懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第十二話:ルウの事情

「うーん、やっぱり一緒に行っておけばよかったかなぁ」

 

 学寮の自室で、窓ガラスの向こうの夜空を見上げたルウは、残念そうに呟いた。

 現在彼の所属するサフノスク校は大学生相当の学生のための学校であるため、例えばリィやシェラの通うアイクライン校その他と違い、その周辺には歓楽街と呼ばれる遊興施設が存在する。そこは、万華鏡のようなネオンで彩られた、白粉と口紅の香りも色濃い夜の町である。結果として、地上が明るくなった分だけ夜の闇は色の薄いものとなるが、その程度のことでルウの際立った視力から満天の星空を奪い取ることは出来ない。

 透明な壁の向こうの、少し肌寒い、張り詰めたような冬の空気。その澄んだ空間の向こうに、宝石箱をひっくり返したような銀河の群れがある。

 きらきらと輝く夜空。その中に、一際輝く緑色の星があった。それは、彼のもっとも大切な人の、瞳の色に似ていた。

 何百光年と離れた星に、思いを馳せる。

 リィは今頃、アーサーの家を出発した頃だろうか。

 自分の占いが当たっているならば、きっと何らかの異変に遭遇しているはずだ。そして、今までの経験上、その可能性は非常に高い。

 危険は無い、と思う。多少の危険があったとしても、リィにとっては危険と呼ぶに値するものではないだろう。もしも彼にとっても危険と呼ぶべき事が起きるのだとして、彼の傍には銀色の月がいる。万が一の時は、自分を呼んでくれるだろうから、心配する必要などどこにもないはずだ。

 そもそも、今回の占いに関していえば、彼の手札からは凶兆をあらわす嫌な感触がちっとも存在しなかった。

 それでもルウは、今回ばかりは自分の手札に今ひとつ自信が持てていなかった。

 いつも通り、カードからその暗示する情報を読み取ることは出来るのだが、しかしその情報に込められた意味が全くわからない。もやもやとした霧の中に手を突っ込んだような、吹雪の前に視界が真っ白になったような、なんとももどかしい感覚だけが、掌からするりと抜け落ちていくのだ。

 第一、具体的な目的を持たずに彼が占いをすること事態が異常である。本来であれば、例えば失せ物や行方不明者を捜すために使われるカードを『相棒の身の回りに起きる異変について』という曖昧極まりないものに使おうと思ったのは、彼の一番奥深くにある、人間であれば『勘』と呼ばれる便利な機能が疼いたからに他ならない。

 発端がそのようにへんてこな事情ならば、結果もやはり今までに得たことのない奇異なものだった。

 こんなことは、未だかつて一度もなかった。まるで、この世界にいながらこの世界以外のことを占っているような、不可思議な感覚。自分の知覚の範囲外の異変が、初めてその触角に触れたのかもしれない、そんな予感がルウの胸を過ぎった。

 もう一度、彼は自身の占いの結果を思い出してみた。

 

 【遠い昔に別れた人】。

 【最近別れた誰か】。

 【薔薇の館】。

 【小さな女の子】。

 【森と湖】。

 【博物館】。

 【王冠】。

 【黒い自動車と黒い服の男】。

 

 いくつもの暗示は、例えば敵や裏切りなどの不吉な結論とは縁遠い。むしろ、ルウにとっては心安らぐものが多いような気がする。最後の暗示だけが心掛かりといえば心掛かりではあるが、今の政府に彼らを敵するだけの気概が残されているとは思えないから、少なくとも直接的に政府の人間が関わっているのは考えにくい。無論、件の連邦情報局長官のように偏執的な妄念を抱いて彼らをつき回す人間がいることも理解しているから、完全に警戒を解いていいわけではありえないが。

 ルウの心中に、不安はない。しかし、一刻も早くリィに会いたい。そう思う。心が浮き足立ち、体が走り出しかける。この、焦燥感にも似た衝動はきっと、いいことの現れだ。すごいご馳走がすぐ近くで用意されているのに何故こんなところにいなければいないのか、そう心と体が不満の叫びをあげているのかも知れない。

 多分、この占いが示す結果のせいだ。自分は言葉には出来ない深層心理の深いところで、これからどんなことが起きるのかを知っているのだろう。

 ルウはうっとりと頬を緩めて目を閉じた。そうするとこの年若い青年の微笑は、まるで我が子を思う母親のそれのように見える。どこまでも柔らかく、どこまでも深い、慈母の微笑みだ。ただ一心に自分の愛する者の幸福のみを願う笑みだ。その瞬間の彼の脳裏に誰の顔があったのか、それは言うまでもないことである。

 ルウの想い人は、苛烈をその身に体現した、抜き身の刃のような人だ。だからこそ、彼にはその鞘となるべき人が必要だと、ルウは常々そう思って来た。シェラもよくしてくれているが、しかしそれは従者としての献身である。ならば、彼以外にも、誰かルウの相棒の、例えば友人として心を砕いてくれる人がいてもいいのではないだろうか。

 ルウの思いを知れば、リィはきっと肩を竦めながら、『おれにはお前がいればそれでいい』とでも言うのは間違えないだろうし、それは他ならぬルウ自身にしても同じことなのだが、自分の愛する者を愛してくれる存在は多ければ多いほどいい。それは、きっと心安らぐ未来だ。

 今回の占いのヴィジョンは、あらためて整理してみれば、誰か、ただ一人の人物を指し示しているような気がする。それが誰かはまだ分からないが、もしそうであるならばリィにとって好ましい人間のことのように思えてならない。その人がリィの友達になってくれれば、そして彼に優しくしてくれれば、ルウにとってもこれほど嬉しいことはない。

 

「早く会ってみたいな……」

 

 鼻歌と呼ぶにはあまりに見事すぎる旋律を口ずさみながら、ルウは微睡んでいた。頬杖をついた首をゆらゆらと左右に揺らし、あたかもほろ酔い加減の芸術家のような有様である。先ほど引っかけたごく少量のアルコールと、暖かい部屋の空気が、眠り神の誘惑をより抗いがたいものにしていたのだ。

 そんな彼が腰掛ける机の上には、彼専用のノートパソコンと、レポート作成用の資料となる分厚い本が堆く積まれている。

 ルウが今回リィの実家に同行しなかったのは、これら堆く積まれた資料のエキスを凝縮してもなお足りない、異常な量を誇るレポート課題のせいだ。これがなければ、彼は間違いなくリィの家にお邪魔していたはずなのだ。

 彼以外の者ならば、誰か友人のレポートを写させてもらう、それともどこかで拾ったレポートに少し手を加えてさも自分で考えたように提出したりするかも知れなかった。しかし彼が大学に所属しているのは、そこを卒業してこれからの人生のキャリアの一部とするわけではなく、まして親に決められた人生のレールの上を走るためでもない。

 彼は、自分で設計した宇宙船で、遠く未開の宇宙を旅することを夢見て、そのために基礎知識を学んでいるのだ。ならば、見せかけの単位を取得することに意味などあるはずもない。そして同様に、彼の中に卒業必要単位数という概念もまた存在しない。当然の如く、時間の許す限り、そう、普通の学生であれば思わず目を回してしまうほどに過密なスケジュールで授業を選択している。

 一例を挙げただけでも宇宙工学基礎、宇宙物理学基礎、船体物質学、感応頭脳学基礎など、まだ一回生であるが故に基礎編が多いとはいえ、それでも単位に厳しいと評判の教授の講義ばかりであるから気の休まる暇もない。その教授も、いわば普通の学生、つまり講義の合間にたっぷりと余暇時間を有する学生用のカリキュラムとして相当たくさんの課題を用意するものだから、ルウの日常はそれらを消化するだけで手一杯という有様なのだ。

 だが、彼はその日常を、非常に有意義なものとして楽しんでいる。何故なら、それらは彼にとってあまりに新しい知識の宝庫だったからだ。

 ラー一族という、人から見れば神としか思えない能力と寿命を誇る種族に属するルウであるから、彼はほとんど手を動かしたり呼吸をするのと変わらないように、人の言う奇跡を体現することが出来る。死者の蘇生や瞬間移動など、高度に発達した文明を有する現在の人類でさえ喉から手が出るほどに希う奇跡を、である。

 そんな彼に、未開の宇宙を旅するのに宇宙船など、そもそも必要無い。彼は光よりも早く宇宙空間を飛ぶことが出来るし、どんな離れた見知らぬ地にでも瞬時に移動することができる。

 それでも、彼は自分の作った宇宙船で旅をしたいと思っていた。

 彼の知人には、幾人かの宇宙船乗りがいる。彼らは一様に、宇宙の彼方の未だ誰も見たことのない世界に思いを馳せ、無限とも呼べる虚無の空間に挑み続けている。しかも、一抹の悲壮感すら抱かず、ひたすら陽気な精神病患者のように。

 羨ましいと思う。有限の生を宿命づけられているが故に流星よりも輝かしい生を送る、人間たちが。別に自分を卑下するわけではないし、上から見下ろした感想を抱くわけでもない――少なくとも自分ではそうと思っている。それでも、彼らの無垢な笑顔が、ひたすらに羨ましい。だから、自分も彼らと同じように、旅をしてみたい。それはルウにとって、極めて自然な選択肢とその選択結果だったのだ。

 そう言う意味では、ルウは、人間が大好きだった。ファンと言ってもいい。一族の中の鼻つまみ者である彼と、一族の中でも相当に重要な役職に就くデモンの仲がいいのも、二人の間に人間社会に対する似通った価値観が存在するからだろう。もっとも、ルウは彼らと深く関わることを選び、デモンはその社会そのものを観察することに価値を見いだしたのだが。

 だからといって、ルウが全ての人間を偏り無く愛しているかと言えばそうではない。汚泥から湧き上がる泡沫のような人間が多くいて、それが一部と言うには数多すぎることも理解している。それでも、汚泥の中の一番深いところに、宝石よりも光り輝く眩しい存在がいるのも理解している。彼の知人は、何故かそんな人が多い。それはきっと、自分が幸福の女神に愛されている結果なのだろうと、神にもっとも近しい彼は、神様に感謝したりする。そんな彼らと、自分が設計した宇宙船で未知の世界に挑むことが出来れば、どれほど楽しいだろうか。考えただけでも彼の頬は優しい笑みを描いてしまう。

 だから、彼は結構楽しい毎日を送っていた。そして今のところは、自身の最も愛する相棒のことを思いながら、全てのレポートを完成させた満足感に浸りながら、浅い眠りを堪能していたりするわけだ。

 ふと時計を見れば、時間は相当に遅い。

 もうそろそろ寝ないと、翌日の講義に差し障りのでる時間になってしまった。本来であれば、熱いシャワーの一つも浴びて、冷凍庫の一番奥に隠してあったとっておきのバニラアイスクリームを平らげて、そのままベッドに急行するのが一番だ。

 でも、彼の重たくなってしまった思考能力は、その一切を否定し、そのまま机に突っ伏して眠ることを優先してしまったようだ。季節も冬のまっただ中、普通なら風邪の一つも引いてしまうのだろうが、比較的最近に建築されたその学寮は密閉性の高いもので、内側の暖気を逃さずに外側の寒気を遮断している。これならば、余程のことが無い限り体調を崩すことはないだろう。

 机に突っ伏した華奢な背中が、呼吸のリズムに合わせて規則正しく動いている。安らかな寝息が、部屋に響く。それ自体が最高の子守歌のようだ。

 そんなルウの長い髪を、馥郁たる風がくすぐった。まるで春の草原を駆ける風のような、夏の森を潤す冷たい湧き水のような、体よりも心を潤す風だった。

 あれっ、とルウは思った。思わず、ここが彼の生まれ故郷である、あの惑星の上だったのかと勘違いしたほどだった。

 しかし、彼は誰に呼ばれた覚えもないし、自分で里帰りをしたつもりもない。ならば、彼がいるのは連邦大学の一大陸に設えられた、サフノスク校学生寮の一室であるはずだ。

 一体どこから吹いてきた風なんだろうと思った。こんなに美味しい風が吹いてくるところは、きっととても美しいところに違いないと思いもした。

 ルウはその風を肺いっぱいに吸い込んで、満足の溜息を吐き出した。こんなに優しくて良い匂いのする風を味わったのは、彼のさして長くもない人生の中では数える程だったからだ。

 瞼を開き、首をぐるりと巡らす。すると、払暁の空をそのまま固めたような、青色の瞳が露わになる。彼はそれをにこやかに綻ばし、閉じられた窓ガラスに向けて、言った。

 

「こんばんは、僕に何か用事かな?」

 

 果たしていつからそこにいたのだろうか、ルウの私室にはめ込まれた窓ガラス、そのすぐ向こうに何かがいた。

 ルウはそれを見て、ただでさえ微笑んでいた頬をよりいっそうに微笑ませた。声に出して、少しだけ笑い声をあげたくらいだ。

 白くてこんもりとした、産毛の生え揃ったひよこみたいな真ん丸の物体。どこをどう曲解しても害意のあるようには思えないそれが、黒い空間にふよふよと浮いているのだ。風に飛ばされた、特大のタンポポの綿毛とでもいえば相応しいかも知れない。

 一見して普通のものではないと、ルウにはわかった。当然、ルウはそんな物体に心当たりは無かったし、この星の生態系にこんな生き物はいなかったはずだ。生命のないただの物質であるという解答は、彼の類い希なほどに鋭い直感が否定している。

 

「白いひよこさん。そんなところにいたら寒いでしょ。こっちにおいで」

 

 机から体を起こしたルウが手招きすると、その白くてモコモコとしたその物体は、困惑するようにふわりふわりと宙を舞った。

 ルウはますます楽しくなってしまった。彼の目の前にいるのが、いわゆる幽霊とか魂とか、そういうものの友達であることは理解している。そしてそういうものは、生きた人間以上にルウのような存在に敏感である。

 ルウは少し前に、興味本位で、人を呪い殺す悪霊が出るという古屋敷に赴いたことがある。太陽も高い時間であった。それは別に幽霊が怖かったからではなく、純粋に彼の空き時間がそこしか取れなかったからだ。

 おどろおどろしい雰囲気の屋敷内は、正しくこれぞ幽霊屋敷と言わんばかりの、雰囲気満点の有様だった。期待に胸を膨らますルウはそこをずんずんと歩き、遠い昔に殺人事件があったという部屋で、その館の主に出くわした。

 それは、顔の半分を鉈で切り落とされ、血塗れになった妙齢の女性の幽霊であった。それも、飛びきりに恨みがましい顔で登場した上、その背後に寒気のする負の念をまとわりつかせている。

 常人であればそれを見ただけで体の自由を奪われ、そのまま悪霊の贄と成り果てるしかないであろう。

 なのに、彼は平然と語りかけたのだ。

 

『やぁ、こんにちは悪霊さん。こんな時間にごめんなさい。でも、少しだけあなたとおしゃべりがしたくって』

 

 ルウは別に、その悪霊に対して害意があったわけではない。ただ、自分が死んだ後も現世に魂を残し、そしてその恨みとは直接は関係ない人間をも殺し続けるほどの怨念とはどのようなものなのか、純粋に興味を覚えただけだった。

 しかし彼を見た悪霊は、真っ昼間にもかかわらず悲鳴を上げながら裸足で逃げだしてしまった。燦々と輝く太陽の下、泣き叫びながら自分の住み家を捨てて逃げだす悪霊というのもまた珍しい構図ではあるが、これでは一体どちらが悪霊なのかわかりはしない。一人残されたかたちのルウは、果たして自分が何か悪いことをしたのだろうかと落ち込んだりしたくらいだった。

 そんなことがあったから、自分を恐れずにいてくれる白いひよこみたいなそれが、たまらなく愛おしくなってしまった。だからこそ、それが何故部屋に入ってこないのか、心底不思議だった。

 彼はしばらくの間考え込み、そしてはたと手を打った。

 

「もしかして、入ってこられないの?」

 

 窓ガラスの向こうの白いひよこは、頷くように浮き沈みをした。

 少し慌てたルウは、大急ぎで窓ガラスを開け放った。

 十階建ての五階に位置するルウの部屋に、乾いたアスファルトの埃っぽい匂いと、冬の冷たい風が入ってくる。それに乗って、白いひよこは、ふわふわと部屋の中に入ってきた。相変わらず、どこにも害意の欠片も無い、無邪気な有様である。

 ルウは、水の中を泳ぐように部屋を漂うそれを、愉快そうに眺めた。ひょっとしたら自分はもう眠っていて、脈絡のない夢の世界にいるのではないか、そう思ったほどだ。

 やがて、その白いひよこは、ルウのほうにすり寄ってきた。これには、流石のルウも驚いた。悪霊の一件に限らず、人以外の存在である彼は、人以外の存在にこそ余程に恐れられることが多かったからだ。少なくとも、今までに懐かれたためしは一度もない。それに、その白いものがあまりに不安定で、指先で突けば小麦粉の山みたいに呆気なく崩れてしまいそうだったから、というのもある。

 ルウは悪戯っけを起こして、掌を上にして、おそるおそる手を伸ばしてみた。

 すると、その白いひよこは、少しだけ躊躇うようにふわふわと宙を漂ったあとで、彼の掌の上に舞い降りたのだ。

 掌に感じる、もこもことした柔らかな感触。ルウはあまりの喜びに、声を出すのを我慢するのに苦労したほどだった。

 

「君は誰かな?どこから来たの?」

 

 もう片方の手の指先で突っつきたくなるのを堪えながら、ルウはそう語りかけた。

 白いひよこは首を傾げるようにころりと転がった。

 ルウは、感激のあまり体を震わしていた。彼は、ほとんどの人間がそうであるように、可愛らしくて柔らかいものが大好きだったのだし、自分の掌の上にいるそれが、自分のことが大好きだと分かったのも嬉しかった。

 しばらく彼は、白いひよことにらめっこをしていた。当然その白いひよこには目も口もありはしないのだが、ルウの主観としては正しくにらめっこであった。

 にらめっこと呼ぶには少し優しすぎる表情のまま、ルウは少しだけ考えていた。

 何故だろう。この白いひよこを見ていると、何故だか心安らぐ自分がいる。まるで、自分と親しい誰かを見ているような。

 やがて、ルウの鼓膜を、小さい小さい、途切れるような声が震わした。

 彼は、何の疑問も抱かずに、その白い塊に耳を寄せた。まさかこれがしゃべれるとは思わなかったから、何を言ってくれるのか、どきどきとしながら耳を寄せた。

 

「――て」

「うん?もう一度、言ってくれる?」

 

 弱々しいといってもなお足りないその声は、ルウの優れた聴覚でも聞き取れるものではなかった。

 だから彼は、今度はよりいっそう、耳に神経を集中させて、絶対に聞き逃すまいとした。

 そんな彼の耳に、先ほどよりは幾分かはっきりとした声が、聞こえた。

 それは優しくて暖かな、少女の声だった。

 

「……はじめ、まして――」

「うん、はじめまして」

 

 ルウは、掌の上の白いひよこに向けて、そう語りかけた。この光景を普通の人間が見れば、神秘的な雰囲気を纏った美しい青年が、何も乗っていない自分の掌に向けて挨拶をしているのだから、さぞ奇異な光景に映っただろう。

 

「僕はルウ。君の名前を聞いていいかな?」

 

 白いひよこは、くすくすと微笑った。

 そして言った。

 

「わたしは、ウォルフィーナ」

「ウォルフィーナ?可愛らしい名前だね」

 

 ルウも、くすくすと微笑った。

 きっとこの子が生きていたときは、とても可愛い女の子だったんだろうと思った。

 そのまま話しかける。

 

「何で、僕のところに来たの?」

「いちど、あっておきたかったの。おしゃべりもしてみたかったわ。でも、もうまんぞく」

 

 白いひよこが、ふわりと浮きあがる。

 ルウは、それを止めようとはしなかった。少しだけ残念な顔をしていたが、彼女の用が済んだのであれば引き留める理由も無い。それに、開けっ放しの窓から冷たい風がびゅうびゅう吹き込んでくるから、そろそろ閉めないといけないのも事実だった。

 

「もう、帰るの?」

「ええ、とつぜんおじゃましておいて、しつれいなはなしだけどね」

「またおいで。僕は、また君とおしゃべりがしたいな」

「ざんねんだけど、きっともうあえないわ」

 

 白いひよこが、口づけをするように、青年の唇に触れた。

 ルウは、驚いた。その口づけの感触が、彼のもっとも大切な人のそれに似ていたから。

 

「さようなら、ルウ。お兄ちゃんをよろしくね」

 

 はっとしたルウが顔を上げたとき、そこには閉められたままの窓ガラスがあった。

 頭の奥に、鈍い痺れのようなものが残っている。それに、瞼が妙に重たくて、視界がところどころぼやけている。

 机に突っ伏していた頭を、大儀そうに持ち上げる。枕にしていた腕が痺れて、ちりちりと痛む。

 

 ――夢を見ていたのだろうか。

 

 訝しんだ彼は、自らの唇に手をやった。

 震える指先の触れたそこは、少女との口づけの残滓を残すように、仄かに暖かかったのだ。

 

「……エディ!」

 

 次の瞬間、その部屋には誰もいなかった。無論、寮の外出記録には何の異常も認められなかったし、玄関に設置された防犯カメラにも不審な影は残らない。

 如何なる残滓も残さずに、ルウの姿は、惑星ティラ・ボーンの上のあらゆる場所から姿を消していた。

 

 

「ねぇ、王様。その子の魂は、今、どこにいるの?」

 

 部屋の片隅に座り込み、自らの殻に閉じこもったようなルウが、重く鈍い声でそう言った。

 彼は、とても整った容姿をもった青年だ。海と空の輝きを凝縮したような青い瞳。生成の綿のように柔らかみのある白い肌、黒絹のように艶やかな黒髪、美の女神が嫉妬に狂うような顔の造詣。

 それらのうちの一つを手に入れるために世の女性は血道を上げているというのに、彼はその全てを生まれ持ち、しかもそれを誇ることすらしない。

 誇ってくれればいい。自慢してくれればいい。それならば、まだ理解の範疇だ。しかしそれらを無価値の如く扱われたのでは、自分達の立つ瀬がない。だから、世の女性たちからすれば、ルウは自分達に対する背信者であったのかもしれない。

 そんな恵まれた容姿を持つルウだからこそ、それらが闇に染まったときの禍々しさは、筆舌に尽くしがたいと言ってまだ婉曲ばった表現であると言わざるを得ないだろう。肌の白さは死蝋化した死体のそれであったし、髪の黒さは腐敗し凝固した血液のそれ、青い瞳と整った容姿は死の天使にのみ許された退廃の美であった。

 シェラは、息を飲んだ。ルウの、呪いとも呼ぶべき負の気に気圧されたというのもあるが、何よりこんな有様になってもなお美しい、ルウという存在そのものに圧倒されていた。

 リィは、特大の苦虫を噛み潰しながら、テーブルに置かれたグラス、その中になみなみと注がれた琥珀色の液体を飲み下した。芳醇なはずのウイスキーが、今の彼の喉には少々苦み走りすぎていたようだ。

 そして、ルウと同じ色の髪を持ち、しかし異なる色の瞳を持つ少女、ウォルは、真剣な面持ちで、ルウの質問に答えてこう言った。

 

「ラヴィー殿。卿は、どこまで知っておられる?」

 

 ルウは、この世の終わりが訪れたような顔で、言った。

 

「全てが分かっていたら、こんなところには来ない。僕が為すべきことを為す、それだけだ」

 

 ルウの斜め向かいでソファに腰掛けていたシェラは、思わず仰け反りそうになり体を押さえ込むのに苦労した。

 その言葉に隠されていたのは、きらりと光る白刃、のようにかわいげのあるものではない。

 言葉と言葉の隙間から、すさまじい視線でこちらを睨みつける悪魔がいたのを、シェラは知覚した。その悪魔は、きっと人間を殺すことに一切のためらいを覚えない。寧ろ、嬉々としてその命を刈り取っていくだろう。

 この人は、そんな存在ではない。絶対にあり得ない。

 あのとき、リィに対する侮辱を雪ぐために暴走したあのときだって、彼は喜びを供として凶行に及ぼうとしたのではない。そこにあったのは、彼自身ですら制御できないほどの、人間というものに対する失望と悲しみであったはずで、それ以上のものではありえなかった。

 ラー一族はこの人のことを、闇の神の現し身として恐れる。『悪しきものたち』はこの人のことを『救い主』と呼び、この世界の破滅の鍵として求める。

 しかし、この人はそんな存在ではない絶対にあり得ない。もしもそうならば、何故この人の瞳は蒼いのか。何故、無限の空と、そして母なる海と同じ色なのか。それは、この人が生命の体現だからだ。喜び、悲しみ、怒り、恐れ、そして何よりも笑う。この人は、この世の全ての生命を愛している。だからこそ、この人の瞳は、どんな青玉よりも鮮やかで、そして深い色を誇っている。

 シェラは、何事かを口にしようとした。

 しかし彼よりも先に、黒い天使の相棒たる金色の天使が口を開いていた。

 

「出来もしないことをさも出来るように言うなよ、ルーファ。それって情け無いことだぞ」

 

 冷たく切り離すような口振りだ。しかし、彼が本当に他者を切り捨てるときは、一言も口にせずに背中を向けるだろう。そも、己の半身を切って捨てて、生きていくことが出来る人間はこの世にいない。

 ルウは、立ち上がって自分を見下ろすリィに対して、睨め上げるような表情で言った。

 

「できない……?」

「そうだ。お前に出来るはずがない」

「私に、出来ないと?」

「その言葉遣いは似合わないと、そう言ったはずだぞ」

 

 黒と金の間に、ちりちりと鉄を焦がすような緊張感が満ちていく。雰囲気だけではない。鼻孔を刺激する空気の焦げた香りや、ぱちぱちと火花の散る音ですらが感じられるようだった。

 シェラは、喘ぐように呼吸をした。その白い肌の上を、冷たい汗が流れ落ちていく。

 自分に、この二人を止める事は出来ない。無論、我が身を犠牲にして二人を止める事が出来るならば、自分の命を惜しむわけではない。だが、そんな少なすぎる対価でこの二人が止まらないことは明らかだった。暗殺者として己の命と任務の達成を天秤の上に乗せ続けた彼には、己の命と違う方向に天秤の針が傾いていることを認めざるを得ないのだ。

 彼は、己の隣に座る、黒髪の少女の横顔を見た。縋るように見た。もはや、この二人の炎上を止める事が出来るのは、この少女だけだと思った。

 シェラの内心を読んだわけではあるまい。しかしウォルは、片頬を持ち上げるように笑いながら、ゆっくりと口を開き、言った。

 とても少女が発したとは思えない、獅子の唸るような声だった。

 

「おい。二人で勝手に話を進めるな。この会話は、俺の持ち物だ」

 

 微かな笑いを含んだその声が、かえってその恐ろしさを際立たせる。

 シェラは、またしても心臓に悪いほどの緊張感を味わうことになった。

 これでは、逆効果だ。炎を消し去るために爆弾を投げ込むようなものだ。ひょっとしたら爆風で炎は吹き飛ぶかも知れないが、しかし後に残されるのは火災以上の瓦礫の山である。

 この少女の内側に宿った魂が、かつて『軍神の現し身』と呼ばれた英雄のそれであったことにあらためて気付かされたシェラであった。

 

「お前たちが喧嘩をしたいなら俺は止めん。それほどに命知らずでもない。この家の外で精々派手にやってくれ。しかし、この体に関することで俺を抜きにして話を進めようというのは、俺とこの少女に対して、些か礼を欠くのではないか?」

「それもそうだ。すまない、ウォル」

「ごめんなさい、王様」

 

 意外なことに二人は素直に頭を下げた。

 シェラは少しだけ安堵した。しかしその直後、自分の甘さを思いしらされるはめになった。

 二人の、エメラルドとサファイアの具現たる瞳が、恐ろしい程に凪いでいる。それこそ、一切の感情を押し殺したように。それは、台風の中心部がしばしば無風状態であるように、この二人の激情がちっとも収まっていないことを意味していた。

 この一対の獣は、煮えたぎる胸中をそのままに晩餐会のにこやかなホストを演じることも出来るし、心の中で涙を流しながら無慈悲に刃を振り下ろすことも出来る。つまり、己が為すべきことを知っているのだ。

 彼らは容赦しない。彼らは自分が為すべきことだと判断したならば、いとも容易く再び刃を抜くのだろう。それが自らの相棒であったとしても。いや、それであるが故に。

 視線を外そうとしない二人を尻目に、シェラは再び気絶しそうなほどの心労を強いられていた。無音の圧迫感が、心臓を締め付けるようですらあった。

 しかし、その静寂も長くは続かなかった。

 ウォルが、ぼそりと呟いた。

 

「ラヴィー殿の質問に答える前に、リィよ。いくつか俺はお前に謝らねばならんことがある」

 

 その瞬間、少女の纏った雰囲気が、劇的に変じた。

 怒れる獅子から、許しを乞う憐れな人間へ。

 リィは一切表情を変えず、そして何事もしゃべらなかった。

 無言で続きを促した。

 

「まず、俺は無断でお前の名前を使った。この世界で目を覚まして、ここがどこか分からなかった時だ。とにかく、俺はお前に会わねばならんと思った。だから、今思えばあまりの軽率さに自分でも嫌になるが、お前の名前とラヴィー殿の名前を口にしてしまった。それがお前たちに、どのような危険を及ぼすかも考えずに、だ」

 

 少女は、心底辛そうに項垂れながら、言った。

 

「会えば、真っ先に詫びようと思っていた。全く、自分で自分が嫌になる。この世界においてもお前は異端者として扱われているということを、すっかり忘れていた。……いや、それは誤魔化しだな。正直に言えば、俺は恐ろしかった。この、一度も見たことのない人間の群れが。まるで自分と同じ生き物には見えなかったよ。だから、お前の名前に縋ってしまった。許してくれ」

 

 現に、事態はこの国の最高権力者の面会を招くほどのものになっていたのだ。

 たまたま全てのことが上手に運んだからいいものの、もしも彼が自分を捕らえて、この厄介な二人への交渉材料として使おうと考えたら?

 この二人がそう易々と屈服するとは思えない。しかし、今のウォルの体は、あちらの世界にいた頃よりも遙かに脆弱な、少女の身体になってしまっている。そんな自分が囚われの身になってしまえば、彼らから少なからぬ譲歩を引き出し、何らかの不利益を及ぼすことになったとしても何の不思議もない。実際、あちらの世界では何度かそういうことがあった。

 あのとき、リィは、正しく必死の思いでウォルを助けてくれた。自らにどんな危険が降りかかろうとお構いなしに、だ。きっと、この世界で同じようなことが起きたとして、リィは全く同じ行動を取るだろう。黒髪の少女は、そう思っていた。リィとルウの二人が知らぬ顔を決め込んで自分を見捨てることが出来るような完成された人格であるならば、こんな気遣いは無用だというのに。

 

「なるほど、それでお前はこの馬鹿みたいに広い世界で、おれを見つけることが出来たわけか」

「その通りだ。一歩間違えば、お前の身に累を及ぼしていたかもしれん。夫が家出した妻に会いに来るのに、その妻に頼り、しかもその身を危険に晒させるとはな。笑い話にもならん」

 

 後半は自嘲の響きに声を震わせつつ、黒髪の少女は深く頭を下げた。

 シェラは、内心で抗議の声を上げた。

 仮に、仮にである。自分がウォルと同じように、あるいはリィと同じように、右も左も分からぬ異世界に落っこちたら、どうするか。しかも、その世界には自分の信頼する知人がいるかも知れないとして、だ。

 茫然と座り込み一歩も動けなくなるか、精神を守るために呵々大笑するか、ハリネズミのように全方位を警戒して蹲るか。

 どれも違う気がする。

 きっと、自分の最も頼りにするその知人の名を叫んで、放浪するのではないだろうか。とにかく、その人に会おうとするのではないだろうか。少なくとも、その人がこの世界にいるのかどうかを確かめるまで、本当の意味での最初の一歩が踏み出せない、そんな気がする。

 だから、シェラはウォルの行動に批判する点を見いだせなかった。

 しかしリィは、口に出してはこう言った。

 

「……ウォルにしては、確かに軽率だ。そういうときは目立つ行動は避けて、出来るだけ時間をかけて情報を引き出していくべきだった。それに、もしこの世界がおれやルウのいる世界なら、お前が落っこちてきてどうして気がつかないと思った?今すぐに気がつけなかったとしても、絶対に異変には気がついたはずなんだ。そこまでおれは信用が無いか?それに、そういうことなら謝るのはおれだけじゃあないはずだな」

 

 言葉の端々に、苦み走った怒りがある。

 シェラは隣に座ったリィを窘めようとした。彼の言葉が、あまりに無慈悲なものに思えたからだ。

 だが、当のウォルは一切の不満を覚えた様子はなく、寧ろリィの言が当然というふうに頭を垂れている。今のウォルの風貌から、母親が大切にしていた化粧道具を悪戯でめちゃめちゃにしてしまい、叱責を恐れている少女のようであった。

 

「返す言葉も無い。教えて欲しい、リィ。俺は、お前とラヴィー殿を危険に晒したことに対して、どのようにして詫びたらいい?」

 

 その言葉に、リィの翠緑玉の瞳に、強い光りが宿った。

 

「勘違いするな、ウォル。おれは、おれやルーファが危険に晒されたなんて、ちっとも思っちゃいない。おれは、お前が自分の身を危うくした、そのことに怒っているし、そのことに謝罪を求めたい」

 

 部屋の片隅に座った、蒼玉の瞳の主からも、手厳しい声が飛んできた。

 

「そうだね、王様。別に、僕やエディなら、どんな連中が襲いかかってきても物の数じゃない。それは、あっちの世界であなたに語ったとおりだ。でも、僕達の大切な誰かが僕達の知らないところで傷つくのはどうしても防げない。防ごうとしたって限度がある。だから、自分の身は自分で守って欲しいんだ」

「折角おれの夫がこの世界に来てくれたのに、再会したら冷たい死体になってました、だと?そんなの冗談じゃない。後悔したって後悔しきれないぞ。お前は、またおれに大切な人の消えていく、あの嫌な感触を味あわせたいのか」

「王様。僕からもお願いするよ。あなたは、もっとあなたの体を大切にしてね」

 

 先ほどまであれほど険悪だった二人から、ここまで見事に息のあった調子でお説教されてしまうと、咄嗟に返す言葉も見つからない。

 ウォルは一度口を開き何事かを言いかけたが、そのまま口を閉じて黙り込んだ。

 ことここに至って、シェラも気がついた。この二人は、真剣にウォルを責めているのではない。

 ウォルは、この世界に来てまだ日が浅い。いわば、生まれたての赤子にも等しい無力さだ。それは、優れた武技や腕力よりも、知識や常識のほうが強いこの世界であるから尚更である。彼が、もとの戦士の体から少女の体に変わってしまったというのもあるかも知れない。

 この二人は、心の底から、この少女のことを案じている。

 自分達は大丈夫だから今は自分の身を守るために全神経を使って欲しいという思いと、その程度で謝罪は不要であるという言外の意志。その二つが混ざって、このような表現になったのである。

 彼らからの叱責を浴びた当の少女も、そのことに気がついたのだろう。自嘲の嗤いをただの苦笑に入れ替えると、あらために無言で頭を下げた。それが、この件に関して言えばきっと最後の謝罪になるのだろうから、二人も何も言わなかった。

 顔を上げたウォルは、その二人、リィとルウを等分に視界に収め、再び口を開いた。

 

「もう一つ、あるのだ」

 

 まだあるのか、とリィは言わなかった。

 先ほどと同じように、無言で続きを促した。

 

「俺はお前の名前を口に出したその翌日に、この国の王と顔を合わせた。無論、俺から会いに行ったのではない。あちらから、ほとんど懇願にも近い様子で俺の方に面会を求めてきた。その時点で、俺はお前たちがこの世界でどういう存在か、思いしらされることになったがな」

「それは、マヌエル・シルベスタン三世という、壮年の男か」

「ああ、そうだリィ。ただ、壮年というには少し老けている気がしたが」

 

 それは、この金と黒の天使たちが、彼の相貌から若々しさを奪い取った結果である。

 セントラル星系爆破未遂事件の前と後で、マヌエル・シルベスタン三世の顔に刻まれた皺の数とその頭髪を飾る白いものの数は、倍近く増えてしまったともっぱらの噂であった。

 星一つが壊滅の憂き目を見かけた自然災害・・・・に直面したのだから無理もないと事情を知る人は言う。しかしその実、未だ政治家としては若造の部類に入れられていた彼の顔に、よく言えば威厳、悪く言えば老いをもたらしたのが、たった二人の青年と少年であることを世間は知らない。

 

「彼は、俺がお前の配偶者であることを知って、その上で尋ねてきた。その彼が言うのだな。まずはこの資料を見て欲しい、と」

 

 当然、それはリィのプライバシーのうち、もっとも繊細な部分の一つだとウォルは思っていたから、全てを承知しているだろうルウはともかくとして、シェラの前で話をしていいものかと逡巡した。だが、当のリィが視線で続きを促したから、そのまま話した。

 ぽつりぽつりと、石ころを吐き出すように、ウォルは語った。

 己が見た資料の全てを。

 そこに何が書かれ、彼が何を見て何を思ったのかを。

 それを聞いたシェラは、あらためてはらわたが煮えくりかえるとはどのようなことを差すのか、実感として理解した。ウォルが語ったのは三年前の出来事、彼の敬愛するリィが、口にするのもおぞましい実験の被験者として供された、許されざるべき愚行の顛末だった。

 一通りのことを語り終えたウォルは、目の前のテーブルから、ウイスキーで満たされたリィのグラスを引っ掴むと、琥珀色の液体を無造作に喉に流し込んだ。 

 アルコールに濡れた息を吐き出しながら、言った。

 

「リィ。俺は虜囚の辱めを受け、この世の地獄と思えるような拷問を受けたこともある。しかし、それですらがお前たちが受けた苦しみに比べれば児戯に等しかった。この世に、これほどおぞましいことがあっていいのかと、そう思った。こんなことが許されるのならば、この世界に神も正義もあったものではないと、心底そう思った」

「終わったことだ」

 

 リィは、何の感情も含めずにそう言った。

 事実、彼の中でそれは終わった事件であった。無論、忘れたとか思い出したくもないとか、そういう意味ではない。

 彼にとってその事件は、確かに恥辱であった。体を辱められた意味で、という以上に、敵の手管に翻弄されてしまった、という意味でだ。無論、大事な用事を抱えていた相棒の手を煩わせたという負い目もある。

 復讐の対象である、研究者やリィの家族をだしにして卑劣な脅迫を行った実行者は、軒並みリィの相棒たる黒い天使の怒りに晒されることとなった。きっと彼らは今でも己の死を希い、地獄の底辺を這いずり回っているのだろう。その点について、リィは何の感慨も抱かない。当然の報復だ。もしもリィとルウの立場が逆転すれば、彼も同じ復讐の刃で敵対者を切り刻むだろう。

 そして、正しくウォルが目にした資料に記されているとおり、その一件を発端として怒り狂ったルウが惑星セントラルを含む星系一つを吹き飛ばそうとするのを止めるため、容易ならざる事態が起きたのは事実である。しかしその後のダイアナの報告によれば、少なくとも今回の事件のようなかたちでリィの生体細胞が保存されていることは考えられない、とのことだった。

 人も機械を含む全ての関係者が、この事件をもはや必要としていない。何より、こんなくだらない一件で、相棒の瞳が曇るのは絶対に嫌だ。リィはそう思っている。

 それに、覚悟もある。もう二度と、あんな醜態を晒してたまるかという覚悟だ。敵は自分に対してどのような攻撃方法が可能で、それを防ぐためにはどのような戦術が有効か、それを学ぶために、彼はシェラと共に学校に通い、勉学に日々を捧げている。『故曰、知彼知己者、百戦不殆。不知彼而知己、一勝一負。不知彼不知己、毎戦必殆』とは既に使い古されてカビ臭くなってしまった格言ではあるが、人間が考えたにしては珍しく、完全な真理であるとリィは思っている。

 事態の再発を防止するための策を練り、関係者への恫喝と当事者への報復を済ませ、採取された標本の全てを処分する。その時点で、リィにとってこの事件は、過去のものとなっているのだ。

 しかしウォルは、先ほどにもまして沈痛な面持ちで言った。

 

「いくら終わったこととはいえ、俺はお前の過去を、お前の許しもなく見てしまった。おそらく、お前にとって痛みを伴う過去だ。ならば、お前から許しを得るまで、俺は到底俺自身を許してやれそうもない。だから、すまない、リィ」

 

 リィは、大きく溜息を吐き出した。

 

「変なところできっちり筋を通そうとするのは、お前の美点でもあるが欠点でもあるな、ウォル。でも、そこまでお前が求めるならおれの答えは一つだけだ。なぁ、ウォル。おれとお前は夫婦だろう。普通の夫婦なら、互いの過去くらいはある程度知っていても不思議じゃないはずだ。だから、おれはお前がおれの過去を知ったくらい、なんとも思わない。だからな、ウォル、おれはお前を許すことが出来ないんだ。だって、そもそもお前は許しを乞う必要があるようなことを、何一つしていないんだからな」

 

 貴方達を普通の夫婦と言っては、この世に星の数ほどいる普通の夫婦に申し訳が立ちませんと、シェラは心の中で呟いた。しかし、彼の隣で輝かしい微笑みを浮かべる少女を見れば、何も言えなくなってしまった。

 

「すまない、リィ。お前の――我が妻の寛容に感謝する」

 

 再びリィは苦笑した。

 この分だと、この男は――今は少女だが――自分と別れたときからちっとも変わっちゃいない。この分だと、バルロやイヴンも相当に苦労しただろうなと、この場にいない異世界の友人たちを、少しだけ気の毒に思った。

 

「いいってば。それに、この世には神も正義も無いさ。あるのは、勝者と敗者だけだ。それはむこうの世界だって変わらないだろう?」

「いや、神はいた。極めつけに口が悪く、ちっとも女とも思えない戦女神だったが、しかし神には違いあるまい。常に隣にいた俺が言うのだ。間違いないぞ」

「隣にいる奴だからこそ間違えることもあると思うんだがなぁ」

 

 戦女神と呼ばれた少年は、明後日の方向を見ながら鼻の頭を掻いていた。

 それを見て、シェラとルウは、少しだけ微笑った。

 そんな二人を少しだけ険の篭もった視線で黙らせて、それからリィは言った。

 

「ちなみに、他にもあるのか?」

「いや、これだけだ」

「なら、次はおれの番だな」

 

 金髪の少年は、姿勢を正し、そして目の前の少女に質問した。

 

「おれからも聞きたい。お前はさっき、『お前たちが受けた苦しみに比べれば』、と言ったな。『たち』とは、一体どういうことだ。お前の知り合いの中で、おれ以外の誰が、あんなキチガイじみた実験の犠牲者になった?」

 

 シェラはその身を固くして、ウォルの言葉を待った。

 ルウは、先ほどの緩みかけた頬を再び無表情に戻して、ウォルの言葉を待った。

 リィは、やはり無言でウォルの言葉を待った。

 三対の瞳が頬に突き刺さるのを感じながら、少女はゆっくりと口を開いた。

 

「……順序として、まずラヴィー殿の質問から答えよう。確か、この子の魂が、今、どこにいるのか、だったな」

 

 ルウは、死人のような表情のまま、頷いた。

 

「この少女の魂は、卿らの世界でもない、俺の世界でもない、どこかわからない場所にいる。そこで、可哀想な魂を飴玉にしながら生きていると、本人はそう言っていた」

「そんなところ…」

「後半の部分はおそらく嘘だと思う。何故なら、あの子は優しかった。それだけは間違いない」

 

 ルウの手が、無力感に戦慄いた。彼の長い手も、自分の知らない場所には届かないのだ。それがこの世界の外であるならば尚更である。

 それを見た黒髪の少女は、ゆっくりと首を横に振った。

 

「ラヴィー殿。あなたが気に病むことではない」

「でも、でも……そんなの、ひどすぎる……」

 

 ルウは、己の苦しみのように呻いた。

 短いその遣り取りを見て、シェラは得心がいった。

 先ほどのルウの、禍々しい有様。あれは、怒りではなかったのだ。この人の感情を推し量ることは極めて難しい。難しいが、しかし敢えて名付けるならば、それは後悔という名になるのではないだろうか。

 では、この人は、一体何に後悔しているのか。

 そして、もう一つ、シェラには分からないことがあった。

 

「……あの、ルウ」

「……」

 

 部屋の隅で蹲った格好のルウは、シェラの言葉に、顔を上げることで応えた。

 その粘ついた視線にたじろぎながら、しかしシェラは己の疑問を口にした。

 

「あの……こういう問い方が正しいのかどうかはわかりません。わかりませんが、先ほどのお二人の会話を聞いていると、今、我々の前にいる陛下が、陛下ではないように聞こえるのですが」

「……違うよ。この人は、確かにあの世界の王様だ」

 

 少女も頷き、そして言った。

 

「俺は俺だ。それは見れば分かって貰えると思うのだが」

「はい、それは承知しております。しかし……陛下のお身体は、陛下ご自身のものではないのですか?」

 

 シェラの疑問に、ウォルは当然のことのように首肯した。

 

「当たり前だ。シェラ、お前も知っているとおり、俺は男だぞ」

「はい、それは勿論。でも、例えばリィと同じように、何者かの意志、あるいは偶然でその性別が変わってしまったのではないかと思っていたのですが……」

「では逆に問うがな、シェラ。お前の目から見て、俺は以前の俺と同じ人間か?」

 

 シェラはあらためてウォルの顔をまじまじと見つめ、数瞬の思考の後に首を横に振った。

 今シェラの目の前にいるのは、年若く美しい少女である。それは、あちらの世界のリィがそうであったのと同じように、だ。

 しかし、リィの場合とウォルの場合では、決定的な違いがある。

 リィの場合は、その身体が男性であったときと女性であったときで、本質的な違いがない。同一人物だから当然だと言ってしまえばその通りなのだが、細かい骨格や肌の質などは全く同じ質感であった。

 それに比べると、今のウォルとあちらの世界のウォルが、どうしても同じ人間には思えないのだ。勿論彼を象徴する夜空のような漆黒の瞳、それと同じ色の艶やかな黒髪は同じものである。しかしそれ以外の部分、例えば小振りで整った鼻や、ひとひらの花びらが如き唇、華奢な体つきなど、どうにも違和感がある。

 もとが美丈夫であったウォルであるから、その性が入れ替われば相当に目を引く顔立ちになるのは間違いないだろうが、それにしても差違が大きすぎる。とても同一人物とは、この時代に即して言うならば、同じ遺伝子から形作られた体とは思えないのだ。

 それ故に、シェラは初対面の時、この少女がリィの夫であるとは気づけなかった。その後の醜態の原因もそこらへんにあるのだが、シェラにとっては思い出したくもないことである。

 それらを全て踏まえて、シェラは言った。

 

「正直に申し上げます、陛下。私の目には、以前のお姿と今のお姿が、とても同じ人間には見えません」

「それが正解だ、シェラ」

 

 少女の姿をしたウォルは、重々しく頷いた。

 

「この体は俺のものではない。俺はあちらの世界から、魂だけでやってきた。そして、こちらの世界とあちらの世界の狭間のような場所でな、一人の少女と出会ったのだ」

 

 ウォルは、その世界で出会った少女、自らをウォルフィーナと呼んだ少女との邂逅の全てを語った。

 そして、少女の身体に宿った後で追体験した、少女の短い人生の全ても。

 痛いと、つらいと、寂しいと。

 語り終えるのに、そう時間はかからなかった。語るべきことが、余りに少なすぎたからだ。少女にとっての人生とは、そういうものであった。

 全てを聞き終えた三人は、一様に押し黙った。

 シェラは、怒りに身を震わせていた。このような非道が行われていいのかと、自問しているのかも知れなかった。

 リィは、どこかぼんやりと、宙空を見つめていた。誰よりも少女の苦しみを理解できているはずの彼だったが、その瞳にシェラほどの熱はない。

 そしてルウは――。

 

「俺はな、リィ。情け無いことだが、怒りよりも先に恐怖があった。俺が体験したのが視覚と聴覚だけで、痛覚を伴わなかったことを、神に感謝してしまった。少女の悲鳴を聞き、吐血の赤さを見ながら、それが我が身に降りかかったことでないことを安堵してしまった」

「ウォル。そんなことで自分を蔑むな。それは、人間として当然の反応だ。他人の痛みを敢えて体験したがるなんて、変態かそれとも頭のいかれた宗教家くらいのものだぞ。おれだって、二度とあんな目に遭うなんて御免なんだからな」

「分かっている。分かっているが、それでも情け無い。あまりに情け無い。そうは思わんか、リィ。十年間だ。十年間、あの少女は泣き叫び続けた。誰に聞き入れられるはずもない慈悲を、許しを乞い続けた。罪なき許しを乞い続け、その身を凌辱され続けた。そんな彼女を見て、全身の皮膚を剥がされ赤い芋虫のようになった彼女の姿を見て、男の俺が感じたのが、怒りよりも先に安堵だったのだぞ。そんなの、許せるか」

「ゆるせ――ないよ。そんなの、ぜったいに、ゆるせない。ゆるしちゃいけない」

 

 黒い天使が、立ち上がった。

 その口元に、切れるような微笑みを浮かべつつ。

 その視線に、那由他の不吉を孕ませつつ。

 シェラにはその姿が、巨大な鴉の羽撃く様に見えた。

 

「なら、一緒に行こう、王様。この子の魂に、尊厳と安らぎを取り戻すためには、誰かがやらなくちゃいけないんだ」

「おい、ルーファ。どこに行くつもりだ」

 

 リィも立ち上がった。

 その翠緑石の瞳に、先ほどとは比べものにならない程の烈気を孕ませながら。

 

「決まっているじゃないか、エディ。正当な復讐だ。この子の尊厳を踏み躙った連中に、報いを与えるんだ」

「馬鹿をいうな。あのときとは違う。この子はお前の相棒じゃない。お前に、そこまでする権利は無い。それにルーファ、お前、何でそんなに怒っている?おれにはお前の怒りがちっとも分からないんだ。説明してくれ」

「なら、ただの意趣返し、八つ当たりと理解してもらっても構わない」

「そんなくだらない理由で、お前に人を殺させわけにはいかない」

 

 ルウは、静かに目を閉じた。

 そして、心を落ち着けるように大きく息を吸い、吐き出し、それから瞼を持ち上げて、言った。

 

「エディ。この子はね、君の妹なんだよ」

 

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