懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
「ヒックス、そっちへ行ったぞ!絶対に逃すな!」
グレン警部が大音声で叫ぶ。
彼と長年のコンビを組んでいるヒックス刑事としても、グレン警部の言っていることは重々承知だ。
今にも切れそうな細い糸を手繰って、ようやくたどり着いた怪しいドラッグ──ドリームメイカーの、元締めへと繋がるかも知れない、重要参考人の検挙である。グレン警部の鼻息が荒くなるのも仕方のないことだし、ヒックスとしてもそれに応えたい。
ただ、今追いかけているターゲットが二人で、一人が北へ、一人が南へ逃げたとなれば話は別である。ヒックスが、分身の術でも使えるなら話は別段、身体は一つしかない以上、捕まえられる犯人も一人というのが当然の帰結である。
ヒックスは咄嗟の判断で、北方向に逃げた、足の速そうな犯人を自分が追いかけ、もう一人は、申し訳ないが敬愛すべき上役へと任せることを決断した。
「こっちは俺がやっつけますから、あっちに逃げてったやつは警部、お任せします!」
「なんだと!?40過ぎの俺に走り回らせるつもりか!」
「仕方ないでしょうが!ここには警部と俺しかいないんですから!」
グレン警部としても、近年の顕著な体重増加が膝に及ぼす悪影響であったりとか、昇進に伴う書類仕事の増加が体力に及ぼす悪影響であったりとか、今日は新種の薬物の噂について質問を預けていた少年と会う予定があるのだとか、色々と言いたいところはあったのだが、ヒックスの意見の正当性を覆せるほど理屈だったものとは思えなかったから、ここは部下の意見に従う事とした。
「待て、この野郎!」
刑事が犯罪者を追いかけるには、些か芸のないセリフを口にしながら、グレン警部は必死に被疑者を追いかけた。
無論、被疑者の男は、グレン警部の忠告に従う気配はない。忠告に従って罪一等減じられるならよし、しかし今更殊勝に御縄を拝領しても、自分の罪は結局のところ裁判官の胸先三寸なのである。追ってくる男が裁判官なら心証を良くするために多少の融通は利かせることがあったとしても、ただの刑事なら逃げるが勝ちと心得ている。
とにかく、被疑者の男は中々すばしっこい。グレン警部が必死に追いすがっても、彼我の距離は縮まるどころか、少しずつ離されているようだ。
「ちくしょう、こんなことなら健康診断のアドバイスに従って、真面目にジムにでも通うんだった!」
グレン警部はそう嘆いたが、これは正しく今更の話であって、体力の減少はどうこうできるわけではない。
今も、まるで爆発寸前の心臓とふいごのように熱い呼吸で、必死に足を動かしているのだが、残酷な神様は、グレン警部の努力に見合った結果をお与え召されるつもりはないようで、被疑者の男は振り返り、これはどうやら逃げ切れそうだと、ニヤついた笑みを浮かべている。
グレン警部は、その見下したようなにやけ面をぶん殴ってやりたかったが、当然拳が届くような距離ではない。
これは取り逃がしたか。グレン警部が忸怩としてそう思った時、被疑者の男の走る先に、人影が見えた。
──不味い!
グレン警部は、咄嗟に、
「おい、そこの人、逃げろ!」
そう叫んだ。
人影はかなり大柄で、もしかしたら被疑者を取り押さえてくれないかとスケベ心が顔を出しそうになったが、官憲に追われるならず者は、窮鼠猫を噛むという言葉があるとおり、とても危険だ。あの男も、まさかこの治安の良い連邦大学で拳銃を所持していることはないだろうが、刃物程度なら懐に忍ばせていても何の不思議もない。
到底、市井の人間が手を出していい状況ではないのだ。
然り、グレン警部の追う男は、懐から刃物を取り出し、威嚇のためにやたら滅多らに振り回した。
「おらぁ、道を開けろこらぁ!」
野太い声で、そう恫喝した。
グレン警部は、一般市民に対して、仮に威嚇だけであったとしてもこうも容易く刃物を向ける男に強い怒りを覚えたが、しかし、これで、大柄な人影も身を避けてくれるだろうと安心した。被疑者を取り逃すのは痛恨の極みだが、一般人に怪我をさせては元も子もないのである。
そんなグレン警部の内心を他所に、しかし大柄な人影──豊かな赤毛の偉丈夫に見える──は、刃物を向ける男に対して一歩も引かず、逆に大きく踏み込み、男の振り回す刃物の間合いへと身体を滑り込ませた。
「馬鹿!やめろ!」
グレン警部の悲痛な叫びがこだまする中、豊かな赤毛のその人影は、自身に向けて振り下ろされる刃物ではなく、それを握った右手を掴み、そのまま捻って自身の脇に抱え、刃物を握った男を、いとも容易く払い腰に投げ飛ばしてしまった。
「げはぁっ!」
二人分の体重を預けられて地面に叩きつけられた被疑者の男は、肺腑の空気を一気に吐き出して悶絶した。
──何という無茶を!
グレン警部は内心で舌打ちしたが、しかしこれは千載一遇のチャンスである。
赤毛の偉丈夫が取り押さえている被疑者の傍まで駆け寄り、その両手を後ろに捻り上げ、手錠をかけた。
「被疑者確保!被疑者確保っ!」
グレン警部が、おこぼれとはいえ殊勲の武功に勝鬨をあげると、ようやく追いついた後続の警察官が次々と駆け寄り、未だ悶絶し続ける被疑者の身体を強引に引き起こし、そのままパトカーへと連行する。
全身汗みずく、息も絶え絶えのグレン警部は、何とか警官の体面を保つために息を無理やり整え、犯人検挙の一番槍であった赤毛の偉丈夫に、乱れた息で声をかける。
「ぜえ、ぜぇ、ありがとう、ございます、ミスター。おかげで、被疑者を逮捕、する、ことができました……」
今にも酸欠を起こしそうなグレン警部の様子に、立ち上がって太ももにあたりの埃を払っていた赤毛の偉丈夫は、苦笑を浮かべて、
「挨拶も礼も、もう少し息を整えてからで構わないぞ刑事殿。そして、残念だが私はミスターではなくミズだな」
そう言った。
グレン警部は、その声に驚いた。大柄な男性だと思っていたその人物から発せられたのは、確かに女性の声だったのだ。
未だ呼吸の整わないグレン警部だったが、思わず頭を下げる。
「こ、これはとんでもない失礼を。私は、連邦大学中央警察のマンフレッド・グレン警部と申します」
「警部どのでしたか。これは私のほうこそ失礼を。お年の頃からして刑事どのかと思いましたが、若くして優秀な方のようだ」
赤毛の偉丈夫、もとい、女丈夫は、縁の深い微笑みを浮かべながら、
「私は、ジャスミン・クーア。しかし警部殿。あの男は、一体何の容疑で追われていたのか、伺ってよろしいか?」
「それはちょっと……」
「いや、無論、ただ取り押さえるのに一役買っただけで、こんな立ち入ったことを聞くのではないのです。これをご覧ください」
ジャスミンの指さすところ──彼女の脛のあたりを見ると、彼女の履いたジーンズがぐっしょりと濡れていることにグレン警部は気が付いた。
ジャスミンは先ほどとは違う真剣な声で、
「これは、あの男を投げ飛ばした時に、男の持っていた鞄の中身が割れて、その液体で濡れてしまったようなのです。差し当たり化学薬品のようなものではないようですが、あの男の容疑によっては、私の安全にも関わる。そのあたりはご理解いただけると思うのですが」
グレン警部は、ジャスミンの言いたいことを理解した。もしも男が、例えば危険な化学薬品や微生物を所持したテロリストで、その危険物が付着してしまったならば、相応の処置をしなければ命の危険がある。
「さしあたり、このズボンは脱いでしまいたい。これでも私は女だからな、適当な場所を見繕っていただけるとありがたい」
「承知いたしました、ミズ」
真剣な表情で頷いたグレン警部は、ジャスミンを直ちにパトカーへと案内し、後部座席へと誘った。
そして、運転席に座っていた若い警官に声をかける。
「おい、すまんが少し降りていてくれ」
「しかし……」
「俺はマンフレッド・グレン警部だ。何かあれば、俺が責任を取る」
パトカーの運転席を空けることをしぶる若い警察官は、しかしグレン警部の示した身分証を確認し、慌ててパトカーから降りる。
これで、このパトカーに乗っているのはジャスミンだけということになる。
そのジャスミンに、グレン警部は質問する。
「お着替えはお持ちですか、ミズ。なければすぐに、部下を買いに走らせますが」
「先ほど、私と被疑者の男がもみ合っていた辺りに、スーツケースがあるはずだ。それをお持ちいただけますか?」
グレン警部が確認すると、ジャスミンが男を投げ飛ばした場所に、数日の旅行程度なら十分できるだろう、大きめのスーツケースが横たわってる。
グレン警部は大急ぎでそのスーツケースをひっつかみ、パトカーの後部座席のジャスミンへと手渡す。
すでにジーンズを脱ぎ、下半身が下着姿となったジャスミンに泡を食ったグレン警部だったが、何とかスーツケースを後部座席に押し込み、回れ右で180度体の向きを変える。
万が一の事態に備えるため、一刻も早く服を脱ぐジャスミンの判断は正しい。しかし、グレン警部が警察組織の人間だという信頼があるのだとしても、一声状況を教えてほしかったとグレン警部は内心で愚痴をこぼす。
さして時間を置かず、着替え終えたジャスミンがパトカーから姿を見せる。
「お心遣い感謝します、警部どの」
「こちらこそ、あらためて逮捕の協力に感謝申し上げます、ミズ。そして、小職の調査するところでは、あの男は、麻薬の売人であり、危険なテロリスト等ではないはずです。しかし、もし希望されるなら、このまま警察にご案内して、付着した液体の成分分析を行おうと思うのですが、ご同行いただけますでしょうか」
グレン警部の提案に、ジャスミンは頷いた。
◇
惑星ティラ・ボーンの、ロドニー国際空港から一歩外に出ると、途端に強烈な日差しがジャスミンの肌を焼いた。
惑星セントラルの、クーアカンパニー本社のある地方は秋の涼やかな気候だったので、温度の変化は強烈である。
空気はカラッとして、熱帯地方のようにネットリと肌に絡みつくような暑さというわけではない。寒さよりは暑さを好むジャスミンとしては、むしろ心地よい程度の気候であった。
ジャスミンは、タクシー乗り場で適当な無人タクシーに乗り込み、行き先に、予約済みのホテルの所在地を入力する。
自動タクシーがゆっくりと発進すると、ジャスミンは、その豊かな体躯を後部座席に沈めて、憂いの帯びた表情で思索に耽った。
彼女が、仕事の用事でも、自らの孫であるジェームスの顔を見るためでもなく連邦大学を訪れたのは、当然のことであるが然るべき理由がある。
それは、惑星ヴェロニカで知己となり、何度も共に死線を潜ることとなった少女──ウォルと顔を合わせて、腹を割った話をするためである。
以前、連邦大学のジャスミン所有の家で、親友であるジンジャーとホームパーティを開いた時、たまたまウォルの出演する番組がテレビで放映されていたため、ウォルの芸能界への適性が話題となった。
その際、巷では芸能界を裏で取り仕切っているとまことしやかに噂されているジンジャーは、ウォルがアイドルとなれば凄まじいセンセーションを巻き起こし、それは人の制御可能な領域を超えることになるだろうと予言した。
ジャスミンとしても、ウォルという麗しい少女の輝きやカリスマ性を何度も目の当たりにしているだけに、ジンジャーの予言を大袈裟だと笑い飛ばすことは出来なかった。
そして、そのホームパーティの翌日、ウォルは、レオン・オリベイラというMMA選手からSNS上で訴えられ、早くも世の人の口に膾炙される人間となった。
無論、オリベイラの訴えは、彼の信奉者以外からすれば根も葉もないような言いがかりだったわけで、ジャスミンも一目でその嘘を見抜いたが、重要なのは、ウォルという存在が多くの人間の議論の的となり、その顔と名前が知れ渡ってしまったことだ。
そしてウォルは、その騒動を逆に利用してオリベイラに強烈な反撃を加え、結果としてオリベイラのファンも含めて、多くの人間の支持を獲得した。
それらの伏線があって開催された、先日の試合である。
ウォルが全くの無名選手であれば、共和宇宙に溢れかえる無限のコンテンツの中で陽の目を見ることもなかったかも知れないが、ウォルという少女の実力を知りたいという好奇の視線の中で、あのようなドラマチックな激闘を演じたのである。
これが人の心を掴まないはずがない。
ウォルの試合動画は、もはや一日当たりの視聴回数で、共和宇宙全体でも五指に入るほど再生されており、まだまだその勢いは衰えていない。ネットの評判を見ても、ほとんどはウォルに対して好意的──もっと言えば、熱狂的と表現してもよいほどのものがほとんどとなっている。
それも無理もないことだとジャスミンは思っている。あれほど美しく、そして幼い少女が、怪物のような巨漢を倒したのだ。観客や視聴者にすれば、吟遊詩人が唄う、古代の英雄の竜殺しの逸話が目の前で繰り広げられたに等しい。興奮するなと言うほうが間違えている。
結果、ウォルは学生の身分で、共和宇宙中から注目される人物となってしまったのである。
これはもう、一線を越えてしまったのではないかと、ジャスミンは思っている。
つまり、今正しく、ジンジャーの予言は的中しつつあるのではないか、ウォルという少女を取り巻く環境が、制御不可能な状態になりつつあるのではないか、ジャスミンはそう懸念しているのだった。
あの時、ジンジャーは、不吉な予言に対して顔を曇らせたジャスミンに対して、ウォルをクーアカンパニーで囲い込むことを提案した。それはつまり、ウォルという眩い輝きを放ち続けるタレントを、クーアの専属とすることで、過熱する人気に一定のブレーキをかけ、将来発生し得る危険から守るということだ。
ジャスミンは真剣にその方向性を検討していた。勿論、差し出がましく余計な口出しをするつもりはないし、全てはウォルの希望によるのだが、このまま座して昵懇の友の行く末を見守ることは、ウォルに対して選択肢を提示し得る立場のジャスミンにはあまりに無責任に思えたのだ。
今、ジャスミンがティラ・ボーンを訪れたのも、正しくそのためであった。一度、直接ウォルと膝を突き合わせ、今後の彼女の希望や進路等とあわせて、直接話をしようと思ったのだ。
本来であれば事前のアポを取るべきであったが、事態は一刻を争うというジャスミンの懸念と、学生のウォルであればどんなに忙しくても一、二時間程度の時間を取れないなどということはあるまいという判断で、ジャスミンは、自身も着の身着のままの有様で、文字通りこの星まで飛んできたのである。
ジャスミン自身の休暇と合わせて、数日は予定を空けているから、今から連絡しても顔を合わせられないということはないだろう。
そんなことを考えている間に、自動タクシーはジャスミンをフォンダム寮近くのホテルへと送り届けた。ジャスミンはタクシーから降り、トランクに詰めたスーツケースを取り出す。
さて、まずはホテルにチェックインか。そう思ったジャスミンだったが、どうやら彼女は、平穏無事を司る神様とはとことん縁が薄い運命のようで、騒ぎは向こうからやってきた。
「待て、この野郎!」
遠くから、男性のものと思われる怒号が響き、果て何事かとそちらを見遣れば、こちらに向かってくる風体のよろしくない男、それを追いかける軽装の中年男性という構図が目に入る。
いかなジャスミンとて、この状況が果たしてどんなものなのか、一見で見抜くのは不可能だ。
追われる男が悪いのか、追う男が悪いのか。
追われる男を助力すべきなのか、追う男を助力すべきなのか。
取り敢えず静観を決め込もうとしたジャスミンだったが、追われる男が、狂気に支配された表情で懐から刃物を取り出し、振り回すのを見て、考えが変わった。
周囲から沸き起こる悲鳴をよそに、こちらへ走ってくる男へと一歩踏み込んだジャスミンは、振り下ろされる凶刃をものともせずに男を投げ飛ばした。
直後、地面とジャスミンにサンドイッチにされた男のカバンから、パリンと、何かが割れる音が聞こえ、気づけばズボンの裾が濡れている。
ジャスミンは小さく舌打ちした。ズボンが汚れたことを嫌がったのではない。この男がどんな犯罪に加担していて、今、自分に付着した液体が何か分からない以上、これはかなり危険な状況であることに気が付いたのだ。
──これなら素直に殴り飛ばすべきだったな。
到底普通の女性なら考えないであろう物騒なことを考えながら自分に呆れたジャスミンは、犯人確保を終えた警官──マンフレッド・グレンという名の若い警部のようだ──に頼み、適切な検査と洗浄処置をしてもらうため、警察署まで同行させてもらうことにしたのだ。
ジャスミンを乗せたパトカーは、逮捕現場から最寄りのアイクライン地方警察署まで、サイレンを鳴らして猛スピードで公道を走り抜けた。
車内にいるのは、運転手の若い警官とジャスミン、そしてマンフレッド・グレンと名乗った警部の3人である。
運転手である若い警官は、法定速度を超える車の運転と事故防止に集中しており、ジャスミンもそれを妨げるつもりはないから、会話を交わすのは、自然、ジャスミンとグレン警部ということになる。
そのグレン警部が、感嘆と安堵を等分に含んだ声でジャスミンに話しかける。
「あらためて、先ほどは被疑者確保にご協力いただき、ありがとうございました。私も、昔はあの程度の追いかけっこで息を切らすほど軟弱ではなかったのですが、年は取りたくないものだ」
ジャスミンは外向き用の笑顔で、グレン警部の冗談に応じる。
「仰る通りですが、加齢とともに衰えるのは人の身体の宿命です。それを嘆いてもはじまらない」
見た目には、まだ加齢による衰えとは無縁の、輝くような若さと覇気を身に纏ったジャスミンの、妙に実感のある言葉に、グレン警部は一抹の違和感を抱いたが、口に出すことはなかった。
その実、ジャスミンも、ルウの手による着替え──ジャスミンの場合は十歳程度の若返りだったが──を経験しているので、加齢がどれだけ人の基礎体力に悪影響を及ぼすのか、誰より理解していたのだ。
当然、グレン警部はそんなことは露と知らないから、ジャスミンの言葉を自身への慰めと理解し、あごのあたりを撫でながら苦笑した。
「私にはコンビを組んでいる若い部下がいましてね。もしもあの男を取り逃がしていたら、そいつに尻を蹴り上げられるところでした。おかげさまで、上司の体面を保つことができましたよ」
「それは何よりです。しかし、警部の階級を有する方が最前線で犯人検挙とは、中々珍しいことなのでは?」
ジャスミンの質問に、
「これは完全に私の性分でして、どうにもデスクワークというやつが苦手なんですな。となると、書類仕事を減らした分、別の仕事で時間を埋めなければ給料泥棒の誹りを免れません。ということで、若い衆に混ぜてもらって、年寄りの冷水と呆れられながら、こうして駆けずり回っている次第です」
グレン警部は恥ずかしそうに答えた。
普通、階級が上の人間が不必要に現場に拘り、要らぬ口出しなどをすれば現場で働く下の人間の不評を買うものだが、グレン警部の気さくな物言いからすれば、そういう心配はなさそうだ。
むしろ、今でも現場を駆けずり周り、事件を解決に導くことで今の階級を得たのだろう、そういう鼻の利く刑事の気配がジャスミンには感じ取ることができた。
警官にも色々な人間ことをジャスミンは知悉しているが、これは中々に信頼できる人間かも知れない。ジャスミンはグレン警部に好感を抱いた。
「それにしても、先ほどの、被疑者を取り押さえた手並みはお見事でした。逮捕術の教材にしたいほどでしたよ。何処かで格闘技を修められたのですか?」
まるきりお世辞でもなさそうなグレン警部の賛辞に、ジャスミンは軽く微笑み、
「まぁ、手慰み程度ではありますが。しかし、正義感に駆られた素人が、手柄欲しさや名誉欲に逸って飛びかかったわけではありません。確実に成功するという確信があっての行動です。どうか、お見逃し頂けると有り難い」
そう言ったのだが、この言葉は些か謙遜が過ぎるものだと言うべきだろう。
なぜなら、ジャスミンは、軍属時代の厳しい訓練で、対刃物の制圧訓練を履修しており、部隊の武技大会でも他を寄せ付けず圧倒的勝利を重ねていたのだから。
冷静さを失って刃物を振り回す素人を取り押さえるなど、ジャスミンにとっては小枝を振り回す子供をあやすに等しいのである。
だが、ジャスミンの放つ、手練れの雰囲気を感じ取っているはずのグレン警部が、口調を改め、乞うように言う。
「いや、これは失礼。ただ正直に申し上げると、小職は、ああいった状況で一般市民の方が犯人確保の手助けをするのは、あまり好ましいことではないと思っておりまして。無論、その勇気は讃えられるべきであり、治安維持の任を預かる組織の一員としてその心遣いは非常に有り難いことだと思ってもいるのですが、万が一のことがあったとき、我々はその被害に責任を取ることが出来ず、申し訳ない思いをすることもあるのです。まして、貴方は女性だ。どうか、今後の無茶はお控え頂けると嬉しく思います」
グレン警部は真剣な口調でジャスミンに語りかけた。
ジャスミンとしても、そう言われてしまうと返す言葉がない。如何様にでも反論は可能なのだが、グレン警部の心根が優しく誠実なことは理解できるし、今この場で、自分ならばあの程度の立ち回り何ほどのことでもないのだと証明する必要性も見出さなかったからである。
「警部どのの仰ることもごもっともです。今後は自重いたします」
殊勝な口調でジャスミンはそう言った。
ただ、この言葉に込められていたのは、今後は大人しくするという意味ではなく、今後は正体不明の液体を浴びせられることがないよう打撃技で制圧しようという決意だったことに、当然グレン警部は気が付かなかった。
そんな会話を交わしているうちに、パトカーは、アイクライン地方警察署に到着した。グレン警部はジャスミンを連れて処置室まで案内し、担当の職員に、ジャスミンのズボンを濡らした液体の分析を急がせた。
「本来であれば液体を浴びてしまった部位の洗浄、消毒を行うべきなのでしょうが、液体の成分によっては事態を悪化させる可能性があります。しばらくお待ち下さい」
「承知いたしました」
ジャスミンは、グレン警部の判断を良しとして、頷いた。
成分分析には、ほとんど時間はかからなかった。息せき切った担当者が、グレン警部に対して液体の成分はただの水だったことを告げると、警部は、待機させていた女性警官に、ジャスミンの、液体の被塗布箇所の洗浄、消毒を命じ、自身は処置室から退出した。
女性警官は、大柄なジャスミンに若干驚きつつ、その足を丁寧に消毒シートで拭い、被塗布箇所に腫れや湿疹などがないことを確認した。
「特に異常は見受けられませんが、もしも体調に異常があれば、すぐに病院にかかってください」
「了解した。どうもありがとう」
ジャスミンは爽やかな微笑みを浮かべながら、女性警官に礼を言った。
女性警官は丁寧に一礼し、入れ替わりにグレン警部が入室してきた。
「どうやら、大事がなかったようで何よりです」
「お騒がせして申し訳なかった、警部殿。どうにも、こういったことには心配性なたちなものでして」
「いえ、当然のご懸念です。ちなみに、今から何処かへ向かうご予定はありますか?もしよろしければ、小職がお送りいたしますが……」
グレン警部の申し出に、少し迷ったジャスミンだったが、有り難く甘えることにした。
「それではご厚意に甘えさせていただきましょう。私はアイクライン校のフォンダム寮へ向かう途中だったのですが、もし可能であればそこまでお願いできますか?」
犯人検挙の功労者の申し出である。余程の遠方でなければ頷くつもりだったグレン警部が驚きに目を見開いたのは、距離的な問題ではない。
自身が今から向かおうとしていた目的地も、同じフォンダム寮だったからである。
「それはちょうど良かった。小職も、同じ場所で待ち合わせがあるのです。一応、相手方に今から行っても問題ないか、念の為の確認させていただきたいのですが、よろしいですか?」
「もちろんです」
ジャスミンの許可を取ってから、グレン警部は携帯端末を取り出し、何処かへと連絡したようだった。
あちらの携帯端末で呼び出しがされているだろう僅かな時間の後、グレン警部が話し始める。
「よう、ヴィッキー。約束の件だが、今からそっちに行っても大丈夫か?……分かった、助かるよ。多分、30分ほどでそちらに着くから。……ああ、分かった。それじゃあな」
携帯端末を耳から離したグレン警部に対して、今度はこちらが驚きに目を開いたジャスミンが質問する。
「警部どの。先ほどの電話の相手方、ヴィッキーといっていましたが、まさか、ヴィッキー・ヴァレンタインですか?」
ヴィッキーという愛称の人間はこの連邦大学に数多かれど、フォンダム寮のヴィッキーとなれば、多くても数人だろう。
当然、先ほどの電話の相手方も、ジャスミンの知るヴィッキー──リィの可能性が極めて高い。ジャスミンが問うのも当然であった。
ジャスミンの質問に、再び驚いた様子のグレン警部が、
「これは驚いた。ミズ、ヴィッキーのことをご存知で?」
そう訊いたのに対してジャスミンは微笑みを浮かべ、
「ご存知程度ではありません。愚夫を除けば、この世で最も親しいと言っても過言ではない大切な友人であり、最も頭の上がらない大恩人です」
暖かな口調で、そう言い切った。
それを聞いたグレン警部は、ジャスミンと同じように微笑み、宜なるかなと頷いた。
きっとあの少年と知り合った人間は、二種類に分けられるのだろう。
手酷い目に遭って返り討ちにされ、その名を聞いただけで顔を青ざめさせる人間か。それとも目の前の女性のように、その名を口にするだけで思わず暖かな微笑みを浮かべてしまう人間か。
そして自分も後者に分類されるのだという自覚のあるグレン警部は、ジャスミンに対して新たな好感を覚えた。
「小職も、あの少年には大きな恩義があるのです。今も、厄介なお願いをしておりまして、その関係で会いに行くところです」
グレン警部の言葉に頷きかけたジャスミンは、しかし少し怪訝な顔色を浮かべる。
「……警部殿。まさかとは思うが、警察の行うべき犯罪捜査の助力を、彼に依頼しているのではないでしょうな?」
正しく痛いところを突かれたグレン警部は、思わず一瞬目を泳がせてしまい、当然のことながら、ジャスミンはグレン警部の反応から全てを察した。
ジャスミンは呆れたように目を瞑り、大いに眉根を寄せながら溜息を吐き出した。
「警部殿、私のような人間が口を出すのは大いに筋違いだと理解してはいるのだがな……」
グレン警部は大いに慌てて、
「いや、ミズ、貴方の仰りたいことは分かります。ただの中等部生──ヴィッキーを『ただの』と形容するのが相応しいかどうかは置いておいて──に対して犯罪絡みの話をすることは、全くもって不適切な行為です。しかし、以前、彼の活躍で、一つの難事件が解決に導かれ、人類の財産が守られたのはまったき事実なのです。今回も、彼に捜査の協力を願ったりはしていません。ただ、参考として意見を伺おうと……」
「普通の人間なら、それを正しく警察からの捜査協力だと言うと思うぞ」
ジャスミンの冷静な意見に、グレン警部は二の句も継げずに黙り込んでしまう。
だが、ジャスミンとしても、グレン警部の気持ちが分からないでもないのだ。
年端もいかない中等部生を犯罪捜査に巻き込むのは、機密保持的な観点でも未成年者の安全保護的な観点でも言語道断そのものなのだが、一刻も早く犯罪を解決に導きたい、これ以上被害者を出したくないというグレン警部の、警察官としての強い想いも至極当然なものだし、いかな難事件であってもこの少年なら何とかしてくれるのではないだろうかという、一種の神通力のようなものをリィから感じてしまうのも、リィを知る全ての人間に共通するところだろう。
他ならぬジャスミン自身、リィには何度も命を助けられているのである。困った時の神頼みならぬ、困った時のリィ頼みをしてしまうグレン警部の気持ちも、分からないではない。
だから、自分にグレン警部を糾弾する資格のないことも、ジャスミンは弁えていた。
結局、ジャスミンは呆れたように鼻息を一つ吐き出し、矛を収めることとした。
「細かいことは、とりあえずパトカーの中で聞こうか。さぁ、乗れ」
まるで、警ら中に見つけた不審者に対して警察官がそう言うように、ぎろりとした視線のジャスミンは威圧感を込めてそう言った。
今まで生きてきて、そんなことを初めて言われたグレン警部は、その大きな身体を縮こめるようにして、パトカーの運転手席に座った。