懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
中天を超えた太陽が、ようやく西の地平線へと手を掛けている。既に本日の最終講義も終了し、学生たちは、調べもののために図書館へ、部活動のために運動場や体育館へ、それとも予習復習のために自分の寮へ、足を向けている。
日差しは、真昼のそれに比べれば多少和らいでいるが、それでもギラギラと、今こそ盛夏であるのだと自己主張を続けている。
アモラ高校は、リィ達の通うアイクライン校と同じく、ロドニー大陸の中緯度地域に位置しており、気候区分でいえば温帯の乾燥地域ということになる。雨は比較的少なく、空気が乾燥している分、夏も過ごしやすい。
アモラ高校に通うペギー・メイ・ワシントンは、いくつか掛け持ちしている部活動のうちの一つ、陸上部用のグラウンドで汗を流していた。
ペギー・メイの専攻種目は中距離走であり、今も800メートル走を終え、腰に手を当てながら息を整えているところだ。
毎朝、10キロメートルのランニングを日課にしているペギー・メイでも、本気で800メートルを走れば非常にしんどい。短距離走の筋肉を使いながら、長距離走のスタミナを一気に燃焼させる感覚だ。自分のペースでゆっくり走る10キロメートルとは全くわけが違う。中距離走こそ、陸上競技で最も過酷であるといわれる所以だろう。
それでも、800メートルを全力で走り切ると、得も言われぬ満足感がある。きっと一年前の自分では、味わう事が出来なかった、そして味わおうとすら思わなかっただろう、そういう心地良さだ。
陸上トラックを吹き渡る乾いた風が、汗を蒸発させて、やや熱せられた体温を奪い、なんとも心地良い。体内で生産される熱と、風によって運び去られる熱が、ほぼ釣り合っているように感じられる。
ある種、麻薬的ですらあるその感覚に陶酔感を覚えていたペギー・メイに、少しぶっきらぼうな様子で声がかけられる。
「新記録?」
ペギー・メイが振り替えると、陸上部の先輩であるエリザが、無表情にドリンクボトルを差し出しながら立っていた。
ペギー・メイは、笑顔でボトルを受け取り、ニ、三口、ボトルからスポーツドリンクを嚥下してから首を縦に振った。
「はい、エリザ先輩。たった1秒ですけど、自己ベスト更新です」
「おめでとう。コンマゼロ何秒で競い合う競技なんだから、1秒更新できたら大したもんだ」
記録更新した後輩を祝うようでもなく、やはりぶっきらぼうにエリザはそう言った。
陸上部に所属したての頃は、エリザの無愛想な物言いが少し苦手だったペギー・メイだが、慣れてくると、エリザは面倒見の良い、姉御肌の先輩であることに気が付いた。
エリザも、自身の性格のせいで後輩から距離を置かれることが多い中、自分を慕ってくれるペギー・メイを好ましく思っているようで、何かにつけ気を配ってくれている。今も、ペギー・メイが記録更新したことを承知で、それをお祝いするために声をかけてくれたのだろう。
ペギー・メイは、エリザの心遣いをありがたく思い、しかし首を横に振った。
「初心者だから、競技に身体が慣れてきただけです。言ってみれば初心者ボーナスですから。もっともっと頑張らないと」
「お世辞なんかじゃないよ。ペギーはすごく頑張ってる。中距離一本で本腰入れるつもりはないの?」
エリザは、ペギー・メイが他にもいくつかの運動部を掛け持ちしていることを知っている。だからこそ、それが勿体ないと思っているのだろう。
ペギー・メイには、陸上競技の才能がある。他の部活動を辞めて陸上部に集中すれば、もっと記録が伸びるのに。そういう、歯痒いような想いが、どうやらエリザにはあるようだった。
ペギー・メイは、エリザの言いたいことが分かっていた。内心、自分のことを買ってくれているのを嬉しく思う。しかし、当面の間は、部活動の掛け持ちをやめるつもりはないので、先輩の期待に応えられないことを申し訳なく思ったりもしている。
その内心を現そうとしたわけではないだろうが、何とも曖昧な笑みを浮かべたペギー・メイに、こちらもそれ以上自分の意見を押し付けるつもりもないエリザは、やはり無表情のまま、ペギー・メイからドリンクボトルを受け取った。
「そういえばペギー、あなたにお客さん」
「えっ、誰ですか?」
「名前までは聞いてない。ほら、あそこに立ってる。知らない人なら、学生課の窓口を通してもらうよう伝えるけど」
エリザの指差す先を見ると、そこにはペギー・メイの知った女性が立っていた。
ペギー・メイの同級生である、プリシラ・パートランドであった。
「プリシラ!久しぶりじゃない!」
笑顔のペギー・メイは大きく手を振ってから、プリシラのところへ駆け寄った。噂では、しばらく登校していなかったようだから、顔を見るのが久しぶりである。
ペギー・メイとプリシラは中等部だった頃からの付き合いだが、それ以上に深い縁が二人にはある。
未登録惑星を舞台とした連邦大学学生誘拐事件、二人はその被害者だったのだ。
そして、紆余曲折の末、二人は無事救助され、同じアモラ高校へと進学した。
しかし、二人の現状はといえば、大きく異なるものになっているらしい。
ペギー・メイは事件をきっかけに趣味性格が大きく変わり、それが良いことか悪いことかは別にして、以前よりも課内課外を問わず学業に集中するようになった。事件に巻き込まれた際、何も出来なかった自分を変えたいという、いわば事件を昇華する方向で自己を変化させたのだ。
それに対してプリシラは、まだ事件に囚われたままだという。たびたび襲い来る事件のPTSDから立ち直ることが出来ず、学校に通うこともままならない状況が続いている。ペギー・メイはそう聞いていた。
二人が事件に巻き込まれるきっかけを作ったのは、語弊を恐れずにいうならば、ペギー・メイであった。
何故なら、惑星ヴェロニカにて実施されるキャンプ活動に申し込もうと決めたのはペギー・メイだったからである。それは、彼女が受講できる他の体験学習の枠が既に埋まってしまっていたという消極的な理由からであり、他の体験学習の枠が埋まってしまったのは、どの講義を受講するか決めかねた、彼女の優柔不断さが原因である。
完全にペギー・メイ本人の、いわば身から出た錆であった。
そして、どちらかというとペギー・メイの取り巻きのような立ち位置であったプリシラは、半ばペギー・メイにつきあわされるかたちでキャンプ活動に申し込んだのだ。
だから、プリシラの現状を知らされたペギー・メイは、一番悪いのは事件の犯人に違いないと理解しているとは言え、自身にもその責任が、僅かながらであっても存在するのではないかと思い、気に病んでいたのである。
そのプリシラが、部活動中のペギー・メイを訪ねてくれたのだ。ということは、少なくとも、自分の意志で外出出来るくらいには、体調も回復したのではないだろうか。
息せき切ったペギー・メイが、陸上トラックの外縁に立ったプリシラの元へ駆け寄ると、プリシラは、事件の前のような、翳りのない微笑みでペギー・メイを迎えた。
「や、ペギー。練習中だったのに、ごめんね」
ペギー・メイは首を横に振る。
「わたしの方こそごめん。プリシラ、あなたが、その、凄く大変な想いをしてるって聞いてた。だからお見舞いに行かなくちゃって思ってたんだけど……」
暗く言い淀んだペギー・メイに、プリシラは全てを承知しているというふうに、微笑みながら頷いた。
「謝ることなんてないよ。ペギーは優しいから、きっと、自分がわたしと会ったら事件のことを思い出させちゃうんじゃないかって、そう思ったんでしょ?」
プリシラの言葉に、ペギー・メイは、落としていた視線をはっと持ち上げる。
ペギー・メイがプリシラの前に顔を見せなかった、それどころか禄に連絡も出来なかったのは、自分がプリシラを事件に巻き込んでしまったという自責の念とともに、正しく今プリシラが言ったように、自分の存在がプリシラをして事件をフラッシュバックさせるきっかけとなり、彼女の病状を悪化させてしまうのではないか、そう懸念したからである。
しかし、ペギー・メイの内心はどうあれ、第三者的に見れば、窮状にある友人を見捨てたと受け取られても仕方ない状況であるのもペギー・メイは理解していたので、そのことが彼女の心に、かえしのついた釣り針のように突き刺さっていたのだ。
だからこそ、全てを察し、そして許してくれるようなプリシラの微笑みに、ペギー・メイはどれほど救われただろう。
ペギー・メイは泣き笑いの表情で、プリシラを抱き締めた。
「プリシラ……ありがとう……」
「大丈夫、安心してペギー、わたし、ちっともあなたに怒ったり恨んだりしてないから。あの事件にしてもそう。少し前までは、何でわたしがあんな事件に巻き込まれなくちゃいけなかったんだろう、何でわたしだけがこんなつらい思いをしなければいけないんだろうって、同じことをぐるぐる考えてた。でも今は、全部が運命だったんじゃないかって、わたしがあの星であんな目に遭ったのも、全部神様のお導きだったんじゃないかって、そう思えるの」
プリシラは、穏やかな口調でそう言った。
プリシラから身体を離したペギー・メイは、プリシラの言葉に僅かな異物感を覚え、彼女の顔をまじまじと見つめた。
ペギー・メイの知るプリシラは、特別無神論者というわけではなかったが、逆に、特定の宗教に対して特に敬虔であったようにも見えなかった。日曜日の朝は、父母に、半ば強制されるように教会に赴き、睡魔に抗うような様子で神父の説法を聞き流すのが常の、丁度自分と同じ程度の信心具合であったはずだ。
であれば、あの事件をきっかけに、神への真摯な信仰に目覚めたということなのだろうか。
それ自体、不思議なことではない。過酷な運命に翻弄された経験が、信仰心をより強固なものに変えるのはよくある話だ。
信仰心の話ではないが、他ならぬ自分自身が、あの事件をきっかけにして大きく変わった。それは自分の認識であり、他者の認識でもあった。同じことがプリシラの身にも起きたのかも知れない。
問題は、それが正の方向への変化なのか、はたまた負の方向への変化なのか、ということである。
ペギー・メイの見たプリシラの瞳は、きらきらと輝いていて、どこにも暗い陰はないように見える。少なくとも、彼女自身が後ろ暗いと思うような方向へと変化したわけではないようだ。
一昔前は、ペギー・メイに対して、どこか怯えたような、媚びるような、そんな気弱な視線を寄越すことが多かったプリシラだが、今は、上から見下ろすでも下から睨め上げるでもない、真っ直ぐな笑みを浮かべている。
それ自体はきっと、プリシラの自立心や自尊心の成長した結果なのだろうから、素晴らしいことだ。しかし、先ほどの台詞には、自身の運命を、神という第三者に委ねる、どこか依存心のようなものが感じられた。それらは、プリシラの中で矛盾せずに両立し得るものなのだろうか。
果たして、彼女の言う神様とは何者なのか。従前からプリシラが信仰していた神と、それは同一人物なのか。
自身を観察するようなペギー・メイの視線に気がついたのか、プリシラは苦笑して、
「どうしたのペギー、わたしの顔に何か付いてる?」
「いえ、そういうことじゃないわ。ただ……プリシラ、変なことを聞くけど、どうしてあの事件に巻き込まれたことを、神様の導きだったなんて思うの?冒涜的な言い方に聞こえたら謝るわ、でも、わたし達、冗談じゃなくて死ぬ可能性があったのよ。きっと、ヴィッキーやシェラがいなければ、本当に死んでいてもおかしくなかった。いえ、きっと、全員じゃなくても、何人かは命を落としていた。そんな事件に巻き込まれたことを、神様の御業だと感謝するのって、なんか違うじゃないか、わたしはそう思うんだけど……」
訝しむようなペギー・メイの言葉に、しかしプリシラは気分を害した様子はなく、むしろ鷹揚な調子で頷き、ペギー・メイの意見を肯定してみせた。
「ペギー、あなたの言いたいことは分かるわ。実はね、わたし、信じる神様を替えちゃったの」
無邪気な様子で、プリシラはそう言った。
「あの事件のあと、ちょっとおかしくなったわたしに、お父様もお母様も仰ったわ。『プリシラ、つらい時は神様に縋りなさい、きっとお前を救い導いてくださるから』って。わたしも、それを信じて、ずっと神様に祈ったの。神様、憐れなわたしをお救いくださいって。でも、しばらくして気がついたわ。もしも神様が真に全知全能なら、あの事件でわたしを苦しめているのも、神様自身の差配なんだって。つまり、神様はわたしをわざと苦しめて、その上で自分に縋らせていることになるじゃない?そんなの、到底まともには思えない」
すらすらとそう語るプリシラの瞳に、奇妙な熱が込められていることにペギー・メイは気が付いた。
この場にはいない何かを讃える瞳。自分自身を何かに捧げて厭わないだろう、瞳。
それは、今までペギー・メイが見たことがない瞳の色──狂信者の瞳の色だった。
「神父様にも質問したわ。どうして神様は、こんな苦しみをわたしに課すのかと。そうしたらなんて言ったと思う?『神の御意志は深遠であり、我々に計り知ることは許されない。ただ、神の御意志に叶うよう、強く生きなさい』、ですって。そんなの、狂ってる。信仰している相手がどんな存在か、何を考えているかも分からないのに、その教えに身を捧げるなんて、正気の沙汰じゃないわ。そのことに、ようやく気が付いたの」
「それで、信じる神様を変えた……」
「そう。今のわたしが信じているのは、あやふやで抽象的な、概念としての神じゃない。もっと具体的に、この世に存在するのが明らかな、神様よ」
その時点で、ペギー・メイの中に、一刻も早くこの会話を打ち切りたい、プリシラから離れたいという思いと、もっと深くこの話を聞いて、もしも彼女が怪しい宗教に傾倒しようとしているならばそれを止めなくてはいけないという使命感が、等分に存在した。
他人の語る宗教話は、その熱量が増すにつれ、己の感情を冷やしていくのが常である。それが世間一般に広く知られた伝統的宗教であってもそうなのだ。もしも、いわゆるカルト宗教と呼ばれるものであれば、聞く者の魂に絶対零度の息吹を吹きかけることになるだろう。
以前のペギー・メイであれば、きっとこの会話を打ち切ることを選んだに違いない。友人が何を信じようと知ったことではないと、耳を塞いで。
だが、今のペギー・メイに、それは出来ないことだった。まして、もしもプリシラが今、危うい状況にあるなら、その原因を作ったのは自分かも知れないのだ。知らぬふりを決め込めば、後できっと後悔する。その確信が、ペギー・メイに勇気を与えた。
内心の決心と共に、ペギー・メイは厳しい表情で問うた。
「ねえ、プリシラ。あなたが今、信仰している宗教って何?そして、そのことをあなたのご両親は知っているの?」
真剣な口調のペギー・メイの言葉に、やはり異様な熱を孕ませた瞳で、プリシラは嗤った。
「あはは、おっかしい、ペギー、あなた、きっとわたしが怪しいカルト宗教にはまっちゃったんじゃないか、そう心配しているんでしょう?安心して、わたしが信じているのはそんなものじゃない。わたしが信じているのはね、太陽、月、そして母なる闇よ」
「太陽、月、母なる闇──」
「そう。そして、よくあるカルト宗教みたいに、高額なお布施も胡散臭い教祖様もいない。ただ、そういう教えがあって、わたしはそれがこの世の真実だと気が付いただけなの。あの事件は、わたしが、元々信じていた神様から離れ、太陽と月と母なる闇へと回帰するために必要だった出来事。今なら、それが分かるわ」
「プリシラ……」
「それに、ペギー、わたしはあなたに、わたしの信仰を無理に理解してもらおうとは思ってないわ。例えば、わたしの信じる神様の正しさを説いて、入信を勧めたりはしない。もちろん、興味を持ってもらえれば嬉しいけど、今のあなたの顔だと、そういうこともないみたいだしね」
プリシラはそう言って微笑んだ。
「わたしが今日、あなたに会いたかったのは、わたしが調子を崩しちゃったのは絶対にあなたのせいじゃないってこと、そして、今はこうして元気でいることを伝えたかったからなの。そして、それは十分伝わったみたいだし、あんまり長居しちゃあなたの部活動の邪魔になっちゃいそうだから、そろそろわたし、帰るわね」
そう言って、プリシラは、数歩後ろへと下がった。
ペギー・メイは、思わずプリシラへと手を伸ばした。何故そうしたのか、彼女自身わからなかった。ただ、今プリシラを引き留めなければ、二度と会えないような、そんな予感がしたのだ。
そんなペギー・メイの内心を知らぬふうに、プリシラは穏やかに微笑みながら、別れの挨拶を口にした。
「じゃあね、ペギー。機会があれば、また会いましょう」
プリシラは踵を返し、軽い足取りで陸上トラックから立ち去った。
ペギー・メイは、その後ろ姿を、ずっと眺めていた。
「どうしたの、ペギー」
放心した様子で立ち尽くすペギー・メイに、何かあったのかと心配したエリザが声をかける。
その時点で、プリシラの影は建物の向こうに消えていた。
ペギー・メイは、無意識に込められていた体中の力を抜き、大きくため息を吐き出した。
そうだ。プリシラが例えどんな宗教にはまってしまったのだとしても、そんなものは麻疹や水疱瘡と同じで、きっと誰しもが一度は通る道。過ぎ去ってしまえば、過去の笑い話になる類に違いない。
万が一そうでなかったとしても、彼女を説得する機会は、今が最後というわけではない。無論、何か危険が彼女に差し迫っていれば、もしくは彼女が何らかの犯罪に手を染めようとしているならば、今しかチャンスはなかったということになるのかも知れないが、今のプリシラからは、そういった危うい雰囲気を感じることはできなかった。
あの様子なら、きっと明日も元気に登校するだろう。詳しい話は、そのときに訊けばいい。それまでに、プリシラから訊くべきこと、そしてもしも必要ならば、彼女を説得するための言葉を選んでおこう。
そう胸に止めて、ペギー・メイは陸上部の練習に戻った。しかし、どうしてか、ペギー・メイの内心に、プリシラと言葉を交わすのはこれが最後になるのではないか、彼女を止める最後のチャンスが今だったのではないかという、指先の逆剝けにも似た嫌な予感が生じていた。
そして、ペギー・メイの予感は的中した。
プリシラは翌日から、学校に姿を見せなかった。
一週間後、ペギー・メイは、プリシラの捜索願が彼女の両親から提出されているのを、行方捜索中の警察官から聞かされた。