懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第二十話:夕焼け小焼けでまた明日

 上手の手から水が漏れるというし、河童の川流れともいうし、猿も木から落ちるという。

 玄人だろうが達人だろうが名人だろうが、失敗するときは失敗するし、どうしたって上手く行かないときはある。

 要するに、リィも、そしてウォルも、今回の狩りではそれほど芳しい成果は得られなかったと言うことだ。

 シェラやウォルには馴染み深い、山岳民の少年のような皮の貫頭衣に着替えたリィは、泥と枯れ葉でどろどろになりながら、やっと野ウサギを一匹捕まえただけだった。

 それに対して、これはシェラの目にも新しい、やはり山岳民の少年のような皮の貫頭衣――ようするにリィとお揃いだ――に身を包み、その豊かな黒髪をくしゃくしゃに纏め上げたウォルも、身体中に擦り傷を拵えたにも関わらず、捕まえたのは大きめの雉が一匹だった。

 ごくごく一般人が狩りを楽しむつもりでこういう場所を訪れたのであれば、まずまず満足すべき成果だったのかもしれない。

 何せ、おけらではないのだ。

 それだけで自尊心は満たされるし、あとは都会から持ってきた各種食材に、慰め程度の獲物の肉を加えてご馳走を作ればいいのだから。

 しかし、彼らは、各種調味料等を除けば、本当に少しの食料も持ってきていない。全て現地調達するつもりだったし、またその自信もあったからだ。

 にも関わらず、これっぽっちの食料というのは些か寂しい結果に終わったといわざるを得ないだろう。特に、人の三倍は食べるリィと、二倍は食べるウォルがいるのだから、尚更である。この小さな獲物の食べられるところを余すことなく有効活用したとして、二人の大きな胃袋を満たしてやるのは、どうにも不可能らしかった。

 それでも、シェラは笑顔で二人を出迎えた。喜び勇んで出かけていった二人が、如何にも不本意な、そして申し訳なさそうな顔で帰ってきたのがおかしかったというのもある。

 

「狩りは水物ですから、上手く行かない日もありますよ。お気になさらずに」

 

 本心からの慰めの言葉である。何せ、人のする戦と違い、獣との駆け引きである狩りには相手がいないと成立しない。どれほど優秀な狩人であっても、獲物がいなければ狩ることは出来ないのだ。

 それに、この二人が本気で狩りをして、それでも獲物が捕れなかったというならば、だれがそれを非難することができるだろう。人は、己に為し得ないことをもって他者を非難する資格は有しないのだ。

 リィやウォルとてその程度のことは承知している。承知していて、なお業腹であった。

 

「ちぇっ。あと少しだったんだ。あと少しで、こんなに大きい鹿が仕留められたのになぁ」

 

 リィは自分の腕で大きな円を描き、その獲物の大きさを表した。確かに、それくらい大きな鹿が獲れれば、食欲旺盛なリィの胃袋だって十分に満たされるはずだ。

 

「あとちょっとっていうところで逃げられちゃったんだ。惜しいことをしたなぁ」

 

 心底悔しそうにリィが言えば、ウォルもそれに倣った。

 

「それを言うならリィよ、俺もこんなに大きな猪を、あと少しで捕まえられるところだったんだ。なのに、あと一歩というところで巣穴に逃げ込まれた。狩りでこれほど悔しい思いをしたのは久しぶりだ」

 

 隣に座ったリィに倣って、黒髪を紐で頭に縛り付けた少女は、大いに嘆いた。

 王族であったウォルにとっては狩りも嗜みのうちだが、しかしこれほど純粋に野山を駆け巡り、そして獣を追いかけ回したのは少年時代以来のことだったから、不本意な結果に相反して少女の口元は緩んでいる。

 何とも嬉しそうな顔だった。

 

「その割には楽しそうじゃないか、ウォル」

 

 行儀悪く床に直接腰掛け、胡座を組んで頬杖をついたリィが、にやにやとしながら言った。

 対するウォルは、こちらも行儀悪く床に直接寝そべり、仰向けに天井を見上げていたりする。

 シェラはこの夫婦――世が世なら、そして世界が世界なら、最も高名で、そして高貴な身分を有する夫婦であった――を眺めて、溜息を吐き出した。何せ、彼らをよく知っているシェラの目から見てもあの(・・)王妃が二人いるようにしか思えなかったのだ。

 シェラの知る幾人か、特にリィの普段の格好に眉を顰める頭の固い人達などがこの光景を目の当たりにすれば、冗談抜きで卒倒しているだろう。何せ、彼自身が目眩を覚えているほどなのだから。

 そんな銀色天使の内心など放って置いて、以前のリィと同じように、山岳民の少年にしか見えないウォルは嬉しそうに言った。

 

「うむ、楽しいに決まっている。スーシャで過ごした山猿時代はいざ知らず、立派な戦士よ見栄えのする男ぶりよとちやほやされるようになってからは、やはり自由に森を駆け巡ることは出来なかった。外面がそうさせないというのもあったが、何より大きくなりすぎた身体というのは山駆けには向かないらしくてな。この体は、以前に比べれば力において劣るものの、すばしっこさは比較にならん。今日は思う存分走り回ることが出来た」

 

 未だ覚めやらぬ興奮に頬を赤らめながら、満足の吐息を吐き出したウォルである。

 リィはその様子を満足げに見遣り、そして頷いた。

 

「それは同感だな。おれも、この身体くらいが、山遊びをするには一番好きだ。手足が長くなって身体が大きくなると、馬力が出るかわりに余分な重さを感じる。戦いにはその方がいいんだろうけど、枝を飛び移るときには邪魔以外の何者でもない」

 

 キッチンで今日の夕食の下拵えをしながら、シェラはリィの言葉に懐疑的であった。

 それもそのはず、王妃時代のリィは、そのほっそりと長い手足を猿か野鼠のように上手に使い、難攻不落を謳われた名城三つのうち、二つまでも単独で潜入し、そして驚くべき戦果を残してのけたのだ。それで『余分な重さを感じていた』など、行者として苦しい修行を積んだ自分を小馬鹿にしているとしか思えない。

 しかし、シェラは、リィの言っていることに一分の嘘も見栄もないことを知っていた。この人は、そういう人なのだ。

 山雉の皮を剥ぎ終えたシェラの口から、重たい溜息が漏れだした。自分とリィを比べることの愚かさに、あらためて思いが至ったからである。

 そんな彼の後ろで、王と王妃のものとは思えない、敢えて言うなら安酒場で交わされるような会話が続いている。

 

「次は一緒に行こうか、ウォル。今日は不本意な結果に終わっちまったからな、明日は直接対決といこうぜ。そうすれば、嫌でもおれの方が優れた狩人だってわかるだろう?」

「望むところだ。スーシャの山猿の本性を見て、吠え面をかくなよ、リィ」

「ふん、狼の変種であるおれに、人間のお前が狩りで敵うとでも思っているのか?」

「言っていろ。本物の猿が舌を巻いて逃げだすとまで言われた俺の身の軽さ、狼如きに負けて堪るものか」

「じゃあ、負けた方が、勝った方の言うことを何でも一つ聞くというのはどうだ?」

「おう、いいともよ。さて、デルフィニアの戦女神は、どれほど見事に裸踊りを舞ってくれるのかな?」

「よし、良く言ったウォル。じゃあおれは、バルドウの現し身のタコ踊りを希望するぞ」

 

 こうなってくると子供の喧嘩である。違うのは、二人とも、自分がどれほど大人げないことを言っているかを理解していて、相手の言葉を心底楽しんでいることくらいのものだろう。

 ようするに、じゃれ合っているのだ、二人とも。

 シェラは思わず持ち上がってくる口の端を、意識して我慢しながら、悪戯好きの悪ガキを育てるお母さんの心持ちで言った。

 

「二人とも、そろそろいい具合に石が焼けているはずです。さっさと汗を流してきて下さい。そのどろどろの身体を綺麗にしてからでないと、夕食はおあずけですからね」

「「は――い」」

 

 間の抜けた声で二人は応じた。

 そして、ぽいぽいと服を脱ぎ捨て、いそいそと湖の畔の風呂小屋へと向かったのだ。

 シェラは、真っ裸になった二人の後ろ姿を眺めながら、年頃の男女は別々に風呂に入るべきだという至極もっともな一般論を、すんでのところで引っ込めた。何せ、彼自身が年頃の女性と一緒の風呂に浸かること自体何の抵抗も覚えていないのだし、あの二人に世間並みの常識を期待するのは間違いだと知っていたからだ。

 それに、まかり間違ってあの二人がそういう関係になったりしたら――健康的な男女が裸の付き合いをした結果結ばれる、甚だ当然の結果としての関係である――それはそれで面白いと思ったというのもある。そのあたり、二人から一歩引いているように見えるシェラも、相当に毒されていると言えないこともない。

 だけど、あの二人に限って言えば、まかり間違えてもそういうことにはならないことを知っているから、シェラは苦笑いを一つ溢して、野ウサギの皮を剥ぎにかかったのだ。

 

 

 赤く焼けた石に水をかけてやると、狭い蒸し風呂の中を、たちまちに蒸気が埋め尽くした。視界を染め上げる白さに身体が包まれると、汗が噴き出す予兆とも言える、心地よい熱さを感じることができる。

 リィも、そしてウォルも裸であった。蒸し風呂に服を着て入る変わり者はいないから当然であるが、年頃の男女が一糸纏わずに狭い室内にいる、口喧しい教職者などが見れば顔を真っ赤にして喚きそうな情景である。

 しかし、当人達は、全くどこ吹く風であった。あちらの世界では、男のウォルと少女のリィであったが、二人とも裸で構わず一緒に水浴びをするなど日常茶飯事であったし、別に嫌らしいことではなかった。

 リィにとっても、そしてリィに長年触れ合ってきたウォルにとっても、それがごく自然なことなのだ。

 だから、少女のウォルと少年のリィが、やはり生まれたままの姿で隣り合って座りながら蒸し風呂を楽しむというのも、まったく自然な流れであり、二人とも露ほどの疑問も持たなかった。

 

「ああ、いい気持ちだ……」

 

 夢を見るようにウォルは呟いた。 

 リィを倣って紐で纏め上げていた髪も下ろしている。その黒髪が蒸気で濡れて、カラスの黒羽のようにつやつやと輝いている。

 隣に腰掛けたリィは、その髪のことが気になったのだろう、まじまじと見つめた後で、手にとっていじってみたりする。彼の相棒の髪の毛もそうだが、何故こうも真っ黒なのにこうもきらきらと輝くのか、不思議そうな有様であった。

 掌にのせてよく眺めて、指で撫でてみて、鼻に近づけて匂いを嗅いでみたりする。

 その様子は、見知らぬものに警戒と興味を等分に覚えた、子猫のそれに近い。

 ウォルは、不思議そうに自分の妻たる少年を見つめ、微笑いながら言った。

 

「そんなに俺の髪の毛が珍しいか?」

「うん、めずらしい。人間なのにこんなに綺麗な毛並みなんだもの。まるでアマロックの毛皮だ」

 

 リィにとって唯一の親である名前を聞いて、ウォルは悪い気がしなかった。

 

「それを言うなら、お前の髪の毛だって嘘みたいに美しい。初めて見たときは、細く鋳梳かした黄金を身に纏っているのだと思ったほどだ」

「そんな重たいものを頭に付けていたら首が凝って仕方ない。ただでさえ、長ったらしい髪の毛は重たいのに」

「それだ。俺も一度聞いてみたかったのだがな、お前は長い髪の毛は邪魔だ女みたいでうざったいと嘆きながら、それでも切ろうとはしなかった。何故だ?」

 

 早くも滲み始めた額の汗を拭い、ウォルが問うた。

 リィは、肩を竦めた。

 

「おれはさっさと切りたかったんだ。でも、髪を切ろうとするとルーファが悲しそうな顔をするんだよ。『そんなに綺麗なのに勿体ないなぁ』ってさ。まるで自分のものみたいに言うものだから、おれも簡単に切れないだろう?」

「そうか、やはりお前を縛れるのは、あの方のみなのだな」

 

 ウォルは、呟くようにそう言った。

 

「あのな、ウォル。何度も言っているが……」

「お前とラヴィー殿はそういう関係ではない、か?」

 

 悲しげな少女の声である。流石のリィも黙らざるを得ない。

 ウォルはその様子を寂しそうに見遣ってから、傍らに置かれた白樺の葉で、瑞々しい自らの肢体を叩いた。

 少女の身体から、珠の汗が舞い散った。

 

「それでも、妻と間男殿との間に自分が入る余地がないと思うと、夫としてはいくばくかの寂寥を覚えざるを得ないな。ああ、残念だ残念だ」

「よしわかったウォル。お前、おれをからかっているな」

「ばれたか?」

 

 他の者がすればこの王妃をからかうなど、命知らずもいいところな愚行であるのだが、これも夫の特権と言うべきだろうか、リィは少女の頭を小突いただけで勘弁してやった。

 ウォルも、楽しげに小突かれていた。

 リィは、ウォルが使った後の白樺の葉で、やはり引き締まった若狼のような自分の身体を叩いた。

 珠の汗が舞い散り、どこかに消えていった。

 

「では、俺も髪を切らない方がいいか?」

 

 ウォルは、リィの目を覗き込むようにして言った。

 自分を真っ正面から見つめる漆黒の瞳に、リィは、あくまで素っ気なく答えた。

 

「それはウォルの勝手だろう?その髪はお前のものだし、髪を切る手だってお前のものだ。それともお前は、俺が切るなと言えば切らないし、俺が切れと言えば切るのか?」

「そうか、ならばばっさりと切ってしまうとしよう。何せこの髪は不必要に人の目を集めるばかりか、知らぬ間にあっちこっちに絡みついていたりして難儀することがある。髪は短いに越したことはない」

「おい、なら、あっちの世界のお前は、何で髪を伸ばしていたんだ?男なのに」

「男だからさ。国王というものは、それなりに風采にも気を配らんといかん商売でな。幸い俺の髪は女性が羨むほどに美しかったようだから、背中に届くまで流してそれなりに飾ってやれば、はったりが効く。それだけの話だ」

 

 つまらなそうにウォルは言った。

 

「だから、今となっては髪の毛を長く伸ばしている理由はない。こんなもの、ばっさりとやってしまっても何の問題もないわけだ」

 

 ウォルは、傍らからナイフを取り出した。本来はサウナの中に金属を持ち込むのは御法度である。室温で熱せられた金属で火傷するおそれがあるからだ。

 だからリィも、常日頃身に付けているネックレスと、それに編まれた指輪を外している。当然剣だって持ち込んでいない。

 いつの間にそんなものを持ち込んでいたのかと訝しんだリィが、そのことを口に出すまでもなく、ウォルは自らの髪の毛を一房掴み、刃を当てた。

 

「あっ!」

 

 リィの口から、悲鳴のような叫びが漏れだした。

 ウォルは、にやりと笑って、リィの方を向いた。

 

「どうかしたかな、我が妻よ?」

 

 事ここに至って、目の前の少女がまたも自分をからかっていたことに気がついたリィであるが、もう遅い。狩りで言うならば、罠が深く足に食い込み、猟師の足音を聞いた獣のような心境である。

 リィは、あきらめの境地でもって嘆息し、そして言った。

 

「……ウォル。お前にはその黒髪が似合ってる。凄く似合ってる。だから、あまり切って欲しくない」

 

 ウォルは満面の笑みを浮かべた。

 口に出しては何も言わなかったが、輝くような表情が、その言葉が聞きたかったのだと語っている。

 

「では仕方がない。肩が凝るが、我慢しよう。リィよ、お前の希望のせいで固く凝った肩は、お前が揉みほぐしてくれるのだろうな?」

「……こいつ、性格が悪くなったんじゃないか?」

 

 嫌そうに眉を顰めたリィを見て、ウォルは破顔した。身体を折り、腹を抱えて笑った。

 狭い蒸し風呂の中を、少女の笑い声が反響した。

 その美しい笑い声は、リィなどの耳にとっても不快なものではなかった。カフェテラスなどで聞く同年代の少女の歓声などは、どうしても慣れないほど耳にうるさいのに。

 果たしてこれが幸福の領域の為せる業なのか、それともあきらめの境地の成せる業なのか、リィには判断がつかなかった。

 

「いやぁ、笑った笑った。これほどに笑ったのはいつ以来だろうな」

 

 いまだわき起こる笑いの発作に肩を震わせながら、少女は身体を起こした。

 リィは、己の夫たる少女を胡散臭そうに見つめ、それからその身体をしげしげと見つめた。

 その視線に気がついたウォルは、きゃあっ、と可愛らしい悲鳴を上げて、胸を隠した……ということは全くない。寧ろ誇らしげに胸を反らして、そして言った。

 

「どうだ」

 

 何がどうだ、というわけではない。

 しかし今のウォルの心情を表すに、それほど相応しい言葉も無かった。見るなら見てみろ、おそれいったか、羨ましいだろう。色々な感情をこめて『どうだ』なのだ。

 間違えても、年頃の娘が自らの裸を異性に見られて、口にする言葉では無い。

 対するリィの反応も、また普通ではない。

 彼くらいの年頃の少年であれば、これほど明け透けな少女の裸体を見れば、自らの裸を恥ずかしがってすごすごと逃げ去るか、気まずそうにしながらもその身体から目を離せないか、それとも自分に気があるものと勘違いして鼻息を荒くするか。

 リィは、そのいずれでもなかった。

 その緑柱石色の瞳を猫のように見開いて少女の裸体を観察し、鼻を鳴らしながら首元に顔を近づけ、そこに浮いた汗をぺろりと舐め取った。

 そして、さも不思議そうに首を傾げた。

 そんなリィの様を見たウォルは、興味ありげにこう問うた。

 

「うまいか?」

 

 これも普通の反応ではない。しかしウォルは以前、この金色の獣が自分の血を舐め取る様を見ているから慣れているというのもあった。

 リィは口の中をもごもごさせた後で、言った。

 

「女の子の味だ」

「それはそうだ。何と言っても、今の俺は正真正銘の、花も恥じらう乙女なのだからな」

「でも、驚いた。匂いも味も、全部女の子だ」

 

 いっそ、初めて少女の姿で再会したときよりも、リィは驚いていたのかもしれない。

 彼にとって人間とは、その姿だけでは無く、匂いと味と声と手触りと、五感の全てを認識するものなのだ。

 それは、人が人を見分けるときの手法とはかけ離れている。人は、その外見と声くらいでしか、他者を認識し得ない。

 ウォルは、今更ながらにこの生き物が、人ではないことを悟った。

 ならば、残る一つの感覚をもって、自分が本当に少女になってしまったことを知らせてやるべきだろう。

 

「触ってみるか?」

「いいの?」

 

 その言葉に、リィは、遠慮がちに目を輝かした。

 それは、性欲に滾った雄の視線ではない。

 群れの仲間、それも遠い昔にはぐれてしまった仲間に出会えて、毛繕いをすることを許された獣の、安堵と喜びから来る輝きであった。

 ウォルは、鷹揚に頷いた。

 

「もちろんだ。何せ、俺とお前は夫婦なのだ。これくらい、普通の夫婦ならば、毎日のように床でやっていることだろう?」

 

 一応、自分達が普通の夫婦ではない自覚はあるらしい。

 

「じゃあ、遠慮無く」

 

 リィはその両手で、ウォルの顔をがっちりと掴んで、自分の顔を近づけていった。

 予想していたこととはいえ、目のすぐ前に少年になったリィの顔があるというのは中々見応えのある眺めだったが、ウォルは特に抵抗はしなかった。

 

「おい、ウォル」

「なんだ」

「目を閉じてくれないとやりにくい」

 

 ウォルはびっくりした。

 あまりに驚いて、あんぐりと口を開いてしまったくらいだ。

 

「……リィよ。お前がそんな殊勝なことを言うとは、俺がいない間に恋人の一人でも出来たか?」

 

 内心ではちっとも信じていないことを、ウォルは口にした。

 そして、リィは平然と答えた。

 

「ううん、これはお前の世界に行く前の話。キスする前は、目を閉じるのが作法なんだって。別に今からキスするわけじゃあないけど、似たようなもんだから。女の子が目を閉じるまで、やっちゃあ駄目なんだって」

「それが、この世界の作法か?」

「男と女のマナーらしいぞ」

 

 二人は、お互いの顔を至近に認めながら、お互いが首を捻っていた。

 どうにも奇妙な構図であった。身体だけを見れば愛し合う寸前の男女なのに、その表情たるやなぞなぞに頭を悩ます幼子のそれだ。どこにも、これから組んず解れずの行為に及ぶような雰囲気はない。

 それもそのはずである。シェラが予想した通り、この二人の間にそもそもそういう意図は、微塵もないのだから。

 

「なら、別に俺に気を使う必要はないぞ。それは一般論であって、俺達には当てはめる必要が無い。それだけの話だ」

「うん、おれもそう思う。やっぱり、こういうことはお互いの目を見ながらするべきだな」

 

 真剣な面持ちで頷いたリィは、ウォルの鼻頭をぺろりと舐めた。

 予想していた感触ではあったが、それでもウォルは片目を閉じ、反射的に身体を反らせようとした。

 

「あ、こら。逃げるな」

「逃げるなと言っても、くすぐったいのだ」

「我慢しろ。男の子だろ」

 

 にべもなくそう言われては、ウォルに反論しようがない。今の自身の身体が、紛れもない少女のそれであったとしても、である。

 しかし、反射反応というのは度し難いもので、リィの小さな舌が皮膚に触れるたびに、ウォルのか細い身体はくすぐったそうにくねるのだ。

 リィはほとほと困ったようだった。

 

「おい、じっとしてくれって。前はちゃんと我慢してくれただろう」

「いや、そうは言うがな、リィ。この体は以前と違って中々に敏感らしくて……今だって笑い声を堪えるので精一杯なのだ」

 

 口元をひくつかせたウォルに、リィは憮然として言った。

 

「失礼なやつだ。折角こっちが真剣に毛繕いしてやろうっていうのに」

「すまんすまん、しかしこればっかりは……うはは、やめろリィ」

 

 ついに堪えきれなくなったのだろう、ウォルは身を震わせて笑い声を上げた。

 しかしそれも、色気の欠片もない笑い声だ。今のウォルの外見で、口元に手でも添えながら『きゃあ』とか『うふふ』とか言ってくれればまだ絵になるものを、豪快に大口を開けながら『うははは』とか『わははは』とか『いひひひ』とかいう笑い声を放つものだから、普通の男だって萎えてしまうだろう。

 リィも、嘆かわしそうに言った。

 

「おれには男を押し倒す趣味はないんだがなぁ」

「俺だって、ぐはは、押し倒される、ふは、趣味など無い……いひひ、やめてくれリィ!」

 

 ウォルは精一杯しかめつらしく言ったつもりだったが、所々に堪えきれない笑いが入るものだから威厳の欠片も見当たらない。しかも、最後の方は完全に泣きが入っていた。

 無理もあるまい。リィは会話の合間も絶え間なく舌と手を動かし、ウォルの身体を、本人にとっては至って真面目に、他人が見ればどう見てもそういう意味で、味わっていたのだから。

 それでもしばらくリィは、ウォルを解放することなく、その身体を弄び続けた。

 彼が、ついに飽きたのかそれとも気が済んだのか、少女の身体を解放したとき、無惨にもぴくぴくと痙攣するウォルの残骸が、蒸し風呂の床に転がっていた。

 

「ど、どうだ、りぃ、なっとく、したか……?」

 

 息も絶え絶えである。

 それに応じるリィは、少女の汗で濡れた口元をぐいと拭い、憎たらしいほどに平然と言った。

 

「うん。やっぱりお前はウォルだし、でも女の子だな。納得した。世の中には変なこともあるもんだ」

「そ、それは、ありがたい」

 

 もしも疑ってかかられて『もう少し』などと言われては、冗談抜きで笑い死にしかねない。

 折角長年の想い人と再会できたのに、死因がその想い人に笑い殺された、というのでは浮かぶ瀬も立つ瀬もないというものではないか。それに、この身体を貸し与えてくれた少女にも申し訳が立つはずもない。

 立たない続きで足腰も立たなくなった少女は、少年の手にひょいと抱え上げられた。

 リィはその手にした人型の荷物を、肩に担いだ。

 

「り、りぃ?」

「そろそろいい時間だ。蒸し風呂は、あまり長いこと入ってると危ないからな」

 

 リィはその体勢のまま蒸し風呂の扉を開けた。

 途端に流れ込んでくる冷たい風が、火照った皮膚に心地よい。

 まるで、盗賊が略奪品の村娘を抱えるような体勢でリィに抱え上げられたウォルは気がつかなかったのだが、リィのエメラルド色の瞳の中には、罪人を処刑する執行人の輝きが籠もっていた。

 どうやら、先ほどからかわれたことを根に持っているらしかった。

 やはり、この金色の獣をからかうのは、夫であっても命がけのようである。

 無言で、湖の方に歩いていく。

 

「り、リィ。すまなかった、この通りだ」

 

 それでも何か危険なものを察したのか、自らの妻の肩に、荷物のように担ぎ上げられたバルドウの化身は、己の妻たるハーミアの化身に、両手を合わせて許しを乞うた。しかし悋気が強いと評判の女神は、己の夫を許すつもりなど微塵もなかったらしい。

 顔の横でばたばたと暴れる二本の足を押さえつけて、無慈悲とも言える口調で言った。

 

「いやぁ、身体が火照って仕方ないな、ウォル。そういえばお前、泳ぎが得意だって散々自慢してたよな?」

「む?うむ、スーシャの河童といえば、何を隠そう俺のことだ」

「よし、なら昼間の狩りで決着がつかなかったのは、泳ぎでけりをつけるとしようか」

「いや、それは構わないのだがな、リィ、今はその、足腰が立たないというか……」

「そうか、頑張れウォル。ファイトだウォル。気合を見せろウォル。手だけで泳いで見せろウォル」

 

 少女は何事か抗議をしようと口を開いたが、一言をしゃべる間もなく宙高く放り投げられた。

 そして、背中をばしゃりと何かが叩き、冷たい水の中に落っことされたのだと気がつく。

 先ほどまでの火照りが飛んで逃げるような、刺すような冷たさである。

 しかしその刺激が幸いしたのだろう、先ほどまでへなへなと情け無く笑って言うことを聞いてくれなかった足腰が、しゃんと動くようになった。

 こうなれば、文字通り水を得た魚だ。何も怖いものはない。

 真夜中の湖であるが、星も月も出ている。きちんと水面を意識して、ウォルは浮上した。

 ざばりと、重たい水を掻き分けて、水面から顔を出す。思いっきり頭を振ると、記憶にあるよりも多量の飛沫が宙を舞った。

 大きく二、三度呼吸をして、人心地がついてから見上げると、桟橋でしゃがみこんで、自分を見下ろす金色の獣がいるのだ。

 にんまりと愉快そうにこちらを見る獣は、例えようもないほど美しくて、抗議の声など感嘆の吐息と一緒に飲み込んでしまった。

 

「気持ちいいか、ウォル」

「……ああ、とても気持ちいいな。だから……お前も来い!」

 

 ウォルはそっと桟橋に近づき、リィの手を掴んで、思いっきり引きずり込んでやった。

 リィもそれに気付いていたろうに、少しの抵抗もしなかった。だって、蒸し風呂の後に湖に飛び込んで身体を冷やすのは古来からの作法からであったし、何より確かに気持ちいいからだ。

 数秒の間があって、ウォルのすぐ横に、月の光を跳ね返すような金色の頭が浮きあがり、やがて夜空に君臨する大星のような緑色の瞳が、穏やかに細められて、現れた。

 リィは、先ほどウォルがしたように大きく頭を振り、髪の毛にまとわりつく湖水を弾き飛ばした。そのようすは、狼というよりは猫科の獣のようで、やはり美しかった。

 

「酷い奴だ。自分の奥さんを、力尽くで湖の中に引きずり込むなんて。ドメスティックバイオレンスで訴えてやる」

「どめ……何のことだ?」

「夫婦の間で行われる暴力行為のことだ。当然、処罰の対象になるし、酷いことをすると刑務所に入れられる」

 

 ウォルは感心したように目を大きく見開いた。

 

「この時代では、夫婦間のもめ事も官憲が解決してくれるのか」

「酷いものになればな。いくら夫婦のもめ事だったとしても、それが暴力行為にエスカレートするなら身内の恥で片付けちゃあいけない。珍しく正当な制度だ」

「ならば安心だ。俺もきちんと、国家権力に保護してもらえるらしい」

 

 ぷかぷかと湖面に浮いたウォルは、真剣な面持ちで言った。

 対するリィは、やはり湖面にぷかぷかと浮いたまま、声を低めた。

 

「おい、ウォル、どういう意味だ」

「言葉通りだ。いや、天上におわすバルドウ神も、神の国にその制度が設けられることを今や遅しと待ち望んでいるのではないかな?」

 

 そう言い捨てたウォルは、リィを残して一人泳ぎ始めた。

 なるほど、河童と呼ぶには些か可憐すぎるとはいえ、中々に達者な泳ぎ手であった。

 

「おい、待て、ウォル」

 

 リィもそれに倣う。こちらも、陸を駆ける時ほどではないものの、やはり常人とは比べものにならないほどに速い。

 そして、まったく余裕をもった息づかいで、言った。

 

「おれがいつ、お前に暴力を振るった!?訂正しろ!」

「その薄くなってしまった胸に聞いてみろ!国王の執務室の調度品が、典雅さよりも丈夫さを優先せざるをえない仕儀になったのは、一体誰が暴れ回ったおかげかをな!」

「あれはお前が悪いんだろう!くそ、待てったら!」

 

 

 さすがに帰りが遅いので心配になったシェラがロッジのドアを開けると、どこからか二人分の笑い声が聞こえてきた。

 どこからそれが聞こえるのか、探すのに時間はかからなかった。何せ、月明かりに映える湖面に、月よりも明るく輝く金色の髪と、夜よりも黒い漆黒の髪が浮かんでいるのだから。

 要するに、またじゃれあっていたのだ。

 シェラは、重たい溜息を吐き出した。これでは、本当に自分はお母さんになってしまうのではないだろうか。

 長い行者生活、赤子のお守り役を演じたこともあったが、しかしあれほど大きく、そして扱いづらい子供のお守りをするなど、まっぴら御免のシェラである。

 

「ふたりとも!そろそろ帰ってきてください!ウサギのシチューと雉の塩竃焼き、私が一人で食べてしまいますよ!」

 

 遠くから、抗議の声と、こちらに向かって泳いでくる水音が二人分、響いてきた。

 堪えようとしても堪えきれない優しい微笑みを浮かべたシェラは、水に濡れた身体を拭うためのタオルを二人分を用意して、きっと冷え切ってしまったであろう国王夫妻の身体を温めるため、季節外れの暖炉に火を入れたのだ。

 

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