懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
軽い貧血によって倒れたシェラが目を覚ましたのは、太陽が西の空の向こうへと完全に姿を隠した後のことだった。
頭の奥に残る重たい痺れに顔を顰めると、額の上に、何か冷たいものが乗っていることに気がついた。その冷たさと心地よさが、自身の経験上、氷水に浸したおしぼりを固く絞ったものであろうことは想像がついた。
つまり、情け無いことではあるが、自分は卒倒し、誰かに看護されているのだろう。シェラは、ほとんど軋み声を上げながらのそのそと動き出した脳細胞で考えた。直後、自分が如何に危険な状態であったかに思いが至ったが、しかし彼がもといた世界と違い、こちらの世界では、身近なところにある危険は驚くほどに少ない。
とりあえず、大騒ぎをするのは控えた。それに、今自分が飛び上がって身構えでもしたら、自分を看護している何者かが一般人であった場合に、少々厄介なことにもなりかねない。別に四肢を拘束されているわけでもなし、今は貧血で倒れた普通の子供のふりをするのが一番だと考えたのだ。
そこまで思考した後で、彼はうっすらと瞳を開いた。ぼんやりとした様子のすみれ色の瞳はほとんどが芝居であったが、それを見抜ける人間は、彼が己の主と心に誓った少年を除けばほとんどいないだろう。
寝起き特有の霞がかった視界には、どこかで見たことがあるような天井が映し出されていた。果たしてここがどこかは分からないが、危地に陥った時特有の、切っ先を突き付けられたような緊張感がない。やはり、ここは特別危険な場所ではないようだ。
では残された問題はといえば、果たして自分はどのような理由で倒れたのか、という点だ。よほど酷い目にあったのか、それとも度肝を抜かれたのかは知らないが、意識を失う前後のことを全く覚えていない。ただ、何故かそれほど嫌な感じがしないのだが……。
その時、シェラの額から冷たい感触が一旦取り除かれ、盛大な水音が響いた後で、鮮烈な冷たさを取り戻したおしぼりが再び乗せられた。もう薄目を開いていた彼は、口元に人好きのする微笑みを浮かべながら、自分を看病してくれている人影に対して言った。
「すみません、ご迷惑をおかけします……」
「なんのなんの、怪我人と病人は大人しく看護されるのが仕事だ。いらんことに気を回さず、ゆっくりと休め」
返ってきたのは、太陽のように朗らかな、少女の声だった。
その不思議な言葉遣いに、一瞬『おや?』と思ったシェラだったが、しかし内心で苦笑しただけでその表情には奇異の念の一切を表さなかった。少女の声には、そのような言葉遣いが寧ろ相応しいような気もしたのだ。
男のような口調はどうしても野暮ったいものであったが、それが少しも不快でない。逆に、その底抜けの明るさに加えて、色違いの花を一つ添えているようですらある。
自分自身は、意識せずとも丁寧な――あるいは丁寧過ぎる態度を好むシェラであったが、きっとこの声の主は好感が持てる人物に違いないと思った。例えば『女王』の渾名を持つ、リィの友人の一人のように。
シェラは、作り笑いではない微笑みを頬に刻んで、枕に乗った頭を声の方に向けた。
そこには、彼が想像したとおり、満面に陽光のような笑みを浮かべた、少女がいた。シェラの枕元に、膝を綺麗に折りたたんで座っている。
繰り返すと、それ自体はシェラの予想通りだったのだ。
にも関わらず、シェラは大変に驚いた。
黒い真っ直ぐな髪と新雪のように白い肌で整えられた外見は、シェラでさえ舌を巻くほどに美しい。だが、それだけで驚くシェラではない。彼の回りには、内面と外面とを問わず、宝石のように輝かしいものを持った人間が数多くいるのだから。
シェラが驚いたのは、少女を飾る、言葉には顕しがたい不均衡である。
顔は、どこからどう見ても少女のそれである。時には少女としての身分で任務を遂行したことのあるシェラだったからこそ、自分以外の人間の性別には敏感である。どれほど丁寧に取り繕おうと、彼がそれを間違えることはほとんどない。
しかし、その少女の華奢とも思える外見に反して、快活を体現したような表情から読み取れる気配は、どう考えても女性のものではない。
男性のものなのだ。
気配だけでなく、時折見せる仕草や細かい動作がそれを裏付けてもいる。
おかしい。これはどうにもおかしい。
これではまるで、あちらの世界でのリィではないか。
彼がそう思ったとき、その少女が再び口を開いた。
「しかしシェラよ、お前の気苦労症なところは、体が縮んでも変わらないのだな」
「なぁ!?」
今度こそシェラの心臓を猛烈な動悸が襲った。
その勢いによって押し出された血液の量に比例するように機敏な動作で、彼はベッドから飛び起きた。そして、懐に隠してあった短刀に手を掛け、もう片方の手には袖の辺りに隠してあった鉛玉を既に握り込んでいる。
――この少女は、自分が若返ったことを知っている。
あちらの世界では19歳であったシェラの外見は、こちらの世界におけるリィの記録上の年齢に合わせて、13,4歳程度にまで若返らせてもらっている。それは無論、彼と同じ歩調で人生を歩むためである。19歳の体のままリィの人生の露払いを引き受けるのも吝かではないと思いもしたが、しかしこの世界では体術や殺人の技術以上に、知識や教養こそが優れた武器になることを教えられ、その魅力的はアイデアは諦めざるを得なかったのだ。
ともかく、彼の内側に収まったものと外面上の年齢との間には、少なからぬ齟齬がある。そのことを知っているのは、リィと、自身の体を若返らせてくれた張本人たるルウ、そしてシェラと同郷のヴァンツァーとレティシア、彼と同じくルウと浅からぬ因縁を持つケリーとジャスミンくらいのものなはずだ。
ならば、常人には到底真似の出来ない動作でもって飛び起きた自分を、全くの動揺を見せずに微笑みながら眺め遣るこの少女は、一体何者なのか。
シェラはほとんど抜き身の殺気を少女にぶつけてみたが、しかしというべきかそれともやはりというべきか、少女の漆黒の瞳には一切の変化が見られない。きちんと正座したまま、少しだけ意外そうな顔でシェラを見上げている。
少女がシェラの殺気を関知しているのであれば、これは尋常なことではない。そしてシェラは、その少女が、自身の殺気に気付かぬほどに鈍い存在であるとは到底思えなかった。
ならば、殺気に反応しない理由は、一つしかない。
この少女は、自分よりも遙か高みにいるのだ。例えこの瞬間に自分が飛びかかっても、余裕をもって退けることが出来るだけの。
シェラは、背筋に冷たい汗が伝うのを自覚しながら、喉から押し出すような声で、問うた。
「……何故、この殺気に反応しない?」
まさか本気でそんなことを問うほどに、シェラは愚かではない。これは、会話をもって少女の本質の一端であっても計ることが出来れば、という藁にも縋るような策である。これで嗜虐的に頬を歪めるようであれば、少女は自分の敵だ。慈愛の笑みを浮かべるのであれば、少なくとも敵ではないのだろう。
そして少女はといえば――。
「どうして俺が、お前の殺気を恐れなければならない?お前は、リィの大切な友人だというのに」
心底不思議そうに首を傾げた。
何故自分がシェラに襲われなければならないのか、全くわからないと、そういう有様だ。
シェラは、毒気が抜かれたように殺気を引っ込め、唖然としてしまった。どうやらその少女は、本当にそう信じているように見えたからだ。つまり、少女がシェラの殺気に反応しなかったのは、力量の差などではなかったらしい。
一体、この少女は何者なのか。
頭を抱えそうになった彼の耳に、がちゃりとドアノブが回される音が聞こえた。シェラはその時点になって初めて、自分が伏せっていたこの部屋がドレステッドハウスにおけるリィの私室であることに気がついた。逆に言えば、その程度のことに今の今まで気がつかなかったあたり、彼の体調はまだ万全ではなかったことは間違いないのだろう。
「おい、ウォル。シェラをあんまりいじめてやるなよ」
「誰が誰をいじめているというのだ。俺は武器すら持たぬか弱い少女で、シェラは身体中に武器を仕込んだ凄腕の暗殺者だろうが。どこからどう見てもいじめられているのは俺ではないのか?」
「どこからどう見てもいじめられてるのがシェラだから、おれは言ったんだ。第一、シェラは暗殺者じゃあないぞ。もと暗殺者だ。それに、お前が『か弱い少女』だと?冗談も休み休み言え」
なみなみとした氷水の入れられた金だらいをいとも容易く抱えたリィは、後ろ手にドアを閉めながら忌々しそうにそう言った。
少女はその小さな口を開き、何事かを言い返したようであったが、しかしシェラの耳には一言だって届きはしなかった。いや、今のシェラには、時間の経過ですらが遠すぎる別世界の出来事だった。
――今、リィは何と言った?
自分の聞き間違いか?それとも、同姓同名の別人物だろうか。
何か、とんでもない人の名前が聞こえたような……。
「あの、リィ……」
「ん?」
シェラは、未だ実りの薄い口喧嘩を続けている様子の二人組、その片割れに向かって声を掛けた。
そして、おずおずと尋ねた。血の気の失せた蒼白の顔で、だ。
「その、ですね。何と言いますか、この人は一体……?」
「この人って?」
リィは、先ほどの見知らぬ少女と同じように、心底不思議そうに首を傾げた。どうやら、シェラの質問の意図するところが掴めていないようだ。
「シェラ。お前、何を言ってる?」
「いえ、だからですね、この人が一体誰なのかと……」
リィは、唖然とした様子で言った。
「おい、シェラ、お前、もうこいつのこと忘れちまったのか?」
その声には、どこか非難めいた響きが混じっている。
シェラは少しばかり身を縮めかけたが、しかしここで引いてしまっては何が何やらわからない。
再び口を開こうとした彼だったが、援軍は思わぬところから訪れた。
今、シェラから不審と奇異の極まった視線を寄越されている、当の少女がこう言ったのだ。
「そうは言うがな、リィ。皆が皆、お前のようではないのだぞ。人がその姿形を変えても難なく見分けることが出来るのは、お前くらいのものだ」
「じゃあ、シェラはお前がウォルだってことが分かってないのか?」
リィは、平然と決定的な台詞を口にした。
「当たり前だ。逆の立場なら、俺だってわかるものか」
「シェラが女になってもか?うーん、それって見た目も全然変わらない気がするけどなぁ」
「そういう問題か?」
相も変わらず軽口をたたき合い続ける二人だったが、シェラはその様子を楽しむような心の余裕は無かった。それよりも、先ほどのリィの言葉を、できるだけ衝撃の少ないかたちで頭に染み込ませるのに必死である。
――リィは、何と言った?
――確かに言った。ウォル、と。
それが、シェラの知るウォルと、同じ名前を持つだけの少女なら問題は無い。
しかし、そうと考えて見てみれば、少女の、陽光を跳ね返すように強い輝きを持つ瞳も、その屈託のない仕草も、溌剌とした言葉遣いも、あの『化け物の巣の最大級の親玉』そのものではないか。
だからといって、シェラには目の前の事態が信じられなかった。何せ、リィ自身が言っていたのだ。あちらの世界、即ちシェラにとっても故郷にあたる世界と、今リィとシェラが共に暮らすこちらの世界とを繋ぐのは、事実上不可能だ、と。第一、目の前でゆっくりと立ち上がったのは、紛れもない少女である。
全ての葛藤を坩堝の中でかき混ぜて、シェラは、ほとんどおっかなびっくり真っ暗な廊下を歩くような調子で、尋ねたのだ。
「あ、あの、すみません……」
「ん?なんだ、シェラ?」
答えたのは黒髪の少女である。
「先ほどのリィの言葉を信じて言うのですが……、あなたは、その、あちらの世界――デルフィニアの国王陛下……でいらっしゃる?」
「違う」
少女は断言した。
シェラは、何故だか一息をついた。
とても安心したのだ。別に、彼はウォルのことを嫌っていたわけでなければ後ろ暗いことがあったわけでもない。ただ、一応の精神的均衡を図ることができて、そのことに安堵したのだ。
なのに、その少女は無情にも続けた。
「俺は既に王座を禅譲しているからな、国王陛下とは呼べんよ。それでも言うなら、先王というのが正しいか?」
今度こそシェラの脳裏に、悶絶確実のとどめの一撃が叩き込まれた。
シェラの精神は再び暗い闇の中に落っこちかけたが、ぎりぎりのところで踏みとどまって、再度尋ねた。
「で、でで、では、貴方のお名前は……」
少女は、少しももったいぶった様子もなく、はっきりと言った。
「ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン。ご大層で厳めしい名前だが、天と父と、そして何よりリィによって授けられた名前だ。無碍にするわけにもいかん」
王としての名前を『リィよってに授けられた』。それはつまり、リィの活躍によって王座を奪還したことを言っているのだ。
その事実は、あちらの世界では、それこそ生まれたての赤子ですら知っている、もはや手垢にまみれた程に知れ渡った伝説である。しかしこちらの世界でそれを知る者がいるはずがない。
唯一、その少女がウォルではない可能性としては、リィが自らの知人に頼んで、共謀のうえでシェラをはめている、というものがあるだろう。
だが、それはあり得ない。絶対にあり得ない。あのリィが、よりにもよって自らの同盟者と呼んだ男を出汁にして、シェラをお道化にするはずがないのだ。そのように己の誇りを貶める真似をリィがするなど、天地がひっくり返ってもありはしない。
ならば、導き出される答えは一つしかない。
つまり、リィの言葉も、この少女の言葉も、正しい。掛け値のない真実である。
ということは。
「……陛下……ですか……?」
「うむ。久しいな、シェラ。壮健そうで何よりだ」
少女は嬉しそうに言った。
間違いない。この人は、デルフィニアの太陽と呼ばれた、あの方なのだ。そして、軍神と呼ばれ、獅子王と呼ばれた、あの方なのだ。
何より、リィの夫である、あの方。
ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン。
忘れようとて忘れられぬ、あまりに鮮烈な人の名前に、シェラの引き攣った頬が、笑みのかたちを作った。彼と共に過ごした、あまりにも鮮烈な三年間を思い出したのだ。
そして、それが即座に再硬直した。
この人が陛下なのはいい。諦めた。それは事実だ、認めよう。
では、その国王陛下、それとも先王陛下に対して、自分はつい今し方まで、一体何をさせていた?何をした?
この少女の、痛痛しいほどに真っ赤に染まった掌。あれは、何度も何度も冷たい氷水に浸した布を絞り、真摯に病人の看護を務めた者のみが持つ、掌だ。
つまり、この少女は、異世界の国王は、病人の看護をしていたのだ。
この場における病人とは、即ち固有名詞である。
シェラ・ファロット。自分の事だ。
要するに。
自分は、恐れ多くも国王陛下に、それ以上にリィの旦那様に、看病をさせていたというのだ。そしてそのことに礼を言わなかったばかりか、不躾な殺気をぶつけまでした。
これは、本来であれば極刑ものの不敬である。
シェラの、僅かに赤みを差していた頬から、音が鳴るほど見事な様子で血の気が引いていった。
「も、申し訳ありませんでした陛下!」
シェラは即座にベッドから飛び降り、カーペットの上に額を擦りつける勢いで頭を下げた。そして、言葉も無く震えていた。
彼にとって、王も、そして死すらも別段恐ろしいものではなかったが、この人の怒りはとても恐ろしい気がしたのだ。
しかし、一人立ったままの少女は、顔の前で手をひらひらとさせながらのんびりと言った。
「おいおい、シェラ。俺はもう、国王などというたいそうなものではないぞ。そう畏まらんでくれ」
シェラは相変わらず震える頭を下げたまま、微動だにしない。
少女は構わず続けた。
「それに、リィに言わせると、シェラが倒れたのは俺のせいだから俺が看病するのが当然なのだそうだ。まぁ、確かに連絡も入れずに突然訪ねたのは悪かった。なにせ、エドワード・ヴィクトリアス・ヴァレンタインという人物とリィが同一人物だとは思わなかったのだ。許してくれ」
「その割には、おれを驚かすためとか言ってしっかり女の子の格好していやがるじゃないか。ウォル、お前、実はその気があるんじゃないのか?」
しかめっ面をしながらソファに腰掛けたリィがそう言った。
痛いところを突っ込まれたかたちのウォルであるが、ここで黙ってしまったり怒ったりするようではリィの夫などは務まらない。
平然とした様子で言い返した。
「万が一ばったりお前と顔を合わせても大丈夫なように、備えていたのだ。備えあれば憂い無し、戦争と政の常識ではないか」
「戦争とくだらない悪戯を一緒にするなよ」
「お前を驚かそうというのだから、下手な戦争よりもよっぽど困難事だ。それにこの服、悪くはないと思わんか?」
少女は両手を大きく広げ、花柄のワンピースに包まれたほっそりとした体を見せびらかすようにして言った。
確かに、初夏とはいえ少しずつ蒸し暑さの増してきたこの季節には、なんとも涼やかに似合った衣装であった。少女の真っ白な肌をゆるやかに包む、透明感のある白い素材。その上に描かれた真っ赤な薔薇の刺繍が、雪中に咲く血の花のように鮮やかである。少女の黒髪、そして黒真珠のような瞳との対比も素晴らしい。
赤と白という組み合わせは、リィにとっていい想い出を呼び起こすものでは到底なかったのだが、しかしその美しさは認めないわけにはいかない。なにより、どこまでも朗らかで人の目を惹き付けずにはおかない天性をもったこの少女には、薔薇の華やかさが相応しい気がした。
だからこそリィは、真剣な面持ちで頷いた。
「うん、凄く似合ってる」
「そうだろう。実は想像以上に似合っていて自分でも驚いたのだ。初めて鏡の前に立ったときは、まるであちらの世界の舞踏会で煌びやかなドレスを身に纏ったお前を見たときのように、口を開けて唖然としたぞ。馬子にも衣装とはこのことだな」
その言葉を聞いたリィは、心底嫌そうな顔をした。そして、シェラは、この人が『あの』ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンではなくて、一体どこのお化けなのだと思った。こんな人間が、世界こそ違えど、この現世にぽんぽんいてたまるものか。
とりあえず、一人頭を下げて平伏しているのが流石に馬鹿馬鹿しくなったシェラは、ゆっくりと顔を上げて、少女の顔を仰ぎ見た。
そこにいたのは、やはりデルフィニア国王、その人だった。顔の造りは、骨格からして違うようにしか思えないほど女らしいものになっているが、意志の強さを顕した黒い瞳の輝きだけは変わりようがない。
「あの、陛下……」
「ん?なんだ、シェラ」
シェラは、今度こそにっこりと笑って言った。今度は、どこにも普段の彼以外の気配のない、シェラ・ファロットという人間そのものの言葉であった。
「お久しぶりです。そして、まさかこうして、再びお目にかかることが出来る日が来るとは思いませんでした。それ故の非礼、どうかお許しください」
「ああ、許す。だからもう立ってくれ。そうされていると、どうにも話しにくくていかん」
言外にそれ以上の謝罪の不要を示したウォルは、そう言ってシェラを立たせた。そうすると、さして大柄ではないシェラの視線は、少女になってしまったウォルの目線の少し上に位置することになる。
ここまで近接しながら貴人を見下ろすのは、明らかな不敬に当たるだろう。それを弁えないシェラではなかったが、しかし今は少しでも間近で、この人の黒い瞳を、その懐かしい光りを見たいと思った。
じっと視線を合わせた二人であったが、やがてその片方が、ぴりりと舌に残るような、苦みのある声で呟いた。
「……シェラ、お前、大きくなったな」
シェラは、冷静に指摘した。
「失礼ですが陛下、私が大きくなったのではなくて、陛下の方がお縮みあそばされたのでは……」
「むぅ……」
それは、否定のしようがない完璧な事実であった。
ウォルは、大いに傷ついたような様子で、リィの方を振り返った。
「リィ。あちらの世界で、しきりに俺の体が羨ましいと言っていたお前の気持ちが、少しだけ分かったぞ」
「だろ?」
「この体に不満があるわけではないが、しかし前の体を恋しく思うこの恋慕の念も度し難いな」
ウォルは、腰に手を当てたまま盛大に溜息を吐き出した。
シェラはその様を見て、苦笑した。あちらの世界のウォルの、戦士という概念を具現化したような逞しい体であれば絵になったかもしれないその格好も、今は精々必死に背伸びをした微笑ましい少女の様子でしかない。もっとも当のシェラとて、他の少年少女に比べて多少大人びているとはいえ、やはりまだまだ中等教育も修まらぬ子供にしか見えないのだが。
そんなふうに笑みを浮かべたシェラとは対照的に、リィはずっと不機嫌な様子だった。
そして、その表情を崩さないまま、ウォルに問いかけた。
「おい、ウォル。シェラも起きたんだ。そろそろ話してもらうぞ。何でお前がここにいる?さっきも言ったけど、事と次第によっちゃあただじゃおかないからな」
「事と次第とは例えば、俺がお前恋しさにとち狂って、あちらの世界の全てを放り出してこの世界に来た場合、などかな?」
冗談めかしたようなウォルの言葉に、リィは何も応えなかった。つまり、彼が一番懸念しているのは、そういう事態であったということだ。
当然、リィはウォルという人間を信頼している。だからこそ、彼にとっても大切な人達が数多くいるあの世界を任せることが出来たのだ。安心して、自分の世界に帰ることが出来た。
そのウォルが、もしも自分を追ってこの世界にやってきたとしたら。
あり得ないとは思う。でも、もしも、万が一の可能性でそういうことだったら、自分は、あの世界でウォルを必要としている人達にどうやって詫びたらいいのか。
リィの秀麗な顔を曇らせているのは、あり得ないこととは知りつつも、そういった懸念が彼の胸の内を掠めるからだった。もう二度と会えなくなってしまった人の幻影がどれほどに生者を苦しめるのかを痛いほどに理解しているリィだからこそ、その懸念を一笑に付すわけにはいかなかった、
ウォルは、リィの懸念を全て知っていた。何故なら、彼自身、何度も思ったのだ。あいつに会いたい、そのためなら全てを捨ててもいいのではないか、と。無論全てを捨てればリィと会えるわけではないのだが、しかし、そのように夢想することが一度もなかったとは言えない。
だが、彼はそんな思いが頭を過ぎる度に、己の弱気を嘲るように苦笑して、その甘えた考えを振り払った。何故なら、そのようなことをしたとしても、デルフィニアの戦女神は喜ばない。喜ばないどころか、烈火の如く怒り狂うだろう。それこそ、バルドウの娘に相応しい有様で。
『おれに会うために全てを捨ててきただと?よし、いい度胸だ。王座どころか戦士の魂までも捨ててきて、よくもおめおめとおれに顔を晒すことが出来た。今からたっぷりと思い出させてやるから覚悟しろ!』
そのくらいのことは言われて、顔のかたちが変わるくらいに殴られて、その上で自分の世界に文字通り叩き返されるのが関の山である。いや、それならまだいい。もしも心底失望されて口の一言も聞いてくれなかったら、いくら何でも夫として情け無いにも程があるというものだ。
ウォルは、永遠に失われた選択肢、リィと共に彼の世界に旅だった自分に思いを馳せることはあっても、それを羨むことはなかった。自分に与えられた責務を、喜びと誇りをもって全うしたのだ。
だからこそ、彼は、ありのままの全てを語った。男の時よりも薄くなった胸板、でも少しだけ柔らかく膨らんだ胸を、誇り高く反らして。
「俺はな、リィ。口幅ったいながらも、あちらの世界で俺が為すべきことは全て為したつもりだ。そして、天に召されたのだ」
リィは、一瞬息を飲んだ。
それは、シェラも同じだった。
「ウォル、お前、天に召されたってまさか……」
「ああ、死んだ。少なくとも、あちらの世界の俺は死んだのだ。だが勘違いするなよ。別に戦に倒れたわけではないし、不慮の事故にあったわけでもない。ただの寿命だ。もう俺にするべきことはないと、神がそう仰ったのだろう」
「寿命だと!?」
リィとシェラの口から、ほとんど同じような驚きの叫びが飛び出した。
「ウォル、お前、あっちの世界でどれだけの年月を過ごしたんだ!?」
「お前と別れて、だいたい40年といったところか」
「40年!」
二人の口が、叫び声をあげたかたちのまま固まってしまう。
まだ20年に満たない人生しか送ったことのない子供にとって、40年という歳月は想像を絶する、正しく地平線の彼方にしか存在しない月日の経過である。それは、常人とは異なった価値観を有するこの二人であっても同じだったのかもしれない。いわゆる普通の人間から見れば常識の埒外に存在するような彼らであったが、しかし怪我をすれば痛むし、その時が来れば天に召されるという運命からは逃れようもないのだから。
リィもシェラも、あまりの驚きで、それ以上のことを何も口にすることは出来なかった。
しかし、考えてみれば当然のことだったのかもしれない。何せ、リィがあちらの世界で6年の月日を暮らしていたとき、こちらの世界のルウは僅か10日を過ごしていただけだった。その縮尺をそのまま適用するのであれば、リィがこの世界に戻ってから経過した年月は優に人一人分の寿命を越えるようなものであったのだから。
二人は、果たして自分達が何に打ちのめされているのか分からないまま、しかし確かに何者かに打ちのめされていた。自分達の知る世界の一つが、今、間違いなく消えてしまった、その事実を悼んでいたのかも知れなかった。
そんな二人を等分に眺めて、ウォルは一言だけを、静かな声で呟いた。
「リィ、シェラ。これだけは言っておく。お前たちが作った世界はな、とても優しい世界だったぞ」
その言葉に、金と銀の天使は、同じように息を飲んだ。
人が世界を作る。聞きようによっては傲慢極まる言葉であるが、しかし世界という言葉を歴史という言葉に置き換えるならば、ウォルの言葉は決して大仰な表現ではない。
戦女神と呼ばれた姫将軍は、ウォルの治世の後、デルフィニアという国の名前が過去の書物にのみ記され、ほとんどの人間の記憶から消え失せた時代になったとしても、彼女の名前だけは語り継がれるであろう程の英雄だったし、その王妃の従者であった銀色の少年の活躍は、多くの人に知られるところでなかったとしても、闇に生きる一族の歴史に終止符を打ったという意味において軽視されていいものではない。
無論、歴史の大河は、一個人の力量をもって自在にされるほどに脆弱な水流ではあり得ない。しかし歴史が人の手によって紡がれ作られるものである以上、それを作り出すのはやはり数え切れない個人の苦悩や決断であることは間違いないし、リィとシェラのそれは他の誰と比べても最も重要なものであったのだ。
彼らも、そのことは分かっている。だからこそ、自分達が強い影響を与えた世界が、自分達の知らないところで大きな変節を迎えていることに強い動揺を受けたのだ。だが、この二人はやはり常人ではありえない。ウォルの一言を聞いて、彼らは少しだけ強張ってはいたものの、淡い笑みを浮かべていた。
「優しい世界、か。問題は、誰にとって優しい世界だったのか、だな」
「決まっている。世界はいつだって、勝者にしか優しくない。それは世界の真理だ。俺にも変えることはできなかった。しかし、せめてこの目とこの手の届く範囲においては、敗者にとっても出来るだけ優しい世界であるように、俺は尽力したつもりだ」
「お前が言うなら、その通りなんだろう」
リィは目を閉じ、それ以上のことを聞こうとしなかった。ウォルがそう言うならば、それは間違いなくそういうことなのだ。同じく、シェラも何も問わなかった。彼の知るデルフィニア国王の目は万里を見渡し、その手は空を掴むほどに長かった。その目と手の届く範囲の者達が幸福だったのであれば、それ以上は望み過ぎというものだろう。
ただ、リィは、実に意地悪そうに目を細めて、冗談めかした口調で言った。
「ウォル。そもそもお前、誰にも負けなかったんだろうな?」
それに答える少女の瞳は真剣な光りを湛えている。
そして、言った。
「俺は闘神の娘の夫だ。ならば、誰にだって負けてやるものか。そんなことでは、いずれ天の国に召されたときに叩き返されてしまう。もう一度生まれ変わって、勝つまで帰ってくるな、とな」
それはまるで、近所のガキ大将に喧嘩で負けた子供を焚きつける父親のような台詞であったが、しかし戦女神と謳われた王妃がその夫の尻を蹴飛ばすには、これほど相応しい台詞もないようだった。
内心はともかく、もしかしたらそんなことを言ってしまうかも知れないなという自覚のある当の王妃は、肩を竦めて憮然としていた。
シェラは、その様子を見ながら、くすくすと忍び笑いを漏らす。彼の肌には、自分がいる部屋の空気が、まるで煌びやかなあの王宮のそれに変化したように感じていた。
「まぁ、とにかく俺は死んだ。あの世界での役目を終えてな。最後の瞬間は、まだ覚えているよ。暗くなって、静かになって、全ての感覚が遠ざかる中で、声が聞こえたんだ」
「声?」
「俺は、お前の声だと思ったよ、リィ」
はにかむように、少女は微笑んだ。
まるで、可憐な薔薇が一輪花開いたような、輝くような微笑だった。
「懐かしい声だった。それがな、俺を呼ぶんだ。こっちだぞ、早く来い、待っているから、とな」
「おれはお前を呼んだ覚えはない」
勝手に黄泉路の案内人にさせられたリィは、緑柱石色の瞳を不本意そうに顰めさせて、言った。その拍子に大きく肩を竦めたので、彼の黄金色の髪が大きく波打つ。
ウォルは、広い部屋の中に、陽光をたっぷり受けた綿布に似た、柔らかな香気が振りまかれるのを感じた。
「おれが死にかけたお前を見つけたとして、誰がその案内を引き受けるもんか。おれだったら、それこそお前の尻を蹴っ飛ばして、嫌だって言っても生き返らしてやるのに」
「おい、俺の幻想を壊すなよ。これでも、お前にはそれなりの理想をもっていたんだぞ。何せ、40年も会わなければ、思い出の人というのは相当に美化されるものらしいからな」
「ふーん、じゃあ幻滅したか?」
「ある部分においてはな。そして、残りのほとんどは納得した。やはり、お前がリィだ。どうやらあの優しい誰かさんは、お前の偽物だったようだな」
噛み付き合うような獰猛な笑みが、これ以上ない親愛の証である。その点だけは、どれほど長い年月の暴虐も、変えることの出来ない不変のことらしかった。
「とにかく、俺は呼ばれた気がした。そして、どこか暖かいところを漂っていて、そこで長い間微睡んでいた、気がする」
気がする、というのは、ウォル本人も詳しいことはわからないからである。
「そして……気がついたら、この世界にいた。それだけだ」
「嘘はいけないよ、王様」
部屋の隅の方から、ウォルの声でもリィの声でもない、もう一人の天使の声がした。
その気配に今の今まで気がつかなかったシェラは、文字通りに飛び上がる寸前まで驚いて、声のした方を見遣った。
そこには、彼のよく知る顔があった。
しかし、それは彼の初めて見る、顔であった。
驚愕したシェラは、彼の姿を見て、二の句を継げなくなってしまっていた。
「ルウ……いたのですか」
「うん。こんばんは、シェラ」
黒髪に青い瞳を持つ優しげな青年は、力無く笑った。
ソファに腰掛けることもなく、部屋の隅で片膝を抱えながら蹲った人影は、リィの相棒である、黒い天使その人だった。勿論、シェラにとっても大切な友人であり、幾度となく主と自分の危地を救ってくれた恩人でもある。
なのに、シェラにはその人が、自分の知るルーファセルミィ・ラーデンには到底思えなかった。
それは、まるで墨の濃淡だけで描かれた、古代の絵画のようであった。
いつもは無垢な輝きに満ちた蒼玉色の瞳には色濃い憂いが満ちており、曇天に荒れる鈍色の海面のようだ。ただでさえ透き通るような白皙の肌は、血そのものが巡っていないように思えるほどどこまでも青白い。微笑みがあらわすのも彼の感情ではなく、消えゆく生命の儚さのようですらある。
今のルウからは、『生』というものが、決定的に欠落していた。
だから、それは生者ではなかった。
亡者。
地獄の底辺を、永遠に訪れぬ救いを求めてただひたすらに彷徨う死人。彼の様子は正にそれだった。
その上、彼を飾る蠱惑的な美から、腐りかけの果物や食虫植物が放つ甘ったるい香りが漂う気すらした。その香りは、決していつものルウには相応しく無い。いつもの彼は、例えば上手に焼き上げた小麦菓子のような、胸を梳く甘い香りが漂っているはずだったのに。
シェラは、あまりに痛々しいその様子に、思わず目を逸らした。そして、隣に座ったリィに、こっそり耳打ちをして尋ねた。
「あの、リィ、ルウはどうしたのですか?」
「おれが知るわけないだろ。知ってたらなんとかしてる」
「……そういえばそうでしたね。……でも……あんなルウは、初めて見ました……」
「当たり前だ。あんなのが、いつものルーファであってたまるか」
リィは、全く声を落とさずに、家中に響き渡るような声で言った。
それを聞いたルウは、ひっそりと微笑みながら言った。
「あんなの、は酷いよエディ。これだって、僕の一部だ」
「じゃあ、それはさっさと引っ込めて欲しい。おれは、そんなルーファは見ていたくない」
「うん、さっきから僕も頑張ってるんだけどね」
ルウは、両足を抱えるように座り直し、そして顔を両膝に押し付けるような姿勢のまま動かなくなってしまった。それはいじけた小学生が自分の殻に籠もったときの様子に似ていた。
そんな様子の彼に、この場にいるただ一人の少女が声を掛けた。
「ラヴィー殿。先ほどの言葉は聞き逃せんな。俺が嘘つきとは、どういうことだ?」
ルウは、顔を上げずに、籠もったような声で答えた。
「言葉通り。だって王様、大事なこと、話してないじゃないか」
「大事なこと、とは?」
重ねて問うその言葉に、ルウは、ゆっくりと顔を上げた。
それを見たシェラは、自らが思い違いをしていた事に気がついた。
これは、亡者ではない。
これは、罪人だ。
自らの手と足に、決して千切れない鉄錠をぶら下げた、罪人。彼を罰するのは、他でもない自分自身。彼の責め苦を喜ぶのも自分自身。だから、彼は決して許されない。
ルウから漂ってくる妖気は、一度だけ彼が血に狂った、あのときのそれに近い。しかし、そこまで刺々しくはないものの、その分もっとべったりとして、擦っても擦っても落ちない泥炭の塊をなすりつけられたような不快感がある。
正しく呪いと形容するのが相応しい穢れた気を放ちながら、どんよりとした調子で、青年は言った。
「ねぇ、王様。その子の魂は、今、どこにいるの?」