懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第百三十一話:そして消失

※前話のラストを少しいじりましたので、もしよろしければ、最後の部分だけで結構ですのでもう一度読んでいただければと思います。

 

 

「御伽噺をしましょうか」

 

 ベル助教授は、蜜を含むように優しげな微笑みを浮かべている。

 その視線は、プリシラという少女について問うたペギー・メイではなく、ウォルの視線と交わっていた。

 ペギー・メイは、自分の質問が無視されたと感じたのか、再度口を開きかけたが、まるで何か不思議な力に気圧されるようにして、ゆっくりと口を閉じた。

 その様子を確認するでもなく、ベル助教授は続ける。

 

「昔々、この世界の星々が生まれるよりも遥か昔のことです。世界は、二つの集団に分かたれていました。太陽、月、そして闇を頂く、古き秩序を重んじる集団。そして、それらの秩序を忌む、新しい勢力。二つの集団は、長きに渡る諍いの末、ついに全面戦争へと突入します」

「あの、どこかの国の、神話のお話ですか?」

 

 突然始まったベル助教授の語りに、先程までディベートで熱弁を振るっていた女子学生が、若干の困惑の混じった声で問う。

 ベル助教授はにこやかな表情のまま、

 

「ええ、そのようなものです。もしも少しでもご興味があるなら、どうぞご清聴ください」

 

 余裕のある声でそう言った。

 そして、その視線は、相変わらずウォルの方のみを見遣っている。

 

「長きに渡る戦いの末、勝ったのは新しい勢力でした。古き教えを頂く集団は、彼らが信奉していた太陽、月、闇を除いて鏖殺されました。その残酷な光景をまざまざと見せられた太陽、月、闇は、怒りと悲しみに満ちた声で、口々に言いました。我等も殺せ。我等を信仰してくれた民衆が皆殺しにされて、もはや我等に生きる意味はない、と。しかし、新しい集団は、それを許さなかった。何故なら、太陽、月、そして闇には利用価値があったからです」

「利用価値って、どんな?」

「闇には、命を、生命を生み出す力がありました。新しい集団は、戦う力でこそ古き集団に圧倒的に勝っていたが、新たな生命を生み出すことだけは出来なかった。だから、彼らの意に沿った世界を作るために、闇の力はどうしても必要だった。そして、闇にとって最も大切だったのは、太陽と月だった。故に、二人は生かされた」

「……人質だったということですか」

 

 ベル助教授は頷く。

 

「闇は、新しい集団の言うことに従い、世界を作った。星々を生み、そこに生命の種を撒いた。やがて、人間と呼ばれる生命へと成長する、小さな生命の種を。しかし、そこまで世界が出来上がれば、もう闇は用なしだった。後は放っておいても、生命は生命を生み、世界は新しい集団の思い通りに生まれ変わる。そうなれば、古き集団で最も強い力を持つ闇を生かしておく理由はなかった。無論、彼に言うことを聞かせるための人質だった、太陽と月の二人も」

 

 ベル助教授の表情は、あいも変わらず優しい微笑みを浮かべている。

 優しい微笑みを浮かべたまま、胸の悪くなるような、陰惨な顛末を語る。

 

「狂宴は七日七晩続いた。太陽と月を処刑するための、その苦痛と悲嘆を愉しむための、宴だった。新しい集団は、一人残らずその宴に参加した。その中で、太陽と月は、考えられ得るありとあらゆる拷問を味わい、身体の至る所を凌辱され、この世に存在する中で最もつらい苦痛を味合わされた。妻だった月は、新しい集団の全員に犯され、夫だった太陽は、四肢と瞼を切り落とされ、その光景を無理矢理そのまなこに焼き付けさせられた」

 

 ベル助教授の話に、顔を青くした女子学生は口元を覆い、軽くえづいた。

 それでも、ベル助教授の話は終わらなかった。

 

「月はその時、身籠っていた。夫たる太陽の子だ。月たる女が過酷な凌辱に耐え忍んだのは、ひとえに我が子を守りたい、そしてやがて生まれ来る我が子にこの美しい世界を見せたいがためだった。しかし、月の願いは、新しい集団の一人の、全くの気まぐれで発せられた酒臭い言葉で全ての望みを絶たれる。『酒の肴だ。その女の腹の胎児を引きずり出して、死ぬまでに何度泣き声を上げるか、賭けようではないか。』。その言葉に、げらげらと笑い声が巻き起こり、次々に賛同の声が上がる。月はその時点で全ての体力を使い果たし、もはや抵抗する力は残されていなかった。夫たる太陽は、涙声で、必死に集団の憐れと慈悲を乞うたが、聞き入れられることはなかった」

 

 その時点で、講義室の一角で変事が起きつつあることに気がついた全て学生が、淡々と無惨話を語るベル助教授に注目する。

 もはや、その御伽噺以外、誰の声も聞こえなかった。全員が、望む望まざるを問わず、その惨憺たる話に聞き入っていた。

 

「月の女陰に野太い腕が無理矢理押し込まれ、激しく裂けた。夥しい出血の中、胎児は子宮ごと引きずり出された。噛み割かれた子宮から生まれ出た赤子は、母を求めて泣き声を上げた。その声を聞いた半死半生の月の乳房から乳が溢れたが、赤子はそれを含ませてもらうことはついぞなかった。赤子は、泣き止めば最初は頬を打たれ、次に殴られ蹴られ、それでも声を上げなくなれば、その紅葉のような指を一本一本断たれた。その度に、赤子は火がついたように泣いた。生きたいと叫ぶように泣いた。それでも赤子は、やがて泣かなくなった。その様子を見て、新しい集団は笑い囃し立て続けたのだ。太陽と月の間に生まれた祝福されるべき生命は、ただ一時、新しい集団を愉しませただけで、その短い生涯を終えた」

 

 最初に、その異常に気がついたのは誰だったのだろう。

 ベル助教授の顔が、だんだんとぼやけている。そこに焦点を合わせようとしても、どうしても焦点が合わないように。その、柔い微笑みを浮かべる顔に、薄い磨りガラスが覆い被さっているかのように。

 何人かが、短い悲鳴をあげた。

 

「切り刻まれた赤子の遺体は、父親たる太陽の口に詰め込まれた。吐けば、月を殺す。食えば、助けてやらんこともない。無論、太陽にはその言葉が、興を盛り上げるための戯言に過ぎないことを知っていた。しかし、太陽に出来るのは、最後の望みに縋ることだけだった。笑いながら食えと言われれば、笑いながら我が子の肉を喰らった。美味いと言えと言われれば、美味いと言いながら我が子の骨を齧った。そして、何度も吐き戻しそうになりながらも、太陽は、我が子の全てを胃の腑に収めることとなった」

 

 やがて、ベル助教授の顔は、全くの別人のそれに変貌していた。

 どこにでもいるような、壮年の男。誰でも、一度は道ですれ違ったことがあるような、そんな顔。

 どこにでもいて、どこにもいない、その男の顔。

 ただ、綺麗に撫でつけられた、ブラウンの髪だけが印象に残る、その男。

 

「太陽と月にとどめがさされたのは、集団の最後の慈悲などではなかった。集団の邪悪な想像力をもってしても、既に、なしていない凌辱がなくなってしまったからだ。例えば、砂遊びに飽きた子供が、遊び尽くした砂山を最後に蹴飛ばして崩すように、呆気なく二人は殺された。その時点で、すでに二人は人の形ではなかった」

 

 ウォルは、その男に見覚えがあった。

 惑星ヴェロニカで、一度敵城から脱出したウォル達を取り囲み、ウォルの首に縄をつけて連れ去った男。

 狂った大統領の懐刀であったという、その男。

 

「闇は、全てを、その千里眼の能力で見ていた。ただ、見ることしかできなかった。そして、太陽と月が死んだその瞬間、呪いの言葉を残して、自らの身体を爆ぜさせた。『呪いあれ!貴様らに、貴様らが創るこの世界に、そしてこの世界に生まれる全ての命に!』。それが、闇の残した最後の言葉だった……」

「まるで、見てきたように語るのだな」

「ええ、見てきたのですよ。聞いてきたのですよ、私は、その全てをね」

 

 ウォルの冷え冷えとした声に、しかしその男は、にこやかに答える。

 

「生まれる前は、母の子宮の中で。生まれた後は、新しき集団の拷問の最中に。そして死んだ後は、父の胃の腑の中で。私は、全てを見聞きし、そして無へと還る前に、闇の放った最後の力で、その存在を、別の世界に隠されたのです」

「アイザック・テルミンだったな、貴様の名は」

「その通り。そして、唾棄すべきその新しき集団の呼び名こそ、ラー一族。私は、彼らに、たそがれの世界へと追いやられし者。そして、たそがれの世界へ流れ着いた名もなき者達の王。たそがれの世界に再び、太陽と月を掲げる者」

 

 いつの間にか、男の顔が、のっぺりとした平らな面となっていた。

 目も鼻も口もない。剥き身のゆで卵のようにつるりとしている。ただ、ぼんやりとした鈍い光を放つそれは、決して人間の顔ではなかった。

 そしてその中央に、穴がある。どこに通じているかもわからない、どれだけ深いかもわからない、太陽の光ですらをまるごと飲み込むような、黒い穴。

 その穴から、声がするのだ。穴が、人の言葉をしゃべっているのだ。

 その異常な様子を見て、ウォル以外の学生が口々に悲鳴を上げ、急いで講義室から逃げ出そうとする。

 その様子に顔を向けるでもなく、無貌の何かは、たった一言、

 

「さぁ、我が同胞よ。在るべき世界へと還りなさい」

 

 そう言った。

 次の瞬間、ウォルとペギー・メイ以外の、講義室にいた全ての人間の輪郭がぐにゃりと歪み、そしてついに形を保つことができなくなり、最後に、水のように変じ、床へばしゃりとぶちまけられた。

 人が、文字通り、溶けたのだ。

 そして、先ほどまで人間だったその大量の液体は、ひとりでに浮き上がり、教室の天井で渦を巻いて、やがて無貌の何かの穴へと吸い込まれていった。

 

 ──ごくん。

 

 何かを飲み込む音が、教室に響いた。

 ウォルは、その光景を見守った。ペギー・メイは、正気を失ったように、焦点の合わない瞳でその光景をただ眺めやった。

 まるで、異形の食事のような光景が終わり、そして無貌の何かが呟く。

 

「やはり、貴女は我らが太陽たる資格をお持ちのようだ」

「それは、どういう意味だ」

 

 ありうべからざる光景を目にして、ペギー・メイは呆然自失に立ち尽くしている。

 対して、ウォルは僅かな動揺も見せず、その鋭い視線で無貌の何かを睨みつけていた。

 

「この世界に生まれた命は、この世界の太源から生まれ出て、死して太源へと還る。そこに、魂という異物の入る余地はない。ただ、この世界──ラー一族の創りし世界とは相容れぬ存在、この世界以外で生まれたものの残滓こそが魂。つまり魂とは、神話にある太陽と月と闇に縁を持つもの、滅ぼされし国の末裔たる証なのですよ」

「それと、おれが太陽とやらだという与太話と、何の関係がある」

「あなたは、魂を持ち、そして我が分け身を喰らい、先ほどの我が勅命を聞きながら、しかし人の形を保っている。我が分け身を従えている。つまり貴女は、我が上﨟にあるべきもの。貴女こそ、我らが太陽たる資格を有する御方であり、即ち我がふたおやの生まれ変わりだということです」

「戯言を!」

 

 ウォルは、自身のスクールバッグに手を突っ込み、そこから、ペーパーナイフ程度の小さな刃物を取り出した。

 しかしその刃物は、ウォルの手の中でみるみる巨大化し、やがて、立派な片手剣へと変じていた。

 人の鍛えし剣ではない。ラー一族のみが鍛えうる、自身の意思を持ち、奇跡を起こす剣であった。そして、人の武器の通用しない、闇の領域に属する者に対してこそ、その真価を発揮する対魔の剣だった。

 リィから送られた、婚約指輪代わりの、剣である。

 ウォルとて、肌身離さずその剣を持ち歩いているわけではない。ただ今日に限って、ペギー・メイが受講しようとしたこの講義に本能的に不吉なものを感じたウォルが、密かにカバンに忍ばせていたのだ。

 ウォルは、問答無用にその剣を横薙ぎに払った。それは、目の前の無貌の何かの首を叩き切る一撃だった。そして、ウォルがその剣を振り切っていれば、間違いなくそれは実現されるはずだった。

 しかし、その一撃は、無貌の何かの首を絶つには至らない。

 途中で、剣が止まった。ウォルが、剣を止めていた。

 宙空で静止した剣の切っ先が、細かく震えていた。剣だけではない、ウォルは、無貌の何かの変じた顔を見て、顔を青褪めさせ、恐怖で全身を震わせていた。

 

「あ……あ……あ……」

「──駄目じゃないか、エドナ。そんな危ないものを振り回しては。さぁ、そんな剣は捨てて、こっちにおいで」

 

 ウォルの意志ではなく、ウォルフィーナの身体が──その右手が剣を手放す。剣が床へと落ち、がちゃりと重たい音を立てる。

 ウォルはその顔を覚えている。その顔を、決して忘れるはずがない。ウォルが忘れても、ウォルフィーナの身体が忘れない。

 綺麗に髪を撫でつけてぱりっとしたスーツを身にまとった、蛇のような笑い方をする、その男。

 それは、まだ生まれて間もないウォルフィーナを、甘言を弄して両親から引き離し、この世の地獄だった研究所へ幽閉した、政府の男の顔だった。

 ウォルは、ウォルフィーナの身体から伝播する、無条件の刷り込みともいえる恐怖に魂を凍てつかせ、しかし必死に考える。

 

 ──何故、目の前の異形の存在が、ウォルフィーナを攫った男のことを知っているのか。

 

 そして次の瞬間、ウォルは理解する。

 知っていたのではない。化けているのではない。

 この男、いや、この何者かそのものが、ウォルフィーナから両親を奪い、そしてあの地獄へと閉じ込めた、張本人なのだと。全ては、最初から仕組まれていたのだと。

 ウォルの思考を読んだかのように、男は頷き、ウォルを──ウォルフィーナを手招きする。

 

「さぁ、こっちへ来なさい、エドナ。きみには、きみに相応しい世界がある。懐かしいみんなもいる。とてもいいところだ。今から私が、そこへ連れて行ってあげるからね……」

 

 駄目だ。絶対に、この男の言葉に従ってはいけない。ウォルは、それを理解している。

 だが、ウォルフィーナの身体は、持ち主の意思を裏切って、男の手招きに従い、がたがたと震える足取りで、男へと歩み寄っていった。ウォルに、その歩みを止めることは叶わなかった。

 そして、男はいつの間にか、顔の中心に深い穴を穿たれた、無貌の何かに戻っていた。

 しかし、既にウォルに、その異形に抗う術は残されていなかった。

 次の瞬間、無貌の何かの顔がむくりと巨大化し、その穴が土管のように広がった。

 そして、もう目の前まで歩いてきていたウォルの身体に、無貌の何かの顔が覆いかぶさった。

 

 ──ごくん。

 

 何かを飲み込む音がした。

 次の瞬間、ウォルは、その場から消失していた。

 教室には、無貌の何かと、既に正気を失った様子のペギー・メイだけが残された。

 そして、無貌の何かは、いつの間にかベル助教授の、柔らかな微笑みを浮かべる顔に戻っていた。

 

「さぁ、ペギー・メイくん。きみには、最後のお願いをしなくちゃいけない。私のメッセージを、伝えるべき人達へと届けておくれ」

 

 ペギー・メイは焦点を失った顔で頷き、ふらふらと、幽鬼のように足取りで講義室を後にした。

 ベル助教授はその様子を見て満足げに頷き、いつの間にか講義室から姿を消した。

 

 

 次の瞬間、それは、惑星ティラ・ボーンの成層圏の上層に姿を現した。

 到底、そこは生き物が到底生存しうる環境ではない。普通の人間なら、一分と持たずに死ぬ。

 しかし、それは、一抹の苦しみを浮かべることもなく、中空に漂っていた。羽根も翼も持たず、人の形のまま、そこを漂っていた。

 無貌の顔が、宵闇の中、七色にぼんやりと輝いている。中心に、深い穴がある。

 その穴が、一言。

 

「我が同胞よ。在るべき世界へと還れ」

 

 最初は、この星に住む、ただ一人の人間に、その薬を飲ませたのだ。

 ラー一族の死体から抽出した腐汁と、自身の分け身を混ぜた、先祖返りの屠蘇である。

 屠蘇を飲んだ人間は、夢を見る。かつて、自身が古き一族であったころ、祖国に攻め込んできた憎き敵──ラー一族と戦ったときの、古き記憶である。

 そしてその人間は、古き記憶を取り戻す。己が使命に目覚めた覚者となる。

 覚者は、無貌の手足となり、次の人間にその薬を飲ませる。

 そしてその人間も覚者となる。魂を持たない者は何の夢も見ず、屠蘇をただの水としか認識しない。その人間は、捨て置けばいい。

 快楽をもたらす薬物であると偽り、この星に、どれだけ覚者となりうる人間がいるのかを試した。この星には、太陽と月と闇がいる。ならば、因果の織り糸に手繰り寄せられて、魂を持つ者──古き一族の末裔は、相当数になると、無貌は予想していた。

 予想は的中した。この星は、やはり特異点だった。この星に住むほとんどの人間が、魂を持つ者であることが分かった。

 無貌は、歓喜した。歓喜とともに、覚者を増やした。

 そして、覚者は覚者を生んだ。無貌がするべきことは、彼らに屠蘇を渡すだけだ。それだけで、覚者は、ネズミ算式にこの星を覆いつくしていく。

 注意するのは、この屠蘇を見抜くであろう、ラー一族に所縁あるものに、無貌のたくらみがばれないようにすることだけだ。到底、人間の警察とやらが、この異常を見抜くことなどできようはずもない。

 そして、無貌は、誰そ彼の世界の生き物である。誰しもが、彼を彼と認識し得ない。例えラー一族であっても、彼の所業に気が付ける者はそう多くない。

 ただ、気を付けるべきは、無貌の彼を照らし暴き出すであろう太陽と月、そして無貌の彼をして浮かび上がらせるほどに深い闇と交わらないことだけ。

 だから、ラー一族の太陽と月、そして闇の周りでは、できるだけこっそりと屠蘇を撒いた。間違えても感づかれないよう、細心の注意を払った。

 しかしそれ以外の場所では、何の心配もいらない。あらゆる場所で、あらゆる人間に、屠蘇はばら撒かれた。

 別の大陸ならば、もっと大胆に無貌は行動した。数多くの水源地に屠蘇をばら撒いた。ラー一族の死体から採れる腐汁に限りはない。無貌の分け身たる長虫にも限りはない。だから、どれだけでもばら撒き放題だった。

 それを飲んだ人間のうち、魂を持つものは、全てが覚者となった。未だ覚者へと至らずとも、その素質のある者に、長虫は既に仕込まれていた。

 いまや、この星を、覚者が埋め尽くしていた。

 それらの覚者に、無貌は呼びかけたのだ。

 在るべき世界へ還れ、と。

 無貌の声は、大気を震わし、風に乗り、この星の隅々へと届き、そして覚者の鼓膜を震わせた。

 覚者の身体に潜んだ無貌の分け身たる長虫は、主人たる無貌の声に従い、覚者の身体を、無貌が吸い上げるに都合がいい、液体へと変じさせる。

 人一人が変じた液体が、約100リットル。

 この星の覚者、約1億人。

 惑星ティラ・ボーンの地表を、突如、10,000,000,000リットルの液体が満たした。

 そして、それらの液体が、仲間を求めるように他の液体と結合し、どんどんと一つの巨大な塊となる。その塊が、やがて渦を巻き、宙を浮き、そして一点、無貌を目指して集い来る。

 無貌の顔が、にゅるんと膨らみ、その穴がトンネルのように広がった。

 先ほどまで人だった液体は、凄い速度で無貌へと殺到し、我先に、そのトンネルを潜っていく。しかし、無貌の反対側からは、一滴の水もこぼれない。

 全ての液体は、無貌の穴を通じて、どこか、ここではない世界へと旅立っていったのだ。

 しばらく、無貌は、液体を飲み込み続けた。

 やがて、10,000,000,000リットルの液体を飲み込んだ無貌は、満足げに喉を鳴らした。

 

 ──ごくん。

 

 奇妙な音が、無限に広がる、夜の空に響いた。

 そして、惑星ティラ・ボーンの地表から、ほとんど全ての人間が消え失せた。

 

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