懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
ブッチャーの戦いに、基本的に構えは存在しない。
必要がないからだ。
まず、相手に殴らせる。好きな個所を、好きなだけ殴らせる。顔だろうが腹だろうが股間だろうが、好きなだけ攻撃をさせる。
しかしその攻撃では、自分を倒せないのだと相手に分からせる。
相手は絶望する。たった一回の攻撃を加えなくても、心がくじける。それがブッチャーの狙いだ。
まずは相手の心をへし折るのだ。
次に、相手を掴んで、腕か足か、どこか適当なところをへし折る。もしくは、皮膚と脂肪と筋肉を一つまみ分、まとめて引きちぎる。それで相手は完全に戦意を喪失する。
それからは、やりたい放題だ。依頼の内容と、あとはブッチャーのその時の気分。二つが釣り合ったところで、相手のその後の人生が決まる。
数カ月で完治する怪我で済むのか。
もう二度とリングには上がれない身体になるのか。
日常生活すらままならない障害を負わされるのか。
それとも、その瞬間で人生が終わるのか……。
全てはブッチャーの匙加減一つということになる。
それが、ブッチャーにとっての戦いだ。
だから、ブッチャーの戦いに、構えるという概念は、基本的に存在しない。
大人が子供と戦うときに、わざわざ構える必要がないのと同じだ。
だが、ブッチャーの、異常なまでに頑健な身体を砕くことができる相手ならば、ブッチャーも構える必要がある。
そして、今、その相手が彼の目の前にいる。
ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン。
まだ、中等部の学生だという。
格闘技を始めて、ほとんど間もないのだという。
第一、それは男ですらない。
少女だ。
見目麗しい少女。
同じスポットライトの下でも、こんな飾り気のないリングの上でなく、例えばステージの上──それが舞台でも、ライブステージでも、スケートリンクでも──どれほど映えるだろう、どれほど輝くだろう、底が知れない少女だ。
いや、それは違う。
今、武骨で血なまぐさいオクタゴンの上ですら、夜空を切り裂く閃光のように、その少女は光り輝いている。
その光は、観客も、視聴者も、そして対戦相手であるブッチャー自身ですらを魅了していた。
あるいは、ブッチャーの心をして、最も鷲掴みにしていたのかも知れない。
だからこそ、ブッチャーは全力で戦う。全力で叩き潰す。それしか知らないからだ。それが、彼にとっての愛だからだ。それだけが、彼の愛情表現だからだ。
だから、ブッチャーは構えた。
それは、異様な構えだった。ボクシング、空手、柔道、レスリング、あらゆる格闘技に存在しない、異形の構えだった。
背筋は、若干猫背気味の姿勢。
両手を前にだらりと下げ、両肩はやや前に、巻き肩のようになっている。
それだけで、巨大な拳が、床につきそうなくらい長く伸びる。
拳は握りこまず、透明の野球ボールを握っているような、脱力した有様。
足幅は、肩幅よりやや広い程度。つま先は、少し内側を向いている。
そんな、構えだった。
ある程度格闘技の素養のある人間が見れば、その構えには欠点が多すぎた。
まず、顔面ががら空きだ。ジャブ、ストレート、フック、アッパー、あらゆるパンチが当て放題だ。
次に、身体が真正面を向きすぎていて、蹴りへの対応ができない。前蹴りや三日月蹴り、上中下段の蹴りのいずれもかわすのが困難だ。
ステップを踏むにも、正面を向きすぎると不便利である。左右はともかく、前後のステップが絶望的に難しい。
また、押し合いにも不利だ。足が横に揃ってしまうと、前後の力に対応しづらいのだ。だから、正面から相手と押し合いになれば、間違いなく押し込まれてしまう。
つまり、受けや防御といわれる技術の全てを捨てた構えだといっていい。
決して褒められた構えではない。いや、それを構えだと認識する人間のほうが少ないかもしれない。
例えば、大型類人猿のする、ナックルウォークという姿勢がある。長い前腕の拳を地面に突き刺すような姿勢で前方の体重を支え、短い後ろ足と一緒に四足歩行をするのである。
ブッチャーの構えは、それに近い。
その構えで、じりじりと足を交互に前へと動かし、ウォルの間合いへと近寄る。
対するウォルは、クレイグ直伝の、オーソドックスな構えだ。両手を顔の前、ボクシングなどよりは心持ち下に置き、左肩を前方に、右肩を後方に構えている。
相手から見れば、身体は若干斜めを向いている。
両脚は、肩幅より少し広い程度に置き、両足の母指球のあたりに体重を均等に置き、細かくステップをしている。
お手本のような、総合格闘技の構えである。
その構えで、前後左右に体と頭を振り、相手に的を絞らせないよう牽制を入れる。
対するブッチャーは、異形の構えのまま佇み、ウォルの全身を、ぎょろりとした目玉で眺めている。
リーチの長さは、どちらが有利か、考えるまでもない。この距離では、ウォルの攻撃は絶対に届かない。
ならば、相手の懐に飛び込む──。
そう、ウォルが考えた、次の瞬間だった。
巨大な拳がウォルの顔面目掛けて飛んできた。
ぼんっ!
咄嗟に顔を横に振ったウォルの鼓膜を、そんな音が叩いた。
巨大な質量をもった物体が、空気の壁を力任せに貫通した時に生じる、そんな音だった。
ウォルの小さな顔と同程度、もしかしたらそれよりも大きな拳が、凄い勢いで──人を殺せる勢いで、彼女の顔がさっきまであった場所を打ち抜いていたのだ。
ウォルに、その拳は見えていなかった。ただ、死地で培った勘と獣の反射神経だけで避けた。
流石に数歩、たたらを踏みように下がった。
そしてブッチャーを見る。
既に、先ほどと同じ、両腕をだらりと前に下げた、あの構えだ。あの構えのまま、緩やかに微笑んでウォルを見ている。
では、先ほど、何がウォルを襲ったのか。
ブッチャーの拳であることは間違いない。
だが、右と左、どちらの拳か、いつ、どのようにして自分に襲いかかってきたのか、ウォルには見えなかった。
ウォルのこめかみを、細い汗が流れ落ちた。
「油断するなフィナくん!下からのジャブだ!」
ウォルのセコンドであるクレイグの声がウォルに届いた。
下からのジャブ。なるほど、あの姿勢のまま、拳を前方に振り上げるように攻撃してきたのか。
ウォルの体格は、ブッチャーのそれよりかなり小さい。当然、視界も低い位置にある。
だから、ブッチャーの全身を視界に収めようとするなら、当然視線は上向きになる。
あの構えなら、拳は、視界の下、ウォルにとっての死角に位置することになる。
それを、ほとんどノーモーションで打ち放ってきたのだ。だから、ウォルには見えなかったのだ。
事態を飲み込めたウォルは、再び構え、ステップを踏みながらブッチャーに接近する。
今度は、心持ち視線を下に、拳も視界に入るように設定する。
その途端、またしても凄まじい質量をもった拳がすっ飛んできた。
しかも今度は単発ではない。両腕で、矢継ぎ早に拳を放ってくる。
ぼぼんっ!
ぼぼぼんっ!
ウォルは首を振って躱そうとするが、速射砲のような打撃を全部躱すのは不可能だった。
ガードの上からニ、三発の打撃をもらう。それだけでウォルの小さな身体はバランスを崩し、ほとんど吹き飛ばされるような有様で、再びブッチャーの射程範囲外まで押し返されてしまった。
なるほど、そういうことか。ウォルはブッチャーの構えの意図するところを理解した。
あれは、ブッチャーの異常に長い腕を利用した、超攻撃な構えなのだ。
ブッチャーは、上背で2メートルを遥かに超える超巨漢である。ただでさえ腕の長さは常人のそれではない。
さらに、直立しても膝に指が届くのではないかという、特異な体格。
恐らく、両手を水平にした時の、指先から指先までの長さ──ウィングスパンは3メートルを超えている。
無論肩幅を除くことになるのだが、それでも片腕のリーチは1メートル50センチに近いはずだ。
その長い腕を、肩甲骨を回す動きを起点として、肩、肘、手首の関節をしならせ、まるで鞭のように使って攻撃しているのだ。
ボクシングの攻撃でいうならば、フリッカージャブという種類に近い。
だが、フリッカージャブはあくまで牽制目的、或いは相手を削る攻撃であるのに対して、ブッチャーの打撃は一撃一撃が異常に重たい。
それは、身体を正面に向けているため、普通のジャブに比べて体重を乗せやすいからだ。
さらに、左右への体重移動がしやすい分、連打の速度が上がる。両手を、効率よく回転させることが出来る。
両拳が続けざまに繰り出される様子は、ある種の格闘技で採用されている、チェーンパンチという攻撃に似ている。
違うのは、やはり威力だ。
連打でこそはじめた威力を発揮出来るチェーンパンチと違い、ブッチャーの攻撃は一発一発が一撃必殺の威力を秘めている。
それが、自分の間合いの遥か彼方から矢継ぎ早に繰り出されるのだ。
そのための、あの構えなのだ。
ウォルの実感としては、数人の敵兵に囲まれて、槍襖に突きまくられている感覚に近い。
──難儀だな。
そう分析している間にも、ブッチャーの連撃は続く。狙いも、顔だけでなく、みぞおちや肝臓などの急所を狙って、上下に上手く打ち分けている。
単純な身体能力だけでなく、技術水準も相当に高いのがわかる。
躱しづらく、防御も難しい。
常人なら、とても避けられるものではない。最初の数発で勝負はついている。
だが、ウォルも、ブッチャーがそうであるように、常人では決してない。
狼の変種としての反射神経と運動神経。戦士として死線を潜り抜けた経験。
常識外れのブッチャーの攻撃に、適応しつつある。繰り返される連撃の僅かな隙を見つけ、その瞬間に、ブッチャーの懐へと飛び込んだ。
そしてその瞬間、頭を後方から強かに殴られていた。
視界が一瞬、真っ白になる。
先ほど、わざとブッチャーの全力のパンチを受けた時と同じだ。意識が別の世界へと旅立ちそうになる。
しかしウォルは、消え行く意識の後ろ髪を思い切り掴み、自分の方に引き寄せた。倒れゆく身体を何とか踏ん張り、よろめく歩調でブッチャーの間合いから距離を取った。
──今、何が起きた。
ウォルは、グラグラとした視界で、必死に考える。確かに、ブッチャーの拳は、左右のどちらも躱した。がら空きの懐に飛び込んだはずだった。
なのに、どこからか、自分は頭部を叩かれ、危うく意識を失うところだったのだ。
果たして何が。そう考えるウォルに、クレイグの悲鳴のような声が届く。
「打ち下ろしの右!」
それは、先ほどくらった攻撃のことだとわかった。
なるほど、そういうことか。
つまりブッチャーは、一度放った拳の軌道を、ウォルに躱された後で変化させ、懐に入ってくるウォルの頭上から振り下ろしたのだ。
まるで、鞭や鎖分銅のように。
あの巨体で、なんと器用な──。
ウォルは内心で感嘆したが、しかしブッチャーはウォルに休む、あるいは考えるいとまを与えない。
またしても、両拳の連撃がウォルに襲いかかる。
ウォルはそれを、必死に防御する。躱せる攻撃は躱し、どうしても躱せない攻撃はガードした。
しかし、ガードしても衝撃は殺せない。衝撃は少しずつダメージとして蓄積し、ウォルの体力を、気力を削っていく。
ろくに攻撃をしない間に、ウォルの息は上がり始めていた。
──どうする。どうやって戦う。
ウォルの心に迷いが生じる。迷いは動きから精彩さを奪い、軽やかなステップを鈍重な足運びに変えてしまう。
それを狙ってブッチャーが一気呵成の攻撃に出ようとした、その瞬間。
第一ラウンドの終了を告げるゴングが鳴り響いた。
◇
「フィナくん、よく帰ってきた!よく帰ってきてくれた!」
感激と興奮で声を潤ませたクレイグが、コーナーへと戻ったウォルに対して大きな声をかけながら、その汗をタオルで拭う。
今のところ、勝負はほぼ互角である。
最初の一撃、開戦ののろしのような互いの一撃以外は、両者ともほとんどダメージを負っていない。あえて言うなら、手数はブッチャーの方が多い。そして有効打は、おそらくラウンド終了間際の、打ち下ろしの右。
ポイントは、ブッチャーに入っているだろう。
逆に言えばその程度であり、まだまだ巻き返しは十分に可能だ。第一、あの怪物を相手にして1ラウンドを戦い切ったのだ。クレイグにはそれすら信じられない偉業に思えた。
しかし、ウォルの息が荒い。本来のウォルの体力からいえば、1ラウンド5分程度戦った程度で息が上がるはずがないのだが、ブッチャーのプレッシャーで消耗させられてしまったのだ。
クレイグはウォルのマウスピースを外し、少しでもリラックスできるようにしてやる。
「すまんな」
ウォルは暴れ馬のような息を整えながら、クレイグに向けて呟く。
そして、クレイグに手渡されたペットボトルから一口、二口、水を飲む。
「予想したよりやりにくいな。クレイグどの、おれはどう戦えばいい?」
クレイグは頷く。
「試合前の想定では、ブッチャーの攻撃は組んでからの技が起点……グラップラータイプだと思っていた。しかし、予想以上にストライキングが上手い。あれだけボクシングテクニックが高いなら、不用意に飛び込めばショートのフックやアッパーも警戒しなければならない」
クレイグは身振りで、それらがどういう攻撃かをウォルに教える。
ウォルは黙ってクレイグの組み立てた戦術に耳を傾ける。
その間も、ゆっくり深く呼吸し、弾む呼吸を少しでも落ち着けようとしている。
「だが、ただ一つ断言できるとすれば、あの構えでは蹴りは打てない。蹴りを打つには、上半身が前傾しすぎている。あの構えは、拳での打撃に特化していると考えるべきだ」
ウォルは頷く。それはウォルも気が付いていたことだ。
「拳の場所を常に意識していこう。相手の手に、自在に動く鞭が二本あると思ってくれ。おそらくパワーは互角、相手の武器はリーチとキャリア、そしてきみの武器は目の良さと反射神経、そしてスピードだ。ステップでかき回しながら攻撃の隙を見て、飛び込んで打撃か、そのまま組み技に持っていこう。とにかく頭を振って、相手に的を絞らせない。それを意識して」
そこまで言ったところで、セコンドアウトのブザーが流れる。
クレイグはウォルの口に再びマウスピースを嵌め、オクタゴンから退出した。
「約束だ、フィナくん。次のラウンドも絶対に、絶対に無事に帰ってくるんだ」
ウォルは頷き、オクタゴンの中央へと歩を進めた。
◇
2ラウンドも、ブッチャーは構えを崩さない。
異形の構えのまま、ウォルに、じりじりと詰め寄る。
そして間合いに入るや否や、両腕から、エンジンのピストンのように打撃を繰り出す。
ウォルは先ほどのクレイグのアドバイスのとおり、フットワークでそれを躱す。ラウンド間の休憩により回復した体力と、少しずつ慣れてきた目が、ブッチャーの攻撃からウォルを守る。
飛来する巨礫のような拳を、躱す、躱す、躱す。
そして、ようやく攻撃の途切れた刹那、野性動物のような足運びでブッチャーの間合いへと飛び込み、その顔面へと遠距離の左フックを放つ。
しかしブッチャーは巧みに半身を躱し、腕を折りたたみ、間近に迫ったウォルの顔に右のショートアッパーを打ち上げた。
異様に長い腕をきれいに折り畳んだ、美しい軌道のアッパーカットだった。
ウォルはその攻撃も、顔を後ろにスウェーさせて躱した。先ほどのクレイグのレクチャーがなければ、まともに食らっていたかも知れない、そう思った。
そして顔をもとに戻す動きと合わせて、右ストレートを繰り出す。
しかし、ブッチャーは前かがみの構えからわずかに首をそらしその攻撃を躱した。
「ナイスパンチ」
ぼそり言い、そして逆に、ウォルの右脇腹へとショートの左ボディフックを繰り出した。
攻撃を避けられてわずかにバランスを崩していたウォルに、この攻撃はクリーンヒットした。
めしりとあばらの軋む音が響き、思わずウォルの顔が歪む。
「がっ……!」
次の瞬間、ブッチャーはウォルの間合いから飛びのいて自分の距離に戻し、再び散弾銃のように拳を振るう。
ウォルは咄嗟に上半身をガードしたが、2発ほど、浅く顔にもらってしまった。
「フィナくん、止まるな!足を動かして!」
クレイグの必死な声に、ウォルは無理やり体を動かす。
一瞬遅れて、先ほどまでウォルのいた場所をブッチャーの拳がすごい勢いで切り裂いていた。
今までの数打ちと違う、明らかに仕留めに来たとわかる、思い切り体重の乗った攻撃だった。
それを躱されたブッチャーが、嬉しそうに微笑み、元の構えに戻ってウォルの正面に立つ。
「惜しい……」
ブッチャーの呟きである。
本当に楽しそうに、そう言った。
ウォルは、激しく肩で息をしながら、何とかブッチャーの間合いから離れた。
息が詰まるような展開である。観客も、言葉を飲むようにして二人の戦いを見守っている。
しかし、勝負の趨勢ははっきりと、ブッチャーに傾きつつあるのを多くの観客は感じていた。
ウォルという少女も只者ではないのだろうが、しかしやはり格闘技において体格差、特にリーチの差というのは覆しがたい絶対的なアドバンテージとして存在するのだ。
このままいけば、この勝負は圧倒的なリーチ差を武器にしたブッチャーに軍配が上がるか。
観客がそう感じ始めたときである。
ウォルは、肩の力を抜くように、大きく息をついた。
そして、誰に言うでもなく呟いた。
「やはり、なかなか楽には勝たせてもらえんか」
ふう、と息を吐き出し、やはりじりじりと間合いを詰めるブッチャーへと視線を遣る。
「仕方ない。少し見栄えは悪いが、泥仕合をさせてもらうとしよう」
そう呟いたウォルはブッチャーへ正面から相対し、腰を大きく落とした。
クレイグはウォルの構えを見て、思わず声を上げた。
「馬鹿な!?」
その時とったウォルの構えも、ブッチャーの構えと同じく、クレイグの格闘技知識のどこにもない、異様な構えだった。
両足を大きく開き、太ももと骨盤が水平になるほど腰を深く落としている。無論、そんな体勢でステップなど踏みようがない。完全に、足を止めている状態だ。
背筋はまっすぐ、尻から頭頂までをほぼ垂直にし、身体の正面を相手に向けて相対している。ブッチャーの構えと相まって、二人は正面から正対するかたちとなる。
拳は両腕とも胸の前に、ゆるりと握った状態で置いている。
どっしりとした構えである。空手でいう、四股立ちか騎馬立ちとか呼ばれる構えに近い。違うのは両手が、透明のバスケットボールを胸の前で抱えているように、小さく脇を開き構えているところだろうか。
見栄えはいい。しかし、どう考えても実戦的とは思えない。演舞や試技などに相応しい──というよりも、それ以外に使い道のない構えである。
あの姿勢では、ブッチャーの構え以上に足運びが難しい。もう自分はこの場所から動かない、そう宣言しているようにも思える。
先ほどの、軽やかなフットワークが可能だった状態でも、ブッチャーの攻撃を捌き切ることができなかったのだ。いわんや今の状態で、マシンガンのようなあの連撃を防げるとは思えない。
第一、ウォルのリーチはブッチャーのそれに比べてはるかに短いのだ。あのような構えでは、その差を埋めることは絶対にできない。ウォルがどんな素晴らしい攻撃を繰り出しても、絶対にブッチャーに届かない。
勝負を投げたか、一瞬クレイグはそう思った。
だが、ウォルという少女が、勝負の途中で意味のないことをするとは思えない。まして、勝負を投げ出すなど絶対にありえない。
ならば、あの構えにも、ウォルなりの理屈があるのだ。勝ち筋があるのだ。
クレイグは、元の構えに戻るよう声を出しかけて、ぐっと言葉を飲みこんだ。
その視線の先で、ウォルは、どっしりと構えている。
さらにウォルの視線の先では、ブッチャーが不敵に微笑んでいる。
「どうしたの、ウォルちゃん。そんな、おいしそうな構えしちゃって……」
おいしそう。つまり、どんな攻撃でもし放題という意味だ。殴る蹴るし放題の構えということだ。
だが、ウォルは応えない。無表情でブッチャーを睨んでいる。そして、そのどっしりした構えを崩そうともしない。
ブッチャーは、うきうきとした様子で頷いた。
──いいだろう。いったい何をしようとしているのかわからないが、見させてもらうよ……。
内心でそう呟いたブッチャーが、先ほどまでと同じく、ノーモーションの鋭い突きを放つ。
拳はまるで吸い込まれるように、無防備なウォルの顔面に突き刺さるかに見えた。
その瞬間、すさまじい音が、試合会場を満たした。
がきぃっ!
大槌で岩を叩いたような、硬質な音だった。どうしてそんな音がリングの上から聞こえるのか、観客は一瞬わからなかった。
そしてリングの上を見れば、先ほどと同じ構えのままのウォルと、驚愕に目を見開き、背後にしりもちをついたブッチャーがいた。
ブッチャーも、いったい何が起きたのか、一瞬わからない様子だったが、すぐに立ち上がり、再びもとの構えを取り直した。
──なるほど、そういうことね。
ブッチャーは内心で舌を巻いた。
先ほど殴りにいった右拳が、びりびりと痺れている。
ウォルがしたことは、至極単純であった。
襲い来るブッチャーの巨拳を、自身の拳で迎え撃ったのだ。
パンチに対して顔を狙ってカウンターを取るのではなく、パンチそのものに対してカウンターを当てたのだ。
なるほど、ブッチャーの攻撃を防ぐに、これほど有効な防御は他にないだろう。
ブッチャーの拳が猛スピードで繰り出されるのは、その拳を相手が躱すか、それともガードするか、した場合である。
躱された、もしくは防がれた拳を引き、その反動で逆の拳を突き出す。その繰り返しで、攻撃が途切れないのだ。
しかし、先ほどウォルがしたように、正面から拳を合わされてしまえば、そこに反発力が生じる。当然、無防備に構えていれば先ほどのブッチャーのように反発力に負けて後ろに飛ばされる。そうでなくても、反発力に耐えようとすれば、次の攻撃のための反動が作れなくなる。
つまり、ブッチャーの、絶え間ない攻撃をストップすることができるのだ。
ただ、それはあくまで理論上の話であり、言うは易し行うは難し、飛び来る拳に拳を合わせるのは、尋常の技ではない、正しく神技である。
まず、相手の行動の起こりを見逃さない観察眼。
次に、先に繰り出される相手の攻撃に対して反応できるだけの反射神経。
そして、飛び来る拳に自らの拳を合わせられる正確性。
さらに、ブッチャーの腕力に押し負けないだけのパワー。
何より、もしも失敗すれば正面から相手の攻撃を喰らうという、大きすぎるリスクに耐えるだけの胆力。
これだけの要素がなければ成立しえない神技だ。
普通はできない。やろうとしても、無様に顔面パンチをもらって、KOされるのがオチである。
しかし、ウォルにはそれが可能だった。
戦士として幾度も生と死の狭間に身を置いた経験が、そして戦女神と呼ばれたリィと同種のウォルフィーナの身体が、それを可能とさせた。
当然、ブッチャーは、そんなことは知らない。分からない。
分かるのは、目の前の少女が、自分と同じ、常人の埒外の生き物だということだ。
そんな生き物と、自分は、自分という獣を閉じ込めるための檻を壊して、思い切り殴り合うことが出来るということだ。
──ああ、なんという幸福……。
法悦の表情を浮かべたブッチャーが、再びウォルに拳を振るう。
ウォルは先ほどと同じく、拳で拳を迎え撃つ。
がきぃっ!
次に、ブッチャーは拳をウォルの頭上から振り下ろした。
鉄槌と呼ばれる殴り方だ。
これにはどう合わせるのかな?
しかしウォルは拳を上に向け、天空に向けて拳を突き上げる。
がきぃっ!
次に、ブッチャーは茶目っ気を出して、普段はめったにしないことをした。
顔を殴るよ、というふうな構えをしてから、その軌道を腹に変えたのだ。
これなら引っかかってくれるかな?
しかしウォルは、最初からブッチャーの狙いが腹だとわかっていたように、下突きでその拳を迎え撃った。
がきぃっ!
これはどう?
これはどう?
これはどう?
ブッチャーは次々と攻撃を繰り出す。
しかし、その攻撃は全てがウォルの拳に叩き落される
ブッチャーの攻撃の速度が、威力がどんどん上がっていく。
それでも、全ての攻撃がウォルに迎撃される。
その度に、まるでリングの上で交通事故が起きたような、すさまじい音が響くのだ。
観客は、呆気にとられながらその光景を見守っていた。
まるで、演舞のようだった。最初から、こう攻めるからこう躱す、こう攻めるからこう受ける、攻め手と受け手が全てを承知の上で、何度も何度も練習したかのような動きだった。
そうでなくては、どうしてここまで正確に、攻撃に攻撃を合わせることができるのか……。
できるなら、それは人ではない。
人ではないなら、それは何なのだろう。何と呼べばいいのだろう。
人ではないなら、その戦いに、どう反応するべきなのだろう。
それがわからず、観客は、呆然とその戦いに見入っていた。