懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
ジャスミンは今まで警察官として禄を食んだことはなかったが、しかし、もしも警察官になっていたとしたならば、確実に敏腕女性警官もなっていたこと疑いなかった。少なくとも、彼女の厳しく的確な取り調べでしらを切り通せる犯罪者は、例え存在したにしても、ごく僅かだったに違いない。
何故なら、本来は取り調べを行うのが本業のはずのグレン警部が、厳しい口調のジャスミンに問い詰められ、的確に供述の矛盾点をつかれ、蛇に睨まれた蛙よろしく汗をかきかき、為すすべなく口を割らされてしまったからである。
最初は口が重かったグレン警部も、結局、アイクライン地方警察署からフォンダム寮までのさして長くもない道中で、彼が何故リィに犯罪捜査の協力を求めるに至ったかの一部始終を語るはめとなり、また、それが正体不明の違法薬物の捜査なのだということも吐かされることとなった(『違法薬物捜査に中等部生を関わらせるな!』という正論そのものの大雷が落ちたのは言うまでもない。)。
しかし、新種の違法薬物についてはジャスミンも初耳だったので、強く興味をひかれた。
「ドリームメイカーか、初めて聞くドラッグだな」
後部座席でふんぞり返りながら腕組みしたジャスミンの様子と、運転席で、強面教諭から説教を喰らった後の学生のように縮こまったグレン警部の様子は、どう見ても民間人と警察官のそれではない。
あえていうならば、剛腕女性警視と、それに付き従うお付きの現場刑事といったところか。
もはやこの女傑に隠し事など不可能であることを悟ったのか、それともこの女性ならある程度の秘密を放しても問題ないと信頼したのか、はたまた全てを諦めたのか、グレン警部の口は、先ほど機密を守ろうと貝のようだったのが嘘のように軽やかだった。
「ドリームメイカーについては、ドラッグと呼んでいいか、それすらも分かっていないというのが現状でしてね。症状も、不思議な夢を見るだけって言われれば、仮に薬物だったとしても、果たして違法な成分を含んでいるのかどうか、怪しいもんです」
「しかも、化学分析を行っても、ただの水としか思えない……」
「仰るとおりです。今回ミズに確保をご協力いただいた被疑者は、正しくドリームメイカーの売人の元締めのような人間の側近と思しき人間でしてね。物から解決できない事件なら人からというのが捜査の定石だ。被疑者の口を割らせれば、今回の事件は大きく進展するでしょう。そういう意味でも、本当に感謝していますよ」
その時ジャスミンは、何かに思い当たったように動きを止め、慎重な口調で質問した。
「……警部。私が投げ飛ばしたあの男は、そのドリームメイカーとやらの密売の関係者だったわけだな?」
「はい、その通りです」
「ならば、私が触れた、水だと成分分析されたあの液体も、そのドリームメイカーだということにならないか?」
ジャスミンの質問に、あっという表情でグレン警部が固まる。
慌てて急ブレーキを踏みそうになるが、今はパトカーで公道を走行中である。そんなことをすればたちまちに後続車から追突される危険があったから、すんでのところでグレン警部は思いとどまり、定められた手順通りに方向指示器を出して路肩にパトカーを停めた。
「仰るとおりですミズ。くそっ、どうしてこんな当たり前のことに気が付かなかったのか。すぐに確認させます」
そう言ったグレン警部は、早速自らの携帯端末を取り出し、しかるべく部下に指示を出す。
そのテキパキとした様子を見守りながら、ジャスミンは独りごちる。
「まあ、だからといって今の時点で出来ることもないように思えるがな。何せ、相手は正体不明の違法薬物だ。まさかVXガスのように皮膚に付着するだけで死ぬというわけでもあるまいし、ここは腹を括るしかないか」
やや投げ槍な口調は、しかし通話中のグレン警部には届かなかったようである。
何度か頷き、部下の報告を聞いていたグレン警部は、緊張した面持ちで後部座席へ振り返り、
「ミズ。悪い報告です。ミズが触れたあの液体は、やはりドリームメイカーの小瓶から漏れ出しものだったようだ」
「だろうな」
「申し訳ありません。あれだけ偉そうなことを口にしておいて、結局貴方を危険に晒させてしまった」
「警部、それは不要な謝罪だ。あの男を取り押さえたのは、あくまで私の身勝手だからな。その点、貴方方警察に一切の不手際はない。謝っていただく必要は全くない」
ジャスミンの冷静な態度に、しかしグレン警部はあくまで深刻な顔色である。
ドリームメイカーは、未だ効用も成分も不明、そもそも違法薬物なのか否かすら分かっていないのだ。動物実験では特に異常は見られなかったとはいえ、触れただけで人体に悪影響を及ぼす化学物質が存在する以上、可能な限り用心はするべきだ。
少し考え込んだグレン警部は、決意とともに口を開く。
「ミズ。もしよろしければ、これから行う、私とヴィッキーの面談に立ち会って頂くことは可能でしょうか?」
「何故?」
「ヴィッキーは私に、ドリームメイカーのことについて可及的速やかに伝えたいことがある、そう連絡を寄越しました。彼の性分から考えれば、何か重要な情報を掴んだのではないかと思います。もしそれが悪い情報ならば、私だけがそれを聞いて、正規のルートでその情報を貴女に伝えるならば、相当のタイムラグを覚悟しなければならない。ことは貴女の安全に関わる以上、貴女もそれを聞く権利があると思うのです」
グレン警部の提案に、ジャスミンは寧ろ当然とばかりに頷く。
「無論、私もそのつもりだった。警部どのの頭が柔らかくて助かる。こちらとしても、不毛な議論は望むところではないからな」
ここまで巻き込まれて蚊帳の外に置かれることを容認するほど、ジャスミンの気は長くない。もしも機密保持を理由に立ち会いを拒絶するなら、相応の手段──脅迫、恫喝、腕力行使を含むあらゆる手段だ──を用いて、グレン警部を納得させるつもりだった。
連邦大学を訪れた目的であるウォルとの面談は後回しになってしまうが、致し方ない。リィの報告も、それほど時間のかかるものではあるまい。
ジャスミンがそう考えたその瞬間、パトカーはフォンダム寮前に到着した。
◇
パトカーを寮の駐車場に停めたのでは、いくらなんでも悪目立ちし過ぎる。当然といえば当然の配慮で、グレン警部はパトカーを、寮近くのコインパーキングに駐車させた。コインパーキングにパトカーとは些か奇妙な光景だが、事の成り行き的に仕方なかったのだとグレン警部は自分を納得させた。
パトカーから降りたジャスミンとグレン警部は、フォンダム寮の敷地入口に設置された警備員詰所で、リィに対して来訪を伝えてもらうよう依頼して、許可が下りてからフォンダム寮の玄関をくぐった。
グレン警部からすればほんの一週間ほど前に訪れた場所だが、ジャスミンがフォンダム寮を訪れるのは実は初めてだ。
なるほどここが自分の孫が学生生活を営む本拠地かと、感慨深く寮の内部を検分する。造りは簡素だが、構造はしっかりしている。防犯面も問題ないようだとジャスミンは内心に頷いた。
グレン警部は、面談室までの道順を覚えていたので、ジャスミンに先導して歩いた。
面談室では、既にリィが応接セットに腰掛けて待っていた。
リィは、予想していたグレン警部の顔に続いて、ジャスミンが入室したのに、流石に驚いた顔を見せた。
「あれ、ジャスミンじゃないか。どうしてグレン警部と一緒にいるの?」
当然の質問に、ジャスミンは野生的な──言い方を変えるなら、幾分猛悪な笑みを浮かべ、
「不届きな警官が、純真無垢な中等部生を犯罪捜査に巻き込んでいると聞いてな。善良な年長者として看過出来ず、その現場を抑えに来た次第だ」
「あの、ミズ、どうかそのあたりでご勘弁願いませんか。もうこれ以上、ヴィッキーに無理筋の依頼はしませんから……」
タジタジのグレン警部を見て、だいたいの事情を察したのか、リィは曖昧な笑みを浮かべた。
そして椅子から立ち上がり、
「警部、一応聞くけど、ジャスミンがここにいるっていうことは、例の薬物に関する話を一緒に話しても構わないったことだよね?」
そう、グレン警部に訊いた。
グレン警部としても、本来であれば情報提供の場に一般市民が同席するのは好ましからざる状況であるのだが、既にジャスミンはドリームメイカーを巡る事件に関わってしまっている。
何かあれば自分が責任を取るという覚悟を込めて、グレン警部は頷いた。
「分かった。じゃあ、ちょっと場所を変えよう。ここじゃあ誰が聞いているか分からない」
そしてリィが二人を案内したのは、こないだウォルと会話をした、寮の中庭のベンチだった。
3人は、そこに腰掛けた。グレン警部とジャスミンがかなり大柄なので、幾分手狭な様子だったが、秘密の会話をするなら寧ろ好都合である。
リィは、昨日の夜、レティシアと共に顔を合わせた奇妙な薬学部生から聞かされた話を、かいつまんで二人に聞かせた。
リィの話を聞いた二人の顔を、色濃い緊張が満たす。
「ハーメルン線虫……そんな生き物の卵が、ドリームメイカーに混ぜ込まれていたのか……」
グレン警部が、呆気に取られながら呟く。
「いや、完全に盲点だった。液体自体の成分分析は繰り返し実施したし、微生物の培養試験も試みたが、人体実験そのものは流石にまだ行えていない。人間の体内でしか孵化しない、極々小さな寄生虫の卵なら、微細なゴミや埃と紛れて、見過ごされて寧ろ当然だろう。しかし、リビングドラッグとは……そんな生き物が、本当にこの世に存在するのか……?」
「おれに事の真偽は分からないよ。ただ、その薬学部生──アビーっていう子だけど、おれには彼女が言っている事に嘘はないように思えたし、おれみたいな子供相手に嘘をついて何かメリットがあるようにも思えない。それに、必要があればデータや試料も提供するって言ってた。本当のことを言っているって判断するのが自然だと思うけどね」
リィは、手にしたカップーのストローを咥えて、冷たいアイスコーヒーで喉を潤した。
「ヴィッキー、そのアビーっていう学生の連絡先を教えてもらえるか?」
リィは厳しい顔でグレン警部を見遣り、
「彼女の安全に、警察は責任を持ってくれる?」
以前、グレン警部自身がリィにした忠告ではあるが、違法薬物捜査は、情報提供者に対して大きな危険を及ぼす可能性がある。
リィとしても、グレン警部を疑っているわけではないが、一言釘を刺さざるを得なかったのだろう。
グレン警部もリィの懸念を理解している。
「薬物捜査の情報提供者に対しては、何重ものセキュリティ処置が施され、警察内部の人間でもそれと分からないようマスキングされることになっている。そして俺は、例え本当に口を裂かれても絶対にその子のことを誰にも言わない。約束する」
グレン警部は、絶対の覚悟を込めた強い視線でリィを見返した。
その瞳を見て、リィは頷く。
そして、今度は少し弱い調子で、
「あともう一つ。その子、ちょっと変わってて……。なんていうか、本人が言うには、違法じゃないけど結構ギリギリなハーブでトリップするのが趣味みたいなんだけど……彼女を逮捕したり、大学に通報したり、そういうのは止めて欲しいっていうお願いは通用するかな?」
乞うように、リィがこっそりとグレン警部にお伺いを立てる。
グレン警部は、予想外の内容にしばし唖然としたが、犯罪組織の内部告発的な通報者の犯した罪にはある程度お目こぼしするのが警察組織の慣例ではある。更に、リィの言葉が正しいとすれば、一応は合法のハーブを嗜んでいるだけのようだし、敢えて波風を立てない程度に融通を利かせるだけの社会的配慮もグレン警部には備わっていた。
少し渋い顔になってしまったのは致し方ないとして、グレン警部はもう一度頷いた。
それを見て安心したリィは、アビーの連絡先をグレン警部に伝えた。
「ありがとう、ヴィッキー。これで、捜査はかなり進展するだろう。無論、誰が、何の目的でそんなものを広めているのかはこれから解明しなければならないのだが……」
「アビーは、これは何かの実験なんじゃないかって言ってたよ。おれもその意見に賛成だ。こんな怪しい代物をただで広めるなんて、金目的の犯罪組織にしてはやり方が明後日に向きすぎてる。しかも、彼女の読み通りなら、ハーメルン線虫は人為的に改良されたものだという。それなら、開発費だけでも相当な資金が必要なはずなんだ。やっぱり、普通のドラッグみたいに、金を稼ぐのが最終目的なら辻褄が合わない」
リィの意見に、ジャスミンが首肯する。
「私も同意見だな。そして、金が目的なら話は単純だが、そうでないとなると相手の動きを見定めるのが厄介だ。愉快犯、宗教的テロリズム、それとももっと大きな、共和宇宙的な秩序の崩壊を目論んでいても不思議はない」
ドリームメイカーを浴びてしまったジャスミンとしては、いずれも心安らがない想像図ではあったが、行きがかり上仕方がない。
「ヴィッキー、そのアビーという学生は、その寄生虫は卵の状態で触れるのも危険だと言っていたか?」
ジャスミンの質問に、リィは首を横に振る。
「そこまでは聞いていない。ただ、この寄生虫は経口感染するものだとは言っていた。普通、寄生虫の感染経路なんて限られているものだと思うし、まさか卵の状態で肌に触れただけで感染するなんて、とんでもない生き物じゃないと思うけど……」
リィの台詞に、ジャスミンは肩を竦める。
「しかし、最終的に、人を操って何処かへ連れ去るという慮外の生き物だ。果たしてどんな方法で感染するのか知れたものではない。差し当たり、後で思いつく限りの駆虫薬を飲んでおこう。それでも感染していたなら、運が悪かったと諦めるほかないな」
「感染すると、最初に眠った時に不思議な夢を見るのが初期症状だってアビーは言ってた。それである程度判断出来るんじゃないかな」
「さりとて、感染の有無が分かったところで、駆虫薬が効かないならば打つ手は限られるがな。まぁ、今更愚痴を言っても始まらないか。もし感染していたのなら、その夢とやらを精々楽しんでやるか」
憮然とした様子のジャスミンであった。
そんな彼女に、グレン警部が心底申し訳なさそうに頭を下げる。
「ミズ、あらためてこのような事態に巻き込んでしまい申し訳ありません。万が一の場合は、必ずお声かけください。共和宇宙警察の威信をかけて、貴女のお力にならせていただきます」
ジャスミンは、グレン警部の言葉を好ましく思いつつも、しかし事ここに至れば警察力が自分に対して何の力にもなれないことを知っていた。
加えて言えば、医療的な意味で言えば、この宇宙で最先端の医療技術を誇るクーア病院が彼女の資本的傘下にある。警察病院も最先端医療技術を誇っているはずだが、疫学的能力はクーア病院が間違いなくその一歩先を行っている。
「警部どの、私のことは気にしてもらう必要はない。私が、私の判断でしたことの責任を取るだけの話だ。貴官は、貴官の職責を果たされたい」
ジャスミンの熱を込めた言葉に、ベンチから立ち上がったグレン警部は、口元を引き絞って、しゃちほこばった敬礼を返す。
そして、リードから放たれた猟犬の勢いでフォンダム寮中庭から飛び出してしまった。
その後ろ姿を見送ったジャスミンは、苦笑とともに、
「この共和宇宙の全ての警察官があのようであれば、卑劣な犯罪に涙を流す被害者の数も、もっと減るのだろうがな」
感慨深くそう言った。
リィも頷く。
「なんか、大変なことに巻き込まれちゃったみたいだね、ジャスミン」
リィの心配そうな言葉にジャスミンは軽く肩を竦めつつ、
「厄介事が向こうからやってくるのは、どうやら私の宿命のようだから仕方ないさ。それに、私が行方不明になったら、必ず探し当ててくれるだろう心当たりもある」
軽い調子でそう言った。
なるほど、確かにこの女傑が行方知れずになったとして、今はこの場にいない彼女の夫──ケリーが黙っている筈がない。草の根を分けてでも、銀河を跨いででも、必ず探し当てるだろう。
口に出すと少し気恥ずかしいのか、ツンと明後日を向いたジャスミンに、リィが微笑む。
そして、何事かに思い当たったように、声色を、伺うようなそれに変える。
「ねぇジャスミン。ジャスミンは、ケリーのことを、心の底から愛してるんだよね?」
あまりに直球なリィの質問に、流石のジャスミンも驚いた様子で一瞬固まり、おずおずとした様子で口を開き、
「なんだいきなり、なんというか、返答に困る質問だ。愛してるか否かで言えば、勿論愛しているとも。だからこそ、半分生まれ変わったような身の上同士で、夫婦などをやっているのだからな。しかし、心の底から愛しているかと問われると……例えば、歌劇などに謳われる運命の恋人同士のように、私の心はあなたのもの、というわけでもない。何とも言葉にし難いが、私とあの男はそんな関係だ。これで回答になっているかな?」
ジャスミンは苦笑いを浮かべながらそう言った。
なるほど、要するにこの変わり者同士の夫婦は、この上なく固い絆で結ばれているのだと、リィは改めて理解した。
理解したからこそ、残念そうに溜息を吐き出した。
次の質問するのは、どうにも歯切れが悪く、そして挙動不審な様子のリィを見た、ジャスミンの方だった。
「なんだヴィッキー、私とあの男が愛し合っているのだとして、それが何か不味いのか?」
くすくすと微笑みながらそう訊くと、リィは、ジャスミンの予想に反して、何とも申し訳なさそうな表情で頷いたのだ。
これには、ジャスミンが驚いてしまった。自分とケリーが仲睦まじいのだとして、どうしてリィに不都合があるのだろうか。
そんなジャスミンの内心が表情に出ていたのだろう、リィは不本意そうに口を開き、
「実は今、色々と困っててさ。ちょっと、ジャスミンにお願い出来ないかなってことがあったんだけど、今の話だと、やっぱり不味いなって思ったんだ」
「私にお願い?他ならぬきみからのお願いなら、私の力の及ぶ範囲なら、何でも力になるぞ。何でも言ってくれ」
ジャスミンは、何度もリィに命を助けられている。その借りの総量たるや、自身の一生を費やしても返しきれるかどうか、そうジャスミンは真剣に思っているほどだ。
その恩義を返せる機会があるなら、これは正しく渡りに船である。ジャスミンは、乗り出すような姿勢でリィににじり寄った。
そんな、物凄く乗り気な様子のジャスミンに、
「あのさ、すごく変なことを言うよ?」
「ああ、何でも来い」
「出来れば怒らないでくれると嬉しいんだけど、いいかな?」
これだけ勿体つけるリィも、ジャスミンにとって珍しいものだった。
ここまで来ると、俄然ジャスミンにも興味が湧いてくる。金や名誉とは全く無縁の、余人とは異なる価値観に生きるリィが、これほど言いにくそうにするお願いとは一体何なのか。
ジャスミンは嬉しそうに、
「勿論だ。絶対に怒らないから、言ってみなさい」
好奇心に目を輝かせたジャスミンに、おずおずとリィは口を開き、
「あのさ、もしもおれの浮気相手になってくれないかってお願いしたら、ジャスミンは引き受けてくれるかな?」
ジャスミンは、呼吸を忘れる有様で動作を完全停止させ、リィの言葉を出来るだけ衝撃の少ない形で理解しようと努めた。
明敏なジャスミンのシナプスは、しかし、『理解不能、救援求む』の信号を持ち主に返すだけで、何ら気の利いた回答を寄越してくれない。
結局、数秒の沈黙の後、口を開いたのはリィの方だった。
「ごめん、やっぱり無理だよね。ジャスミン、今のは忘れて」
両手を合わせて、拝むようにそんなことを言う。
しかし、忘れてくれと頼まれて即座に忘却出来るほど人間の記憶が自由自在なら、この世は人にもっと生きやすい場所なのだろう。
然り、茫然自失のジャスミンであっても、今のリィのお願いは、到底忘れることが出来ないし、聞き逃すことも出来なかった。
ようやく、古いパソコンが再起動するような有様で動き出したジャスミンの脳細胞が、持ち主に対して指令を下し、持ち主であるジャスミンが、恐る恐るとリィに問う。
「その……浮気するとは……つまり、きみと私が、恋愛関係になり、もっと言えば、肉体関係を持つということか?」
「うん……まぁ、そういうことになるのかな?」
「念のために聞くが……きみは、私を性愛の対象として見ているということか?」
未だ呆気にとられた様子のジャスミンの、当然と言えば当然の質問に、リィは勢いよく首を横に振る。
「そういうことじゃないんだよ。もちろん、ジャスミンはとっても綺麗だし、女性として魅力的だ。でも、その、ジャスミンも分かってくれていると思うけど、おれは、人間の女性に、そういう感情を抱くことはないんだよ」
「それは重々承知なのだが……ならば、何故私ときみが浮気という話になるのだ?」
「それには色々と深いわけがあってね……」
リィは、深い深いため息を吐き出した。
そしてリィは、先週この場所でウォルと交わした会話の顛末を語った。
リィとウォルが婚約を結ぶきっかけとなった、ウォルの願い。ウォルの本当の目的である、この世界にいるかも知れない異邦人を救いたいという想い。それを次世代へと繋ぐため、子供を欲しているという事実。
そして、リィはそれを拒絶し、このままいけば、婚約は破棄せざるを得ないという事情。
「婚約破棄は仕方ないんだ。あいつの願いを、どうしたっておれは受け入れられないんだから。でも、このまますんなり話が進むかっていうとそれも難しくてさ。おれがあいつに、婚約指輪代わりに送った剣、ジャスミンも一度見ただろう?あれはもうウォルだけのものだからさ、おれ達の都合だけであげたり返してもらったりできないんだよ。で、グレン警部に聞いたら、おれの浮気が原因で婚約が破棄されたなら、あの剣を返してもらわなくってもいいって教えてもらったからさ」
だから、自分と浮気して、有責婚約者になろうというのか。そうすれば、婚約指輪代わりの剣を受け取らずにすむから。
これ以上ないというほど短絡的なリィの結論に、流石のジャスミンも、開いた口が塞がらなかった。
そんなジャスミンの表情をどう受け取ったのか、心底申し訳なさそうにリィが続ける。
「もちろん、こんな理由で浮気を申し込むなんて、ジャスミンに対してすごく失礼だってわかってる。張り倒されても文句は言えないよね。でもさ、こんなことを頼めそうな女の子って、おれの知り合いの中じゃジャスミンくらいしか思いつかないんだよ。ルーファに女性の身体になってもらうのも考えたけどさ、おれも流石にルーファと番うのはどうしても嫌なんだ。例えるなら、自分自身を抱くみたいな感覚だからね。それは最終手段に置いておきたい」
「だから、私と浮気をしたいということか……」
「うん。でも、やっぱり駄目だよね。ケリーにもすごく悪いし……」
「この際、あの男のことは置いておいて構わない。あれは、私が誰を咥えこもうが気にも留めないだろう。無論、それがヴィッキー、きみだと知れば流石のあの男も仰天するだろうがな」
「じゃあ、ジャスミン、おれと浮気してくれる?」
上目遣いでこちらを見るリィに、ジャスミンは重たい溜息を返す。
「私としてはそれでも構わないが、その前に確認しておきたい。ウォルの願いは、きみとの間に子を為し、そして、ウォルがもといた世界からの迷い人がいつかこの世界に訪れたとき、その異邦人を助けることだ。それは間違いないな?」
ジャスミンの要点を得たまとめに、リィはおずおずと頷く。
ジャスミンは、再びため息を吐き出した。
「そしてきみは、自身の子供にそんな重たい責任を負わせることができないから、ウォルと婚約を破棄せざるを得ない」
「うん、要するにそういうことなんだよ」
「ならば、その点さえ解決できれば、きみとウォルは婚約を続けても問題ない、そういうことか?」
ジャスミンの、予想外の言葉に、リィは一瞬返答に窮する。
理屈で言えば、ジャスミンの言葉は正しい。自分たちが婚約破棄に至ったのは、ウォルの望み──生まれたときから我が子に重責を担わすという呪いにも似たウォルの望みが到底リィにとって承服しかねるからであって、その点が解決するなら、婚約を破棄する必要はなくなる。
きょとんとした表情のまま無言で頷くリィに、ジャスミンは三度重たいため息を吐き出す。
「……ヴィッキー、今すぐウォルをここに呼び出せ」
結構厳しい口調だったから、リィは驚いたように、
「でも、あいつ、今、授業中だと思うんだけど……」
「緊急事態だ。身内の事故だとでもいえば教授も見逃してくれるだろう」
つまり、嘘をついてでも連れてこいというのだ。
そしてジャスミンの瞳は、激情の金色に染まっている。
その色が、いわば警戒色であることを理解しているリィは、
「あの、ジャスミン、やっぱり怒ってる?」
この少年には珍しく、弱弱しい口調で訊いた。
然り、ジャスミンは頷く。
「勘違いするなよ。私が怒っているのは、きみが私に浮気を申し込んだからではないぞ」
「じゃあ、一体何に怒っているのさ?」
ジャスミンは大きく息を吸い込み、中庭の木々を震わす大音声で叫んだ。
「それは、ウォルがこの場に揃ってからだ!いいから、今すぐに連れてこい!」
逆鱗を刺された竜の形相で、ジャスミンが有無を言わさず強く言うと、流石のリィも、回れ右でウォルを呼びにフォンダム寮管理室へと向かった。そこから、リィの身内に緊急事態があったとして、授業中のウォルを呼び出してもらおうと思ったのだ。
そんなリィの後ろ姿を見送りながら、未だ瞳を金色に染めたジャスミンが呟く。
「わからず屋の小わっぱどもめ。きつく灸を据えてやる」