懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第十三話:狼女の事情

 シェラがその言葉を理解するのに、たっぷり十秒は要した。

 その間、彼の回りの人間は、多分何にも話していなかったはずだ。とても音声を聞いてそれを脳内電気信号に変換する余裕などはなかったが、しかし彼らの唇が動いていなかったことは何となく覚えている。

 唖然とした表情を浮かべたままのシェラが、自らの疑問を口に出来たのは、それから更に十秒は経過した後だった。

 

「……その、ルウ。今、あなたは何と言いましたか?」

 

 シェラにしては微妙な言葉遣いである。

 立ち尽くした黒い天使は、当然それを咎めることもなく、ゆっくりと口を開いた。

 

「言葉通りだよ、シェラ。今、王様が間借りしてるこの体のもとの持ち主、エドナ・エリザベス・ヴァルタレン――ウォルフィーナは、エディの妹なんだ」

 

 あらためてその言葉を聞いたシェラは、乾ききった喉を潤すために唾を飲み込もうとしたが、しかしからからに乾いた口中に、一滴の水分も残されていなかった。

 唖然から愕然とした表情に様変わりしたシェラの顔を横目に、リィは落ち着いた調子で言った。

 

「生憎だがな、ルウ。おれは妹なんていうものを持った覚えはないぞ。無論、デイジー・ローズ以外、血縁的にもおれの妹に当たる人間はいないはずだ」

「そうだね、エディ。そのとおりだ。でも、この子は君の妹なんだ。少なくとも、この子はそう思っている」

「片方が思い込めば、血縁関係ってのは勝手に出来上がるものなのか。随分簡単なものなんだな」

 

 リィは皮肉めいた笑みを浮かべながら言った。

 冗談めかした言い方であったが、その底にひやりと冷たい金属質なものがある。この少年にとってそれが如何なる感情を顕すものなのか、その場にいた全員が痛いほどに理解していた。

 しかしルウは、なおも続けた。その瞳に、呪いめいた鈍色の光を湛えたままで。

 

「聞いて、エディ。確かに、厳密な意味で言えば君とこの子との間に血の繋がりはない。でもね、そもそも血縁ってなにかな?それは人という種族の中で、どういう意味を持つの?」

「おれにとっての肉親は、アマロックだけだ。人にとっての血縁は、法律的に言えば互いを扶助し合う義務を持ち、いずれかが死んだときにその財産を相続する権利を有することになる。付け加えれば、この国の法律で言えば、三親等以内の親族及び直系血族と、並びに養親と養子間の婚姻は多角的な理由から禁止されているな。医学的に言えば、近親相姦によって生まれた子供には畸形や障害など、遺伝的な障害を持つ可能性が高いことから忌避の対象になる。細かいところを除けばそんなところか?」

 

 すらすらと述べたリィであるが、シェラとウォルには半分以上何の事か分からない。

 彼らは、特にウォルは、この世界に来てから日が浅い。まだまだ日常生活以上の単語、特に専門分野の単語にはついていくことが難しい。そして今は、その単語の意味を一々聞いていられない雰囲気である。

 そんな二人とは違い、おそらくリィの言葉の全てを理解しているであろうルウは、無表情のまま続けた。

 

「エディ、君の意見は正しい。じゃあ、こういう場合はどうだろう。例えば、陶磁器だ。これには時代の移ろいによって、あるいは技術革新によって、多種多様な品物がある。土器、陶器、炻器、磁器の大別のうちに、青磁に白磁、マヨリカやマイセンなど、細かく分けていけばきりがない」

「話の趣旨が見えないぞ、ルーファ。手短に頼む」

「これからだよエディ。で、だ。それだけ多くの種類がある陶磁器の中に、何故か二つしかない壺があるんだ。それはとても素晴らしい品で、同じ時代に作られたものなのは間違いない。でも、それが一体どうやって作ったものなのかは今となっては分からないし、再現することも出来ない。そもそもどういう体系の技術から生まれた品なのかすらも分からない、全く謎の品だ。それが、たった二つだけある。こういう場合、人はこの二つの壺のことを、なんて呼ぶだろうね?」

 

 ルウはそこで一旦話を区切り、自らの相棒の反応を確かめた。

 金色の髪を持つ少年は、その表情に一切の変化を見せることなく、ルウの前で佇んでいた。

 

「この例が分かりにくければ、こういうのはどうだろう。ここにさる名工の打った剣がある。しかしその名工の打った剣はほとんどが失われて、世界に残っているのはたった二本だけだ。でも、片方は長剣で、片方は短剣、一見すれば同じ種類の剣には到底思えない。それでも、その剣はやっぱり同じ人が打った剣なんだ。この場合、人はその二本の剣をなんて呼ぶ?」

「わかったよ、ルーファ。多分、夫婦とか兄弟とか、そういうふうに呼ぶんだろうな。勿論、その二つが正式に結婚したわけでもなければ、全く同じ材料から作られたわけでもない。似ている、あるいは同じ人間の手によって作られた、それだけの理由で、だ」

 

 リィは、降参というふうに手をあげた。

 その様子を見て、ルウは少しだけ微笑った。

 

「無茶苦茶な理屈なのは百も承知だよ。でもね、エディ。この子と君も、同じなんだ。この子は、間違いなく君と同じ生き物だったんだ。この世に、たった二人だけの、ね。だから、そこに血の繋がりがなくても、君たちは兄妹だったんだ」

 

 その言葉に、部屋に居た人間の全てが絶句した。

 ただ、ルウだけが、沈痛な面持ちで顔を伏せていた。

 

「エディ。僕は、君に気づくことができた。でも、この子には気づけなかった。それは、僕が君を捜し求めていたというのが一番大きな理由だけど、この子が君ほどに外れた力を持っていなかったからだ、というのもある。そうでなければ、僕じゃなくても、誰かが気付いていたはずなんだ」

 

 ルウの唇の端から、つうと赤い線が垂れ落ちた。

 ぎしり、と歯を噛み締める音が響く。誰か、この場にいるうちの誰かが、自らを呪い殺すほどの怒りと闘っていた。

 

「この子に出来たのは、精々重いものを持ち上げたり、馬と同じくらい速く走ったり、人より物覚えが早かったり、それくらいだったはずだ。もしかしたら鉄をねじ曲げるくらいは出来たかも知れないけど、そんなことは機械を使えば誰だって出来ることだ。それでも、普通の人間には十分過ぎるほどに脅威だったんだろう。だから彼女は、両親に捨てられた」

 

 ルウの視界には、まるで自分が見たことのようにこの少女が味わったであろう人生の一端が映り込んでいた。

 最初は、自分の子供の成長を本心から喜ぶ父親と母親。彼らにとって、他人の子よりも早く目を開けた愛らしい赤ん坊は自分達の誇りであり、正しく天使のように映っただろう。その子が自分達の間に生まれた幸運を噛み締めさえしたかも知れない。

 しかし、その子供が生まれて二週間で言葉を話し、母親に愛していると囁く。

 一月で歩き回り、やがて馬と同じような速度で走り回る。

 自分達の庇護が無くても獲物を捕まえ、知らぬ間に生え揃った乳歯でいとも容易く噛み砕く。

 難解とは呼べないにせよ、本を読み、算数の問題を解いていく。

 そこまで来て、自分の子供は天才だと喜べる脳天気な親がどれだけいるだろう。おそらく大半は、自らの血を分けた子供を恐れ、そしてこれから自分達はこの子供を育てていけるだろうかと悩むはずだ。それが当然の反応である。

 そして、そういう意味で、ウォルフィーナの父母は、一般的な人間だった。極めて常識的で、理知的で、模範的な人間だった。だから、自分達の手に余る事態は、自分達以外の専門家に相談することにしたのだ。

 それが、自分達の愛するわが子の幸福に繋がると、強く信じて。

 彼らは、ウォルフィーナを愛していなかったわけではない。むしろ、彼ら以外の夫婦が我が子に注ぎ込む以上の愛情を持っていた。だからこそ、彼らは自らの子供を手放したのだ。自分達のもとにいるよりも、この子には相応しい場所と相応しい教育があると、疑うことすら知らずに。

 

「なら、こいつは、ルーファに会うことの出来なかった、おれなのか」

 

 リィは、少なくとも外面には一切の動揺を見せずにそう言った。

 事ここに至っても、彼の神経のほとんどは、怒りに狂い始めている己の相棒を止めるために注がれている。そのせいで、それ以外の雑事を精神的にシャットアウトしているのだ。

 問題は、それが意図して行ったことなのか、それとも無意識に行ったことなのか、だろうか。

 そんな金色の戦士を前にして、ルウは首を横に振った。

 

「エディ、そんなことは考えちゃいけない。僕が君に気がつかなかったとしても、アーサーもマーガレットも、君を恐れながらも愛しただろう。君は、ことあるごとに傷つきながらも、それでも真っ直ぐに育っていたはずなんだ。間違っても、彼らは君を手放したりしなかった。それだけは絶対だ。あの二人は、そういうことが出来る人間じゃあない。ただ、この子は、そういう幸福に恵まれなかった。この子の両親は、きっと標準的な人間だった。だから、誰かがこの子は人間じゃあないことに気がついてあげないといけなかったんだ。それなのに…」

 

 誰も気付いてやることが出来なかった。

 いや、それは正確ではない。

 少女が人間ではないことに、確かに気がついた者はいた。問題は、それが少女にとって、幸福をもたらす存在ではなかったという点だ。

 結局少女は研究所の薄暗い一室でその一生を終え、たったの一度もエドナという本名で呼ばれることはなかった。それどころか、苦痛と屈辱と、もう一つ以外の、如何なるものも与えられることも無く、その手は最後まで誰に握りしめられることもなかった。

 無惨な、語弊を恐れずに言うならば、無惨な生であった。

 そして、少女に与えられた、もう一つのもの。

 それは、狼女(ウォルフィーナ)という、呪わしい名前であった。

 

「きっと、王様の魂が宿る前、この子の髪の毛は輝くような金色で、瞳は宝石みたいな碧色だったはずだ」

 

 ルウは、一握りの疑いもなくそう言った。

 その生き物は、そういう外見であるべきで、そしてそれは完全な事実であった。

 しかし、無情な声がそれを否定した。

 

「ラヴィー殿。生憎だが、俺が見た少女の髪は新雪のような白だったぞ」

 

 ルウの蒼い瞳が、驚愕に開かれる。

 

「…そんな…うそだ…」

「嘘ではない。そして瞳も、辛うじて色素を残したような弱々しい茶色だったぞ」

 

 ルウは狼狽というより、ほとんど恐怖に近い表情を浮かべて後退った。

 そして、絶望の吐息と共に天を仰いだ。

 

「あぁ…」

 

 天井を向いたそのなめらかな頬を、一粒の水滴が伝った。

 

「酷すぎる。一体何をどうやったら、あの輝きが抜け落ちてしまうんだろう。想像も付かない。そんなの、絶対に許せない。断じて、許しておいちゃいけない」

「あなたの言うとおりだ、ラヴィー殿。しかし復讐は、誰よりもこの子が望んでいない」

 

 ルウは、濡れた瞳にほとんど殺気に近い敵意を込めて、発言者を射貫いた。

 ウォルは、後退りしそうになる体を、丹田に力を込めることで強引にその場に繋いだ。

 こめかみを伝う冷や汗をそのままに、内心で思った。全く、これならば飢えた獅子の前に素手で放り出されたあのときの方が、幾分生きた心地がした、と。

 実際、ウォルがこれほどの圧迫感を感じたのは、彼女の行為によって怒り狂った王妃を目の前にした、あの時以来であった。

 

「ねぇ、王様。一つ聞いてもいい?」

 

 魔王の要求を、一体誰が退けることが出来るだろう。

 

「……ああ、存分に」

「あなたは、一体どんな権利があって、この子が復讐なんて望んでいないと、言い切ることができるのかな?」

 

 表情こそにこやかな黒い天使は、その蒼い瞳の奥に、同じように青く輝く炎を滾らせながら、そう問うた。

 その怒りが自分に向けられたものではないと知っていても、しかしウォルはたじろいだ。たじろがざるを得なかった。それほどに純粋な害意だった。

 しかし、だからといってここで自分が引いていいはずがなかった。ここだけは、自分が受け持たなければならない、守護しなければならない要衝である。ここが落ちれば、あとは無惨な敗北が待ち受けているだろうことを、現世における軍神と呼ばれた少女は理解していた。

 

「おい、ルーファ。お前、自分でどれだけ理不尽なことを言っているか、分かっているのか?」

「僕は、当然のことを言っているだけだ」

「なら、さっきも言ったが、そもそもお前がその子の復讐を肩代わりする権利はどこに求めるつもりだ?もしその子がおれの妹だったとして、それがお前の正当な復讐の根拠になるのか?」

「エディ、僕もさっき言ったはずだよ。これは意趣返し、もしくは単なる八つ当たりだって。それに、君は自分の妹がこんな目に遭わされて、怒りを感じないの?悔しくないの?」

 

 立ったままの二人の瞳の間に、不可視の火花が飛び散る。

 リィの腕が、そしてルウの腕が、少しずつ持ち上がり始めた。これは、この二匹の獣が、戦いを始める準備のようなものだ。

 いけない。この二人を争わせるわけにはいかない。そう思ったシェラは、思わず飛び出していた。そのまま何をするつもりだったのかは分からないが、とにかく黙って見ていていいはずがなかった。

 しかし、シェラの細い肩を、それよりもさらに細い手の平が押しとどめた。

 シェラが振り返ったそこには、万軍を前にして少しも怯まぬ、王がいた。人の形をした獅子のみがもつ、黒い瞳があった。

 

「ラヴィー殿」

 

 交差する二人の視線、その交差点にしなやかな肢体を躍り込ませた、一人の少女。

 自分の前にいるのは、完全武装の重装騎兵一万騎よりも遙かに恐ろしい相手だと言うことは重々承知している。

 それでも少女は、二本の足で確と相対した。

 

「どいて、王様。ここは君の出る幕じゃあないよ。引っ込んでて」

「そうだぞ、ウォル。今のルーファを相手にするのは、いくらお前でも分が悪い。そんななよついた腕じゃあ尚更だ。怪我をしたくなければ下がっていろ」

「誰を相手に口を利いている、リィ。俺は、バルドウの娘の夫だ。お前はそんなことも忘れてしまうほど、たった一年に満ちぬ時間で耄碌したのか」

「ウォル……」

 

 少女の小さな背中は、まるでそこに根を生やした大樹のように動かなかった。

 リィはそこに、ただ一人、自分を守るために敵に胸を晒し、己に背を預けた男の影を、確かに見た。

 一つの国と、そこに住む全ての人達の重さを担いで、少しも揺らぐことのなかった背中。まさか、それを再び見ることが出来るとは思わなかった。

 リィは、万感の想いを込めてその肩を一度叩き、それから深々とソファに腰掛けた。

 この喧嘩は預けたぞと、そういう意思表示であった。

 

「すまん」

「謝るな。骨は拾ってやるさ」

「縁起でもないな。忘れたか、俺は一度お前に勝っているのだぞ」

「そうだな、一週間ものも食わずに、丸一日以上眠りこけて目が覚めたばかりのおれに、ボロ雑巾みたいにされてたな。でも一言断っとくが、素手なら確実におれよりルーファの方が強い。前にも言ったが、あいつは片手で人の首を握りつぶす。忘れるなよ」

「それはぞっとせんな」

 

 ぞっとした様子もなく、少女は朗らかにそう返した。

 しかし、その程度のことで目の前の脅威が消え失せるはずもなく。

 そこには、不吉な紅色のくちびるを、くいと持ち上げて嗤う、黒い天使がいた。

 

「お話は終わり?」

「ああ、終わりだ。そして、この不毛な争いもな」

 

 少女は、無造作に一歩を踏み出した。

 一切の構えを取らず、仲の良い友人を迎えるような、何気ない足取りだ。

 とても、今から決死の戦いをしようという様子には思えず、そしてそんな気配もない。

 ただ、無造作に歩いていた。

 それを見て、ルウは唸った。唸り声を上げて、威嚇した。

 本物の獅子であっても飛んで逃げだすであろうその声に、しかし少女のかたちをした獅子は怯む様子すらない。

 相変わらず、気さくに歩いてくる。

 ルウは、後退った。何故自分が後退らなければいけないのか、それすら分からぬままに後退った。

 やがて、彼は理解した。何故、自分の足が勝手に動いているのか。

 恐怖、していたのだ。

 無論、目の前の、華奢な少女に。花柄の、白いワンピースを着飾った、弱々しい命に。

 自分が、例え中身が何であろうと、このような少女に、いや、そもそも人間にここまで気圧されるなど、考えられることではなかった。

 それでも、彼の足は勝手に、少女の歩みとほぼ同じ速度で後退っていた。

 呼吸が浅く速くなり、汗が自分の意志ではなく流れ落ちる。

 彼は狼狽していた。無論彼とて生き物であるから、生命の危機には緊張も恐怖もする。しかし、このように弱々しい存在に恐怖を覚えるなど、あり得べき事ではなかった。

 やがて、ルウの背中を何かが叩いた。

 部屋の壁であった。

 

「――こないで」

「何を怯えている、ラヴィー殿。あなたならば、痛みを感じさせる暇もなく俺を屠り去ることが出来るだろうに」

 

 明らかな恐怖の視線で少女を見ながら、蒼い瞳の青年は怯えていた。

 これが先ほどの悪鬼羅刹が如き気配を放っていた黒の天使とは、同じ人物には思えなかった。反対に、少女はまるで水を得た魚だ。その背中から、狼煙のような気魄が昇り立っている。

 これでは、一体どちらが人間で、どちらがバケモノか分からない。

 リィは、内心で自分の配偶者に対して畏敬の念を捧げていた。

 そして、ルウは、部屋の四隅に、完全に追い詰められた。

 

「こないで……」

「そういうわけにもいかん。俺と卿は、ただ今喧嘩の真っ最中なのだ」

 

 少女は微笑みながら、更にもう一歩踏み出した。

 ルウは、その少女が怖かった。何故怖いのか分からない。

 その、どこまでも深い漆黒の瞳も怖かったし、ちっとも感情を読み取れない微笑みも怖かったし、自分を恐れずに前のみを歩くその足も怖かった。

 結局、少女の存在そのものが怖かった。

 だから、彼は当然の行動を取った。

 

「こないでっ!」

 

 闇夜に怯えた幼児のように、腕を振り回す。

 それは怒りにまかせた、というよりも恐怖に身を委ねた、発作的な行動だった。

 しかし、その速度と威力は、当然のことながら幼児のそれではない。

 躱し損ねたウォルは、ルウの細腕にはじき飛ばされ、部屋の端から端まで、文字通りに吹き飛ばされた。少女の軽々しい体が宙を舞い、そのまま反対側の壁に叩き付けられた。

 凄い音が、ドレステッド・ホールの百を超える全ての部屋に響き渡った。

 階下で、誰かが慌てて部屋を飛び出し、そのまま階段を駆け上ってくる音が聞こえた。

 部屋のドアが、けたたましく打ち鳴らされ、外から予想通りの声が聞こえた。

 

『おい、エドワード!今の音は何だ!?』

 

 聞き馴染みのある生物学上の父親の声に、相変わらず悠々とソファに腰掛けたリィは、悠然とした声で答えた。

 

「すまない、転んだ」

 

 あまりに冷ややかな声に、かえって激昂したようすのアーサーがなおも叫ぶ。

 

『馬鹿を言うな、今のが転んだ音だと!?この部屋には象かシロクマでもいるというのか!?』

「ああ、そういうことで構わない。だから、入ってくるな。もしも入ってきたら、おれは永遠にお前を許さないぞ」

 

 扉の向こうから、ぐっと言葉を詰まらせた気配が伝わってきた。

 数瞬空隙があって、絞り出すような声が聞こえた。

 

『……エドワード。僕はお前を信頼していいんだな?』

「おれをエドワードと呼ぶな。それとアーサー、お前は自分の息子を信じることが出来ないのか?」

『僕の息子だっていう自覚があるなら、もっと息子らしくしろ!』

 

 大爆発したが、それもいつものことである。

 こんなこと、リィにすれば軽いスキンシップよりもさらに軽い挨拶のようなものなのだが、その度にアーサーは期待通りの反応を返してくれるから、つい意地悪く繰り返してしまう。

 しかしこの場合はそれが功を奏したのだろう、いつもと全く変わらない様子のリィに、アーサーは安堵の吐息を漏らしてしまった。

 

『……あとで、事情は話してもらうぞ、エドワード』

「ああ、必ずだ。約束するよ、アーサー」

『約束だ。それと、僕のことはお父さんと呼べ』

 

 捨て台詞と呼ぶにはあまりに微笑ましい台詞を残し、アーサー・ウィルフレッド・ヴァレンタインは階下に姿を消した。

 

「すまんな、リィ。恩に着る」

 

 ようやく体を起こしたウォルが、口の端に滲んだ血を拭い取りながら言った。

 

「ふん。さっさと片を付けろ、ウォル。それとも、交代するか?」

「無用の心配だ。自慢ではないがな、この体はこの程度ではない一撃を喰らってもきちんと生きていたのだ。流石にぴんぴんしているとは言えなかったがな」

「へぇ?」

 

 リィは軽い驚きの声を上げた。

 

「なんだ、お前、早速車に轢かれたのか?それとも、まさか本当に象やシロクマと喧嘩でもやらかしたのか?」

「まぁ、そんなところだ」

 

 リィのその予想は、ある意味で的を射ていた。身長221㎝体重200㎏の巨漢は、正しく象かシロクマかという程に大きく見えるのだから。

 そこまで考えてウォルの頬は苦笑のかたちに歪んだが、それ以上何も言わなかった。何も言わず、先ほどと同じようにゆっくりと歩を進め、先ほどと同じ場所――部屋の隅でがたがたと震えるルウのところまで歩いて行く。

 足取りは、流石に重たい。重たいだけでなく、左足をひょこひょこと跳ねさせるように歩いている。おそらく、先ほどのルウの一撃を食らい壁に叩き付けられた時、捻ったか、それとも骨折でもしただろう。

 それでもウォルは、微笑っていた。微笑いながら、そんな痛みなどなんでもないというふうに、歩いていた。

 やがて、先ほどと同じ場所に、少女は立っていた。さっきと違うことがあるとすれば、それは彼女の前のいる青年が、母親の折檻に怯える幼子のように蹲ってしまっているということくらいだろうか。

 

「ラヴィー殿……」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

「ラヴィー殿!」

 

 強い口調に、青年はびくりと体を震わした。

 少女は、膝を屈めて、蹲った青年と視線を同じ高さにする。

 涙を滲ませた青い瞳と、朗らかに微笑った黒い瞳が、口づけするような至近にある。二人は、自身の瞳が、互いの瞳に映り込んでいるのを見た。

 そのまま少女は、青年のほっそりとした手を取った。

 

「断っておくがな、ラヴィー殿。誰よりも復讐を欲しているのは、俺だ。それだけは卿にだって譲ることは出来ん」

 

 ルウは、怯えた視線で、異世界の王を見上げた。

 

「しかし、先ほども言ったとおり、誰よりもこの少女こそが復讐を望んでいない。だから、俺は怒りに身を委ねることも出来ん。ならば、怒りに身を焦がすことすら許されぬ俺の無念、卿なら分かってくれよう」

 

 ウォルは、今にも誰かの血を求めて走り出しそうな拳を、ぎゅっと握り込んだ。

 被害者が望むならば、暴力は正当な報復たり得る。そのために、彼女は如何なる非道も厭わないだろう。

 しかし、誰よりも傷ついたはずの少女が全てを許しているのならば、報復は彼女の名誉と誇りを再び傷つけるだけに終わるだろう。それは、誰しもが望むところではなかった。

 ウォルの肺腑から、深い深い吐息が吐き出された。その中には、怒りと無念の成分が、色濃く含まれていた。

 

「そんなこと言われても……」

「そうだ。人の心など、誰にもわかりはしない。俺だって、ひょっとしたら勘違いをしているかも知れない。この少女は、今だって贄の血に飢えているかも知れない」

 

 だから、と少女は言い、青年の手の平を、己の柔い左胸に押し当てた。

 

「あなたが判断して欲しい」

 

 青年は、呆気にとられた表情で、目の前の少女の黒い瞳を見つめていた。

 

「あなたが、この子の体に聞いてくれ。果たして、本当に復讐を求めていないのか。このまま、世界が彼女のことを忘れてしまっていいのか。それとも、彼女の苦痛を知ることもなく安穏と過ごした全ての人間に、彼女の存在が忘れがたいものとなるほどに凄惨な報復を望んでいるのか。俺としては、後者であって欲しい気もするがな」

 

 ならば、ウォルフィーナの復讐をするための大義名分が揃うというものだ。

 ウォルは、そう言って魅力的な笑みを浮かべた。

 信じられないものを見たような顔のルウは、おずおずと手の平に意識を集中させ、そこから伝わる少女の鼓動に、少女の体温に、少女の身体に残った少女の魂の残滓に問いかけた。

 君は、一体何を望んでいるの、と。

 しばらくの間、ルウはそのまま、少女の胸に手を当てていた。ウォルは、身動ぎもせずにその様子を見守っていた。それは、リィも、そしてシェラも。

 どれほど時間が流れたのだろうか。

 やがて、閉じられたままのルウの瞳から、透明な雫が流れ落ちた。

 そして、ぽつりと呟いた。

  

「僕は……大馬鹿だ」

「……この子は、何を求めていた?」

 

 ウォルが問いかける。

 ルウは、首を横に振った。

 

「……何も」

「何も、答えてくれない、か?」

 

 ルウは、再び首を横に振った。

 

「この子は、何も求めていない。復讐も、誰かが自分のために傷つくのも、誰かが自分のために怒ることさえも」

「……そうか」

 

 それは、だいたい予想した通りの答えだったから、ウォルはちっとも驚かなかった。

 しかし、だいぶ無念であった。彼女が誰よりもウォルフィーナの復讐を望んでいるという言葉、少なくともそこには一切の偽りはなかったから。

 そんな少女の両頬に、暖かい何かが添えられた。

 

「ごめんねぇ……」

 

 ルウの大きな瞳から、大粒の涙が流れた。

 ぼろぼろと流れた。

 少女の前でひざまずき、その薔薇色の頬を両手で挟み、正面からその漆黒の瞳を覗き込んで。

 ルウは、泣いていた。

 

「つらかったねぇ……」

「そうだな。いつも、この子は助けを求めていた。だが…」

「……だが?」

「それ以上に、友達が、仲間が欲しかったのだ。この少女には、その程度の、そんな当たり前のものすら与えられなかったのだ」

 

 ぎしり、と歯が軋む音が聞こえた。

 そしてその声は、恐ろしく低い、地の底から這い出るような声だった。

 それを紡いだウォルの黒い瞳が、明確すぎるほどに明確な怒りに、紅く燃え盛っていた。

 ルウは、まるで自身の罪に怯えるような有様で、深く深く頭を垂れた。

 

「ごめんね。ほんとうに、ごめん。きづいてあげられなくてごめんなさい」

「ラヴィー殿のせいではない」

「うん、知ってる。でも、ごめん。ゆるしてなんて……いえないよ」

 

 ルウは、少女の身体を抱きしめた。

 ウォルは、ルウが抱き締めているのが、自分以外の誰かだということを理解していた。

 

「そうか。ならば――俺が、謝っておこう。いずれ、一度くらいは会うこともあるだろうから」

「……うん。ありがとう、王様。それと、一つ聞いても、いい?」

 

 ルウは少女の体を離し、そして再び正面からその顔を覗き込むようにして、言った。

 

「この子の魂は、なんでそんな辺鄙なところにいるんだろう?」

 

 その言葉には、この世界に戻ってきてくれさえすれば自分がその少女を救ってみせるのにというルウなりの自信と、それと同じ分量の無念があった。

 ウォルは、首を横に振った。ウォルがウォルフィーナと顔を合わせたのはただの一度だけだったし、彼には他人の考えることを読み取る能力も、そんな趣味もなかった。

 結局、こう言うしかなかった。

 

「わからん。何故彼女があんな場所にいて、あんなことをしているのか。それはちっとも分からん。しかし彼女は、今の自分の有り様に納得していたはずだ。だから、それに対して我らがどうこう論評するのは、彼女に対する侮辱だと、俺は思う」

「……賢い王様。それは、きっと非の打ち所のない、正しい意見だよ。でもね、誰しもがあなた程には強くないことを知っていてね」

「ああ、すまない」

 

 少女は、素直に頭を下げた。もう、そうするしか仕方がないとか、そういう投げ遣りな気持が少しだけ含まれていた。

 

「なぁ、ラヴィー殿。折り入ってあなたにお願いがある」

「お願い?」

 

 ウォルは立ち上がり、埃で汚れてしまったワンピースの裾を叩いてから、目の前で座り込んだ青年に気安く手を差し伸べた。

 ルウは、その小さな手の平を掴み、そして自分も立ち上がった。

 

「その少女の魂は、今さら復讐なんて望んでいなかった……と、思う。ただ、願っていたよ。だから、それを叶えるために力を貸して欲しい」

「……その子は、何を望んでいたの?」

 

 涙に濡れた瞳で、青年は問い返した。

 ウォルは、確固たる声で、言った。

 

「この体に、人並みの幸せを」

 

 その場にいた誰しもが一様に息を飲み、細く細く吐き出した。まるで、冷たい鉛の塊を吐き出したような、重たくてどんよりとした、息だった。

 誰も、何も話さなかった。話せなかった。

 やがて、許しを乞うようにおそるおそるとした声が、青年の唇の隙間から漏れだした。

 

「……なんて、重たい言葉だ」

「俺も、そう思う」

「絶対に、どんな手段を使っても、叶えてあげなくちゃいけない」

「俺も、そう思う」

 

 もう、自分はいない。自分はこの世界の住人たる資格を失った。

 それでも、この体だけは。この体だけは、幸せになって欲しい。

 一体、どのような境地がその言葉を可能にするのか。何が、人の感情をそこまで空虚に、そして優しくできるのか。

 ルウは、何も話さなかった。人以外の生き物である彼は、無限とも呼べる生を歩む自分にはきっとそれを口にする資格が無いと思ったのだ。

 言葉にはせず、ただ、その優美な容姿に如何にも相応しい無垢な微笑みを浮かべ、涙を拭いながら別のことを言った。

 

「それは大変だ。本当に大変だ。おうさま、責任重大だよ?」

「ああ。いつもいつも重たすぎる責任を背負ってきたが、今度のは極めつけだ。俺一人ではどうにもならん。卿らにも協力を請いたい」

 

 ルウはしゃべらなかった。それは、リィも、シェラも同じく。

 三人の天使が、何もしゃべらずに、ただ微笑みを浮かべていた。その光景には、例え幾億の契約書を連ねても到底届かない、暖かな安心があった。

 おれに任せろ、僕に任せて、私に任せてください、と。

 三対の色の異なる瞳が、それぞれの信念をその光に込めながら、確と頷いた。

 天に輝くものを凝り固めたようなそれを真正面から受け止めて、四色目の黒い瞳が、確と頷いた。口元に鷹揚な微笑を湛えながら。

 三人は、黒髪の少女の内に宿った魂を見つめながら、誰にも顧みられず救いようのない死を賜った不遇の少女の体に、ささやかな幸福が訪れることを確信した。

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