懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第百三十三話:ささやかなる宴

 ウォル、アーシェラ、そしてインユェの二人と一頭は、魔森の中心、破壊された社の前で一夜を明かした。

 まだ年若いアーシェラは、極度の緊張と恐怖から解放された反動からか、ウォルと名前を交わした後に気を失うように眠りに落ち、ウォルとインユェは、小さな焚き火を囲んで交代で仮眠を取りつつ朝日を待ったのだ。

 普通なら、少女二人というご馳走を前に殺到するだろう魔森の物の怪達も、主である大くちなわを事も無げに倒してのけたウォルと巨狼であるインユェを恐れたのか、遠巻きに指をくわえるだけで襲いかかってくることはなく、彼らは平穏に一夜を明かすことが出来た。肝の太いウォルなどは、高いびきをかいていたくらいだった。

 朝日が、張り巡らされた大樹の枝葉の間から、薄く森の中を照らし出す頃合いに、アーシェラは目を覚ました。

 ぼんやりと浮かび上がる意識の中、昨晩の恐るべき体験を思い起こして身震いする。あらためて周囲を見回せば、昨日の戦いの爪痕として、なぎ倒された木々や社、そして爆発の跡がまざまざと残っている。

 

 ──よく生き残ったものだ。

 

 魔の者に生贄に捧げられ、その牙が我が身を噛み割くその間際に、不思議な少女に救われたのだ。

 まるで吟遊詩人の謳う物語に迷い込んだような非現実感が、アーシェラの思考に薄い膜をかけているようで、どうにも昨日のことがうつつの出来事か、信じることができない。

 もしかすると、自分は怪物の餌食になり、既に肉の身体を失った幽鬼の類と成り果てたのではないか。そんな考えが頭をよぎるが、肌を刺す冷たい空気を感じてぶるりと身を震わし、今、自分がいるのが現し世なのだと、ようやくアーシェラは実感した。

 朝の深い森は、吐く息が薄ら白くなるほど空気は冷たかったが、身体はそれほど冷えていない。それがアーシェラには不思議だったが、すぐに、ウォルが羽織っていた外套で身を包まれているためだと気がつく。

 アーシェラは慌てた様子で辺りを伺い、命の恩人たる少女の姿を──ウォルの姿を探した。

 きょろきょろと周囲を見回すと、昨夜はあれほど禍々しかった森が、薄い陽光に照らされて濃い緑が鮮やかや様子で、清涼感すら覚える光景に変わっていることに気がつく。夜と朝では見る者の印象が違うのは当然だが、おそらく妖気の源であった森の主が討伐されたことも大きいのだろう。

 果たして、ウォルの姿はすぐに見つかった。

 昨晩討ち果たした大くちなわの死体の前に屈み込み、何事かをしているらしい。

 アーシェラはウォルのもとに駆け寄り、その後ろ姿に向けて、

 

「あの、ウォル様、おはようございます。すみません、私だけ子供のように眠りこけていたようで、その上外套までお貸しいただいて、何とお礼を申し上げればよいか……」

 

 申し訳なさそうにそう言うと、立ち上がって大儀そうに腰を伸ばしたウォルが、

 

「いやいや、事実、あなたはまだ子供なのだ。こういう場合、野営の火の番は大人が勤めるのがならわしだ。気にしてもらう必要はないぞ」

 

 笑いながらそう応える。アーシェラは、無遠慮に眠りこけていた自分が恥ずかしく、頬を赤らめながら何度も頭を下げた。

 アーシェラは、あらためて、命の恩人たる少女を眺める。

 年の頃は、自分よりは少し上のようだが、しかしウォルのほうとて、まだ子供と呼ばれる年代のはずである。火の番を大人が勤めるのが当然という先ほどの台詞が、どうしても不自然に思えてしまう。

 しかし、話し方は妙に老成していて、まるでもっと年上の、しかも男性と話しているような気になってしまうのだ。

 それより何より印象的なのは、まだうすぼらけな朝日のもと、煌めくようなウォルの相貌の美しさである。その麗しさは、同性のアーシェラをして溜息しか出ないほどのものであった。

 闇夜で妖しい鬼火に照らし出された時ですら美しく輝いていた黒髪は、陽光のもとでは、黒曜石に妖精の羽根を重ねたように、黒を基調にしつつも七色に輝いている。

 長く豊かな睫毛に縁取られた、意志の強い瞳は、黒真珠よりも黒く、しかし太陽の如く輝いているようだ。

 顔の造りの整い方は、かつて見たエルフの姫君よりもなお美しく、すれ違っただけで世の全ての男性を虜にするのではないかという有様。

 アーシェラは、思わず時を忘れたかのようにうっとりと、ウォルの美しさに見入ってしまっていた。

 忘我の様子で自分を見遣るアーシェラの様子をどう解釈したのか、ウォルが慌てて顔を拭い、

 

「おっと、気を付けていたつもりだが、やはり血が跳ねていたか。これはお目汚しだな」

 

 はっとしたアーシェラは、慌てた様子で首を横に振り、

 

「いえ、そのようなわけではなく……えっ、血、ですか?」

 

 少し物騒な言葉に、そういえば先程まで、大くちなわの死骸の前でウォルが何をしていたのか気になったアーシェラが、覗き込むようにウォルの手元を見ると、短刀を片手に、大くちなわの皮を剥いでいるらしかった。

 

「あの、何をなさっているのですか?」

「ああ、これか?どうやらこのあやかしの鱗は鉄よりも硬いらしいからな、それに見栄えも悪くない。街で売ればそれなりの金に変えられるだろうと思い、剥ぎ取っているところだ」

「森の主の鱗を、売る……」

 

 アーシェラは思わず絶句した。

 あれだけ見事な怪物討伐を成し遂げて、それを誇るでもなく、淡々と金の話をするウォルが奇妙に思えたのだ。

 しかし考えてみれば、猟師は森の獣を狩って肉や毛皮を日々のたつきとするのだし、怪物を倒して報酬を得る狩人のような職もあるのだと聞く。それに、ウォルの言う通り、陽光のもとに照らし出された大くちなわの鱗は宝石のように煌びやかで、武具にするにせよ細工物にするにせよ、売れば相当の高値が付くこと疑いないように思えた。

 それにしても、村々に時折ちょっかいをかける小鬼程度ならともかく、あれほどの大妖を独騎で倒してのけるなど、やはり御伽噺の主人公くらいのものだろう。

 もしも現実的に、例えばこの地を治める領主あたりが本気で大くちなわの討伐隊を出すなら、それは軍隊と呼ばれる規模になるに違いなかった。

 そして、そのような討伐隊を隠密に動かして、気取られることなく大妖に近づくのは不可能ごとであり、年を経て知恵をつけた怪物は、無用な危険を冒すことなく、軍隊が去るまで何処かに引きこもる。

 結果として、ああいった化け物を打ち果たすのは極めて困難であるため、どこの領主も見て見ぬふり、村人達は泣き寝入りというのが実情であった。

 おそらく、大くちなわに毎年の生贄を捧げていたという麓の村も、似たりよったりの事情だろうと、アーシェラは思っている。

 ならば、その不可能を成し遂げた偉大な戦士が、極めて現実的な金勘定をしていることに、アーシェラは強い違和感を覚えてしまったのだ。

 そんなアーシェラの内心には気が付かない様子で、ウォルは再び屈み込み、大くちなわの死骸に短刀を差し込み、めりめりと音を立てながら、慣れた手つきで皮を剥いでいく。

 その様子を眺めていたアーシェラが、思わず質問する。

 

「その、ウォル様は、猟師なのですか?」

「何故そう思う?」

「その、こういったことにずいぶんと手慣れたご様子ですので……」

「いやいや、おれには、幼き日に狩猟のいろはを叩き込んでくれた友人とその叔父どのがいてな。こういったことは手慰み程度にはこなせるようになった。芸は身を助くというが、本当のことだな」

 

 暢気にそう言いながら、しかし見事な手さばきで、てきぱきと大くちなわの皮を処理していく。

 

「おい、インユェ。悪いが今度はそこを抑えてくれ」

「わふ」

 

 ウォルの声の向けられた先に目を遣ると、小山のように大きな銀狼が、大木の幹のように太い前脚で大くちなわの死骸を押さえ、ウォルの作業がしやすいよう協力している。

 どうして今の今までその存在に気が付かなかったのか、我が事ながらアーシェラは呆れつつ、しかしその銀狼の威容にあらためて驚き、たたらを踏んで尻餅をついてしまった。

 その様子を見て、ウォルが苦笑する。

 

「心配ないぞ、アーシェラどの。その狼はおれの大切な友だ。決して意味なく人を襲ったりしないし、人の言葉を理解している」

 

 『大切な友』という言葉に、銀狼は嬉しそうにその立派な尾を振った。

 その無邪気な様子に、流石にこれは危険な存在ではないことを理解したのだろう、アーシェラがウォルに問う。

 

「人の言葉を……つまりこの狼様は、ウォル様が調伏されたあやかしということですか?」

 

 口元を震わせながらのアーシェラの言葉に、ウォルは小首を傾げ、

 

「はて、あやかしという括りがどういうものかはおれにはよく分からんのだが、インユェは決して、よこしまな存在でも人に仇為す存在でもない。無論、気に食わないことがあれば怒りもするし、その度が過ぎれば噛みつきもするだろうが、それは正しく人にすることと同じだ。なあ、インユェ」

 

 ウォルの言葉に、銀狼がその通りと頷いた。

 なるほど、やはりこれは尋常な存在ではないと理解したアーシェラは、立ち上がって銀狼と正対し、深々と頭を下げた。

 

「あの、狼様、昨晩は本当にありがとうございました。私はアーシェラ・ウル・グラムと申します。貴方様のおかげで、こうして無事に朝日を拝むことができました。このご恩、一生をかけても必ずお返しいたします」

 

 ぎゅっと目を瞑りながら、しゃちほこばった声色でそんなことを言った。

 すると、地面に向けて下げられたアーシェラの顔を、何だか心地よい、柔らかくて暖かいものが撫でた。

 はて何事かと目を開ければ、どうやら銀狼が、アーシェラの、埃に煤けた頬を舐めたらしい。

 人と獣、言葉を交わすことは出来ずとも心は通じるものだ。

 アーシェラは、銀狼が自分を友と認めてくれたような気がして、飛び上がりそうなほど嬉しかった。

 そして、この、神獣のような銀狼には少し不敬かとも思ったが、おずおずとした調子で尋ねる。

 

「あの、狼様。もしもお許しをいただけるなら、御身の毛づくろいなどをさせていただいてもよろしいでしょうか?」

 

 幼子が菓子をねだるような下から見上げるような視線を、隠し切れない期待に輝かし、アーシェラは頼み込む。

 どうやら、豊かな毛並みの獣を心ゆくまで撫でて愛でたいというのは、老若男女を問わず、全ての人間が持つ欲望らしかった。

 銀狼は、少し不服そうに鼻を鳴らした。それは、自身の身体を毛づくろいする栄誉は、ただ一人の少女──ウォルのものだと考えていたからだ。

 しかし、そんな銀狼の様子を見たアーシェラは、目に見えてしゅんと残念そうであった。

 流石に気が病んだのか、銀狼は、ウォルのほうに首を向けると、ウォルは苦笑とともに頷く。

 それくらい許してやれと、そういう顔だった。

 銀狼はもう一度鼻を鳴らし、アーシェラが撫でやすいよう、その場に伏せた。

 どうやら自分にその身を触れさせることを許してくれたらしい銀狼に、年相応の子供のように嬉しそうなアーシェラは、恐る恐ると手を伸ばし、自身の視線とほとんど変わらない高さにある銀狼の背中の豊かな毛並みを一撫でした。

 掌に伝わるのは、まるで天鵝絨の外套を撫でたような、滑らかで柔らかな感覚だった。そして、銀狼の暖かな体温と、力強く伝わる心臓の鼓動。

 何故か、アーシェラは涙が出そうなほどに感動した。そして、我を忘れたような熱心な様子で、何度も何度も、銀狼の背を撫でて毛を梳いていた。

 銀狼のほうも、意外とまんざらでもないのか、竜胆色の瞳を閉じてリラックスしている。

 そんな一人と一頭を横目に、あらかた大くちなわの皮を剥ぎ終えたウォルは、今度はその肉を細かく切り分け、削って尖らせた木の枝に挿し、焚き火の横に並べた。

 さして時を置かず、じゅうじゅうと、肉が焼け脂が焦げる、食欲をそそる良い匂いが辺りを満たす。

 時間の流れを忘れて銀狼を撫でていたアーシェラも、その愛らしい鼻をひくつかせて辺りに漂う良い匂いに気が付き、匂いの源らしいウォルの方を見遣る。

 

「あの、ウォル様、何を焼いているのですか?」

 

 生き物のさがとしての食欲を強く刺激されたアーシェラが、控えめにウォルに尋ねると、

 

「む?ああ、皮はあらかた剥ぎ終えたのでな、次は肉を頂こうかと思ったまでだ」

 

 つまり、あの忌まわしい大くちなわの肉を焼き、食べようということか。

 一瞬絶句したアーシェラが、我に返って、必死な形相で叫ぶ。

 

「い、いけません、あやかしの肉を食らうなど!そんなことをすれば、胃の腑は腐り、三日三晩苦しみ抜いて命を落とすのですよ!」

 

 そんなこと、それこそ子供でも知っている常識ではないか!だから、人はあやかしを打ち果たすことはあっても、その死体はその場に捨て置くか焼いてしまうのだ!

 この見目麗しい少女は、あれほどの武勇を誇りながら、もしかするとあやかしを狩るのは初めてなのだろうか。

 訝しむアーシェラに、ウォルは朗らかな表情で、

 

「いやいや、この肉に限ってはそんなことはないぞ?そも、肉に宿る毒とは、狩られる側の生き物が、我が身を守るための手段として進化の過程で獲得したものだからな。小鬼や屍食鬼程度の小妖ならともかく、これほどの大妖ならば毒を持つ必要がそもそもない」

 

 進化、という聞き慣れない単語にアーシェラは心中で首を傾げたが、ウォルは呑気な様子で続ける。

 

「それに、一年もこんな生活を続けていれば、食えるものと食えないものの区別は、だいたいこの身体が見分けてくれるようでな。どうやらこの肉は問題ないらしい。インユェ、お前はどうだ?お前の鼻は、この肉は毒だと言っているか?」

 

 ウォルの問いに、いまだ地に伏せた姿勢の銀狼は、首を横に振ることで己が意思を伝える。

 つまり、狼の鋭敏な嗅覚も、大くちなわの肉は安全だと判断したということだ。

 そんな銀狼の様子を見て、ウォルは嬉しげに頷く。

 

「それに、蛇肉はだいたい旨い。見ろ、少し炙っただけでこんなに脂と肉汁が溢れ出てくる。これは間違いなく極上のご馳走だぞ」

 

 ぺろりと品の無い様子で舌なめずりしたウォルを、アーシェラは唖然と眺める。

 蛇を食べるという時点で、アーシェラの常識からすれば既にあり得ないことなのに、ましてこれは千年を生き、この地を支配した大妖なのだ。それを食らうなど、どう考えてもまともな人間の思考とは思えないのだ。

 普通なら、気狂いの所業としてアーシェラも見て見ぬふりをするかも知れないが、何しろ相手は自分の命の恩人である。アーシェラも、必死な様子で何とか説得を試みる。

 

「し、しかしこの大妖は、人を長年、贄としてたいらげてきたのですよ?人を食らい続けたあやかしを人が食らうなど、おぞましいことではありませんか!」

「おぞましいかどうかは知らんが、人とて死ねばただの肉だ。無論、人が人の肉を食うのは確かにおぞましい事なのだろう。それは正しく道理から外れた地獄の光景だからな。しかし、人の肉はやがて地に帰り、その栄養を植物が吸い上げ、その植物を動物が食い、その動物を人が食う。それが世の道理だ。ならば、人を食ったあやかしの肉を人が食うくらい、道理から外れるものではないと思うぞ」

 

 そう自信満々に言われると、ウォルの言葉にも一定の説得力があるように、アーシェラにも思えてしまう。

 しかし、やはりあやかしの肉を食うということに、アーシェラは嫌悪感をぬぐえない。

 

「だ、だからといって……」

「お、そろそろ食い頃だな。どれどれ、味はどんなものかな?」

 

 アーシェラの必死の制止を馬耳東風と聞き流したらしいウォルが、焦げ目のついた蛇肉の刺さった串を取り、腰の袋から塩を取り出して振りかける。

 すると、よく焼けた肉の上で細かく塩の粒が白く輝き、何とも食欲をそそる有様なのだ。

 アーシェラは、思わずごくりと唾を飲み下してしまった。

 ウォルは、串の横からかぶりつき、一息に肉を串から引き抜き、頬を膨らませてもぐもぐと咀嚼し、大きく喉を鳴らして飲み込んだ。

 そしてにんまりと相好を崩し、

 

「うむ、やはり旨い!これぞ狩りの醍醐味だな!」

 

 そんなことを剛毅に言い放ち、次の肉の制覇に取り掛かるのだ。

 次々と消えていく肉を見ながら、何故か悲しげな、そして物欲しそうな顔をしたアーシェラに、

 

「どうされた?アーシェラどのは食わないのか?これはご馳走だぞ。無論、無理強いするつもりはないが……」

「わ、私は……」

「わん!」

 

 口籠ったアーシェラの代わりに、元気よく答えたのは銀狼であった。

 ぱたぱたと尻尾を振りながら正しく涎を垂らしそうな勢いの銀狼に、ウォルはよく焼けた肉を差し出すと、銀狼は器用に肉を串から外し、嬉しそうぱくぱくと食べてしまう。

 

「うぉん!」

 

 もっともっとと催促する銀狼に、ウォルは苦笑し、自分も肉を次々と頬張りながら、狼に肉を与えてやる。

 その合間に、次の肉を焚き火にくべるのも忘れない。

 そして、肉を食う合間に、革袋に入った葡萄酒をごくりと煽り、思わず大きなうなり声を上げる。

 

「──くはぁ、これはたまらん!」

 

 まるきり、宴会で極上の料理に舌鼓を打つ賓客の様子である。

 そんなウォルの様子を恨めしげに眺めるアーシェラは、先程から何度も鳴き続ける腹の虫を宥めるのに苦労し続けていた。

 彼女は、生贄の作法として、身を清めるためにここ数日は野菜と果実しか食べておらず、また、一昨日からは水以外の何も口にしていない。

 そんな状態で、鼻は脂の焼けるたまらない香りを嗅ぎ、耳はじゅうじゅうと心地よい音を聞き、目はウォルが心底旨そうに肉を平らげていく姿を映しているのだ。

 

 ──これではまるで拷問ではないか!

 

 アーシェラは心の中で抗議の声を上げたが、しかし現実の彼女の身体は、強く食べ物を欲しているのだ。

 アーシェラの心の天秤は、目の前の宴に参加したいという欲求と、あやかしの肉を食べるなどとんでもないことだという常識とで、揺れに揺れていた。

 しかし、結局のところ、人とはちょいとばかり知恵をつけた猿に過ぎないのであって、本能的欲求と後天的に獲得した知識とでは、どちらが勝るかなど言うまでもないことである。

 それに……よくよく考えてみれば、自分は昨晩生贄として死んでいたはずの身の上である。仮に大くちなわの毒に当たって死んだとして、死んで元々ではないかと、アーシェラは開き直り、自分を納得させた。

 コホンと一つ咳払いをしたアーシェラは、ウォルの横に行儀よく座り、

 

「……あの、ウォル様。私も一つ、頂いてもよろしいでしょうか?」

 

 ウォルは、先程までの言葉を翻して食欲に負けたらしいアーシェラに、嫌味の一つを言うでもなく、むしろ宴の参加者が増えたことを喜ぶように嬉しげに串を手渡す。

 湯気の立つ肉を前に、あらためて生唾を飲み込んだアーシェラは、清水の舞台から飛び降りる気持ちで肉に齧りつき、恐る恐る噛み締めた。

 すると、少し噛み応えのある肉から溢れる甘い肉汁が口中を満たし、わずかな塩気と合わせて絶妙な味わいとなってアーシェラの脳髄にガツンと衝撃を与えた。

 行儀よく口元を手で覆い、しかし頬の辺りはもぐもぐと勢い良く動かして、肉を飲み込んで一言。

 

「──美味しい!私、こんなに美味しいお肉、初めて頂きました!」

 

 きらきらと目を輝かせたアーシェラであった。

 この、幼くして過酷な運命を背負わされた少女の、これほど嬉しそうな顔を初めて見て、にこにことしたウォルはしたりと頷く。

 

「ゲテモノはだいたい旨いのが世の常だが、蛇はその最たる例だな。しかもこれはたっぷり脂がのって丸々としていたからな。不味かろう筈がない」

 

 どうしてこの肉が『たっぷり脂がのって丸々として』いるのかを意図的に考えないようにして、アーシェラは夢中で肉を頬張った。その美味しさたるや、はしたなく舌鼓を零すことを我慢するのに、一方ならぬ努力を要するほどだった。

 その無邪気な様子を、幼子を見守る大人の視線で見守っていたウォルは、思い出したように自らも肉を齧り、銀狼にも肉を与える。

 二人と一匹の宴は、途中で食休みを挟みつつ、結局昼過ぎまで続いた。

 健啖家のウォル、丸一日以上絶食していたアーシェラ、そして巨狼のインユェである。結構な量の肉が彼らの腹に収まり、アーシェラなどはポコリとお腹が膨れるほどの様子だったが、当然のことながら大くちなわの肉はまだまだ残されている。

 満足とともに、少し無作法ではあるが横になっていたアーシェラは、その肉をどうするのかなと思っていたのだが、ウォルは、肉を一か所に集め、薪をくべて燃やし始めた。

 食べるために焼いているのではない。処分するために焼いているのだった。

 

「少し勿体ないが、肉を放置して森のあやかしが食べれば、妙な力をつけんとも限らんからな」

 

 確かに、森の主たる大妖の肉だ。それが人に対してどのような効用を持つかは神のみぞ知るであるが、同じあやかしからすれば力の源となるのは容易に想像できる。ウォルの処置は正しいものに思われた。

 ぱちぱちと木が燃え、あわせて大くちなわの肉も灰と変わり、その煙が天高く立ち上っていく。

 その煙を、ウォルは、まるで死者を悼むように見つめた。その横顔を見たアーシェラも、神に対して祈るのと同じ姿勢で、祈りを捧げた。それは、かつて自分と同じく大くちなわに生贄として捧げられ、囚われ、あやかしの一部と成り果てて侮辱され続けてきた魂達に捧げる祈りだった。

 肉が完全に灰となる頃、太陽は西の空へと傾き始めていた。

 ウォルは、大くちなわの皮を丸めて紐で括り、インユェの背に括り付け、自らも銀狼の背にひらりとまたがった。この狼に合わせて設えられた鞍と鐙は既に取り付けられているから、ウォルはひらりとまたがることが出来た。

 かなりの重量になるはずだが、銀狼は特に苦し気な様子もなく、軽やかに足を踏む。

 馬上ならぬ狼上の人となったウォルに、アーシェラは頭を下げる。

 

「あの、本当にありがとうございました。いつお返しできるかわかりませんが、この御恩、一生忘れません」

「アーシェラどの。失礼な言い方だが、どこか行く宛てがおありか?」

 

 ウォルの言葉に、アーシェラは、年にそぐわぬ達観したような表情で力なく微笑み、首を横に振る。

 

「この身は、生贄として捧げられるために育てられ、昨晩を限りの命と教え込まれて生きてきました。それが、ウォル様のおかげで生きながらえ、正直に申し上げれば、どのように身の振りかたを定めるべきか途方に暮れております。しかし、差し当たっては、まずは麓の村に森の主が討たれたことを伝えようかと」

「そうすれば、あなたはどうなる?」

 

 ウォルは、瞳に強い意思を込めてそう問うた。

 アーシェラの言うとおり、彼女の口から、村人達に大くちなわが討たれたことを告げたとしよう。

 果たして、村人達はそれを喜ぶのだろうか。毎年の生贄を捧げる義務から解放され、身近にいた恐るべき怪異が祓われたことを喜ぶのが当然かも知れないが、そうでなければどうなるか。

 長年、森を治めた大妖がいなくなれば、それは村にとって大きな変化である。その変化が、果たして自分達に正と働くか、それとも負に働くかは誰にも分からないのだ。ならば、やはりもう一度生贄を捧げ、今まで通りのやり方を続けるべきだという主張が、どうして無いと言い切れるか。

 そうなれば、当然のことだが、生贄に捧げられるのはアーシェラに違いないのだ。

 ウォルの意図するところを理解しているアーシェラは、無言で首を横に振った。もしもウォルの懸念が現実となったとして、それもさだめと諦めたような、そんな暗い顔だった。

 そしてその顔は、ウォルが一番嫌いな、絶対に幼子に浮かべて欲しくない表情だった。

 ウォルは、むすっとした表情を浮かべ、ふんと鼻息を吐き出した。

 その時、騎手の意図を汲み取った銀狼が、そのしなやかな足取りでアーシェラへと近づくと、うつむき加減のアーシェラの襟首をウォルはむんずと掴み、何と片手でアーシェラを持ち上げて自身の前に座らせたのだ。

 

「う、ウォル様!?」

 

 思いがけず、突然鞍上の人となったことに驚き、己を振り返るアーシェラに、ウォルは悪戯を成功させた悪童の微笑みを向け、

 

「黙っていろ!舌を噛むぞ!」

 

 刹那、銀狼が森を跳び駆ける。

 それは、燕が木々の合間を飛び抜けるような、それとも風に乗った妖精が羽ばたくような、夢のような早さだった。

 そして、驚くほどに揺れが少ない。それは、騎手に出来るだけ負担を与えないよう、インユェが細心の注意を払って駆けているからだった。

 それでも、あまりの速度に恐怖したアーシェラは、へっぴり腰の様子で銀狼の背に張り付き、

 

「あ、あの、ウォル様!私は、生贄として生まれ、生贄と捧げられるべく生きてきたのです!今更生きながらえたとして、どのように生きるべきか分かりません!それに、私の家が、それを許すとは到底思えませぬ!」

 

 悲鳴のようなアーシェラの言葉に、堂々たる騎乗ぶりのウォルは呵々大笑の笑い声を上げる。

 そして、叫ぶように言った。

 

「アーシェラどの!あなたが生贄とするため育てられたというならば、それは結構なことではないか!ならば、その呪われた運命を背負った少女は、昨晩に生贄として死んだのだ!そしてあなたは新たな生を得た!そんなあなたが生きたいように生きて、一体誰がそれを非難出来ようか!」

「し、しかし……!」

「それに、あなたの命の恩人はおれだぞ!だから、あなたはしばらくの間、おれの言う通りに生きてみなさい!それでも自分が生きていることが許せなかったなら、その時はおれも止めない!好きなように己が身を処されるがよかろう!」

「そ、そんなご無体な……!」

「はは、そうだな、男子たるもの、美しいおなごには少々の無体を働きたくなるものよ!」

 

 ウォルの放った、男子たるものという言葉の意味するところが分からなかったアーシェラだが、とにかく今はこの少女に従う他の選択肢が無いことに気がついて、諦めたように溜息を一つ零した。

 そんな二人を乗せて、銀狼は、遠く海沿いの街を目指して飛ぶように駆けた。

 

 

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