懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第百三十二話:宵闇の出会い

 女の悲鳴のような鷺の鳴き声が、夜の森の静寂に響き渡った。その不吉な様子に、男達は思わず首を竦ませた。

 月の明かりも、星の煌めきすら届かないもない、鬱蒼とした夜の森である。

 神輿を担いだ男達は、片手に松明を掲げ、獣道を這う蔦に足を取られないよう、慎重に森の中を歩いた。そのいずれもが、上半身を裸にした、体格の良い若者ばかりであった。

 

 ──夜の魔森には近寄るな。屈強な戦士であっても、朝日を二度と見ることはないだろうから。

 

 それは村の言い伝えであり、禁忌であり、また、完全な事実であった。村人は、どれほど肝の太い者であっても夜の森には決して近寄らなかったし、村人の忠告を無視した旅人や破落戸が森に立ち入れば、誰一人として再び無事な姿を見ることはなかった。

 木々を渡る鬼火を見たもの、屍食鬼の恨めし気な声を聞いたものは数知れない。

 陽の高い時間でも、余程の理由がなければ村人は近づかない、魔森はそういう場所だった。

 しかし、今、若者達は神輿を担ぎ、松明の頼りない灯りを頼りに、その森を進んでいく。その顔を、隠し切れない緊張と怯えで強張らせ、それでも己が使命を果たすため、魔森の奥を目指してひた歩くのであった。

 肌寒い夜の森である。若者達の首筋を冷たい汗が流れるのは、重たい神輿を担いで悪道を歩いているからだけではない。彼らは、心中で暴れる恐怖心を抑え込むのに必死であった。

 今宵は、神事の夜である。毎年、定められた日に、星辰の導きによって選ばれた御子を、森の主へと捧げるのだ。

 神輿の中に生贄の御子がいることを、森のあやかし共は知っている。その肉が、人外にとって天上の美味であることも。だからあやかし共は、乱杭に生えた牙の端から腐臭のする涎を垂らし、瞳を、御子の肉を味わえない無念とその肉を味わうであろう主への羨望とで妖しく光らせて、若者達を、そして神輿の中のごちそうを無念とともに見送るのである。

 若者達も、今宵ばかりは森のあやかしが自分達に危害を加えないことを知っている。何故なら、あやかし共の主へ供物を捧げるため、こうして神輿を担いでいるのだ。それを下っ端が見境なく襲ったのでは、魔森の秩序が乱れる。もしもそんな不届き者がいれば、過たず森の主の怒りが降りかかるのが道理であり、あやかし共もその事を重々承知しているはずだった。

 それでも、道行が快適なものかといえばそんなことはない。木陰からこちらを見つめる爛々とした血の如き紅い瞳の群れや血なまぐさい吐息、そして時折聞こえる小鬼共の哄笑は、普段は剛毅な若者達の精神を削り取るに十分な恐ろしさであり、若者達は全員が全員、この役目を終えて早く家に帰り、柔らかな布団に包まることを願っていたのだ。

 若者達は、黙々と歩いた。茂みの奥から、ざわざわと何かが蠢く気配を無視し、針葉樹の木立の天辺からこちらを見下ろす不吉な視線を無視して歩いた。松明が作る影がまるで巨大な獣のあぎとのようになり、全員を飲み込むような塩梅だったが、それも無視して歩いた。

 そして、森の深奥、森の主の社へとようやく辿り着いたのだ。

 社は、普段、村人が手入れをするわけでもないのに、不思議と寂れた様子はなく、神々しさと不気味さを炯々と放ちながら建っていた。

 森の中の建物ならば、蔦の一つも絡まり、落ち葉の一つも積もるのが普通なのに、その社はぴかぴかと、毎日下人が拭き磨いたように月の光を跳ね返している。

 普通ならば、神々しさの一つも覚えるだろうその光景も、若者達には、裏返しの禍々しさを感じさせるものだった。

 若者達は、乾いた喉をゴクリと鳴らした。ここにいるのが、自分達の想像も及ばない、恐るべき存在であることを思い知らされたのである。

 恐怖にがちがちと歯を鳴らす若者達、彼らに向けて、社の中から声がした。

 

「おうおう、村の若衆どの。大義であったの。今年の贄は、神輿の中かいの?」

 

 男とも女とも分からぬ、そも、人の声ではない声で、そんなことを問いかける。

 若者達は心底震え上がったが、問われた言葉に返さなければ、一体どんな報いがあるか知れたものではない。

 互いに顔を見合わせ、中でも一番年上の者が、震える声で応える。

 

「よ、夜更けに御足労様でございます、森の主殿。仰るとおり、今年の贄は神輿の中で御座います」

 

 社の中から、数人の、さんざめく声がする。余程贄を待ちわびたか、声は嬉しく逸りたつような有様だった。

 

「ご苦労ご苦労、村長には確かに今年の贄は受け取ったとお伝えくだされや」

「あな嬉しや。今年の贄は、特級品と聞きましたぞ。さぞ柔らかな肉をしておるに違いないわな」

「目玉しゃぶろか、腕もいで喰おか」

「わいにゃなずきをくだしゃんせ」

「ああもう皆の者、五月蠅いわ。少しは鎮まれ、お里が知れようぞ」

「お前様こそ堅苦しいわい。今宵は宴ぞ。少しばかり羽目を外してもばちの一つも当たりはせぬぞえ」

「はよう、はよう贄をこちらへ」

 

 いくつもの男の声、女の声、若い声、年寄りの声が、社の中から恐ろし気に響く。

 若者達は、もはや一秒だってこの場にいるのが嫌だった。今だって全員が全員、膝ががくがくと震え、下半身からは力が抜け、小便をちびらないのが不思議な有様なのである。しかし、務めを果たさなければ村に帰ることは出来ないし、いったいどんな厄災が村を襲うか知れたものではない。

 最後の気力を振り絞り、神輿をその場に降ろして、中から御子を引っ張り出した。

 御子は、まだ小さな子供だった。褐色の肌が、松明の揺らめく炎に艶々と照らしだされる。髪は、銀色と灰色の中間のような色で、松明の炎の下、薄紅く染まっている。

 年のころは、まだ10歳をどれだけ超えているだろうか。少年とも少女ともとれる、整った顔立ちである。

 その御子が、意外としっかりとした足取りで、神輿から歩み出る。そして、自分をここまで連れてきた若者達のほうを振り返り、深く頭を下げた。

 

「皆様、夜も遅くのお勤め、ご苦労様でした。あとは、私だけで十分でございます」

 

 それは、年若い少女の声だった。

 

「いや、しかし……」

 

 若者の一人が、口ごもる。

 そも、若者達の役目は、御子をこの社まで連れてくること、そして、滞りなく、その身を森の主の生贄とすることなのだ。もう社は目の前だが、万が一にでも御子に逃げられれば、長老連中からどんな叱責を喰らうか知れたものではないし、だいいち、社の中にいる何者かが、若者達の不手際を許すとは思えない。

 顔を見合わせる若者達だったが、

 

「御子の言う通りじゃ。おのれらはもう去ねい」

「後は妾らが饗宴ぞ」

「それとも、その御子の貪られる姿を見たいかや?ならば特等席にて見せてやらんこともない。祭りの夜じゃ、酒が欲しくば振る舞うてやろうぞえ」

 

 くすりくすりとした笑い声とともに、社からそんな声が響いた。

 若者達は、明確な恐怖を浮かべて一勢にその場に平伏し、

 

「お、恐れ多いことでございまする。それでは主様。我らはこれにて失礼いたします故、後はごゆるりと」

 

 そう言うが早いか、皆でからの神輿を再び担ぎ上げ、尻を捲るようにしてその場を駆け去った。

 残されたのは、御子が一人と社に潜む森の主だけである。

 森は、奇妙に静まり返った。先程まで、囃し立てるように叫んでいた小鬼どもも、まるでこれから起きるだろう惨劇を恐れるかのように、あるいは待ちわびるかのように、息を潜めている。

 しかし、木々の陰から、枝と枝の間から、無数の目玉がぎょろりと見開かれ、その惨劇の一瞬も見逃すまい、舌と胃の腑で味わえないならば、せめてまなこに焼き付けようと、無数の下妖が御子の儚げな姿を凝視するのだ。

 全く、それは悪夢そのものの情景であった。このような身の上に置かれれば、誰しもがこれを一夜の夢であることを望み、或いはそうであるに違いないと己を騙し、茫然自失の態に陥っていただろう。それとも、恐怖に心を失って、泣き喚いたか狂ったように笑い転げたか。

 だが、年若い御子は平然とした様子でその場に座した。背筋を伸ばし、凛とした有様で社に潜む何者かに相対していた。

 

「ほう、これは肝の座った童女よな。頼れる何者もおらず、夜の魔森に一人残され、我らと相対して、それでも平気の平左の顔とは」

「何故逃げぬ?逃げれば万が一にでも助かるやもしれぬのに」

「残念残念、至極残念。せっかく久方ぶりの鬼ごっこに興じられると思ったにのう」

「しかし、流石は高貴な血筋よ。これは、村長に感謝せねばならぬのう。今年の月は、きっと村をよく照らそうぞ」

「これ、童。貴様は名を何という?」

 

 やはり、老若男女の声が奇妙な調子で会話をするのを、御子は泰然とした姿で聞き、

 

「森の主殿に慎んで申し上げる。我が名はアーシェラ・ウル・グラム。誇り高き聖グラム王家の血を引く者である」

 

 一瞬、森の主も言葉を失った様子だったが、しかしすぐに、どよめきとも歓声とも判別出来ない声があがる。

 

「おお、おお、我らは何と果報者よ!聖王家に連なる者のししを食めるとは!」

「はよう喰らおうぞ!もはやいっときも待てぬわえ!」

「うむ、うむ、これは、神が我らに与え給うた黄金の如き幸運だわいな!王家の血を啜り、ししを喰らえば、寿命が百年は伸びようぞ!」

「あなうれしや!」

 

 ズルリと、とてつもなく重たい何かが地を這う音がして、社の戸ががたりと、不思議な力で開かれた。そして、社の周囲に立てられた篝火に、怪しげな青い鬼火が灯る。

 化外の光景の中、社から姿を現したのは、身の丈がどれほどか測ることも出来ないような、巨大な蛇であった。ぬらりと光る鱗に覆われた胴体は、大人の男三人でようやく抱えることが出来るだろうかというほどに太い。

 到底、小さな社に収まるような大きさではないのに、社の入り口が異世界と通じているように、大蛇はずるりずるりとその姿を現す。

 やがて全容を現したのは、そのまま社を幾重にも巻きつけるだろう、小山のような大くちなわであった。しかし、その先端、本来であれば頭がある箇所は、大きく窪み、正面から見ると渦のように窄まっているのだ。

 その窄まりが見る見る盛り上がり、中から巨大の肉塊がぼろりとまろびでる。

 それは、幾つもの人の首と、体毛のように生えた腕が絡み合った、吐き気を催すような異形の肉塊だった。そして、その肉塊が、どうやら胴体の内側に巻き込まれていた、大くちなわの頭部であるらしかった。

 得体の知れない粘液に塗れた人の頭が一勢に目を見開き、腕の群れが宙を掻くようにもぞもぞと蠢く。死人のとろけた瞳の視線が、御子に集中する。

 そして、男の、女の、老人の、子供の首を無造作に粘土に突き刺したような大くちなわの頭部が、男の、女の、老人の、子供の声でけたけたと嗤うのだ。

 

「恐れることはないぞよ、御子殿。我らに食われれば、汝は我らの一部となり、共に永遠を生きることになるのだからな」

「我らも、汝と同じ、かつての贄のこしかたなり。少しばかり姿形は変わってしまったがな」

「人たる汝には、我らの姿、些か悍ましく思えるやも知れぬが、なんのなんの、なってみれば、この有様も悪くない」

「住めば都、成れば化け物よ。変わったことといえば、いつも小煩い輩どもが隣に生えていることと、後は人の肉が天上の美味に感じられることくらいのもの」

「喰われる瞬間は、生まれたことを後悔するほど痛くつらく苦しいが、しかしそれはいっときのこと。我らと共に魔森の主となる幸福に、汝もすぐに感謝するだろうて」

 

 悪夢から這い出たようなくちなわの頭に、しかしアーシェラと名乗った御子は、恐怖に身を震わせながらも正面から相対し、

 

「森の主殿よ。重ねて慎み伺いたい。貴殿は、月を支配し司る者と聞き及び、私は贄として選ばれた。その点、間違いはないか」

 

 アーシェラの毅然とした質問に、大くちなわは尊大な調子で応える。

 

「おうよ、我こそは月を飲む蛇、そして月を司りし竜、大妖シュガールなり」

「光栄に思えよ御子殿。お前は今日から我らのともがらとなり、共にこの世界の半分を支配するのだからな」

「月の無い夜に女は孕まぬ。生命を生み出すは月、はぐくむは太陽よ」

「なればこその尊い犠牲がそなたである。うむうむ、これもまた名誉なことよな」

 

 がやがやとした首の会話に、アーシェラがなんと、歓び勇んだ様子で再び問いかける。

 

「それでは、貴方こそが、この世界の月ということか!」

 

 一瞬、大くちなわの首に生えた全ての首が目を丸くし、そしてにたりと嫌な笑みを浮かべる。

 

「まぁ、そういうことになってはおるが、それは建前よな」

「齢が千を超え、おろちと呼ばれるほどの身になれば、逸話の一つや二つ、背びれも腹びれも合わせてついてこようというもの」

「阿呆らしい、月を飲むといっても、まさか本当に夜空の満月を飲み下せるわけなかろうて」

「まさか御子どのは、そのような子供だましの巷説を信じて、我にその身を捧げることを決めたのか?」

「我らが贄を求めるは、その甘いししを喰らい、とこしえに寿命を延ばし続けるためよ。そして村人どもは、贄をもって我らを鎮め、代償として平穏な一年の生活を得る。それだけの話で、それ以上ではないぞよ」

「我らを月の化身と信じてその身を捧げるつもりだったのか?ならば、何とも気の毒な話よな」

「しかし、知恵足らずな様も、また愛おしいのう。その無垢さ、わらわの好むところであるぞえ」

 

 大くちなわの無情な言葉に、アーシェラは一瞬呆気にとられた後で悔し気に俯き、そして小石を吐き出すように呟く。

 

「私は、恐ろしい」

 

 くちなわは、アーシェラのその様子を見て口々に哂い声をあげ、やはりにたにたと嫌らしい笑みを浮かべ、

 

「そりゃあ恐ろしいわいな。微塵に嚙み砕かれて死ぬのじゃもの。文字通り、死ぬほど痛いぞ。死ぬほど苦しいぞ。恐ろしかろう恐ろしかろう。それが人というものよ」

「そんな当たり前の道理を口にするなど、なんと愛らしいわらべでございましょう。御子や御子や、生えるならわらわの隣に生えてくりゃれ。さすれば、とこしえに、さぞさぞ優しく愛で続けてやるがゆえに」

 

 自身を憐れむかのような大くちなわの言葉に、アーシェラは首を横に振る。

 

「勘違いするな化け物。私が恐ろしいのは、死でも、死に至る苦痛でもない。ただ、貴様らのような、下賤な化け物に喰らわれ、その一部と化して永遠を生き、魂を腐らせ続ける、その一事が耐え難いのだ」

 

 顔を恐怖に青褪めさせたアーシェラの震える言葉に、大くちなわから生えた首の、全ての顔の表情が固まる。

 その、殺気の篭もった視線の群れを総身に受けながら、しかしアーシェラは怯むことなく大くちなわを見据えて続ける。

 

「そして我が身は生まれたときより高貴なる存在の贄と定められしもの故、死を恐れることはない。ただ、貴様のごとき、贄をただの上等な食事としか認識しない、下等なあやかしの捧げものとして果てる我が身が残念で仕方ない」

「ほう、贄の分際でぴいちくぱあちく囀りよる!ならば、貴様も、貴様の言うところの下等なあやかしとして、永遠の生を生きるがよいわ!」

 

 鎌首をもたげた大くちなわが、その頭部を真っ二つに大きく開く。

 肉塊の割れたそこには、鮫のように鋭い牙が生えそろい、巨大な舌がだらりと垂れ下がっている。

 捕食者を象徴するかのように恐ろしい大くちなわの口に、アーシェラは避け得ぬ死を実感し、ぎゅっと目を瞑った。幼き日から死は常に隣にあったが、それが訪れるのは、生きとし生ける者の本能として恐ろしかった。

 

 ──兄様。

 

 末期の言葉を心中で呟いたアーシェラであったが、しかし覚悟した衝撃も苦痛も、いつまで経っても襲い掛かってこない。

 一息に殺さず、気が済むまで嬲り殺すつもりか。いぶかしんだアーシェラが恐る恐る目を開こうとしたその時、視覚よりも先に、聴覚と触覚がその場に起きた異常を知らせた。

 それは、どさりと重たい者が地に落ちる音と、その振動だった。

 果たして何が起きたのかと、目を見開いたアーシェラの視界に飛び込んできたのは、真っ二つに切り落とされた大くちなわの下顎だった。

 

「くえあぁぁぁぁっ!」

 

 大怪鳥が世界樹の枝から万里に向けて鳴くように、大くちなわの本体が、森そのものを震わす泣き声を上げた。

 同時に、頭部から生えた人の首も、それぞれが苦悶に喘ぎ、ひいひいと泣き声を上げている。

 

「なんじゃ、何が起きた!?」

 

 無事な上顎から生えた頭がきょろきょろと辺りを見回せば、

 

「助けておくれ、助けておくれ!」

 

 切り離された下顎に押しつぶされた頭が、憐れを乞う声で泣き叫ぶ。

 そして切り裂かれた大くちなわの下顎跡からは、腐臭漂う血がとめどなく溢れ、苦痛に身をくねらせることで噴水のように舞い散る。

 正しく阿鼻叫喚の地獄絵図だ。

 その中に、ただ一人、自分に背を晒し、大くちなわに相対する人影を、アーシェラは見た。

 鬼火に蒼く照らされた、烏のように深い黒の髪。

 怪異に敵するには、あまりにか細く見える華奢な体躯。

 しかし手にするは、大男でも構えるに一苦労するだろう、大振りの鉄だんびら。

 自らの身長に届かんとする鉄の塊を、小枝のように振ってあやかしの血糊を飛ばし、落ち着き払った声で一言。

 

「一撃で首を落とさなかったのは最後の慈悲だ。今後、人を食らわないと約束するなら生かしておいてやる。森の奥でひっそり暮らし、二度と人前に顔を見せるな。それが嫌なら、この場で斬って捨て置く」

 

 それは、少女の声だった。凛と、鈴を鳴らすように耳に心地よい声が、しかしくろがねの如き威圧感で、大くちなわを圧していた。

 

「き、貴様、我らがこの森の主、大妖シュガールと知ってのことか!」

 

 大くちなわから生えた人の首の中でも、一際年重そうな翁の首が、口角泡を飛ばしながら、奇妙に甲高い声でそう問うた。

 対する少女、片頬を上げて嘲るように笑い、

 

「貴様が竜だろうが蛇だろうが蚯蚓だろうが、おれの知ったことか。おれが貴様に訊いているのは、おれの言うことに大人しく従うか、それともここでこの剣の錆となるか、いずれを選ぶかということだけだ」

「おのれ、矮小なる人間如きが!齢千を超える大妖シュガールを前にしてその驕り高ぶる有様、万死に値しようぞ!四肢をもぎ取り、枝に早贄にして、カラスどもにその肉をほじらせてやるわ!」

 

 大くちなわが、いまだ血を噴き出す下顎をそのままに、とぐろを巻いて鎌首をもたげ、少女を威圧する。

 少女から見れば、家よりも巨大な蛇が自分を見下ろしながら憤激に牙を剥いているのだ。これが恐ろしくないはずがない。

 少女に守られるよう後ろに立ったアーシェラですら、あまりの恐怖に我知らず膝が折れて、地に伏せてしまったほどだった。

 しかし少女は全く怯えた様子もなく、

 

「インユェ!この子を頼む!」

 

 そう叫んだ。

 すると、鬼火の向こう、魔森の奥の暗がりの中から、音もなく、馬のように巨大な狼が飛び出し、アーシェラの服の襟首あたりを噛み咥え、大くちなわの間合いの外へと運び出した。

 子猫のように素早く運ばれたアーシェラは、一瞬我が身の置かれた状況が飲み込めず、しかしその巨狼を見上げて、先程の恐怖を忘れたように驚いた。

 

 ──なんと美しい生き物か。

 

 聖銀の粉をまぶしたように、清らかに輝く毛並み。竜胆色に輝く、深い知性と勇気を宿した瞳。そこらの痩せ狼などとは比べものにならないほどの巨軀。それらのいずれもが、醜い大くちなわとは比較にならない、夜の支配者たる威厳に満ちていた。

 先ほど、大くちなわは、我こそは月を司る竜と自称したが、とんでもない。月を司る存在がこの世にいるならば、きっとこの巨大な銀狼のことをこそいうのだとアーシェラに確信させるほど、その狼は美しく気高い有様だったのだ。

 魂を抜かれたように、茫とした表情で己を見つめるアーシェラに、巨狼は、暖かな感情を込めて見つめ返す。もう大丈夫だ、安心しろと、そう言われたように、アーシェラは思えた。

 そして次の瞬間、凄まじい破砕音が魔森を引き裂いた。

 大くちなわが、その巨大な尾を振り回し、身の程知らずの不届き者どもを叩きのめそうと試みたのだ。

 凄まじい攻撃だった。

 鬼火の灯された篝火台が、頑丈な社が、辺りの木々が、一息に薙ぎ倒される。まともに人に当たれば、一撃で命を奪い肉の塊に変えるだろう尾撃を、しかし少女はひらりと跳躍して身を躱した。

 そして地に足をつけると同時に身を小さく撓め、一気に大くちなわとの間合いを詰め、無防備となった大くちなわの胴体に、大上段から唐竹割りの一撃を振り下ろした。

 ガキン、と、硬質な音が鳴り響く。

 大くちなわの胴体をびっしりと覆う鱗が、少女の大剣を跳ね返した音だった。

 大くちなわは、得意気な調子で少女を嘲笑う。

 

「愚か者め、人の鍛えたマガネの武器程度で、金剛石にも匹敵する我が鱗を切り裂けるものかよ!」

 

 渾身の一撃を防がれた少女は、しかし顔を青褪めさせるどころか、より一層の不敵な笑みを浮かべ、

 

「ほう、それはそれは御大層なことだ。親切な講釈痛み入る。ではお言葉に甘えて、鱗に覆われていない箇所を狙わせて頂こう!」

 

 言うが早いか、少女は大くちなわの胴体に飛び乗り、激烈な踏み込みでその頭部へ向かって駆け、大くちなわの残された上顎に向けて一撃を叩き込む。

 鱗に覆われていない剥き出しの肉塊は、鉄の剣の前にバッサリと切り裂かれ、上顎は綺麗に左右へと両断された。

 

「ぎええぇぇぇっ!」

 

 大くちなわは、再び鼓膜を劈くようなけたたましい悲鳴で泣き、あまりの苦痛にその巨体を捩らせた。グネグネと跳ね回る巨体は、間尺こそ違えど、陽光に焼かれて悶える蚯蚓の様子そのままだった。

 その時点で少女は大くちなわの胴体から飛び降り、大剣を油断なく正眼に構えている。

 両断された上顎から生えた首どもは、そのいずれもがひいひいと泣き、もう許してくれ勘弁してくれと乞うていた。それは、先程までの、森の主としての歪んだ威厳など何処にも存在しない有様だった。

 しかし、怪異の本体たる大くちなわは、まだ勝負を諦めていないのだろうか、それとも生き物として防御本能だろうか、柔い頭部を守るために、その頭部を胴体にめりめりと引き込み、ついにその内側へと完全にすぼみ込ませてしまった。

 頭部のあった場所には、渦巻きのような窄まりがあるだけで、もはや大くちなわの巨体の何処にも、鱗で覆われていない場所はない。

 なるほど、これでは流石の少女も、攻めるべき部位がないということになる。いわば、殻にこもったヤドカリであった。

 

「ほほ、これならば手の出しようもあるまいて!」

 

 それは、到底人の声帯が発したとは思えない、異様な声だった。どうやら、シュガールと名乗るこの大くちなわの、本体の声らしかった。

 矮小なはずの人間如きを前にして文字通り手も足も出ず、完全に守りに入ったらしいのに何故か得意げな大妖を見て、少女は、呆れたように息を一つ零し、

 

「確かにそうされてはこちらに攻め手はないな。だが、それでは貴様はものも見えないのではないか?」

 

 冷静な調子でそう訊いた。

 返す大妖、鼻高々の声色で、

 

「ふん、ものが見えずとも何の問題もないわ!これより、我は夜が明けるまでこの身を振り乱して暴れまわり、あらゆるものを引き潰し、この森を瓦礫の山と変えてくれる!貴様も御子も、有象無象の区別なく全ての生き物を挽肉にしてやるわ!」

「それは困ったな。ところで森の主とやら。一つ聞きたいことがあるのだが、良いかな?」

「なんだ、今さら命乞いなら聞かぬぞ!」

「いやいや、この期に及んで見苦しく泣き喚くつもりはない。ただ、冥途の土産代わりに、教えてほしいことがあるのだ。貴殿がその名にし負う大妖ならば、是非ともお答えいただきたい」

「ふん、くだらぬ下等なげす人間よ!良かろう、質問を許してやろう!この大妖シュガールが、せめてもの手向けに答えてやる!」

 

 鼻息荒くそう言った大くちなわに、しかし少女は、氷華の如く凍てついた声で応えて曰く、

 

「いや、もう結構だ。やはり貴様は何も言わずとも良い」

 

 ものの見えない大くちなわには分からなかったことだが、僅かな問答のその隙に、少女は背から短弓を取り出し、矢をつがえて構えていたのだった。

 片目を瞑り、狙いは大くちなわの頭部の中央、首の窄まりの中心だ。

 過たず矢は放たれ、ぴゅうと空気を切り裂く音と共に、矢は的である窄まりの中心にぶすりと突き立つ。

 その衝撃で、少女の意図するところにようやく気がついた大くちなわが、窄まった首に矢を立てたまま、腹を震わせて嗤う。

 

「くかかっ、無駄なことを!そのような小細工──」

 

 我には通用せぬわ。

 大くちなわはそう高笑いしようとして、失敗した。

 刹那、窄まりの中心に突き立った矢の鏃が、大音声とともに爆発したのだ。

 硫黄臭い爆風が瞬時に巻き起こり、大くちなわの肉体を爆散させ、石礫や木っ端、そして大くちなわ自身の肉や鱗の破片を凄まじい速度で撒き散らした。

 地に伏せ、大剣を盾にした少女はしばし強く目を瞑り、上空に打ち上げられた破片がパラパラと降り注ぐに至って、ようやく軽く息を吐き出して総身の緊張を解いた。

 

「──ふぅ。ブリガンどのの細工矢の威力たるや、恐るべきものだな」 

 

 爆発の惨状を眺めながら、まるで他人事のような言葉であった。

 ただ、少女の言葉は正鵠を射ていた。少女の放った細工矢は、大くちなわの長大な胴体を半ばまで吹き飛ばしていたのだ。

 大地に横たわったその死骸は、巨大な胴体が四方に裂けて赤黒い肉が露わとなり、まるで異形の花がそこに咲いたような有様だった。

 如何にしぶとさが身上の蛇妖といえど、強力な爆薬が体内で破裂したのでは耐え凌げようはずがなかった。

 大くちなわが完全に死んでいることを確認した少女は、大剣を背の鞘に戻した。

 

「おおい、片付いたぞインユェ」

 

 暗がりに向けてそう言うと、アーシェラを咥えた銀狼が、爆発にもびくともしなかった大樹の影から姿を現した。

 そして、少しぞんざいな様子でアーシェラを地に置き、ふさふさとした尾を振りながら少女に駆け寄り、砂ぼこりで煤けた少女の頬をぺろりと舐めた。

 少女も嬉しそうに、巨狼の鼻筋を撫でてやる。

 一方、未だ目の前の出来事が夢かうつつかすらわからない様子のアーシェラは、あやしげな鬼火の熾りに照らされたその情景を、忘我の表情で眺めていた。

 そして、あやかし退治を成し遂げた少女が、初めてアーシェラを見つめる。

 アーシェラは、その少女の、黒真珠のように深く美しい瞳の色を、きっと生涯忘れないだろうと思った。

 

「大丈夫か?とんだ災難だったようだが、ご無事で何より」

 

 少女は、呆けたように地に座ったままのアーシェラに手を差し伸べる。

 アーシェラは、ようやくこれが現実だと気が付いたように、少し慌ててその手を取り、未だ覚束ない足取りで何とか立ち上がった。

 

「いえ、その、本当にお見事な戦いぶりでした。おかげさまで、命を一つ拾うことができました」

「それは何より。しかしあなたのほうも、あの化け物を前にして、見事な口上であったぞ。見目麗しいおなごにみえて、中々大した肝っ玉のようだ」

 

 アーシェラと比べてもそれほど年上とは思えないくらいの年のころの少女は、からからと豪快に笑う。その無邪気な様子を見ると、先ほどまでの女武者振りが何かの間違いだったのではないか、アーシェラにはそんな気がしてしまう。

 

「ところで、どうしてあのように恐ろし気な化け物を相手に取ってまで、私を助けてくれたのですか?」

 

 アーシェラが控えめな調子で訊くと、少女は年相応の様子で小首を傾げ、

 

「助けては不味かったか?」

 

 無邪気にそう問い返す。

 アーシェラは慌てて首を横に振り、

 

「いえ、違います。助けていただいたことには本当に感謝しています。ただ、こんな夜更けの森の中、どうして危険を冒してまで私を助けてくれたのかが不思議で……」

「渡る世間に鬼はなしというし、情けは人のためならずともいう。別に殊更不思議なことでもあるまい。しかし……そうだな、おれ自身が、かつて気まぐれで命を救われて、それが存外に嬉しかったのだ。だから、あなたを救ってみたくなった。それが一番の理由だろうな」

「気まぐれで命を救われた?」

「うむ、正しく。その上、気まぐれの延長線で共に剣を並べて戦い、王座を取り戻してもらい、結婚までしてもらったのだ。なんとも有難い話だ」

 

 少し気恥ずかしい様子で頭を掻く少女を、アーシェラは呆然と眺めやった。

 その視線に居心地悪いように、少女は話を変える。

 

「ところで、袖振り合うもなんとやらだ。貴女の名前を伺ってよいか?」

 

 アーシェラは、両手を胸の前でぎゅっと握り、

 

「私の名は、アーシェラ・ウル・グラムです。貴女は──」

「おれは、ウォル。ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン……違うな、そう、今はただのウォル。それがおれの名だ」

 

 アーシェラには、薄暗がりで微笑む目の前の少女の笑顔が、まるで太陽の笑顔のように見えたのだ。




後書き
 いつも拙作をお読みいただきありがとうございます。
 仕事と私生活の関係で、今後、少し更新ペースが遅くなりそうです。
 できるだけ長期間は空けないようがんばりますが、どうかご了承いただけると幸いです。
 今後ともよろしくお願いいたします。
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