懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第百十四話:試合開始

 控室の片隅で語り終えたクレイグの顔には、色濃い恐怖が浮かんでいる。そして、同じくらいの疲労感もある。

 現役の強豪総合格闘技選手であるこの男をして、思い出すだけでその表情を作らせるほど、それは衝撃的な出来事だったのだ。

 無言のウォルは、ペットボトルの水を、椅子に腰かけたクレイグに差し出した。クレイグは疲れた顔で微笑み、受け取った水で、少し喉を潤した。

 憔悴したような様子でうなだれたクレイグは、しばらくしてから顔を持ち上げ、目の前に立ったままのウォルに語り掛ける。

 

「この試合は棄権しよう。損失の補填が云々ほざいていたが、あんなのただの脅しだ。契約書や誓約書にどう書かれていても、こんな試合を成立させることのほうが犯罪的だ。もし仮に裁判になったとして、絶対に負けない。逆に、無謀な試合を強いようとしたとして、賠償金を勝ち取れるだろう」

 

 クレイグはウォルの両肩に手を置き、真摯な調子で言う。

 

「フィナくん、きみの強さは十分に理解しているつもりだ。それでも、僕には、きみがブッチャーに勝ち目があるとは思えないんだ。いや、勝ち目がないだけならいい。そういう試合も、いつかは挑まなければいけない日が来るかも知れない。でも、主催者は──いや、主催者の裏にいる誰かは、確実にきみを潰そうとしている。重篤な傷を負わせ、きみの人生を台無しにしようとしている。その思惑に、わざわざこちらから乗ってやる必要はない」

「クレイグどのの言うとおりだ。敵の思惑にわざわざ乗るのは危険で愚かな行為だ。それは、おれも重々理解している」

 

 ウォルは、黒い瞳に強い輝きを帯びさせて、正面からクレイグを見据える。

 そして続ける。

 

「おれには、卿の言う男がどれほど強いのか、恐ろしいのか、分からない。だが、クレイグどのがそこまで仰るのだ、決して楽な戦いにはならないのだろう。それはおれも承知している。それでも、もしも勝ち目がないのだとして、なお挑まない戦いがあるのだとすれば、それに挑むべきなのは今日だ。今日、おれは何としても勝たなくてはならないのだ」

「……どうしてだ。どうして、きみはそんなに勝ちに拘るんだ。こんな小さな興業の、ランキングにも何の影響もない、チャンピオンベルトがかかっているわけでもない、そんな試合に、どうしてそんな覚悟で挑まなければいけないんだ」

「強い男が、おれの前に立つからだ」

 

 ウォルの両の手が、ぎしりと音を立てて、強く握られる。

 強い想いを圧縮して固めるように、強く握られる。

 その圧縮された想いが、少女の体内を通り、漆黒の瞳から強い輝きとなって放たれている。

 クレイグには、そう思えた。

 

「その男が見上げるほどに大きく、卿にそんな顔をさせるほどに恐ろしく、そしてそれほどに知られた剛の者ならば……おれが勝てば、その様子は皆の知られるところになるだろう。おれの名は、この宇宙に轟くだろう。おれは、そうしたいのだ。一刻も早く、この宇宙で、おれの名前を知らない人間が誰一人いないようにしたいのだ」

「……どうしてだ。最初からきみは言っていた。この宇宙で一番有名な人間になりたい、と。それが目的なのだ、と。名誉欲か、承認欲求か、それとも自己顕示欲か。ふん、くだらない。そんなもののために命をかけようというのか」

 

 クレイグはそう言いながら、しかしウォルという少女のまっすぐな瞳を見て、先ほど口にしたいずれの欲望も、この少女を戦いへと駆り立てる原動力ではないことを理解した。

 この美しい少女。見目麗しい少女。人の目を引き付けて放そうとしない輝きに満たされた少女。

 彼女は、何かのために戦っている。それはきっと、自身のためではない。自分以外の、誰か大切なもののために戦っている。これからも戦おうとしている。だからこそ、今、目の前の戦いから背を向けるわけにはいかないのだ。

 例えば、我が子を守るために戦う雌獅子のように。例えば、民衆を守るために戦う勇者のように。例えば、祖国を守るために戦う軍神のように。

 そう理解した。

 クレイグには、もはやウォルを説き伏せる言葉はなかった。

 

「そうか……わかったよ。きみが何のために戦っているのか、それはいずれ教えてもらおう。ただ、一つだけ教えてくれ。きみがそうしてまで戦う理由は、きみが命をかけるに値する、そういうものなんだね?」

 

 クレイグの問いに、ウォルは力強く頷いた。

 無言で頷いた。

 クレイグは悟った。この少女に、退却するという選択肢はないのだ、と。どのように説得したとしても、彼女は死地へと赴くのだと。

 無知な子供が、意地や興奮で、危ない遊びに手を出すのとはわけが違う。この少女は、目の前に差し迫った戦いの危険を十分に理解している。そして、命をかけるという行為の意味も理解している。

 それでも戦おうというのだ、誰がそれを止められるだろう。

 

「わかった。だが、一つだけ約束してくれ。もしも戦って、無理だ、敵わないと思ったら、その時はギブアップする、と。例えそれが、どれほど恥だと思っても、情けなくても、意地では死なない、と。きみがその意思を見せてくれれば、僕がなんとしても試合を止める。もしも僕がブッチャーにこねられることになっても、きみだけは助けてみせる。約束する。だからフィナくん、きみもそれを約束してくれ。」

「クレイグ殿を危険に晒すわけにはいかん」

 

 クレイグは微笑みながら首を横に振った。

 

「いいかい、フィナくん。セコンドの役割は色々だ。選手のサポート、助言、流血を止めるなんていう仕事もある。でも一番重要な役目はね、選手を無事にリングから降ろすことだよ。きみが僕より強いことは理解している。でも、今日は僕が、きみのセコンドだ。そのセコンドの役割を、存在意義を、きみは奪おうというのかい?」

 

 無理して作ったのだろう、悪戯げな微笑みを浮かべて、クレイグがそう言った。

 ウォルは一瞬逡巡したが、

 

「わかった。もしも勝ち目がないと悟ったら、試合を放棄する。クレイグどのに助けを求める。それでいいのだな?」

 

 クレイグは嬉しそうに頷き、椅子から立ち上がった。

 そして、右こぶしを、ウォルに向けて差し出した。

 一瞬その意味が分からなかったウォルだったが、にやりと微笑み、自身の小さなこぶしをそこに合わせた。

 

「じゃあ、行こう。そろそろ試合だ」

 

 

『会場の皆様にお知らせします。次の、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン選手とマイク・タニオス選手の特別試合ですが、マイク・タニオス選手の欠場により、対戦相手が変更となります』

 

 そんな場内アナウンスが流れた。

 リングサイドで、ウォルの試合の撮影準備をしていたノーマンが、怪訝な表情を浮かべる。

 

「フィナくんの試合の対戦相手が変わる?そんなこと、聞いていたか?」

 

 カメラを構えるモーリッツが首を横に振る。

 首には、報道機関関係者であることを示す、取材パスがかかっている。それはもちろん、ノーマンも同じだ。

 

「いや、聞いていない。だが、こういう試合ではままあることではある。ただその場合、補欠選手も事前にアナウンスされているものだが……」

 

 報道担当に配布されているパンフレットに、そういった記載は一切ない。

 ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンという選手の顔写真、簡単なプロフィールやデータが記載されている横に、対戦相手だったはずの、マイク・タニオス選手の、同じくプロフィールやデータが記載されている。

 それを見ると、ほぼウォルと同じくらいの、体格や戦績の選手のようだ。性別が男性、女性という違いがあることを除けば、見合いの選手と対戦カードが組まれた、ノーマンはそう理解していた。

 そして、ウォルの実力からすれば、その程度の相手に負けることはないだろう。いや、勝負は水ものだから、もしかしたら負けることはあるかもしれないが、重大な事故が起きるようなことはないだろう、と。

 ある意味では、安心して取材の準備を進めていた。

 今回の試合は、『スポーツスチューデントトゥデイ』の放送時間の中で、生中継を予定しており、そのように事前広報も完了している。かなり異例の放送だ。関係各所との調整にも苦労させられたが、それだけの価値のある映像になる、そうノーマンは確信していた。

 事実、今の段階で、『スポーツスチューデントトゥデイ』の視聴率は、通常時のそれよりかなり高いらしい。試合が始まる大体の時間は告知しているが、それでも、他の試合の進捗状況によっては、試合時間はかなり前後する。だから、画面の前で、ウォルの試合が始まるのを今や遅しと待ち構えている視聴者が多いのだろう。

 女性が、男性の格闘技の試合に参戦する。それだけで話題性には事欠かないのに、ウォルには、まるで彼女がそういう星のもとに生まれたように、とてつもない華がある。

 容姿の美しさ。人の目を引き付ける所作。高い知性を感じさせるキャスターぶり。

 加えて、レオン・オリベイラというスター選手を倒したという実績。そして、SNSで報復戦を挑んできたレオンを返り討ちにした手腕。

 単純にウォルという少女に集められている注目は、おそらく、TBSBという組織に所属する人間の中で、今や飛びぬけた存在だと言わざるを得ない。

 そんな彼女の試合を中継するのだ。いつもは控えめで冷静なノーマンでも、嫌が応にも気合が入る。

 

「ところで、フィナちゃんの、変更後の対戦相手は誰なんだろう。可能なら放送で事前告知をしておいたほうがよくないか?」

 

 カメラを担いだモーリッツのもっともな意見に、ノーマンは頷いた。確かに、視聴者のほとんどはウォルの試合として今回の放送を見るのだろうが、対戦選手の関係者だって当然いる。その場合、その関係者に対して、対戦カードが変更されたことは、やはり知らせておくべきだ。

 

「ぼくが大会本部に確認に行こう。モーリッツはここで待っていてほしい」

 

 そして本部席に向かおうとしたノーマンだったが、その瞬間、新たな場内放送が流れた。

 

『お伝えします。先ほどお知らせしたウォル・グリーク・ロウ・デルフィン選手の特別試合の補欠選手は、アントニオ・『ザ・ブッチャー』・ガレオン選手に決定しました。直前の決定となったことをお詫び申し上げます……』

 

 怪訝な顔で放送を聞いていたノーマンが、実は格闘技オタクのモーリッツに質問する。

 

「アントニオ・『ザ・ブッチャー』・ガレオン……モーリッツ、聞いたことはあるかい?」

 

 モーリッツは、お手上げといった表情で首を横に振った。

 

「いや、まったくだ。そもそも、このレベルの興行の特別試合、しかも補欠選手だぞ。これがデビュー戦であってもおかしくない。そんな選手のデータは、流石の僕も持っていない」

 

 なるほど、言われてみれば当然の理屈である。ノーマンは、ある種の安堵とともに頷いた。

 もしかすると、このタイミングで、例えば圧倒的に格上の選手をぶつけてきて、放送を台無しにするようなことになるのではないか、そんな危惧が頭をよぎったのだ。

 だが考えてみれば、『ティラボーンMMAコロッセオ』の主催者側としても、TBSBの取材にはそれなり以上のうま味があるはずだ。事実、PPVの売り上げも、普段のそれの倍近くになっていると聞いている。

 今回の試合がうまくいけば、ウォルを囲い込んで、これから彼女メインのイベントを開催することもできる。潰すメリットなどどこにもないはずである。

 ノーマンは安堵のため息を吐き出し、プレス席へと戻った。

 そしてモーリッツと最後の打ち合わせをする。

 そんなことをしている間に、ウォルの前の試合の決着がついた。タックルからの寝技の応酬、そして一瞬の隙を見逃さなかった勝利選手が、相手の顔面に鉄槌を振り下ろし、それでKOとなったようだ。

 レフェリーに右手を挙げられて勝ち名乗りをした選手が、嬉しそうな歩調で、試合場である金網に囲まれたリング──オクタゴンと呼ばれる──から出ていく。負けた選手も、セコンドに肩を貸されながら、うなだれた様子で出ていく。これで、オクタゴンは空になった。

 そして、しばしの休憩時間があって、それから会場の照明が落とされた。一気に、手元もおぼつかないほどの暗闇に包まれる。

 その中で、オクタゴンにスポットライトがあてられる。蝶ネクタイにタキシードの司会者が、マイクを片手に、観客に向けて宣言する。

 

『それでは『ティラボーンMMAコロッセオ』、本日の特別試合を行います。赤コーナー、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン選手の入場です』

 

 軽快なロックミュージックが流れ、赤コーナー側の選手入場口から、ウォルが姿を見せる。

 腰まで届く黒髪は結い上げて、後頭部でお団子にしている。前髪は試合の邪魔にならないよう、クリップで額のあたりで留めている。

 上半身はみぞおちから上を覆うタンクトップ、下半身は試合用のトランクス。両手にオープンフィンガーグローブ。それ以外、なにも身に着けていない。

 少女には些か似つかわしくないほど見事に割れた腹筋が覗いている。

 美しい。だがそれ以上に、凛々しい立ち姿だった。

 そんなウォルが、軽快にステップを踏み、射るような視線を前に向けながら、花道を歩いてくる。

 

「モーリッツ、撮れているな?」

「当たり前だ。歴史的な瞬間だぞ、逃してたまるものか」

 

 この二人は、ウォルがレオン・オリベイラを倒すところを、生の現場で目撃している。ウォルという選手が、こんな小規模な大会で収まる器でないことを、誰より知っているといっていい。

 きっとこの選手は遠くない将来、もっと大きな舞台で、焼けつくようなスポットライトの下、この共和宇宙でもっとも価値のあるチャンピオンベルトを腰に巻くことになるだろう。今、この試合をただの見世物だと考えている人間のすべてが、自分の考えが浅はかだったことを思い知ることになるだろう。それは二人にとって、確定した未来図だった。

 ならば、この試合は、その輝かしい未来への第一歩ということになる。その資料的価値、映像的価値は計り知れない。万が一にも撮り逃したり、下手な映像を残すわけにはいかない。

 それは、ノーマンの、ジャーナリスト的な使命感と言ってもよかった。

 そしてウォルのリングインが終わり、オクタゴンに立ったウォルに、シャワーのような拍手と歓声が浴びせられる。ウォルは片手を挙げることでそれに応えた。

 次に、スポットライトが、青コーナー側の入場扉に当てられる。

 

『青コーナー、アントニオ・『ザ・ブッチャー』・ガレオン選手の入場です』

 

 オオン、と、腹の底に響くような低音の入場曲が鳴り響く。先ほどの、ウォルの時の、軽快なロックミュージックとは対極的な音調だ。

 そして、扉を、身を縮こませて潜るように入ってきたのは、おそらくこの会場にいる全てが見たことがないほど、恐るべき巨躯の男だった。

 まるで、おとぎ話の悪役を割り振られた巨人のように。ある種の大型類人猿のように。ゲームの世界だけにいる怪物のように。

 その巨大な男は、むっつりとした調子でそこに立っている。視線をどこにやるでもない。目の前のオクタゴンすら目に入っていないような、あいまいな視線である。

 上半身は、派手なアロハシャツ。下半身は、膝上までが隠れる、ぼろぼろのジーンズ。服装だけで言えば、ちょっとそこのコンビニに行く若者のような、ありふれた格好だ。決して、これから格闘技の試合をするように思えない。

 その男が、いきなり、思い切り胸をはり、肩を後ろへと反らした。そして大きく息を吸い、胸を膨らませた状態で、今度は上半身を前に折り曲げ、背中を膨らませたのだ。

 

 びりぃっ!

 

 大きな音とともに、アロハシャツの背中部分が、見事に裂けていた。それも、繊維の方向に沿って綺麗に裂けたのではない。布を無造作に割いたときに出来る、雷模様のような線を残して、シャツがぼろ布に化けていたのである。

 大男は上半身を覆っていた、かつてアロハシャツだったぼろ布を、淡々とした様子で引きちぎり、己の体躯をあらわにした。

 誰しもが目を見張る肉体だった。

 パワーリフティングの選手でもここまでは不可能だというほど盛り上がった大胸筋、異形へと変貌するほど鍛えられた上腕、前腕の筋肉、巨大な手のひら。

 腹は極端にくびれ、しかし腹筋の陰影が、オフロードバイクのタイヤのようにぼこぼこと、これでもかというくらいにはっきりしている。

 下半身は短く、しかし太もも回りなど、普通の成人男性の胴回りの倍ほどもあるのではないか、そんな有様。

 そして、極端に腕が長く、顔が大きく、横に広がった体形。上半身ではなく、全身で、逆三角形を形作っている。

 それは、人の形ではなかった。

 例えば、棍棒を持って襲い来る人食い鬼。例えば、金棒を持った地獄の獄卒。

 それは、現実にありうる形ではなかった。物語の悪役にだけ割り振られて相応しい、形だった。

 その男が、のそりと、禿頭を片手でかりかりと搔きながら、花道を歩いてくる。

 むっつりとした表情だ。これからスポットライトの下で戦おう、そういう、高揚感とか緊張感といった感情が見えない。

 ただ淡々と己に割り振られた役割をこなす、職人の顔だった。

 観客は、先ほどウォルがしたような拍手も歓声も上げることができず、ただ、困惑していた。

 この大男が、あの可憐な少女と戦うのか?あの無骨な金網で囲われた、オクタゴンの中で?

 ありえない。あるはずがない。あってはならない。

 まるで悪い冗談を言われたような、手の込んだどっきりに担がれているような、そんな空気が観客席を満たしている。

 

「なんだ、これは……」

 

 カメラを構えたまま、モーリッツが呟いた。

 カメラを異様な大男に向けながら、しかし呆然とした様子で、我を忘れなような調子で、呟いた。

 

「正気か、フィナちゃんに、こんな男と戦わせるつもりなのか……」

 

 モーリッツの、普段は温厚そうな顔に、次第に義憤による怒りが満ちていく。

 彼も理解したのだ。大会主催者側の意図を。今から目の前で行われるのが、試合に名を借りた、処刑なのだということを。ブッチャーのことを知らない彼ですら、はっきりそう確信するほど、目の前の光景は常軌を逸していた。

 モーリッツは、カメラを肩に担いだまま、思わず立ち上がった。

 

「ノーマン!大会本部に行こう!この試合をなんとしても止めるんだ!僕たちには、フィナちゃんの先輩として、その義務がある!」

 

 もしかしたら自分の声が放送で流れているかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。

 そして見下ろしたノーマンは、しかし、いつもの気の弱そうな青年といった調子ではなかった。

 冷静に、強い視線で、オクタゴンを見つめていた。

 

「ノーマン……」

「フィナくんは、諦めていないぞ」

 

 一言、そう言った。

 モーリッツは、再度オクタゴンに視線を遣る。

 既に青コーナーから、ブッチャーは入場を完了している。オクタゴンで、少女と反対側に立ち、その威容を少女の前に晒している。

 ウォルからすれば、自分に倍する巨人が目の前に立っていることになる。

 普通なら、怯える。少なくとも、その視線に困惑の色が混じる。試合直前になって対戦相手が変わり、自分と同程度の体格のはずの対戦相手が、こんな化け物に差し替えられたのだ。それが当然の反応である。

 だが、ウォルの視線のどこにも、そういった色はない。ただ、視線で射殺すように、己の対戦相手である巨人を睨みつけている。

 いつもの、凛々しいウォルの視線だった。

 そして、ウォルがレオン・オリベイラを倒してのけた時の、あの視線だった。

 

「フィナくんは、この試合を投げていない。勝つつもりだ。それなら、僕たちがするべきことはなんだ、モーリッツ。僕たちだけが慌てふためいて、主催者に抗議することか。違うだろう。僕たちがするべきなのは、この試合を映像に収めることだ。少なくとも、フィナくんが勝利するかギブアップするまでは。それが、ジャーナリストの端くれとしての、我々の義務だ。違うか、モーリッツ」

 

 いつもの気弱な様子などおくびにも見せず、ノーマンはそう言い切った。

 手は、震えている。震えた手を顔の前で組み、まるで祈りを捧げるように、オクタゴンを見上げている。

 人が変わったのではない。ノーマンは、相も変わらず線の細い、優しい青年のままだ。そして、優しい青年のまま、覚悟を決めてこの試合を見守る、その結果を伝えるつもりなのだ。

 モーリッツは自身にたまった圧力を下げるように一つ息を吐き出し、再びカメラを構えた。

 

 

 リングの上で、二人の肉体が、正面から向き合っていた。

 ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン。身長152cm。体重51kg。

 アントニオ・『ザ・ブッチャー』・ガレオン。身長235cm、体重282kg。

 大人と子供、どころではない。

 巨人と小人、大型肉食獣と小型草食獣、大型トラックと軽自動車……。

 比喩はいくらでも思いつくが、とにかくそれくらいに体型が違う。到底、今からこの二人が、このリングの上で、文字通りの殴り合いをするとは思えない。

 そんな二人が、無表情で、お互いを眺めている。ウォルは下から見上げ、ブッチャーは上から見下ろしている。

 リングは、四角ではない。オクタゴン。文字通り、八角形だ。そしてそれをぐるりと、背の高い金網が囲っている。

 そんな、無骨で容赦ない空間で、二人は相対してある。

 あり得ない。普通は、どうしたって組まれることのない対戦カードだ。あり得ていいカードでもない。

 しかし、現在進行形の事実として、それは行われようとしているのだ。

 観客席から聞こえる歓声にも、色濃い困惑がある。

 そも、格闘技と呼ばれる競技と、それ以外の競技では、観客の本質は根本的に異なると言っていい。

 『◯◯の格闘技』、そう呼ばれる競技は数あれど、それらの競技と本当の意味での格闘技には、大きな隔たりがある。つまり、前者は、競技の目的は別にあり、その過程の中で怪我やアクシデントがあるかも知れないのであり、後者は選手が傷つき倒れることそのものが目的となっているということだ。

 必然、観客が求める光景も異なってくる。

 普通のスポーツでは、観客は選手同士の激しい激突などの刺激あるシーンを求めていたとしても、その結果として、選手が血の海に沈むことまでは求めていない。そんなことがあれば、言葉を失い、目の前の光景が信じられない、そんな顔をするに違いない。

 だが格闘技の観客は、選手が傷つき倒れるシーンをこそ求めている。それが衝撃的であれば衝撃的であるほどいい。鋭いパンチを顔面にもらったボクサーが、糸が切れた人形のようにうつ伏せに倒れるシーンなど、会場が割れるような歓声で、観客は喜びを表す。

 それでも、限度というものがある。血に飢えた観客も、例えば罪人の処刑を娯楽として楽しんだ中世世界の住人のように、ただ人が傷つくことを、血が流れることを楽しんでいるわけではない。

 あくまで、高い水準で鍛え上げた技術、パワー、精神力、それらが拮抗し、競い合い、その結果として、勝負が、出来るだけ衝撃的なかたちで決着することを望んでいるのだ。

 では、今からオクタゴンの上で行われようとしているのは、どちらなのか。中世の処刑か、それとも近代スポーツか。

 少なくとも、後者には見えない。体重、経験年数、キャリア、それらを出来るだけ合わせて、完全な公平は無理でも可能な限り公正であることを良しとする近代スポーツの常識からは、大きく外れていると言わざるを得ないのだ。

 つまり、今から自分達の目の前で行われようとしているのは……。

 

「いや、あり得ないでしょ。エキシビションマッチだよ、きっと。ウォルちゃんの顔を売るために、あんな相手となんちゃっての試合させようとしてるんだよ」

 

 観客の誰かが、まるで希望的観測を口にしたように、それとも、そんなことでも言わないと何かとんでもなく恐ろしいことが目の前で起こってしまうかと思っているかのように、そんなことを言った。

 だが、誰もその言葉に頷かない。ただ、緊張と困惑の入り交じった視線で、オクタゴンの上の二人を見守っている。

 先ほどの台詞を口にした誰かも、まるで救いを求めるように両隣の観客に視線を彷徨わせ、それから、諦めたような視線で、再度オクタゴンを見遣った。もう、何を口にすることも出来ない、そんな様子だった。

 そんなふうに観客が見守る、丁度中央で、ウォルとブッチャーがレフェリーに促されて、オクタゴンの中央に歩み寄る。

 二人の間にレフェリーが立ち、反則の説明などをする。

 それを遮るように、ブッチャーが嗤う。

 

「いいって、そういう細かいのは……」

 

 何が反則で、何をしたらいけないか、そんなことなど、弁えている。そして、今更守るつもりもない。だからあらためて言うな。そんな口調だった。

 普通なら、選手がこんな非礼な態度を取れば、審判はそれを厳しく注意する。場合によっては反則を取り、相手にポイントを与える。反則負けだってありうる。決して、選手の横暴を許さない。そうでなくては、試合がコントロール出来ないからだ。

 だが今回の試合に限って言うならば、レフェリーは、大会運営から強く言い含められていることがある。

 曰く、ブッチャーには逆らうな。

 この選手が何を言っても、対戦相手に何をしても、試合を止めるな。試合を止めるのは、この男が満足した時だ。それまでは、リングの上で彫像になっていろ、と。

 このレフェリーも、プロである。それで飯を食っている。当然、職業的倫理観もあるし、プロフェッショナルとしての誇りもある。通常なら、そんな脅しをされても屈することはない。

 だが今回については、提示された報酬──当然、表だって支払われるギャラではない、裏から支払われる、税金もかからない金だ──と、破った時のペナルティ──自分や家族の身の安全に関わる話だ──が大き過ぎた。人を上手く動かすにはアメとムチというが、この場合はそれが上手く作用したと言うべきだった。

 だから、審判は黙った。

 その様子を見て、ブッチャーは嬉しそうに頷いた。

 

「良かったよ、ザックちゃんは、約束、守ってくれたみたいだね。そうじゃないと興が覚めちゃうからね。面白くなくなっちゃうからね……」

 

 ぼそりと言った。

 辛うじて、レフェリーと、ウォルの耳に届くくらいの、声だった。

 そして、ウォルの遥か頭上から、ウォルに対して話かけた。

 

「何分だ?」

 

 ウォルは、己の遥か頭上にあるブッチャーの、ぎょろりとした視線を正面から受け止めながら、はっきりとした声で問い返した。

 

「それは、おれが貴様を好きにしていい、その時間のことか?」

 

 一瞬、ブッチャーの目が、不思議そうに見開かれる。きっと、何分とはどういうことか、それを聞き返されると思っていたのに、相手が自分の意図をくみ取っていたことが、珍しいことだったのだろう。

 だが、一瞬遅れて、にんまりと微笑う。

 

「へぇ、俺のこと、知ってるんだね。誰だろうね、俺のことをきみに教えたおしゃべりさんは……」

 

 刹那、ブッチャーの目に怖いものが籠ったが、しかし本当に一瞬のことだった。

 ウォルを見下ろし、気分がよさそうに続ける。

 

「でも、話のとおりが良くて助かるよ。そう、きみの言うとおりだ。まずは、きみに好き放題させてあげるよ。別に、これはきみが女の子だから特別サービスっていうわけじゃない。俺が、そういうのが好きだから、俺と戦うみんなに提案しているんだ。気に食わなければ断ってもらっても構わない」

 

 そういうふうに二人が会話している間に、観客席が少しざわつき始めた。

 普通、レフェリーの確認が終われば、すぐに試合が開始する。それ以外、例えば選手が口論を始めた場合でも、レフェリーがそれをコントロールして、試合を開始させる。

 だが、二人が、別に口論をするふうでもなく淡々と会話をして、レフェリーもそれに口出しする様子もない。

 スムーズな試合進行をレフェリーの仕事の一つであると考えるならば、一種の職務放棄と取られても仕方ない、そんな様子である。

 だから、観客がざわつき始めたのだ。

 そんな観客を、まるで愛おしいものを見るように、ブッチャーはぐるりと見回す。

 

「でも、どんなに長くても五分だ。五分以上は駄目だよ。だって、せっかくこんなに盛り上がってる会場で遊ばせてもらえるんだ。あんまり一方的な展開が続くと、お客さんがだれちゃうからね……」

 

 どうする、と、問うような視線をウォルに寄越す。

 ウォルは鋭い視線のまま、

 

「一発だ」

 

 はっきりとそう言った。

 まるで、きっとブッチャーからそういう申し出があることを事前に予想していて、返答は決めていた、そんな雰囲気の言葉だった。

 これにはブッチャーが怪訝そうな表情を浮かべて、

 

「一発?」

 

 普段とは逆に、そう問い返した。

 ウォルは頷いた。

 

「せっかくの申し出だ。無碍にするのも心が痛む。だから一発だけ、思い切り殴ろう。それで十分だ」

「それだけでいいの?本当に俺を好き放題できるんだよ?たった一発でいいの?そんなの勿体ないじゃない。もっと、そうだね、せめて一分くらいはどう?」

 

 まるで自分が痛めつけられることを望むように、懇願するように、作り笑いを浮かべたブッチャーが言う。

 セールスマンが、商品をもう2セット買ってくれれば30パーセントオフにしますよ、そんな営業トークをするときに浮かべるような、作り笑いだ。

 だが、ウォルはそれ以上応えない。己の言葉を翻す必要性を見出さない、はっきりとした意思表示だった。

 ブッチャーが、残念そうにため息を吐き出した。

 

「わかったよ。一発だけだ。一発だけ、殴られてあげるよ。そしたら、後は好き放題だ、お互いね」

 

 無言のウォルは背を向け、自分のコーナーへと戻っていった。

 その後ろ姿を見ながら、自分もコーナーへと戻るブッチャーが、誰に言うでもなく呟いた。

 

「後悔しないといいね。あの時、もっと長い時間を言っていればよかった、ってね」

 

 そしてゴングが鳴った。

 

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