懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第十四話:夫婦の事情

 一見して戦いとも思えない戦いは、静かに幕を下ろした。

 勝者はいない。この戦いには、敗者しかいなかった。赤く泣きはらした目をした黒髪の青年も、体を傷だらけにした黒髪の少女も、彼らを見守るしかなかった金と銀の天使も、みんなが敗北者だった。

 何故なら、もはや誰も救われないからだ。もう、救われるべき者は、彼らの長い手の、更に外側に零れ落ちてしまった。

 それでも、彼らの顔は、絶望には染まっていない。

 為すべきことがある。そのために何を為すべきか、それは分からない。しかし為すべきことがあるなら、彼らはそれを成し遂げることが出来るのだ。彼ら自身が、誰よりもそのことを確信していた。

 彼らの表情が、一様に明るかったことを、不謹慎だと罵る人間がいるかも知れない。しかし、悲壮感を漂わせて崖へと突っ走る人間より、酒瓶を片手に陽気な毎日を送る人間の方が遙かに目標に近づくことが出来る。それが、彼らの信念に近いものだった。

 ただ、少女の配偶者たる少年は、根っこはともかく枝葉の部分が素直ではないから、口に出してはこう言って彼女をからかうのだ。その聖緑色の瞳をにこやかに歪めながら。

 

「なぁ、ウォル。まったく、厄介事を進んで拾い歩くのも大概にしとけよ。今度のお前の体は、前みたいに頑丈じゃあないんだからな」

「そうか?」

 

 少女は、新品の服の調子を見るように、自分の体をまじまじと見つめた。

 所々破けて血の滲んだワンピースはどうにも無惨な様子だったが、それがかえってこの少女には相応しいような気もした。

 

「これでも結構気に入っているのだがな」

「気に入っているのか?」

「俺が言うのもなんだがな、相当の美少女だぞ、この子は。世の女性には申し訳ない気もするが、やはり自分がなるならば醜女よりは美女の方がいいに決まっている。例えば、以前のお前のような、な」

「……おれだって、自分が女になったと知ったときはもう少し驚いたものだけどなぁ」

「自慢ではないがそれなりに驚いている。お前という前例を知っているぶん、免疫があるだけだ」

 

 言葉とは裏腹に、憎らしいほどに平然とした様子のウォルは、あの少女に言ったのとほとんど同じ台詞を何の臆面もなく繰り返した。この場にいる誰しもがあの時はいなかったはずだから、別に物臭扱いはされないはずだった。

 まったく、自分と別れた時とちっとも変わっていない、あるいはより重度に進行してしまった夫たる少女の病状を、妻たる少年はほとんど絶望にも似た視線で眺めた。それは、憐憫と尊敬をほとんど等分に含んだ視線だった。

 

「……変わらないよ、お前は」

「そうか?これでも40年、それなりの進歩はしたと思ってるが」

「いや、全然変わっていない。特に苦労性なところなんかは、むしろ悪化してるくらいだ。いい加減にしておけよ、ウォル。普通の王様はな、王座にふんぞり返りながら何でもかんでも人任せにするものなんだぞ」

「自分でも呆れるくらいに勤勉になったものだと感心している。そもそもの俺は、もっと面倒くさがり屋で怠け者だったはずなのだがなあ」

 

 ウォルは、憮然とした顔で呟いた。

 

「おれの知ってるお前は、いつだって働きすぎるくらいの働き者だったぞ」

「それはきっと俺の偽物だ。まったく、そいつのせいで俺がこんなに苦労しなければならん。偽物の分際で本物の俺に迷惑をかけるとは、偽物の風上にも置けん。なぁ、そう思わんかシェラ」

 

 突然話を振られた王妃の元従者たる少年は、苦笑しながら元国王に言った。

 

「お言葉ですが、偽物はいつだって本物に迷惑をかけるものでしょう。それに、もしもその王様が偽物なら、デルフィニア国民全員が騙されていることになりますね。無論、私やリィも含めたところで」

 

 黒髪の少女は厳かに頷いた。

 

「全くもってけしからん」

「でも、それはそれは幸福な嘘でしたよ。きっと、真実を知らされても誰も怒らないでしょうね。それほどに、その偽物の国王様は愛されていましたから」

「愛されていたか」

「それはもう」

「ならば、もう少しだけ偽物のつもりで頑張らねばならないか」

 

 中年の悲哀を含んだような溜息が、可憐な少女の唇から漏れ出した。

 

「まったく、これも偏に王などという因果な商売に身を窶した報いだ。やはり、こんなことになるのなら早々に従弟殿に押し付けておくのだったな」

 

 しかめっ面をしたウォルを見ながら、リィは腹を抱えて笑っていた。

 懐かしい、喉元を擽りあうような会話だ。シェラは、ここが王宮の外れの、深い森に守られたあの離宮であるような気がした。彼手製の焼き菓子と料理と、そして紅茶の香り、あとはさんざめくようなみんなの笑い声が入り混じった、この上なく優しい空気。

 それは、幸せの結晶を鋳融かしたような、あるいは夢のような光景だった。

 その思いは、この場にいる全ての人間が共有していた。それほどに、そこは幸福を体現した場所だった。

 

「懐かしいな」

 

 いつの間にか笑いを収めていたリィが、ソファの上に行儀悪く寝そべりながら、夢を見るようにそう言った。

 

「みんな、元気にしてるか?」

「それを語り始めたら、一晩や二晩では到底足りんぞ」

「それに、酒もいるな」

「ああ、酒もいる」

 

 無論、この世界では、ルウを除く全員がまだ酒を嗜むことを許された年齢に達していない。

 ここベルトランでは長年の慣習から子供が軽い果実酒を嗜むくらいは見逃されているが、リィが好むようなきつめの蒸留酒は間違いなく違法である。

 しかし、誰にも迷惑をかけないかたちでちょっとした違法行為をすることくらい、神様は見逃してくれるはずだった。特に、こんなに優しい心根を持つ少年少女には。

 

「いい場所があるんだ」

「ほう」

「少しだけ、スーシャに似ているかも知れない」

「ほんとうか!?」

 

 大切な話をするには、それに相応しい場所と相応しい酒が必要なはずだった。ウォルとリィはそう確信していたから、そこがウォルの故郷に似た場所であるというならば、それ以上の舞台はないはずだった。

 黒髪の少女は、たいへん喜んだ。

 目にするもの耳にするもの、それらの全てが新鮮な喜びに満ちた世界であるが、しかし懐かしいものが何一つないということに些かガッカリしていたウォルである。

 整備された湖も人の手の入った森も美しいが、何か、彼女の魂を奮わすには決定的に重要な要素の一つが欠けているような気がしてならないのだ。

 少女は、うっとりしたように目を閉じた。きっとその瞼の内側には、小川のせせらぎや小鳥のさえずりも含んだところで、故郷の深い森が映し出されているに違いなかった。

 

「懐かしい……。スーシャ、ああ、なんと清冽な響きだろう」

「ああ。一度だけ、一緒に行ったな。本当に、綺麗なところだった」

 

 リィも、心から同意した。

 そして、思い出したのだ。別れの前日、そこへ夫たる男性を誘って、自分が何を言ったのか。

 少年は、心底嫌そうに眉を顰めた。その表情から何を考えているのかを悟った少女は、微笑いながら問いかけた。

 

「後悔しているのか、俺を誘ったことを」

「いや、お前を誘ったことは後悔しちゃあいないさ。後悔するくらいなら誘わない。おれは真剣に、お前になら抱かれてもいいと思ったんだ。それがどういう理由かは別にしてな」

 

 シェラとルウの耳が、同時にぴくりと動いた。

 無理もない。

 リィがウォルを誘ったことがあるなど完膚無きまでに初耳だったし、そもそも他人の恋愛話というのは人の心を鷲掴みにして離そうとしないものなのだ。

 しかも、男に誘われれば、凍るように冷たい表情と超弩級のげんこつをもって返答をくれてやるはずのリィが、例え相手が夫とはいえ自分から男性を誘うなど、どういう経緯でそんな事態に至ったのか到底想像が付かない。

 驚天動地以上の天変地異と言っても過言ではない。一体どんな表情と台詞でもって、一度足りとて閨を共にしたことのない夫にモーションをかけたというのか。

 ルウが、期待に目を輝かせながら尋ねた。

 

「あの、エディ、もしかして王様と……?」

「勘違いするなよ、ルーファ。未遂だ、未遂。あんなの、思い出したくもない」

「なぁんだ、やっぱりかぁ……」

 

 青年はがっくりと項垂れた。

 シェラは、何故だか胸を撫で下ろした。それがどういう感情の表れなのかは彼自身よく分からなかった。

 

「おれは乗り気だったんだぞ、珍しく。なのに、こいつが土壇場で怖じ気付きやがってさぁ」

「怖じ気付きもするだろうが。全く、あのときは悪夢としか思えなかったのだぞ」

「言うに事欠いて悪夢だと?お前、自分の奥さんを何だと思ってるんだ」

「見た目通りだ。とても女には思えなかった」

 

 少女と少年は、かつて自分達の性別が逆転していたときの思い出話をしながら、昔のように軽口をたたき合った。互いを睨みつける鋭い視線と、その直ぐ下でにこやかに微笑った口元だって、全くあのときのままだった。

 

「それに後悔していないと言うがな、リィ。ではその苦り切った顔は何だ?お世辞にもアレを良い想い出として昇華させてくれたとは思えんが」

「当たり前だ。あんなにみっともない台詞でお前を誘うなんて、一生の不覚だ」

「『これで最後なんだから、いっぺんくらいは夫婦らしいことをしておこう』、『やっぱり、おれが押し倒さなきゃ、だめか……』だったか?俺は悪くない誘い文句だったと思うが……」

 

 悪いも何も、女から男を誘うのにこれほど色気のない誘い文句もあるものか。

 同じことを考えて、シェラは頭を抱えるように唸り、ルウは深く深く納得しながら頷いた。

 もう、なんというか、その光景が目に浮かぶようですらある。

 毅然と腰に手を当てながら、重たい溜息を吐き出した真剣な面持ちの王妃が、あまりに突拍子もない事態に腰を抜かしかけ、かつてないほどに狼狽える王を睨みつける。ひょっとしたら、俺にはやり方が分からないからお前が頑張ってみせろ、くらいの台詞も口にしたかもしれない。

 ルウは、心底ウォルを羨んだ。そしてシェラは、心底ウォルに同情した。

 きっと台詞だけでなく、その表情にも色香の欠片も見当たらなかったのだろう。

 まったく、この人に『女性らしさ』を、キッチンの端に転がった野菜屑の一片程度にでも期待するのは、宝くじの大当たりをライフプランに組み込むくらいに愚かなことだと知っていたはずなのに。

 二人はほとんど同じことを考えながら、しかしその反応は正反対に異なる。そして、内心で同時に呟いた。

 

 あぁ、それは如何にもリィ(エディ)らしい、と。

 

 そんな、二者二様の二人を脇目に、リィは目の前に座った少女に対して、珍しく大声を上げた。

 

「ウォル、お前な、夫婦の秘密を人前で話すやつがあるか!?」

「あそこまで自分で話しておいて、今更だろうが。それに、この二人の前で我らを偽ったところで始まるまい。第一だな、なんともお前らしい台詞だったではないか。ああいうタイミングで言われたのでなければ、きっと俺も誘惑に負けていたぞ」

「……そうか?」

「ああ、間違いない」

「ふん、どうだか」

 

 疑わしげな視線を寄越しながら、しかしまんざらでもない様子のリィである。

 そんな彼を見つめるウォルの視線にも、冗談の影だって存在しない。

 シェラは、降参しましたというふうに首を振った。もう、そうする以外どうしようもなかった。

 結局、似合いの夫婦の、誰しもに溜息を吐かせるしかない、なんとも奇妙な惚気話というところであった。

 そんな、明らかに明後日の方向に脱線しかけた話を、リィは気を取り直した調子で軌道修正させた。

 

「ま、その星に行くにしたって、今すぐにってわけにはいかないんだ。おれ達にはおれ達の生活がある」

「うむ、当然だな」

「一度おれ達は、この星を離れなくちゃいけない。この星から遠く離れたところで、おれ達は暮らしているんだ」

「ああ、それはヴォルフ殿に聞いた。随分忙しい学舎らしいな」

「そのとおりだ。まったく、今から帰ったって三日後の授業、午前中は欠席だ。頭が痛いよ」

 

 シェラは、こんな時くらいはずる休みや無断外泊も許されるのではないかと思った。

 しかし、リィという少年は、その冷淡とも受け取られかねない言動に比べて、その行動は誠実そのものである。シェラに付き合って始めた学生生活に、ことのほか積極的に取り組み、己の責務を全うしようとしている一事をとってもそれが分かる。

 無論、誰よりもリィ自身がウォルの話を聞きたがっているのは明らかなのだ。

 ウォルの世界にはシェラにとっても懐かしい人達がたくさんいるが、しかしその絆はリィが彼らと結んだものに比べれば幾分細いものであることを、シェラは知っていた。

 だから、間違えても彼が『今からあの星に行きましょう』などとは言うわけにはいかなかった。

 そうすれば、絶対にこの人は怒るに決まっている。そんなことを言っている暇があるならばお前は例のパッチワークをさっさと完成させろ、と。

 それは、ルウも同じだったのだろう。どうにも渋いような歯痒いような、微妙な雰囲気でそわそわとしている。

 それにもかかわらず、やがてルウはおずおずと口を開いた。

 何というか、普段の状態ではシェラほどに忍耐心のない彼のこと、心に住まう天使と悪魔の決闘は、審判との癒着が決まり手で悪魔のほうに軍配が上がったのだろう。

 

「ねぇえ、エディ。あのさぁ……」

「駄目」

 

 綺麗に突っぱねた。

 

「で、でもさ!たった一日、二日くらいなら……」

「却下」

 

 もう、問答無用だった。

 ルウは、大爆発した。

 

「えーっ!ぼく、聞きたい!狸寝入りの虎さんとか、戦うお花さんとか、蜂蜜色のお兄さんとか、みんな何やってるのか、聞きたい!」

「俺とシェラは用事があるんだ。それに比べれば、大学生のお前は時間に融通が利くだろう。なら、ここに残って聞けばいいじゃないか」

「駄目だよ!王様がそのことを一番最初に話すのは、エディ、絶対に君じゃなくちゃいけないんだ。僕は、そのご相伴にあずからせてもらう権利が、あるかないかってところ。だから、君がいなくちゃ意味がない」

「なら、大人しく来週まで待つんだな。きちんと休暇申請のほうは出しておくからさ」

「ううー、エディのおに!あくま!ひとでなしー!」

 

 ルウは、その形の良い頭の中に詰まったありとあらゆる語彙能力をフル活用して、自らの相棒を罵り続けた。

 曰く、でべそ。

 曰く、けちんぼ。

 曰く、あんぽんたん。

 その他おたんこなす、ひょうろくだま、どてかぼちゃetcetc……。

 子供の口喧嘩でももう少し心を抉るような悪口があってもいいものだとシェラなどは思ったが、ここらへんがこの綺麗な天使の限界点なのかも知れなかった。

 それにしても、つい先ほどの悪魔が如き剣呑な気配はどこへやら、盛大に泣き喚きながら四肢をばたつかせる有様は、どこからどう見ても癇癪を起こした子供である。

 すらりとした長身と際立った美貌を除けば、デパートの玩具売り場で泣きながら床を転げ回る子供と変わるところが無い。

 無様であるには違いないが、ここまで徹底するといっそ見事な……とはいえないにしても、しかしある種の爽快感すらあるようだ。こちらに来てからルウとはそれなりの付き合いをしてきたシェラですら驚くような、ルウの醜態であった。

 大の男がそこまで泣き喚くところを見たことがないウォルは、長い睫に飾られた目をまん丸にしながら、自らの妻に小声で尋ねた。

 

「……おい、リィ。この御仁は、こういう人だったのか?」

「ああ、いつものことだ。あと三十分も泣き喚けば疲れて寝るさ」

 

 それこそ、完全に子供である。

 

「……俺は、もう少しこう、超然とした人だと思っていたのだがなぁ」

「こいつはこういうやつだよ、昔から。良くも悪くもな。悟りきって知った風な口ばかり叩き続けるルーファなんて、考えたくもない」

 

 流石に悪口のストックも尽きたのか、クッションを顔に当てながらスンスンと悲しげに鼻をならす黒髪の天使。それを見ていた彼の相棒たる金色の天使は、流石に良心とか同情心とかそういうものが咎めたのだろう、大きく溜息を吐き出すと、優しげな声で言った。

 

「なぁ、シェラ。お前とマーガレットが真心込めて焼き上げた菓子って、どこにあるんだっけ?」

「えっ?え、ええ、それは台所のテーブルの上に……」

 

 蹲ったままのルウの肩が、ぴくりと動いた。眠っているネコが、音を耳だけで追っているような、微笑ましい様子だった。

 シェラ手製のお菓子に対して、明らかに隠しきれない興味を浮かべた、黒の天使。そんな彼を唖然としながら見ていたシェラに、リィは片目を瞑ってウインクをした。

 シェラは、苦笑した。

 

「ストロベリーパイもあるか?」

「はい。リィたっての希望でしたから、真っ先に作り上げました」

「それって、甘い?」

「あなたなら、一口で虫歯になるくらいには」

 

 蹲ったままのルウの耳が、ぴこぴこと動いた。

 そして、ぐう、と、誰かのお腹が鳴った。

 現金なものである。

 

「おれにはよく分からないんだが、甘い菓子だって焼きたての方が旨いよな?」

「ええ、そうですね。昼過ぎに焼き上げて布にくるんでおきましたから、今ならまだほの暖かいかも知れませんね」

「そんな美味しい菓子が、誰にも食べられずに冷めていくなんて、勿体ない話だよなぁ」

「ええ、ええ、リィ。まったくもって、あなたの仰る通りです。私としても、悲しい限りですよ」

 

 笑いの発作を必死で堪えながら、努めて真面目な調子でシェラは言った。

 折角の力作なのだから、一番食べ頃のときに食べてもらいたい。それは偽らざる本心であったが、しかしこの程度のことに吊られるのではいくらなんでも可愛らしすぎるのではないかと、そういう思いもあった。

 そんな思いに応えるように、黒い天使は、ゆっくりと顔を起こして、言った。

 

「……ずるいよ、エディ。そんな美味しそうなもので僕を誘惑するなんて、卑怯だ」

「悪いのはお前だ」

 

 リィはにべもなくそう言った。

 そして、クッションから解放されて涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった恨めしげな相棒の顔を、ハンカチで優しく拭ってやり、続けた。

 

「来週だ。来週には、必ず聞くんだ。それこそ、この冬眠明けの熊が嫌がったって、首根っこ引っ掴んで連れて行く。だから、来週までの辛抱なんだ」

 

 どこまでも優しく、どこまでも忍耐強い、声だった。

 まるで、自分自身に言い聞かせているようですらあった。

 

「冬眠明けの熊は酷いな」

 

 熊呼ばわりされた、もう、ちっとも熊なんかには見えない可憐な少女が、腰に手をあて憤然としながら言った。

 

「ほら、ご覧の通り、今は絶世の美少女なのだ。これを機に、もっと俺に相応しい典雅な渾名を考えてくれたっていいではないか」

 

 自分の夫たる少女を冬眠明けの熊呼ばわりした妻は、胡散臭そうに言った。

 

「じゃあ、冬眠明けの小熊だ。それとも性悪の大家にとんでもなく厄介な物件を掴まされた、頭の悪い間借り人だ。どちらにしたって上等なもんじゃあない」

「そこまで言うか、普通!?」

「ふん、お前のお人好しの過ぎるところには、いつだってはらはらさせられてたんだ。これくらい言ったってバチの一つも当たりはしないだろうさ」

「俺のことをお人好しと言うがな、リィ、そう言うお前はどうなのだ。確かに俺も相当なものだと自覚しているが、それでもお前には一歩及ばんと思うぞ」

「そんなことはない」

「いーや、そうに違いない。だからこそ、俺はこんなところまでやってきたのだ。恩を売るだけ売っておいて、一つも買っていかないとは何事だ。大国同士なら貿易問題に発展しているところだぞ」

「大国同士って、どんな例えだよそれ。贔屓目に聞いてもただのいちゃもんだぞ。それに、恩の一つも買っていかなかったっていうけどな、おれは十分に世話になったつもりだ。飯と暖かい寝床を用意してもらったじゃないか。別にそんなもんが欲しくてあんなことしたわけじゃあないけど、それで十分だ」

「何を言うか。そんなものでお前の恩に報いることが適うと思うほど、俺だって耄碌してはいない。俺はな、リィ。お前さえよければ、そして回りの皆が納得するなら、お前に王座を譲り渡してもいいと思っていたのだぞ」

「……それって、ただ厄介事を押し付けようとしただけじゃあないのか?」

「その通りだ!悪いか!?」

「悪いかってお前……悪くないと思ってるのか……って、思ってるんだろうなぁ……」

 

 無茶苦茶な理屈で王座の禅譲を企てていたらしい元国王は、元王妃の前で堂々と胸を張ってみせた。それに応えるのは、心底呆れたようなリィの呟きである。

 そんな、明らかに高貴な身の上とは思えない二人の遣り取りを聞いて、シェラとルウは、今までの我慢の甲斐も無く盛大に吹き出してしまった。

 そして、一度決壊した堰は誰にも修復されることなく、笑い声を流し続ける。もう、誰にも止められない。

 最初は厳めしい顔で二人を睨みつけていたリィとウォルも、やがて大きな声で笑い始めた。もう、笑うしかなかった。それだけ幸せだったのだから。

 階下で気を揉むヴァレンタイン一家が一体何事かと訝しむくらいに、それはそれは大きな笑い声だった。

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