懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
試合後、ウォルは試合会場の近くの病院に緊急入院することとなった。
鉄柱がへし曲がるほどの衝撃を頭部に受けたのだ。意識や動作に異常がなくても、検査入院は必須である。
ウォル自身はそんなもの必要ないと駄々をこねたが、鬼の形相のクレイグがほぼ無理やり、ウォルをタクシーに放り込み、そのまま近くの総合病院へと叩き込んだ。
「試合中、僕は散々きみのわがままを聞いたんだ。ならば、今度は僕の言う事の一つや二つ、聞いてくれてもバチは当たらないと思うんだがどうだろう?」
爽やかな笑顔でこめかみに青筋を立てた青年の迫力に飲まれ、ウォルはこくこくと頷く以外選択肢が無かった。
とにかく、頭部を中心に、後はダメージの大きかった喉等、各種精密検査を受けたが、見た目のダメージ以上の重篤な症状はなかった。
額の傷も、ぱっくりと綺麗に裂けている分、縫合はうまくいき、組織再生療法と合わせて治療すれば傷跡もほとんど残らないだろう、との診察であった。
それを聞いて、クレイグは、盛大に安堵の吐息を吐き出した。
「クレイグどの、どうしてそんなにおれのことに心配してくれるのだ?戦えば手傷を負うくらい当たり前のことであろうに」
頭を包帯でぐるぐるにし、しかし他人事のように呑気な調子のウォルに、クレイグはじとりとした視線で睨み、
「ウォルくん、きみは自分の美貌の価値というものをもっと自覚するべきだ。何度も繰り返すが、選手を無事にリングから下ろすのがセコンドの役割なんだぞ。きみの顔に傷が残る事態になれば、一体どんな批判が僕に向けられるか、分かったものじゃない」
特大のため息を吐きながらそんなことを言った。
そんなやり取りがあって、とりあえずその日は1日、万が一の事態に備えて入院ということになった。ウォルは当然、そんな必要はないと帰りたがったが、有無を言わさぬ調子でクレイグが手続きを完了させた。
そんなわけで、頭部に厚く包帯を巻いたウォルは、病室のベッドの上、何をするでもなくぼーっと天井を見上げている。
すると、病室のドアが控えめにノックされた。
「どうぞ」
ウォルがそう言うと、開かれたドアから姿を見せたのはTBSBのスタッフであるノーマンだった。
今日、試合の中継を担当してくれていたはずだから、その帰りに見舞いに寄ってくれたのだろう。
それにしても、時間はかなり遅い。試合が終わってから、諸々の処置や検査が終わるまで、3時間ほども経過している。
その間待たせてしまったのだとすれば、申し訳ないことだ。ウォルは少し慌てたように、ベッドの上で居住まいを正した。
そんな少女を、相変わらず少し線の細い、気弱そうな面持ちの青年は、苦笑とともに暖かい視線で見遣る。
「どうぞお構いなく、フィナくん。元気そうだね。安心したよ」
「ノーマンどの、もしかすると、おれのためにこんな時間まで待たせてしまったか。申し訳ない」
ノーマンは首を横に振った。
「僕達こそすまない。まさか、きみのデビュー戦がこんなことになるとはね」
ノーマンが疲れたような微笑みを浮かべる。そして、ベッドの近くに置いていた折りたたみ椅子を引っ張り出し、そこに腰掛けた。
「もっと、興行団体を選ぶべきだった。まさか、こんな露骨にきみを潰そうとするとは……。『ティラボーンMMAコロッセオ』の主催者にはTBSBを通じて、正式に書面で抗議を入れることになった。こんな非道を、今後二度と認めるわけにはいかないからね」
「ノーマンどのにはご迷惑ばかりをおかけするな。まことに相すまん」
「謝るなら僕達の方だ。危うく、君のこれからの一生に、癒えることのない傷を負わせてしまうところだった。傷跡は残らないと聞いているが……本当にすまない。こんな事態を招いた責任は、僕たちTBSBにある。どんな補償ができるかわからないが、できるだけの賠償をさせてもらいたい」
ノーマンの言葉に、驚いたようにウォルが首を横に振る。
「何をおっしゃるか、おれはノーマンどのに恩義こそあれ、謝罪を受けるいわれはない。むしろ、おれのわがままで試合をさせてもらい、その放映までさせてしまったのだ。謝るとすれば、それはおれのほうだ」
「フィナくん、きみの心遣いは嬉しいが……」
「それにだな、この程度の手傷、別に大したことではないぞ。ノーマンどのもクレイグどのも心配性だ。戦士が戦場で戦ったのだ。そこで負った全ての傷は名誉の負傷、称えられこそすれ、そこまで心配されるものでもないと思うのだが」
ウォルは、口を尖らせるような調子で不服そうに言ったが、ノーマンは、先ほどのクレイグと同じ調子でため息を吐き出した。
「きみの性自認がどうあれ、きみの見た目は愛らしい女の子だぞ。万が一顔に傷が残る事態になれば、僕はきみの親御さんになんて謝ればいいんだ?きみは、きみという人間の価値を、もっとよく理解する必要がある」
そう、優しい口調で言い諭した。
確かに、立場を置き換えて考えてみれば、もしウォルがよそ様の娘様を預かることがあるとして、その間に顔に一生消えない傷などつけてしまおうものならば、一体どのように責任をとればよいか、本気で頭を抱えるだろう。
であれば、ノーマンやクレイグがウォルを心配するのも当然の話ではあるのだろう。少なくとも、外見は愛らしい少女のウォルだから、彼らの気持ちも十分理解できる。
ウォルはそう納得した。
「分かった。今後はもう少し、この身体を大切にするとしよう」
なんとも微妙な言い回しではあるが、伝えたいことが伝わったらしいと、ノーマンは理解した。
そして、表情を変えて続ける。
「ところでフィナくん、あの試合の反響だが、とんでもないことになっているぞ」
「反響?」
首を傾げたウォルに、ノーマンが、自身の携帯端末を見せる。
そこに表示されたのは、共和宇宙でも最も広く普及したSNSの、TBSBのアカウント画面であった。
そこには、ウォルが、勝利の雄叫びをあげる瞬間の写真とともに、様々なコメントが並び、それが次々と更新され、一瞬もとどまらない。
凄まじい数のコメント、感想が書き込まれ、あっという間に流れていくその様子は、この世界に、ウォルという少女が拡散していくのと同義であった。
「僕は知らなかったんだが、きみの対戦相手だったアントニオ・『ザ・ブッチャー』・ガレオンという選手は、表立った戦績こそないものの──こういう言い方が正しいのかわからないが──裏の世界では相当のビッグネームだったらしい。そのことを誰かが広めて、この話題がさらに燃え盛っている。凄まじい真剣勝負だったんだという意見、フロックだ、八百長試合に違いないという意見、いろんな意見が丁々発止の有様で、とどまるところを知らない。中には、きみは共和宇宙MMAチャンピオンよりも強いに違いないという意見もある。きみのことを、闘う女神、史上最強の女王と呼ぶ人間もいる。このままいけば、明日には全共和宇宙規模できみの名前が知れ渡ることになるぞ」
ノーマンは嬉しそうに続ける。
「それに、きみの試合の動画視聴回数も、今日中にTBSBの歴代コンテンツの視聴回数ランキングを塗り替えるのは間違いない。些か内容が過激になってしまった点については賛否あるようだが、おおむね、きみの堂々とした戦いぶりに肯定的な意見が多い。間違いない、きみは明日からスターになる」
目をきらきらさせ、弾んだノーマンの口調は、まるで自分のことのように無邪気に喜びに弾んでいる。
無論、有名になるということは、それだけの厄介ごとを抱えることにもなるので、素直に喜んでいい場合とそうでない場合があるのはノーマンも承知だが、ウォルが、自身の名前を全宇宙に知らしめたいという目標を持っていることを承知しているので、今回は素直に喜んでいい場合と判断しているのだろう。
そんなノーマンの様子を見て、ウォルは、肩の力を抜くようにほっと一息し、
「やれやれ、これで目標に、ようやく一歩近づいたといったところか」
前途多難であろう自身の運命を見定めているように、少女には些か似つかわしくない、やや苦み走った、皮肉な微笑みを浮かべた。
そんなふうに表情を曇らせたウォルを見たノーマンが、少し慌てた調子で、
「すまない、試合で疲れて怪我までしているのに、長居をしてしまった。それに、女性の病室に、男が一人で訪れるのはあまりよろしくない。少し無神経だったね」
そういって立ち上がり、折りたたみ椅子を仕舞った。
「明日から、僕たちは忙しくなるぞ。TBSBも、きみの活動を全面的にバックアップする方向で動いている。もしかすると、芸能局の連中からも、きみに正式なオファーが入るかもしれない」
「そうするとどうなるのだ?」
ノーマンは一つ頷き、
「もしもきみが望むなら、例えば歌、踊り、バラエティー的な要素を交えて、きみの個性にもっと焦点を当てた企画が組まれるかも知れない。無論きみの希望次第だけど、例えばドラマのキャスティングの話なんかがあってもおかしくない」
「なるほど、アイドルへの道の第一歩ということだな」
「そうだね。君の夢をかなえるための日々が始まることになる。きっと、すごく忙しくなる」
ノーマンはわくわくした様子でそう言った。
そして、部屋から辞去ようとして、思い出したように振り返り、
「そういえば、フィナくん、きみが勝ち名乗りをあげたとき、きみは何て言っていたんだ?うまく聞き取れなかったし、そのことでSNSもずいぶん盛り上がっているんだが……」
ウォルは苦笑して、
「別に大したことは言っていない。おれの故郷の言葉で、この勝利を神に捧げるとか、その程度の意味だ」
「ふぅん……。とにかく、今日はゆっくり休んでね。それじゃあ」
納得したのかしていないのか、そう言ってノーマンはウォルの病室を後にした。
閉じられた病室の扉を眺めながら、ウォルは肩を一つすくめた。
目前に大問題が控えているのを、ウォルは承知していたからだ。
あの言葉を、きっと自分の同盟者である少年──リィは、聞いただろう。
そして、リィならば、全てを理解しただろう。
──きっと、怒っているに違いないな。
ウォルは激怒に染まった緑柱石色の瞳を思って、重たいため息を吐き出した。リィが本気で怒った時のことを──国王の執務室でしでかした前代未聞の夫婦喧嘩を思い出してしまったのだ。
──まさか殴り合いの喧嘩にはなるまいが、はてさてどうなることやら。
そして、気持ちを切り替えるように一つ息をついた。あまり先のことを心配しても仕方がないと、首を横に振る。
そのまま、部屋に設えられた時計を見た。
もう、時間はだいぶ遅い。試合の疲れもあり、流石のウォルも強い眠気を覚えていた。
そろそろ寝るか。
そう思ったウォルは、洗面台で手早く歯を磨き、そのままベッドに直行した。
部屋の電気を落とし、ベッドライトも消すと、部屋は深い闇に包まれる。
ウォルは、目を閉じた。すると、ほとんどまもなく、彼女は深い眠りへと誘われた。
夢は見なかった。ただ、泥のようにウォルは眠っていた。
そして、どれほどの時間が流れた頃合いだろうか。
ウォルは、いつの間にか目を覚ましていた。何を感じたわけでもない、はずだ。例えば、ふいに人の気配を感じたとか危険を感じ取ったとか、そういうきっかけで目覚めたのではない。
ただ、何の理由もなく、ウォルは目覚めた。
そして気が付いた。自分の身体が、ぴくりとも動かないのだ。
──金縛り、というやつか。
ウォルは不安を感じるでもなく、冷静に自身を分析していた。
あちらの世界で、例えば国王の執務が忙しかったときなど、このように、意識だけがはっきりして、身体が動かないということが何度かあった。そのときは、不思議なこともあるものだと思うばかりだったが、こちらの世界の常識では、深い疲労状態にあるとき、意識ははっきりしているのに体は睡眠状態にある、そういうときにこういう状態になるのだと勉強した。
知ってみれば、どうということはない。つまり、意識と肉体の、それぞれを司るスイッチが誤作動を起こしているだけなのだ。
ウォルは、深く呼吸をした。こういうときは慌てず騒がず、深呼吸をしながら、ゆっくり身体を動かすのが効果的だと知っていた。
数度呼吸をしていると、しかしウォルは、この部屋に、自分以外の何者かの気配を感じた。
害意は感じない。むしろ、どこか懐かしい、不思議な暖かさを感じる。
ウォルは、ほとんど動かない身体、その首のあたりに意識を集中させ、なんとか首を巡らせることに成功した。
気配は、病室の洗面台のあたりから強く感じる。ウォルは、深い闇の中、洗面台をじっと見つめた。
すると、洗面台の蛇口の先から、何かが少しずつ、にじみ出るように姿を現しつつるのが見えた。
蛇口と同じ太さのそれは、洗面台に溜まり、まるで不定形のスライムのような見た目になっていた。
この暗がりの中では、それの色ははっきりわからないはずだ。ただ、鈍く発光しているのか、それは暗紅色の不定形の物体であることがわかる。
その物体が、少しずつ、蛇口から染み出てくる。やがて洗面台からこんもりと盛り上がり、溢れたそれが、病室の床にべしゃりと落下した。
ぴくぴくと震えるその物体は、よくよく見れば、いくつもの目玉が、そして唇のないむき出しの口があった。まるで、安物のホラー映画に出てくる化け物のような有様だった。
その不定形生物が、目をぎょろぎょろと動かし、やがてウォルの方に視線を集中させて静止した。そして、ふるふると触手を伸ばし、尺取虫のように、少しずつウォルの方へと向かってくる。
普通の人間であればこれは悪夢かと思うような光景であったが、どうしてかウォルは恐怖を感じない。それは、例えば彼女の鍛え抜かれた胆力の賜物ではなく、純粋に、この光景が恐ろしいものに思えないからだった。
そんな自分を、ウォルは、まるで第三者のような視線で見ている。
自分に少しづつ近づいてくる物体は見た目にあれほど奇怪で恐ろしげなのに、どうして自分はこんなに落ち着いているのだろうか。
暢気な調子でそう考えていると、その物体の触手が、ついにベッドの上に上がってきた。
何かを探すように一瞬逡巡したそれは、しかしウォルの顔のすぐそばに這い寄ってくる。
そして触手の先に、目玉が一つ、口が一つ現れる。
その視線をウォルの方に向けて、その口が、言葉を紡ぐ。
「おお、われらがたいようよ、どうか、はいえつたまはりたく……」
その言葉は、歓喜に打ち震えていた。
同時に、その目玉から、ぽろりと涙が落ちる。
やがて、触手の先に次々といくつもの目玉が、口が現れ、涙を流しながら、嗚咽に揺れる声で口々に言う。
「いくとせぶりのまばゆさ……」
「いくとせぶりのあたたかさ……」
「ありがたや、ありがたや……」
「おちぶれはてしこのみどもに、まっこともったいなく、もったいなく……」
奇妙に甲高い、虫の鳴き声のような声が、いくつも重なって聞こえる。
そして、そのどれもが、深い悲しみと歓びに満ち満ちた、慟哭だった。
ウォルは、それを、どこか懐かしく、奇妙な心持で聞いていた。
ああ、この感覚は覚えがある。
そうか、これは──。
そして、ウォルは目覚めた。
心臓が早鐘を打つ息苦しい感覚とともに、身体を起こす。
病室は、相変らず真っ暗闇だ。
ウォルは手探りでベッドライトを点灯させた。
薄明りに照らされた室内に、スライム状の不定形生物はどこにも存在しない。洗面台の蛇口からは、何も流れ出ていない。
ただ、ウォルの枕元だけが、まるでナメクジがそこを這ったように、ぬるりとした粘液で濡れていた。