懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
本日の講義を終えたウォルは、最近はいつもがそうであるように、TBSBのセム大学支局に足を運んでいた。
うだるような蝉時雨も、局の建物の中に入れば静かなもので、適度に効いた空調が、僅かに火照っていた肌から体温を奪い何とも心地よい。
明日は土曜日、社会人ならば華の金曜日とも言うべき、少し浮足立つ時間帯であったが、TBSBセム大学支局の建物の中は、一体どんな仕事をしているのか、スタッフ証を胸につけた学生が、急ぎ足であちらこちらへと走り回っている。
その中で、ウォルは、キョロキョロと、まるで初めてこの建物を訪れた来客のように、案内板を探して目的地へと向かっていた。
元来、テレビ局の建物構造は複雑な造りとなっていることが多い。それは、放送スタジオ、編集室、報道フロア、事務所など、様々な機能を持つ複合施設であることに加えて、テロ防止の観点から外部の人間がその心臓部に容易くたどり着けないよう、敢えて入り組んだ造りにしているという理由もあるのだ。
ウォルは、彼女が所属している報道局への道筋こそ覚えているものの、それ以外の部署は不案内である。今から向かおうとしている芸能局のレッスンスタジオの場所も、説明こそされたがよくわかっていない。案内板と格闘しつつ、すれ違うスタッフに道案内してもらいつつの、難渋の道のりであった。
「やれやれ、もとの世界で放浪の旅をしていた頃を思い出すな」
もっとも、あちらの世界では、不思議な少女と出会って王権奪還の戦いを繰り広げるまでは、本当に漂泊の旅人だったので、時間も目的地もなかったわけだが。
とにかくウォルは悪戦苦闘しながら、何とか時間通りにレッスンスタジオへとたどり着いた。
レッスンスタジオは、テニスコート半面ほどの広さで、床と天井を除く全ての壁が鏡張りになっており、どんな場所や体勢でも、自身の姿や姿勢が確認できるようになっている、主に、ダンスの練習に使われる部屋だった。決して大きな部屋ではないが、数人のアイドルユニットなどがダンスレッスンをしたり、小さなオーディションをしたりするには丁度いいくらいの広さなのだろう。
そこには既に、ウォルと既に顔なじみのノーマンと、こちらは初めて見るチョコレート色の肌の男性がいた。
男性の年の頃はノーマンと変わらないように見えるから、おそらく大学生なのだろう。縦にも横にも相当な巨漢だが、人好きにする笑みを浮かべているため、不必要な威圧感がない。
「やあ、フィナ。ここまで迷わなかったかい?」
心なしか、少し窶れた様子のノーマンが、力なく微笑みながらそう言った。
よくよく見れば、眼鏡の下に、色濃い隈が出来ている。
元から線の細い面立ちの青年だから、これだけ調子が悪そうに見えると、何か病気を患っているのではないかと勘繰ってしまう。
ウォルは心配そうに、
「ノーマンどの、いったいどうされたのだ?風邪でも召されたか?」
年下の少女から気遣われてしまったノーマンは、弱弱しい微笑みを浮かべたまま首を横に振り、
「大したことじゃないんだ。詳しくはまた後で話すよ。それより、先に君の用事を済ませてしまおう。紹介するよ、彼はランドルフ。TBSB芸能局のスタッフだ」
チョコレート色の肌の男性が、白く輝く歯を見せながら、爽やかに微笑んで右手を差し出した。
ウォルも微笑みを浮かべ、その右手を握った。
「はじめまして、ランドルフ・フィッシャーと申します」
明らかに目下であるウォルに対して、とても丁寧な口調だった。
取って付けたような口調ではなかったから、おそらくはこの青年の地なのだろう。
ウォルは、初対面のこの青年に、好印象を抱いた。
「フィナ・ヴァレンタインです。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
ランドルフはにこやかな笑みを浮かべたまま、首を横に振った。
「とんでもないことです。あの試合を見てからというもの、ずっと貴方にお会いしたかった。何度も夢に見たほどです。貴方なら、間違いなくTBSB芸能局の歴史を塗り替える活躍をしてくれる、私はそう確信しています」
「期待にお応えできるよう、微力を尽くしたいと思います」
ウォルとブッチャーとの激闘から既に一週間が経つが、その反響はとどまるところを知らない有様だ。
SNSにおける試合映像の再生回数は、ランキングの順位を日に日に上げ、今や全共和宇宙でもトップ10にランクインしている。合わせて、過去のウォルの取材映像、インタヴュー映像等の視聴回数もうなぎ上りであった。
今や、ウォルは間違いなく、TBSBで一番注目を集めている女性局員だった。
そんなウォルに、人気稼業である芸能局が興味を示さないはずがない。上層部を経由して報道局に打診が入り、今、ウォルはその面談に来ているのだ。
「フィナさん。あなたは、アイドルを志望されていると聞きましたが、間違いありませんか?」
「はい、その通りです」
ランドルフは頷き、
「であれば、芸能局での活動は必ず貴方の夢を叶える一助になるでしょう。是非とも、私達にその手助けをさせて頂ければと思います」
「光栄です。ちなみに、今日お呼びいただいたのは、面談のためと伺っておりますが、この場所でいったい何をするのですか?」
ウォルの質問に、ランドルフの横に立っていたノーマンが応える。
「それは僕から説明させてもらおう。それとフィナくん、いつもの口調で構わないよ。きみが、その、そういう女の子だということは、ランドルフには説明している」
「あい分かった。では、お言葉に甘えさせて頂こう。ランドルフどの、この話し方がおれの素の口調なのだが、ご不快はないか?」
ウォルは口調を改め、それとともに雰囲気も一変させる。いわば、外向きの彼女から、男性的ないつもの彼女へとスイッチを切り替えたのだ。
先ほどの、柔らかな女性的な顔立ちから、どこか鋭い男性的な視線に変わったウォルを見て、ランドルフは流石に少し驚いた様子だったが、すぐに穏やかな微笑みを浮かべる。
「ええ、大丈夫です。それに、何ともあなたにはお似合いの言葉遣いだと思います。その凛々しい表情と合わせて、とても魅力的だ」
「そう言って頂けるとありがたい。無論、非礼があれば御指摘頂けると嬉しい。まだ、この世界には色々と不慣れなのだ」
まさか、この世界をという単語の意味するところが、文字通りの世界そのものだとは思わず、放送界のイロハのことだと理解したランドルフは大きく頷き、将来有望な後輩に対して歓迎の意を示した。
二人のやりとりを微笑みながら見守っていたノーマンが、軽く咳ばらいをしてから、先ほどのウォルの質問に答える。
「フィナくん、今日、きみをこんな場所に招いたのはね、きみが芸能局で活動するにあたって、まずはきみの適性を見極めさせてもらおうと思っているんだよ。TBSB芸能局は、ドラマやバラエティー番組の放映、歌やダンスや演劇のプロデュースなどを中心に行っている。今日は、きみをどの方向で売り出すべきなのか、その材料を探っていこうというわけだ」
ノーマンがそう言うと、ちょうどタイミングよく、何人かの、おそらくは学生と思しき人間がレッスンスタジオに入ってきた。
男性もいれば女性もいる。ウォルには、体格的にも性別的にも、彼ら一団に統一性があるようには思えない。
不思議そうに首を傾げるウォルに、ノーマンが説明する。
「彼らは、それぞれがダンス、歌唱、バレエ等、色んな分野を専門とする学生だ。ありがたいことに、TBSB芸能局に所属するタレント部門のスタッフの指導を、ボランティアで引き受けてくれている。今日は、きみがどの方面に適性があるのか、まず第一人者の意見を聞いてみたいと思ってね。こうして集まってもらったってわけだ」
「なんとありがたい。まだ、この界隈ではどこの馬の骨とも分からないおれのために、申し訳ない限りだ」
恐縮するウォルに、一団の先頭にいた、すらっと背の高い女性が笑いながら、
「そんなにかしこまってもらわなくても大丈夫よ。実は、私達も今日を凄く楽しみにしていたの。いま、共和宇宙を騒がせている、噂のウォルちゃん──本名はフィナちゃんなんだっけ?とにかく、一度会ってみたいと思ってたの」
「そう仰っていただけるとありがたい。ええっと……」
「私はテレーサ、ダンスが趣味で、TBSBにお世話になってる。実は、こうして講師をするのも課外活動として単位になってるの。だから、ウィンウィンの関係ってやつね。一応、専門はヒップホップダンスってことになるのかな?かなり悪食だから、色んなダンスをミックスしてオリジナルで踊るのが好きなんだ」
「僕はレオニート。小さい頃からクラシックバレエを習っていて、これでもいくつかのコンクールで金賞を取っているんだ。ウォルくん、きみに会えて嬉しいよ」
「わたし、クァシンと言います。TBSBでは歌唱部門のコーチをしています。ウォルさん、SNSで観たあなたの試合はわたしにとってとても衝撃的で、ドラマチックでした。どうか、お友達になってくれると嬉しいです」
レオニートは小柄で童顔の美青年、クァシンは目尻の少し下がった優しい表情の黒髪の女性だった。
全員が全員、事前にウォルのことを知っていて、そして好意的な感触を抱いてくれているらしい。
なるほど、SNSで名前を売るとはすごいものなのだなと、他人事のように関心したウォルは、そんな内心をおくびにも出さず、笑顔で三人に相対し、
「フィナ・ヴァレンタインです。TBSBでは、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンとして活動しています。本日はお時間をいただきありがとうございます」
丁寧にお辞儀するウォルを、三人は微笑みととも見遣る。礼儀正しく愛らしい生徒というものは、どんな講師だって好ましく思うものだ。
そんなウォルに、まずはテレーサが声をかける。
「じゃ、ウォルちゃんも忙しいだろうし、ちゃっちゃとやっちゃおうか。まずは私だね。ウォルちゃん、ダンスの経験は?」
ウォルは指を顎に当てて少し考え、
「儀礼用の剣舞、あとは晩餐会で催されるダンスなら少々嗜みがある程度だ」
「剣舞に晩餐会?ウォルちゃん、ひょっとしてどこかの星のお貴族さま?」
テレーサが、予想外の返答に、驚きに目を丸くしながら訊く。
実際のところ、ウォルはその貴族たちを統べる立場にいたわけだが、まさか本当のことを言うわけにもいかない。
あいまいな笑みを浮かべて、ごまかす。
テレーサも、ウォルの生まれそのものにはそこまで興味はなかったのだろう、口調を変えて、
「じゃ、とにかく、ダンスに素養はあるわけだね。でも、今のテレビで剣舞や社交ダンスしても、残念だけど中々受けがよくないと思う。主流は、どうして目を引きやすい、ヒップホップダンスなんかだからね。今日はそっちのレッスンでいこっか。まず私から踊るから、見ていてね」
ランドルフがスタジオに設置された機器を操作すると、天井の四隅に設置されたスピーカーからアップテンポな音楽が流れだす。
ウォルにも聞き覚えのある、今、共和宇宙で流行している歌手の最新曲だった。
テレーサはその音律に合わせてステップを踏み、身体がリズムに慣れてきた頃合いに、上半身を激しく動かして踊り始めた。
足を、腰を、腕を、頭を、激しく振りながら、しかし音楽とは寸分のずれもなく、身体全体でビートを刻む。
まるで下半身と上半身が別の生き物のように複雑に動くのに、全身を見れば一体感があり、見ているだけでワクワクと、思わず見る人間の身体が動きだしてしまうようなダンスだった。
ウォルも、そういった踊りをテレビ画面で何度か見たことがあるが、生で見るのは初めてだったので、なるほどこういうものなのだなと驚いていた。
やがて一曲が終わると、軽く息を弾ませたテレーサが振り返り、
「さ、ウォルちゃん。一緒に踊る?」
「ああ、うずうずとしていたところだ。是非ともご一緒させていただこう」
きらきらと笑顔を輝かせたウォルはテレーサの隣に立つ。
表情にこそ出さなかったが、テレーサは少し驚いた。自分の踊りを見て、いきなり一緒に踊るかと誘われたのだ。少しは尻込みするのが普通だと思うが、おそらくヒップホップダンスには素人のウォルが、ほんの少しも怖気づくことなく一緒に踊ろうというのだ。
くだんの試合から、肉体的な素養──運動神経や反射神経は人並外れていることは間違いないが、精神的にもよほど肝が据わっているのだろう。
テレーサは笑顔を浮かべ、ランドルフに合図を送る。
先ほどと同じ曲が再びスタジオに流れ始める。
テレーサは、さっきと同じように、まずは、上半身を動かさず、ステップから始める。鏡に映った隣のウォルも、テレーサと寸分たがわず、リズムに合わせてステップを踏んでいる。
最初は単調に、しかし少しずつ複雑になるステップに、しかしウォルは過たずついてくる。顔にも微笑が湛えられ、困惑したところは少しもない。
これなら、ある程度は大丈夫だろう。テレーサは、上半身の動きを加える。腕を跳ね上げ、腰や首を振り、視界が彼方此方へと飛び、光が揺れ動く。
流石に、いきなりこの動きにはついて来られないだろうか。そう思っていたテレーサだったが、四方に設置された鏡を見ると、驚くべきことにウォルはテレーサの動きをそのままコピーしたように、激しい踊りについてきている。
「あはっ、すごいねウォルちゃん!」
思わずそう嬉し気に叫んだテレーサに、ウォルも踊りながら笑顔で返す。
「もっと激しくても構わんぞ、テレーサどの!」
「よしきた!」
テレーサは、自身の限界に挑戦するように、音楽に合わせてを身体を激しく動かし、更に飛び、跳ね、その熱情を全身で表現する。
先ほどは見せなかった動きだ。
しかしウォルは、初めて見るはずのテレーサの動きに合わせ、最初からこれがペアのダンス構成だったように踊っている。なんと時にはアドリブでテレーサの踊りと左右を入れ替え、鏡写しに踊ってみたりもする。初見のダンスでこのようなことが、素人にできるはずがない。
これには、テレーサのほうが驚きの表情を浮かべてしまった。
そして曲が終わった時、先ほどよりも息を弾ませたテレーサは、弾んだ息をそのままにウォルの手を握り、
「すごいよウォルちゃん!私とペア組もう!一緒に大会出ようよ!絶対に世界を狙えるよ、あなたと私なら!」
心の奥から沸き起こる感動に堪えきれない様子で、そう言った。口調も、お世辞を言っている様子では全くない。きっと、この少女となら自分は世界大会の表彰台に立てる、本当にそう信じているようだった。
これには苦笑したランドルフが、
「駄目ですよテレーサさん。ウォルさんは、我がTBSBの期待のスタッフなのですから。引き抜きは私の目の届かないところで、こっそりとお願いします」
「そういうのって私のたちに合わないんだよね。やっぱりなんでも堂々とやらないと気持ち悪いじゃない?」
「それで、あらためて訊くまでもないとは思いますが、ウォルさんのダンスの適正はどうでしょうか」
テレーサは軽く肩を竦めさせて、
「ランドルフ、あなたが見た通り、それが答えよ。まったく、神様って、一人の少女にいくつのギフトをお与えになるのかしらね。そんなにいくつも与えたって、まるでケーキ屋さんで美味しそうなケーキに目移りするみたいに、全部食べられるわけじゃないのに」
「つまり、ダンスについては十分に素養あり、と」
「もしも誰かがけちをつけるなら、必ず私に教えなさい。すっ飛んで行って、そいつの濁った眼を機械式義眼に入れ替えてやるから」
テレーサはそう言って微笑い、コーチ陣の輪へと戻った。
「じゃあ、次は僕の番だね」
笑顔とともに前に出たのは、レオニートだった。
「ウォルくん、念のため訊くけど、バレエの経験は?」
もう息を完全に整え終わったウォルは、涼しい顔で首を横に振る。
「申し訳ないが、まったくの門外漢だ。バレエのバの字も知らずに生きてきた」
「ま、普通はそうだろうね。簡単に説明すると、バレエってものはね、普通のダンスと共通するところも多いけど、やっぱり強調されるのは姿勢の美しさ、そして柔軟性の高さだね。これは、他のダンスやスポーツ、舞台芸能なんかでも重視される要素だから、素地的な立ち位置としてバレエは色んな人が学んでいるんだ」
「なるほど」
「今日は、きみの素養を確かめるのが目的だからね。それに、ダンスそのものに適性があるのはさっきので十分に理解できた。なら、バレエは逆に、基本的なところから押さえていこうか」
レオニートはスタジオに座し、足をほぼ180度に開き、そのままぺたりと前に身体を倒した。普通の人間なら、到底不可能な体勢だ。それでも、レオニートの表情は余裕そのもので、彼の身体の柔軟性限界がもっと先にあるのだと教えている。
「さぁ、ウォルくん。僕の真似をしてみて」
「よしきた。やってみよう」
ウォルも床に座り、レオニートと同じように足を大きく広げ、そのままぺたりと身体を倒した。ウォルも、優れて体の柔軟な少女である、この程度では筋肉の張りを感じるほどでもない。
余裕綽々のウォルの表情に、レオニートは頷く。
「あの試合で、とんでもない体勢の関節技をフィニッシュホールドにしたきみだからね、これくらいはできるだろうと思っていたよ。じゃ、これはどうかな?」
レオニートはさきほどの姿勢のまま、股間を支点にして両足を大きく上に持ち上げた。両足を伸ばしたまま、頭上支点で見れば180度以上、おそらく270程度まで股関節を曲げる、常人がすれば筋断裂や股関節脱臼間違いなしの体勢である。
「む、こんなふうか?」
しかしウォルは、さほど苦でもなく、レオニートと同じ体勢を作る。
これには、素直にレオニートも驚いた。
「へぇ、すごいねウォルくん。バレエ経験者でも、そこまで柔らかい子は珍しいよ」
レオニートが感心したのは、ウォルの柔軟性だけではない。常人では拷問のようなその体勢でも、足先が美しくピンと伸びているのだ。確かに自分の体勢を真似るよう指示をしたが、そこまで神経を行き渡らせるのは並み大抵のことではない。
微笑んだレオニートは立ち上がった。ウォルもそれに倣う。
「じゃ、バレエの基本的な動きを教えるよ」
「お願いします」
「まず立ち方から。リラックスして無駄な力は抜きながらも、常に背筋は伸ばして、つむじの辺りが天井から引っ張られることを意識してね」
そう教えるレオニートの立ち姿は、ウォルから見てもため息が漏れそうなほどに美しい。全身の細部まで、繰り返し繰り返し同じ練習で刻み込まれた歴史があるように見えた。
「僕の真似をしてね。まず、アン・バー。両腕を下にした、このポーズだね。両脇に、拳大のサイズの空間を作って」
「こんな感じか?」
「うん、いいね。次に、アン・ナヴァン。アン・バーで作った腕の輪を、みぞおちまで持ち上げて。ボールを抱えるようにして……そう、いい感じだ、次はアン・オー、その輪を頭上に持ち上げる。ア・ラ・スゴンド、腕と足を横に開いて……タンドュ、片脚の膝を伸ばしたままもう片方の脚を前に出して……手の指は、常に美しいかたちを意識してね」
「うーむ、中々に難しいな」
「そんなことはないよ、上手にできている。次にルルベ、踵を高く上げて、つま先立ちになってみて……いいね、とても美しい。やっぱり、格闘技以外にも、ウォルくんには何か、身体を自分のイメージ通りに操る高い才能があるみたいだ。他にも、何かスポーツをやりこんだりしていたのかな?」
「そうだな、今はとんと触らなくなってしまったが、剣術を少々嗜んでいたことがある」
剣術という、一見華奢にも見えるこの少女には些か似つかわしくない競技名に、レオニートは意表を衝かれた顔になったが、先ほどのダンスレッスンの前に、剣舞の嗜みがあると言っていたのを思い出し、なるほどと頷いた。
それにしても、先ほどのウォルの言葉──少々嗜んでいた、という言葉は、謙遜が過ぎるというのが本当のところだろう。男だった頃のウォルは、デルフィニアという大国でも随一の剣士だったのであり、彼と一合を斬り結ぶこともできず切り捨てられた敵兵は数多い。全盛期のウォルと打ち合えたのは、音に名高き戦女神だったリィくらいのものだろう。
そして、リィの剣は戦うための剣、生きるための剣であり型よりも実戦を見据えたものだったのに対して、ウォルのそれは智勇に誉れ高いフェルナン伯爵に叩き込まれた正統な剣術である。ウォルの優れた運動神経、美しい所作はそこで磨かれたものであったから、舞踊を含めた全ての分野に生かされているのだ。
「じゃあ音楽を流すよ。さっきの動きを、順にこなしていこう」
レオニートが視線でランドルフに合図を送ると、今度は、古風でゆったりとしたリズムの音楽が流れる。
そのリズムに合わせて、レオニートが、先ほどのレッスンの動きを始める。そして、ウォルもそれに倣う。常に美しい立ち姿で、動きと動きの繋ぎも滑らかだ。音楽に合わせて、優雅に踊っている。
そして何よりレオニートを驚かせたのは、その表情だった。普通、初心者が身体の細部に神経を使って踊れば、そちらに意識が集中し、硬い表情になるものだが、ウォルは柔らかく微笑みながら踊っているのだ。
レオニートも、TBSBで数多くのレッスンをこなしてきたが、ウォルはその中でもとびぬけて優秀な生徒だった。内心では、さっきのテレーサと同じように、ウォルの手を取り、バレエの世界へと誘いたくなるほどに。
そんな内心を隠したレオニートは、静かに曲が終わると、柔らかな笑みを湛えてウォルの方を向きなおり、たおやかに一礼した。
ウォルもそれにならい、礼を返す。
レオニートは無言で、コーチ陣の輪に戻った。言うべきことはない、そんな有様だったから、ランドルフやノーマンも無粋なことは訊かなかった。
最後に前に出たのは、声楽の講師であるクァシンだった。控えめな微笑みを浮かべ、ウォルの前に立つ。
「では、最後はわたしですね。先ほども言いましたが、わたしは歌唱部門のコーチを務めさせていただいています。あなたがアイドルを目指すなら、歌はどうしても避けて通れない道でしょうから、何かのお役に立てれば嬉しいです」
「では、クァシンどのはどのようなレッスンをしてくれるのだ」
クァシンははにかむように微笑み、首を横に振った。
「わたしがウォルさんのコーチになったら、是非とも行いたいレッスンはたくさんあるのですが……。今日は、あくまで現時点での適性を見極めるのが目的ですから、ウォルさんの歌を聴かせていただこうと思っています」
「歌?しかし、おれに歌える歌などあったかな?」
「なんでもいいのですよ。今流行している歌でも、小さい頃に聞かされた童謡でも」
「童謡……。ふむ、ならば心当たりがあるが、この国の歌でもないし、そもそも言葉も違う。それでも構わないか?」
クァシンは嬉し気に頷いた。
「もちろんです。目的は、現時点でのあなたの歌唱のレベルと、これからの伸び幅が知りたいだけなのですから。それに、知らない歌を聴けるのは嬉しいです」
ウォルは、しかし不承不承といった様子で頭を掻き、
「なんというか、鼻歌程度ならまだしも、伴奏もなしでこれだけの人間の前であらためて歌うというのも、気恥ずかしいものだな」
「人前であがらずに堂々と歌うことができる。それも才能の一つです」
「なるほど、そんなものか。では失礼して、一曲ご清聴願おうか」
そう言ったウォルは目を閉じ、大きく息を吸いながら、幼き日に聞いた歌を思い出す。
そして、その思い出を──遠き故郷の懐かしく、美しい情景を、喉を震わす旋律に乗せて歌い上げる。
──燕舞う空、蒼い森、草の鳴る海。
──汝をながむるも、今こそ最後。
──我知らず涙、頬を濡らし、根雪を溶かす。
──さらば、ふるさとよ。
──野苺摘みし岡辺、スーシャの森よ。
──岩より染みる清水よ、精霊の息遣いよ。
──今日は分かれ目、朝日とともに我は発つ。
──さらば、ふるさとよ。
──峻厳に立ちて、夕日に染まる汝を一望する。
──山かげの故郷、静かに眠り給う。
──一番星は輝きて、我が背はたそがれたり。
──さらば、ふるさとよ。
異国の調べは、美しくも切ない音調で、小さなスタジオを満たした。
言葉の意味はわからない。しかし、それが別れの歌であることは全員が分かった。きっと、失われて戻らない、ふるさとの情景を惜しんだ歌なのだろう。
誰しもが言葉を失っていると、ウォルが不安そうな面持ちで、
「どうだろう、クァシンどの。いや、そもそも風雅とは縁のない武骨者の一生を送ってきたおれの、がなり声のような歌もどきだ、正直な感想を言ってもらってもかまわないぞ。ずばりと切り捨ててくれ」
「切り捨てるなんてとんでもない!本当に美しい歌でした!わたし、感動しました!」
クァシンは熱心にウォルの手を取り、ぶんぶんと振ることでその感動を現した。
少々子供っぽいその様子に苦笑したランドルフは、
「クァシンくん、どうでしたか、ウォルさんの歌声は」
そう訊いた。
すっかり舞い上がっていたクァシンは、はっとした様子でウォルの手を放し、そして少し恥ずかし気にランドルフの方を向きなおってからコホンと咳払いをして、
「そうですね、先ほどの素晴らしいダンスに比べれば粗削りであることは否めませんが、声量、音域の幅、高音域での表現力、どれも申し分ないと思います。細かな技法は、今後のレッスンで学べばいいものですから……。現時点では十分以上に合格点ですし、磨けば磨くほど光る、そんな才能を感じさせる歌声でした」
「なるほど、歌唱の才能についても申し分なし、と」
「つまりウォルくんには、アイドルの才能は粗方備わっているってことでいいのかな?」
ノーマンの問いに、縁の深い笑みを浮かべたランドルフは首を横に振る。
「アイドルの才能とは、何より、人の目を引き付ける輝きそのものです。歌も踊りも立ち姿の美しさも、そのための武器の一つにすぎません。しかし、武器は多く、鋭いほうが有利なのもまた事実。ウォルくんには、是非とも我が芸能局で、その才能を開花させてほしい、そう願っています」
◇
ウォルとノーマンは、その後、芸能局のオフィスでスタッフとの面通しを行い、今後の予定について簡単な打ち合わせを行った。
ウォルは、報道局と合わせて、芸能局へも籍を置くことが正式に決まったのだ。
今後は、芸能局が、ウォルをメインに据えた色々な企画を考えてくれることになる。数多くの芸能局スタッフが、ウォルのために働いてくれるということだ。ウォルも、当然のことながら、それら裏方のスタッフの努力に応えていくことが求められるのだ。
学生の身分でありながら、報道局ではニュースキャスター、芸能局ではアイドルと、三足の草鞋を履くことになるのである。
ウォルは、報道局の打ち合わせ室でノーマンと二人、テーブルに腰掛けてコーヒーを傾けながら、大きなため息を吐き出した。
「やれやれ、これでは身体が二つくらいないと務まらんな」
それでも嬉し気に呟くウォルに、ノーマンは生真面目に返す。
「我々は学生だ。当然、学業が疎かになっては本末転倒だからね、そこは上手く調整してほしい。芸能局の仕事が増えたなら、報道局の方はその分減らしてもらっても構わない。そのあたりも含めて、上層部ですり合わせはしてくれているはずだ」
「なるほど」
「ただ、これは強制じゃなくて一つの提案なんだが、もしもきみが将来アイドルとして生きていくという夢をあくまで追い続けるなら、芸能科のある学校へ転校するというのも一つの選択肢かも知れないと思う。きみが今通っているアイクライン校には、確か芸能科はなかったはずだからね。芸能科なら舞台演劇の練習や、さっきみたいな踊りや歌のレッスンが単位として認められるし、TBSBみたいな課外活動にも積極的だ。時間的にも体力的にも、だいぶ楽になるだろうし、なにより芸能活動に集中できる」
「なるほど、転校か……」
「ただし、もちろん良いことばかりじゃない。生活環境は一変するわけだし、新たな人間関係を築くことに相応の苦労もあるだろう。それに、卒業後の進路についても、もしもアイドルを諦めざるを得ないことになった場合、別の学科に比べれば狭いものになることがあるかもしれないからね」
芸能科と普通科では学ぶ分野が違う以上、その知識や学力にも相応の差が生じざるを得ない。ウォルが、今の夢のとおり、将来アイドルとして生きるならば大した問題にはならないが、アイドル以外の道で生きることとなった場合、その学力の差によって、何らかの挫折を味わうことになるかもしれない。
人生は選択の連続である。何かを選んだということは、即ち何かを選ばなかったということであり、それが正解だったのか否かは人生が終わる瞬間にしかわからない。
ウォルも、それらのことを理解しているが、それ以上に思い浮かんだのは、自らの婚約者であるリィの顔だった。
二人は、付き合いたてのハイスクールカップルのように、四六時中べったりすることを望んでいるわけではない。
しかし、リィがウォルの真の望みに気が付いてから既に一週間が経つが、二人は意図的に顔を合わせることを避けていた。正面から向かい合えば、決定的な話をせざるを得ないから、二人のうちのどちらか──それとも両方が、それを嫌っているのだろう。
何事にもさっぱりとした性分の二人には珍しいことだったが、それが人間らしさというものなのかも知れない。
とにかくウォルには、なんとも憂鬱なことであった。そして、今の宙ぶらりんな状態のまま転校することは心情的にも可能な限り避けたかった。
「なぁ、ノーマンどの。婚約を破棄したなら、婚約指輪はどうすべきだろうか?」
突然のウォルの質問に、ノーマンは一瞬言葉を失う。
奇しくもその質問は、リィがグレン警部にしたのと同じ質問だったのであり、そしてその回答も同じだった。
唖然とした様子のノーマンは、機械のように抑揚のない調子で答える。
「えっと……基本的には、人それぞれなんだろうけど……婚約のためにもらったものなら、それが解消されたなら返せばいいんじゃないかな」
「やはりそうか。しかし、あの剣とは、もう、主従の誓いを契ってしまったからな、おれの都合だけで、中々おいそれと返すわけにもいかん」
そう言ってウォルは頭を抱えてしまった。
ノーマンには、ウォルが果たして何のことを言っているのか、何に悩んでいるのかわからない。無論、婚約をしているのが目の前の少女なのだということすら理解の範疇外だ。
「金で贖うと言っても、リィが受け取ってくれるとも思えんしな……。果たしてどうしたものか……」
「その、ウォル、リィっていうと、確かきみのお兄さんのことじゃなかったのかい?」
「その通りだ。言葉にするとなんとも複雑なのだが……あれとは、兄と妹であり、妻と夫であり、同盟者であり、そして夫と妻としての婚約者でもあるのだ。しかし、どうやら婚約は解消せざるを得ないらしくてな。婚約指輪代わりに受け取った贈り物を果たしてどうすべきか、悩んでいるわけだ」
「……正直よくわからないけど、僕から言えることがあるならば、まずは相手とよく話し合うことだね。そういうことを一人で悩んでいても、碌な結論には至らないと思う」
「それは、正しくノーマンどののおっしゃる通りだ。おれもよくわかっている。よくわかってはいるのだがなぁ……」
腕組みしたウォルは、天井に顔を向けて固まってしまった。
そんなウォルを見て苦笑したノーマンは、しかし真剣な調子で黙り込んでしまった。
その様子に気が付いたウォルが、今度は逆に問いかける。
「どうしたのだノーマンどの。そういえば、今日お会いした時から、どうにも調子が悪そうだったが……」
「そうだね、本当は、そのことについて、きみと相談したかったんだ。こんなことを年下のきみに相談するなんて、我ながらどうかしているとも思うんだが、相談するのにきみ以外の人間が思い浮かばなくってね……」
話しながら、それでも強く逡巡していたノーマンは、しかし心の天秤が、己の悩みを打ち明ける方向へと傾いていくのを感じていた。ウォルには、人を頼らせる天賦のようなものがあり、ノーマンもそれを感じ取っていたのだ。
ちらりと伺うようにウォルを見ると、その黒い瞳は、力強く真っ直ぐにノーマンを見つめている。
腹を決めたノーマンが、硬い声で話す。
「フィナくん、ミラという女性スタッフのことを覚えているかな?」
「ミラというと……確か、おれがTBSBで初めての仕事──キアラン・コードウェル選手の取材をしたとき、本来であればインタヴュアーを務めるはずだった方ではなかったか?」
「その通りだ。あれから、ミラは行方知れずで誰も連絡も取れなかったんだ。それが、こないだのきみの試合の後、局で編成作業をしていたときに、その彼女から電話があったんだけど、その時の様子が尋常じゃなくてね。そして、また連絡がつかなくなってしまった……」
「何か、犯罪に巻き込まれたということか?」
ウォルの質問のもっともだった。女性が行方不明になり、ようやく連絡がついたときにその様子が普通でなかったというなら、まずは何らかの犯罪の被害に遭ったと予想するのが普通である。
例えば、何者かに誘拐されて監禁されていたが、犯人の隙を見つけて電話連絡を寄越した。痛ましいことではあるが、ありえないことではない。
しかしノーマンが経験したのは、そんな、良くも悪くも常識的な世界の出来事ではない。もっと薄暗くねじ曲がった、例えば呪いや亡霊の属する世界の出来事ではないか。理知的なノーマンをして、そうとしか思えないのだ。
ノーマンは、空になったコーヒーの紙コップを、思わず握りつぶしていた。
そして、恐怖に染まった震える声で問う。
「フィナくん。きみは、人が、生きたまま、明瞭な意識を保ったまま水のように溶けていく、そんなことがあると思うかな?」