懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

132 / 156
第百十三話:ブッチャー

 ウォルのMMAの試合会場であるアヴェイロ中央体育館は、大変な熱気であった。

 『ティラボーンMMAコロッセオ』と銘打たれたノボリがあちらこちらに掲げられ、体育館の入り口の前には列もできている。

 チケットは前売り完売、当日券も開場前にほぼ売り切れという盛況ぶりである。

 『ティラボーンMMAコロッセオ』という興行自体は、お世辞にもそれほどレベルの高い試合が多いとはいえない。どちらかというと、素人に毛が生えた程度の荒くれモノや、問題を起こして所属団体から切られた一癖ある選手などを集めて、話題性と集客力を重視して行われるような興行である。本当の意味でその競技のナンバーワンを決める大会とは、レベルが一線を画している。

 しかし、話題性と集客力が上がれば、必然、選手に支払われるギャラも上がるので、最近は他の団体の一線級の選手が出場することもしばしばといった具合だ。

 普段からそれなりに盛況するイベントであるが、しかし今回は、明らかに普段より観客の数が多い。それに、普段は格闘技には興味などないだろう、若い少年少女の顔が目立つのだ。

 理由は一つではないのだろうが、最も大きな理由が、この大会に出場する、ウォルという少女への興味であることは間違いなかった。

 TBSBのキャスターとして人気急上昇中の美少女である。その美少女が格闘技の大会に出場するだけでも話題になるに違いないが、何とこの少女は、男性として試合に出場するというのだ。

 普通なら、無謀な挑戦として一笑に付される。というよりも、興行主が許可しない。何故なら、こういった大会において最も忌避されるのは選手の怪我だからだ。

 打撲や捻挫程度なら別に構わない。格闘技の試合なのだから、それくらいは選手にとっても日常茶飯事である。

 しかしそれが骨折や筋断裂、意識不明の重傷、最悪死亡事故などになれば話は別だ。

 契約の際に、そういった事態が発生した際の、主催者の法的責任の免責は明記されており、選手も同意と上でリングに上がるのだとはいっても、社会的責任や道義的責任まで免れうるかとえば、必ずしもそうとは限らない。何らかの形で、今後の活動に制約が課せられることも考えられる。

 だからこそ主催者は、選手のマッチメイクに腐心する。体格や年齢、経験年数や試合歴などを総合的に勘案し、観客が十分に盛り上がりつつも選手の安全がある程度保証されるよう、試合を組んでいくのだ。

 であれば、今回のウォルのように、仮に自分の性自認は男性なのだと主張しても、身体は年端もいかない女の子の選手を、男性選手とマッチメイクすることが、主催者にとってどれほどリスクを背負い込むこととなるだろうか。

 普通なら、絶対に出場を拒否するだろう。それが常識的な判断である。

 だが、今回は少し事情が異なる。

 まず、ウォルのバックにはTBSBが──連邦大学における有力なマスメディアがいるのだ。そして、今回の大会におけるウォルの試合を、TBSBが中継するのだという。

 当たり前のことだが、テレビが中継する試合となれば、そうでない試合と比べて、世間の注目度が桁違いになる。そして注目度が上がるということは、スポンサーが付きやすくなるということだ。また、スポンサー料も、普段とは桁違いに跳ね上がることが期待できる。

 加えて、大会自体の知名度が上がれば、今後有力な選手を招聘しやすくなり、そうすれば次回は、より大きな規模で大会を開催できるかも知れない。

 つまり、上手く立ち回ることさえ出来るなら、今後の大会運営に凄まじい好循環が期待出来るのだ。無論、絵に描いた餅に終わる可能性はあるが、それでも普段は、雀の涙のようなスポンサー料とチケット代から、選手へのファイトマネーやら運営経費やらを捻出している主催者側からすれば、正しく夢のような話である。

 加えて、ウォルには様々な噂がある。TBOの金メダリストであるレオン・オリベイラを一撃でKOした、やはり有力選手であるセム大学のディル・クレイグをスパーリングで寄せ付けなかった、おそらくかなりの尾鰭がついた話ではあろうが、主催者にとって重要なのは、そういうバックボーンがある選手ならば、少々の事故であれば、ある程度の自己弁護が可能だということだ。

 それでもなお、多くの興行主が、ウォルの試合申し込みを断った。常識的に考えれば、それが当然である。血を見るのを慣れた観客も、野獣の生餌になる少女を見物に来るわけではない。少女と男子選手の試合など発表しようものなら、とんでもない非難の嵐が発生するのは目に見えている。

 だが、『ティラボーンMMAコロッセオ』は元々、ある程度の力量差があるマッチメイクを頻繁に組んでおり、例えば素人の喧嘩自慢がプロに叩きのめされ血の海に沈む様子などをPPVで放映していたりする。ある意味、血に飢えた顧客がメインターゲットなのだ。であれば、ウォルが仮に同じような目に遭わされたとしても、批判を躱す自信があったのかもしれない。

 そういった様々な思惑のもと、ウォルの試合は決定した。主催者側からは、最初は女子選手とのマッチングを提案されたが、これはウォルが拒否したので、結果的には主催者側が折れて、ウォルと同年代、同程度の体格の男子選手との試合が決定した。

 

「おれとしては、もっと身体の大きな、大人の男が相手の方が望ましかったのだがな」

 

 選手控室の床にうつ伏せに寝転がったウォルは、今日のセコンドを引き受けてくれたクレイグのマッサージを受けながら、不服そうに言った。

 クレイグは苦笑して、

 

「フィナくんの場合、相手を怪我させないように注意する必要があるかもしれないね」

 

 なかば本気でそんなことを言った。

 それに対してウォルは真剣な調子で、

 

「クレイグどの。試合とは言え、これは勝負だ。そのような心持では、相手が誰であろうと、いつかは足元を掬われる。油断は禁物だ」

 

 まるで熟練の選手のような調子で言った。

 これには、クレイグも内心で反省した。ウォルの言うことはもっともである。相手がどんな選手かは事前の情報がほとんどないが、ただ一つ言えることは、相手も必死の思いでこれまで練習を積み、この試合に賭けているということだ。その覚悟を見誤っては、例え地力でウォルがどれほど上回っていようとも、結果がどう転ぶかはわからない。

 クレイグは表情を引き締め、

 

「きみの言うとおりだ。油断せず、確実に勝ちに行こう。何せ、きみの目標は、共和宇宙MMAリーグのチャンピオンベルトだ。そこまで連戦連勝を目指すなら、絶対にこんなところで蹴躓くわけにはいかない」

 

 緊張感のある声で言った。

 ウォルもその声に頷き、身体を起こす。

 

「マッサージはもう十分かい?」

「ああ。今度は、軽くウォーミングアップに付き合ってくれるとありがたい」

 

 クレイグは頷き、荷物の中からパンチングミットを取り出そうとした。

 その時、

 

「ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン選手。ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン選手はおられませんか」

 

 スタッフが自分を呼んでいる声に、一瞬自分のことだと思わなかったウォルが、少し慌てた様子で振り返った。

 そういえば、この大会も、TBSBのステージネームと同じく、あちらの世界の本名を使っていたのだった。

 我がことながら間抜けなことだと、ウォルは内心苦笑する。

 

「はい、わたしがウォル・グリーク・ロウ・デルフィンです。なんの御用でしょうか」

「ああ、よかった。試合前に申し訳ありませんが、大会本部までお越しください」

 

 突然の呼び出しに、はて何事かと、ウォルとクレイグは顔を見合わせた。

 

 

「対戦相手の変更……ですか」

 

 役員控室に呼び出されたウォルは、目をぱちくりさせながら、大会執行役員の男の言葉に聞き返した。

 見た目40台の、ずいぶん恰幅の良い体形の男だった。だが眼光は鋭く、身にまとう雰囲気もどこか堅気ではない、そんな空気がある。

 その、一言で言い表すならば、厳つい雰囲気の男が、ウォルを見下ろしながら尊大そうな調子で言う。

 

「ああ、デルフィン選手と対戦予定だったマイク・タニオス選手が急な体調不良でね。かといって、きみの試合はTBSBが中継予定だ。穴をあけるわけにはいかない。申し訳ないが、了承願いたい」

「まぁ、それは別に構わんが……代わりに、おれは誰と戦うことになるのだ?」

 

 ウォルが小首をかしげながら、当然の質問をすると、

 

「急遽の話で我々も苦慮したのだがね、運よくきみの対戦相手に相応しい選手を見繕うことができた」

 

 役員の男の返答は、どこか決まりが悪いような、歯に物が挟まったような、言いにくそうな調子で返す。

 その言葉に、何か、不穏なものを感じ取ったクレイグが、

 

「対戦相手のプロフィールは?当然、そのくらいのことは我々にも知る権利があるはずだ」

「……残念ながら、対戦相手は、こういった試合に出るのは初めての選手だ。そういう意味では、ヴァレンタイン選手もこれがデビュー戦だ。見合いの戦績と言えるだろう」

「では、年齢は?身長と体重は?それくらいはわかっているのでしょう?」

 

 重ねて問うクレイグの質問を聞いても、役員の顔は渋いままである。

 クレイグは、なんだか嫌な予感がした。大体、フィナ・ヴァレンタインという異質な存在が、男子格闘技界に殴り込みをかけているのが現在の状況である。

 無論、無名の女子選手が、身の丈を弁えずに男子大会に挑戦するくらいでは、こういった問題は起きないだろう。適当な相手と戦わせて、身の程を知らせてやればいいだけだ。

 しかしウォルは、レオン・オリベイラとディル・クレイグという、男子MMA界隈でもそれなり以上に名の通った有名選手を、二人も撃破している。跳ねっかえりの女子選手が息を巻いているのとはわけが違う。

 当然、そのことを面白く思わない人間の一人や二人はいるだろう。将来的に、何かの利権を侵されると、危機感を覚える人間もいるかもしれない。

 そういう意味では、有形無形の嫌がらせや障害があって当然なのに、今までがうまくいきすぎている感はあったのだ。

 

 ──ここで、この子を潰しに来たか。

 

 クレイグは直感で悟った。

 

「では、名前は?対戦相手の名前くらいはわかっているのでしょう?」

 

 なおも食らいつくクレイグに、役員の男は心底鬱陶しそうな表情を隠そうともせず、

 

「何をそんなに必死になっているのかね。試合は、あと一時間もすれば行われる。名前を知っていようがいまいが、今更何が変わるというわけでもあるまい」

「だからといって、相手はこちらの情報を知っているのに、こちらが相手の名前も知らないというのはアンフェアだ。違いますか?」

 

 必死に問い詰めるクレイグに、流石に根負けしたのか、役員の男は渋々といった調子で口を開いた。

 

「……デルフィン選手の対戦相手の名前は、アントニオ・ガレオンだ」

 

 役員の男の言葉に、クレイグは一瞬、我が耳を疑った。

 それは、到底、この程度の規模の大会に──というよりも、こういった表の大会に出場する選手の名前ではなかったからだ。

 いや、あの男は、選手というカテゴリに含めてよい人間ですらないはずだ。

 思わず、役員の男に聞き返していた。

 

「アントニオ・ガレオンって……あの『ブッチャー』ガレオンか!?本気か!?いや、正気か、あんたら!?この小さな女の子と、あの『ブッチャー』を戦わせようっていうのか!?」

 

 普段は冷静なクレイグが、顔を真っ赤にして抗議する。

 しかし役員の男は、少なくとも表面上は冷静な素振りで、

 

「しかしデルフィン選手は、あくまで男性としてこの大会に出場している。この場合、性別を理由に抗議するのはおかしな話なのではないかね?」

 

 傲慢そうな調子でそう言った。

 しかし、クレイグは、怒り心頭の有様で抗議を続ける。

 

「屁理屈を捏ねるな!もし彼女が身体的な意味でも男性だったとして、まだ中等部の子供だぞ!選手の安全を預かるセコンドとして、こんな危険極まるマッチメイクは認められない!」

 

 明らかな怒気とともに吐き出されたクレイグの台詞に、役員は傲然とした様子で、1枚の書類を取り出した。

 そして、まるで何かに怖がっているような、妙に早い口調で言う。

 

「君達がこのマッチメイクに納得出来ないならば、試合を棄権してもらっても一向に構わんよ。ただし、出場申込の際に署名してもらった誓約書に記載がある通り、体調不良のように本人に責任がない場合を除いて、欠場した場合に生じる団体への損害は選手側が補償することとなっている。今回はデルフィン選手が出場することで本大会がテレビ中継されるわけだが、そのためか今回のイベントでは多額のスポンサー料が集まっている。もしもデルフィン選手が欠場してテレビ放送がなしということになればスポンサー料の返金義務が我々には発生するわけだが、当然その補填も補償対象となることには留意して欲しい」

 

 ひらひらと書類を見せびらかすようにして、役員の男は己の正当性を誇示する。

 しかしそのこめかみに、細い脂汗が一筋流れ落ちるのを、ウォルは見逃さなかった。

 あるいは、この男も、誰かに脅されてこの事態の狂言回しの役割を押し付けられたのかもしれない、そう思った。

 

「加えて言うならば、選手が正当な理由により欠場となった場合の補欠選手の選定は、主催者に委ねられている。その場合の選定基準は、あくまで『戦績が同程度と認められる選手』としか記載がない。今回のデルフィン選手の試合は、特別マッチだからね、階級別に体重が定められている正規の試合と異なり、ある程度の体重差ならば主催者判断で試合を組むことが出来る。少なくとも、書類上はね」

 

 クレイグは信じられないといった調子で食らいつく。

 

「『ブッチャー』とこの子が同程度の戦績だと!?この子はまだデビュー戦だぞ!」

「君がいう『ブッチャー』が具体的に誰のことかは分からんが、少なくともウォル選手の対戦相手の公式試合の戦績は、これが間違いなくデビュー戦だ。その点、嘘偽りはないはずだよ」

 

 そう言われて、クレイグは一瞬口籠った。確かに、クレイグの記憶が正しければ、『ブッチャー』は、こういった表の試合の出場経験はないはずだ。

 しかし、そうでない試合──表に出ない、いや、出すことができない試合は、数え切れないほど出場しているはずである。

 到底、デビュー戦の選手とあてがってよい対戦相手ではない。

 クレイグは再び抗議の声を上げた。

 

「だいたい、ある程度の体重差だと!?『ブッチャー』とこの子では、少なくとも三倍以上の体重差があるはずだぞ!それをある程度で済ませるつもりか!?」

「そんなこと私に言われても分からんよ。ただ、それを判断する立場の人間は、そう判断したのだろう。だから、君達にそう伝えている」

 

 役員の男は、クレイグを小馬鹿にするような調子で肩を竦めた。

 怒りが頂点に達したクレイグは役員の男に詰め寄ろうとしたが、他ならぬウォルがそれを制止した。

 

「クレイグどの。すまんが、事態をうまく飲み込めん。説明してもらえるとありがたい」

「フィナくん……」

「とにかく、私は伝えるべきことは伝えたからな。あとは勝手に判断すればいい」

 

 そう言い捨てると、役員の男は、どこか怯えたような調子で扉の向こうへと立ち去った。

 空になった役員室に、ウォルとクレイグがポツンと残された。

 開け放たれた扉に向けて舌打ちしたクレイグがウォルの方に向き直り、

 

「……少し説明に時間がかかりそうだ。いったん、控室に戻ろう」

 

 

 僕があの男を見たのは、二年前だ。

 ちょうどセム大学に入学して、MMA部に籍を置いた頃だよ。

 出稽古に行かせてもらったんだ。

 フィナくんは、プロフェッショナル・レスリングってわかるかな。もっと短く、プロレスなんて言われたりもするね。

 簡単に説明すると……人によって色んな意見があるんだろうけど、ある程度筋書きがある格闘技だ。

 ショービジネスに特化した格闘技と言い換えることが出来るかも知れない。

 有り体に言えば、試合が始まる前に、どちらの選手が勝つかが決められているっていうことだ。

 もちろん、そうじゃない試合もあるが、基本的にはそうだ。

 どちらの選手が勝った方が盛り上がるか、ドラマチックか、突き詰めて言えば金になるか、それを判断したプロモーターが、あらかじめ試合の勝敗を決める。

 そういう世界がある。

 そのジムに、出稽古に行ったんだよ。泊まり込みのね。

 セム大学の先輩が、そのジムに所属していたから、その伝手でね。

 みんな、凄く真剣にトレーニングしていたことに驚いた。

 そして、とてもハードなトレーニングだった。

 正直、もとから勝ち負けの決まっている試合しかしないような連中なら、トレーニングもなまっちょろいだろう、そんな甘い考えを抱いていた自分が恥ずかしくなるほどだった。

 どの世界でも、プロを名乗って飯を食う人間がどれほど厳しい環境で鎬を削っているのか、分からされた思いだった。

 先輩も、そんな僕を見て笑っていたよ。僕の内心など、最初からお見通しだったんだろう。

 とにかく、1週間もそのジムに泊まり込ませてもらって、ようやく厳しいトレーニングにも身体が慣れて、選手の皆さんの顔と名前が一致した頃合いだったかな。

 ジムに設えられたリングの上で、口論が始まったんだ。

 リングの上で、そのジムを主催するプロレス団体の花形選手と、まだデビューしたての若手選手が、何事かを言い争っていたんだ。

 端々しか聞き取れなかったが、どうやら次の試合の段取りについて揉めているようだった。

 稼ぎ頭の花形選手と若手選手のプロレスだ、当然、勝つのは花形の選手に決められている。その若手選手を余程売り出したいとか、特別な理由があれば別だけどね。

 その時は、余程の理由はなかったらしい。

 つまり、若手選手は、わざと負けなければならない。それが、試合を取り仕切るプロモーターの意向だった。

 その若手選手は、どうやらそのことが不満だったらしい。

 

「俺にはMMAの試合で十分に実績がある。それを、お前みたいに弱いやつに負けるなんて納得出来ない」

 

 そんなことを言っていたと思う。

 確かに、僕はその若手選手に見覚えがあった。当時の共和宇宙MMAリーグで、10位以内に入っていた選手だ。それも無差別級。

 格闘技マニアの認識からすれば、この広い宇宙で十指に入る強い男ということになるかも知れない、そういう選手だった。

 ただ、素行が悪かった。

 この業界ではよくある話だが、酒が入った状態で厄介筋のファンに絡まれ、そのまま乱闘騒ぎ、何人かを病院送りにしてしまったんだ。

 しかも悪いことに、その大怪我を負わされたファンが、マフィア組織の関係者だったらしくてね。

 それで当時所属していたジムから契約を切られ、マフィア組織に筋を通すかたちでプロレスの世界に拾われた、そういう選手だった。

 実力は、もちろん折り紙付きだ。プロレスの世界でも十分通用する。

 それに、そういう選手には、プレミアがある。そういう実績のある選手を、花形選手がリングの上でやっつけるから、試合は盛り上がる。プロレスは強いって思わせることが出来る。そしてその人気を、熱気を、金に換える。

 プロレスっていうのはそういうものだ。

 ならば、ある程度、負け試合を組まされるのも仕方ない話だ。

 もちろん、その若手選手だって、我慢してそういう試合をこなしていけば、間違いなく実力はある選手だ、人気も後から付いてくるだろうし、そうなればプロモーターも美味しい役を割り振ってくれるだろう。

 それくらいのことは、その選手もきっと理解していたはずだ。

 だが、プライドが邪魔したのか、それとも余程業突く張りだったのか、相手が所属団体のトップスター選手だったとしても、ただで負けるということが我慢出来なかったらしい。

 

「もしも俺に勝ちを譲って欲しければ、もっとファイトマネーを寄越せ」

 

 そんなことを言っていた。

 後から聞いた話だが、その選手のわがままは、どうやらこれが初めてのことではなかったらしい。それまでも何度か、プロモーターの意向に沿わない形で、試合の約束事を破って平然としていた、その世界の基準からすれば相当に問題のある選手だったみたいだ。

 今までは、それが許されていた。なぜなら、その選手が強いからだ。いくら勝ち負けが決まっている勝負とはいえ、勝負の世界で、本当に強い選手が一目置かれるのは当たり前の話だ。

 加えて、その選手が勝つことで、将来花形選手と試合を組ませたときに試合が盛り上がるだろう、ならばある程度のやんちゃには目を瞑ろう、プロモーターにもそういう腹づもりがあったのかもしれない。

 だが、試合相手が当の花形選手となれば、絶対にその選手を勝たせるわけにはいかない。そんなことをしてしまえば正しく本末転倒、その団体そのものが立ちいかなくなる。

 実は、そういった事態は、プロレスの世界では別に珍しいことではないらしい。格闘技の選手なんて、腕に自信があって当たり前、我の強い人間の集まりみたいなものなんだから、全員が全員、プロモーターの指示を従順に守るなんてことのほうが、逆にありえない。

 かといって、そんな選手のわがままを放置していては、組織のほうがもたなくなってしまう。

 だから、そういう場合は、普通、各団体にいるポリスマンに、お鉢が回ってくることになる。

 ポリスマンっていっても、当然、本物の警察官のことじゃないよ。

 どちらかというと、バウンサー……用心棒みたいな役割の人間だと思ってもらうとわかりやすい。

 内部的に言うなら、その時のケースみたいに、きかん坊の若手が組織の方針に反する態度をとった時に、力にものを言わせて業界のルールを叩きこむ。時には痛い目にあわせたり、見せしめに大怪我をさせたりする。 

 外部的に言うなら、例えば他の団体や業界の人間が道場破りみたいなことをしてきたときに、彼らの出番になる。身の程知らずの道場破りを叩きのめして、軽くても骨の一本や二本を折って、ジムから叩き出す。ケースによったら、命を奪うこともある。

 そういう汚れ仕事をする人間が、だいたい、どの団体にも、何人かいる。実力はあるのに華がないから人気が出ない選手とか、試合は引退したけど実力は衰えていない選手とかが、その役割を負うことが多い。

 加えて言うなら、そういう人間なら、万が一負けたとしても、団体の花形が負けるわけじゃないから、団体としても負う傷は小さくて済む。

 色んな意味で、都合がいいんだ。

 当然、僕が出稽古に行ったジムにも、そういう怖い人間が何人か、いた。みんな、暗い、どこか爬虫類を思わせる目をしていたことを覚えている。

 だから、普通なら、そういう人間──ポリスマンが、その若手選手を適当に痛めつけて、この問題は手打ち。そういう流れになるはずだった。

 だが、その時はそうならなかった。

 理由は単純だ。その若手選手が、強すぎたんだ。

 並みいる団体子飼いのポリスマンを、片端から倒してしまった。それも、本来ならポリスマンがするように、骨の一本二本を折ってのける、そういうダーティーなやり方でだ。

 もうこれは、いよいよプロモーターとしても見過ごせなくなってくる。このままその若手選手にやりたい放題させてしまっては、団体の秩序が完全に崩壊してしまう。

 そうなってくると、選択肢は三つだ。

 一つは、その若手選手の言うことに唯々諾々と従って、若手選手をトップに据えて団体を再構築し、運営する。無論、そんなこと、できるはずがない。

 一つは、その選手を馘にして、全てをなかったことにする。ただしその場合は、馘になった若手選手の口を塞がないと、団体の威信が地に落ちることになるから面倒だ。

 そして最後の一つが、外部のより腕の立つポリスマンを招聘する……。

 そういう人間がいるんだよ、この業界にはね。表立ってはどこの団体にも所属せず、こういう厄介な事態が起きた時だけ呼ばれる、特殊な人間が。僕も、その時に初めて知ったんだけどね。

 もちろん、普通は、そんな、身内の恥を外に晒すようなことは、どこの団体だってしない。できればしたくないのが本音だろう。

 しかし、その時のように、にっちもさっちも行かなくなったとき、誰かが埒をこじ開けなくちゃいけなくなったとき。

 それなりの金銭で雇われて、外部のポリスマンが動く。

 その男は、『アントニオ印のブッチャーデリバリー』って呼ばれてたよ。

 ブッチャーって、意味、分かるかい?

 肉屋とか、屠殺人とか、そういう意味が一般的だね。

 ただその男は、食肉解体人、そういう意味で、自分をブッチャーと名乗っていた。

 その意味は、その後、すぐに分かったよ。

 その男がね、のそりと、リングに上ったんだ。

 すごく、特徴的な体格の男だった。

 まず、大きい。巨人と言ってもいい。いろんな意味でね。そう、きみの知り合いで、すごく体の大きな人がいたよね。ヴォルフさんだっけ?あの人より、単純な身長だけなら、更に大きかったと思う。

 そして、頭が、顔が、異常に大きいんだ。普通、上背がある程度以上になると、全体に占める頭部の割合は下がっていくものだ。9頭身、10頭身に近い人間もいる。だがその男は、おそらく6頭身ほど、もしかするとそれよりも頭が大きいんじゃないか、それくらい頭が大きかった。

 おそらく常人の倍くらい、顔が大きいんだよ。つるりとした頭で、髭がナマズみたいに生えてて、目がぎょろりとしている、そんな巨大な顔だ。

 その大きな顔が、これまた異常に太い首を介して、テーブルみたいに肩幅の広い上半身と繋がっている。さらに、背中の僧帽筋が山のように盛り上がっていてね、頭から肩にかけて、のっぺりとした二等辺三角形みたいになっているんだ。

 それに、腕が異常に長い。おそらく気を付けの姿勢になれば、向こうずねに指がつくんじゃないか、それくらいに長い。

 転じて、足はひどく短い。でも、ずっしりとした、コンクリートの土台みたいな足だった。それを、窮屈そうに、色あせたぼろぼろのジーンズに詰め込んでいるんだ。ぱんぱんの、内側から張り裂けそうな、ボンレスハムみたいな感じでね。

 その男の全身を視界にようやく収めたとき、思い浮かんだのは、バランス・トイ──ある地方ではヤジロベエなんて呼ばれたりするけど、あのシルエットだ。あのシルエットの両腕を、これでもかっていうくらいに太くして、人間の形に成形すれば、きっとあの男みたいな体形になる。

 それとも、ファンタジー映画にでてくる小鬼──ゴブリンを、全体の縮尺そのままに、巨人サイズに拡大すれば、その男のフォルムに近いかもしれない。

 一目でわかる。普通の人間じゃないってね。

 そんな男が、のそりとした様子で、リングに上がったんだ。

 上半身は裸、大胸筋が、内側でゴム風船を膨らませたみたいにせりあがっていて、腕の筋肉は大きなボールいくつか、むりやり接合したみたいに、ぼこぼこに膨れ上がっている。特に、肘から先、前腕部分の筋肉が異常に発達していたように思えた。

 普通、筋肉の発達した人間を見れば、ごついとか、がっしりしているとか、そういう形容詞が思い浮かぶものだ。僕たちみたいに格闘技にそれなりに精通していれば、どういうトレーニングでその筋肉を育てたのか、その筋肉でどういう技を繰り出すことができるのか、ある程度想像もつく。

 けど、あのときは違った。いったいどういうふうにトレーニングすればあんな畸形の筋肉になるのか、想像もできなかった。あの筋肉が、いったいどういうふうに動くのか、どれだけの馬力を発揮するのか、想像もできなかった。

 人間じゃない。そう思った。

 異形の生き物だったよ。

 その姿を見た花形選手は、きっとあらかじめ全てを説明されていたんだろうね、特に驚くでもなく、さっとリングを降りた。

 残されたのは、若手選手と、その異形の男──ブッチャーだ。

 若手選手は、いったい何が起こっているのか、一瞬わからないような顔だったけど、すぐに事態を察したみたいだった。

 今までも、ポリスマンを何人も返り討ちにしているんだ。度胸は相当据わっていたんだろう。目の前の、到底常人とは思えない人間を見ても、動じず、不敵な笑みを浮かべていた。

 

「こりねぇなぁ、あんたらも。次は、このおっさんってわけだ」

 

 若手選手はそう言って、アップライトに構えた。いつ目の前の男が襲い掛かってきても対応できるようにだ。

 だがその男は、目の前で構えた若手選手に視線を寄越すこともなく、リングサイトにいたプロモーターの方を見て、のんびりとした声で言ったんだ。

 

「何か月?」

 

 そう、何か月って聞いたんだ。

 最初は、まったく意味が分からなかった。

 でも、後から教えてもらったよ。

 あれはつまり、全治何か月かを聞いていたんだ。目の前の選手に、どれだけの怪我を負わせるつもりなのか、言い換えれば、どこまで痛めつけていいか、それを聞いていたんだ。

 プロモーターは、当然それを理解していた。

 軽く頷き、

 

「もうその男はいらん」

 

 そう言った。

 その言葉を聞いたブッチャーの、気味の悪い、にたりとした笑みは、今でもたまに夢に見る。

 例えば、虫の足を一本一本引きちぎって、少しずつ痛めつけて殺すのが好きな子供が、新しい獲物を見つけたときに浮かべるだろう、笑みだった。理性のストッパーを取り払われた、人間という生き物の最も残虐な部分がそうさせるだろう、笑みだった。

 ブッチャーはその笑みを顔にへばりつけさせたまま、若手選手の方に向き直った。

 そして言った。

 

「五分だ」

 

 ごふん。ゴフン。五分。

 その言葉が、ファイブミニッツ、300秒のことを言っていると、少し遅れて理解した。

 若手選手も、一瞬遅れてそのことを理解したんだろうね、怪訝そうな声で問い返した。

 

「五分ってなんだよ、おっさん」

 

 ブッチャーはにたにたと嗤いながら、

 

「五分、好きにしていいぜ」

 

 そう言ったよ。

 若手選手は、相変わらず怪訝な調子で問い返していた。

 

「好きにしていい?」

「そう、好きにしていい。殴っても、蹴っても、投げても、極めても、俺の体を自由にしていい。たった五分間だけね。そう言っているんだよ」

「……正気か、おっさん」

「正気かそうじゃないかで言えば、どっちなんだろうねぇ。こんなこと、普通の人間なら

言わないだろうからねぇ。それに、狂ってるとか正気だとか、いったい誰が決めるんだろうねぇ。神様だって、そんなこと、わからないよねぇ。ただ一つ言えるのは、こんな会話をしてる間にも、秒針はどんどん進んでいっているってことさ。きみのボーナスタイムは、少しずつ短くなってるんだよ。いいのかい?今なら、俺のこと、したい放題なんだよ?なら、こんな会話をしている時間がもったいない、俺ならそう思っちゃうなあ……」

「──!」

 

 そんな会話をしていたと思う。

 そして、若手選手が、少しずつ間合いを詰めた。当然、ブッチャーの言っていることが本当かどうか、わからない。そんなことを言っておいて、無防備に突っ込んできたらカウンターを食らわせる、それも十分にありうる話なんだから、若手選手の対応は間違えていない。

 それでも、ブッチャーは全然動かなかった。ただ、じっとり湿った笑みを若手選手に向けて、突っ立っていた。

 次に若手選手は、牽制のジャブを放った。ダメージを与えるのが目的じゃなくて、相手がどう動くか、それを測るための攻撃だ。もしも僕が彼の立場でも、おそらく同じ攻撃をしたと思う。

 そしたら、そのジャブは、あっけなくブッチャーの顔面に、思い切り突き刺さったんだ。

 どんなに軽いって言っても、格闘技のトップ選手の攻撃だ。しかも、その時、その若手選手はグローブをつけていなかった。つまり、素手だ。

 鍛え上げられた素手の拳が顔面に突き刺されば、それがジャブであっても、相当のダメージになる。素人ならその一撃で鼻の骨が折れ、間違いなく昏倒している。

 だがブッチャーは、まるでハエが鼻先をかすめた調子で微笑み、言ったんだ。

 

「残り四分」

 

 鼻に思い切り拳が当たってるのに、鼻血一つ流していなかった。

 たまにいるんだよ、殴られすぎて、鼻の骨がなくなってしまっている人間がね。そういう人間は、鼻が変形するくらい思い切り殴られても、鼻血が流れないんだ。

 そしてそういう人間は総じて、おそろしく打たれ強い。タフだ。

 若手選手も、そのことに気が付いたみたいだった。そして、どうやら本当に、ブッチャーが、約束の時間まで無抵抗に徹するだろうことにも。

 それからはめちゃくちゃだったよ。

 若手選手は、息が続く限り攻撃の手を緩めなかった。

 拳で、肘で、膝で、足で、額で、ブッチャーを攻撃し続けた。

 技術もくそもない、駄々っ子が手を振り回すようなありさまで、攻撃を続けた。

 もちろん、一発一発が、一流選手の打撃だ。素人なら、下手すれば命がない。そういう攻撃だ。

 それを、本当に無防備に、ブッチャーは受け続けた。

 当然、顔はあっという間に血まみれになった。ずぐずぐの血袋みたいになった。最低限、目への攻撃とかは、軽く顔を傾けることで躱していたみたいだけど、ほとんどやられっぱなしだった。

 もちろん、股間への攻撃もあった。だが、ブッチャーはちっとも効いている様子がなかった。もしかしたら、睾丸を体内に隠す技術を持っていたのかもしれないし、それ以外かもしれない。とにかく、股間への攻撃は全然痛がっていなかった。

 この男には、痛覚がないのか。そう思うくらい、なんともない様子だった。

 そして、そこにいるのが当然みたいに、足と地面が固定されてるみたいに、そこに立っていた。

 

「あと三分……」

 

 割けてピンク色の肉が覗く唇で、嬉しそうにそう言った。

 その時点で、流石に若手選手も異常に気が付いたのか、怯えのこもった視線で、辺りを見回した。まるで、そこに、例えばお父さんやお母さんがいて、自分を助けてくれるんじゃないかって期待しているみたいに。

 その様子を見たブッチャーが、本当に嬉しそうに、にんまりと嗤ったんだよ。

 

「駄目だよ、誰もきみを助けてくれないよ。それに、逃げるのも駄目だよ。もしも背中を向けたりしたら、その時点でボーナスタイムは終わりだからね……」

「……」

 

 若手選手の顔が、気の毒なくらい引きつっていた。

 さっきまであんなに強気だった人間が、数分でここまで追いつめられるのかと驚くほど、明確に怯えた表情だった。

 そして、呼吸の調子もおかしかった。激しい運動で呼吸が乱れているんじゃない。多分恐怖が原因だろう、嗚咽みたいに、ひきつけを起こしたみたいな、そんな呼吸を繰り返しているんだ。

 僕は、謝れって思ったよ。謝ってしまえ、土下座して自分の非を詫びろ、もう二度と逆らいません、これからは言うことを素直にききますから許してくださいって、そう泣き叫べって。

 そうすれば、もしかしたら、助けてもらえるかも知れない。ブッチャーが許してくれなくても、プロモーターが、さっきの、『もうその男はいらん』っていう言葉を取り消してくれるかも知れないってね。

 でも、彼は分かっていたんだろうね。そんなことをしても無駄だって。

 

「おや、もう二分しか残っていないねぇ……」

 

 ブッチャーの言葉がきっかけだった。若手選手に残されていた、最後の理性がはじけ飛んだ。

 なんと若手選手は、ブッチャーの喉元に嚙みついたんだ。ブッチャーの上半身に身体をうずめ、まるで抱きつくような姿勢で。

 普通、喧嘩で相手に思い切り噛みつくのは、子供までだ。大人になったら、そんなことはしない。できない。羞恥心とかもあるだろう。相手が大怪我をしてしまうだろう気遣いもあるかもしれない。

 つまり、そういう人間的な感情のすべてが、彼の脳みそから消え失せてしまったんだろうね。

 だが、ブッチャーは、その様子を、慈しむような優しい笑みを浮かべて見守っていた。

 

「おっ、いいねぇ、ようやく本気になってくれたのかな?」

 

 若手選手は、本気で噛みついていた。それは間違いない。

 しかし、ブッチャーの首からは、一筋の血も流れていなかった。分厚い筋肉が歯を通さなかったのか、それともあの男は、皮膚までも人間のそれじゃなかったのか、それはわからないけど。

 

「最後、一分……」

 

 その声で、若手選手は弾かれたみたいに顔を上げてね、ついにブッチャーから飛び離れて、そして背を向けたんだ。

 逃げ出したんだよ。

 もうだめだ、絶対に残り時間でこの男は倒せない。そして、時間が切れたら、自分は殺されてしまうに違いない。そう思ったんだろうね。

 だから、逃げるってのは、唯一彼に残された選択肢だったんだと思うよ。

 でも、駄目だった。背を向けた草食獣は、肉食獣の爪と牙の餌食になるのが、自然界の掟だ。

 ブッチャーが、顔が崩れるみたいな、にゅるんとした笑みを浮かべてね、手を摑まえてたんだ。

 

「駄目だよ、逃げちゃ。俺、ちゃんと忠告したよね。だから、悪いのはきみだよね。つまり、もうボーナスタイムは終わりでいいってことだよねぇ……」

「ご、ごめんなさい、ゆるして……」

「いいんだよ、謝らなくて。きみは、何一つ悪いことをしていないんだからね。でも、順番ってあるよね。きみの順番は終わって、次は俺の番だってことだよね。きみは、好きなようにやってくれたんだ。だから、俺も、好きにやらせてもらうね……」

 

 ブッチャーは掴んだ腕を強引に引き寄せて、もう片方の手で、若手選手の肘の辺りを掴んだんだ。

 そして、力まかせに捻じったんだよ。

 関節がある場所じゃない。まっすぐな前腕だ。そこを、雑巾でも絞るみたいに、思い切り。

 

 めきゃっ!

 

 すごい音が聞こえたよ。

 初めて聞いた音だった。そして、二度と聞きたくない音だった。

 皮膚が、筋肉が、骨が、一気に捻じ切られる音だった。

 若手選手は、一瞬、自分に何が起きたかわからない顔をしていた。ぶらんと、歪に曲がって伸びきった自分の腕を、夢を見るような視線で眺めていたよ。

 そしてその表情が、少しずつ、少しずつ、泣き出す寸前の幼児みたいに歪んでいって、人の顔がこんなに歪むのかって思った頃合いに、凄い声で泣いたんだ。

 

「いぎゃあああぁぁぁ!」

 

 肺を絞り出すみたいに泣き声を出して、それからまた胸が倍に膨らむくらい息を吸い込んで、また泣いて。

 大の男が、こんな声で泣くんだって、ぼんやりと僕はそんなことを考えていた。

 でも、それはまだ手始めだったんだ。

 こねるっていう動作、あるだろう?

 パンをこねる、粘土をこねる、そういうやつだ。

 あれを、人間にできるんだって、初めて知ったよ。無論、そんなこと、知りたくもなかったけどね。

 長いところを、折りたたんで、短くするんだ。

 尖ってるところを、引きちぎって、なだらかにするんだ。

 それを、人の体にしていたんだ。

 時間にして、五分くらいかな。ちょうど、ブッチャーが若手選手に好き放題させてあげてたのと同じくらいの時間だったと思う。

 そしたら、そこに、丸いものが出来上がってたよ。

 それが五分前まで人間の形をしていたなんて信じられない、そういう形だった。

 まだ、生きていた。もう、泣き叫ぶこともできない。細く、今にも途切れそうな呼吸で。それが彼にとって、幸運だったのか不運だったのか、それはわからない。

 そしたら、ブッチャーはね、リングの横から、ちょっと大きめのボストンバッグを取り出して、その丸いものを、中に詰め込んだんだ。

 

「じゃあ、ギャラはいつもの口座で……」

 

 そう言って、バッグを無造作に担いで、上半身裸の血まみれのまま、ジムを出て行ったんだ。

 当然、その後、その若手選手の話は聞かなくなった。業界では、その話題に触れるのはタブーになってしまったみたいだった。

 僕も、それとなく口止めをされた。僕は、一も二もなく従ったよ。もしも自分があんな目に遭わされる可能性があるなら、例えこねられたのが自分の肉親だったとしても、僕は誰にも話さなかったかも知れない。

 それが、僕の見た、ブッチャーという男だ。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。