懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
「う……ぅ……」
優しい橙色の灯りの中で、アーサーは目覚めた。
ゆっくりと体を起こそうとすると、支えにした手が柔らかく沈み込む。その時点で、自分が横になっているのが、いつもと同じ寝台の上であると気がついた。
――いつの間に僕は寝台に入ったのだろうか……。
普段の行動だから一々覚えていないと言ってしまえばそれまでだが、どうして自分がここにいるのか、その記憶がすっぽりと抜け落ちている。
それでも何とか体を起こし、ぼんやりとした思考に活を入れるべく頬を叩く。それは、夢の世界からの誘惑を断ち切るための儀式であった。
「お目覚めになりましたか」
そんなアーサーの頭に、典雅さと朗らかさが絶妙のバランスで混在した、耳に心地よい声が飛び込んできた。
どうにも聞き慣れないような、しかしごく最近聞いたような不思議な感覚に頭を捻りながら、それでも声の主の方に体を向ける。
そこには、黒髪の少女がいた。
その声に相応しい優雅な微笑みを浮かべ、ベッド脇の椅子に腰掛けている。
アーサーはあらためて目を見張った。
美しい少女である。それも、ただ美しいだけではない。
容姿が整っているというのであれば、彼の娘であるドミューシアも相当なものだ。無論、それよりも美しい少女だって、この広い共和宇宙を探せば無数に見つかるだろう。
しかし、この少女の美しさは何かが違う、とアーサーは思った。
言葉には出来ない。彼の頭に詰まった豊かな語彙力でも、それは到底不可能だった。
それでも敢えて少女の美しさを称えるならば、彼女を象徴する、瞳と髪の黒さだっただろうか。
どこまでも黒く、暗さや穢れなど微塵も感じさせず、こちらの瞳孔を焼くような光を放つ瞳。アーサーは、遠い昔に妻に送った、南方の海で採れた黒真珠で作った耳飾りを思い出した。
そして、夜空を鋳梳かして梳き上げたよう髪の毛。世の女性に、嫉妬を越えた感嘆の溜息を吐かせるしかないそれは量に豊かで質も良く、腰にかかるほどに長く、ほんの少しの癖だってありはしない。語弊を恐れずに言うならば、しなやかな黒い針のように鋭く美しい髪だった。
例えば、この広大な宇宙で最高の腕を誇る人形師が、金に糸目を付けずに集めた最高級の素材で、その魂と命を込めて一体だけの人形を作り上げるならば、このような少女が出来上がるのかも知れない。
アーサーはぼんやりと、そんなことを思った。
「え……と、君は……?」
「あらためて自己紹介をさせて頂きます。私の名前はウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィンです」
少女は輝くような笑みを浮かべ、言った。
アーサーは既に酸いも甘いも知り尽くした政治家であったが、しかしこの少女が浮かべる、真っ正面からの微笑みには面食らった。別に疚しい心があったわけではないが、何故か自分の汚い部分を糾弾されたような、そんな気がしたのだ。
それでもアーサーは名うての政治家である。内心の動揺は一切表に出さず、かたちだけは完璧に礼を返した。
「ご丁寧な挨拶をどうも。私はアーサー・ウィルフレッド・ヴァレンタイン、このコーデリア・プレイス州の州知事を務めております」
片方が自宅のベッドで何とか体を起こした壮年の男、片方がその椅子に腰掛けた少女という二人の間で交わされたにしては何とも異質な挨拶であったが、少女はともかくアーサーはそのことに気がつかなかった。
彼にとって重要なのは、何故自分の寝室に、見知らぬ――しかもこれほどに美しい――少女がいるのか、その一点であったのだ。
アーサーは、大人の男として当然な程度には酒を嗜んだ。それも、我を失うほどに酒が好きというわけではないが、酒豪と呼んでも過言ではないほどに酒には強い。だから、意識を失うほどに酒を飲んだことは今の今までなかったはずだ。
今だって、二日酔いに特有のどんよりとした頭痛は無い。むしろ、連日徹夜でこなした重要事案の審議が終わり、その後で二十四時間の睡眠を貪った時のように、心地よい爽快感がある。
にもかかわらず、何故自分が自宅のベッドで横になっていたのか、それがさっぱりなのだ。そして、何故見知らぬ少女が隣にいるのかも分からない。
そこまでいって、アーサーの脳裏に、最悪の想像が浮かんだ。
もし、もしもである。自分が訳の分からぬ薬物などで意識を奪われ、この少女に手を出していたのだとしたら……?
自分は二重に許されぬことをしたことになる。
一つは、年端もいかない少女を手籠めにしたこと。もう一つは、愛する妻を裏切ったこと。
万が一、いや、それ以下の確率であったとしてそんなことをしでかしていたら、彼の剛胆な精神は木っ端微塵に砕け散るだろう。
激しい動悸に襲われる心臓を何とか宥めながら、彼はやっとの思いで口を開いた。
そして、擦れた声で問うた。
「あの、ミス・デルフィン。つかぬ事を伺いますが、あなたは何故私の家に……?」
もう、罠が張り巡らされた真っ暗闇の森を手探り歩くように、この上ないほどに恐る恐ると言った調子だった。
アーサーにしてみれば、これなら四肢を縛られたあげく、牢屋のようなところで目覚めた方が幾分マシだったと思っただろう。
ごくり、と、生唾を飲み込んだ音が盛大に響く中、彼は審判を待つ罪人のように、少女の声を待った。
そして少女は、先ほどと同じような朗らかな調子で言った。
「ヴァレンタイン卿。私は、あなたのご子息に懇意にさせて頂いております。その縁で、このようなかたちで貴宅にお邪魔させて頂くことになりました」
「ご子息というと……エドワードですか?」
「私はリィとお呼びしております」
その時点で、朧気ながらに大まかな事情を思い出した。
確かに、あの変わり者の息子が友人を連れてくると言っていた。
しかしそれが、これほどに美しい少女だったとは……。
アーサーは純粋な意味で、目の前の少女に興味を抱いた。
「ミス・デルフィン。不躾な質問をお許しください。その、あなたとエドワードは、どのような関係で……?」
少女は、寸分も表情を崩さずに、事実を告げた。
「彼は、私の伴侶です」
にっこりと微笑むその様子に、こちらを騙してやろうという悪意や、冗談を言っているような無邪気なところは一切無い。そんなもの、巧言と虚飾と面従腹背の海を泳ぐ政治家であるアーサーに通用するはずもないのだ。
だからこそ、アーサーの後頭部にとどめの一撃を叩き込むに十分過ぎるほどに十分な、殺傷力を備えた巨大ハンマーの一撃だった。
「あ、あの、伴侶、とは……?」
「言葉通りですわ。私とリィは、誓約の神の前で永遠の愛を誓い合ったのです」
これも完全な事実だ。
アーサーは、もはや泣き出しそうな顔になった。
そして、ついにと言うべきかようやくと言うべきか、自分が気絶するに至った経緯を思い出した。
今は、おそらくドミューシアの服だろうか、幾分活動的な服装に身を包んでいるこの少女が、さっきはどのように無惨な様相だったのか。この美しい少女をそんなふうにしたのが誰なのかを思い出したのだ。
「ミス!どうか、どうか息子を許してやって下さい!」
先ほどと同じように、今度はベッドの上で土下座をした。
「必ず責任は取らせます!自分がどのように卑劣なことをしたのか、思い知らせます!無論、私の力の及ぶ範囲で、あなたには如何なる償いもさせて頂きます!ですから、ですからどうか警察にだけは連絡しないで頂きたいのです!」
無論、リィは警察に連絡されなければいけないようなことはしていないし、ウォルだってされていない。
だが、ウォルは少し疑問に思った。
目の前で、体を縮ませながら必死で謝罪するこの男性は、見たところ公明正大を絵に描いた人間のような気がする。反面、堅苦しくて融通が利かないところも目立つようだが、しかし息子が非道を働いたのならば寧ろ進んで官憲に突き出すような気がするのだ。
それが、何故こうまでしてリィを庇うのか。当然、我が子のこととなれば他の道理を引っ込めても庇おうとするのが親の心理かも知れないが、どうにも腑に落ちなかった。
だから、ウォルは少しだけ悪戯っけを出して、聞いてみた。
「ヴァレンタイン卿。私はこの星の常識には未だ疎いのですよく分からないのです。ただ、責任を取らせると言っておいて警察に知らせるのは嫌だというあなたの言い分には違和感があります。それは些か虫がよい話なのではないですか?」
「あなたの言うとおりです、ミス。罪には相応の罰があるべきで、それは断じて国家以外の何者が行っても良いものでもありません。ですから、私は即座に息子を警察に突き出すべきなのです」
しかし、とアーサーは続けた。
「その……非常に申し上げにくいことなのですが……私はエドワードに関する限りにおいて、政府に一切の信用を置くことが出来ません。私自身が政治に関わる職を選んでおいて笑止な限りでしょうが、しかしこれだけは曲げることが出来ないのです。だから、私は如何なる事情があろうと、息子の身柄を政府に預けることは到底容認出来ない。それをするくらいなら、私はあなたの非難を覚悟の上で、この事件を闇に葬るためにありとあらゆる手段を選ぶでしょう」
「それは脅迫ですか?」
「はい、脅迫です。それ以外の如何なる言葉を使っても、甘言蜜語の域をでない。それだけ、私がしようとしていることは卑劣極まることなのですから」
苦渋に満ちた表情で、アーサーは言った。
「金銭で解決できるならば、私はこの家屋敷を売り払ってでもあなたに賠償させて頂く。犯罪者の父親が知事の職に就いているのが気に食わないならば、即刻議会に辞表を提出させて頂きます。無論、この事件が明るみに出れば次の選挙の落選は免れないものではあるのでしょうが――。それでも気が収まらないのであれば、私を如何様にでも痛めつけて頂いて結構です。ですから、どうか息子を警察に突き出すのだけは……勘弁願えないでしょうか?」
ベッドの上で土下座をするという滑稽な姿勢のまま、アーサーは拝むように少女の黒い瞳を覗き込んだ。
ウォルは、そろそろここらが引き際かと思い、アーサーの肩に手をやった。
「ヴァレンタイン卿。まず、最も根本のところで誤解があるようですわ。私は、リィを含めたあの四人から、如何なる暴力も受けておりません」
この言葉に、アーサーは安堵したと言うよりも、むしろ唖然とした。
「……そのような気休め、不要です。あなたの身体中に刻まれた傷とあの格好を見れば……」
「では問いましょう。ヴァレンタイン卿、あなたの愛するご子息は、一時の劣情に身を任せて、女性の貞操を踏み躙るような男性ですか?あの誇り高き金色の狼は、その程度の俗物ですか?」
顔を上げたアーサーは、怒りにも似たようなものを瞳に宿らせながら、目の前の少女を睨みつけた。
「違う。断じて、そんなことはない。あれは、そのように卑劣なことができる人間では、絶対にない」
「では、何故あなたは私に頭を下げているのですか?それでは、あなたが彼を信じていないという証左になってしまいますよ」
少女はくすくすと上品に笑い、その口元を白い手で隠していた。
どうやらこれは本当に、何も無かったらしい。
しかし、念には念を入れてと言うか、アーサーはもう一度だけ質問した。
「あの、エドワードは、あなたに暴行を働いたのでしょうか?」
「いえ。誓って否定させて頂きます。私の同盟者は、そのように卑劣な手段をもって女性を己のものとするような不届き者ではありません」
ウォルは、自信満々に断言した。
アーサーはそのことに安堵すると同時に、自分が如何にみっともない格好をしているかを思い出し、再び跳び跳ねるようにして姿勢を正した。
「こ、これはみっともないところを……」
「いえ、私の方こそ、ヴァレンタイン卿の誤解を解くのが遅れたことを謝罪させて頂きます。ただ、あなたがどれほどにリィのことを想っておられるかが気になって……。どうか、無礼をお許しください」
「そんな、そもそもこれは私の誤解と勇み足が全ての原因で……」
二人は同時に頭を下げ、そしてほとんど同時に吹き出した。
歳の頃で30近くも離れた男女が、仮にも寝室で語らうには、どうにも似つかわしくない会話であると、二人ともが考えたのだ。
しばらく二人で笑い合い、お互いの目尻に透明な涙が溜まり始めた頃合いになって、アーサーが弾む息を整えながら言った。
「では、ミス・デルフィン……」
「ウォルと呼んで下さいな」
アーサーは奇異の念を抱いた。
なぜなら、それは男性の呼び名だったからだ。
「はて、君の名前ならば、エドナかエディ、それともフィーナとでもお呼びするのが相応しいような気がするのだが?」
「如何様にでもお呼び下さい。でも、二つ目は駄目です。私かそれとも卿か、いずれか、それとも両方が、リィに酷い目に遭わされてしまいます」
少女は、緩やかに微笑みながら、しかし毅然とした調子でそう言った。
アーサーもそれには同意した。リィのことをエドワードと呼ぶことに執着するアーサーだったが、彼をその名前で呼ぼうとは間違えても思わない。そんなことをしたら、冗談抜きで命が危ういことを、彼は知っていた。
「妻は君のことを何と呼ぶのかな?」
「奥様は、やはりウォル、と」
「では僕もそれに合わせよう。いくつも名前があると、呼ばれる方も呼ぶ方も混乱するだろうからね」
それは特定の二人組を指した皮肉だった。
少女は苦笑した。確かに彼らの呼び名の多彩なことには、些か面食らっている彼女であったのだから。
「では、ウォル。僕は君にいくつか尋ねなければいけないことがあるのだが、いいだろうか?」
「ええ、ご存分に。何せ私はリィの伴侶なのですから。私はあなたの義理の娘で、あなたは私の義理の父親に当たるのです」
「ふむ、そうには違いないのだろうが……。どうにも違和感があるな」
アーサーは微妙な表情を浮かべて、軽く首を捻った。
それを見たウォルは、不思議そうに問うた。
「違和感、とは?」
「うん。君と話していると、どうにも君くらいの年頃の女の子と話している気がしない。例えば――ひょっとしたら失礼な話かも知れないけど、もっとお年を召した……これは間違いなく失礼なんだろうけど……老齢の男性と話しているような……」
「どうして?」
目の前の少女は気分を害したふうでもなく、微笑みながら小首を傾げている。
あらためて問われると、アーサーも不思議になった。どうしてこの少女を、彼が議会や会議室で丁々発止の議論を繰り広げている、古狸連中と同じに思ったのだろう。
顔、は似ても似つかない。これほど美しい顔をした老人など、それこそ恐怖の対象である。
声、も違う。溌剌として、朗らかさと上品さと気高さをこれでもかと詰め込んだ、極上の声だ。例えば一流と名高い少年少女合唱団に入っても、いますぐ通用するような透き通った美しい声だ。
では、果たして何か。
問われてアーサーは唸ってしまったが、しかし難しい顔をしながら、何とか答えた。
「こんな言い方しか出来ない自分が不甲斐ないが……雰囲気、だろうか」
「雰囲気、ですか」
「ああ。何というか君は……リィやシェラ、それにルウなんかもそうだが、それ以上に歳不相応に落ち着きすぎている。それに、女性特有の柔らかさがどこかから抜け落ちているような……いや、これは失礼を……」
「ふむ、やはりそうか。ここらへんが俺の限界というわけだな」
あきらめの表情で天を仰いだ少女は、腰に手を当てながら嘆息した。
にこやかだったアーサーの顔が、にこやかなままにぴしりと固まった。
「うーむ、この調子だと、やはりどこかでボロが出るな。ここはシェラにでもこつを教えて貰わねばならんか……」
「あの……ウォル……?」
「ヴァレンタイン卿。具体的にどんな雰囲気が駄目なのだ?もう少し詳しく言っていただけんものかな?」
身を乗り出すように問うてくる少女。その口調は、先ほどまでの丁寧な口調とは明らかに一線を画すものだ。
しかも恐ろしいことに、どうやらこちらの方がこの見目麗しい少女の『地』だということに、アーサーは気がついてしまった。
そもそも、あのリィが連れてきて、しかも自らの伴侶と呼ぶ少女なのだ。どう考えても普通の少女だと思う方が間違えているのだが、そのことにアーサーはまだ気がつかない。
とにかく、目の前の少女の変貌についていくのに必死だった。
「ウォル……いや、ミス・デルフィン?」
親密度が一歩後退した。
ウォルは、少しだけガッカリした調子で、しかし続けた。
「いや、ヴァレンタイン卿。私が見た目通りの少女ではないのはあなたの言うとおりなのだがな、しかしこれでもリィの伴侶だというのは嘘ではないのだ。だから、やはりあなたは私の義父上であるのは間違いない。出来れば、ウォルと呼んで頂けるとありがたいのだがな」
そう言われても、もはや目の前の少女が到底少女には見えないアーサーである。
では何者なのか。
アーサーは、決して言うまいと心に誓った一言が頭の中に浮かび、もう少しで口を突いて出そうになったのを感じたが、辛うじてそれを飲み込んだ。
そんな彼に、目の前の少女は笑いながら、言った。
「俺を、化け物と呼ぶか?」
それは何気ない一言であったが、しかしそれ以上に容赦ない一言であった。
何故なら、正しくアーサーの胸中に渦巻く疑念と警戒心を表すのに、これほど相応しい言葉もなかったからだ。
だが、これで肝が据わったのか、アーサーはしっかりとした姿勢に居住まいを正し、黒髪の少女に相対した。
「ウォル」
「うむ?」
「エドワードは、僕の息子だ」
「本人はアマロックという御仁の息子だと言っていたように記憶しているが?」
「それでも、だ。マキ・ニウラ……アマロック氏が彼の父親だったとして、それでも僕だってエドワードの父親だ。少なくとも、そう名乗る権利がある」
果たしてそれはどうなのだろうとウォルは小首を傾げた。それはアーサーの言葉を疑っているわけではなく、父親を名乗る権利とはどのようなものかと純粋に疑問に思ったからだ。
それでも言葉に出してはこう言った。
「俺も実はリィと同じでな。本当の父親と育ての父親が違う。この人こそ我が父と思っていた人が、ある日突然に自分は父では御座いません、貴方様の本当の父親は別におられますと言うのだ。あの日は天と地がひっくり返ったかと思った」
「それは……では、君は果たしてどちらを自分の父親だと思ったんだい?」
「難しい質問だ。俺の実感としてどちらを父上と呼びたいかと言えば、それは育ての父親に違いない。何せ、その時点で生みの親の方は故人だったのだ。しかし、仮に生きていたとしても、やはり育ての父をこそ実の父と思っただろうな」
「……そ、そうか……」
アーサーはがっくりと肩を落とした。
彼の絶望的な片思いはごく稀に報われたと思う瞬間があるのだが、それは本当に限られた瞬間であり、実際のところは、決して振り返ることがないと分かりきっている美女に貢ぎ物を送り続ける、憐れな求婚者の悪あがきでしかないのではないと思ったりする。
父親と息子を結ぶ血の絆は、決して年月の経過などでは切れないものだと彼は思っていた。そして今もそう思っている。だが、自分達以外の第三者の意見を聞いた上でどうやら息子の方が正しいと判断すると、自分の努力が水泡に帰したような無力感を味合わざるを得ないのだ。
目に見えて肩を落としたアーサーを気の毒に思ったのか、ウォルは言った。
「ヴァレンタイン卿。俺はこの世界でのリィのことはあまり知らないのだがな。しかしあれは、自分の気に入らない人間のところに身を寄せるような者では決してない。仮にそれが血を分けた父母、兄弟、もしかしたら息子や娘だったとしても、一度見限れば二度と顔を合わせようとはしないだろう」
「僕は、何度か見限られたよ」
「ほう、それは?」
アーサーは、ベッド脇のサイドテーブルからカットグラスの酒瓶を取り出し、その脇に置かれた空のグラスを一セット、一緒に取り出した。
「飲むかい?」
「いいのか?この国では、俺のような子供が酒を嗜むのは法に触れるのでは?」
「その口調でいまさら何を言っている。君が見た目通りの存在ではないことなど、百も承知だよ」
「では遠慮無く頂こう」
嬉しそうな少女の声に、アーサーは苦笑を浮かべた。
そして、ベッドに腰掛けたまま酒瓶を傾け、グラスに琥珀色の液体を満たし、目の前の少女に手渡した。
少女はアーサーお気に入りのウイスキーの香りを楽しみ、それから一息に飲み干した。
まるで石の塊を放り込んだように、グラスの中の液体はごっそりと姿を消していた。
少女は、ウォルは、喉と胃の腑を焼くアルコールの刺激と、それと同時に鼻に抜けていく芳醇な香りに驚き、目を見開きながら言った。
「――うまい」
「ああ、エドワードもそう言っていたな。どうやら僕は、酒の趣味だけはいいらしい」
「いや、俺の国でも美酒には事欠かなかったが……これほどうまい酒は、そうそうお目にかかることはなかったぞ」
「そりゃあいい。じゃあもう一杯行くかい?」
ウォルは喜色満面の有様で、空のグラスを差しだした。
アーサーはやはり苦笑を浮かべながら、琥珀色の液体をグラスに満たした。
トクトクと、少し粘性を持った液体が、狭いグラスの中で跳ね回る。その音の、何と甘美なこと。
二人は、声もなくその声に聞き惚れていた。
その声が止んだ頃合い、リィの遺伝上の父親は、寂しそうにぽつりと呟いた。
「ウォル。君は、彼の父親が……アマロック氏が、どのようにして命を落としたか、知っているかい?」
「ああ。確か、人間の密猟者の手にかかったとか……」
アーサーは静かに頷いた。
「僕はね、彼の育ての親が密猟者の手で殺されたとき……今思えば赤面の思いだが……それを心のどこかで喜んでしまったんだ」
「……」
「そして、言ってしまった。アマロック氏には気の毒だったが、これでお前もうちの子に戻れるなって」
アーサーは、手の中のグラスを弄びながら、続けた。
「あのときのリィの瞳は、今でも思い出せる……というか、夢に見るよ」
「どんな瞳だ?」
「そうだな……アスファルトにへばり付いた汚物を見るような……いや、それは違うな……なんて言うか……」
「無価値なものを見るような?」
アーサーは、自嘲の笑みを浮かべながら、首を横に振った。
「それも違う。多分、見てくれなかったんだ」
「見てくれない?」
「汚いものを見るのでも、無価値な石ころを見下すのでもない。あれは、僕を見ながら、しかし僕を見ていなかった。僕という存在を、心の底から排除した視線だった。この世に、あれほど明確に他者を切り捨てる視線があるのかと、僕は彼を恐れた」
「……」
「思えば、あのときが初めてかな。僕が、自分の息子を化け物だと思ったのは」
ウォルは、何も言わなかった。何も言わず、手にしたウイスキーを、ちびりと舐めるように啜った。
それとは対象に、アーサーは手にしたグラスを一気に傾けた。次の瞬間、グラスには何も入っていなかった。
ふぅ、と、酒精に塗れた息を吐き出す。
「どうして、あの子が僕と妻の間に生まれたのか、真剣に神に問いかけたくなった」
「我が身の不幸を呪ったか?」
ウォルはアーサーの手から酒瓶を取り、酌をしてやった。
アーサは嬉しそうに受けた。
「君のような可愛い娘さんにお酌をしてもらえるとはね」
「断っておくが、俺に手を出さんでくれよ。一応俺は男なのだし、妻もいる」
「……男?妻?」
目を丸くしたアーサーは、目の前の少女をまじまじと見つめた。
これが、男?
確かに、この広い世界には、傾城の美女も斯くやと言う程に美しい男がいるのも知っている。シェラなどはそのいい例だろう。
しかし、これはどう見ても……。
「それは、何かの比喩かい?」
「いや、厳然たる事実だ。少なくとも、今のところはな」
「じゃあ、君は男の子?」
「この体は女性の体だな、間違いなく」
アーサーは頭を捻りながらウイスキーを一口含んだ。
それをゴクリと飲み下し、そして問うた。
「じゃあ、君の妻というのは?」
「わからんか?」
「ひょっとして……まさか……万が一に……エドワードのこと、なのか?」
「正解」
不敵な笑みを浮かべたウォルは、アーサーの明敏さを讃えるようにグラスを掲げ、そのまま一息に飲み干した。
それを眺めていたアーサーは、少女の見事な飲みっぷりに内心で舌を巻きながら、その空のグラスに三度酒を注いだ。
本当なら、そろそろ窘めるべきなのかも知れない。酒量もそうだが、そのペースが尋常ではない。いくら酒を飲み慣れている様子であるとはいえ、このまま飲んでいては酔い潰れてしまう。
だが、黒髪の少女の肌には、些かも朱が刺していない。全くいつも通りの、極上の白磁のように抜けるような白さだ。
果たしてこれは何者かと、あらためてアーサーは思った。
「では……男の君と男のエドワードが、永遠の愛を誓ったのか?」
同性愛者には世間並みの理解をしているつもりのアーサーだったが、それでも思わず声を荒げそうになってしまった。
そんな彼を横目に見つつ、ウォルはその容姿には相応しく無い、低い声で笑った。
「それは違うな。男の俺と女のリィが、一応の形式として、永遠の愛を誓う羽目になったのだ」
「女の……エドワード……?」
ここまで来るともう駄目だ。何が何やら分からない。
アーサーの脳内回路は、ほとんど焼けきれる寸前に悲鳴を上げている。
しかし何より質が悪いのは、目の前の少女が、たったの一言とて嘘を吐いていないということが理解できてしまう、自分の見る目の確かさだろうか。
もう少しで目を回しそうなコーデリア・プレイス州の州知事を気の毒そうに眺めながら、ウォルは言った。
「詳しいことを気にする必要はない。要するに、俺は元は男で、今は少女の身体に間借りしている。リィは男だが、一時的に少女だった。そして、俺が男でリィが女の時に、俺達は式を挙げた。それだけだ」
「それだけ……と言われても……」
「そしてこれが一番重要だが……俺達は、確かに愛し合っていた。無論、いわゆる世間一般の男女の間に成立する、情愛を含んだ愛情ではない。だが、俺は間違いなくリィのことを何者にも代え難い唯一無二の存在だと確信していたし、自惚れで無ければリィもそう思っていてくれたはずだ」
少女の口調はあくまで淡々としているが、しかしこれは紛れもない惚気話である。
普通、人の惚気話など聞いていて楽しいものではない。諸手を挙げて降参し、ごちそうさまでしたと逃げ去るのが常道である。
しかし、ここまで明け透けに、そして自信満々に話されてしまうと、薄荷飴を口中に含んだときのような甘ったるい爽快感があることを、アーサーは認めざるを得なかった。
そして、彼は、彼が出来る唯一のことをした。
苦笑いを噛み殺しながら、首を横に振ったのだ。
「では、エドワードは、女性として君のお嫁さんになったわけか」
「その通りだ」
「なら、エドワードの花嫁姿はどうだった?綺麗だったか?」
花嫁たる少年の父の問いかけに、花婿たる少女は真剣な面持ちで答えた。
「美しかった。この世のあらゆる美姫が一山幾らとしか思えぬほどに、美の女神が裸足で逃げだすほどに、美しかった。この世の者とも思えぬほどに、美しかった」
偽りのない賞賛の言葉に、アーサーも真剣な面持ちで頷いた。
「当たり前だ。なんたって、僕の自慢の息子なんだからな」
「そうか、自慢の息子か」
「そうさ、自慢の息子だ。だから、間違えても君には手を出さないから安心してくれ。そんなことになったら、二重の意味でエドワードを裏切ることになる」
一つは、リィの伴侶を汚す、不貞の行為として。
もう一つは、彼の父親として、その家庭を破壊する行為として。
それは、絶対にアーサーにとって許される行為ではなかった。彼はもう二度と、自らの息子に見限られてやるつもりは無かった。
「だから、僕は君のことを化け物とは呼ばない。絶対に呼ばない。何故なら、エドワードは僕の息子だ」
「リィが卿の息子だということが、何故俺が化け物でないことに繋がるのだ?」
「決まっているじゃないか。エドワードは、僕の息子だ。だから、絶対に化け物なんかじゃあない。なら、エドワードが選んだ君だって、化け物なんかのはずがあるか。君はエドワードの伴侶だ。ならば、僕の娘だ。だから、絶対に化け物なんかじゃない」
アーサーは、自分に言い聞かせるように言った。
「僕は、二度と手を離さないぞ。絶対に離すもんか」
「……この少女の父親も、卿のようなお人であればな……」
「ん?何か言ったかい、ウォル」
「いや、何でも」
少女は、アーサーの手に握られたグラスに、再び酒を注いだ。
まだ飲み始めていくらかも経っていないというのに、ウイスキーの瓶は空になってしまった。
ウォルは少しだけ名残惜しげに、空の瓶を左右に振ってみた。ちゃぽちゃぽと、飛沫の散る音だけが空しく響いた。
「まだ呑み足りんな」
「ああ。折角、義理とはいえ息子と――それとも娘と一緒に酒が飲めるんだ。長年の夢が叶ったのに、この程度で終わらすのは勿体ない」
「リィは、卿と一緒に酒は飲まんのか?」
リィは、相当に酒を好むはずだ。
その分、甘味が全く駄目という、変わった娘ではあったが。
「あれは、一人でグラスを傾けるのが性に合っているらしい。だから僕は、いつだって一人寂しくちびちびと手酌で飲んでいたのさ」
「そんな酒は旨くないな」
「ああ、実に旨くない。だから、これからも付き合ってくれるかい?」
アーサーは、魅力的な笑みを浮かべて、そう問うた。
ウォルは、外交用ではない純粋な笑顔で、こう答えた。
「卿のことを義父上と呼んでいいなら、お付き合いさせて頂きましょう」
「おお、それは望むところ――」
「駄目だな、そいつはおれの父親じゃないんだ。だから、お前が義父上なんて呼んだら、おれもそいつを父さんなんて呼ばなきゃならなくなるじゃないか」
いつの間にか開いていた寝室のドア。そこに、人造の光を跳ね返す、金色の毛並みの狼が立ち尽くしていた。
「リィ」
「エドワード」
「その名前でおれを呼ぶなっていってるだろう、全く……。それに何だ、お前らだけで楽しそうに酒を飲みやがって。おれも混ぜろ」
一体どこから調達してきたのやら、リィの手にはチーズやらクラッカーやらの盛り付けられた大皿が乗せられ、小脇にはきつめの蒸留酒の瓶が二本も挟まれている。
この状態で、一体どうやって扉を開け放ったのかと訝しんでしまうくらい、器用な有様であった。
リィはその体勢のまま部屋の中にずかずかと入り込み、ベッドの小脇、ちょうどアーサーとウォルとリィで正三角形になるような場所に、どかりと腰を下ろした。
恐ろしくむっつりとした、今にも酒瓶を直接煽りそうな、剣呑な雰囲気であった。
義理の父と義理の娘は、果たして何事があったのか知らんと顔を見合わせたが、しかし全く心当たりがない。
ウォルは、猛獣を宥めるように、おそるおそると聞いてみた。
「おい、リィ。どうしたというのだ。何か気に食わないことでもあったのか?」
「大ありだとも。この匂いを嗅いでみろ」
そう言われたウォルとアーサーは、少しだけ間の抜けた顔で鼻をひくつかせてみた。
するとどこからか、小麦と砂糖の焦げる、甘ったるい香りが漂ってくるのだ。
「全く、あんな場所にいられるか!こんな匂いをずっと嗅いでたら、それだけで胸焼けを起こしちまう!」
毒づいたリィは、手酌でブランデーをグラスに注ぎ込み、そのまま一気に煽った。
それだけでは収まらなかったのか、もう一杯、もう一杯と、止まるところを知らない。
これには流石の二人も慌てた。ウォルもアーサーも、リィが底なしのウワバミであることは理解しているが、しかしものには限度というものが在るはずだ。
「みんなでおれをのけ者にしやがって……」
「一体どうしたのだ、リィ」
「どうもこうもあるか!今の台所と居間はな、甘いものが嫌いな人間には寄りつけない魔窟なんだ!」
本来はルウのお土産にと用意していた小山のような焼き菓子は、二匹の腹ぺこ魔神が貪るように食い尽くしてしまった。無論、それは黒い天使と蜂蜜色の大男である。
その食べっぷりに気をよくしたシェラとマーガレットは、二人して追加のクッキーやらパイやらを作っている。
その甘ったるい匂いに抗議したリィに対しては、
「アーサーと一緒にお酒でも飲んできたら?」とは、甘いものにご満悦のルウ。
「甘いものも食わないと大きくなれないぞ」とは、どうしてこんなに美味いものをたべられないのか真剣に首を傾げているヴォルフ。
「すみません、でもこれは唯一の趣味なので……」とは、申し訳無さそうなシェラ。
「ほら、そこにおつまみを用意しておきましたからね」とは、あくまで笑顔のまま容赦ないマーガレット。
要するにここにお前の居場所はないぞ、と、煙草を嫌がられるお父さんみたいに、みんなから追い出されてしまったリィなのだ。
「飲むぞ、ウォル、アーサー!今晩は、とことん飲み明かすぞ!」
理由のない迫害に憤慨し、一人気炎を上げるリィだったが、しかし残りの二人とて全く望むところである。
アーサーは喜色満面の有様でベッドの上から飛び降り、ウォルもいそいそと椅子から降りて、直接床に腰掛け、そして互いのグラスに酒を注ぎあった。
もう、二人とも満面の笑みである。
「そういえば、向こうでの飲み比べは勝負つかずだったな。どちらが本物の酒豪か、今こそ白黒を付けようではないか!」
「おお、望むところだ我が夫!」
「おい、ウォル!息子と酒を挟んで語らい夜を明かすのは父親の特権だ!エドワード、僕と飲もう!」
「うるさいぞ、アーサー!とにかく飲むんだ!飲まないでやってられるかこん畜生!」
もう、あっという間に酒瓶は空になった。
「全然足りないぞ!」
「まぁ待てエドワード。これがなんだか知っているか?」
「おい、それはまさか、890年もののナイトオブオナー!?」
「流石我が息子!この酒の名を知っているとはな!」
「なんだなんだ、美味い酒なのか?」
「美味いなんてもんじゃない!一部の専門家の間では神の雫とも呼ばれる、奇跡の酒だ!」
「おお!流石は義父上!さぁ飲もう!是非飲もう!」
「当たり前だ!いずれ息子と飲み明かすときのために、ボーナスをそのまま注ぎ込んで買った酒なんだぞ!しかも、エドワードがこんなにも可愛らしいお嫁さんを連れてきた、こんなめでたい日に栓を抜かずにいつ抜くというんだ!」
「よし、気に入ったぞアーサー!今日だけはその名前でおれを呼んでも許してやる!」
「良く言ったエドワード!まあ飲め!さぁ飲め!」
「…………!」
「――――!」
「……」
「―」
明朝、アーサーの寝室には、程よくアルコールに漬けられた、人体標本が三体転がっていた。
コーデリア・プレイス州の州知事の執務室は、結局その日は主人を迎えることはなかったし、リィは二日酔いの頭を押さえながら、シェラにおぶられるようにしてティラ・ボーンへの帰路についた。ウォルはマーガレットに看護されながら、どうやら元の体に比べれば相当に酒への耐性を失ってしまっている我が身の情けなさを恨んだ。
「……もう、ぜったいに、さけはのまんぞ……」
二日酔いに苦しむ酔っぱらいの大半が呟く不可能事を呟きながら、トイレへと向かう黒髪の少女が、いたとかいなかったとか。