懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第百十五話:両雄怪物

 ブッチャーは、オクタゴンの反対側にいるウォルに向けて、のそりと歩を進めた。

 そしてそれは、ウォルも一緒だった。無造作に無遠慮に、まるで何を警戒するでもなく、悠々と歩を進め、ブッチャーに歩み寄ってくる。

 両手で顔面をガードするではない。ステップを踏んで相手を幻惑しようというのでもない。

 すたすたと、例えば駅の改札口で向こうから知らない誰かが歩いてくるかのように、躊躇のない、無警戒な体勢で。あるいは、背中からそよ風が吹いていて、その風と同じ速度で歩くかのように。

 

 ──あれ、この子、本当に俺のこと、ただ殴るつもりなんだ。

 

 ブッチャーはそう思った。

 戦いではない。戦いならば、それに相応しい構えや気配がある。

 それが、今のウォルには、ない。

 自分を殴らせてやると言った当のブッチャーが、思わず逆に手を出したくなるほど無防備に、歩み寄ってくるのだ。

 つまり、ウォルは、ある意味でブッチャーを信頼しているのだ。そんな姑息な手を使わない、使う必要のない男だと、ブッチャーを認めているのだ。

 

 ──なんだ、この子、良い子じゃないの。

 

 ブッチャーは、思わずにんまり、良い笑みを浮かべてしまった。もう幾年浮かべた記憶のない、爽やかな気持ちがそうさせる、笑みだった。

 そこまでされては、こちらもその信頼に応えなければいけない。ベビーフェイスとかヒールとか、そういう細かいことじゃなくて、この世界で飯を食う人間として、それが最低限の礼儀であると思った。

 ブッチャーは背を折り曲げて巨体を縮こませ、その巨大な顔面を、ちょうどウォルの殴りやすい高さにしてやる。

 

「ほら、これでいいだろう……」

 

 奇貌に微笑みを浮かべたブッチャーが、睦言を囁くように言う。

 その様子を見たウォルも、優し気に微笑み返し、軽く頷く。

 そして、ブッチャーの前でその足を止めた。

 当然、その立ち位置は、すでにブッチャーの長い腕の間合いである。殴る掴む投げる、なんでもできる距離だ。

 だが、ブッチャーは動かない。ただ、嬉しそうに顔を突き出し、ウォルを見つめているだけだ。

 異様な光景だった。少なくとも、総合格闘技というジャンルの戦いで、普通見られる光景ではない。

 流石に、観客にも、今行われているのが普通の試合でないことがわかった。オクタゴンの二人は、二人にしか理解できないルールの中で、戦おうとしているのだと。

 果たして、どんなルールで戦おうとしているか、それはわからない。だが、二人が只者でないことは理解できる。そして、只者でない二人が戦うルールなら、それは只事ではないのではないか……。

 得体の知れない期待が、リングサイドの観客たちに広がっていく。その期待が、一つ後ろの席の観客に感染する。そして、少しずつ、たまらないような、堪えきれないような緊張感が、会場を満たしていく。

 その期待に応えたわけではないだろう、ウォルはブッチャーの眼前で、右拳を自身の顔の前に構え、そのまま腰を大きく後ろに捻じった。まるで背中を敵に晒すような姿勢は、これから殴るというよりも、例えば野球のピッチャーが、試合開始の直後に投げる、全力投球のフォームに似ていた。

 視線は、一瞬もブッチャーから離さない。顔だけは、可能な限り正面を向けている。そして、優しい視線で眺めながら、

 

「しぃっ!」

 

 短い呼気とともに、身体に溜めたエネルギーを、一気に解放した。

 捻じられた足首が、膝関節が、腰関節が、背中が、肩関節が、肘関節が、手首が、同時に加速し、体重移動によって生じたエネルギーを倍加させ、右拳の一点、拳頭の部分に集中する。

 その、拳の形をした凶器が、一番効率よく、そして威力を高めるポイントに、ブッチャーの左頬があった。

 躱そうと思えば、いくらでも躱せる攻撃だった。スウェーでもパリングでもダッキングでも、どんな防御でも有効そうな一撃だった。

 超絶なテレフォンパンチだった。今からそこを殴るよ、いいね、と、殴る前から言っているパンチだった。

 だが、ブッチャーは避けなかった。

 そして、ウォルの拳が思い切り、ブッチャーの左頬に突き刺さった。

 

 どごんっ!

 

 まるで、巨大なハンマーが天空から落ちてきて、地面に衝突したような、凄い音がした。

 音の大きさがそのまま威力の大きさと比例するなら、どれほどの力が込められているのか、想像すらできないような、一撃だった。

 そのまま、ブッチャーの巨体ははじけ飛び、オクタゴンのほぼ中央から金網まで一気に吹っ飛んだ。

 

 がしゃんっ!

 

 巨体と金網がぶつかって、金網が波打つようにたわんだ。普通、選手が二人もつれあって体重を預けてもびくともしないはずの金網が、そしてそれを支える鋼鉄の支柱が、そのまま崩壊するような衝撃だった。

 ブッチャーの巨体が、横倒しになって、目を見開いたまま動かなくなっていた。

 

 

 ──────。

 

 ────。

 

 ──。

 

 おかあちゃん。

 

 ……。

 

 あ。

 

 俺は、どうしていたんだろう。

 俺は、何をしているんだろう。

 どうして、こんなところで寝ているのだろうか。

 昨日しこたま飲んだから、記憶をなくして、今、目が覚めたのか。

 それとも、本当に記憶を無くして長い間時間がたって、今、ようやく、俺が俺であること思い出したのか。

 そういう、全てがあやふやな、そんな状態だ。

 すごい音が聞こえる。

 まるで、滝のほとりで寝ているみたいだ。

 ごうごうと、落ちる水と水面の水がぶつかって、その勢いがそのまま音と飛沫になる、そういう音みたいだ。

 それに、すごく、まぶしい。

 ちかちかする。

 夜空の満点の星が、突然全て太陽に変わったみたいに、まぶしい。

 でも、そのまぶしさが、像を結んでくれない。だから、何も見えない。

 つまり俺は、凄い音と、凄いまぶしさの中で、気持ちよくまどろんでいるのだ。

 もっと、この気持ちよさの中で、眠っていたい。

 そうすれば、どれほど幸せだろうか。

 そう思う。

 でも、心のどこか、ケーキを百に切り分けてイチゴやらチョコレートやらが乗っている豪華な部分を除いた、スポンジ生地だけみたいな残りかすの部分の心が、声高に叫んでいる。

 起きたほうがいいよ、と。

 このまま寝ていては、もっと楽しい時間が終わってしまうよ、と。

 その声は、決して大きくないのに、でも針が足の裏をちくちくするみたいな自己主張で、自分の意見を通そうとする。

 ああ、分かったよ。分かった。

 ぐずる子供をあやすような気持ちで──俺は今までの人生でそんな上等なものを持ったことはないが──ゆっくりと体を起こす。

 すると、ようやく自分の状態に気が付く。

 上半身は裸だ。

 下半身は、いつもの仕事着の、ぼろぼろのジーンズだ。

 つまり、これは、仕事中の俺だ。

 

 仕事!?

 

 どきん、と心臓が跳ね上がる。

 仕事中なのか、俺は。

 きょろきょろとあたりを見回す。

 キャンバスマット。

 金網。

 それを支える、鉄製の支柱。

 その奥に並んだ、興奮した観客の顔。

 なんだ、ここはリングの上か。

 天井を見る。

 光量の強いライトが、リングの上だけを照らしている。

 そうか、さっき滝だと思ったのは歓声で、無数の太陽だと思ったのはライトだったのか。

 ならば、俺は、いったいどうしてこんなことになっているんだ。

 そこまでの記憶がない。

 そして、どうして俺は、こんな阿呆みたいな様子で呆けていられるんだ。

 例えばボクシングなら、レフェリーがすぐ近くに立っていて、テンカウントをしているはずだ。

 例えば総合格闘技なら、相手が寝転がった俺の上に陣取って、拳を雨あられと降らせているはずだ。

 そのどちらでもない。俺は、ただ寝かされて、今起きたのか。

 はっとして後ろを見る。

 そこに、少女がいた。

 黒髪で、まだ幼い、美しい少女だった。

 その少女が、まるで俺が起きるのを待っていたように、金網に体重を預け、こちらを睨みつけていた。

 無表情で睨みつけていた。

 ああ、そうだ、ようやく思い出した。

 たしか、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンとかいう名前の、少女だ。

 今回の仕事の、ターゲットだ。

 この少女を滅茶苦茶にしてこい。

 それが、今回の依頼だったのだ。

 そして、こんな試合までおぜん立てしてもらって、このリングの上に俺はいるのだ。

 

『一発だ』

 

 そう、少女は言ったのだ。

 そしてその言葉どおり、一発、俺は殴られたのだ。

 それで、こんな馬鹿みたいな様子で、寝ぼけていたのだ。

 どれくらい時間がたったのか。

 一時間ということはあるまい。それならとっくに試合は終わり、俺は担架で病院に運ばれているはずだからだ。

 なら、一分か。いや、それでも流石に勝負は終わり、リングの上はもっとごった返しているだろう。

 だからきっと、時間にすれば、一秒か二秒くらいだ。それくらい俺は意識を失い、寝転がっていたのだ。

 あそこにいる少女は、それを、わざわざ待ってくれていたのだ。

 すまない、そう思った。待たせてしまって悪かった、そう思った。

 立ち上がろうとする。

 だが、足が、がくがくと震えて、自身の体重をうまく支えてくれない。

 本当に自分の足か、これは?

 そう思う。

 それでも、立たなければ自分の負けだ。それに、立つためにあるのは、このぷるぷると情けない様子で震える二本の足だけだ。

 中腰の姿勢で、太ももを思い切り殴りつけた。

 言うことを聞け、この馬鹿どもが!

 そういうふうに、何度も殴りつけた。

 すると、ようやく足に感覚が戻ってきた。

 意識がはっきりしてきた。

 口の中に、ころころといた何かが転がっている。

 舌で集めて、手のひらに吐き出すと、折れた奥歯だった。

 口中に、濃密な血の味がすることに、ようやく気が付いた。

 

「ぺっ!」

 

 唾を吐き出すと、血と混じった濃い赤色だった。

 驚いた。

 今まで、名の通った選手に何度殴らせても折れなかった俺の歯が、折れ砕けていたのだ。

 俺の骨は、普通の人間とは造りが違うのだ。

 骨は、常人の倍ほども太い。

 この大きな顔も、中身に詰まっている脳みその量は、普通の人間と変わらないか、それとも少し少ないくらいだろう。

 だから、違うのは骨の量だ。そして密度。

 それらが、常人とはけた違いなのだ。いつだったか、きちんと病院で調べてもらった時も、人間よりもゴリラに近いと呆れられたのだ。

 そして、筋肉も違う。筋繊維が太く、密度が高いのだ。

 鍛えられた首の筋肉は、分厚い頭蓋骨をがっちりと支えてくれるから、どんなに殴られても効かない。

 だから、今までノックアウトとかブラックアウトとか、そういうふうに意識を失ったことがなかった。

 当然、攻撃をするうえでも、筋肉の違いは役に立った。

 普通の人間は、どれほど鍛えても、例えば他人の前腕の両端を持って、雑巾みたいに捻じ切ることはできない。

 もしかすると、骨粗しょう症でぼろぼろの老人の腕にならできるのかも知れないが、鍛え上げた競技者の腕でそんなことは、できない。

 でも俺はできた。

 幼いころから、何か千切ったり捻じったりするのが好きだった。

 だから神様が、そういうことが思い切りできる体をプレゼントしてくれたのだ。

 半ば本気でそう思っている。

 そして、ほとんど痛みを感じない。

 痛みに対する感度は、遺伝子的に決まっているらしい。つまり、生まれたときから、痛みに敏感か鈍感かがある程度決まっているのだ。男性と女性でも、相当に違いがあるらしい。

 俺は、極端に痛みに鈍い、そういう遺伝子の型だったようだ。

 それに、痛みには慣れることができる。常人では到底我慢できない痛みに格闘技の熟練者は平然としているように、痛みは訓練で耐えることができるのだ。

 俺は、その両方を兼ね備えている。

 だから、ほとんど痛みを感じない。

 そんな俺が、一撃で倒されたのだ。

 今までどんなやつでも、そんなことはできなかった。

 例えば五分、殴りたいようにさせてやれば、その後は強い怯えを瞳にたたえて、謝るか、逃げ出すか、それしかできなかったのだ。

 あとは、怯えて何もできなくなったそいつらを、思う存分にこねてやればよかったのだ。

 だが、あそこにいる少女は、いや、少女の形をした何者かは、そんな俺を、一撃でのしてくれたのだ。

 なんということだ。

 足が震えだす。

 意識と筋肉が断線しているから震えているのではない。無論、恐怖で震えているのでもない。

 感動だ。

 こんな人間が、この世にいたのか。もしかしたら俺よりも強い人間が、この世にいたのか。

 その感動。感激。心が打ち震える。

 俺はゆっくり、その少女の形をした何者か──多分、化け物だ──に歩み寄っていた。

 少女も、そんな俺を見て、ゆっくりと歩み寄った。

 ちょうどリングの中央で、俺たちは足を止めた。

 少女は、じっと無表情で、俺を見上げていた。

 ああ、その無表情がいい。けつの穴がきゅっとすぼまるような歓びが背骨を貫いて脳天に響く。

 

「効いたよ……」

 

 俺の口から、例えば行為が終わった後のベッドの上で、女にその具合の良さを伝えるような、感極まった声が滑り出る。

 思わず左頬を撫でる。鈍い痛みがある。その痛みが、抱きしめたくなるほどに愛おしかった。

 

「すまない、待たせてしまったね……」

 

 恋人の待ち合わせに遅れた男みたいに、できるだけ悠然とした様子でそう言うんだ。

 ここで相手をがっかりさせてはいけない。遅刻したくらいでぺこぺこする男に、女は惚れたりしない。

 こういう時は、できるだけ大物ぶるんだ。それが一番恰好いいんだ。

 然り、少女は優しく微笑み、首を横に振った。

 そして言った。

 

「次は、貴様の番だな……」

 

 恥ずかしそうに、そう言った。

 何のことを言っているのかわからなかった。

 俺の番?

 何が?

 はてなマークが脳裏を埋め尽くす。

 それが表情に出ていたのだろう、少女は苦笑し、自らの左頬を指で指したんだ。

 

「ここでいいのか?」

 

 少女が何を言っているのか、間抜けな俺の脳みそでも、ようやく理解した。

 次は、俺の番なのだ。

 俺が、この少女を思い切り殴っていいのだ。

 そのとおりだよ、さぁ、思い切り殴っていいよ、と。

 おいで、きみのすべてをうけとめてあげるよ、と。

 そういうふうに、この、少女の姿をした化け物は、言っているのだ。

 そんなことを言われたのは、初めてだった。

 まるで愛の告白を受けた童貞みたいに、俺は衝撃を受けた。

 俺の異様な風体を見て、それでも殴っていいよ、と、そう言ってくれているのだ。

 なんと、なんと、なんと……!

 そんな嬉しいことを、そんな優しいことを、俺に言ってくれる人間が、この世にいたのか……!

 俺は、涙を流さないのが、自分で不思議だった。

 本当は、目の前の少女に、泣いてすがりたかった。その胸の中で、おいおいと泣きたかった。

 その衝動が、胸の中で飽和して、ゆっくり、細い息になって出て行った。

 

「生きているってのは……本当に……」

 

 嬉しいのか。悲しいのか。驚きに満ち溢れているのか。

 それとも、美しいのか。

 涙を堪えるように天井を仰ぎながら、小さく小さく、そう呟いていた。あとに続く形容詞も思いつかないまま、そう呟いていた。

 そして、再び少女を見た。

 そして言った。

 

「ねぇ、ウォルちゃん。これは提案なんだけどさ。俺たち、結婚しない?」

 

 その愛らしい耳元に口を近づけ、秘密ごとをつまびらかにするように、そっと言う。

 

「田舎の方に小さな家を買ってさ、二人で住むんだ。子供は、できるだけ多いほうがいいなぁ。大丈夫、俺、これでも結構稼ぐほうだからさ、どんなに子供が多くても、しっかり育てるよ。たまに子供が生意気なこと言ってさ、俺がカチンときても思わず手が出そうになっても、ウォルちゃんが俺の頭にげんこつ落としてさ、それを止めるんだ。『こらあんた、自分の子供に何しようとしてんだい!』、そんなことを言ってね。その様子を見てさ、さっきまでぐずってた子供も腹を抱えて笑ってさ。そういう幸せな家庭を、俺と一緒に築かない?」

 

 何を言っているんだ、俺は。

 相手は、仕事のターゲットだ。

 もしも俺がずたずたに負ける以外のかたちで、彼女を無事にリングから降ろせば、今度は俺の方が危うい。

 きっと、本職の殺し屋から狙われる羽目になる。

 前に一度銃で撃たれた時は、運よく分厚い頭蓋骨で銃弾が止まってくれたが、今度はもっと口径の大きい銃で狙撃されるかも知れない。

 それでも、今、自分は、嘘偽りを口にしてはいなかった。

 この少女を自分のものにしてみたかった。

 この少女と一緒に、人生を歩んでみたくなった。

 それが、その瞬間の俺の本心だった。

 きっと俺の顔は真っ赤で、幼馴染の少女に愛を打ち明ける少年よりも、情けない様子だったに違いない。

 それでも、少女は無表情だった。

 見下げ果てるでも呆れるでも、不快がるでもなく、ただ無表情で、己の左頬を差し出していた。

 ただ、静かな視線で、俺の攻撃を待ちわびていた。

 

「わかったよ……」

 

 俺は静かにそう言って、右拳をぎゅっと握った。

 そして、先ほど少女がそうしたように、思い切り腰を捻じり、全身に力を行き渡らせた。

 体が、二割ほど、むくりと膨れたのを感じた。

 本当にいいのか、とは聞かない。

 彼女を好ましく思っている自分を理解している。

 それでも、殴るのだ。それが愛情の大きさだと勘違いした、DV男みたいに。

 彼女が、本当に殴られることを望んでいるとは思わない。自分が先に殴った、だから条件をイーブンにするために、殴られようというのだろう。

 だから、殴るのだ。目の前の少女を愛おしいと思うからこそ、殴るのだ。

 彼女の想いに応えるために、殴るのだ。

 だから、手加減はない。出し惜しみもしない。全身の力を使って、これで自分が、彼女が、同時に死んでもいい、それくらいの力を込めた。

 そして、一気に解放した。

 きんたまの奥の精子が、絶頂とともに飛び出すような勢いで、俺の巨拳は、少女の左頬に突き刺さり、その小さな体を吹っ飛ばした。

 少女の体がそのまま、自動車と正面衝突したみたいに吹き飛び、リングサイドの金網の最上段に激突した。

 人の力で人はここまで吹き飛ぶのか、そういう勢いで少女は叩きつけられた。

 だが、俺は理解した。

 少女の、肌の感触。肉の感触。骨の感触。全てが、常人のそれではない。

 きっと俺と同じ、化け物の感触。

 ならば、立ち上がる。この一撃で決着がつく勝負ではない。少女は、俺の期待を、絶対に裏切らない。その確信がある。

 だから、俺は、先ほど少女がしたように、反対側のリングサイドに行って、金網に体を預けた。

 そして待った。倒れ伏した少女が、自分の腕と足で起き上がるのを。

 何分でも、何時間でも、待ってやるつもりだった。もしも誰かがそれを邪魔すれば、この試合を止めようとするなら、本当にそいつを殺してやろうと思った。

 だが、おそらく時間にして二秒か三秒か、少女は体を起こした。

 うつろな視線を漂わせ、ようやく俺を視界に収めた。

 きっと、さっきの俺みたいに、今、自分が何をしているか、どうしてここにいるのか、それが分からない様子だ。

 でも、その瞳に、少しずつ意思が宿っていく。

 そして、震える腕で体を起こし、震える足で立ち上がった。

 

 ──そうだ。それでいい。がんばれ、がんばれ……。

 

 俺は、それを見守った。きっと、自分の子供が初めて立ち上がったのを見た親は、今の自分のような気持ちなのだろうと思った。

 さぁ、立つんだ。そうすれば、きみの世界はもっと広がる。もっと嬉しいこと、楽しいことが待っているんだよ……。

 慈愛の視線の先で、少女は立ち上がり、俺と同じように、赤い唾を吐き出した。

 

「死んだ父上殿が見えた……」

 

 少女が微笑いながら、そんなことを言った。

 そういえば、俺も何かが見えた。そんな気がするが、もう忘れてしまった。

 

「これで、いいね?」

 

 俺は問うた。

 少女は、頷いた。

 

「じゃあ、始めようか……」

 

 俺は、彼女の方に足を進めた。

 

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