懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
拳と拳がぶつかる。
俺の拳と彼女の拳がぶつかる。
俺の巨拳と、彼女の小さな拳がぶつかる。
ぶつかり、弾け合う。
何度もぶつかり合う。
その度に伝わる衝撃、痛み、エネルギー。
それだけではない。
想いが、気魄が、覚悟が伝わる。
ウォルという少女がこの戦いにかける想いが、気魄が、覚悟が伝わってくる。
今の俺には、目の前の少女の全てがわかる。
そうか、きみは、経験があるんだね。
人を殺した経験が、あるんだね。
俺と同じように、何人も、殺したんだね。
素手じゃないね。
ほとんどは、もっと容赦なく、効率よく殺せるように、武器や道具を使ったね。
銃みたいに、無粋な武器じゃない。
多分、剣とか槍とか、そういう、人の血と肉と死が直接感じられる、闘いの武器を使ったね。
それも、私闘じゃないね。
もっと大きな、目的とか守るものとか、恋人とか民草とか国とか、そういうもののために戦ったんだね。
そうか、きみは戦士だったんだね。
俺とは違う、もっときらきらした存在だったんだね。
そして、全てを導く存在になったんだね。
それが、どぶねずみみたいな生き方をしてきた俺みたいなのと、拳一つで、闘ってくれているんだね。
嬉しいよ。
心から感謝してる。
よくぞ、俺と戦うことを選んでくれた。
最初から不思議だったんだ。
どうして、きみは俺との戦いに応じたのか。
俺という男のことを知らなかったというなら、話は分かるんだ。
突然変更された試合相手が誰かも分からずリングに上がって、その流れで試合が始まってしまったというなら理解の範疇なんだ。
でもきみは、明らかに俺のことを知っていたよね。
直接の面識は、絶対にないよね。だって、生きてきた世界が違いすぎるもの。
多分、セコンドについているあの青年あたりが、噂か何かで俺のことを知っていて、それを君に伝えたんだね。
ならば、ブッチャーという人間がどれほど危険で、残忍で、変態な男かも伝わっているということだよね。
それなのに、何故きみはこの試合を受けてくれたのか。
例えば、これが共和宇宙MMAチャンピオンリーグの決勝戦で、勝てば富と名誉が約束されているならば、分かるよ。
例えば、きみが、何か個人的に俺に対して強い怨恨を持っていて、それを晴らすために戦うというならば、それも分かるよ。
でも、この試合は、所詮はいち地方惑星のいち興行の、ただのいち試合でしかないよね。
何が賭かっているわけでもない、個人的な遺恨もない、本当にただの試合だよね。
今日、きみと俺が戦うのは、俺が受けた依頼という要素を除けば、完全に偶発的なもののはずだよね。
俺以外のポリスマンが依頼を受けていたなら、このカードは実現しなかったなずなんだ。
ならば、どうしてきみは戦うんだろう。
もしかしたら興行主が、欠場すれば損害賠償をするぞくらいの脅しはしたのかも知れないよ。
でも、そうだとしても、所詮は金で済む話だよね。自分の命と比べれば、どちらに天秤が傾くか、考えるまでもないよね。
それでもきみは、この試合を受けたてくれたんだよね。
もちろん、勝てる見込みがあったから受けたんだろうね。
それは当然のことだよ。勝つ見込みのない生き死にの戦いに挑むのは、自殺志願者か、戦闘中毒者か、頭のネジのいかれた異常者くらいのものだよ。
きみは、そのどれでも、絶対にないよね。
だから、きみには勝算があったんだよね。
でもさ、勝てる見込みがあるということと、確実に勝てるということは、全然意味が違うよね。天と地ほどの開きがあるよね。
そして、きみは、俺以外の相手なら、誰にだって絶対に勝てるよね。
おそらく、現役の共和宇宙MMAチャンピオンが相手だったとしても、危なげなく勝ってみせるだろうね。
なら、ブッチャーという化け物との戦いはキャンセルして、その後別の相手と戦うほうが、どれほど合理的か知れないよね
きみという少女が何を求めているにせよ、何を望んでいるにせよ、それが最適解だよね。
でも、きみは、俺と戦うことを選んでくれたんだ。
強い相手と戦うことに喜びを感じる、生粋の闘士だから、ではないよね。
むしろ君は、闘うとか人を傷つけるとかが大嫌いだよね。もしも争わずにすむ道があるなら、そちらがいばらの道だったとしても、何の躊躇もなくその道を選ぶだろうね。
そんなきみが、おれと戦うことを選んでくれたんだ。
その選択に込められた、圧倒的な意思。勇気。覚悟──。
泣きそうだ。涙が溢れそうだ。
分かるよ。
きみが戦っているのは、自分のためじゃないね。
我欲のためではなく、例えば衆生を救うために我が身を投げ出す仏のような心持ちで、戦っているんだよね。
それがわかるよ。
だから、今、俺が拳を合わせているのは、一種の仏なんだよね。
仏の拳を叩くんだ。
仏の拳に叩かれるんだ。
その、安堵と至福。
まるで母親の胸に抱かれているような──。
きっとここは、極楽浄土なんだね。
このリングの上こそが、全ての煩悩から解き放たれた世界なんだね。
虹の中にいるみたいだよ。
どこを見ても、万華鏡みたいに、七色の光が弾けて散っているようだよ。
なんて美しい世界なんだろう。それとも、これがこの世界の本当の姿だったのかな。
そこで、俺はきみと二人で、踊っているんだ。
手と手を合わせて、足と足を合わせて、歩調とタイミングを合わせて、誰にもまねのできない美しい踊りを踊っているんだ。
Shall We Dance?
そんな台詞とともにどちらかがどちらかの手を取って、いつに間にか始まった踊りを、今も踊っているんだ。
なんていう幸福だろう──。
終わってほしくない。
いつまでも続けていたい。
身をよじるほど思うよ。
ああ、でも、駄目なんだ。
この踊りは、きっといつまでも続かないんだ。
それがわかる。
駄目になるのは──ついていけなくなるのは、俺の方だ。
俺の巨大な拳が、今まで何でも砕いてきた硬い硬い拳が、悲鳴をあげているんだ。
理由はわかっているよ。
きみが狙っているのが、俺の拳の中でも、拳頭の部分じゃなくて指の骨──基節骨と呼ばれる部分だからだよね。
多分、きみの骨と俺の骨の耐久力は、骨自体の太さを合わせて考えれば、ほとんど変わらないんだろうね。
だから、拳頭と拳頭とぶつかれば、多分互角だよ。ほとんど同じタイミングで、お互いの拳がひしゃげると思うよ。
でも、きみは指の骨を狙って、拳頭をぶつけているよね。
拳頭の部分より、指の骨のほうが、細くてもろいよね。
えげつないよね。
まるで、巨岩に槍を突き立ててるみたいだね。
二、三回突かれたくらいじゃ岩もびくともしないけど、何十回、何百回も突かれれば、砕けるのは岩の方だ。
それは当たり前の理屈だ。
きみは、それを十分に理解したうえで、その攻撃を繰り返しているんだね。
情け容赦ないよね。
でも、俺、嬉しいよ。
だって、きみが本気で俺と戦ってくれているっていうことだもんね。
ああ、最後まで付き合ってあげたいよ。
それとも、俺に残された攻撃の選択肢が拳だけなら、本当に俺の拳が砕けるまで、続けたいよ。
でも、それはできないんだ。
なぜなら、俺にはまだ残された攻撃手段があるからだ。それがあるのに、今の攻撃を続けるのは、わざと負けるに等しい行為だからだ。
それは、絶対にできないんだ。殺されたってできない。
なぜなら、それは侮辱だからだ。
俺自身への。
俺と全力で戦ってくれている、きみへの。
そして、誇り高く美しい、この力比べへの。
だから、俺は全力を出し切らなければならない。
俺という器に残った力の底の底まで、はみがきのチューブをこれでもかと折りたたんで出てくる最後の一塊まで、絞った雑巾が捻じ切れる直前に垂れ落ちる最後の一滴まで。
全てを出し尽くして、出し尽くして、出し尽くして。
そうしてこそ、どちらが強いかがわかるんだ。
そうしてこそ、初めてこの瞬間が永遠になるんだ。
だから、ごめんね、ウォルちゃん。
◇
突如、ブッチャーの動きが変化した。
相変わらずウォルへと打ち下ろしていた拳を、軌道の途中で変化させ、握っていた拳を開いたのだ。
拳を、グーからパーへ。
それだけの動きである。
いくらウォルでも、咄嗟に反応はできない。
迎え撃つためのウォルの拳が、ブッチャーの手のひらに受け止められる。
ぱしぃっ!
目が覚めるような衝突音がリングの上に響く。
そして、ウォルの小さな拳は、ブッチャーの巨大な手のひらに捕らえられていた。
「捕まえたよ」
にぃ、と、ブッチャーが嗤う。
ウォルは反射的に腕を引こうとしたが、それよりもブッチャーの動きの方が早かった。
握った拳を剛力で引き寄せ、自身の身体を回転させるようにウォルの腕を巻き込み、そしてその身体を腰で背負って投げ飛ばしたのだ。
一本背負い投げだ。
前後への体重移動の難しい構えだったウォルは一瞬対応が遅れ、まるで風船人形のようにブッチャーに背負われ、投げられた。
──受け身!
咄嗟に、できるだけ衝撃の少ない形でリングへの激突に備えたが、ブッチャーは徹底的だった。自身の身体を一緒に浮かせ、ウォルと一緒にリングの激突させたのだ。
それも、ただかぶせたのではない。激突と同時に、自身の肘が、ウォルに喉に突き刺さるよう、タイミングを合わせた。
おそらく、数ある投げ方の中でも、最も危険な投げ方だ。試合を決めるのではなく、相手を殺すための投げ方だ。
そして、二人の身体は折り重なるようにマットに激突した。無論、下がウォル、上がブッチャーである。
合わせて300㎏近い体重が生み出す衝撃が、ウォルの背を強かに叩いた。そして、ブッチャーの体重を乗せた肘が、ウォルの喉に突き刺さった。
「がはぁっ!」
人体の急所である喉を痛撃されたウォルが、少量の血とともに、苦悶の叫びを吐き出した。
普通の人間であれば、まず生きていないだろう一撃に、流石のウォルも悶絶する。数秒、動きが止まる。
ブッチャーはその隙を逃さなかった。ウォルの後頭部を力任せに掴んで引き起こし、剛腕で持ち上げ、そのままオクタゴンの金網へ──金網を支える鉄柱へと向けて突進したのだ。
当然、むき出しの鉄柱ではない。選手を事故から守るため、柔らかなウレタンで保護されている。しかし、鉄柱は鉄柱だ。ブッチャーの巨体が加速してそのまま叩きつければ、どれほどの衝撃になるか、計り知れない。
交通事故で、シートベルトを着けていなかった運転手が、フロントガラスに思い切り衝突するよりも、悲惨な状況になるのは間違いない。
そして、ブッチャーは一切の手加減をしない。
まだダメージから回復していないウォルの顔面を、思い切り鉄柱へと叩きつけた。
ごしゃぁっ!
人体と鉄柱の破壊される、耳を塞ぎたくなるような音が、会場中に響いた。
事実、頑丈なはずの鉄柱が、ウォルの叩きつけられた箇所を支点に、大きくへし曲がっていた。
つまり、鉄柱を曲げるほどの衝撃が、少女の頭部に叩きこまれたということだ。
おそらく、頭蓋骨は跡形もなく砕け、その中にある脳みそはミキサーに入れた豆腐のようにぐちゃぐちゃになっているに違いない。
観客の多くが、惨劇から目を背け、ぎゅっと目を瞑っていた。
誰しもが、少女は助からない、そう思った。
だが、誰よりも諦めていないのは少女自身だった。
鉄柱への激突で血まみれになった顔を、にぃと、狼が嗤うように歪め、自身を持ち上げるブッチャーの片腕を両手で掴み、身体を逆上がりの要領で持ち上げて、ブッチャーの腕へと絡みつけた。
「ぬぅっ!?」
先ほどの一撃で勝負が決まったと、一瞬油断していたブッチャーが、驚愕の声を上げる。
そして一瞬の間もなく、ウォルは飛びつき逆十字の要領でブッチャーの右腕肘関節をへし折っていた。
ばきぃっ!
「ぐむぅっ!」
脳髄を貫く重く激しい痛みに、今度はブッチャーの喉から苦悶の声が放たれる。
そして反射的にウォルの後頭部を放す。
ウォルは飛び跳ねるように距離を取り、そして互いが見合う。
ウォルは、血まみれの顔で。
ブッチャーは、片腕の肘関節を逆方向に曲げて。
お互い、心底楽しいというふうに、楽しくて楽しくてたまらないというふうに笑っていた。
まだ闘える、その幸福に酔いしれるように、笑っていた。
そして、第2ラウンド終了を告げるゴングが鳴った。
◇
「フィナくん、大丈夫か!?」
悲鳴のようなクレイグの叫びに、ウォルは、無言で頷いた。
おそらく、先ほど痛撃された喉が、まだ回復していないのだ。クレイグはそのことに気が付き、痛ましい表情で、ウォルの、血まみれの顔をタオルで拭った。
すると、顔自体はほぼ無傷であることがわかる。その代わり、額が大きく裂けていて、傷口から桃色の肉が見えていた。
おそらく、鉄柱との激突の瞬間、とっさに顎を引き、額でぶつかることを選んだのだろう。その選択は正しい。額の骨は、人体の中でも丈夫で分厚い骨だ。無論、常人ならば確実に死んでいたのだろう。ウォルの身体の特異性について承知しているクレイグでも、今、彼女が生きているのが信じられない。
それでも、あの容赦ない一撃が、いったいどの程度ウォルの身体にダメージを与えているのかわからない。特に頭部については、いくら意識がはっきりしているとはいえ、早急に精密検査を受けさせる必要がある。
「駄目だ、棄権しよう。これ以上の続行は認められない。試合前にも言ったが、僕には君を無事、リングから降ろす義務がある」
タオルを掴み、リングに投げ込もうとしたクレイグの腕を、ウォルが力強く押しとどめた。
クレイグが、聞き分けのない子供に難儀する父親のような表情で、ウォルを見遣る。
すると、ウォルは、静かな表情でクレイグを見つめ、首を横に振った。
その視線に、己の我を通そうという意地はない。戦いに没入しすぎた狂熱もない。ただ静かな、底の見えない清涼な湖のような意思で、クレイグを見つめていた。
その視線が、おれはまだ闘えるのだと、そう言っていた。
自分は、もっと傷つき、もっと絶望的な状況でも戦ったことがあるのだと、そう言っていた。
己の死線を見切ったことのある戦士だけが浮かべる、静かな闘志の込められた視線だった。
その視線を受けて、クレイグは、タオルを今にも投げ込もうとしていた手を降ろした。降ろさざるを得なかった。
ならば、セコンドとして、なすべきことをしなければならない。
屹度顔を上げたクレイグは、もう一度額の傷をタオルで拭い、傷口に、分厚く血止めを塗りこんだ。
「気休めだが、ないよりはましだ。」
そしてウォルの口にペットボトルを当ててやり、水を含ませてやった
これで、少しでも喉の傷が楽になれば、そういう思いだった。
ウォルは、うまそうに水を飲み下した。
「いいか、フィナくん。次のラウンドが最後だ。次のラウンドが終われば、僕はどうしたってタオルを投げ込む。それに、もしもきみが一度でもダウンすれば、その瞬間に試合を止める。例えきみに一生恨まれることになっても、絶対にだ」
ウォルは頷く。その視線には、クレイグに対する感謝が色濃く含まれている。
「今まで、ぼくは、何度もきみに驚かされてきた。最後にもう一度、きみを信じてみる。だから、フィナくん、きみを信じてよかったと、きみがこの宇宙で最強なんだと、僕に思い知らせてくれ」
ウォルは、力強く頷いた。
その瞬間、セコンドアウトのブザーが鳴った。
最後のラウンドが、始まった。
◇
もう、様子見はなかった。
お互い、全ての手の内を晒した。
後は、肉体の強さ、精神の強さ、魂の強さの比べっこだ。
そう、二人は叫んでいるようだった。
ウォルが、放たれた矢の勢いで、ブッチャーの懐に飛び込む。
ブッチャーはそれを迎撃しようとしたが、右腕はすでにウォルに破壊されている。左腕だけでは、先ほどのような連撃は不可能だ。
ウォルは、回転数の落ちたブッチャーの攻撃を見切り、ステップで躱すと、自身の間合いへと足を踏み入れた。
ブッチャーのむき出しの腹に、目の覚めるような左右のフックを叩きこむ。
「かっ!」
衝撃に押し出されるように呼気を吐き出したブッチャーが、ウォルの頭部を狙って左ショートフックを繰り出すが、ウォルはダッキングでそれを躱す。
そして再び、満身の力を込めた左ボディフックを、ブッチャーの肝臓目掛けて叩き込んだ。
「がはぁっ!」
苦悶の声を上げて、ブッチャーの身体が『く』の字に折れる。
つまり、それだけ顔の位置が下がる。
ウォルの、待ちに待った瞬間だった。
丁度殴り頃の場所にあるブッチャーの顔に、満身の力を込めた右ストレートを放つ。
拳は、そのまま、ブッチャーの顔面の中心へと突き刺さり、ブッチャーの巨体を吹き飛ばした。
ブッチャーはたまらず、たたらを踏んで後ろへ下がり、後ろへと尻もちをついた。
ボクシングなら、ダウンだ。
しかし、これはボクシングではない。それに、本来ルールを司るべき審判は、まるで愚鈍のように二人の戦いを眺めるだけだ。
誰もウォルを止めない。
ウォルは尻もちをついたままのブッチャーの顔を、横から思い切り蹴り飛ばした。
二人の体格差から、ミドルキックに近い蹴りだ。
蹴りの中で、一番威力のある蹴りだ。
全身のばねと体重を、そのまま叩き込んだ蹴りだ。
それが、ブッチャーの顔面に直撃した。
ブッチャーの巨体が横倒しにふっとんだ。
ウォルは、倒れたブッチャー、その顔面を踏みにいった。倒れた相手の顔面への踏みつけは、もっともKO率の高い攻撃の一つである。
しかし、頑健なブッチャーは、数度リングを転がって距離を取ると、巨体に似合わない俊敏な動作で立ち上がった。
そして、ウォルの顔面目掛けて、槍のような左ジャブを繰り出す。
追撃を試みようとしていたウォルは、辛うじてその逆撃を躱したが、流石に足が止まる。
二人は再び、リングのほぼ中央で見合っていた。
しかし先ほどまでと違うのは、ブッチャーの顔が、蛇口を捻ったような鼻血で真っ赤に染まっていたことである。
ウォルの右ストレートか、それとも顔面への蹴りか、いずれかが原因だろう。
鼻での呼吸ができないのだろう、ブッチャーは口で荒い呼吸を繰り返している。
そして、血の絡みついた歯をむき出しにして、にいと微笑う。
「楽しいよなぁ、ウォルちゃん」
ウォルは頷き、
「ああ、楽しいな」
しゃがれた声で、そう言った。
ブッチャーは嬉しそうに頷く。
「でも、そろそろ、この楽しい遊びも、終わりにしないといけないね……」
ブッチャーが、ふぅと、残念そうにため息をつく。
そして、ブッチャー独自の、あの構えを取った。
しかし、それはすでに片羽をもがれた鳥のような構えだ。何せ、右腕が完全に壊されているのだから。
ウォルは短く息を吸い込み、息を止め、一気に踏み込んだ。
凄い勢いで飛び込んでくるウォルに、お手本のようなカウンターを放つ。しかし、ウォルは先ほどと同じく、頭を振ってその一撃を躱す。
そして、再びボディへと攻撃を──。
その瞬間、ウォルは左側頭部に強い衝撃を受けた。
軽い脳震盪を起こし、思わず足を止めて軽く蹲る。
──しまった。
ウォルは心中で、ブッチャーという男の肉体の頑健さと覚悟の量を見誤っていた自身を罵倒した。
ウォルから見て左側へ攻撃があったということは、ブッチャーの右腕による攻撃があったということだ。
つまり、ブッチャーは、折れた右腕で攻撃したということだ。
無論、ストレートのパンチのように、肘関節を使った攻撃はできない。それは物理的に不可能だ。
しかし、巨大な拳を鈍器のように、例えばフレイルやモーニングスターと呼ばれる武器のように振り回して使うことならば可能だ。
ただし、のたうち回りたくなるような苦痛を意に介さなければ、の話だ。
ブッチャーは、それを意に介さなかった。少なくとも、その苦痛を超えるだけの覚悟を持ち合わせていた。
そして、油断したウォルへ、決して軽くない一撃を加えたのだ。
ブッチャーは苦痛に顔を歪めながら、しかし口の端だけを持ち上げて、奇妙に顔を歪めて嗤っていた。
「もらったよ……」
その巨体からは信じられないようなステップでウォルの後方へと回り込むと、そのアナコンダのように太い腕を、ウォルの首へと滑り込ませ、思い切り締め上げたのだ。
片腕の、変形チョークスリーパーであった。
「がっ……!」
短く詰まったウォルの声が響く。
しかし、まだ完全には決まっていない。
不吉な予感を覚えたウォルが、咄嗟に両手をブッチャーの腕と首の間に差し込むことに成功していたからだ。
それに、本来チョークスリーパーという技は、両腕を使って相手の首をクラッチし、締め上げる技である。いかに怪物のような腕力を誇るブッチャーとはいえ、片腕では限界がある。
ウォルは、そう思った。
しかし、ブッチャーは巧みだった。
左腕一本、肘を支点にして二の腕と前腕でウォルの首を締め上げながら、左掌を自身の左首に引っ掛け、梃子の原理を利用して、クラッチを決めていたのである。
普通の人間では、腕の長さが足りずそんな芸当はできない。まさに、彼にしかできないオリジナルホールドと呼ぶべき技である。
完全にウォルを捕らえたブッチャーは、その体勢のまま思い切り背をそらして立ち上がった。すると、ウォルの足は地面から離れ、ばたばたと宙を空しく蹴ることしかできない。
そして両手は、チョークスリーパーが完全に決まらないよう、ブッチャーの腕の下に差し込まれてしまっている。
これでは、攻撃の術がない。攻撃しようと首から手を引き抜けば、その瞬間に脳への血流はブッチャーの巨腕に堰き止められ、一瞬でブラックアウトするに違いない。
かといって、このままの体勢でも、ぎりぎりと締め上げる力はどんどん強くなっている。いずれ、呼吸か血流かのいずれかが止められ、気を失うことになるだろう。それとも、首の骨をへし折られるか。
──詰みか。
徐々に遠ざかりゆく意識の中、そう思うウォルがいる。
だが、ウォルの根底を為す戦士の魂が、容易く諦める自分を許さない。
戦え、最後まで。力尽きるまで、諦めるな。足掻いて足掻いて、足掻きぬけ。
ウォルは、宙づりになった身体を揺らし、反動を使って、ブッチャーの顔をつま先で蹴った。
当然、腰も入っていなければ、体重も乗っていない、足を振り上げる力だけを使った蹴りだ。頑健を誇るブッチャーにとってみれば、蚊に刺された程度の痛痒しか感じない。
「暴れなくてもいいよ、ウォルちゃん……。もうすぐ、楽になるからね。もうすぐ、痛みなんて感じる必要のない、天国に俺が連れて行ってあげるからね……」
ブッチャーは、ウォルの耳元でそう呟いた。
誰が邪魔しても、この腕を放すつもりはなかった。ウォルが失神し、失禁して脱糞し、ついに生命活動を止めるまで、絶対に締め続けるつもりだった。
そして、この少女は、永遠に自分のものになるのだ……。
ブッチャーは、蜂蜜のように甘やかな妄想に、優しく頬を綻ばした。
そうする間にも、ウォルは、何度も何度も、ブッチャーの顔面を、つま先で蹴った。
最初は本当に何の痛痒も感じない攻撃だったが、次第に、少しずつ痛みを覚える攻撃に変わっている。
ブッチャーは、それが、ウォルが宙づりになった身体を後方へと振って、勢いをつけて蹴り上げているからだということに気が付いた。
本来であればチョークスリーパーは、技をかけられた人間の真後ろに技者の身体があるからそんな芸当はできないが、今の変形のチョークスリーパーでは、ウォルの身体はブッチャーの身体のやや左全面にある。だから、後ろに空間があるため、そのような動作が可能となっているのだろう。
しかし、いずれにせよ、罠にかかって縊り殺される直前の獣の、最後のあがきに過ぎない。あんな不自然な姿勢では、何度蹴っても、ブッチャーは技を決して解かない。
だから、ウォルの運命は決まっている。
決まっている、はずだった。
しかし次の瞬間、勝利を確信していたブッチャーの首に、細長い何かが絡みついてきたのだ。
──不意打ちか!
反射的にそうブッチャーは思った。絶体絶命のウォルを救うために、例えばセコンドの青年が乱入してきたのか、と。
しかし、そうではなかった。
ブッチャーは自らの首を確認して、驚愕した。
なんとそこに絡みついているのは、今、彼の腕の中で締め上げられている、ウォルの両足だったのだ。
一瞬、なにが起きたのか理解できなかった。
ウォルは、前方を向いて身体を宙づりにされたまま、下半身を大きく後方へと反らせて、両足をブッチャーの首へと引っ掛けたのだ。
背中がほぼ完全に後方へ折り曲がらなければ、そんな体勢はできない。
そんなことが人体の構造的に可能なのか、真剣に疑った。
しかし、極端に身体の柔らかい新体操選手やサーカス団員などは、背中をほぼ完全に折りたたむ形で、うつぶせに寝転がった姿勢のまま、顔の前面に足を着くことができる。ほとんど猫のような軟体だが、訓練次第で人の身体はそうなるのだ。
そして柔軟なウォルの身体は、その動きを可能としていた。
ならば、先ほどまでの執拗な蹴り上げは、攻撃自体が目的なのではなく、逆に、蹴ることで後方への勢いをつけて、この姿勢へと持っていくのが目的だったのか。
やられた──。
そう考える間も、ウォルの両足は巧みにブッチャーの身体に絡みつき、四の字固めのような形で首を締め上げている。
まるで、蛇と蛇が絡み合い、お互いを締め付けるような、そんな状態だった。
二人の顔が、真っ赤にそまる。目が充血し、絞首刑に必死に耐える。
「くぅっ!」
「がぁっ!」
「くぅっ!」
「がぁっ!」
「くぅっ!」
「がぁっ!」
永遠に続くかと思われた勝負は、しかしやがて終わりを告げる。
ブッチャーの巨体が、静かに崩れ落ちた。
何が勝負を分けたのか。おそらくブッチャーのチョークスリーパーが片腕で、ウォルの足技がより強力に締め上げることが可能だったからだろう。
いずれにせよ、薄氷の勝利というべきだった。
荒く呼吸を繰り返していたウォルは、やがて静かに立ち上がり、意識を失ったブッチャーに一礼した。この男の性根が、どれほど常人の理解から逸脱したものだったとしても、間違いなく強敵だった。それは、ウォルが敬意を捧げるのに十分なほどに。
そしてウォルは、観客席へと視線を巡らせる。
しん、と静まり返った会場。誰しもが、常識を超越した戦いに言葉を失っていた。
ウォルはその静寂の中を歩く。そして金網へとよじ登り、右腕を突き上げた。
そして、会場全体を震わすような大音声で、勝鬨をあげた。
「──!」
少女の叫びの意味を、会場にいる誰もがわからないかった。
しかし、一つわかることがあるとするならば。
先ほどの戦いは、すごかった。
どちらの選手も、すごかった。
そして勝ち名乗りをあげた少女は、もっとすごいのだ。
ここに、すごい人間がいるのだ。おそらく、歴史に名をのこすほどのつわものが。
その理解が、爆風が広がるように観客たちへと感染した
次の瞬間、観客は、全員が総立ちになり、この可憐な少女の勝利を祝い、思い思いの歓声で少女の勝利を祝った。
その声の大きさで、会場が揺れた。
◇
リィとシェラは、テレビ中継でウォルの試合を観戦していた。
ウォルの対戦相手であるアントニオ・『ザ・ブッチャー』・ガレオンという男は、間違いない難敵だった。例えば、ウォルが一撃で仕留めた、レオン・オリベイラなどとは比較にもならない。
正しく恐るべき敵だった。
その敵を相手に、ウォルは勝利した。何度も危ない場面があったが、最後に立っていたのはウォルだった。
勝利の瞬間は、シェラも思わず歓声をあげてしまった。
だが、観客席は静まり返ったままだった。
シェラには彼らの気持ちがよくわかる。
目の前の戦いがあまりに慮外すぎて、どう反応すればよいのか、反応すべきなのかがわからないのだ。
そんな観客に対してなのか、金網に駆け上がったウォルが、右手を天に突き上げながら、肺腑を空にするように大音声で勝鬨を上げた。
「──!」
一気に観客席が沸き立つ。怒号のような歓声が飛び交う。
その中で、再びウォルは叫んだ。
「──!」
少女の勝利に沸き立つ会場の歓声を圧して余りあるほどの、咆哮であった。
それは、叫び声だった。意味のない吠え声ではない。明らかに言葉だった。それも、この会場にいる全ての人間に理解出来ない、聞いたことのない言葉だった。
会場にいるだけ人間だけではない。TBSBのカメラを通じてテレビや携帯端末を観ている数億の人間のほとんどにも、その意味は理解出来なかった。勝利に歓喜した少女の激情が、喉から迸っただけだと思った。当然だろう。その言葉は、この世界に存在するどんな言語体系にも属しないものだったのだから。
だが、シェラには、その言葉の意味が理解出来た。シェラと他のほんの数人──デルフィニアという大国が存在した異世界を知る極少数の人間には、理解出来てしまった。
ウォルは叫んだのだ。今、この試合を観ている全ての人間に対して。今後この試合を知るであろう、全ての人間に対して。
ただし、この世界の人間に対してではない。
この世界にいるかも知れない、あちら側の世界の人間に、あちらの世界の言葉で、だ。
『俺を頼れ!』
たった2、3の単語から出来た、簡潔な言葉だった。だが、これほどに熱く、暖かで、力強い言葉は他に存在し得ないだろう、それは言葉だった。
シェラは唐突に理解した。ウォルのその言葉の意味を。そして、ウォルが、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンという名前を用いて、アイドルを、そして格闘技のチャンピオンを目指すと言った、その真意を。
この世界にその名を轟かすといった、本当の意味を。
──この方は、この世界に存在するかも知れない、あちらの世界の人間、全てを救い導くおつもりなのだ。
脳髄で生じた理解は雷鳴となってシェラの全身を貫いた。
そして、最初に感じたのは、言葉で表すことのできないほどの、正しく恐るべき畏敬の念であった。
リィもルウも言っていた。こちらの世界とあちらの世界を行き来するのは、ラー一族の人知を外れた力をもってしてもほぼ不可能ごとなのだ、と。
つまり、この世界に、自分たち以外の異邦人がいる可能性は、ほとんど存在しないのだろう。
だが、少なくとも、シェラ、レティシア、ヴァンツァー、そして他でもない、ウォル自身の例がある。例えそれが極々限られた例外なのだとしても、世界を渡った人間は確かに存在するのだ。
ならば、自分達以外の例外が、絶対に存在しないとどうして言い切れるだろう。そして、その例外が、今、この瞬間、言葉も通じない異世界の地で、冷たい雨と孤独に凍え震え、飢えと心細さに絶望していないと、どうして言い切れるだろう。
もしも、万が一、億が一の可能性でそんな人間が、この無限に広がる宇宙の片隅にいて、そして、伝説の英雄と同じ名を持つウォル・グリーク・ロウ・デルフィンという少女を知り、元の世界の言葉で綴られた先ほどの雄叫びを聞いたのならば。
その異邦人は、何を思うだろうか。
──それは、奇跡だ。
シェラは、魂の奥底から湧き上がる身震いを抑えるように、自らの肩を搔き抱いた。
例えば、闇夜の森に怯える迷い子が、父母の、自分を呼ぶ声を聞いたように。例えば、一滴の水も一欠片のパンもなくぼろぼろの小舟で大海原を彷徨う遭難者が、水平線の彼方からこちらへ向かってくる救助船を見つけたように。
その言葉は、どれほど心強いだろうか。その少女は、どれほど頼もしく思えるだろうか。
ウォルは、知っている。自身がその言葉を口にすることの意味を、そして重さを。
シェラも理解した。ウォルの、獅子の遠吠えのような言葉に刻まれた、圧倒的な量の覚悟を。
この方は、絶対に見放さない。先ほどの言葉を聞いて、自分に助けを求めた人間が、例え何百人、何千人、何万人だったとしても。それらの人が、どれほどの苦境にあり、それを助けるのがどれほど困難だったとしても。
その全ての手を握り、そして救い上げるだろう。
そのためだけに人生を費やしても構わない。ウォルは、そう言ったのだ。
──この方は、こちらの世界でも、王たる責めを負い続けるつもりなのだ。
そしてシェラの双眸から、とてつもない熱量をもった涙が、とめどなく溢れだした。
シェラは一瞬遅れてそのことに気が付き、そして体を折るように、思わずその場に跪き、頭を垂れた。
喉の奥から、堪えきれない嗚咽が湧き上がる。シェラはそれを、憚ることなく解き放った。幼児のようにしゃくりあげながら、あまりに恐れ多くて、画面のウォルを見ることすらできなかった。
それは、感動だろうか。それは、感謝だろうか。それは、歓喜だろうか。
いや、それは、悲しみだった。
シェラには、ウォルが悲しかった。悲しくて悲しくて堪らなかった。
王という枷から解き放たれ、ようやく己が心のままに人生を歩むことが叶う身の上となったウォルが、どうしてまた、他者のために人生を費やす責任があるだろう。
確かに、この世界に、あちらの世界から迷い込んだ不幸な人間がいないとは言い切れない。しかしそれは個人が負うべき不運と苦難であり、ウォルが責任を負う必要など一欠けらもありはしないはずなのだ。
だが、ウォルには違った。ウォルは、それらの人を、一人も見捨てないと誓っているのだ。
──どうしてこの方が、この方だけが、ここまで苛烈な人生を送らなければならないのか。
シェラには理解できない。少なくとも、シェラには、そのような人生を送る覚悟がない。
まして、この世界に、もしかしたら、そんな人間は一人もいないかもしれないのだ。
仮に、この世界に、あちらから迷い込んだ不幸な人間が、一人でもいるとわかっているならば。その事実が確定しているならば。
シェラも、その誰かを救おうと尽力するかもしれない。少なくとも、そのために費やす努力を理解はできる。
しかし、一人もいないならば。その可能性の方が、いる可能性よりも、遥かに大きいならば。
不毛の野に、水をまき続けるような行為だ。芽が出ないことを最初から知りながら、理解していながら、それでも一生を費やして、只管に荒野に水をまき続けるのだ。
それが無駄であることを承知の上で。荒野は荒野のままだと知りながら。
そんなことに、一生を捧げると、ウォルは言っているのだ。
その有り様が、シェラには悲しかった。とてつもなく悲しかった。
「陛下……陛下……」
嗚咽とともにただただそう繰り返すシェラは、思わず、ウォルの配偶者であるリィを仰ぎ見た。
リィは、無言だった。無言で、その緑柱石色の瞳に隠しきれない怒気を孕ませて、画面越しにウォルを睨みつけていた。