懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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幕間:怪談噺

 深夜のTBSBスポーツ局の編成室で、ノーマンは一人籠もって、明日の『スポーツ・スチューデント・トゥデイ』の編集作業に勤しんでいた。

 日曜日に行われたフィナ・ヴァレンタインの──ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン選手の試合と勝利者インタビューの放映用VTRの、最終直し作業を行っているのだ。

 予想していたとおり、ウォルの試合の映像は、TBSBの歴代コンテンツの視聴回数の記録を塗り替え、今まさに更新中の勢いだ。当然、次回の『スポーツ・スチューデント・トゥデイ』も相当な高視聴率が期待できる。

 自分の作品が多くの視聴者に期待されているのだという喜びと、下手なものを放送出来ないというプレッシャーが綯い交ぜになって、ノーマンの中で不思議な高揚感となり、彼の手を動かす原動力となっているようだ。

 チラリと時計を見ると、既に日付が変わっていることに気が付いた。この分では完全な徹夜作業になるかも知れない。

 言うまでもないことだが、ノーマンの本業は学生であり、学生の本分は学業である。課外活動に熱を入れすぎて学業がおろそかになったのでは、一体何をしているのやら、であるが、今日ばかりは学業の神様に目を瞑ってもらおう。

 ノーマンは苦笑すると、眼鏡を外して、目のあたりを軽くマッサージした。深夜の作業はある意味慣れっこだから眠気はまだないが、ずっと画面とにらめっこをしていたせいで目が疲れ始めているようだ。

 ノーマンは、デスクの引き出しから目薬を取り出してそれを目にさすと、一服入れるために立ち上がった。

 編集室を出て、灯りの落ちた暗い廊下を歩く。非常灯の、最低限の明るさのおかげで足元が不案内になることはない。しかし、人気のない薄暗い廊下というのは、人間の原始的な不安を呼び起こすのに十分だった。

 ノーマンは心持ち足を早めて給湯室を目指す。

 給湯室では、深夜作業の最高の友である、ホットコーヒーが彼を待ってくれているはずだ。少し濃い目に淹れたブラックコーヒーを飲めば、編集作業に疲れた頭もしゃきっとしてくれるだろう。

 そんなことを考えながら足早に廊下を歩くと、カツンカツンと、自身の足音が空虚に響く。そして、それ以外は何も聞こえない。

 ふと立ち止まると、一切の音が聞こえない。耳が痛くなるほどの静寂であった。

 もしかすると、今、この建物にいるのは自分だけなのだろうか。

 

 ──そういえば、この建物には、いくつか怪談話があったな……。

 

 一度立ち入れば死ぬまで出られない無限階段。

 

 人の生き血が供される紙コップ型自動販売機。

 

 母を求めて泣き続ける赤子の死体の入ったロッカー。

 

 あと他にいくつあったろうか。こういうものはたいていの場合、七つに落ち着くのが普通だが……。

 ノーマンは、別に怪奇趣味があるわけではないが、人伝に聞いた怪談話をいくつか思い出したていた。

 すると、今の自分が、そういう怪奇に巻き込まれるにはうってつけのシチュエーションにいることに気が付く。

 

 ──もしも今、自分が怪奇に巻き込まれて行方不明になれば、新たな怪談の一つとして誰かに楽しまれるのだろうか。

 

 そんなことを思い、我が事ながら阿呆なことを考えていると苦笑したノーマンが、給湯室を目指して歩き出そうとした、その時。

 

 ぴりりり、ぴりりり──。

 

 突然、静かな廊下に電子音が鳴り響いた。

 ビクリと小さく身体を跳ねさせたノーマンは、一瞬遅れてその音が、自身の携帯端末の呼び出し音だと気が付く。

 

 ──こんな時間に、一体誰だろう。

 

 心臓に軽い動悸を感じながら、震える指先で携帯端末をポケットから取り出す。

 すると、画面には、『ミラ・キッドマン』の氏名が表示されていた。

 どきりと、今度こそノーマンの心臓が大きく跳ね上がった。

 ミラは、TBSBの報道局に所属するニュースキャスターだ。そして、約一カ月前、ノーマンとウォルがキアラン・コードウェルというフットボール選手を取材に行った時に、インタビュアーを務めるはずだった女性である。

 しかし、結局その日、ミラは現場に姿を見せず、代わりにウォルがインタビュアーを務めることになった。

 そしてその後、ミラからTBSBに一度も連絡がない。ノーマン自身や他の局員も何度も連絡を取ろうとしたが、あちらの携帯端末の電源が落ちているようで、どうしても連絡がつかない状況が続いていた。そして、どうやら大学の講義も無断欠席が続いているらしい。

 そんな状況が1週間も続けば、これは何らかのトラブルに巻き込まれた可能性もある。

 TBSBの上層部は、既に警察に捜索願いを提出したと聞いている。そして、その後、何の音沙汰もないのだという。

 そのまま、一月、時間だけが経過してしまった。

 ノーマンも、スポーツ局と報道局の違いがあれど、同じTBSBの仲間である。心配はしているが、しかし何か為す術があるわけもなく、ただ警察の捜索が進展すること、そしてミラの無事を祈るしかないという状況だった。

 そのミラから、連絡が入っている。

 ノーマンは、危うく携帯端末を取り落としそうになりながら、慌てて着信ボタンを押し、端末を耳に押し当てた。

 

「ミラ!ミラなのか!?」

 

 切羽詰まったようなノーマンの誰何の声が、無人の廊下に響く。

 ノーマンは、どんな小さな声も聞き逃すまいと携帯端末を耳に強く押し当てたが、返答の声は聞こえない。

 ただ、ごぼごぼと、粘性の液体が泡立つような、気色の悪い音が、小さく聞こえた気がした。

 

「ミラ!聞こえるか!?僕だ、ノーマンだ!そこにいないのか!?」

 

 もどかしい想いで、ノーマンは再び携帯端末に向けて叫んだ。

 

 ──何でもいい、何か話してくれ、ミラ!

 

 ノーマンは強く願ったが、やはりごぼごぼという異音以外何も聞こえない。

 もしかすると、ミラの携帯端末を拾った誰かが悪戯をしているのか。それとも、何かのきっかけで電源の落ちていた携帯端末が誤作動を起こしたのか。

 そう疑いはじめたノーマンの耳に、消え入るような、そして奇妙に甲高い、声が聞こえた。

 

「ノーマン……」

 

 耳を澄ませていたノーマンに、ようやく聞こえるほど、弱々しい声だった。

 しかし、間違いない、それはミラの声だった。

 ノーマンは、必死になって呼びかける。

 

「ミラ!そうだ、僕だ、ノーマンだ!ミラ、今、何処にいるんだ!?」

「どこに……わたし、どこにいるんだろう……」

 

 まるで夢を見ているような、あやふやな調子で、ミラはそう答えたようだ。

 ノーマンは、亡霊の指先が背を撫でたような、冷たい悪寒を味わった。

 

「みず……みずがある……かわ……みずうみ……それとも……うみべ……みずが、たくさんあるばしょ……」

「何でもいい!何か、目印になるものはないのか!?君の居場所が知りたいんだ!」

「わからない……なにもかもが、みずでおおいつくされていて……ちがう、そう、みず、じゃない、あれは、みずなんかじゃなくて……なんてこと……ああ、かみさま……」

 

 携帯端末の向こうのミラの声が恐怖に歪む。

 恐怖は、電波を通じてノーマンへと伝染し、彼の細い指先を震わせた。

 

 ──一体、何が起きているんだ。

 

「落ち着いてくれ、ミラ!とにかく、このまま通話を切らないで!今すぐ警察に連絡を入れる!そうすれば、君の居場所もすぐに割り出してくれるはずだ!」

「ちがうの、ちがうの、わたし、このまま、そっちにはもう、かえれないの……」

「何を言っているんだミラ!もしかして、拘束されているのか!?それとも、誰かに攫われたのか!?」

「ちがう、ちがう、わたしはのぞんでここにきた……ちがう、ちがうの、こんなこと、わたしはのぞんでいない……かえりたい、あなたのところへ、みんなのところへ……あんなもの、のむんじゃなかった、わたしがよわかったから……わたしのせいなの、そのおかげで、わたしはここにたどりついたの、ああ、なんて、しあわせなのかしら……」

 

 ノーマンは思わず言葉を飲んだ。

 どう考えても、ミラは錯乱しているようだ。会話に一貫性がない。まるで子供が遊ぶシーソーのように、ミラの言葉を司る何者かが代わる代わる顔を出して別の言葉を話しているような、そんな印象を受ける。

 問題は、沈着冷静なはずのミラが、どうしてこうも錯乱しているのか。

 薬物か、痛みや恐怖か、何らかの病気か──。

 頭の中で指を折るノーマンは、しかしそうやって現実から逃避することで、目の前の異常から目を背け、辛うじて冷静を保っていたのかも知れない。

 唇が戦慄くだけで何も話すことが出来ないノーマンの耳に、けらけらと、ミラの笑い声が聞こえた。

 

「ああ、おかしいったらないわ、ノーマン、みんなにつたえて、わたし、もう、そこにはかえらない。おとうさん、おかあさん、いもうとのジェシカ、みんなにそうつたえてほしいの、いや、かえりたい、みすてないでノーマン、おねがいたすけて、わたし、みんなのところにかえりたい……」

「ミラ、落ち着いて……」

「わたしはしあわせ、みんなのところへかえるの、かえりたい、そこへ、あそこへ、こわい、たすけて、ああなんてまちどおしい、ちがう、そんなわたしののぞんだことじゃないのに、ああ、こんなにも、しあわせなのが、どうして……」

「あはは、おかしい、こんなにたのしい、いひひはははは」

「わたし、こんなのになっちゃった、なっちゃったのに、それが、なんてしあわせなの……それが、いちばんおそろしい……」

「たすけて、おとうさん、おかあさん、わたしはここにいるの、おねがい、たすけて……」

 

 ノーマンのこめかみを、冷たい汗が伝う。

 そして、ノーマンは気が付いた。いくつものミラの言葉が、笑い声が、すすり泣く声が、同時に、重ねって聞こえることに。

 電波が混線しているのだろうか。

 いや、違う。

 ノーマンの耳には、まるでミラの顔にいくつもの口が開いて、それが同時に話しているような、そんなふうに聞こえた。

 

「たすけてノーマン」

「みすてないでノーマン」

「しゅくふくしてノーマン」

「わたしはしあわせなの」

「こんなにも、こんなにも」

「おそろしい、こわい、わたしが、きえていく」

「わたしが、わたしたちが、わたしのなかにはいってくる」

「こないで、でていって」

「たすけて、たすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけて」

「おねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがい」

「こわい、こわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわい」

「いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい」

 

 まるで千の鳥が囀るように、電話の向こうから無数のミラが話しかけてくる。

 ミラは、歓びながら、悲しみながら、怒りながら、恐怖しながら、笑いながら、絶望しながら、泣いていた。

 いくつもの声が重なる様子は、坩堝に投げ込まれて攪拌される、無数のミラの顔を思い浮かばせた。

 その不気味な想像にノーマンは体を強張らせ、もはや呻き声を出すことすらできなかった。

 呆然と固まるノーマン、しかし一瞬無数の囀りは声を潜め、ミラの最後の言葉が聞こえた。

 それは、不気味なほどに凪いだ、言葉だった。

 

『わたし、もう、還らなきゃ……』

 

 ぷつりと、通話が切れた。

 ツーツーと、単調な不通音が鳴る携帯端末を耳に押し当てたまま、ノーマンはしばらくその場を動くことができなかった。

 

 

 

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