかかったのは、おれが原因だろう?」
優しい調子でそう言った。
ウォルは、悔し気に歯を噛みしめながら頷いた。まるで、涙を堪えるような、そんな様子だった。
「……この男がお前に牙を剥ける都度、お前は深く傷つき、時には死にかけることもあった。危うく貞操を汚されそうにもなった。全て、おれの手の届かないところでだ。そのたびに、おれは途方もない怒りと、それ以上の無力感を味わっていた。もう絶対、お前をそんな目に遭わすものかと、何度も思った。それなのに……」
俯きながら苦しそうに呟くウォルに、リィが嬉しそうに微笑む。
「ありがとうウォル。お前は、本当に優しいやつだ。その気持ちが、おれは嬉しい」
そう言って、俯いたままのウォルの手をそっと握る。
だがウォルは、まるで聞き分けのない幼子のように、首を横に振る。
「だから、誓ったのだ。もう二度と、この男にお前を傷つけさせないと。そして、突然目の前にこの男が現れた。おれは、お前を狙ってこの世界にやってきたのだと思った。だから、絶対にここで仕留めなければいけない、そうしなければまたお前がまた危険に晒されると、そう思って……」
「わかった。だがウォル、さっきも言ったとおり、レティとは、今のところそういう関係じゃないんだ。もちろん、明日にはどう転ぶかはわからない。でも、それはおれとレティとの間の話だ。お前が無遠慮に首を突っ込む話じゃない。そうだろう?」
母親がわが子をなだめ言い聞かせるように、優しい口調である。
そしてウォルは決意したように目を瞑り、数回深呼吸をして自分を落ち着かせ、その後で、レティシアと正面から相対して、
「すまなかった、レティシアどの。先ほど卿を襲ったこと、完全におれの勇み足であり勘違いだった。全ての責めはおれにある。どうか許してほしい。このとおりだ」
そう言って深く頭を下げた。
「おやめください陛下!あなたが、よりにもよってこんな男に頭をお下げになる必要などありません!」
シェラが慌てたようにそう言ったが、ウォルは顔を上げようとはしない。きっと、レティシアから許しをえるまで、そのまま頭を下げ続けるつもりなのだろう。
これには、流石の飄々としたレティシアも、驚きを隠せなかった。
今でこそお互いに学生の身の上だが、元の身分が身分である。片や日陰の世界にしか行き場所のない暗殺者、片や世界で最も栄えた国の伝説の覇王。比べるのが馬鹿馬鹿しいほどの身分の差だ。元の世界であれば、どのような理由があれ、仮に完全に王側に全ての責任がある場合だったとしても、王が頭を下げるなどありえない、あってはならない事態である。
それを、お互い新たな生を受け以前とは異なる価値観の世界に生きているとはいえ、こうも容易く、それでいて真摯に謝罪するというのは、並大抵の精神構造で為せるわざではない。
レティシアは、初めてウォルという個人に深い興味を持った。今までのウォルという人間は、例え国王だったとしても、あくまでリィの旦那という位置付けだったのだ。
「わかったよ、王様。俺は、あの喧嘩の原因はあんただと思ってるけど、痛い目を見たのもあんたで、俺は別に怪我したわけでもなんでもない。あんたから詫びを入れてもらえるなら、こっちもガキじゃないんだし、へそを曲げ続けるつもりもないさ。頭を上げてくれ」
レティシアの手打ちの言葉に、ウォルは頭を上げる。視線はいまだ厳しいものだったが、ウォルが一度口に出した言葉を違えることはないだろう。この件は落着だということだ。
リィが、安心したように軽く息をついた。
「よし、これで話はついたな。さっきも言ったけど、別に仲良くしてくれとは言わないし、すぐにそんなことができるとも思えない。だけど、一応はお前ら、同じ世界の数少ない同胞ってことになるわけだし、あまり無用な争いをしない方向でいてくれるとありがたい」
「そうそう、そこなんだよ王妃さん。実はさ、あんたに相談したいことがあったんだ」
そういえば、といった調子でレティシアが手を上げる。
果たして何事かと首を傾げたリィに、レティシアはやはり軽い調子で、
「俺さ、こないだ、そこの王様の暗殺を依頼されちゃったんだけど、どうしよっか?」
そんなことを言った。
この言葉には、レティシアと同郷のヴァンツァーやシェラですらが耳を疑い、あまりの驚きに口をあんぐりしてしまった。
しばし、緊張感というよりも呆気にとられた雰囲気が場を満たし、誰も口を利くことができなかったが、一足先に我を取り戻したルウが、レティシアに質問する。
「えっと……それって、誰からの依頼なの?」
当然と言えば当然すぎる質問であったが、レティシアは頬を膨らませ、
「おいおい占い師さんよ、それって俺たちの稼業のタブー中のタブーだぜ?誰って言われて、はいはいどこのどなたですって、気軽に答えられると思ってんの?そんなに俺って信用ないかなぁ」
如実に不機嫌そうな、ぶすっとした調子でそう言った。
それも無理からぬことである。レティシアにはレティシアなりの誇りや使命感があって暗殺家業に身を置いていたのであって、顧客の秘密をぺらぺらとしゃべるような三下と同列に扱われたのは、不本意極まることだったのだ。
そんな様子に、ルウは苦笑を浮かべた。
「そのわりには、王様の暗殺依頼を受けたってこと自体はあっさり教えてくれるんだねぇ」
「ああ、まだ正式に引き受けたわけじゃないしな。それに正式に引き受けたら、そのことをあんたらが知っていようがいまいが、同じことさ。俺は、頼まれた依頼を確実に遂行するだけだからよ」
レティシアはにやりと微笑った。それは、自身の腕に絶対の自信を置く、闇の職人の微笑みだった。
そんなレティシアを見て大きなため息を吐き出したのは、どうやら彼の暗殺のターゲットにされかかっているらしいウォルの、婚約者であるリィである。
「絶対にだめ。なにせ、こいつは俺の婚約者なんだからな。結婚するまでに殺されちゃったら、約束を果たせなくなる。だから我慢しろ」
婚約者という言葉に反応しかけたのは、未だ事態についていけていないインユェだったが、ここで混ぜっ返しては話が前に進まないことを理解しているのだろう、泣く泣くといった様子で言葉を飲み込んでいる。
そして、少しずれた言葉で暗殺を諫めたリィに、レティシアは残念そうに唇を尖らせ、
「やっぱりだめ?でもさ、きっとこの王様となら、あっちの世界でも俺とあんたみたいに、良好な関係が築けると思うんだよねぇ」
「あのな、世間一般では、殺し殺される間柄を良好な関係とは言わないんだぞレティ」
「そりゃそうだけどさ、あんたも結構楽しかったろ?」
「それは否定しない」
至高の戦女神として、そして最高位の暗殺者として互いに命を狙い狙われた日々を思い出して、二人は一緒に微笑んだ。そしてそんな嬉しそうな二人を見て、ウォルは胸の中に、ちくちくとした嫉妬が浮かんでしまうのだ。
──やはりこの男はここで排除すべきなのではないか。
レティシアをじとりと睨みながらそんなことを思う。
自分が暗殺のターゲットになりかかっていることなどよりも、ただリィとの関係においてそんなことを考えてしまうあたり、ウォルという少女の感覚もかなりずれているというべきだろう。
そんなウォルの内心を知ってから知らずか、リィとレティシアは続ける。
「だいたいレティ、お前、もう暗殺稼業は廃業したんじゃなかったのか?」
レティシアは少々ばつが悪そうに頭を掻き、
「そりゃあそうなんだけどさ、ああも正面切って依頼をされちゃうと、やっぱりプロフェッショナルとしての誇りが疼くわけよ、俺みたいな人間でも」
「じゃあ、依頼を受けるつもりなのか?」
リィの軽い口調の質問に、レティシアは真剣な様子で首を捻る。
「どうしよっかなぁ。今の生活も悪くないんだけどさ、正直今まで生きてきて、一番楽しかったのは、王妃さん、あんたを付け狙ってるときだったんだ。で、あっちの世界の王様ならいざ知らず、今の王様はあんたと同じ生き物だろう?なら、きっとすごく楽しいと思うんだよな」
ウォルが、リィと同じ生き物の体に間借りしていることは、当然のことだがまだ説明していない。先ほど、ウォルがこの世界に来ることとなった事情を簡潔に話した時も、そういった重要なことは説明していないのだ。
だが、レティシアにとって、それは明白すぎる事実だった。それにヴァンツァーも、ちらりと見かけたウォルを一目見て、リィと同じ生き物だと見破っているのだ。その点、伝説とまで呼ばれた暗殺一族の精鋭の嗅覚は、未だ衰えを見せてはいないというべきだろう。
「今回は遭遇戦だったからさ、経験値の差で俺が勝ったけど、今度はどうなるか分からないぜ。ひょっとしたら、俺が返り討ちってことになるかもしれない。そういうの、すごくゾクゾクするんだよね」
麝香猫のような瞳を爛々と輝かせ、嬉しそうにレティシアが言った。まるで、愛しい恋人について語るように、その語調には熱が込められている。
これは色んな意味で手遅れかもしれない、リィは片頭痛を堪えるように、こめかみに指を当てた。
「じゃあ、質問を変える。どうすれば、お前はウォルを狙わないで済むんだ?」
「どういうこと?」
「お前の一族にも、掟みたいなものはあるだろう?さっき言っていた依頼主を明かさないなんてのは当然として、それ以外にも色々。その中で、お前がウォルを絶対に狙うことができない、そういうふうな立場にウォルを置くことができる、そんな掟はないのか?」
今までと角度の違う質問にしばし黙考したレティシアだったが、
「……掟ってのとは違うが、同族の人間を標的にした依頼は受けないってのはあったな。まぁそもそもが表に名前を出さないことが絶対条件の稼業だからよ、標的に一族の人間の名前があがること自体そうそうある話じゃないんだが、あの事件の暗殺をした実行犯を殺してくれって、裏の事情を弁えてる人間からの依頼が全くないわけじゃない。だが、そういう場合は、どんなに金貨を積み上げられても断るのが不文律だ。そうじゃないと、仕事の途中にいちいち背中を気にしなけりゃならなくなる。それは流石に煩わしいからな」
「なるほど、つまりウォルがお前の一族になれば、お前は今回の依頼を断らざるを得ないわけだ」
「うーん、そういうことになるのかねぇ?」
首を傾げたレティシアを横目に、リィはウォルの方を向きなおり、
「じゃあ決まりだ。ウォル、お前、レティと結婚しろ」
あっさりとした調子そう言った。
ウォルの婚約者であり妻でもあるリィの、あまりに予期せぬ爆弾発言に、たっぷり10秒ほどの間、病室に沈黙が流れたのは無理からぬことであった。