懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第十六話:息子の夫

 惑星ベルトランの中緯度に位置する大陸、その東海岸沿いにコーデリア・プレイス州は存在している。広大な面積のほとんどが温帯気候に属する、過ごしやすい土地柄だ。

 その星の気候の特性上、雨は比較的多いものの、例えばハリケーンやタイフーンといった自然災害が発生することは極めて稀である。地殻活動も落ち着いていることから地震に見舞われることも滅多にない。たまに竜巻の発生が報じられることがあったりするが、現代の優れた天候観測技術と建築技術の進歩によって、近年では被害者がでることはまず無いといっていい。

 しかし、その日、極めて局地的な嵐が発生した。

 場所は、コーデリア・プレイス州でも古い歴史を誇る高級住宅街、その更に最も古い屋敷が集まる界隈にある、築数百年を数える広大な屋敷のど真ん中である。ちなみに、その屋敷は周囲の人間から『薔薇屋敷』、『ドレステッドホール』、『州知事さんのお宅』などと呼ばれていたりする。

 嵐の原因は、その家の、『ちょっと一風変わった』長男であった。

 周囲の住民は、そこに住む一家は父と母、女の子が二人に男の子が一人の五人家族だと思っているが、本当はもう一人、今年で14歳になる長男がいるのだ。

 知らなかったとしても無理もない。その長男が家にいるのは本当に稀なことだったし、地域のイベント――例えばお祭りやパーティーなど――にもその子供が顔を見せたことはないからだ。

 第一、仮に顔を見せていたとしても、その子がヴァレンタイン夫妻の子供であると見抜くことが出来る人間が、果たしてどれだけいるだろうか。

 黄金を鋳梳かしたような金髪に、最高級のエメラルドも斯くやというほど美しく透き通った瞳、白絹のように滑らかできめの細かい肌と薄薔薇色の頬を持つ、『天使のような』少年。彼が、茶色い髪の毛と同じく茶色い瞳をもった両親から生まれたなど、想像の埒外にある。

 しかし、それでもその少年は、ヴァレンタイン夫妻の、遺伝上の子供であるのは間違いないのだ。

 男女を問わずひたすらに溜息を吐かせるしかないほどに整った容姿のその少年であるが、しかし一風変わっているのは外見だけではない。むしろ、その内に宿った魂の苛烈さに比べれば、その外見の煌びやかなことなどはほんのおまけにすぎないことを、彼に近しい一部の人間は知っている。

 そんな彼――エドワード・ヴィクトリアス・ヴァレンタイン、それともグリンディエタ・ラーデンが、珍しく、家に友人を連れてきたというのだ。

 これには家族は一様に目を丸くし、そしてそれぞれの個性に応じた喜び方をした。

 最も直接的に喜んだのは、彼の父親(少なくとも世間一般ではそう呼ぶ)のアーサーであった。

 彼は自分の息子が、良かれ悪しかれ普通の子供ではないこと、そしてただ可愛らしいだけの天使のような子供ではないことを知っていた。よしんば彼が天使だったとして、決して中世絵画に描かれる、美と安らぎをもたらす天使ではない。寧ろ、戦乱と血煙の中にこそ最も映える、戦いの天使だ。

 そんな彼だから、同年代の友人というものが他の兄弟に比べて極端に少なかった。今年で14歳になるが、学校というものに行き始めたのが去年の中頃からだったというのもそれに拍車をかけている。

 だからといって、全く友人がいないわけでもない。彼に相応しく、やはり『ちょっと一風変わった』友人がいるのだ。

 去年、リィが半月ほど姿を見せなくなり、まぁこれもいつものことかと思いながらのんびりと仕事に励んでいたアーサーのもとに、妻から突然電話がかかってきた。

 

『リィがきれいなお友達を連れてきたのよ』

 

 彼は一も二もなく仕事を放り出し、午後の予定の全てをキャンセルしてエアカーに乗り込み、法定速度を遙かに超えるスピードで家路についた。

 いつもと同じ家族団欒の風景。そこに加わった、太陽の輝きを固めたように見事な金髪。

 その隣に、月の光を固めたような銀色の頭があるのをアーサーは見つけた。全く少女としか思えない整った顔立ちのその子は、自分は少年だという。

 それが、後に彼の未成年被後見人に収まる、シェラ・ファロットである。

 彼はとても利発な少年で、ロストプラネット出身であるというのに文明に馴染むのも早く、料理や手芸などにも類い希な才能の片鱗を見せた。また非常に礼儀正しく、細やかな気配りも出来、熟練の執事のように落ち着いたところがある。

 そんな少年が自分の息子の友人になってくれたことを、アーサーは心底喜んだ。

 そして、またしても息子が友人を連れてきたという。当然、普通の子供であるはずがないとは確信しているが、自分の息子が友人と呼ぶ存在ならば、世間に溢れる素行不良の少年少女であるはずがない。その点、アーサーはリィを信頼していた。

 その友人がこの家を訪れたのはまだ太陽も残滓を残すような時間ではあったが、今はとうに陽も落ち、もう少しで日付が変わろうという時間である。

 当然、夫妻の子供たちは各々の部屋で眠りについている。チェイニーなどは少々ぐずったが、しかし明日は学校もあるので、渋々と自分の部屋に引き上げていった。

 残されたヴァレンタイン夫妻が今や遅しと待ち構えているのは、ドレステッドホールのもっとも広い居間である。そこは数百年の歴史を誇るその建物に相応しく、荘厳な雰囲気すら漂わせる家具が惜しげもなく配置されている。

 足首が渦もるのではないかと思うほどに毛の長い絨毯は、当然の如く高価な天然素材だったし、驚くべき事に熟練の職人たちが長い年月をかけて手織りしたものだ。

 黒檀のキャビネットに所狭しと並べられた酒瓶は、その一つ一つが平均的な大卒初任給を軽く吹き飛ばす高級酒ばかりだったし、その趣味も専門家を唸らせるほどに凝っている。

 そんなふうだから、コーデリア・プレイス州の州知事を務めるアーサーの高給でも館の維持費を賄うには結構な苦労があったりするのだが、しかしそんなことは子供たちの想像の埒外である。

 ともかく、そんな、一般家庭の水準からすれば溜息しか出ないような高級家具の群れ、その中でも一際古い歴史を誇る柱時計が、重々しく新しい一日の到来を告げたときだった。

 居間で待ち構えていたアーサー夫妻の前に、五人の男女が姿を現したのだ。

 その中にいる、見慣れない二人が、揃って夫妻に挨拶をした。

 

「初めまして、ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィンです」

 

 黒髪の少女はそう言って軽く頭を下げ、スカートの裾を持ち上げた。

 

「初めまして、事情があって姓名及び職業は明かせません」

 

 天を仰ぐような大男はそう言って、武骨に腰を折り曲げた。

 

「えーと、自己紹介の方が先になっちゃったけど、こっちがおれの伴侶のウォル。で、こっちがその警護官のヴォルフだ」

 

 リィは、無造作にそう言った。

 リィに紹介された二人は、ぺこりと頭を下げた。

 彼らの後ろで控えるルウは相変わらず満面の笑みを浮かべ、その隣に立つシェラは片頬を引き攣らせて、辛うじて微笑みと呼べる微妙な表情を浮かべている。

 そして、柔らかなソファに腰掛けたヴァレンタイン夫妻は、あんぐりと口を開き、唖然とした表情を浮かべた。

 果たして、彼らは目の前の事態を正確に理解し得たのだろうか。

 まず、黒髪の少女である。

 歳の頃はリィやシェラと同じくらいの、中等教育に差し掛かった頃合いの顔立ちだ。まだまだ幼さを残しつつも、しかしその中に一握りの成熟さをちらつかせた、綻び始めた花のような年齢である。

 その年代の少女に相応しく、まだまだ未完成の華奢な肉付きの体の上に、どこかリィに似た繊細な造りの顔を乗っけている。

 端的に言えば、美しい少女だった。

 同色の瞳と髪の毛、その漆黒の深さは彼らの背後に設えられた窓ガラスの奥にある、夜の闇よりもなお濃い。だからといってその少女の纏った雰囲気のどこにも暗いものは無い。それは、その漆黒が光を飲み込んでいるからではなく、しっかりと光を跳ね返しているからだ。

 然り、きらきらと輝く大きな瞳と艶やかな髪の毛は、少女の人形の如く整った相貌に生気を吹き込み、それが生きた人間であることを教えてくれる。その見事さは、しっかりと分別を備えた大人であるアーサーに感嘆の溜息をつかせるほどだった。

 しかし、少女を見たアーサーは、内心で首を捻った。

 彼の知るこの年齢の少女は、もっと、良く言えば溌剌さ、悪く言えば落ち着きの無さが目立つものだ。少女がどういう生まれの人間かは別にして、普通ならばこんな時間に他人の家――しかもこれだけ豪奢な――にいれば緊張の一つもするだろうし、そわそわと落ち着きのないところを見せたりもするものだ。

 彼の娘であるドミューシアなどを例に出すまでもなく、それが世間一般の常識というものだろう。

 それに比べて、黒髪の少女の、小憎たらしくなってしまうほどに落ち着き払った様子はどうだろう。口元に優雅な微笑みを浮かべ、視線をあちこちに彷徨わせることもなく正面からこちらの瞳を覗き込んでくる。

 これでは、まるでどこかの国の姫君のようではないか。

 だとすれば、少女の隣に立つ、もう少しでドレステッドホールの高い天井に届くのではないかという長身を誇る男の存在にも理解が出来るというものだ。一国の王妃であれば、お付きの警護官の一人や二人、いないほうがおかしい。

 だが、やはりアーサーはどうにも納得出来なかった。

 厳めしいという単語を体現したような、その男。彼が身に付けているのは、如何にも要人警護官が好みそうな黒一色のスーツである。

 それ自体に不審はところはないのだが、しかしどうにも取って付けたような感があるのが否めない。加えて、本物の警護官が身に付けるスーツにしてはあまりに質が悪すぎる。

 更に言えば、どうにもその肉体とスーツのバランスが取れていない。例えば、普段は荒事に従事しているやくざものが、いきなりその組長の娘の警護を任されて慣れないスーツに体を押し込んだような、ちぐはぐな印象である。

 白いワンピースで着飾った少女と安物の黒いスーツを身に纏った巨漢は、見た目からしてそんなだったから、さしものヴァレンタイン夫妻も言葉も無く茫然と二人を見上げていた。

 そして、その混乱は、リィの一言によって取り返しのつかないほどに加速した。

 自分で姓名は明かせないといいつつあまりにもあっさりとその姓名を明らかにされてしまった大男。ヴォルフというのは、おそらくその愛称だろう。

 彼の説明はいい。彼が要人警護官であるというのはある意味予想通りだ。きっと、叩き上げの軍人か何かが上官の命令で仕方なく警護任務に就いているのだろう。ならば、その物々しい雰囲気と似合わないスーツ姿とのギャップにも説明がつく。

 しかし、もう一人、黒髪の少女の説明については……。

 

「り……りぃ?」

「どうしたアーサー」

 

 リィは、土俵際ぎりぎりいっぱいのところで現実にしがみついているアーサーを、無慈悲とも呼べるような視線で眺め遣った。

 

「おい、どうしたアーサー。顔が青いぞ」

 

 普段なら『僕のことはお父さんと呼べ!』と顔を真っ赤にして叫ぶアーサーは、客人の手前だからという至極もっともな理由以外の理由でもって、怒声を飲み込んだ。

 いや、飲み込んだというよりは、怒声を出す気力さえ持って行かれていた。

 

「ぼ……僕の聞き間違いだろうか。お前は今、このお嬢さんのことをなんて呼んだ?」

 

 狼狽しきったアーサーの視線を受けて、リィは軽く肩を竦めながら言った。

 

「もう一度言うぞ。これはおれの伴侶、要するに配偶者のウォルだ」

「初めまして御父様。リィの伴侶の、ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィンでございます」

 

 リィに比べれば上手に事態を飲み込めているはずの元国王は、如何にも高貴な生まれの少女らしい口調であらためて自己紹介をした。

 その頬には、作り物ではない微笑が浮かんでいる。それは、スーシャの山猿と呼ばれた悪童が、父親に悪戯を仕掛けたときの笑みだった。

 目の前で朗らかに微笑む完全無欠のお嬢様が自分の息子の妻・であるという、正しく青天の霹靂とでもいうべき事実を聞かされたアーサーは、いっそ気の毒なほどに表情から色を消した。普段は血色の良い頬が青ざめて、蝋か雪かという有様である。

 明らかに茫然自失の態で黙り込んでしまった彼の隣で、その妻であるマーガレットは一足早く我を取り戻し、恐る恐ると尋ねた。

 

「ねぇ、リィ。じゃあ、この可愛らしいお嬢さんと結婚したの?」

「うん。途中で邪魔が入っちゃったけど、一応式は挙げたよ」

 

 この世界でのことではないが。

 

「まぁ、まぁまぁまぁ……」

 

 口に手を当てて驚きながら、しかしマーガレットはとても嬉しそうだった。

 彼女は、リィが自分のお腹を痛めて産んだ我が子であると知りながら、しかし自分がこの少年の母親ではないと理解していた。それに、彼が普通のお嫁さんを迎えられる程に、普通の少年ではないことも。

 しかし、いや、だからこそマーガレットは、リィが心から愛し、そしてリィのことを心から愛してくれる義理の娘の存在を心から喜んだ。本当はそれほど心温まる事情で結ばれた婚姻ではなかったのだが、しかしそれを知らないことについて彼女には一切の責めはない。

 ともかく、マーガレットは少女の存在を受け入れた。それも、己にとっての義理の娘として。

 

「ねぇ、あなたのことは何てお呼びしたらいいかしら?」

「如何様にでもお呼び下さい、御母様」

「じゃあ、リィと同じように、ウォルって呼んでいい?」

 

 少女は嬉しそうに頷いた。少なくとも、それは少女にとっての本心だった。

 一応の意思疎通の出来た二人の女性に比べて、アーサーの精神的再建は遅れに遅れた。

 彼は、自身の息子であると信じて疑わないリィが、どれほどに特異な存在かを理解していたので、彼に結婚相手が見つかるとは到底思えなかったのだ。

 無論、人の視線を惹き付けて放そうとしないほどに整った容姿のリィであるから、黙っていれば彼に想いを抱く異性の百人や二百人くらいは簡単に見つかるだろう。

 しかし、その恋人候補がどれほど熱烈に言い寄ったところで、リィはけんもほろろに断るに違いない。まして結婚など、一生を同じ女性と共に添い遂げるなど、想像の水平線遙か彼方の出来事である。

 何か事情があるに違いないと思ったアーサーは、あらためて少女を眺めた。

 そして、気付いたのだ。その少女の衣服が所々破れ、その白い素肌の至る所に青あざが出来ていることに。

 悪戯好きの腕白坊主――例えばチェイニーのような――ならば生傷をこしらえて家に帰ってくるのも珍しいことではなかったが、しかしこれほど清楚な雰囲気を身に纏っている少女が身体中に傷をこしらえているのは尋常なことではない。

 そこで、一体どのようなシナプスが回路を繋いだのかは不明だが、普段からアーサーの脳内で忙しない働きを見せる電気信号が、とんでもない誤作動を起こした。

 単純に彼を責めるのは酷だろう。彼はいわゆる常識人であって、その中においては寧ろ広い度量と寛大な心を併せ持っているのだから。

 この場合、悪かったのは、少女――というよりはその周囲の状況であった。

 あまりにか細いその少女と、彼女を取り囲む四人の男。しかも、その一人は凶悪犯も裸足で逃げだすような、厳めしい顔つきの大男である。彼は少女のボディガードだと言うが、番犬が狼に変じた例など枚挙に暇がない。

 そして少女の身体は、数え切れないような擦り傷やら青あざやらで飾られている。

 何より悪かったのが、足下から腰の辺りまで一息で破られたような、ワンピースのスカート部分である。その隙間から、艶めかしいほどに白い、少女の太腿がちらりと見えていた。

 それを見て、アーサーは愕然とし、悄然とし、最後に意を決したように立ち上がった。

 

「お嬢さん……」

 

 見た目はお嬢様以外の何者でもないウォルの返事を待たず、アーサーは跪き、絨毯の上に額を擦りつけた。

 土下座である。

 これには、流石のウォルも目を丸くした。

 もしかしたら不審人物として誰何されることはあるかも知れない、万が一なら警察に突き出されることもあるかも知れないとは思っていたが、このような事態は想定していなかった。

 

「あ、あの、ヴァレンタイン卿?」

「申し訳ありませんでした!」

 

 特大の猫を脱ぎ捨てていつも通りの口調で話しかけたウォル、しかしその言葉ですら今のアーサーには遠すぎた。

 

「息子があなたにしでかした非道、許してくれとは口が裂けても言えません!言えませんが、しかし息子はまだ未成年なのです!まだまだ精神的には未熟で、抗いがたい獣欲に身を委ねてしまっただけなのです!」

 

 法律上、そして遺伝上の父親であるアーサーの突然の奇行に、流石のリィも唖然としてしまった。

 果たして何事が起きたのかと隣で立つシェラに目配せをしたが、しかしこちらも訳が分からないという有様で首を横に振る。

 こうなると、流石のリィもお手上げである。素直にアーサーに尋ねた。

 

「おい、アーサー。お前、何をしてるんだ?ついに頭がおかしくなったか?頭がおかしくなるくらいに忙しいなら、知事なんて辞めたらどうだ?」

 

 暢気なリィの言葉に、アーサーはきっと顔を上げ、激しい形相で我が子を睨みつけた。

 

「エドワード!お前、自分が何をしたのか分かっているのか!?」

 

 リィは訳も分からず、シェラに問いかけた。

 

「何をしたんだ、おれは?」

「さぁ?」

 

 こうなるとシェラも何が何だか分からない。

 平然と肩を竦めた二人に煽られたように、アーサーの怒気は燃えに燃え盛った。そして、そのままの口調で詰問した。

 

「さっき、僕と約束しただろう!」

「何を?」

「自分を信頼することをだ!」

 

 そういえば、そんなことも言っただろうか。

 

「それがこの有様か!僕は、お前は変わった子だが、絶対に約束は破らないと信じていたのに……!謝れ!このお嬢さんに、心の底から謝れ!」

 

 アーサーは立ち上がり、リィの襟首を締め上げた。

 大人の中でも立派な体格を誇るアーサーと、まだまだ子供と青年の中間くらいの体つきのリィである。どうみても折檻している父親と折檻されている息子にしか見えない。

 しかし、その息子が見た目通りに可愛らしい存在ではないことを知り尽くしているシェラやウォルは、肝を冷やした。リィは、身に覚えのない侮辱や乱暴を、笑って許せるような平和主義者ではないことを骨の髄にまで思い知らされていたからだ。

 然り、リィの緑色の瞳に、灼熱にも似た剣呑な光が宿る。

 そしてそれが爆発しようとした直前のことである。

 

「うん、危ないからそこまでにしときな」

 

 立派な体格を誇るアーサーの背後に、もはや縮尺が狂ったとしか思えない程に巨大な大男が足音もなく回り込み、大蛇の胴体のように太いその腕をアーサーの首に巻き付けた。

 息を詰まらせたようなアーサーの声が短く響き、直後にその体は力無く絨毯の上に崩れ落ちた。

 時間にして一秒か二秒ほどの出来事であった。

 

「何するんだ、ヴォルフ」

「あーっと、ごめんなぁ」

 

 腕を振り上げかけたリィの不機嫌な声に、大男、ヴォルフは素直に頭を下げた。

 そして、その大きな手で、足下のアーサーをひょいと担ぎ上げた。ほとんど重さを感じていないような、空気人形を担ぎ上げるように何気ない動作だった。

 

「でもさ、あんた、この男を殴ろうとしただろう?」

「ぎゃあぎゃあうるさいから、静かにさせるだけだ」

「それでも、殴ると体が痛むからなぁ。首を絞めて落とす方が、何倍も安全だろう?」

 

 これに関しては完全にヴォルフの言うとおりである。チョークスリーパーとか裸締めとかいう技は、その残酷な見た目や効果とは裏腹に、引き際さえ心得ておけば人を取り押さえるのには極めて有効である。

 当然、素人が行えば酷く危険であるが、格闘技の熟練者が頸動脈を上手に締め上げて血流を阻害すれば、人はいとも容易く気を失う。俗に言う『おちる』というやつだ。

 それに比べて、殴って人の意識を奪うのは想像以上に難しく、そして危険を伴う。腹部を狙えば内臓破裂のおそれが、頭部を殴れば脳に相当のダメージが残る。

 むろんその程度のことを知らないリィではない。そして、ヴォルフとて、リィがその程度のことを弁えていないとは思っていない。

 だから、これは純粋にヴォルフのお節介である。そして、不当な暴力に晒された、リィの報復の機会を奪う行為でもある。

 リィは諦めたように苦笑し、そして言った。

 

「出過ぎるなよ」

「うん。悪いなぁ。でもさ、俺、親父がいないからなぁ」

 

 肩に担ぎ上げたアーサーをそのままに、空いた方の手で頭をこりこりと掻きながら、ヴォルフは言った。

 

「やっぱり、親父とおふくろは大切にしないといけないと思うんだよぅ」

「もっともだ。でも、それとこれとは話が別だ。不当な暴力を許しておくつもりはない」

「うん。それはその通りだなぁ」

 

 ヴォルフはもう一度リィに頭を下げて、それからソファに腰掛けたままのマーガレットのほうに向き直った。

 

「あの、すんませんでした。警察とか、呼んで貰ってもいいです」

 

 今にも泣きそうな顔をした巨漢に頭を下げられて、今ひとつ事態に追いつけていなかったマーガレットは、ちょっとだけ曖昧な笑顔を浮かべて、言った。

 

「ええと、ヴォルフさん、でしたっけ?」

「うん……はい」

「ありがとう、夫を助けてくれて。もう、リィだったらきっと、骨の一本も叩き折っていたでしょうから」

 

 それは少々控えめに過ぎる表現なのではないだろうかと、いざという時は止めに入ろうと身構えていたルウは思った。その思いは、シェラとウォルも共有していたものだった。

 

「それにしてもこの人、どうしてあんなことをしたのかしら?」

 

 マーガレットは、その少女のような顔立ちに相応しく、可愛らしく小首を傾げた。彼女の知る夫は、少し融通の利かないところはあったが、だからといってこのように有無を言わさぬ調子で息子を怒鳴りつけることはなかったというのに。

 どうやら警察に突き出されることはないらしいと安堵したヴォルフは、ほっとしたような様子で言った。

 

「この男はさ、勘違いをしていたんだよ」

「勘違い?」

「ああ。ウォル。お前さんがリィに乱暴されたと思ったんだろう」

「はぁっ?」

 

 素っ頓狂な声が、夫婦の口から同時に飛び出た。

 

「おれが、こいつを乱暴したぁ?」

 

 指で自分の顔を差しているあたり、リィも平静ではない。

 しかし、一応は第三者として状況を眺めることの出来るシェラは、なるほどと思った。

 先ほどの、この屋敷を揺るがすような大きな音。実際は半狂乱のルウがウォルを弾き飛ばした音なのだが、あのとき部屋にいなかった人間にはそんなことはわからない。分かるのは、リィの自室から大きな物音が響いたという、その一事のみである。

 そして、その後に顔を見せた少女の身体には至る所に生傷が拵えられており、その衣服も乱れに乱れている。しかも、ワンピースのスカート部分には力任せに引き千切られたように無惨な縦裂きが出来ているのだ。

 なお悪いことに、あのとき部屋にいたのは、少女を除けば男ばかりであった。

 これらを、やや強引ながらも一本の紐で括ってみる。

 何かの経緯があって息子の自室に招かれた深窓の令嬢が、やはり何かのきっかけで燃え上がった男連中の獣欲に晒され、精一杯の抵抗をし、逃げようとする、しかし無情にも彼女を捕らえ、手酷く投げ飛ばすリィ。そして盛大な音が屋敷に響く。その後も抵抗を試みる少女だったが、身体中に青あざを作るほどの暴力の前に心も萎え、いずれ男達の慰み者に……。

 どう頑張って想像の翼をはばたかせても想像できない光景であったが、配役をリィや自分から、どこぞの国の王子様あたりにでも置き換えてやればあり得ない光景ではないだけに、シェラの表情もやや苦かった。もう少し、配慮というものがあってもよかったかも知れない。

 そして、突然のリィの言葉に混乱したアーサーが誤解したとしても無理はないなと、シェラは内心でアーサーにお悔やみの言葉を述べた。

 遅ればせながらにリィやウォルもそのことに気がつき、呆れというよりは感嘆の溜息を吐き出した。

 

「なるほどなぁ……。そういうふうにも理解できるわけか?」

「しかしリィよ。俺はお前と結婚しているのだぞ」

 

 ウォルの言葉遣いに事情を知らないマーガレットは目を丸くしていたが、しかし素知らぬふうでウォルは続けた。

 

「妻が夫を押し倒したところで犯罪にはならんと思うのだが、この国では違うのか?」

 

 事実には即しているのだが、実に微妙な言い回しである。微妙すぎて、マーガレットはそれがただの言い間違いだろうと思った。

 

「それは違うぞ、ウォル。例え婚姻していたとしても、強姦罪は立派に成立する。事実、あのろくでもない王子とおれは、あの国の法律では結婚させられてたんだ。もしもあのままおれが手籠めにされてたとして、お前は法律的に何の問題もないと笑って済ませたか?」

「ふむ。そう言われればその通りだな。栓のないことを言った」

「あの、ウォル?」

 

 マーガレットが、再びおずおずと尋ねた。

 ウォルは、自分を見上げる茶色い瞳を、真っ正面から見つめ返した。

 

「あなたも、その……そうなの?」

 

 そうとは、要するにリィと同じ世界に住む生き物なのかと、そういうことだ。

 ある程度は彼女の意図するところを読み取ったウォルは、少女にはやや似つかわしくないような太い笑みを浮かべた。

 

「いや、失礼した、ヴァレンタイン夫人。もう少し深窓の令嬢というのを演じてみても面白かったのだがな、しかしこんな事態を起こすとは思いもしなかったのだ。やはり慣れないことをするものではない。こういうことは、専門家に任せるべきだ。なぁシェラ」

「いきなり話を振らないで下さい、陛下」

「これは失礼した、ファロット伯」

 

 絶句したシェラを片目に、ウォルは実に楽しそうに微笑んでいた。

 どうやらこれは見た目通りの少女ではあり得ないと、マーガレットも悟った。

 そして、この少女のことを、先ほどまでよりもいっそう大好きになってしまったのだ。

 

「ねぇウォル。あなたは本当に、リィの奥さんなの?」

「それは違うよ、マーガレット。こいつがおれの奥さんなんじゃあなくて、おれがこいつの奥さんなんだ」

「でも、この人は女の子で、あなたは男の子でしょう?」

「前に一度話しただろう?おれは六年間、別の世界にいたんだ。その時のおれは女の子の体で、こいつは男の体だった。だから何の不都合もなかったんだよ」

 

 端から聞けば誰しもが頭を抱えざるを得ない無茶苦茶な理屈だが、その方面には人並み以上の理解の深いマーガレットであるから、きちんと納得した。

 何より、自分のお腹を痛めて産んだリィがそう言っているのだ。自分が信じないで誰が信じてやれるだろう――などという悲愴な覚悟も無くその言葉を信じたマーガレットは、無邪気な調子で言った。

 

「じゃあリィ、あなたはこのお嬢さんのお子を授かったの?」

 

 間違えても息子に言う言葉ではない。

 

「冗談。おれは一度だって男に体を許したことはないぞ」

「でも、この人のお嫁さんだったんでしょう?」

「あれは、そういう結婚じゃなかったんだよ。だから、おれ達もそういう夫婦じゃなかった。言うなれば、同盟者の誓いってところが一番近いのかな?ま、そんな大したもんじゃないさ」

 

 リィは微妙にはぐらかした。これ以上マーガレットの質問に正直な返答をしていたのでは、いずれ自分が王妃としてその国の国王と結婚したのだということを言わなければならない。そこまでならともかく、その先、戦女神として多数の人間を殺したことまでは出来れば教えたくはなかった。

 その気配を察したのだろうか、マーガレットもそれ以上は問わなかった。

 その代わりに、こう言った。

 

「そう。残念な気もするけど、でも私もまだまだお婆ちゃんにはなりたくないし、よかったのかも知れないわね」

「とんでもない。何も知らない人が見れば、マーガレットはドミのお姉さんにしか見えないのに」

「ふふ、ありがと、リィ」

 

 とんでもない母親と息子の会話に、シェラなどは、やはりこの人がリィの母親なのだと首肯した。この人以外、どんな人間にだって、仮初めとはいえリィの母親を務めることは不可能に違いない。

 同じ思いを抱いた黒髪の少女は、あらためてマーガレットの前で深く腰を折った。

 それは、国王として70年の歳月を生きた、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンに相応しい、重厚な挨拶であった。

 

「お初にお目にかかります。私の名前はウォル・グリーク・ロウ・デルフィン。この世界ではない別の世界であなたの息子を妻に娶り、そして言葉では到底表しきれないような恩義を受けてきました。ヴァレンタイン夫人、彼を産んで頂いてありがとうございます。あなたの息子は、私を含めた多くの人間にとって、正しく太陽だったのです」

「デルフィニアの太陽って呼ばれてたのはお前じゃなかったのか?」

「その太陽とて、お前がいなければ無限の闇の中で朽ちていた。リィ、お前も違いなく、デルフィニアの太陽だったのだ」

「それは大変だ。太陽が二つもあったら暑くて叶わない」

 

 どちらかというと寒さよりも暑さのほうが苦手なリィは、苦笑しながらそう言った。

 そして思った。あちらの世界の裏側に生きる魔法使いたちは、一つの世界に二つの太陽が存在することは危険なことだと言っていた。ならば、こちらの世界に自分とウォルがいるのも、やはり危険なことなのだろうか。

 一度、デモンあたりに聞いてみようと胸に止めながら、しかし危険であったとしても自分にはたった一つの選択肢しかないことを、彼は知っていた。

 世界と戦友。果たしてどちらが大切かなど、リィにとってはあらためて思いを巡らす程度のことでもなかったのだ。

 

「ところで、この男、どうしたらいいかな」

 

 またしても忘れ去られようとしていた大男は、自分の肩に担ぎ上げたアーサーを指さして、言った。

 意識を失った夫のことを忘れかけていたマーガレットは、少し慌てた調子で立ち上がった。

 

「あの、ヴォルフさん。申し訳ありませんけど、その人を寝室まで運んで下さる?」

「はい、おやすい御用です」

 

 正しくおやすい御用といった有様で歩き出したヴォルフに、ウォルは言った。

 

「ヴォルフ殿、俺も一緒に連れて行ってくれんか?」

「ああ、ウォル、お前、足を怪我してたんだっけか」

「うむ、折れてはいないと思うのだが……」

 

 少女の左足首は、痛々しいまでに腫れ上がっていた。

 そのことに今の今まで気がつかなかったマーガレットは急いで台所に走り、冷蔵庫から氷嚢を取り出し、包帯と一緒に持ってきてウォルの足首に巻き付けた。

 

「すみません、ヴァレンタイン夫人」

「ううん、ちっとも気にしないで。だって、リィの旦那さんなら、私の息子も同じだもの。でも、今は娘かしら。だから、そんな堅苦しい呼び方はしないでね」

「では……義母上とお呼びしても?」

「まだ堅苦しいわ。お義母さんって呼んでくださらない?」

 

 ウォルは苦笑した。彼の歳になって――見た目はまだ13歳程度の少女なのだが――初めて出会う女性を『お義母さん』と呼ぶのは、少なからぬ抵抗があった。

 そのことを察したのだろうか、マーガレットもそれ以上何も言わなかった。

 そんな二人を眺めながら、これで少しは自分に対する風向きも緩やかになるだろうかと、シェラは淡い期待を抱いた。何せ、次に出会ったときは偉大なる大英雄のことを『ウォリー』と呼ばなくてはならない彼である。自分の苦悩を、少しだけでも分かって欲しかった。

 ともかく手当の終わったウォルは、部屋の中に入ってきたときと同じように、ヴォルフに首根っこを摘み上げられながら部屋を後にした。

 かつて軍神と呼ばれた威厳の欠片もないその姿に、シェラは呆れたような声を出した。

 

「リィ。この世界では、妙齢の女性をあのように扱うのが作法なのですか?」

 

 リィも首を捻った。

 

「多分違うと思うけど、当の本人が嬉しそうなんだからいいんじゃないのか?」

 

 元の姿は堂々たる体躯を有する武人であったウォルであるから、今の体勢のように、自分の体が軽々と持ち上げられるという事実が新鮮で楽しいらしいのだ。

 普通の男なら元の体を恋しがって『このような屈辱に甘んじる覚えはない!』とでも気炎を上げるのが当然なのかも知れないが、そういう当たり前の意地というものが自分の夫には無縁であることを熟知しているから、今さらリィは驚かなかった。

 ただ、呆れてはいた。

 

「あれじゃあ母猫と子猫だ」

「あんなに物騒な猫の親子がいるなら、見てみたい気もしますが……」

 

 茫然とした二人の会話を尻目に、そわそわとしたルウがいた。

 

「……あのさ、シェラ。マーガレットと一緒に作ってくれたお菓子って……」

 

 この黒い天使は、先ほどまでの会話を聞きながら、しかしお腹の虫をあやすのに全勢力を傾けていたらしい。

 シェラは、慌てた様子で答えた。

 

「あ、それなら台所に。今から食べますか?」

「食べる食べる!」

「……太るぞ、ルウ」

 

 リィの忠告は、目を輝かせたルウには届かない。そもそも、彼が人間のように、夜遅くにお菓子を食べたくらいで太ったりするはずがないのだ。

 喜び勇んで台所に向かうルウを追うように、シェラも台所に向かった。

 

「では、お茶でも淹れましょう。リィ、あなたはどうしますか?」

「もらうよ。砂糖は……」

「ええ、一粒だって入れませんよ」

 

 長い付き合いの二人であるから、言うまでもないことではあった。

 

「僕のは砂糖とクリームたっぷりね!」

 

 ルウが台所の方からひょこりと顔を出した。

 

「ブランデーを垂らしてくれると嬉しい。あと、焼き菓子は俺とヴォルフ殿の分も残しておいてくれるとなお嬉しい」

「えーと、俺も食べていいのかな?」

 

 廊下の方からにゅうと顔を出したのは、ヴォルフに摘み上げられたウォルと、その保護者然としたヴォルフであった。

 薬缶に大量の水を注ぎ込んでいるシェラは、果たして小包いっぱいの焼き菓子で足りるのだろうかと訝しがり、今ある材料で手早く作れるレシピに思いを馳せたのだった。

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