懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
セム大学の403小講義室は、40人ほどで満席になる程度の小さな講義室だった。
大講義室が、数百人、下手をすれば千人単位で聴講が可能なのと比べると、どれだけコンパクトかが分かるだろう。こういった講義室は、ゼミや語学など、ある程度講師と学生の距離が近い種類の講義で使用されるのが一般的である。もしくは、講義数がそれほど望めない、比較的マイナーな講義に使用されることもある。今回の講義については、どちらかというと後者なのだろう。
まず、講義内容が宗教学ということで、神学校でもないセム大学の中ではマイナーなジャンルの講義といってよい。聴講を希望する学生の数も、それほどでもないのだと予想できた。
ウォルとペギー・メイは、慣れない様子で講義室に入り、ぐるりと見回す。前の方の席はほとんど埋まっているが、後ろの方はまだちらほらと空きがあるようだ。
事前に、席に決まりがないことを知っていたので、二人は講義室後ろの空いているテーブルに腰掛けた。
「ごめんねフィナ、私の講義に付き合ってもらっちゃって」
周りに聞こえない程度の小声で、そして申し訳なさそうに言うペギー・メイに、ウォルは笑って返す。
「いやいや、これは本当におれも興味があって選んだ講義なのだ。そのような気遣いは無用というものだぞ」
「そう?ならいいんだけど……」
二人がそんな会話をしていると、講義開始の時間となり、小講義室の前方のドアが開かれた。
姿を見せたのは、年の頃三十代も入りたてだろうか、まだ若く見える、そして柔和な顔立ちの男性だった。
ホームぺージに記載があった講義の紹介文から考えるに、神学部の助教授だという、この講義の講師なのだろう。
その男は、講義室に居並んだ学生の顔を見回し、ウォルとペギー・メイのところで視線を止めた。
「ああ、君達が、今日からこの講義に参加してくれる学生さんですね。はじめまして。私はジェラルド・ベル。この講義の担当をしています。よろしくお願いします」
ウォルとペギー・メイは立ち上がり、頭を下げた。自己紹介を返すのが本来の礼儀だが、ベル助教授の表情からそこまでを求めているふうではなかったから、二人はそのまま席に腰掛けた。
その様子を見て、ベルが頷く。
「まず、この講義の目的は、この世界での宗教や神話の成り立ちを知ることで、社会における宗教の役割や文化の持つ意味について理解を深めることです。そして、理解の仕方は人それぞれであり、その理解度を、形式的な試験で測る予定はありません。つまり、この講義における単位取得のための試験はありません。そして、これは私の性分なのですが、一々出欠を講義の前後に確認するのは時間の無駄だとも思っています。講義は、自動的に全員出席扱いです。もし講義内容に興味がない、もしくは嫌々この講義を聴いているなら、単位のことは心配しなくても取得できますから、次回から出席する必要はありません」
軽妙な口調とともに、にこやかにそう言い切った。
ウォルとペギー・メイは流石に唖然とした。単位とは、その講義を理解したという証として付与されるもので、試験も出席もなく付与される単位というものに、二人は馴染みがなかったのだ。
しかし、周りの学生を見ると、ベル助教授の言葉に苦笑いを浮かべている学生こそいるものの、ウォル達のように驚いた者はいないようだ。つまり、先ほどベル助教授が言ったことは、他の学生にとっては周知の事実だと言うことだろう。
大学の授業ともなれば、中等部とは違い講義にかなりの自由度が認められ、また、講義によって取得難易度が違うのだとは聞いていたが、まさか出席すらせずに認められる単位があるとは、中等部生のウォルには衝撃だった。
「その代わり、出席する以上は、私の講義の拙いところはお詫びしますが、どうか講義内容に集中していただきたい。決しておしゃべりや内職などはされないよう、切に願うところです。よろしいですか?」
ウォルとペギー・メイは頷いた。
その二人に、ベル助教授は微笑みとともに頷き返す。
「では、今日から受講される方がおられますので、まずは前回までの講義のおさらいから入りましょう。この講義のテーマは、世界各地の宗教、神話に、太陽、月、そして闇が与えた影響についてです。前回までは、太陽と月が与えた、それぞれの影響についてでした」
ベル助教授は、講義室全面のホワイトボードにさらさらと書き込みを入れていく。
「まず、太陽。これは、世界的に見ると、女性神であるケースも見られますが、主には男性神と表されるケースが多い。その理由としては、太陽は権威や支配者と結びつけられることが多いことと、太陽神の対となる月神は、月経等の影響から女性神として表されるケースが多いため、太陽神は男性とされることが多かったようです。太陽神が支配者の権威と強く結びつくのは各地の神話や国造り譚を読み解けば明らかです。それは、日照時間が農作物に与える影響が、古代から知られていたため、人々の生活を直接支える太陽こそ、王権の象徴とされていたからでしょう」
なるほど、ウォルは自身の国であったデルフィニアの神話を思い浮かべる。
デルフィニアの国教は、神話に基づいた多神教であったが、最高神は太陽を司っていたし、国王はその化身として支配権を代行していたのだ。そういう意味では、先ほどの説明における多数例に当てはまっていたのだろう。
ベル助教授は振り返り、
「新しく来ていただいた方には、前回までのレジュメを後で配布します。そこに、各地の神話における太陽の影響など、細かな話は記載しておりますので、興味があれば後でご一読ください」
ウォルは、今まで宗教というものにほとんど興味がなかったのだし、関わりがあるとすれば、戦争の勝利を祈って闘神バルドウに供物を奉納したり、契約の神であるオーリゴ神の前で儀式を行ったりする程度であった。
宗教は坊主が、政治は国王がするものというのがウォルの認識であり、互いが互いの領分に口を出し合うのは、統治の綻びの蟻の一穴であると彼女は信じていたのだ。
「では、月と神話の結びつきはというと、これは太陽ほどに神話に統一性はありません。しかし、先ほど申し上げた通り月経との関連性から女性神とされることが多く、満ち欠けを繰り返すその有り様から死と再生の象徴とされ、また太陽と対比される有り様から太陽神とは夫婦関係を持つことが多いようです。詳しくは、こちらも後ほどレジュメをご覧ください」
ベル助教授はホワイトボードに、本日の講義のタイトルらしき文章を書きなぐった。
そこには、『母なる闇と大地』と書かれていた。
「太陽神と月神の概念は、多神教の中でも天空神を崇めた民族で発展した概念です。これに対して、原始アミニズムにおいては、大地、つまり地母神に対する信仰が盛んでした。母なる大地とはよく言う表現ですが、彼らにとって、大地のもたらす恵みとは正しく母からの恩恵そのものであり、それは十分に信仰に値したのです」
ベル助教授は自身の講義の内容をかいつまんでホワイトボードに板書していく。
普通の講義ならその板書を、学生達は一文字も書き漏らすまいとノートに書き写すのだが、この講義に出席している学生は、どちらかと言うとベル助教授の話のほうに集中しており、ノートへの筆記は備忘録程度だ。
おそらく、単位取得のためのテストがないことが影響しているのだろう。
ウォルも、その流儀にならった。あちらの世界では、自分達の考える神と神話こそ絶対と思っていただけに、それらを俯瞰して考えることが出来るのは中々新鮮な体験だった。
「ここで質問です。天使は果たして肉食か、それとも草食か。どちらでしょうか」
ベル助教授がにっこりと微笑みながら学生にそう訊いた。
ウォルは、天使と言われて思いついたイメージ──黄金の輪を頭の上に浮かべ、白いローブを羽織り、真白い羽根を生やし、絶えず穏やかな微笑みを浮かべた少年少女達──からは、到底、肉にかぶりつき咀嚼している光景を思い浮かべることは出来なかった。
それよりは、りんごやぶどうなどを上品に齧っている様子のほうが余程しっくりくる。
当然、天使の生態など誰も知りようがないのだが、あえて言うならば後者だろうかとウォルは思った。
「では、肉食だと思う方は挙手を」
二、三人程度の学生が挙手する。ということは、大半はウォルと同じようなイメージで、草食だと考えたということだろうか。
ベル助教授は楽しそうに、挙手した学生のうちの一人を手で指し、
「では、そこの貴方。どうして天使は肉食だと思いましたか?」
当てられた学生はその場で立ち上がり、
「天使は、人間と同じく神の創り給うた似姿です。そして、人は肉だけで生きていくことはできますが、野菜や果実だけで生きていくことはできません。その事実は、過去の極端なヴィーガニズムが証明しているところです。故に、天使も、どちらかと言えば肉食に属するのではないか、そう判断しました」
学生は自身の判断根拠を堂々と語り、席についた。
ベル助教授は頷き、
「ありがとうございました。たいへん分かりやすく、根拠のある理屈です。では、今度は、天使が草食だと思われる方は挙手を願います」
すると次は、ウォルやペギー・メイを含めた、全体の半数程度の学生が手を挙げた。
肉食にも草食にも挙手しなかった学生は、どちらでもないと思ったのか、それともこの質問を馬鹿らしいと思い興味を覚えなかったのか、どちらかだろう。
ベル助教授はそれを咎めるわけでもなく、今度は草食に挙手した学生の一人を手で指し、
「では、そこの貴方。どうして天使は草食だと思いましたか?」
当てられた学生は、少し恥ずかしそうに立ち上がり、
「少なくとも、今まで私が見たことのある天使画で、血の滴るステーキに嬉しそうにナイフを入れている天使を見たことがありません。天使というものの一般的なイメージから自然に導き出すなら、天使は草食ではないかと思いました」
やはり恥ずかしそうに腰掛けた学生に対して、ベル助教授は優しげに微笑む。
「ありがとうございました。これもまた、仰るとおりかと思います」
そして、ホワイトボードに、中世の天使画をプリントアウトしたと思しきものを張り出した。
次に講義室全体を見回し、
「天使というものが実際に存在してくれていれば正解を答えるも容易いのですが、それは無理な話ですから、我々は状況証拠から少しでも可能性の高い推論を導き出すほかありません。そして、この講義における正解は、前者、つまり肉食です」
ベル助教授は、ホワイトボードに張り出された天使画の、天使の羽根の辺りを指差した。
「翼とは、本来、鳥のみが持つ器官です。そして、翼の形状と大きさは鳥の生息環境および習性によって異なり,一般に丸翼,細翼,長翼,広翼の4型に分類されます。詳細については割愛しますが、丸翼はハトやスズメに代表される小型の鳥の翼の形状、細翼はツバメに代表される長距離の渡りをする鳥の翼の形状、長翼はアホウドリに代表される海上を滑翔する鳥の翼の形状、そして広翼はタカ,ワシ,フクロウなどの猛禽に代表される鳥の翼の形状です。そして、天使画に描かれる天使の翼は、このように、広翼として描かれていることがほとんどです。もしも彼らが草食、木の実などを中心とした食生活なら、丸翼をつけるのが相当であり、わざわざ広翼としているということは、つまり、彼らはタカと同じように肉食と考えるのが相当なわけですね。どうでしょう、些か短絡的でしたかね?」
ベル教授は、持論の不備を詫びるように、恥ずかし気に頭を掻く。周りから、くすくすと忍び笑いが起こる。
気を取り直したように、講義は続く。
「実のところを言えば、鳥の翼の中で一番豪奢で見栄えがするのが広翼ですから、画家がこれを好んだという理由もあるでしょう。しかし、宗教学的に言うと、これは中々興味深い現象であるのも事実です。天使というのは、一般的なイメージからすれば神の恩寵を人に伝えるもの、人を救い導くものの側面が強いのですが、多くの教典ではそのような描かれ方はしていません。むしろ、神の教えに背く人を罰し地獄へと追いやる、厳格な裁定者としての側面が強い。つまり、優しさよりも厳しさを体現した天使の持つ翼として、猛禽類の翼が選ばれたのは道理にかなった選択肢と言えるでしょう」
そんなものか、とウォルは思う。
確かに、天使のようなと形容される少年である、リィやシェラに、鳩やすずめと同じような愛らしい翼はなぜか似合わない気がする。彼らには、身体を覆いつくして余りあるほど大きな、そして鋭い翼が似合いだろう。
「そして、宗教史的に考えるなら、興味深い事実が見えてきます。異なる価値観の宗教を崇める異民族同士は、時に戦い、相手方を滅し、あるいは取り込み、それぞれに発展を遂げてきました。ある宗教で悪魔とされる存在の名前を遡れば、滅ぼされた土着宗教の神々であったというのは珍しい話ではありません。例えば、とある宗教において地獄の大公爵とされた悪魔アスタロトが、他宗教において豊穣多産を司る地母神であったアシュトレトを起源とするのはその顕著な例でしょう。その観点で天使の翼の持つ意味を考えたとき、これは天空に属する天使、即ち天を司る神の持つ、地母神を含んだ地上の存在への征服と優越を表すことになるのです」
つまり、天は神のまします御座、地はその他大勢の属する場所ということになるということか。そして、征服された神々も、もはやその他大勢と変わるところはない。
その寒々とした光景に、ウォルは、何故か一抹の侘しさを覚えた。
「原始アニミズム、特にスネークカルトと呼ばれる文明において、多くの場合、蛇が豊穣と大地のシンボルとされてきました。その理由は、主に3つです。一つは、蛇が不老不死を象徴しているからです。脱皮を繰り返して成長していく蛇ですが、古代の人はその様子を見て、死から新たな生を得たように思えたわけですね。蛇が己の尾を飲み込んだ意匠、ウロボロスが無限を表すのもそのためです」
ベル助教授は、ホワイトボードに拙いその意匠を描く。
蛇とミミズの中間のようなその絵に、くすくすと忍び笑いが起こるが、ベル助教授はさして気分を害したふうではなく講義を続ける。
「次に、地を這う蛇の有様です。人は、2つの足で地を歩く。獣は、4つの脚で地を駆ける。それに対して、全身を使って地を這う蛇の様子は、古代人にとって奇異に映ったことでしょう。常に全身を地に接して生きるその有り様は、空に生きる鳥などと比較して、地に属するもの、地を守護するものとしての性質を持たせることとなったのです」
確かに、世界を天と地の二元論的に考えた場合、鳥を天に属する存在と考えれば、その対極に位置することになるのは一番地面に近い場所を生きる、蛇ということになるのかもしれない。
「最後に、穀物を小動物から守る、守護者としての役割です。人が農業を営み始めて以来、ネズミをはじめとする小動物は、常にその備蓄を脅かす外敵でありつづけました。その点、ネズミを主食とする蛇の存在は、古代人からすれば自分たちの命と言っても過言ではない糧食を守ってくれる、神に等しい存在だったわけです。この点を表した寓話として、ハーメルンの笛吹き男が有名ですね。昔、ネズミの害に悩まされていた町がその駆除のため、多額の報酬を約束して笛でネズミを操る男を雇うのですが、彼が仕事を終えた後で、報酬を支払うのが惜しくなった町の人間は約束を反故にし、怒った笛吹き男は、結果として町の子供たち全員を笛で操り何処かへと連れ去ってしまう。これを先ほどの宗教史的な観点で見れば、己の庇護に対する恩義を忘れた人間に対して反撃を加えた蛇、つまりは地母神等に代表される、忘れられた神々の復讐譚となるわけです」
なるほど、とウォルは思う。
確かに、今まで身を挺して守ってきた庇護者たちが、守護者である自分の存在を忘れぞんざいな扱いを始めれば、反撃の一つもくわえたくなるのが人情というものだろう。
それが、町一つの子供となれば少しやりすぎな気はするが。
「大地を具現化する神が一般的に地母神、つまり女神であるように、生命をはぐくむ女性も、よく大地と結びつけられて考えられます。よって同じ大地を司る者として、蛇と女性も関連づけて表されることが多い。例えば、有名な妖精メリュジーヌは、子孫繁栄をもたらす豊穣の妖精ですが、その半身は蛇となっています。つまり、大地、蛇、地母神という3つの要素は、古代の宗教観を考えるときに非常に重要な要素となるわけですね」
ホワイトボードが少し手狭になってきたのか、それとも改めて眺めて気恥ずかしくなったのか、ベル助教授は、先ほどの意匠をイレーザーを用いて消す。
「そして、話は変わりますが、古代の人にとって、闇とはなんだったのでしょうか。現代に生きる人間にとって、多くの場合、闇とは夜、即ち闇夜のことを指すことが多いでしょう。電気の生み出す光の届かない路地裏の向こう側、無限に広がる宇宙、恒星の光の届かない場所、そこに闇を見出すわけです。しかし古代人にとって、闇夜には満点の星が広がっていた。到底、そこに真の闇を見出すことができません。夜の闇も、彼らにとっては日常です。つまり、彼らにとっての真の闇とは、どうしたって光の届かない場所、即ち地の底のことでした」
ウォルは、この講義のタイトルに、母なる闇という単語が含まれてたことを思い起こす。
『母なる』とは、先ほどの講義からすれば、大地のこと、そして大地への信仰のことを表すのだと理解できる。ならば、『闇』とは地の底のことを言うのか。
「手話が可能な、知能の高い類人猿に対して、死のイメージを聞いたところ、『苦痛のない穴、さようなら』と答えたという有名な逸話があります。つまり、地の底は、おそらく人類が文明を持つ以前から、死というイメージの表す場所であったということでしょう。そこに、地獄や冥界などの、罪人が落とされる場所というイメージが付加されたのは、対義としての天国、すなわち天の世界が生み出された後の話です。それまでは、人は死ねば地の底の静寂へと還る、それが一般的なイメージだったのです」
地の底。光は届かず、音も聞こえない。ただ、無限に静かな時間が流れる。そこには恐怖とともに、かすかな安堵感を感じるのはなぜだろう。誰にも邪魔されず、ただ穏やかに、眠り続ける。その情景は、痛ましさと安らかさを同時に感じさせるのだ。
「とある地方の神話に、国造りの父であった男神が、不慮の事故で死んでしまった妻を追って地の底の黄泉の国へと訪れるというものがあります。結果、ようやく出会えた妻は、腐敗して蛆にたかられ、多数の長虫──この場合は蛇のことですね、それに巻きつかれた醜い姿であったといいます。その姿を恐れて男神は逃げ出すのですが、ここで重要なのは、地の底である黄泉の国は、蛇や蛆などの長虫の支配する世界だったということです。長虫という言葉が意味するのは、文字通り体の細長い生き物、蛇、ミミズ、蛆などです。もしも古代人に知識があれば、例えば体内に寄生するサナダムシや地中に多く生息する線虫なども、これに含めていたかも知れませんね」
うねうねと蠢く生き物が支配する世界というのは身の毛もよだつが、しかしそれは現代の、いわば天空神の支配した世界的な価値観だからそう思えるのだろうか。
大地の豊さは、即ちそこに住む微生物の多さでもあり、男神の忍び込んだ黄泉の国は、地母神の観点からいえば豊穣の世界だったのかも知れない。
「また、人類文明発祥の地の一つとされるメソポタミア文明において、女神イナンナと習合されて豊穣神となった、愛と美を司る女神イシュタルが、彼女と深い確執を持つ姉妹神エレシュキガルと元は同一の存在であったという見方をされるのも興味深い。イシュタルは先ほど言ったように豊穣の神、片やエレシュキガルは地の底たる冥界の女神だ。どう考えても対極にある女神を、元は同一のものとみなす考え自体、地の底である冥界と豊穣の地である大地を近いものとみなす考えが一般的だった可能性がありますね」
大地と地の底が、それぞれ続いた世界であるというのは、突飛な発想ではあるまい。それぞれに明確な線引きがない以上、それらを一体として考えるという発想自体は自然な発想である。
「このように、古代において大地は豊穣の女神のおわすところ、そして大地の奥の闇である冥界は死者の眠る静謐な場所として、ともに神聖なものだったわけです。しかし、先程説明したとおり、宗教は文明の、その時代における勝者によって強く影響を受け、変遷していきました。鉄器を用いた騎馬民族が、大地に根付いた農耕民族を征服した結果、宗教や神話は征服者に都合の良いものへと書き換えられます。女性を神聖視した地母神信仰から、男性原理中心の天空神信仰へと至尊の冠は移され、それに伴い、大地を象徴する神聖な存在だった蛇は、楽園においてアダムとイヴを唆した邪悪な存在へと堕とされました。地母神は、男を誘惑し堕落へと誘う悪魔へと身を窶し、反対に、蛇を喰らい天空を支配する猛禽類は天使として神の御使いたる地位を得ます。そして、死者の眠るところだった冥界は罪人が責め苦を味わう地獄へと変容し、また、闇という存在が、安寧ではなく恐怖を意味する単語へと変わっていったわけです。そして、その宗教観は、現代にも強く影響を与えています。天にまします我らが父よとはよく言う祈りの枕詞ですが、地におわす我らが母よという言葉を聞いたことはないでしょう?」
そう言ったベル助教授は、手元のテキストを閉じた。そして、左手の手首あたりを確認した。おそらく、腕時計で時間を確認したのだろう。
「以上が、母なる闇の宗教的変遷の総論です。少々早いですが、本日の講義はここまでにして、残りの時間は前回と同じく茶話会を開催したいと思います。もし、お急ぎの方は退出頂いた結構です。ちなみに次回の講義は、前回までの太陽、月、そして今回の闇を交えて、各地の文明、宗教にスポットを当て、それぞれの比較論を中心に進めていきたいと考えておりますのでよろしくお願いします」
受講生は続々と立ち上がり、そのうちの数人はそのまま講義室を退出していった。残りの学生は、机を移動させ、いくつかのグループがぐるりと囲んで座ることが出来るよう、配席をしていく。
先程ベル助教授が言っていた、茶話会のためなのだろう。
一瞬戸惑っていたウォルとペギー・メイだったが、
「貴女達、今回の受講が初めてなのよね?もしよければ、今回は私達のグループに入る?」
おそらく年の頃から言って大学生だろう女性が気さくに声をかけてくれた。
突然に茶話会と言われて、果たしてどうしたものかと思っていたウォル達は、渡りに船とばかりに、
「ありがとうございます。仰るとおり、この講義に参加するのが初めてなので、いまいち勝手が分からなくて……」
ウォルより年長の(当然、この世界における年齢のことである。)ペギー・メイが、お辞儀をしながら言う。
申し訳なさそうなその言葉に、女性は軽やかに微笑み、
「大丈夫よ、貴女も聞いてたでしょう?この講義、良い意味で緩い感じだから、学生同士も全然ピリピリしてないの。みんな、仲のいいクラスメイトだと思って接してくれると嬉しいわ。一応自己紹介すると、私はオリビア。よろしくね」
「アモラ高校の、ペギー・メイです」
「アイクライン校のフィナ・ヴァレンタインです」
二人が自己紹介すると、オリビアはウォルの方を見て、少し怪訝な表情を浮かべ、
「ええっと……もし間違えてたらごめん。あなた、ひょっとして、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンの名前で、格闘技の試合に出てたりする?」
ウォルは苦笑してしまう。なるほど、この世界で名を売るとは、こういうことなのだと実感してしまったのだ。
あちらだけが自分のことを知っているというのは、デルフィニア国王であった頃から慣れっこのウォルであるが、顔を見られただけで自分の素性がある程度知られてしまうというのは中々新鮮な経験だった。
然り、ウォルは頷き、
「ああ、おれがその、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンだ」
「へぇ、こんな偶然ってあるのね。私、あの試合を観て感動しちゃったの。また後で、一緒に写真撮ってくれないかな?」
オリビアが拝むようにお願いすると、
「ああ、勿論だとも。この講義が終わった後で、なんなりと」
笑顔とともにそう応えた。
オリビアは小さくガッツポーズを取り、それから、
「じゃ、取り敢えず茶話会だわね。私、お茶とお菓子を取ってくるから、ちょっと待ってて」
オリビアはそう言って立ち上がる。
ウォル達も、新入りの立場で上げ膳据え膳というのはいかにも居心地が悪いので、一緒に立ち上がり、
「あ、私達もお手伝いします」
「そう?助かるわ。じゃ、貴女はお茶を人数分持っていってくれるかな?ウォルちゃんは私と一緒に、お菓子を運ぼっか」
ウォル達が改めて講義室の前の方を見ると、人数分だろうか、紙コップと保温ポット、皿に盛られた焼き菓子が並んでいた。
おそらく、隣の講師控室に予め準備していた簡易ティーセットを、ベル助教授が移動させてきたのだろう。中々の手際の良さである。
ペギー・メイは、用意されたトレイに人数分の紙コップと、お茶の入った保温ポットを乗せ、グループの席まで運んだ。
そしてウォルはといえば、ズラリと並んだ焼き菓子に圧倒されていた。
その様子を見て、オリビアがくすくす笑う。
「この焼き菓子、ベル助教授の手作りなんだよ。お菓子作るのが趣味なんだって。すっごく美味しくて、これ目当てにこの講義に参加する不届き者もいるんだ。他ならぬ私のことなんだけどね」
オリビアは遠慮なくいくつかの皿を選び、その一つをウォルに手渡し、二人で席に戻った。
すると、グループの学生は、先程の講義について、早くも議論を交わしていた。
「結局、既存の宗教のほとんどって、さっきの講義にもあったとおり、家父長制が根幹にあって、女性原理が蔑ろにされているのよ。政治や経済の分野において女性解放は進んできたけど、宗教の分野は一歩も二歩も遅れているわ。もっと女性的な要素を重視していくべきじゃないかしら」
ウォルが手にした焼き菓子の皿を、テーブルの中央に置くと、先程まで熱弁を振るっていた女子学生が、いの一番に手を伸ばして一番大きなクッキーを取った。
是非は置いておいて、ウォルのいた世界ならば、特別な身分差がある場合を除いて、こういう場合はまずは男性が料理を取り、最後に女性というのが常だったので、なるほどこの世界における女性解放は進んでいるのだとウォルは実感した。
そんな鼻息荒い論調に、勇気ある男子学生が、控えめに反駁する。
「言いたいことはもっともだけどさ、だからといって、今まで続いてきた宗教をがらっと変えるのは現実的に無理だと思うぜ?そんな考え古臭いって言われるかも知れないけど、古いっていうこと自体が価値を持つ世界も確かにあるんだからさ」
「じゃあ、あなたは女性に、ずっと征服された立場に甘んじていろっていうの?」
「そうじゃないよ。でも、何事を変えるにも、時間は必要だと思うんだ。今まで時間をかけて今の形に落ち着いてきたものをドラスティックに変えようとすれば、絶対に大きな反動を覚悟しなくちゃいけないし、時には大きな犠牲を伴うことになる。それは歴史が証明しているところだ。だから、例えば女性原理を今の宗教にもっと認めさせるにしても、もっと時間をかけるべきじゃないかって思うんだ」
「そんなの無駄よ。閉塞した状況を打破してきたのは、いつだってあなたのいうドラスティックな改革よ。それ以外は、無意味な惰性の続く徒労の議論、蛙鳴蝉噪を繰り返す無駄な時間でしかなかったことこそ、歴史が証明しているじゃないの」
二人の熱の入った議論を右から左へと聞き流しつつ、ウォルは紙コップに入った紅茶を啜る。
議論はそれぞれに言い分があるのだが、しかし現実には、意味よりも形式こそ重視されるべき世界があることをウォルは知っている。そして、熱狂的な一部の信徒を除けば、宗教こそ形式が重視される世界の最たる例であると、ウォルは思っているのだ。
男女平等は尊ばれるべき思想であるが、形式の世界にまでその思想を持ち込んでは、いらぬ諍いの元となるのではないかとウォルは思っている。現実の女性は、もっと強かで賢い。男に形式を奪われたふりをしつつ、しかししっかりと実利の肝の部分──例えば財布の紐などは押さえていたりするのである。
そして、ウォルはそれでいいのではないかと思っている。それが正しいと思っているのではない。現実とはそんなものだろうと、妥協しているのだ。
そんなふうにして白熱する議論を見守っていると、ウォル達のテーブルに、ベル助教授が歩み寄ってきて、その議論を面白そうに見守っている。
そのことに気が付いた論調厳しい女子学生は、
「先生。先生も、宗教における女性の解放に賛成されている立場だと思うんですが、どうでしょうか?」
ディベートにおける自己の味方を増やすためだろうか、それとも先ほどの講義に聞いて自身と同じ見解を持っていると確信しているのか、そう訊いた。
しかし、穏やかな微笑みを浮かべたベル助教授は首を横に振り、
「私が先ほど述べたのは、あくまで文化と宗教の、長い歴史における変遷だけで、そこに主義主張を入れたことはありません。確かに、宗教において女性は抑圧された歴史があり、誤った歴史は正されるべきだとも思います。しかし、私自身がそれに賛成するか反対するかを問われれば、答えはどちらも否、私はただ歴史を静観するだけです」
ベル助教授は、自身が焼いたというクッキーに手を伸ばし、口に放り込む。
「うん、これは上手に焼けたようですね。中々の出来栄えです。あなた方も、お一つ如何ですか?」
先ほどまで激論を交わしていた女子学生、男子学生も、とぼけた様子のベル助教授に苦笑を浮かべつつ、毒気を抜かれた様子でクッキーに手を伸ばす。ウォルやペギー・メイも、それに倣う。
香ばしい香りを放つ色とりどりのクッキーには、何か、白い粉がまぶしてある。粉砂糖だろうか。
ウォルは、クッキーを手にした瞬間、しかし、言いようのない微かな違和感を覚えた。それは、彼女自身の魂ではなく、身体そのものが感じた違和感であり、ウォルがウォルフィーナの身体に宿って以来、初めて感じるものだった。
もしもこれがリィならば、おそらくそのクッキーを、反射的に投げ捨てていたに違いない。それは、彼が狼の群れの一員として生きてきた時の、食べていいものと食べると命に関わるものを見分ける、後天的に強化された嗅覚──というよりも、直感に近いものだった。結果、凄腕の暗殺者であるレティシアですら嗅ぎ分けることができない毒物も、判別することができるようになったのだ。
しかし、ウォルが宿るウォルフィーナの身体に、そんな経験はなかった。だから、ウォルが感じたのは、微かな、本当に微かな違和感でしかなかった。
そして、仮に、ウォルが、リィから、ドリームメイカーやハーメルン線虫のことを聞いていれば、結果は違ったかも知れない。だが、二人は婚約破棄に関する話はしても、この星を蝕みつつある違法薬物について会話するタイミングがなかった。だから、それらの薬物と、プリシラやミラの不審な失踪を結びつけることができなかったのだ。
結局、ウォルはその不可解な感覚の理由を、言語化させることができなかった。そして、手にしたクッキーを口に入れてしまった。
クッキーは香ばしく、とても美味しかった。ウォルの細い喉が、かみ砕かれて唾液と一体化したクッキーを、胃の腑へと運んだ。
その時、ウォルの隣に腰掛けていたペギー・メイが、決意に満ちた表情で、ベル助教授に向けて問うた。
「あの、先生。変なことを聞くんですけど、先生の講義に、プリシラっていう、私と同じアモラ高校の女子生徒が参加したことはあったでしょうか?」
ペギー・メイの質問に、ベル助教授は、にこりと柔らかな微笑みを浮かべた。