懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
『わたし、もうかえらなきゃ……』
消え入りそうな女性の声を最後に、音声再生は終了した。
ノーマンの携帯端末に残された通話記録の女性の声──ミラというTBSB報道局に所属する女性局員の声は、なるほど尋常な様子ではなかった。
流石のウォルも、硬い顔で、しばらくの間何を言うことも出来なかった。
「当たり前のことだが、この通話記録は警察に提出してある。だが、対応してくれた警察官がまず言ったのは、この音声はきみが合成したものではないのかと、その確認だった」
「つまり、ノーマンどのが悪戯で、この音声を作成したのではないかと疑われた、そういうことか」
ノーマンは疲れた表情で頷く。
「無理もないと思う。こんなの、どう考えてもまともな状況じゃない。最後のあたりは、ミラの声が何重にも重なっていた。僕が、何の前提知識もなくこの音声を聞かされたなら、まず合成された音声ではないかと疑うだろう。それに、僕がTBSBに所属しているというのも、ある種の先入観になったのかも知れないね」
「当然、ノーマンどのはそんなことはしていない」
ノーマンは再び頷く。
「警察官には、僕はそんなことはしていない旨説明したし、そのことは納得してもらえたと思う。しかし、通話の相手方であるミラ自身、もしくは彼女の関係者が、僕に悪戯する目的で、合成音声を作成した可能性はゼロじゃない。それを指摘されると、僕も完全に否定は出来ない。結局、この音声は、失踪者の参考資料として受領するに留めると言われて、僕はすごすごと帰ってきたわけさ」
ノーマンの、些か自虐的な表現に、ウォルが憤りとともに否定する。
「おれは機械云々は明るくないが、この声を聞けば、この女性が何か、抜き差しならない状況にあることくらい理解出来るぞ。その警察官とやらは、そんな簡単な一事が理解出来ないのか?」
「僕もそう思う。ただ、その警察官を庇うわけじゃないけど、現在の音声加工技術は、専門家が作成すれば、本物の音声とほぼ変わらないものを簡単に作成出来る水準なんだ。極論、連邦首席の偽演説だって作ろうと思えば作ることが出来る。勿論、そんなことをすれば手が後ろに回るけどね。きっと、警察にしてみれば、こんな悪戯は日常茶飯事なんじゃないかな。そういうふうに、他人をからかって、その様を楽しんで再生回数を伸ばそうとする悪質なSNSも多いって聞くしね」
「しかしなぁ。我ら無力な一般市民としては、非常時以外の自力救済が認められていない以上、こういう時には警察な頼らざるを得ん。そして、その警察に門前払いを食らったのでは、手も足も出んではないか」
噴飯やる形無しといったふうに怒った様子のウォルに、ノーマンは少しだけ救われた様子だった。
もしかしたら、この賢明な少女も警察と同じように、こんな音声はただの悪戯だ、全てはただの取り越し苦労だと断じる可能性が、ほんの少しでもあるのだと、ノーマンは思っていた。その場合、今も彼の背筋を凍らせる悪寒をどう扱えばいいのか、ノーマンには分からなかったのだ。
ノーマンは、少し調子を戻したような声で続ける。
「実は、この音声は、TBSBの音声加工の担当者に分析してもらっているんだ」
「つまり、その道の専門家に確認してもらったということだな」
「その通り。結果は、この音声が合成されたものかどうかは分からないが、もしもこの音声が生のミラの声だとすると、不可解な点がいくつかあると言われた」
ノーマンは携帯端末を操作し、再び音声を再生する。
『ミラ!ミラなのか!?』
ノーマンの、必死に呼びかける声が再生される。
ノーマンはそこで再生を止める。
「ここで、ゴボゴボと、何かが泡立つような音が聞こえたのに気づいたかい?」
ウォルは緊張の面持ちで頷いた。
確かに、何か、粘性の液体をかき混ぜるような、どうにも不吉な音が聞こえたのだ。
「僕がまず気になったのは、この音だった。例えば、ミラの背後で何か液体が沸騰しているのかとも思ったが、シチュエーションとしては不自然だ。そこで担当者に確認したところ、どうやらこの音声は水中で拾われたもので、ミラの声も水中から発せられた音の可能性が高いとのことだった」
「水中から声を?そんなことが可能なのか?」
ウォルの尤もな疑問に、ノーマンは険の籠もった表情で頷く。
「人間なら不可能だ。人間は、声帯を震わせて、空気に振動を与えて声を出す。水中では空気を上手く震わすことが出来ないから、空気中と同じようにはいかない。無論、そんなことをすれば溺れる危険もあるね」
「当然だな」
「しかし、例えばクジラやイルカ等の海洋哺乳類は、鼻の奥にあるひだを振動させて鳴き声を響かせ、コミュニケーションをすることで知られている。この時点で、もしもミラが水中から声を発していたとするなら、ミラが……その、もう普通の状態じゃなかったんじゃないか、そう思うんだ。それと、もう一つ不可解な点がある。普通、電波は水の中で大きく減衰する。一定以上の水深になると、完全防水の端末であっても通話は不可能ということになるんだ。なら、この電話が水中で行われたとして、水深は相当浅かったということになる。どうしてミラは、そんな状態で、わざわざ水の中から電話をかけたんだろうか」
ウォルは、先ほどノーマンが言った、人が、明瞭な意識を保ったまま、水のように溶けゆく様を思い浮かべた。
ミラという女性は、きっと、必死の思いでこの電話をかけたに違いない。しかし、既にその姿は人のそれではなくなっていた。まるでアメーバやスライムのような不定形の生き物と化し、半透明の粘液に浮かんだ目玉で、口で、辛うじて残った指で、苦悶しながら自らの体内に取り込んだ携帯端末を操作し、最後のSOSを発した……。
まるで悪夢のような情景だ。
しかし、ウォルにはその情景に、見覚えがあった。
ブッチャーとの死闘が終わり、検査のために入院した、あの夜。
今の今まで夢だと思っていたが、あの時見た、不定形で、目玉と口が不揃いに並んだ、およそ生き物とは呼べない生き物。
あれが、ミラという憐れな女性の変じた最後の姿と同じものだとしたら……。
『おお、われらがたいようよ、どうか、はいえつたまはりたく……』
あの、見るも恐ろしい、しかしどこかに不憫さを感じさせる異形の生物の、感動と悲嘆に震えた声を思い出す。
あれは、ウォルのことを、我らが太陽と呼んだ。つまり、あの生き物──生き物と呼ぶのが相応しいかは別にして──は、この世界の表側に属する存在ではない。むしろ裏側、御伽噺や怪異譚の領域に属する生き物だということだ。
すなわち、ウォルやリィ、ルウに近しい世界の生き物ということになるのではないか。
ならば、きっと、今起こりつつある事態は、自分に無関係ではない。そう、ウォルは確信した。
そんなウォルの内心を知ってか知らずか、ノーマンは話を続ける。
「そして、これが最後の音声だ」
ノーマンが震える指で操作した携帯端末は、ミラが最後に残した音声を再生する。
それは文字通り、ミラという少女の後悔を、恐怖を、そして絶望を表した音声だった。
幾重にも重なった不可思議な音声が、死神の囁きのように鼓膜に張り付く。
そしてその余韻が消えないうちに、本当の最後の言葉が流れる。
『わたし、もう、かえらなきゃ……』
そして、音声再生は終了する。
その間際に、パシャリと、飛沫の弾けるような音が聞こえたのを、ウォルの優れた聴覚は聞き逃さなかった。
「最後に、何か、水が弾けるような音が聞こえたな」
「そう。音声加工の担当に言わせると、彼が聞いた中でこの音と一番近いのは、水風船の弾ける音だそうだ」
ノーマンは、再度、同じ音声を再生させる。
なるほど、確かにこの音は、外的な力で一定の形を保っていた水の塊が、何かの拍子にその戒めを解かれ、一気に周囲へ流れ出したような、そんな様子だった。
「そして、この音の後、通話が切れるまでの僅かな時間、ミラの通信端末は空気中に戻っていたらしい」
「そんなことまで分かるのか」
「雑音の種類で、その程度なら充分判別出来ると断言されたよ」
ウォルとノーマンの間に、重苦しい沈黙が流れる。
二人は、全く同じ情景を想像していた。
自分の意思か、それとも何者かに強制されたのか、姿を消したミラ。彼女は、何かの理由で人の姿を失い、軟性の身体の異形へと変じ、それでも諦めず、最後の望みを託して携帯端末を操作して友人へと助けを求める。しかし最後に力を使い果たし、己の姿を保つこともできなくなり、ついに完全な液体へと変じ、無慈悲な排水溝が彼女の身体を流していく。そして最後に、彼女がこの世にいた唯一の証のように残された携帯端末……。
悪夢としか思えないその情景は、しかし奇妙なほどの現実感を伴って、二人の脳内を満たした。
「……そうすると、最後のミラ女史の言葉も、意味が変わってくるのかも知れんな」
「……どういうことだい?」
「『わたし、もう、かえらなきゃ』、それが彼女の最後の言葉だったわけだが、『かえる』という言葉の意味だ」
ウォルの論旨がはっきりわからなかったノーマンは、無言で先を促す。
「ミラ女史は、しきりに、家族のところへ帰りたい、ノーマンどの達のところへ帰りたいと言っていた。それはつまり、場所や人の輪へ戻る、そういう意味で言っていたはずだ。しかし最後の『かえる』は、そうではなく、存在としての還る、つまり、彼女がもとそうであった何者かへと変貌する、そういう意味合いだったのではないだろうか」
「もとの存在……つまり、彼女は最初から、人間でなかったということかい?」
人間でないという言葉の持つ非科学性を、もはや二人は当然のものとして受け入れ始めていた。
科学という万能薬のない、闇夜の持つ魔力の色濃い時代と世界を生きたウォルはともかく、科学を常識として受け入れ、その領域に属さないものを迷信として扱って生きていたノーマンですら、もはやミラに起きた事態は、その常識で処理できる範疇のものでないことを理解していたのだ。
そんなノーマンの、寄る辺を失った不安定な声に、しかしウォルは首を横に振る。
「それは分からん。だが、ミラ女史の言葉を思い返すと、いくつか気になるくだりがある。例えば、会話の初めのほうの、『あんなもの、のむんじゃなかった、わたしがよわかったから』という台詞だな。これはつまり、ミラ女史がこんな事態に巻き込まれるきっかけとなった何かがあり、ミラ女史は、それを飲んだことが原因だと確信していた、そういうことだろう。そしてその後の、不気味なほどに陽気なほうのミラ女史が表へ出てきているときの『みんなのところへかえる』という台詞。この場合のみんなという言葉は、明らかに家族や友人とは違う、別の集団を指している。ということは、もしかすると、ミラ女史と同じように、何かを飲まされて、怪異に巻き込まれて失踪した人間は、他にもいるのではないだろうか」
「……つまり、この場合の『みんな』というのは、ミラと同じ目に遭わされた人間の集団のことというわけか……」
「そこへ帰る……それとも、何かに還ることで、『みんな』と合流する……分からん、駄目だな、判断するには情報が少なすぎる。もっと情報が欲しい」
ウォルは疲れた様子で首を横に振った。
限られた情報での推測は、彼女の明敏な知能をもってしても限界があった。
ただ、ウォルは、自身の直感に備わった警報器が、この事態が尋常なものではないのだと、最大級の警戒音で鳴り響いているのを感じ取っていた。
「ノーマンどの。おれの知己に、こういった、科学の物差しでは計り知れない事態に明るい人間が何人かいる。まずは、その人に相談してみよう」
「……分かった。フィナくん、ありがとう。きみに話して少し心が軽くなったみたいだよ。どうやら僕も、この事件の異常性に飲まれかけていたらしい。まずは、僕に出来ること、僕にしか出来ないことをするべく努力をしてみる。差し当たり、TBSBの情報力を使って、この失踪事件について調べてみよう。それに、さっきのきみの意見が正しければ、失踪事件はおそらくミラの一件だけじゃないはずだ。きっと方向性を正してアンテナを張れば、何かの情報を掴むことはできるだろう」
心持ち顔色を取り戻したノーマンが、笑顔とともにそう言った。
ウォルも頷く。その時彼女が思い浮かべたのは、リィの魂の相棒である、漆黒の髪を持つ占い師の端正な横顔だった。
◇
ペギー・メイは、フォンダム寮の自室のデスクチェアーに腰掛けて、途方に暮れていた。
彼女の友人であるプリシラが失踪して、既に一週間が経つが、その行方は杳として知れない。学生の噂では、最近、プリシラと同じような、学生失踪事件が多発しているらしい。そうなれば、警察としても、プリシラ一人にかかずらっている手間はないのかも知れない。
それは理解出来る。しかし、納得は出来ない。
ペギー・メイは、憂いと疲労の濃い表情で、頭を抱えた。
ただ友人知人が失踪しただけなら、ここまで気に病むことも、彼女はなかっただろう。しかし、プリシラが未登録惑星での誘拐事件に巻き込まれるきっかけを作ったのが自分だという自責の念がペギー・メイにはあり、最後に顔を合わせた時の、妙に陽気だったプリシラの様子と相まって、全ての責任は自分にあるのではないか、そういう憂慮がペギー・メイの思考に沈殿し、日毎にその重みを増しているのだった。
「プリシラ、一体どこに消えちゃったんだろう……」
ペギー・メイは、呆とした様子で呟いた。
プリシラの失踪を知らされてから、思いつく限りの共通の友人と連絡を取り、彼女の近況であったり、何か変わったところはなかったか、何か変なことを言っていなかったか、彼女の足取りの手掛かりになることを知らないか、聞いて回った。
しかし、結果は芳しくなかった。連邦大学の学生は、その多くが学寮生活を営んでいることによる連帯意識などから、普通の学生に比べれば友人同士の繋がりが強いとされているが、それでもプリシラが失踪した具体的な理由に思い当たる友人はいなかったし、ペギー・メイが知っている以上の情報はほとんど無かった。
ただ、いくつか気になる情報もあった。
それは、プリシラが住んでいたクルーガー寮の、ルームメイトであったダラという少女の情報だった。
◇
「プリシラ?あんな子のことなんて、私、知らないわよ。あの子が何をしたんだとしても、私は無関係だからね。変な疑いをかけないでよね」
ペギー・メイが、人気の薄い運動場の片隅でダラをつかまえて、プリシラの失踪について質問したとき、ダラの第一声がこれであった。
ペギー・メイは、流石にちょっと唖然とした。失踪した人間がいて、その手掛かりを探そうとするための質問に対してこのような返答を寄越すということは、この少女はプリシラのことを余程嫌っていたのだろうか。それとも、ペギー・メイ自身に対して悪感情を抱いているのか。
ペギー・メイとダラは初対面のはずだし、プリシラの話題を出すまではここまで露骨に不機嫌な様子はなかったので、自然に考えれば前者ということになるだろう。
しかし、ペギー・メイの知るところのプリシラという少女は、自己主張が弱く控えめで、良く言えば協調性が高い、悪く言えば周りに流されやすい少女だったはずだ。
良くも悪くも、印象の薄い少女であるというのがおおかたの共通認識であり、逆に言うと、ここまで強烈に拒否反応が返ってくることは珍しい。
これは何か事情があるに違いない、ペギー・メイはそう思い、会話を打ち切ろうとするダラに、何とか食い下がった。
「お願い、何でもいいの。何か、最近のプリシラに変わったところはなかった?わたし、どうしてもあの子がどこにいるのか、知りたくて……」
「……あの子、失踪しちゃったんでしょ?行方不明者の捜索なんて、警察に任せておけばいいじゃない。どうしてあなたが、あんな子のためにそんなに必死になる必要があるのよ」
吐き捨てるように、ダラは言った。
ペギー・メイは、先ほどのダラの言葉の中にあった、『あんな子』というフレーズに、やはり強い違和感を覚えた。少なくともペギー・メイの知るプリシラは、他者をしてそこまでの不快感を覚えさせる人間ではない。
やはり、何かあったのだ。ペギー・メイは確信した。ダラは、何か情報を持っている。
決意したペギー・メイは、自分達が巻き込まれた誘拐事件のこと、そしてその遠因が自分にありプリシラは巻き込まれた立場なのだということを、ダラに語った。
ダラも、連邦大学中等部生が被害者となった、くだんの誘拐事件については知っていたようで、その被害者であったペギー・メイに対して、興味と憐憫を等分に含んだ視線を寄越した。先ほどの、邪険な視線に比べれば、一歩前進というところだろうか。
手応えを感じたペギー・メイは、駄目押しとばかりに、ダラに深く頭を下げる。
「お願い、本当にどんな些細なことでもいいの。わたし、これは勘だけど、プリシラと最後に会ったのはわたしなんじゃないかなって思ってる。あの時、あの子を助けることが出来たんじゃないかって、助けるべきだったんじゃないかって、そう思って、すごく辛い。確かに、行方不明者の捜索は警察の仕事だし、わたしが首を突っ込んでも何にもならないかも知れないことも理解してる。ただ、このままじゃどうしても納得出来ない。今、彼女が何処にいるのかが分からなくても、せめて、どうして姿を消したのか、消さなくちゃいけなかったのか、それだけでもいいから、わたしは知りたいの」
「……要するに、貴方が、貴方自身の中で納得したいってことね。それなら、少し気持ちは分かるわ」
ダラは、必死なペギー・メイの様子にほだされたのか、それともこれ以上ペギー・メイの対応をするのが煩わしくなったのか、渋々といった様子で溜息を吐き、
「これ、絶対に私が話したって他人に言わないでよね。特に、警察とか学校の風紀指導部とかには」
ペギー・メイは真剣な面持ちで頷く。
「約束する。絶対に話さない」
「……私、元々プリシラとは、特別仲が良かったわけじゃないけど、逆に大嫌いだったわけでもない。あなたやあの子が巻き込まれた誘拐事件までは、普通にルームメイトをやっていたと思うわ。で、あんなことがあって、彼女、かなり精神的に追い詰められてた。部屋も、私との相部屋から、寮の特別個室へ移ったわ。学校の勧めでカウンセリングなんかも受けてたみたいだけど、私の目から見ても、彼女、すごく自分を追い込んでた。私も何度か声をかけたけど、ずっと心ここにあらずって感じだったし」
ダラの語るプリシラは、ペギー・メイの知る、かつてとプリシラの状況と符合する。そこまでは、ダラの認識と相違はないし、ダラがプリシラをここまで毛嫌いする理由も見当たらない。
「そんなふうにして、私にも別のルームメイトが出来て、あまりプリシラと顔を合わせることもなくなった頃合いかな。私、見ちゃったのよ」
「見た?」
ダラは、顔を嫌悪に歪める。
「私、学校から帰るのが遅くなって、しかもちょっと事情があって、寮に帰るのを急いでいたの。だから、普段は通らない裏道を通って、近道をしたわ。そこは、あまり治安が良くないから、この辺りの学生は、よっぽどのことがないと通らない道。そこにね、普段なら寮から一歩も出ることが出来ないプリシラが、キョロキョロあたりを伺うようにして、歩いていたのよ」
「あの時のプリシラが、何でそんな場所に……」
「私もそう思った。でも、私も急いでいたから、プリシラには声をかけず、そのまま通り過ぎようとしたわ。でもその時、彼女、道端に突っ立っていた、風体の怪しげな男に声をかけて、何かを渡して、代わりに小さな包を受け取ってた」
「それって……」
ダラは、今にも唾を吐き捨てそうな表情で続ける。
「その時は、プリシラが何をしていたのか、分からなかった。でも、その翌日から、彼女はまるで人が変わったみたいに元気になったわ。つまり、違法薬物の密売だったのよ、きっと」
「違法薬物……」
あまりに予想外の話に、ペギー・メイも咄嗟に返す言葉がなかった。
彼女の知るプリシラという少女は、極めて素行が良い……というよりも、非行に走ることを恐れているような、そんな少女だった。少なくとも、思春期の少年少女が悪い方向に背伸びしてするように、酒や違法薬物に手を出せるほど、勇気のある少女ではない。
それが、ペギー・メイの知るプリシラである。
どう考えても、違法薬物に手を出すとは思えない。
その内心がペギー・メイの表情に出ていたのだろう、ダラは面倒臭そうに鼻を一つ鳴らし、
「一応言っておくけど、私、プリシラ本人に、あんな場所で何をしていたのかとか、そんなことは聞いてない。もう、関わること事態が嫌だったし、あの子が補導でもされて、同室だった私が、痛くもない腹を探られるのも御免だったからね。ただ、私は、あの時プリシラは違法薬物の取引をしていたと確信しているし、事実、その次の日から、あの子は人が変わったように元気になったわ。きっと、薬の効果でスーパーハイになっていたんじゃないかしら」
なるほど、ダラがプリシラを毛嫌いし、その話をすること自体を嫌がるわけである。
一般的に、違法薬物常習者は、常習者同士でコミュニティを作る傾向があり、一人が検挙されれば芋づる式ということも珍しい話ではない。つまり、プリシラが違法薬物に関わっていた可能性がある時点で、ダラとしては自身に火の粉が及ぶことを懸念しなければならないのだ。あれほどプリシラに対して軽蔑を露わにしていたこと、ペギー・メイに対して口が重かったも無理からぬことであった。
「……ありがとう、ダラ、話しにくいことを話してくれて」
「お礼を言われる筋合いはないわ。でも、これで最後。正直、もうあんな子のこと、忌々しいから忘れたいのよね。違法薬物の力を借りないと立ち直ることも出来なかったくせに、世界が変わった、本当の自分に気が付いたとか、妙に上から目線で話しかけてきて……。鬱陶しいったらなかったわ」
ペギー・メイは、まるで自身が糾弾されているかのように項垂れた。
ダラもその様子に気がついたのか、荒々しい舌鋒を収めて、少し気まずそうな口調で言った。
「貴方が必死だったから私も事実を話したけど、この話を警察とかに、間違えてもしないでよね。本当に、もうあの子のことで迷惑かけられたくないんだから」
「分かった。絶対に言わない」
ダラはペギー・メイの言葉に頷き、足早に運動場から立ち去っていった。
◇
プリシラが違法薬物に手を出していたというダラの話は、ペギー・メイにとった俄には信じがたい話だったが、しかしダラが積極的に嘘をつく理由は、ペギー・メイには思いつかなかったし、また、ダラが嘘をついているようにも思えなかった。
少なくともダラは、プリシラが違法薬物に手を染めていたのだと確信しているのだろう。
そう言われると、確かに、ペギー・メイが最後に会った時のプリシラの朗らかな──ペギー・メイの知るプリシラという少女にしては朗らか過ぎる態度も、違法薬物の効能だったのだと説明されれば納得しかない。
連邦大学において違法薬物の密売、所持、使用はいずれも重罪であり、初犯であっても、薬物の種類によっては放校処分、国外退去処分を免れない。
しかし、蛇の道は蛇というように、無垢な学生を毒牙にかけようと目を光らせている密売人はどこにでも存在するのであり、連邦大学においても、例えばアンダーグラウンドなSNS等を利用すれば、薬物の入手は簡単なのだという噂がまことしやかに囁かれていた。
ならば、事件のトラウマに追い詰められ、神への信仰すら揺らいでいたプリシラが違法薬物に救いの手を求めてしまったとして、それは仕方のないことなのかも知れない。
そして、事が薬物犯罪絡みの失踪事件なら、これはもう、いよいよペギー・メイのような素人に手を出せる話ではなくなってくる。好奇心は猫を殺すとはよくいう諺だが、ミステリー小説の探偵の真似事をして命を落とす羽目になった憐れな被害者の例は枚挙にいとまがないのであるし、ペギー・メイもそのことを弁えていた。
──もう、私に出来ることはないのかも知れない。
ペギー・メイは、再び重たい溜息を吐き出した。
しかし、プリシラが違法薬物に手を染めていたとして、果たして何を思い、信じる神を変えるとまで言い放ったのだろうか。薬物と宗旨替えは、どう考えても直接結びつく事象ではないと思うのだが……。
その時、自らの思考に僅かな異物感を覚えたペギー・メイは、しばし黙考した後で、部屋に設置された電話機を操作し、ダラの住むクルーガー寮へと電話をかけた。
『……何よ、まだ聞きたいことがあるの?』
ダラの声はあからさまに不機嫌だった。無理もない、先ほどの立ち話と違って、電話には盗聴の危険性もあるのだ。今も、『余計なことは言うな』というダラの気配が、受話器越しにひしひしと伝わってくる。
ペギー・メイも、余計なことを聞くつもりはなかった。ただ、どうしても一点、気になったことがあるのだ。
「本当にごめんなさい。でも、一つだけ教えて。あの子、自分が信じていた神様のことについて、何か言ってた?」
電話機の向こうで、しばし黙考する気配があり、
『……私の記憶が確かなら、そんなことは言ってなかった。この世界の真実に気がついたとか何とか、気持ちの悪いことを言ってたくらいね』
「じゃあ、太陽と月と、母なる闇っていう言葉に聞き覚えは?」
『ないわ。じゃあね。もう連絡しないで』
ガチャリと冷たい音とともに電話は切られた。
ペギー・メイは呆然とした様子で、受話器を握りしめたまま、プリシラとの最後の会話を反芻していた。
あの時のプリシラは、ダラの言うとおり、違法薬物のもたらす快感で異様に高揚していたのかも知れない。今思い返せば、脈絡の怪しい言葉もあった。
しかし、あの会話の中でどのフレーズが最も記憶に残ったかといえば、間違いなく、宗旨替えを行ったという告白と、『太陽と月、母なる闇』という言葉だった。
ダラが、プリシラとの会話の中で、もしもそれらの言葉を聞いていれば、子細に覚えているかは別にして、似たような言葉を聞いた程度の印象くらいは残っているだろう。
つまり、プリシラはダラに、太陽云々という言葉は話していないということだ。
ならば、何故、プリシラはダラにその言葉を伝えず、ペギー・メイには伝えたのか。
偶然や気まぐれではない気がした。何故なら、あの時のプリシラがペギー・メイに伝えたかったのは、何よりその言葉であったように思えるからだ。
もしも、プリシラが最後に会話を交わしたのが自分だとするならば、あれは、プリシラの無意識が──つまり、本来のプリシラが発したSOSだったのではないか。自分に何か危険が及びつつあることを察知して、助けを求めて自分のところへ来たのではないか。
これはただの憶測と直感にすぎない。だが、これこそ、初めてこの不可解な失踪事件の、真実の端っこを捉えているように、ペギー・メイは感じた。
「太陽、月、そして母なる闇……」
ペギー・メイは呟く。口に出したそれらの言葉は、何故か、彼女の心の奥底、自分ですら知覚できない領域に深く染みこみ凍てつかせるような、嫌な感覚があった。
言霊とでもいうのだろうか。言葉自体に強烈な力があり、それが人間の思考や行動に直接影響を与える。非科学的だが、しかしそんな言葉のように、ペギー・メイには思えたのだ。
そして彼女は、デスクに置かれた自らの電子端末で、『太陽 月 母なる闇』という言葉を検索した。
ディスプレイに表示された検索結果を確認すると、約2,000ものページがヒットしたらしい。検索エンジンの画面に表示された各ページのメタディスクリプションを見ると、多くは自作小説、占い、神話、宗教系のページのようだった。
これらのページを一つ一つ確認して、プリシラが口にした言葉と関係するページを探すのは現実的ではないだろう。だいたい、そんなものが確実にあるとは限らないのである。
ペギー・メイは少し考え、検索文字列に、『連邦大学』の文字を入れた。すると、ヒットするページの数は大きく減少し、約100ほどになった。
それらのメタディスクリプションを、上から飛ばし読みしていくと、気になるページを見つけた。
それは、他ならぬ連邦大学のホームページであり、検索語句がヒットしたのは、どうやら講義のタイトルだったらしい。
その講義は、『神話と宗教の発生~太陽と月、母なる闇が与えたその影響と変遷について~』と題されている。
ペギー・メイの心臓が、どくりと跳ね上がった。
──これかも知れない。
ペギー・メイは、震える指でそのページを開き、講義の開催状況を確認する。
開催場所はセム大学、担当は神学部の助教授らしい。名前には聞き覚えはない。
学外からの聴講も受け入れるオープン形式に講義で、中等部、高等部生については課外活動としての単位を認める旨の留意事項が記載されている。どこにも怪しいところのない、普通の講義にしか思えない説明だった。
しかし、ペギー・メイの第六感は、この講義に何かあるのだと告げていた。
開催場所は小講義室の一室となっているから、それほど大規模に行われる講義ではないのだろう。開催日は明日の放課後のようだが、まだ予約枠にはかなりの余裕がある。
今までの講義の履歴を確認すると、講義自体は通年行われているようで、プリシラが変貌した前から、この講義は開催されていることがわかる。彼女がこの講義を受けていたとしても不思議はないということだ。
ペギー・メイは、自身のIDを入力し、講義の予約を完了させる。
何か、肩のあたりから力が抜けていくのを感じる。
「明日……」
無意識の呟きがペギー・メイの唇から漏れたその時、彼女の肩が、何者かにポンと叩かれる。
ペギー・メイは文字通り、椅子から飛び上がった。心臓が、常のリズムを無視して、ばっくんと大きく拍動した。
驚きに目を見開いたペギー・メイが振り返ると、そこには、同じように驚いた様子のウォルがいた。
「……すまん、ペギーどの。驚かすつもりはなかったのだ。何度か呼んだのだが一向に返事もないから、勝手に部屋に入ってしまった」
胸に手を当てたペギー・メイが、数回深呼吸を繰り返し、ようやく人心地を取り戻してから、少しぎこちない微笑みを浮かべる。
「勝手にも何も、ここはあなたの部屋でもあるんだから、普通に入ってもらえばいいのに」
「いや、そうは仰るが、うら若き乙女がいるとわかっていて、断りもなく入るのは流石に気が引けてな」
確かに、寮の扉には、寮生が在室中か外出中かが分かるようセンサーが設置されており、外から見てもそれが分かるようになっている。
ウォルは、ペギー・メイが室内にいることを承知し、念のためノックをしたが反応が無かったため、やむを得ず勝手に──無論、そこはウォルの部屋でもあるのだが──入ってきたということらしかった。
「たいそう集中されていたようだが、レポート課題かな?」
くすくすと微笑みながら、ウォルが問う。
ようやく平静を取り戻した様子のペギー・メイは、力なく微笑みを返し、ディスプレイを、ウォルにも見えるように角度を変える。
普通、他人が操作している端末の画面を無許可に覗き込むのはマナー違反だが、当人の許可があるなら話は別である。ウォルは、画面を見て、そして一瞬、表情を鋭くさせた。
「太陽と月、母なる闇が与えたその影響と変遷について……これは、講義の予約画面か?」
「そっ。別にそれほど興味があるわけじゃないんだけど、課外活動の単位が一つ欲しいと思ってたから、時間的にも場所的にもちょうど良いし、今、申し込みを済ませたところなの」
ペギー・メイは、まさか友人の失踪事件の手がかりを掴むためとは言えず、心苦しく思いながら、口から出まかせの嘘をついた。
連邦大学の学生にとって、講義の予約など正しく日常茶飯事である。きっとウォルも、それで興味を無くすだろうと思っていたペギー・メイだったが、ウォルは鋭い表情のまま質問する。
「ペギーどの。この画面を見る限り、その講義は明日の放課後ということのようだが、まだ予約枠は残っているのか?」
「えっ?え、ええ、まだ余裕はあるみたいだけど」
「おれも、その講義を受けたいのだが、ご一緒しても迷惑ではないか?」
予想外のウォルの申し出に些か驚いたペギー・メイだったが、ウォルが受けたいというのに断る理由もない。
それに、いくらなんでも講義自体が危険なはずがないという常識的な判断もあった。
ペギー・メイは頷き、
「ええ、もちろん。もしよければ、私の端末で予約する?」
「ああ、そうしてもらえると手間が省けるな。入力はおれがしよう」
ディスプレイの前に座ったペギー・メイの横合いからウォルの手が差し込まれ、手早くキーボード叩き、IDを入力して予約を完了させる。
つつがなく予約は完了した。
ウォルは頷き、
「講義は、セム大学の403小講義室だな。どこかで待ち合わせをしようか」
「いいわよ。それよりフィナ、あなた、今日、TBSB芸能局のオーディションだったんでしょう?結果はどうだったのよ」
その夜、二人の間でこの講義のことがそれ以上話題になることはなかった。ペギー・メイも、ウォルが一瞬見せた、抜身の刃のような表情には気が付かなった。
二人が、気の合う友人なら当たり前のように交わすであろう談笑をしている間に、夜はふけていった。