懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
黒い空間に、ウォルはいた。
暗い空間、ではない。それならば、己の腕も、足元も、何もかも見えないはずだ。しかし何故か、自分の手足は見える。ただ、空間自体が、前後左右、どこも黒く塗りつぶされているようで、その先が見えないのだ。
どこから照らし出されているのかもわからず、黒い箱の中に閉じ込められたような、そんな塩梅だった。
いつの間にここにいるのか、分からない。あの無貌の何者かに飲み込まれてから、何日も経ったのか。それとも、まだ一瞬も経っていないのか。もしくは、悠久の時が経ってしまったのか。
この空間では、時間の経過すらがあやふやだった。理由ははっきりとしている。ウォルは、己の心臓の拍動すら、感じることができないのだ。指を、手首や首元、そして心臓の上に置いてみたが、本来感じられるべき鼓動はなく、血の流れている気配すらない。
頭の中で時間を数えようとしても、そのあやふやな感覚に塗りつぶされて、上手くいかない。
果たして、自分はいつの間にか黄泉路に迷い込んだのか。しかし、よくよく考えてみれば、自分は異形に喰われたのだ。死んだという結論が、一番自然な気もする。
だがウォルの実感は、それを否定していた。自分は、まだ生きている。一度死を経験しているからだろうか、ウォルは生と死の境界線を明確に認識しており、その感覚は、まだ自分は生きているのだと主張していた。
では、何故心臓は止まっているのか。血の流れは止まっているのか。それでも、自分は生きているのか。
繰り返される自問自答に、結論が出ないのは分かっている。足を動かし、何処かへ向かって歩いてみるが、それも無駄だと理解して、早々にやめた。
無間地獄という場所だろうか。それほど罪深い一生を送ったかと胸に問えば、お前は一体幾人を殺したのかという当然の質問が返される。なるほど、地獄に落とされるくらいは十分殺したものだと、我がことながら呆れてしまう。
ふう、と息を吐き出す。足掻いて無駄なら、足掻く必要はない。全身から力を抜き、ウォルは、その場に座り込んだ。
そうしてしばらく休んでいると、視界の遥か先、黒い背景の奥の方で、薄ぼんやりと何かが光っていることに気が付いた。
その光は、ゆらゆらと揺れながら、少しずつ自分の方へと近づいてくる。
やがて、その光は、人の形をした何者かの、顔の部分から放たれていることが分かる。
ウォルは、理解した。その光は、自分をこの世界へと飲み込んだ、無貌の顔が放つ、七色の淡い光だったのだ。
ウォルは、大方予想していたので、そのことを驚かなかった。
もしも今の自分を誰かが迎えに来るなら、リィ達か、それともこの男──男と呼ぶのが正しいのかすらわからないが──だろうと、予想していたからだ。
予想は、悪い方向に的中したわけだが、今更ウォルは泣きわめくことも、敵意を向けて身構えることもしなかった。
ただ、あるべきものを、あるべきものとして受けいれただけだった。
「大変、お待たせいたしました」
男か女かすらわからない奇妙な声で、無貌はそう言った。
座り込んだままのウォルは、小首を傾げる。
「おれは、待ったのか?」
「手持無沙汰のご様子でしたので、おそらくお待たせしたのだろうかと」
「おれが貴様に飲み込まれて、どれだけ時が経った?」
「刹那も時は流れておりません。故に、貴方の心臓も止まったままだ。しかし、貴方は生きている。そうでしょう?」
無貌は、ウォルが不思議に思っていたことを、すんなりと答えた。
「ここは、狭間の世界。時の流れはありません。貴方の意識と私の意識が、星のまたたきのような一瞬を無限に引き延ばして、そして会話をしているのです」
「よくわからんな」
「要するに、この空間に意味はないということです。貴方がここで助けを待つ意味も、ここで私と問答する意味も、例えば不意を衝いて私を殺そうとする意味も」
「ならば、貴様はおれをどうするつもりだ?」
ウォルの問いに、無貌はウォルの前に跪き、女のように細く形の良い手を差し出した。
「私は、貴方を貴方のあるべき場所にお連れするために、罷りこしました」
「断れば?」
「貴方は、私と二人きり、この狭間の世界で、刹那のとこしえを過ごすこととなります。しかしこの場所でどれほどの時が流れたように感じても、貴方がもといた世界では、たったの一秒も時間は流れない。あなたの信頼する誰かが、私と貴方を追いかけるにしても、それはあまりに短すぎる時間だ。つまり、無駄ということです。それを厭われるならば、助けを待つにせよ、私を誅するにせよ、貴方のあるべき世界で全てを行うことをお勧めいたします」
ウォルは、無貌が嘘や戯言を弄しているのではないことが分かってしまった。
だからこそ、その言葉に乗るのがどうにも業腹ではあったが、それ以外の選択肢がないことも理解していた。
ウォルは、億劫そうに立ち上がろうとする。
その眼前に、無貌の手が、再度差し出された。
握れ、というのだろう。
ウォルは、不服そうに鼻息を一つ吐いたが、もうどうにでもなれというふうに、その手を取った。
頷いた無貌は、ウォルの小さな体をひょいと引き上げた。
「さぁ、まいりましょう」
ウォルは、無貌の何かに手を引かれ、黒い世界を歩く。
二人で歩きながら、しかしウォルには目的地がどこにあるか分からない。二人が歩く先も、墨を流したような黒に覆われている。ただ、黒い空間で、ウォルと、無貌の淡く輝く顔だけが、輪郭をはっきりとさせている。
「何故、ウォルフィーナをあのように凄惨な目に遭わせる必要があった」
ウォルは、歩きながら問う。答えを期待していたわけではない。
しかし無貌は、淡々と、そして訥々と語る。
「ウォルフィーナだけではありません。私は、その幾倍も、幾十倍も、他者の運命を捻じ曲げ、悲嘆の底へと叩き込んできました。ウォルフィーナと貴方の件は、そのうちの、たまたま水面に浮き上がった氷山の一角にすぎません」
「何故、そのようなことをする必要があった」
「私の夢を、叶えるためです。そのために、多くの人を──太陽たる資格を有する可能性のあった人間たちを、結果として苦しめ、殺めることとなりました。それは、私にとって致し方ないことでした。全ては、貴方と、こうしてまみえるため、必要な犠牲だったのです」
無貌は、ウォルの手を引き、歩く。
黒い空間が、何故か、凄い速度で後ろへと流れていくような、ウォルにはそんな気がした。
「貴様の夢とは、何だ」
「それはそれは、たくさんの夢です。一言で語る術を、私は持ちません」
「その夢とやらは、他者を破滅させて、不幸のどん底へと叩き落して、それでも叶える必要がある願いだったのか」
「はい、私にとっては、それだけの価値を持つ願いです。私とて、己がどれほど罪深いかを理解しています。私が踏みにじった多くの人間は、私がそうしなければ、輝かしい人生の可能性に満ちていたことも理解している。それでも、私は、私の夢を叶えずにはいられなかったのです」
「重ねて問う。そこまでして叶えたい貴様の夢は、一体何なのだ」
無貌は、振り返った。そののっぺりとした顔には、笑顔を形作る、目も口もない。
だが、ウォルには、無貌が微笑んだような、そんな気がした。
「一つは、叶いました」
「叶った?」
「はい。あなたと、手を繋いで歩くことです」
「──」
「私は、父とも、母とも、手を繋いだことがなかったもので」
「……おれは、貴様の父親でも、まして母親でもありはしない」
「ええ、それが事実でしょう。それでも、私は……貴方と手を繋いで歩きたかったのです」
無貌の、ウォルの手を握る力が、ほんの少しだけ強くなったようだった。
二人は、無言で歩く。
遠く、黒い世界の先に、少しずつ、何かが見える。
それは、光だ。
狭間の世界の終わりを告げる、別の世界への扉としての、光。
二人は、その光を目指して、歩き続けた。