懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第百二十二話:専門家

 その酒場には、人熱れで雑然とした空気が漂っていた。

 セム大学近くの繁華街の裏通りにある、普通の酒場だった。

 特別何か名物があるわけではないが、それなりに人通りのある立地で、安い酒、美味い料理を提供する酒場には、どうしたって自然と人が集まる。そこはそういう店だった。

 店内には、テーブル代わりに空の酒樽が等間隔に設置されていて、立ったままの酔客が、ビールのジョッキを片手に、周りの喧騒に負けないように大声で、時に笑い、時に真剣な表情で何事かを話している。

 どこの星の、どこの酒場でも見られる、普通の光景であった。

 その中に、リィとレティシアはいた。

 二人も、他の客と同じように、空の酒樽を挟んで、立ったまま向き合っている。

 酒樽の上には、大ジョッキのビールが二つ、あとは酒肴として、鶏肉の揚げ物、茹でた豆、煮込み等が並んでいる。

 他の客は、レティシアはともかく、リィの幼い顔立ちに一瞬奇異な表情を浮かべることもあったが、そも人の顔立ちなど、必ずしも年齢を読み解く確固たる材料にはならない。子供なのに中年のような老成した顔立ちの者もいれば、その逆もまた然りである。

 子供がこういう店に来て飲酒するのは褒められたことではないが、変に声をかけて、もしも相手が立派な成人であったなら、その相手は当然良い気はしないだろう。それが変に拗れて揉め事に発展するのはごめんだ。まして、相手が未成年だという確証もないのだから。

 だいたい、連邦惑星は、普通の都市とは比べものにならないほど、エリアによって人の住み分けがきっちりしており、未成年の学生がこういう店に来ることは普通あり得ない。学生達の高いモラルもそれを後押ししている。

 ならばきっと、あれは、幼く見えるだけで成人した学生なのだろう。万が一そうでなかったとしても、若い頃のちょっとした飲酒くらい、誰でも一度や二度経験しているものだ。口やかましく説教するのも野暮ではないか。

 そんなふうにして、誰もリィ達に声をかけることはなく、程なく自分達の酒と料理が運ばれてくると、そちらに集中してしまい、奇妙な二人組のことなど容易く忘れてしまう。

 そんなふうにして、リィとレティシアは、誰に咎められる訳でもなく、酒と料理を口にしていた。

 こんな場所でもリィは健啖家ぶりを発揮して、ぱくぱくと料理を食べていく。手品師がスカーフをかけたように消えていく料理を前に、こちらも、痩せた体型には似合わず結構な大食漢であるレティシアも、負けじと料理に手を伸ばし、皿が空になれば新たな料理を注文する。

 

「そういえば、あんたとこんなふうに飲むのも結構久しぶりだな」

 

 肉の串焼きに齧りつきながらレティシアがそう言うと、リィはジョッキのビールをぐいと飲み干し、手の甲で口元を拭ってから、

 

「あっちの世界で、お前に付け狙われてた時以来か?」

「そうそう、確かシッサスの……なんていったかな、豚の臓物の煮物が美味い店だった」

「お前、あの体で、食い物の美味い不味いが分かってたのか?」

 

 リィが不思議そうに問い、隣を通りかかった店員に、すかさずお代わりのビールを頼む。

 その様子を愉快そうに眺めていたレティシアが、

 

「正確に言やあ、周りの人間が美味そうにしてた店、だな。あっちの身体の時は、正直料理の味なんざ分からなかったが、食ってるの人間の顔を見ればそこら辺は何となくわかる。それを元に話を合わせなきゃならねえときもあるから、結構気を配ってたんだぜ。それが、この身体はそういう余計な面倒がないから楽でいいやな」

 

 口の中の肉をビールで喉の奥に流し込みながら、事も無げにそんなことを言う。

 普通の人間なら、失われた五感が復活すれば、その幸運に対して神に感謝の一つも捧げようというところだが、レティシアにとっては面倒事の一つがなくなった程度のことらしい。

 この様子では、今の身体でも、特別食事に拘りがあるわけでもなさそうだ。食を楽しみではなく、栄養摂取の一手段としか捉えていないのかも知れない。

 ただ、今のレティシアは、リィに劣らず結構な勢いで箸を進めているから、この店の料理に不満があるというわけではないようだ。

 

「ところで、本当に良いのかい、奢ってもらってさ」

 

 レティシアが不思議そうに問うた。

 今日、この店で一席設けようと持ちかけたのはリィからである。それも、酒手はリィ持ちということだった。

 レティシアは、安酒の支払いにも窮する貧乏学生というわけではなかったが、他人の銭で飲む酒がこの世で一番美味いというのは常識であり、その点レティシアに否やはなかった。

 本日の講義を終えたレティシアは、いつも通り洗いざらしのシャツに細身のジーンズという軽快な出で立ちで、こちらは少しでも大人びた格好を選んだのかシャツとスラックスに革靴でセッティングしたリィと合流すると、目についたこの店に飛び込んだのだ。

 そして、リィは、新たに配膳されたジョッキを傾け、喉を鳴らしてビールを飲み、満足の吐息を吐き出した。

 

「酒代くらい別に構わないさ。流石にシェラと二人だと、いくらなんでもこういう店には入れないからな。お前となら、店員もお目溢ししてくれるだろう狙いもあった。それに、こういう雰囲気の中で堂々と飲むビールは、自室でこっそり飲む缶ビールより美味いだろう?」

「ま、そりゃそうだ。一人で黙々と飲む酒は美味いもんじゃねえからな」

「もちろん、ただただ美味い酒が飲みたいから、お前を誘ったわけじゃないけどな」

 

 リィの、少し酷薄とも受け取られる言葉に、レティシアはむしろ当たり前というふうに、ニヤリとした笑みを浮かべる。

 

「何か、面倒事かい?」

 

 込み入った話をするのに、例えば寮の面談室などは不向きである。清潔で閑静でプライバシーに配慮された空間は、言い換えれば、悪意ある人間なら盗み聞きし放題の空間ということにもなる。

 リィもレティシアも、例えば誰かが聞き耳を立てている気配があればそれに気が付かないほど鈍感ではないが、小型の盗聴器でも巧妙に仕掛けられていれば、必ずそれに気がつけると豪語出来るほど野放図でもない。必要な用心はするに如かずと弁えている。

 その点、こういった騒がしい場所ならば、周囲の人間が自分達に意識を向けているか否かさえ見切ってしまえば、盗聴器などの心配は不要であるから、秘密の相談には都合がいい。無論、二人の優れた聴覚と読唇術ならば、喧騒に負けじと大声を張り上げる必要もないから、尚更である。

 リィも、当然それらのことを理解して、レティシアをこの酒場に呼んだのだ。そして、レティシアもそれらの事情を予想していた。

 リィは、やはり自分と同類と呼んでいいレティシアの思考を快く思いつつ、先ほどのレティシアの質問に頷いた。

 

「面倒事に発展する可能性がある、そんな話だ」

「事と次第によるが、ここの酒代程度なら相談に乗るぜ?」

「レティ、ここ最近、この辺りで新種の薬物が流行っているとか、その手の話を聞いたことはないか?」

 

 リィの言葉を聞いたレティシアは一瞬目を丸くして、それから腹を抱えるように笑った。

 

「なんだ、あんたとは色々芝居をうってきたけどよ、今度は警察官か探偵の真似事かい?変な漫画かアニメにでもはまったか?」

 

 目尻ににじんだ涙を細い指で拭いながら、レティシアは尚も湧き出る笑いの発作を堪えて言った。

 対するリィは、自分でも似合わない役回りを演じていることを承知しているのだろう、レティシアに笑われるのも仕方ないというふうに、何とも憮然とした表情である。

 

「我ながら変なことに首を突っ込んでいるとは思うよ。ただ、知り合いの警部から頼られちゃったんだ。一応、おれに出来ることはしておこうと思ってね」

「へぇ、あんた、警察の知り合いなんていたのかい?人嫌いに見えて、結構顔が広いんだねぇ」

「ちょっとした事件がきっかけで知り合ったんだ。その後連絡を取り合ってたわけじゃないから、本当に知り合い程度の間柄だよ」

 

 リィは、グレン警部と知り合うきっかけとなった、『暁の天使』盗難事件の概要と、その顛末を簡潔に語った。

 

「『暁の天使』か、その絵なら俺でも知ってる。なるほど、確かにどっかで見たモチーフだと思ったら、あの天使さん、あんたの相棒の占い師さんだったのか。それなら、確かにあの絵はあんたの持ち物だわな」

 

 深く納得した様子でレティシアが頷く。

 リィは疲れたようにため息をつき、

 

「みんな、レティみたいに物わかりがよければ、おれもあんな事件に巻き込まれずに済んだんだけどなぁ」

「そりゃ仕方ねぇよ。あの絵を、例えあんたの持ち物だって理解しても、それをあんたが自分の家に持って帰るとなりゃ話は別だ。常識人なら誰だって慌てて止めるだろうさ」

「そんなものなのかなぁ?おれのものならおれがどう扱おうと自由なんじゃないのか?結局ルーファにもいいように言い包められた気がするし、どうにも釈然としないんだ」

 

 細い首を傾げて大いに不服そうなリィに、レティシアは苦笑する。

 

「ま、だいたいの事情はわかったよ。で、その事件で知り合った警部さんに、いきなり泣きつかれたってわけだな」

「そういうこと」

「ちなみにその警部さん、あんたから見てどうだい?ポンコツ寄りか、それとも腕利き寄りか?」

「おれは、グレン警部以外に警察の知り合いがいないから何とも言えないけど、決して理由もなく、ただの中等部生に事件の助けを求めるほど無能じゃないと思う」

 

 リィは真剣な表情でそう答えた。

 レティシアも鋭い面持ちで頷く。

 

「なるほど、あちらさんがあんたをただの中等部生と思っているかどうかは別にして、あんたに助言を求めにきたってのは、それなりの理由があるって考えるのが自然ってわけだな」

「グレン警部自身がそのことに気が付いているかどうかは分からないけどな」

「普通の事件なら、普通の警察の皆々様に税金分頑張ってもらえばいいだけの話だが、それなりに鼻の利く警官が、例え無自覚にせよあんたを頼ってきた。あんたはその辺りがきな臭いってわけだ」

 

 リィは頷いた。

 

「そういうこと。ついでにいえば、限定サンドイッチのお土産分くらいは働いて恩返ししないと、おれも寝つきが悪くなる。だから、似合いもしない探偵ごっこをしているんだ」

「それで、俺をこんな場所に誘い込んで、飲み代分を恩に着せて情報を吐かせようって魂胆なわけだな。王妃さん、あんたやっぱりいい性格してるぜ」

 

 言葉とは裏腹に、心底楽しそうににやにや笑いを浮かべながら、レティシアはそう言った。

 対するリィは不服そうに唇を尖らせて、

 

「なんだレティ、人聞きが悪いな。いいだろ別に、情報の一つや二つ、別に減るもんじゃなし」

「ま、それもそうか」

 

 レティシアは、テーブル代わりの酒樽に置かれた会計伝票を握り、リィの方に押し付けた。

 

「暗殺だろうが情報だろうが、まずは前金だ。ここの払いは甘えさせてもらうぜ」

「分かった。つまり、その対価はもらえるってわけだな?」

 

 レティシアはニヤリと笑い、

 

「生憎、俺は大した情報は持ち合わせちゃいないが、ドラッグのことならちっとばかし詳しいやつを知ってる。そいつのやさで、二次会としけこもうか」

 

 リィに背を向けたレティシアは、酒場の出口に向けて歩を進めていた。

 

 

 リィとレティシアの二人は、先ほどまでいた酒場から、さらに細い路地裏の道を、肩を並べて歩いていた。

 道は、どんどん侘しい雰囲気になっていく。街灯の数が目に見えて減り、アスファルトは荒れ、道の脇の建物もうらぶれた様子になっていく。

 有り体に言えば、如何にも治安が悪そうな地域に、二人は足を踏み入れていたのだった。

 惑星ティラ・ボーンは、元々、一つの星を巨大な学舎とするために設計された星であるから、普通の国であれば大なり小なりあるはずの暗い歴史──身分や人種、出生地等に基づく差別の歴史である──は存在しない。

 しかし、一定以上の人が集まれば、そこには必ず貧富の差が生まれるものだし、その場合、富める者は富める者同士で、貧する者は貧する者同士でコミュニティを作って居を構えるのが自然な流れであり、ティラ・ボーンの為政者もその流れを止めることは叶わなかった。

 結果として、学ぶ者の平等を掲げる連邦大学であっても、地域的な金銭的優劣は確かに存在するのであり、今二人があるのは、少なくとも金銭的にはあまり恵まれない学生、もしくは住人が住む地域となっているらしい。

 そしてこれも人の悲しい性であるのだが、貧すれば鈍するという言葉もあるように、貧しい人間の住む地域は、そうでない地域と比べれば治安が悪くなるようだった。無論、他の居住用惑星の、本物のスラム地域に比べれば可愛いものではあるのだが。

 とにかく、リィとレティシアは、そんな場所を歩いていた。

 傍から見れば、極上の美少女にしか見えないリィと、線の細い美青年のレティシアである。悪漢の類からすれば葱を背負った鴨にしか見えない二人だが、その中身は地獄の鬼も泣いて許しを乞うような強者である。どんな不良ややくざ者が襲い掛かってきても、物の数ではない。だから、二人の歩みも堂々としたものだ。

 二人とも、自分たちをこそこそと除く視線が、そこらの物陰から向けられていることには気が付いていたが、特に気にする風でもなく歩いた。そんな落ち着いた様子が、不逞の輩にはかえって奇異なものに映り、襲い掛かる機を逸しさせているらしい。

 そんなふうにして、およそ半刻ほども歩いただろうか、二人がたどり着いたのは、文字通りのボロ家の前だった。

 レンガ造りの二階建て、建物の規模からすると個人の住居ではなく、おそらくは、寮生活を嫌った貧乏学生御用達の、一人暮らし用アパートらしい。

 建てられてから既に百年は超えているだろうその建物には、時間の経過が、歴史の重みではなく著しい経年劣化として刻まれているようだった。ぼろぼろのレンガの壁には何重にも落書きが塗り重ねられ、もはやもとの色が何だったのかすらわからなくなっているし、玄関の木製扉は縁が毛羽立ち、あちこちに小さな割れ目ができていて、建物の中の蛍光灯の光がぽろぽろと漏れ出しているような有様である。

 おそらく、マグニチュード3程度の地震でも発生しようものなら、呆気なく崩れ落ちるだろう、そんな建物だった。

 レティシアは、何のためらいもなくその扉を開き、建物の中に入った。リィも、臆することなくレティシアに続く。

 建物の中は、やはり一人暮らし用のアパートなのだろう、長い廊下が一本走っていて、そこに整然と、表のドアよりは少しマシ程度の造りの扉が並んでいる。それぞれの扉が、住人の個室の仕切りとなっているのだろう。そして、一番奥の、常夜灯の灯ったドアは、どうやら共用の便所と浴室らしい。

 リィは、実家は相当に裕福であり、また連邦大学では学寮に籍を置いているため、こういったアパートで暮らした経験がない。彼自身は、例えば寒風吹きすさぶ野山で野宿しても、それを一向に苦に思わないほど適応力のある少年だったが、こういう建物には今までの人生で全く縁がなかったので、逆に強い興味を覚えた。

 果たしてこのアパートの一部屋の家賃はいくらくらいなのだろうか。きっと、目の玉が引っ込むほど安いに違いない。

 きょろきょろと、お上りさんのように興味深そうに建物を観察するリィ、しかしレティシアはずんずんと廊下の奥へと歩み、共用便所の隣の部屋──おそらくはこのアパートでも一番安いだろう部屋のドアを、どんどんと無遠慮にノックした。薄っぺらなドアが不当な暴力に、今にも砕け散ることで抗議の声をあげそうな様子だったが、レティシアは一切お構いないなしだ。

 

「おい、アビー、いるか?」

 

 もう、夜更けも遅い時間だが、レティシアはかなり大きな声でそう言った。周りの部屋の住人にはそもそも気を使っていないのか、それともこれが日常なのか、リィにも判断の難しいところだ。

 とにかく、レティシアは大声で呼びかけたが、部屋の住人からは反応がない。レティシアは小さく舌打ちをすると、

 

「いないなら入るぞ。いるんなら無視するお前が悪い。ってことで、お邪魔」

 

 レティシアは、がたついたドアノブを握り、どうやら鍵はかかっていなかったのか、そのまま部屋へと身体を滑り込ませた。

 先ほどレティシアが口にしたアビーという名前は、一般的にいえば女性名詞である。レティシア自身の例もあるから確実ではないが、普通に考えればここは女性の部屋ということになる。流石のリィも少し躊躇したが、情報を欲しているのは他ならぬリィ自身なので、少し遅れてレティシアの後を追った。

 ぼろついた扉をくぐると、廊下や玄関などはなく、いきなり6畳ほどの部屋があった。予想通り、炊事場やトイレ、浴室などは無さそうだ。ただ、人が一人、ぎりぎり住めるだけのスペースがあるだけである。

 部屋の中は意外と小奇麗で、例えばゴミや物が居住空間を圧迫しているということはない。部屋の中央、天井からぶら下げられた電球が、弱弱しい光で整然とした室内を照らしている。

 部屋には、勉強用のデスクが一脚、あとはシングルのベッドがある以外、目立った家具はない。あとは、部屋の隅に、洗って干した後の洗濯物が、畳まれることなく積まれているのが、部屋の主のだらしなさを表していたかもしれない。

 しかし、それよりなによりリィがまず気になったのは、部屋に充満する匂いであった。どこかずっしりと甘く、干し草のように青臭い匂い。リィは、それが大麻の匂いであることに気が付いた。

 そしてその甘ったるい香りの中に、何か、どこかで嗅いだことのある、不快な臭気が混じっている気がしたのだが、ほんの一瞬のことだったので、それが何だか、リィにはわからなかった。

 あらためて部屋を見回すと、部屋の隅で、レティシアがしゃがみこんでいる。そんな彼の前に、部屋の壁に背を預けて、四肢を投げ出すような姿勢で座り込んだ女性がいることに気が付く。

おそらく、先ほどレティシアが呼びかけた女性──アビーと言っただろうか──に違いない。

 

「あっちゃ、やっぱりトリップしてやがんな。おーい、アビー、愛しの王子様が来てやったぜ。しゃきっと目を覚ませ」

 

 アビーは、とろりと虚ろな視線を、ようやく目の前のレティシアに寄越し、幼児のようにだらしなく口元を綻ばせた。

 

「あー、ほんとだー、レットじゃないか。久しぶり。きみ、いつの間に分身の術を覚えたんだい?三人も一緒にこの部屋に立ち入ったら、腐った床が抜けてしまうから勘弁しておくれよ」

「お生憎様、俺は分身の術を覚えてないし、アメーバみたいに細胞質分裂したわけでもねぇよ。お前がバッドトリップしてるだけだ」

「バッド?愛しいきみが三人前に増えたんなら、きっと最高のグッドトリップさ。めったにないせっかくのチャンスだから、豪華に4Pとしゃれこもうか。さぁ、ぼくを一晩中ベッドの上で啼かせておくれ」

「嬉しいお誘いだが、今日はお前に訊きたいことがあってきたんだ。ほら、こいつを飲んでこっちの世界に帰ってこい」

 

 レティシアは、机の上から錠剤の包装シートを拾い上げ、プラスチック部分を押して中の錠剤を取り出すと、飲料水のペットボトルとともにアビーへと差し出した。おそらく、トリップから覚醒させる効果をもった薬剤なのだろう。

 アビーはそれを見て大いに不服そうに顔を歪めたが、その後、にんまりと微笑み、

 

「君が、飲ませてくれ」

「あん?わかったよ、じゃあ口を開けな」

「違う違う、そうじゃないよ。まったく、女心のわからない朴念仁だね。ぼくは、まるで雛鳥みたいに、きみの口から薬を飲みたいって言っているのさ」

 

 アビーの言葉に、レティシアは大きくうなだれると、仕方ないといったふうに錠剤と水を口に含み、その状態でアビーに唇を重ねた。

 口移しで錠剤を含ませてやると、アビーは素直にそれを飲み込んだ。肉付きの薄い喉がぐびりと蠢き、薬が胃の腑に収められたのがわかる。

 レティシアはそれを確認してから、半ば強引にアビーを引きずり起こし、

 

「さぁ眠り姫。王子様のキスは終わったんだ。あっつあつのシャワーを浴びて、本格的に目を覚ましてこい」

「いやだぁ。お姫様抱っこをしてくれないと、ぼくはここから一歩も動かないぞう」

「ああ、もう、わかったわかった」

 

 レティシアはアビーを横抱きに抱え上げ、あたりに散らかっていた洗濯物の中から彼女の下着を探り当てると、タオルと一緒に器用にひっつかみ、部屋から出て行った。

 

「王妃さん、こいつを風呂に叩き込んでくるから、ちっとその部屋でくつろいでいてくれよ」

 

 そんな声が聞こえて、部屋の扉が強い調子でばたんと閉められる。

 リィとしても、見知らぬ他人、しかも女性の部屋で一人残されてくつろぐというのも中々難しい注文だったが、さりとて何かできることがあるわけでもない。レティシアの言葉に従って、部屋の隅にちょこんと腰掛け、二人が戻ってくるのを待った。

廊下の向こうからシャワーの水音が聞こえてくる。合わせて、女性の甘い喘ぎ声が聞こえたような気もしたが、リィは特に気にしなかった。

 

 

 やがて、レティシアとアビーが部屋に戻ってきた。レティシアはげんなり疲れた様子で、下着姿のアビーは先ほどのぼんやりしたのが嘘のように、つやつやと元気そうな様子だった。

 薬の抜けたアビーは、少しそばかすが目立つ幼い顔立ちであるものの、中々の美人だった。年のころは二十歳前後だろう、艶のある金髪を肩の辺りで切りそろえ、活動的な様子である。意外なことに肌は健康的な小麦色に浅く焼け、身体は中等部生と見紛うほどに小柄だが、その割には筋肉質だ。登山などをすれば、全身をきびきびと動かして、猿のように岩壁を登りそうな、そんな身体だった。

 アビーは、特に恥ずかしがるようではなく、半裸のまま、リィの前に胡坐を組んで腰掛けた。

 

「やぁ、待たせてすまなかったねお嬢ちゃん。ぼくに用向きがあってこんなむさ苦しいところまでご足労いただいたようだが、いったいどんな要件だい?」

「悪いけど、おれは男。ヴィッキー・ヴァレンタインっていうんだ。初めまして、アビー」

 

 アビーの顔が一瞬驚きに染まり、しかし次の瞬間にやりと微笑った。

 

「そうか、きみは男の子だったのか。だったら、妙齢の異性の、こんな格好は些か刺激的かな?」

 

 明らかに年下とはいえ、異性と知らされたリィの前で、アビーは大股を開いた胡坐の姿勢を崩さず、恥ずかしがるふうではない、堂々とした有様である。

 普通の思春期の少年であれば、今のアビーのあられもない肢体に目を離せなくなるか、それとも顔を赤くしてそっぽを向くのが普通の反応だろうが、リィは特に慌てたりはしない。リィの周りには、ジャスミンやメイフゥのように、普通ではない女性が多いので、こんな態度にもある意味慣れっこである。

 そんなリィを、アビーは面白そうに眺めている。

 

「なるほど、これはレットの知り合いに相応しい、ちょっと変わった子のようだね。ぼくの名前は、アビゲイル・サリヴァン。可愛らしくアビーと呼んでおくれ」

「よろしくアビー。おれのことはヴィッキーって呼んでくれると嬉しい」

「よしきたヴィッキーだね。まぁ、大学にいるとき以外のぼくは、たいていさっきみたいな有様で別世界を旅行していることが多いから、次に会った時きみの名前を憶えているか怪しいものだ。それは先に謝っておこう。そして、きみのような美少年なら、さっきのレットのように、優しくキスでこの世界に引き戻してくれると嬉しいね」

「さっきトリップしてたのは、大麻?」

 

 当然のことだが、連邦大学において大麻の不法所持、乱用は違法であり、学校に見つかれば、軽くて停学処分、悪くすれば放校処分になっても不思議ではない。

 到底、まともな学生のすることではない。

 しかしアビーは悪びれもせず、

 

「なかなか鼻の利く少年だ。しかし、ぼくがきめていたのはいわゆる大麻とは違う。惑星ペナンで最近発見された薬草の一種でね、確かに大麻と似通った成分を含んではいるが、今のところ共和宇宙のどの国でも違法指定されていない、きわめてリーガルなハーブさ。例えここに共和連邦政府の麻薬取締官がいたとしても、絶対にぼくを逮捕できない、まったくもって問題のない代物だ。ま、きっと半年後には違法薬物リストに入っていること間違いないけどね」

「おいおいアビー、いい加減、自分で見つけた新種植物でトリップきめる悪い癖、あらためたらどうだい?そんなことしてたら、いつかは手が後ろに回るか、それともおっ死ぬぜ?」

「そいつは無理ってものだ。未開の星を探検して、自分の手で発見した新種薬物をこの身体で実験してみるのは、ぼくのライフワークだからね。それを止めるのは、マグロに泳ぐのをやめろって言うに等しい。つまり、死ねっていうことだ。きみはそんなドSだったのかな?まぁ、きみになら、ベッドの上で死ぬほど乱暴に責められるのも悪くはないけどね。それに、これでも一応は自分の限界は弁えているつもりだ。煙草に毛の生えたようなハーブもどきならともかく、人生がぶっ壊れるようなドラッグには手を出さない主義だから安心しておくれ」

 

 ほんの少しも悪びれない、堂々とした調子でそう言い切った。

 レティシアはリィの方を見やり、お手上げというポーズをとった。前世の職業柄、女性を手玉に取るのはお手の物のレティシアをして、この小柄な女傑は手に余る人物らしい。

 

「王妃さん、あらためて紹介するぜ。こいつはアビー、誇り高き我がセム大学薬学部随一の奇人変人だ」

「いやだなぁレット、セム大学薬学部始まって以来の大天才だなんて。そんな事実を言ってもらったら照れるじゃないか」

 

 まるで冗談でもないふうに頬を染めるアビーは、どうやら聴覚と脳神経の間に、彼女に都合の良い翻訳装置が付いているらしかった。

 レティシアはアビーの言葉には特に気を留める様子はなく、淡々と彼女の紹介を続ける。

 

「見てのとおり、人間的には完全にぶっ壊れてるが、ドラッグ関係の知識は、俺の知る限り随一だ。おそらく、下手な教授連中よりもそのあたりは詳しいはずだぜ。あんたの知りたいことにも答えてくれるんじゃねぇかな」

「なんだヴィッキー、きみはぼくにドラッグカルチャーの手ほどきをしてほしかったのかい?きみのようなぼく好みの美少年なら否やはない、お姉さんが優しく、手取り足取り、そしてもしもきみが望むなら、腰やまたぐらのあたりも取りながら、一から百まで、一晩中の密着指導で教えてあげようじゃないか」

 

 いくら女性からとはいえ、年下の異性相手にこの台詞は完全なセクハラであったが、リィは別に顔を顰めるでも赤らめるでもなく、淡々とした調子で問う。

 

「ねぇアビー、最近、この星で流行してる新種のドラッグに心当たりってない?」

 

 リィの質問に、アビーはにやりと笑う。

 

「それってアッパー系?それともダウナー系?ケミカル?ナチュラル?合法ドラッグ?違法ドラッグ?」

「えっと……よくわからない」

 

 困惑した様子のリィの無邪気な反応に、むしろアビーは楽しそうに頷く。

 

「一口にドラッグって言っても、種類は多種多様、効用は千差万別だ。さっきぼくがきめていたみたいに別世界へトリップした感覚を味わえるものもあれば、例えば自分がスーパーマンに転生したかのような万能感を味わえるものもある。宇宙開闢以来の全ての存在の祝福を一身に浴びたような多幸感を味わうもの、全人生分の性的絶頂を一度に叩き込んだかのような凄まじい快楽が味わえるもの、まぁ挙げていけばきりがないし、それぞれのドラッグにそれぞれの需要が存在する。その中で、特定のドラッグに需要が偏っているかといえば、流行り廃りこそあれ、そんなことはない。どのドラッグも、常に需要があって流行しているという言い方が正しいと、ぼくは思うね」

 

 いかにも専門家らしいアビーの意見に、リィは苦笑する。

 

「じゃあ聞き方を変えるよ。アビーみたいな専門家をして、ちょっと変わったドラッグが流行しているとか、そんな話は聞いたことないかな?」

「ふむ、中々いい質問の仕方だね。それなら、ぼくはこう答えよう。きみは、リビングドラッグっていう単語を聞いたことはあるかな?」

 

 リィは不思議そうに目を丸くし、助けを求めるようにレティシアへと視線を遣った。

 医学部生であるレティシアも完全に専門外なのだろう、首を横に振る。

 そんな二人を、愉快そうにアビーは眺めて、

 

「まぁ、この界隈では一種の都市伝説みたいなものだよ。この単語も、例えば学術書に乗っているような正規の言葉じゃない。ただ、ぼくや、ぼくみたいな変人連中が、面白がってそう呼んでいるだけだ。しかし、ぼくは、今、この星に広がっている新種の薬物は、それじゃないかと思っているんだ」

 

 先ほどまで飄々とした笑顔だったアビーが、いつの間にか真剣な表情を浮かべていた。

 

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