懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第百二十話:死臭

 マンフレッド・グレン警部は、ヴィッキー・ヴァレンタインと同じテーブルに腰掛けていた。

 場所は、フォンダム寮の面談室である。

 時間が休日の午前中ということもあり、室内にいるのはリィとグレン警部の二人だけである。

 二人の間のテーブルには、湯気の立つコーヒーが二つ、置かれている。リィは無論ブラック、グレン警部は砂糖抜きのミルクありコーヒーである。

 

「すまんなヴィッキー、アポもなしで押しかけてしまって」

「別に構わないよ。今日は何か用事があるわけじゃないし、面談室もがらがらだしね」

 

 面談室は、学内のそれと同じく、寮生と外部の人間──例えば寮生の保護者や、他学寮の学生などである──が寮を訪れた際に使用するスペースである。外部の人間を寮生の私室に招き入れるのは、風紀の保持や防犯上の観点から問題があるため、特殊な事情がある場合を除き、こういったスペースを使用する取り決めとなっている。

 部屋の造りは簡素なもので、良く言えば実用的、悪く言えば何の飾り気もない。優雅な午後のティータイムを楽しみたいなら、外部の喫茶店を使ってくれといったところか。

 無論、グレン警部は、例えばアンティーク家具に囲まれたラグジュアリーな喫茶スペースでないとへそを曲げるような感性とは無縁だったので、フォンダム寮面談室の簡素さをむしろ好ましく思った。これが、今から意中の女性を口説き落とそうとしているのなら別段、ただ年齢の離れた友人と旧交を温めようというだけなので、ある程度プライバシーの守られた静かな空間があれば必要十分である。

 グレン警部は、コーヒーを一口啜り、人懐こい熊のような微笑みを浮かべた。

 

「あれから元気だったか、ヴィッキー」

 

 あれから、とは、『暁の天使』という、全世界でおそらく一番有名な絵画が、厳重な警備の中盗み出されるという前代未聞の事件に端を発した、一連の事件のことである。

 その中で、グレン警部は事件の解決を命じられた警察官として、一方のリィはどうやら自分の所有物であるらしい『暁の天使』を取り戻すため、リィの父親であるアーサー卿なども巻き込みつつ大立ち回りを演じるはめになり、その中で二人は知り合った。

 グレン警部にとってリィは、見た目の年齢にはそぐわない高い知性と教養を兼ね備えた、また、美少女のような外見とは正反対に肝が座っていて行動力がある、何より何故か、警察組織でもどちらかといえば爪弾きにされている自分と妙に馬があう、不思議な少年であった。

 リィにとっても、普通であれば子供の行動には何らかの掣肘を加え続けずにはいられないのが常の大人達の中で、自分に対して理解して協力もしてくれたグレン警部には好印象を持っている。

 事件の解決後、二人はお互いの連絡先を交換し、機会があればまた会おう程度の挨拶をして別れていた。

 そしてその機会が、今日訪れたらしかった。

 

「あの時は本当に助かった。君がいなければ、今頃『暁の天使』は、犯人の屋敷の一室で、誰の目にも触ることもなくただ死蔵されていただろう」

「じゃあ、おれの絵は今も、エレメンタル近代美術館に飾られているの?」

「ああ、連日、『暁の天使』目当ての観光客や愛好家がひっきりなしにやってきて、大盛況らしいぞ。あの絵自身がどう思っているかはわからんが、一般論としては望ましいことだな」

「……念の為確認するけど。それって本当に、今も『おれの絵』だよね?」

 

 リィが、あながち冗談でもないふうに眉を顰めながら質問した。

 なにせあの事件のときは、我こそが『暁の天使』の専門家であると胸を張る大人連中が、何度も精巧な贋作に騙され、その度にリィは、どうして贋作の絵に描かれているのがルウに見えるのか首を傾げながら、その絵が『暁の天使』ではないことを説明しなければいけなかったのだから。

 ならば、今、美術館に展示されているのが、いつの間にかすり替えられた偽物でないと、どうして言い切れるだろう。

 そのことを承知しているグレン警部は、一瞬目を丸くして、それから結構真剣な調子で、

 

「……言われてみればそれもそうだ。年に一度くらいは、君に確認してもらったほうがいいのかも知れんな。何せ、美術品コレクター界隈では、『天使に狂う』連中が少なくないらしい。あの事件の犯人みたいに、妙な欲気に駆られる人間がいないとも限らんからな」

「年に一回も、おれの絵を見るためだけにセントラルまで行かなきゃならないの?やっぱり、あの絵、持って帰ってきたほうがよかったなぁ」

 

 唇を尖らせたリィの台詞である。

 これには苦笑するしかなかったグレン警部は、小脇から小さな包みを取り出した。

 

「そうだ、忘れていた。君に土産があったんだ」

「おれに?」

「いや、大したものじゃない。あの事件の御礼……というにはささやかすぎるんだが、取り敢えず俺の気持ちだよ」

 

 包みを受け取ったリィが結び目を解くと、まだ湯気の立つような、出来立てのサンドイッチが、結構な量、入っていた。

 食欲をそそるいい香りが、リィの鼻孔を刺激した。

 

「確か、きみは甘いものが全く駄目だと聞いていたはずだからな。駅前の、何とかっていうパン屋のサンドイッチだ。確か、結構有名な店なんだろう?」

「ひょっとして、『プレジール』の限定サンドイッチ?」

「ああ、確かそんな名前だったかな」

 

 顎先を指でなぞりながら、グレン警部は確かそんな名前のパン屋だったかと記憶を辿っていると、リィはものすごく嬉しそうな顔でサンドイッチに手を伸ばした。

 

「嬉しいな、あの店、凄く人気だから、一回食べてみたいと思っていたんだけど、いつ行っても売れ切れだったんだ。今から食べてもいい?」

「もちろん。そのために買ってきたんだ。出来立てのうちに食べてくれ。むしろ、その程度の土産物にそんなに喜んでくれると、こっちが少し申し訳ないくらいだな」

「申し訳ないなんてとんでもない。本当に嬉しいよ。じゃあ、遠慮なく頂きます」

 

 リィは、その小さな口を目一杯開いて、色とりどりの具材が挟まれたサンドイッチにかぶりついた。

 それは、とても美味しいサンドイッチだった。

 香ばしく焼き上げられたフワフワのトースト、シャキシャキと瑞々しいレタスや完熟の甘いトマト等の新鮮な野菜、ドレッシングには何種類もの香辛料がバランスよく使われていて、ほんのちょっぴりスパイシーで食欲を掻き立ててくれる。

 しかし、それよりリィに気になったのは、サンドイッチのメインの具材である肉のスライスだった。

 小首を傾げたリィが、口をもぐもぐとさせながら、グレン警部に訊いた。

 

「これって何の肉?」

「ああ、そういえば言ってなかったな。その店では、今、ジビエ肉フェアだとかなんとかで、色々変わったサンドイッチを売っていたんだ。それは確か鹿肉のローストのサンドイッチだったんじゃなかったかな。もしかして口に合わなかったか?」

 

 口の中にあったサンドイッチを飲み込んだリィは、首を横に振り、心底嬉しそうな表情で、

 

「ううん、むしろ大好き。普通の牛や豚も十分美味しいんだけど、こういう、ちょっとくせのある肉の方が好みなんだ」

「へぇ、そいつは良かった。たしか、その奥にあるのが猪、次がウサギ、一番奥がちょっと変わったところでアナグマの肉だったはずだ」

「うわぁ、全部おれの大好物ばかりだよ!グレン警部、本当にありがとう!」

 

 そう言ってから、しかし言葉とは裏腹に、リィの顔が悲し気な様子になる。

 

「どうした、ヴィッキー」

「いや、こんなに美味しいものをおれが独り占めするのも悪いからシェラ達にもおすそ分けしなきゃって思ったんだ。でも、そうするとこれ全部食べられないんだなぁって、それがちょっと残念でさ」

「ああ、なんだ、そんなことか」

 

 グレン警部は小脇から、まるでマジシャンのようにどん、どん、どんと小包を取り出した。

 今リィが食べている分と合わせて、都合4セットを買ってきてくれていたらしい。

 

「きみの食欲がずぬけていることは思い知らされていたからな、少し余分に買っておいた。余れば、俺の昼飯にすればいいだけの話だしな」

「うわぁい、それじゃあ、これ、全部おれが食べても大丈夫ってことだね!ありがとう、グレン警部!」

 

 まるでテーブル越しにグレン警部に飛びつかん有様でリィは喜ぶと、手に持っていた鹿肉のサンドイッチをぺろりと平らげ、次の、猪肉のサンドイッチに手を伸ばす。次がウサギ肉、そしてアナグマ肉だ。

 美味しそうに食べる子供の様子というのは、それだけで大人を幸せにさせるものだ。然り、頬を緩ませながらその様子を見守っていたグレン警部が、何かに気が付いた表情になり、別に嫌味を言うふうではなく、

 

「そういえばヴィッキー、きみは、今日は朝食は食べなかったのか?」

 

 時計を見れば、まだ10時を少し回ったくらいの頃合いである。こういった学寮の朝食時間が何時くらいかを知らないグレン警部であるが、どんなに早くても7時より前に朝食ということはないだろう。であれば、リィはまだ朝食を口にしてから3時間も経っていないことになる。

 それなのに、この食欲。

 健啖家であることは知っていたが、それにしても見事な食べっぷりというべきであった。

 リィは、サンドイッチの最後の一欠けらを名残惜しそうに飲み込むと、ごちそうさまでしたというふうに手を合わせてから言った。

 

「朝食は食べたけど、この身体であまりがっつくと、周りのみんなに呆れられちゃうからね。そのあたりは上手くごまかしてるんだ」

「なるほど、つまり、全然足りていなかったわけだな」

「そういうこと。だから、こういうお土産はすごく嬉しいよ。たまにこういうチャンスがあっても、だいたいの人は甘いものを持ってくるから、おれは一人、みんなが美味しそうに食べてるのを横目に指をくわえているしかないんだ」

 

 大いに不服そうな有様で、リィが唇を尖らせる。

 グレン警部は、その情景を想像して、思わず吹き出してしまった。

 確かに、この少年に対して、ケーキや焼き菓子といった土産物は全く喜ばれない。しかし、この外見の少年である。天使を思わせる美少年にジビエのサンドイッチを買ってくるグレン警部がむしろ異端なのであって、普通の人間なら甘いものの方を好むと思うのが当然であった。

 とにかく、ささやかな手土産を喜んでもらえたグレン警部は、リィの元気そうな様子に一安心したようであった。

 小腹を満たして満足そうなリィに話しかける。

 

「あの後は、色々と大変だったんだぞ、ヴィッキー」

 

 言葉とは裏腹に表情はにこやかなので、リィも特に心配はしていないが、一応聞いた。

 

「大変って、何が?」

「どうやって、俺が本物の『暁の天使』を見抜いて、真相まで辿り着いたのか、上役に説明するのが、だ」

 

 まさか、『暁の天使』の所有者を名乗る一般中学生が、プロでもごまかされる贋作の中から一目で真作を見抜き、結果として事件の真相を暴いて真犯人の確保まで漕ぎつけたのです、とは言えない。仮に上役にはその理屈が通ったとしても、事件の真相を知りたがるマスコミに、そんなことを発表するわけにはいかない。

 そんなことをしてしまえば、警察の正気を疑われるか、それともその少年がヒーローとして持て囃されてとんでもない騒ぎになるか。

 いずれにせよ、それはほとんどの関係者の望むところではない。

 だから、グレン警部は、同じく事件の関係者であったエレメンタル近代美術館副館長のブライト氏と、『暁の天使』作者であるドミニクの専門家であったスタイン教授の助力があったことにして、何とか報告書をまとめ上げたのだ。

 結果、グレン警部の功績は大変なものとしてセントラル中央警察上層部に大いに評価され、異例の昇進の打診まであった。しかし、グレン警部はそれを固辞した。あくまで自分は現場で働きたいというのが表向きの理由だったが、本当は、自分以外の力で解決した事件を理由に昇進するのは、手柄を横取りするようで気が咎めたのだ。

 とにかく、あの一件が完全に落ち着くまで、グレン警部は身に覚えのない憧れやら羨望やらやっかみやらの視線に晒され続けることになり、常に居心地の悪い気分を味あわされていたのである。

 そんな事情を、事件解決の立役者であるリィに対して不本意そうに語ると、リィはお腹を抱えてけらけら笑った。

 

「ああ、おかしい!手柄を横取りだなんて、なんだそんなこと!もったいないことをしたじゃないか警部!あっちがあげるって言ってるんだ、もらえるものなら、昇進でも階級章でも、ありがたくもらっておけばよかったのに!」

「そうは言うがなヴィッキー、俺にもプライドってもんがあるんだぞ。あの事件で、ただの置物でしかなかった俺がラッキーで昇進なんてしちまったら、それこそ一生、居心地の悪い椅子の上で過ごさなくちゃならなくなるだろうが」

「椅子の硬さなんて、一週間もすれば慣れるもんさ。それが駅のベンチ椅子でも、少しばかり高い階級の事務椅子でも、例えばビロード張りの玉座でも、同じようなもんだ」

「玉座?お前、玉座なんかに座ったことがあるのか?」

「さあね。その隣くらいなら、あるかもしれない」

 

 秘密めいた微笑みを浮かべたリィを、グレン警部は胡散臭そうに眺める。

 グレン警部は、王城の造りに詳しくはないが、玉座の横にある椅子といえば、王子の座る椅子か、それとも王妃の座る椅子か。

 王子ならば、この、そこいらの美少女が束になっても敵わないであろう美貌を誇る少年には、ぴったりの配役である。あまりにぴったりすぎて、映画か舞台かと見紛うほどだろう。ただしその王子はあまりに活発すぎて、お目付け役の大臣あたりが胃の痛い思いを味わうことになるかも知れないが。

 王妃ならば、この少年の性別が男から女に変わることがあるなら、少なくとも外見は百点満点で合格だろう。いったいどんな王様ならその美女のハートを射止められるのかわからないが、家柄など関係なく、どんな男でも傅きたくなる威厳のある美女になること疑いない。

 と、心底どうでもいいことを考えたグレン警部は、自らに呆れたように息を一つ吐き出した。

 

「とにかく、きみが元気そうでよかったよ。これで、ここに来た目的の一つは達成できたってわけだ」

「へぇ、じゃあ、もう一つ目的があるんだね」

 

 リィの、緑柱石色の瞳がきらりと光る。

 グレン警部は、ぐっとテーブルに身体を乗り出し、ひそやかな声でリィに話しかけた。

 

「もう一つは、俺の仕事の話だ。一応聞くが、秘密は守ってくれるか?」

「口を裂かれたら話しちゃうかもしれないけど、おれが下手を打てばグレン警部の首が飛ぶことになるってくらいは理解しているよ」

 

 つまり、出来る限り秘密は守ってくれるということだ。

 こういう場合の口約束の脆弱さをグレン警部は十分理解しているが、同じくらい、リィという少年を信頼してもいた。

 だから、グレン警部は腹を括った。

 本来であれば一般人に話すべきではない捜査情報を、この少年に話すことを決めたのである。

 

「ヴィッキー、最近、きみの周りで、違法な薬物の話を聞いたことはないか?」

「違法薬物?」

「無論、きみが違法薬物に手を染めているというふうに疑っているわけではないよ。ただ、きみの周りでそういう話を聞いたことがないか、噂話とかでも十分なんだが」

 

 違法薬物という予想外の単語に、リィは首を横に振る。少なくとも、彼が知っている範囲で、そんなものに手を染めた学生の話を聞いたことはないし、学生間でもそんな話題が上ること自体がない。

 リィの反応を見て、グレン警部ががっかりと肩を落とす。

 

「そうか、やはり駄目か。学生のネットワークの中からなら何か情報が掴めるかと期待していたんだがな」

「違法薬物って……連邦大学の学生でも、そんなものに手を出す馬鹿なやつがいるの?」

 

 連邦大学は、押しも押されぬ共和宇宙の最高学府である。まず入学する時点で相当高水準な知的レベルを要求されるし、授業もそれに合わせた──もしくはそれをより高みへと強引に引きずり上げるような──レベルの難しさである。薬物などにうつつを抜かしている暇などなかろうというのが、リィの見解だ。

 リィのもっともな疑問に、しかしグレン警部は頷く。

 

「人の歴史が始まってから、人と薬物の縁が切れたためしはないってのが実情でな。こういう場所でも、当然のことながら薬物の需要はある。授業についていけなくなった学生が、勉強に集中したいがために集中力を高める向精神薬に手を出したり、哲学を専攻する学生が、無我の境地に至らんと抑制系の麻薬に手を出したり……。金持ちのお坊ちゃまが火遊びに気軽な気持ちで手を出すケースもあるし、とにかく、人がいれば違法薬物の需要はあるんだ。そして、需要があれば供給するのが、商売人の腕の見せ所だな」

 

 あまり行儀のよい商売人の所業では決してないのだろうが。

 

「とにかく、この星でも、相当程度に違法薬物汚染が進んでいるっていうのがお偉方の考えだ。しかし、学生ってやつは、自分のコミュニティに属さない大人に対して、とかく口が固くなりがちでな。なかなか捜査のほうもうまく進んでいるはいえないのが現状だ。俺が動いているのは、どちらかというとそちらがメインなんだが、それ以外にも、個人的に気になることがあってな」

「ふぅん……。でも、そういう話だと、現時点でおれがグレン警部の力になれることはないかな。もしもおれに女装でもして潜入捜査の手伝いをしてほしいっていうなら話は別だけど」

「頼んだらそんなことをしてくれるのか?」

「その前に、頼んできた人の横っ面を思い切りぶん殴るかな」

 

 爽やかな顔でリィは微笑んだ。どうやらリィなりの冗談だったらしい。

 もしもそんなことを頼めるなら効果絶大だとすけべ心を出しかけたグレン警部は、慌てて二の句をひっこめた。この少年に思い切り顔面をぶん殴られるのは、どう考えても身体的健康上よろしくない。

 そんなふうに黙り込んだグレン警部の顔をどう見たのか、呆れたようにため息を吐き出したリィが、

 

「ただ、薬物方面とかなら、少し詳しそうなやつを知っている。もちろん、そいつ自身が薬物に手を出しているってわけじゃないけど──少なくともこちらの世界では──そいつ、この界隈のちょっと薄暗いところの事情に、色々詳しいんだ」

 

 そんなことを言った。

 リィが思い浮かべていたのは、あちらの世界では様々な薬に浸かるように生活していた凄腕暗殺者──レティシアのことであった。彼が所属するのはセム大学の医学部であり、医学と薬学は切っても切れない関係にある。当然、一般学生と比べれば、そういった話題に接する可能性も高くなるだろう。

 それに、どうやら、レティシア独自のコミュニティというのもあるようで、アンダーグラウンドに属するとまではいかないが、その空気程度ならば味わったことがある人間との付き合いが、それなりにあるようなのだ。

 こういった話ならば、何か、グレン警部の捜査に役立つ情報を持っていても不思議ではない。

 

「いきなり警部が話を聞きに行っても、そいつにも通すべき義理やら仁義やらがあるかもしれないからね、正直に話してくれるか怪しい。おれから聞いてみるよ」

「そうしてくれると助かる。だがヴィッキー、俺の方から話を振っておいてこんなことを言うのもなんだが、絶対に危ないことはしてくれるなよ。違法薬物捜査っていうのは、本当にあっけなく人が殺されるんだ。警察の人間でもそうだ、ましてそれが、面白半分に首を突っ込んできた学生なら、見せしめの意味で殺されても不思議はない。今回の件についても、引き際を見誤れば十分その危険性がある、そのレベルの話だと思っていてくれ」

「了解したよ。ところで警部、一つ聞きたいんだけど、いいかな」

 

 リィが、今日一番真剣な表情を作った。

 グレン警部は些か気圧されて、

 

「なんだ、俺に答えられることならなんでも答えるが……」

「婚約を破棄したらさ、婚約指輪ってどういう扱いになるのかな?」

 

 真剣な調子のリィの、あまりに予想外の質問に、グレン警部はしばし唖然とした。

 だが、気を取り直して、

 

「……詳しいことは知らんが、婚約のためにもらったものなんだ、婚約自体が無くなれば、返すのが筋なんじゃないのか?」

「やっぱりそうだよなぁ、まいったなぁ」

 

 リィは、テーブルに額をぶつけそうな様子で、頭を抱え込んでしまった。

 なんというか、どうにも声をかけにくい雰囲気なのだが、このままでは話が前に進まない。勇気を振り絞ったグレン警部が、控えめな調子で問いかける。

 

「あの、ヴィッキー、それってひょっとして、俺が声をかけたときにいた、あの子のことか?」

 

 顔を上げたリィが、落ち込んだ様子で頷く。

 

「おれ、あいつに、婚約指輪……じゃないけど、似たようなものを、もうあげちゃったんだよな」

 

 それが、ラー一族謹製の名刀であるとは、流石に言えないが。

 

「あいつ、きっと、あれを返すっていうぞ。でも、こっちももう受け取れないんだよ。あれはもう、あいつと一心同体みたいなもんだから……。なんとか、返却を突っぱねられないかなぁ」

「これも聞きかじった話だが、有責の相手方……つまり、相手が浮気なんかをした場合だが、そんな場合の婚約指輪なら返す必要がないとも聞いたぞ。この場合はどうなんだ?」

「浮気?うーん、浮気かぁ……おれが浮気したら、ウォルもあれを返さなくて済むのかぁ……でも浮気って……誰とすればいいんだ?」

 

 ぶつぶつと何事かを呟くリィは、完全に自分の世界に入ってしまったようだった。

 ふと、グレン警部は時計を見遣った。もう、この部屋に入ってから、一時間近く経っている。リィの元気な様子は確認できたし、一応、聞くべきことも聞いた。忙しい連邦大学学生の休日を邪魔するのも気が引ける。そろそろお暇すべきだろう。

 

「悪い、ヴィッキー、次の用事があってな。そろそろ引き上げさせてもらうよ」

「あ、ごめん、グレン警部。じゃあ玄関まで送るよ」

 

 二人は立ち上がり、面談室を後にした。

 廊下を歩くと、見慣れない大人と歩いているリィの姿に、幾人かの寮生が奇異の視線を寄越したようだが、別に声をかけてくる者はいなかった。

 そして玄関まで歩き、そこで二人は向き合った。

 

「なにか情報が手に入ったら、こっちから連絡するよ」

 

 リィの言葉に、グレン警部は頷く。

 

「さっきも言ったが、くれぐれも危ないことはしてくれるなよ。万が一きみに何かあれば、きみのお父さんに俺は顔向けできん。きみの知っている誰かさんにも、それは強く言っておいてくれ」

「わかってる。おれもそいつも、簡単に相手に気取られるようなへまはしないから安心してくれ」

「ヴィッキー、きみが言うなら、きっとそうなんだろうな」

 

 かすかに微笑んだグレン警部は、遥か年下の友人に、右手を差し出した。

 リィも、セントラル警察の警部という変わった経歴の友人の右手を、自身の右手でしかと握った。

 

「じゃあ、また、グレン警部。今日のお土産は本当に嬉しかったよ」

「あの程度でよければ、毎日でも買ってこよう。何せきみは、この宇宙で最高の文化財を守り抜いたヒーローなんだからな、その程度捜査費から捻出しても、世間の皆様も許してくださるさ」

「なんだ、あれ、公費で買ってきたのか!?なんて不届きなやつだ!」

「すまんすまん、冗談だ、本当は俺のポケットマネーだよ、そんなに怒るな」

 

 手を放したグレン警部は、軽く手をあげて別れの合図とした。

 その時、思い出したように、リィが口を開いた。

 

「あ、そういえばグレン警部、今日会った時から聞きたかったんだけど、いいかな?」

 

 振り返ったグレン警部が、不思議そうな表情で訊いた。

 

「どうかしたか、ヴィッキー?」

「うん、ひょっとしたらすごく失礼な質問かも知れないんだけど……警部、最近、人を殺した?」

 

 天使画から抜け出したような無垢な美少年の、あまりに物騒な言葉に、流石のグレン警部も慌てた様子で首を横に振り、

 

「いやいや、最近も何も、未だかつておれは人を殺したことなんかないぞ」

「じゃあ、捜査の関係とかで、腐乱死体の検死に立ち会ったりとかは?」

 

 またしても物騒な言葉に、やはりグレン警部は首を横に振る。

 

「あれ、おっかしいなぁ、おれの鼻がおかしくなっちゃったのかなぁ……」

「おいヴィッキー、いったいどういうことだ?」

「いや、死臭がしたんだよね、警部の身体から」

 

 ぞくりとするような言葉を、リィは言った。

 突如背筋が冷たくなったグレン警部は、思わず唾をごくりと飲んだ。

 

「てっきり、警部が重たい病気か何かにかかっているのかなって思ったんだ。でも、そんなことはないふうだし、死臭がしたのも本当に一瞬だった。きっとおれの勘違いだ。ごめん警部、嫌な思いをさせちゃって」

「……近々、精密検査を受けるとするよ。よく訓練された犬の嗅覚は、初期のがん患者の体臭をかぎ分けるっていうしな」

「うん、そうしてくれるとすごく安心する」

 

 リィは、にこやかに微笑んだ。

 その様子を見たグレン警部は、再度手を軽く上げて、そしてフォンダム寮を後にした。

 この時、もしもグレン警部が、鞄のポケットに入れた小瓶の存在を忘れていなければ、そしてそれをリィに見せていたならば、この後の彼の運命は大きく変わっていただろう。

 その小瓶は、コルクで封がされ、中には透明の液体が入っていた。

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