懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第百十九話:離別

「おれと結婚するのは、その願いの、跡継ぎが欲しいからだな」

 

 リィが、ウォルを見つめながら、そう言った。

 質問ではない。確信だった。

 ウォルなら、そうするだろう。ウォルは、自身の望みを叶えるためなら、きっと手段を選ばないだろう。例え彼女が元は男で、子供を産むという行為にどれほど肉体的な負担と精神的な覚悟がいるのだとしても、それを選ぶだろう。

 リィには、その確信があった。

 そんなリィを横目に、ウォルは力なく苦笑しながら、重たそうに口を開いた。

 

「時の流れが同じならよかった……」

 

 誰に聞こえるでもなく、呟くような声だった。

 例えば人生に疲れ果て、神を呪った人間が、天に向けるような呟きだった。

 その時、肌寒い風が、二人の間を通り過ぎた。

 

「お前がおれの世界で6年を過ごした時に、この世界ではわずか2週間しか経っていなかった。おれが40年を生きた間に、お前はたった半年しか時を過ごしていなかった……」

「その理屈なら、お前がこちらの世界に来てから、もうすでにあちらの世界で、いったい何年の時間が経過しているんだろうな」

「それは、こちらの世界とあちらの世界の時の間尺が常に一定ならば、の話だろう?」

 

 ウォルは悪戯気に微笑み、リィに問うた。

 リィは何も答えなかった。それはつまり、ウォルの言葉が正しいからだ。

 時は過去から現在へ、現在から未来へ流れゆく。それはどの世界でも共通の法則だとして、しかし流れの速さは一定ではない。リィの世界とウォルの世界の時の流れの速さが逆転し、ウォルの世界での刹那がリィの世界の悠久となることは十分ありうる話なのだ。

 ならば、例えばウォルの愛する人達がこちらの世界を訪れるのは、こちらの世界のウォルが寿命で死んだ後ということが、どうしてないと言い切れるだろうか。

 

「もしもあちらの世界とこちらの世界の時の流れが常に一定のものなら、おれもこんなことに気を回さずに済んだのだがな。そうでないならば、おれが死んだ後のことも考えておかねばならん。煩わしい限りだがな」

「その手段が、おれとの間に子を設けるということなのか」

「仕方ないではないか。他と番おうにも、適当な相手が見つからん。その点、お前とならば、あちらの世界でも夫婦だったわけだし、一応は筋も理屈も立つだろう。それに、なんというか、まぁ、お前になら、抱かれてもいいかと、そうも思った」

 

 頬の辺りを掻きながら、恥ずかし気にウォルは言った。

 リィは流石にうんざりした顔を一瞬浮かべたが、気を取り直したように続ける。

 

「確かにお前が懸念するとおり、あっちの世界のみんなが、おれ達みたいに、こっちの世界に来ることがあり得ないとは言い切れない。だから、おれは、お前の想いが間違えているとは思わない。お前の懸念ももっともだと思う。でも、それを我が子に引き継がせるというなら、話は全く違う」

 

 リィの烈しい視線の先には、何かを諦めたような視線で天を仰ぐ、ウォルがいる。

 ウォルの視線の先には、分厚く、今にも雨を落とさんばかりの雲があるだけだ。

 ただ、リィには、ウォルがその先にある、星か、それとも別の世界に遺してきた何かを見つめているように思えた。

 リィはそんなウォルを、怒りを、悲しみを、同情それとも共感を、それぞれ等分に込めた、強い視線で見遣る。

 

「お前はさっき言ったな。他人に笑われても、蔑まれても構わない、と。その覚悟は立派だ。お前がそういうふうに生きるのを、おれは止めない。お前らしいとも思うよ。だが、他人に笑われるような、蔑まれるような生き方を、お前は我が子に強いるのか。それを、母親であるお前が望むのか。お前は生まれてくる我が子を、祝福ではなく呪いをもって迎えるつもりなのか」

「おれの望みは呪いなのかな、リィ」

「子の生き様を親が願う。子の生き方を親が決める。それが人間の社会じゃ珍しくはないことくらい、おれだって弁えている。だが、それが尊ばれるのは、我が子の幸せを望む親心があってこその話だ。最初から我が子に茨の道を歩ませるつもりで、そしてその道が子供自身の幸福に繋がらないと親が理解しているのなら、その願いを呪いと呼ばすに何と呼ぶ?」

 

 ウォルはリィの言葉に言い返そうとしなかった。ただ、じっと天を見つめていた。

 

「おれは、それが王族の宿命だと思っていたがな」

 

 それは、反駁にもなっていない反駁だった。そのことを、誰よりもウォル自身が理解していた。

 然り、リィは続ける。

 

「今のお前はもう、王様じゃない。傅く家来もいなければ、重たい王冠もない。他ならぬお前自身がそう言っていたじゃないか。なら、どうしてお前の子供が、王族としての特権もなく、ただ冷たい枷だけを嵌められて生きなければならないんだ?」

 

 ウォルとしても返す言葉がないのか、黙って天を見上げている。

 

「もしもお前が王様のままで、その子供として生まれた王子や王妃なら、自分が望まない宿命を、生まれながらに背負うこともあるだろう。己の意にそぐわない人生を生きなければならないこともあるだろう。そういう時は、自分の生まれだとか血筋だとか、王家の歴史だとかを恨めばいいんだ。だが、お前の子供は違うじゃないか。お前の子は、生まれも血筋も歴史も恨めない。なら、お前の子はお前の願いを抱えきれなくなったとき、自分の母親を恨んで生きることになる。ウォル、お前は我が子に、母親を恨み続ける人生を送らせるつもりか。それとも、母親の望みをかなえることが出来なかった無力感を、子に植え付けるつもりか」

「おれの子に生まれてしまった宿命と諦めてもらうほかないのだろうなぁ」

 

 ウォルが、力なく微笑みながら、そう言った。

 その言葉を聞かなかったように、リィは教え諭す口調で続ける。

 

「ウォル、お前も分かってるんだろう。自分がしようとしていることが、どれほど罪深いことか。お前の子が受け継いだ呪いは、そのまま次の世代に引き継がれる。なぜなら、お前の願いに期限がないからだ。そうすれば、恨みが恨みを、呪いが呪いを生む悪循環だ。誰も幸福にならない。そんな運命を、お前は作るつもりなのか。それだけの覚悟が、お前にはあるのか」

「……リィ、お前の言うことは正しい。おれとて、お前のように考えたさ。この愚かな願いが、おれ本人ではなく、子への、あるいはその先の世代へのとてつもない負担になるだろう、そう理解もしているつもりだ」

 

 ウォルは、観念したように、軽く息を吐き出した。

 

「しかしな、リィよ。お前も分かるだろう。世界を渡った人間がどういう境遇に置かれるか。そして、周りに誰一人知る人間はおらず、言葉はわからず、行く宛ても拠り所もないということがどれほどつらく恐ろしいのかを」

 

 リィは無言だった。ウォルの言葉は、リィにとっても全く理解できないことではなかったからだ。

 リィはあちらの世界に迷い込んだ時、たまたま最初に出会ったのが、ウォルという、リィにとって最高の理解者だった。だからこそ、リィはあちらの世界の人の環に馴染むことができ、たくさんの大切な知己を得ることができた。幸福で実り多い時間を過ごすことができた。

 しかし、もしも、ウォルと出会うことがなかったならば。

 リィは、果たしてどのように6年間もの年月を過ごしたのだろうか。野の獣のように、草むらに潜み、獲物を狩り、雨露で喉を潤しながら、相棒であるルウの来訪を待ち続けたのか。たった一人で、誰とも言葉を交わすこともなく。冷たく、誰の体温も感じられない地面を寝床にし続けて。

 もしかすると、リィならば、その環境を苦にしなかったかも知れない。何故なら、彼は自身を狼の変種と定義しており、人と交わらずに生きることを当然としているからだ。

 だが、普通の人間ならばどうか。リィのような幸運に恵まれず、異世界での人の環に加わることもできず、ただ獣のように生きなければならないとして──果たしてそのような生き方を、人間の生き方と呼べるのか。その理不尽に耐えることができるのか。

 人ではないリィには、分からなかった。

 

「おれはあらかじめ、自身の住む世界とは異なる世界があるということをお前に教えられ、ウォルフィーナの記憶のよってこちらの言葉を扱えるという幸運があってなお、異なる世界へと迷い込んだのだと知った時は途方に暮れた。そんな時、お前がこの世界にいてくれると知らされて、どれほど嬉しかったか、心強かったか、言葉にすることもできない」

「だから、お前は、そんな人達の寄る辺になろうとしているんだな」

 

 ウォルは力なく頷く。

 

「もし本当にそんな不運な人間がこの世界にやってきたとして……おれの力がどこまで及ぶかわからん。例えおれの名をこの世界の隅々にまで轟かせたとして、それでも彼らの耳に届くとは限らんのだからな。まして、それがおれの子や孫の代になったとき、どこまで力になってやれるのか、それこそ未知数だ。しかし、ただ一つ言えるのは、おれが何もしなければ、この世界にやってくる異邦人には何の支えもないこと。そんな人間がまともな生活を送るだけの幸運に恵まれる可能性などほとんどないこと。そして、その不幸な誰かが、おれにとって大切な人達かもしれないことだ」

 

 ウォルは、まるで涙を流していないのが不思議のような、無垢で透明感のある表情のまま、人形のような微笑みを浮かべて、リィの方を向いた。

 

「なぁ、リィ。今から、一緒に寝所へ行かないか」

「……どういう意味だ」

「これからおれを抱いてくれないかと、子種を恵んでくれないかと、誘っているのだ」

 

 淡い微笑みを浮かべながら、そんなことを言った。

 ウォルが、女として初めて男を誘った言葉は、まるであちらの世界でのリィのように、色気の欠片もない台詞だった。

 リィは何も答えなかった。まるで色硝子のようなウォルの瞳を、じっと見つめている。

ウォルも、リィの、悲しみに染まった緑柱石色の瞳を見た。そこには、情欲の炎など、一欠けらも存在しなかった。

 ウォルは、諦めたようにため息を吐き出した。

 

「今なら、お前に抱かれてもいいような、そんな気がしたのだがな」

「悪いが、今はこっちの方が、そんな気分じゃない。男の方がやる気にならないと、どうしたって俺とお前はつがえないだろう」

「それはそのとおりだな。あいにくおれは、やる気のない男をその気にさせる、媚態も技術もない、ただの生娘だ。お前のほうから押し倒してもらわねば、どうしようもない」

 

 くつくつとウォルは力なく微笑う。

 そんなウォルを、リィはちらりと見遣り、

 

「それにウォル、今の話を聞いて、おれがお前との間に子供が欲しいと考えると思うのか?」

 

 そんなことを言った。

 自らを拒絶するリィの言葉に、しかしウォルはうろたえず、ただ残念そうに言った。

 

「やはり駄目か?」

 

 リィは再び、ウォルから視線を外し、先ほどのウォルと同じように、分厚い群雲を眺めた。

 

「おれは、自分が、人の親になる資格のある存在じゃないって知っている。だからウォル、あちらの世界でポーラと子を為し立派に育てたお前を、本当に尊敬しているよ」

 

 言葉はウォルを褒めていたが、心はそうではないのだと、リィの苛烈な視線が言っているようだった。

 ウォルは、自身の罪を糾弾されたように、悲し気な視線をリィに向けていた。

 

「それでもウォル、いつかおれが子供を持つようなことがあったとして、もしもおれがその子に愛情を感じることができたなら……その子には、できる限りの愛情を注いでやりたい。そして、できる限り、自由な生き方を選んでほしい。少なくとも、その選択肢を増やしてあげられるよう、おれはその子を育ててあげたいと思う」

「親として当然の願いだな」

「だからウォル、おれは、お前との間に、子供を作ることができない。最初から呪いを与えるのが目的で──呪いを引き継がせるために子を為すなんて、そんな恐ろしいこと、おれにはできないよ」

「そうか……」

 

 ウォルは悲しそうに呟いた。

 

「なるほど、これではお前と殴り合いの喧嘩をする余地すらないか」

 

 リィも、悲しそうに頷いた。

 

「もしもお前が、何もわからずに子供に自分の願いを引き継がせるつもりなら、殴ってでもわからせるつもりだった。でも、お前は全てを承知で、子供に願いを引き継がせようという。なら、殴ったって無駄だ。そんなことで、お前みたいな石頭が自分の意見を曲げるもんか」

「石頭とはひどいな。信念を曲げないとか、決意が固いとか、色々言い方があるだろうに」

「お前みたいな石頭には、石頭で十分だ」

 

 リィはくすくすと笑った。

 ウォルも、同じように笑った。

 そして二人が笑いを収めたとき、そこには沈黙があった。

 どちらも、口を開かない。一たびその沈黙を破ってしまえば、その後に致命的なことを口にせざるを得ないからだ。

 そして二人ともが──獅子王と呼ばれたウォルも、闘神の娘と呼ばれたリィも、そのことを恐れているかのようだった。

 なぜなら、どちらかが口を開いたとき──二人の関係が、決定的に変わってしまうのだ。

 剣の誓いにかけた同盟者ではある。兄と妹ではある。そしてもちろん、大事な人でもある。

 

 ただ──二人は、婚約者では、なくなる。

 

 ウォルは、子供が欲しいからと、リィと婚約を結んだ。その時に、ただ自分のために都合がいいから、おれと番おうとリィを説得した。

 そして今、全ての事情を承知したリィは、ウォルとの間に子を設けることを拒絶した。

 ならば、婚約を続けることに意味はない。

 二人のどちらも、そのことを理解していた。そして、どちらかが、そのことを指摘する必要があった。

 もう、元には戻れないのだ。

 どちらからがその言葉を口にしなければ、この会話は終わらない。

 そのことを、二人は恐れているようだった。

 人形のように固まる二人は、息をしているかどうかすら怪しいように、動きを止めていた。

 そして、果たしてどちらかが、固い決意とともに口を開きかけた、その時。

 

「よう、久しぶりだな、ヴィッキー……って、悪い、取り込み中だったか?」

 

 そこには、リィにとって見覚えのある人物の姿があった。

 マンフレッド・グレン警部が、些か居心地悪そうに頭を掻きながら、二人の前に立っていた。

 

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