懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
月の下で、二人は語らった。
緑の絨毯の上で、二人は語らった。
しん、と静まりかえった、張り詰めたような夜だった。
誰もいない。この世界には二人だけだ。
それだけでいい。今は、他の何者であっても世界の邪魔者でしかない。
ここには、二つの太陽だけでいい。
「聞いたよ。チェインに口説かれたんだって?」
「ああ。あれは中々に情熱的な少年だな。学校から帰ってくる度に俺の部屋に来て、今からどこどこへ遊びに行こう、ご飯を食べにいこう、友達を紹介してあげると、騒がしいことこの上なかった」
「で、お前、どうしたんだよ」
「丁重にお断りしたさ。今はこの家に来たばかりだから覚えないといけないことがたくさんある、非常に残念だが遊びに行ったり食事に行ったり新しい友達を作ったりしている暇は無い、とな」
「ま、そんなところだろうさ。一応、あいつの心に一生消えない傷をつけないでやってくれたことを感謝するよ」
「なんだ、人を稀代の悪女みたいに」
少女は、如何にも不服そうに口を尖らせた。
そんな幼い仕草が、今のウォルにはとても似合っている。彼女の中に含まれた、女性としての清冽さと少女としての愛らしさが、黄金律とも呼べる配分で交わっているからだ。
同年代の少年であれば、一目で恋に落ちるだろう。もう一回り上の男性であればたまらない保護欲をかき立てられたに違いない。
なのに、リィは微笑っただけだった。口の端を少しだけ持ち上げて、この少年のことを良く知る人間でなければ微笑んでいるとすらわからない程度に。
ただ、より深くこの少年について交わったことのある一部の友人は、今のリィがどれほどに安らかで、そして満ち足りているかを知るだろう。
この無垢な笑顔は、そういう笑顔だった。
「しかし、女の子を口説く男の子とはあのようなものなのだろうか。従弟殿などは、チェイニー君くらいの年の頃には、もう少し女の扱いに手慣れていたように思ったが」
「チェインはあれでも中々のプレイボーイで通ってるんだ。それでも団長と比べるのは可哀想ってもんだぞ」
「ふむ、それもそうか。だが、小手先の技術に頼り過ぎな感がある点は否めんな。折角意中の女性が同じ屋根の下で眠っているのだ。夜這いくらいかける度胸があってこそ男の甲斐性かと思っていたが」
「お前、それチェインには間違っても言ってやるなよ。下手したらあいつ、不能になるぞ。それに、あれだけ女に関して奥手だったお前が言っても、説得力の欠片も無い」
「俺は奥手だったのではない。ただ、想い人が同じ屋根の下に眠っていなかっただけだ。それが証拠に、同じ屋根の下にポーラが来てくれてからは、それなりに励んだつもりだ」
このように明け透けな台詞がこの少女の口から飛び出たことを知れば、彼女に対して少なからぬ幻想を抱いているチェイニーはどう思うだろうか。
リィは、この少女に恋をした弟を、本当に不憫に思った。
「それでも、そんな関係になるまでは時間がかかったじゃないか。違うとは言わせないぞ」
「あれは、ポーラがあまりに初々しくて、女性というよりは妹や娘のように思えたからだ。彼女の中に女性を感じてからは、俺は直ぐさま行動に移した」
「ふん、言葉ではなんとでも言える」
ウォルとポーラが中々契らなかったのは、その実もっと深いところに事情が在る。
無論、リィとてそのことは理解している。理解しているが、それ以上は追究しなかった。それは必要の無いことだった。少なくとも、こんなに暖かくて気持の良い夜には。
ウォルは、勢いよく身体を起こした。
無造作な皮の貫頭衣に付いた草の葉が、ひらひらと闇夜を舞った。
青々としたそれを覆った水の一滴が、月の光を照らし返してきらきらと光る。
寝転がったままのリィは、ぼんやりとその光を見つめた。
ウォルは、それに気付かなかった。
ただ無言で、目の前に広がる湖と、薄っぺらな月の影を見つめていた。
そして、ぼそりと呟いた。
「お前は、ラヴィー殿のように怒らんのか」
それが何の事を、そして誰のことを指しているのか。
リィはいちいち聞かなかった。ルウがその穏やかな心を怒りに染めるのは、たった一人の例外を除けば、いつだって自分よりもか弱い誰かのために決まっている。
本当は黄金色の髪の毛をもち、輝くような緑の瞳をしていたはずの少女。風を知らず、陽光を知らず、仲間を知ることなく朽ちていった誇り高き獣。
彼女の身体に宿った王の魂は、彼女のために心から怒ってくれる青年の存在に、どれほど心救われただろうか。
しかし、その青年の相棒たる少年は、少なくとも外面だけは冷淡に答えた。
「たった一度も顔を合わせたことのない他人の事を、どうやって怒れっていうんだ。生憎、おれはルーファみたいに優しくないんだよ」
「それが、お前の妹のことだったとしてもか」
「さぁ?実感が涌かないっていうのが正直なところかな」
少年は肩を竦めた、ようだった。
少女は呆れたように微笑った。不器用なことだ、とでも思ったのかもしれない。
「正確には妹じゃないけど、もしもドミュやデイジーに似たようなことをする馬鹿がいれば、俺は心底許さない。絶対に、行為に相応しい報いをくれてやる」
淡々とした口調であるが、それ故にリィは己の言葉に忠実たり得るだろう。
この世界に数える程しかない彼の宝物。それに唾を吐きかける愚か者がいれば、彼は心底容赦しない。
「でもさ、ウォル。今、お前の魂がいるその子はさ、やっぱりおれの他人なんだよ。血の繋がりもない他人だし、群れの一員でもない他人だ。冷たく聞こえるかも知れないけどな」
「ああ、それはやはりお前らしいな」
ウォルも頷いた。
そして、少しだけ躊躇うように黙り込んで、言った。
「なぁ、リィよ。あくまで推測にすぎんのだがな…」
「何だよ?」
「俺にはな、ラヴィー殿の本当の怒りは少し違うところにあるのではないかと、そんな気がするのだ」
少年は、のそりと身体を起こした。
彼は、隣に座った少女をちらりと眺めた。
淡い月の明かりに照らされた少女の横顔は、透けるように白く、その様子はまるで生きた人間では無いかのようだった。
生気がない、というのではない。
ただ、あまりに白くあまりに透き通っていて、魂が抜け落ちているように見えたのだ。
リィは、思いっきりに息を吸い込んだ。
一杯に膨らんだ肺腑の中に、少女の香りがあった。
ようやくリィは、少しだけ安心した。
「…詳しく話せよ」
「あの御仁の心に、疚しいところがないのは俺とて重々承知している。しかしな、リィ。俺は自分を基準にして考えることしか出来ないつまらない人間だから、俺には彼の人が不思議に思えてならん」
月光に照らされた、妖精のような少女は続ける。
どこまでも澄んだ声が、湖の畔に響いた。
「俺の知る人間とは、極めて狭量なものだ。無論、俺自身も含めたところでな。例えば戦争だ。何故人は人を殺すことが出来るのか、それを真剣に悩んだことがある」
「そんなことを真剣に悩む王様は、お前くらいだろうさ。他の王様は、如何に効率よく殺すかを考えるもんだ」
「茶化すな。しかし、まぁそれも真理か」
ぴしりと言ったウォルだが、その表情は和やかだ。
ずっと、蜜を含んだように微笑んでいる。
リィも、その表情を見て微笑んだ。
微笑みながら、言った。
「で、結論は出たのか」
「うむ。俺なりの結論だ。正しいかどうかは分からんし、誰にも話したことはない」
「じゃあ、話してくれ」
「無知、ではないかと思うのだ」
「無知か」
「無論、教育を受けたことのない無学な者が人を好んで殺める、という意味ではないぞ。そういう意味では、逆に頭でっかちで妙な選民意識に凝り固まった連中の方が、より残酷に、そしてより巧妙に人を殺すものだ」
「ああ、それは俺もよく分かってる」
人という種族の外側から人を観察し続けた少年は、深く同意した。
彼の中の人間像というものは、彼に近しいごく少数の人達を除けば、未だ嫌悪と侮蔑の対象でしかない。
逆にいえば、そんな彼の周囲に、どうしてこれほど美しい人間ばかりが集まっているのか。
リィは、自分がどれほど幸運に恵まれているのかを理解していた。
そしてその中でも一番深く、魂の深奥で誓いを交わした少女が、言った。
「人は人を殺す。それはもう、呆気ないほどに容易く。しかし、あらゆる人間に対してその牙を向けるかといえば、それはどうにも違うようなのだ」
「どういうことだ」
「例えば、俺はどうやったってお前を殺したくない。それこそ、俺自身を殺すことがあってもお前は絶対に殺さない。それは、シェラやラヴィー殿についても同じことだ。俺は彼らを、決して殺したくない。しかしな、リィ。先ほどお前が話してくれた、ケリーという御仁やジャスミンという御仁がいるな」
「ああ」
「俺は、その方々ならば、殺しても構わんと思うかも知れない。少なくとも、その方々の命を犠牲にすることで俺自身の命が救われるのならば、俺は躊躇しないだろう」
ウォルの言葉に、リィは小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「ジャスミンは女だぞ、それも女の中の女だ」
「……どういう意味だ?」
「とっても可愛らしくて、可憐で清楚で何より綺麗だ。ウォルも、きっと一目惚れするさ」
ジャスミンと関わったことのある男ならば、リィとたった一人を除けば、首を傾げるか首を全力で横に振るに違いなかった。特に、彼女の『細腕』に叩き伏せられたことのある『少数』の男連中などはそうするに違いない。
きっと当人だって、『そのジャスミンという女性は、果たして私のことか?』と訝しんだだろう。
「そうなのか?うーん、それは不味いなぁ」
「ほらな、それがお前だよ。この分じゃあ相手がケリーだったとしても怪しいもんだ」
「それは間違いなく俺の命を優先するぞ。…いや、すまん、少し話が逸れたな」
少女は一つ咳払いをした。
「人は人を殺す。それは間違いない。しかし、余程に外れた一部の狂人を除けば、人は己の知る友人や家族を殺したいとは思わないものなのだ。換言すれば、それ以外の人間に関していえば、驚くほどあっさりとその命を奪う」
「ああ。それについては俺も不思議に思う。何故人間は、自分と同じ種族の個体をああもあっさりと殺せるんだろうって」
「だから、それが無知だと思う。それとも、未知と言い換えてもいいだろうか」
ウォルは、少し寂しそうに言った。
そして空を仰いだ。
そこには、彼女の知らない星座ばかりが顔を並べていた。
「人は頭が良い。そして、きっと頭が良過ぎる。だから、自分と他者との境界線を、おそらくはほんの些細なことに引きたがる。それが、既知か無知か、そこではないかと思う」
「人は頭が良いってところ以外は同感だな」
「頭が悪いか」
「少なくとも、狼に比べれば断然悪い。彼らは本当に頭が良いぞ」
「そうか。生憎俺は狼の知り合いがおらんからなぁ」
「今度紹介するよ。とっても綺麗な、真っ白な狼なんだ。でも気を付けろ、その人は一度、俺の父親の妻だったんだからな。惚れちゃあ駄目だぞ」
「ああ、それは気を付けなければいけないな。……いや、すまん。また話が逸れた。…というかリィ、お前、わざとやっていないか?」
「悪かった、もうしないよ」
「まぁ、別に構わんのだが……。どこまで話したか……そう、既知と無知の線引きだ」
落ちてきそうな夜空だ。
これだけ見事な星空は、あちらの世界でだってそうそうお目にかかれるものではなかった。
闇夜の薄い世界だからこそ、その奥にある闇がいっそう美しく感じられる。
人もまた同じようなものだろうかと、彼女は思った。
「群れの規模が少ないうちは、それで問題なかった。例えば、お前のいう狼の群れであっても、匂いや声などで群れの一員か否かを判別するのだろう?」
「ああ。でも、彼らは群れの一員じゃない狼を、楽しみのために殺したりはしないぞ。ごく稀に、万に一つの可能性でそんな気狂いがいたとして、そんなのは即座に群れから放逐される」
「しかし、人に限ってみれば、群れが大きくなりすぎたのだ。そして、回りには知らない個体が溢れかえる。そうなってくると、自分が今どこにいるのか分からなくなって不安になる。果たして自分は自分の群れの中にいるのかどうか、疑うようになる。だから、そこにもう一つの群れの基準を作ることにした」
「それが、既知と無知、か」
「そうだ。群れの中でも自分が知っている個体だけが自分の群れの一員で、それ以外は自分とは関係のない個体、そういう線引きだな」
「なるほど、彼らは一つの群れの中にいるように見えて、実は全く違う群れなのか」
「というよりも、全く違う生き物だと認識しているという方が正確だと思う」
その一言だけで、少女がどのような人生を、少年と別れた後で歩んできたのかが知れてしまう。
どれほど、人というものに打ちのめされたのか。人というものに絶望したのか。
リィという輝きを知るが故に、その醜さは耐え難いものだったのだろう。
「先ほども言ったがな、人は頭が良い。リィ、お前はそれを愚かしさだと笑うだろうが、しかし人は他者との違いを、それはもう明確に認識してしまうのだ。それ自体が自分にとって我慢のならないものであると思うまでにな。そうなると、もう駄目だ。『あれは、俺にとって我慢のできない人間だ』、『あれは本当に俺と同じ人間なのか?』、『いや、あれは人の皮を被った別の生き物に違いない』、『ならば、俺が殺したとしても問題無い。なにせ、あれは人ではないのだから』、このようになる。それが外面にでるかどうかを別にして、な」
「狂ってる」
「ああ、俺もそう思う。しかし悲しいかな、俺も人間だ。だから、こういった考えをする人間のことも、全く理解できないわけではない」
「お前は違う」
「果たしてそうだろうか。例えば、俺は自分の父たるフェルナン伯爵を殺されたとき、灼熱の鉄塊を飲み込んだほどに怒り狂った。お前も覚えているだろう」
リィは静かに頷いた。
考えてみれば、彼らが共に過ごした6年という長い歳月において、ウォルという人間が、本当に怒り狂ったのは後にも先にもあの時だけだ。
リィはそんな彼に、父親を殺されたときの己を重ねた。かつて愛しい女性を殺され、そして今度は同じく父親を殺された自分。幼い弟を守るために、それを黙って見ていることしか出来なかった自分。
殺意は、他の誰よりも自分に対して向けられた。
この男だって、きっとそうだと思った。
だからこそ、リィはウォルを、一言だって諫めなかった。慰めることすらしなかった。
ただ、己を殺させないために、彼――彼女にとって正当な権利を行使するよう、促してやっただけ。
ただ、もしも――もしもウォルの怒りが改革派全ての人間に向けられたとして――リィは、彼の相棒のように、それを制止し得たのだろうか。
「しかし、俺と父上が全くの他人だったとして、俺はあそこまで怒るだろうか。高名な貴族の一人が、卑劣にも改革派の手にかかり殺されたとして、だ。俺は、確かに怒る。その非道をおおいに非難するだろう。しかし、怒り狂うことは絶対になかった」
「おい、それは話が違う。肉親への愛情と群れへの親愛は分けて考えるべきものだ。それを一緒くたにすると、この世全ての人間が無限の博愛主義者でなければならないっていう気持ちの悪い結論しかでないぞ」
「ああ、分かっている。しかしな、リィよ。俺は国王として、40年王座に在り続けた。その間大きな戦争は無かったが、しかし国境近くで小競り合いは絶えなかったし、疫病や飢饉、そして自然災害で多くの命が失われ続けた」
無感動な声であった。
国があれば人がいる。人がいれば人が死ぬ。当たり前の理屈である。
そんな当たり前の理屈に、ウォルは抗い続けた。それが神の定めた理であるならば、その神をさえ押し退けるように。
しかし、現実はそんな彼女を嘲笑い、押し潰し続けたのだ。
「その度にな、注進が俺に届く。当然、その中には死者の数も含まれている。それを聞く俺は、都度々々思うのだ。『今回はたった百人しか死ななかったか。ならば大きな問題にはならないな』『千人も死んだのか、兵員の補充が大変だな』『一万人も死んだのか、来期の麦の収穫はどうなるんだ』とな」
「国王として当然だ」
「しかし、俺の知る人が死ねばそうはいかない。ドラ将軍が亡くなられたときなど、俺は自分の立っている地面が無くなったのではないかと勘違いしたほどだ」
その名は、リィにとっても懐かしい、懐かしい以上の感情をかき立てる名前であった。
考えてみれば当然である。新しい命が誕生する以上、古い命は退場していく。
彼の知る何人かは、あの世界に再び赴くことがあったとして、二度と会えないのだ。
リィが、ほんの少しだけウォルのことをねたましく思ったとして、何人も彼を非難しえまい。
「無論、あの方は国の重鎮だった。それ故の影響の大きさを考えなかったわけではない。しかしあの感情は、もっと別の、もっと深いところから生じるものだ。この感情の違いはどこから来るのか。結局、それは既知と無知の差だ。突き詰めて考えるなら、俺も先ほど俺が言った、群れの中に異生物を見いだす類の人間と変わらんことになる。違うか?」
リィは即答した。
「違うね。今お前は『突き詰めれば』って言ったけど、一番大事なのはそこなんだ。程度の差では本質に影響を与えない?ふんっ、馬鹿なことを言うな。そんなことを言ったら、ビールもワインもウイスキーもブランデーもみんな同じ飲み物だってことになっちまうじゃないか。そんなのちっとも面白くない」
酒好きのリィには相応しい答えだった。
ウォルは悪戯げに微笑んだ。
「ではリィ。お前は、この二つの死の差違をどこに求める?」
「それはお前の言うとおり、既知と無知なんだろうさ。しかし、それとこれとは話が別だ。お前が、全くの他人を自分とは違う生き物だと認識して無慈悲に殺せる人間かどうか、その膨らんだ胸に聞いてみろ。もしお前がそんなに徹底できる人間なら、おれがお前を助ける必要だってなかったんだ」
「ああ、そう言われるとその通りかもしれんなぁ」
どこまでものんびりとした調子のウォルの声である。
「しかしな、リィよ。俺が言いたいのは、人とは多かれ少なかれ、そういう生き物だということだ。『他者の不幸は蜜の味』などというふざけた格言もあるが、それは一面では人の本質を端的に表しているのではないかと、俺は思う。だからこそ、俺は他国との交流を密に取ることに心を砕いたつもりだ。無知こそが容易い殺戮を、ひいては戦争を引き起こすならば、無知を取り払うことが出来れば相当の数の戦乱を防ぐことが出来る。俺は俺が死んだ後の世界に何をしてやることも出来ないが、しかし彼らに何かを残してやることが出来るならば、それは恒久なものではなくとも、いや、たとえ一時的なものであったとしても、戦いの少ない平和な世に勝るものはないと思う。だから、せめてその種に過ぎないものであったとして、俺は必死にそれを撒いたつもりだ」
「ああ、ウォル。お前はさ、常勝の覇王であったことよりも、その一事をもってして歴史に名を残す資格があると思うぞ」
予想だにしなかったあまりに率直な賛辞に、少女は居心地が悪そうに身動ぎをした。
しかし、真剣な表情のまま続ける。
「で、だ。少し遠回りをしすぎた感があるが、俺の考える人間というものはそういうものなのだ。少なくとも、己の知る人間以外のことについて、真に心を痛めることが出来る生き物ではない」
「だからこそ、ルーファがウォルフィーナにあそこまで執着する理由が分からない、と」
「その通りだ。無論、あの御仁の心の優しきことを疑うわけではない。まして、あの方を偽善者だと非難する気など毛頭ない」
「もし口が裂けてもそんなこと言ったら、ウォル、俺はお前と絶交しなけりゃならないところだ」
リィは笑いながら言ったが、ウォルはその言葉が完全に本気のものであることを知っていた。
この少年は、己の相棒の名誉を穢されることを、何よりも嫌う。
その禁を犯せば、きっと、戦士の魂の誓いを交わした同盟者であっても、許しはしないだろう。
相棒を、不当な暴力や侮辱から守ること。それは、リィという生き物の生態と言っていいものだったからだ。
ウォルはそのことを理解している。そして、彼女はリィもルウも大好きだったから何の問題も無い――はずだ。
ただ……一握り、ほんの少しだけ。
妬いていた、のかもしれない。
「では、何故ラヴィー殿はウォルフィーナにあそこまで執着するのだろうか」
「俺の妹だから、じゃあ足りないんだな」
「その通りだ。それでは足りない。何故なら、あの方はウォルフィーナのことを直接知らなかったからだ。それでは、ああまで怒る理由が無い。少なくとも、俺に基準を置くならば、だ」
リィは少しだけ考え込んで、言った。
「彼女を救うことが出来たのが自分だけだった、とあいつが思い込んでいるとかは?」
「まだ弱いと思う。あの方は確かに長い手をお持ちだが、しかしそれが宇宙の隅々にまで及ぶと自惚れる御仁でもあるまい。ならば、どこかで線引きが必要だ。俺は、そこらへんについて、あの人は相当に割り切りをしていると思う。そうでなくば、溜まり溜まった自責の念がいずれはかの人を押し潰すことになる」
「じゃあ、なんでルーファはウォルフィーナのことを、あそこまで気にしている?」
ウォルは、初めてリィを正面から見つめた。
そして言った。
「お前だ、リィ」
「どういうことだ」
「彼女の人生を追体験した俺だから分かる。リィよ。ウォルフィーナはな、この世界でただ一人、お前と同じ生き物だったのだ」
それは、ルウも言っていたことである。
彼女は、リィの妹であると。そして、もう一人のリィであると。彼自身は否定したが、ウォルフィーナは事実、そういう存在であったのだ。
「だからこそ、あそこまで悔いておられる。きっと、自分が彼女の存在を見逃したせいで、お前をこの宇宙でただ一匹の生き物にしてしまったと、そう考えておられるのではないだろうか」
リィは唖然とした顔でウォルの横顔を眺め、その後で短く舌打ちをした。
手で弄んでいた小石を、湖面に投げ込む。重たい水音の後で、水面はまるで彼の内心を表すように激しく揺らいだ。
「あの馬鹿…おれがいつ、そんなことを考えたんだ。おれは、あいつさえいれば他に何もいらない、そう思ってるのに…」
「俺には、詳しいことは分からん。しかしあの方には自分と同じ種族の友はいるのだろう?」
「控えめに見ても特大の腫れ物扱いだけどな」
「それでも、同じ生き物だ。自分と同じ存在が隣にいるのは、それだけで驚くほどに心強いものだ。それがお前には一人もいない」
無慈悲とも言える台詞だ。
しかし、この世にただ一人と言われた少年は、むしろ誇らしげに笑ったのだ。
少し寂しげに、それ以上に満足げに。
「それがひょっとしたら自分のせいかもしれない。もう少し自分が目を凝らしていれば、お前は一人にならなかったかもしれない。これは理屈ではなくただの勘だが、あの方はそう考えている。その失われた可能性が彼の人を苦しめているのではないかと、俺は思うのだ」
「明日の朝、聞いてみるよ。そして教えてやるんだ。そんな心配が、どれだけ余計なお世話なのかをな」
「そうか、お前達はそれが許される関係なのだな」
「羨ましいか?」
ウォルは頷いた。
「ああ、心の底から羨ましい。人は、そこまで容易く己と他者との壁を崩せる生き物ではないからな」
「ありがとう、感謝するよウォル。よく教えてくれた」
「どういたしまして、だな。このように美しい光景を見せてもらった、そのささやかなお礼ということにしておこう」
「そりゃあ、おれの方が勝ちすぎだな。なら、少しだけ恩を買い戻すことが出来たかな?」
「ほんのちょっぴりだけな。まだまだ恩は残っているぞ。これからもどんどん買っていってもらうつもりだから覚悟しておけ」
「ああ、そりゃあぞっとしない」
二人は声をあげて笑った。
そして息が落ち着いた頃合、少女が再び口を開いた。
「もう一つ、話がある」
「まだあるのか」
「まぁ聞け。これは、酒に酔った勢いの話だと思って聞き流して貰えると有難いのだがな……」
「なんだよ、えらく勿体つけるな」
笑いを含んだ少年の声に、少女は生真面目な表情で問うた。
「リィよ、お前はこれからどうするのだ?」
リィも、流石に笑みを消した。
これが、そういう表情で答えていい質問では無いと理解したからだ。
「それはどちらかというとおれの質問のような気がするんだが……。とにかく、趣旨が曖昧すぎるな。まぁ解答をごく短期間のことに絞って答えるなら、今からコップ一杯の水を飲んで、それから寝ようと思う。でも、そういうことじゃあないんだろう?」
「そうだな、質問を変えよう。リィ、お前はこれからもたった一人で生きていくのか?」
「おれは一人だったことなんて今まで一度もない。ルーファが、アマロックが、そしてシェラやケリー、ジャスミンがいる。向こうの世界ではお前やイヴン達がいた。みんな、おれの大切な人達だ」
「そうだ、彼らはお前の相棒であり、そして友人だ。しかし、それ以上ではないな」
「どういうことだ。あまり出過ぎたことを言うと、お前でも許さないぞウォル」
「だからこそ酒に酔った振りをしている。ここは誤魔化されろ」
「……酔った振りって、お前なぁ」
「まぁ聞け。確かにお前の回りには、得難い人達ばかりが集まっている。そう、まるであちらでの世界の俺のようにな」
そう言ったウォルの脳裏に浮かんだ名前。
ポーラ、バルロ、イヴン、ナシアス、シャーミアン、ロザモンド、ジル……。
全て大切な人達だ。
しかし、もう二度と会えない。もしあちらの世界に帰ることが出来るとしても、彼女は二度と彼らと会うつもりはなかった。
何故なら、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンは、デルフィニアの太陽と呼ばれた英雄王は、あのとき確かに息絶えたのだ。
今の自分は、掛け値無しに只のウォルである。フェルナン伯爵の一粒種であった山猿ウォリーですらない、只のウォルである。
理屈ではなく感情によって、あちらの世界に自分の居場所がないことを、彼女は理解している。
だからこそ、こちらの世界でようやく再会することの叶った、灼熱色の思い出を共有する友を、どれほど貴重なものに思っただろう。
万感の想いを込めて、ウォルは口を開いた。
「俺が結婚を申し込んだとき、お前は言ったな。『お前にはお前だけを愛してくれる人間の奥さんが必要だ』と。だからこそ、俺も問おう。お前にこそそれは必要ではないのか。お前には、お前だけを愛してくれる、お前と同じ種族の妻が必要なのではないか?」
「その問題については論ずる余地がない。必要のあるなしじゃあないんだ。おれにはそんなもの、存在しないんだよ」
「何故だ」
「決まっている。おれは、この世でただ一人の生き物だからだ」
ウォルは、静かに首を振った。
「それは違う」
「どこが」
「ここにいる」
「ここ?」
「今は俺が、お前と同じ種族だ」
その言葉を聞いても、リィの顔にはどんな感情も浮かばなかった。
ただ、無言で話の続きを促した。
「確かに、俺の魂は人の魂だ。しかし、それ以上に俺の魂は戦士の魂だ。自惚れが許されるなら、リィ、お前と同じな。そして、この体はお前と同じ生き物の体だ。どうだ、リィ。これではお前の同族として、そしてお前の配偶者として不満か」
リィは呆れたように答えた。
「お前は元からおれの夫だ」
「その通りだ。しかし、それは同盟者としての方便だった。違うとは言わさんぞ」
「今度のは違うのか」
「そうだ。俺は今度こそ、本当の意味でお前と夫婦になりたい」
「…同情か」
「同情などでこんな恥ずかしいことが言えるものか」
「なら、まさか本当に愛の告白か」
リィは、この上なく疑わしげな視線で己の夫を睨んだ。
しかし、ウォルが着込んだ面の皮の厚さは、さしものリィの鋭い視線をもってしても貫き通せるものではなかったらしい。悠然と湖の方を見つめる少女の視線には、如何なる感情も浮かんでいない、ようにリィは思った。
しばらく、思い悩むような時間があって、少女は、さっきリィがしたのと同じように、小さな手に掴んだ小石を水面に投げ込んだ。
軽い水音が辺りに響き、ゆらゆらと揺らめく水面が、そこに映り込んだ月を歪に歪める。
どこか、当たり前で、それ以上に幻想的な光景だった。
それを見つめる二人は無言である。
「いや、それも少し違う。なぁ、リィ。頼むから怒らずに聞いて欲しい」
ウォルがリィに対してこのようなことを断るのは、異例といっていい。それも、リィと視線を合わることもせず、まるで怯えるように前を見つめながら、である。
リィは、僅かに居住まいを正した。
隣に座った少女が何を言っても、たった一度は許そうと思った。
やがて水面の揺らめきが収まった頃、ウォルは恐る恐ると口を開き、そして言った。
「俺は、おそらく男女の情愛という意味においてお前を愛していない。それは、この体がお前と同じ種族の、そして女になった今も変わらん。そして、これから先に変わると断言もできん。その上で、俺には俺の考えがあるのだ。つまり、ある意味ではお前を俺の目的のために利用したいがために、こんなことを言っている。純粋にお前を求めているかと問われれば、首を横に振らざるを得ん」
とても今し方に、『愛の告白らしきもの』を口にした少女の台詞ではない。
しかしその堅苦しさを、リィは懐かしいものに感じた。
全く、彼の知るウォルという生き物は、どうでもいいようなことほど、不器用なまでに頑固な男だったのだから。
色々と考えて、結局リィは溜息を吐いた。
「…要するに、また同じということか」
「そういうことだ。以前は方便として、俺達は仮初めの夫婦となった。今度は、真の夫婦となったほうがお互いに…いや取り繕うのは止めよう、ただ俺のために都合がいいから、俺と番わないかと誘っているのだ」
「はっ、それはなんともお前らしいよ」
「軽蔑するか」
「いや、ちっとも。これが色仕掛けの結果とかならそうかも知れないけど、ここまであけすけにされてどうして軽蔑が出来る。余りに清々しくて気持ちいいくらいだ。しかし、そこには重大な問題があるぞ」
「なんだ」
「今度は、お前がおれに抱かれなくちゃいけないということだ。お前、それが我慢できるのか?」
それは、想像以上に重要で難解な問題であるようにリィには思えた。何せ、彼自身、一度は女の体になった経験があるのだ。
事情を知らない訳知り顔の人間は、魂と精神は肉体に依存するとでもいうかも知れない。しかし、王女として三年、王妃として三年を生きたリィは、その間一回だって男に抱かれたいと思ったことはない。抱かれてやってもいいと思ったのだって、夫との別れの間際の一回だけである。隣にいたのがウォルという、人間の中では間違いなく最高の雄だったにも関わらず、だ。
であれば、今度は女になったウォルが、リィに体を許していいと容易く考えるだろうか。あちらの世界では男として70歳まで生き、剰えポーラとの間に子を成し育てたウォルが。
然り、今はどこからどう見ても女の子、それも極上に美少女にしか見えないウォルは、思いっきりしかめっ面をしながら言った。
「ああ、俺も問題はそこだと思っている。そこさえ何とかなれば万事解決なのだがなぁ」
「…なんだ、お前、そんなところの覚悟もなくおれにプロポーズをしたのか?」
ウォルは、その言葉を初めて聞いたように唖然とした顔をして、小首を傾げながら問うた。
「…これはプロポーズになるのか?」
「どこからどう聞いてもそうだろうが。お前はおれの妻になりたいって言ってるんだろ?これは誰が聞いてもプロポーズの一種だぞ」
「ふむ。言われてみればその通りだな」
「試してみるか、今から?」
リィは真剣な面持ちで言った。
ずいっとウォルの方の身体を寄せた。
ウォルは、すすっと逃げた。
そして、心底嫌そうな顔をして答えた。
「ふざけるな。俺には男に体を許す趣味はないぞ、少なくとも今はな」
「なら、本末転倒もいいところだ。いいか、ウォル。お前がおれに抱かれてくれなくちゃ、おれとお前は本当の意味での夫婦になれないぞ。おれには、嫌がる女を鼻息荒く押し倒す趣味はないんだからな」
「そうか、残念だ。お前が俺を押し倒してくれれば、それはそれで踏ん切りがつくと思うのだがなぁ」
「踏ん切りって、お前なぁ…」
ウォルの残念そうな声に、呆れきったような声でリィが応える。
それにしても、これほどの美少女からこのような台詞を言われてなお自制心を働かせることの出来る男が、リィを除いて、この広い宇宙にどれだけ存在しているのだろう。もし仮に彼以外にも存在したとしても、その男の友人連中がそのことを知れば『据え膳喰わぬは男の恥』というお決まりの文句でその男を非難するに違いなかった。
もっともリィに限って話をすれば、彼は己の中の獣心を押さえ込んだのではなく、隣に座る少女の瑞々しい肢体に、本当に興味がなかっただけなのだが。
「ともかく、今の俺にはお前の下に組み敷かれる覚悟は無い。しかし、いずれはそうなるべきだと思っている。俺にとっても、そしてお前にとっても」
「なんでだ」
ウォルは、その黒い瞳でリィの視線をしっかりと受け止めて、そして言った。
「子供だ」
リィは少しだけ驚いた顔をした後で、真剣な顔をしながら呟いた。
「お前、まさか子供が欲しいのか」
「ああ、子供が欲しいのだ。俺の血を受け継いでくれる子供がな。幸い、この体はそれが可能らしい。以前のお前と違ってな」
「生理が来たのか?」
リィは何の照れもなく言った。
「……お前、そういうことをはっきりとだな……」
「駄目なのか?」
「駄目というか、なんというか……」
リィは不思議そうに首を傾げながら、目の前で頬を淡く染めた少女を見つめていた。
今は男の姿のリィであるが、ウォルの中のリィはやはりまだ女性の印象が強い。性別が変わった今も、その容姿にほとんど変わっている点が無いこともそれに拍車を掛けている。
だから、リィが明け透けにその単語を口にしたことで、今は女性であるはずのウォルのほうが酷く慌ててしまった。男だったときの彼女が、そういった手の話題には滅法及び腰だったというのもある。
「今はだな、その、月のものは来ていない」
「じゃあ、何で分かるんだ?」
「入院中に、まぁその、なんだ、この体にそういう兆候があるのかと問われたのだが、俺には全くその覚えもない。そして、あちらの世界のお前にも、確かそのようなことは全く無かったのを思いだして、きちんと調べてもらったのだ」
「で、子供が産める体だと分かった、と。なるほど、考えてみれば当たり前だ。あのときのおれは、あくまで一時的に体調がおかしかっただけなんだ。それに比べて、お前の体はちゃんとした女の子の体なんだもんな」
「性別が変わるのを風邪と一緒のように言うな。それに、当たり前のように言うがなリィ、自分の体が完全な女性に変わったと聞いたときは、さすがの俺も目の前に黒いカーテンが降りたかと思ったぞ」
「それでお前、どうしたんだ?」
「まぁ、嘆いていても始まらんからな、物事は出来るだけ前向きに考えるのが俺の長所だ。だから、この体が子を成せるというなら、精々利用させてもらうつもりだ」
「…ウォル、おれはお前を心の底から尊敬する」
「褒めるな、照れるだろうが」
リィは、目の前の不思議な生き物をまじまじと見つめた。
彼の見間違いでなければ、その生き物は本気で照れているように見えた。
今だって、自分と同じ生き物だとは信じられない。でも、どう考えても普通の人間には見えない。
これはどうやら、自分はこの宇宙でただ一匹の生き物だという身の上話は、これからは使えなくなったらしいと悟った。
「まぁ、お前の言いたいことはわかったよ。でも、結論がイマイチ分からない。結局お前は何が言いたいんだ?」
「うむ。俺はお前と夫婦になりたい、いや、なるべきだと思っている。しかし、残念ながら今の俺にはそれだけの覚悟がない」
ウォルは、一つ息を吐き出して、真剣な調子で言った。
「だからな、リィ。俺の覚悟が出来るまで、他の誰とも結婚しないで欲しいのだ。もしどうしても結婚したいということになれば、その時は俺に相談してから決めて欲しい。駄目か?」
「駄目かも何も…。なぁ、ウォル。おれはさ、お前と別れるときに言ったよな。もしもおれに愛する人が出来たとして、その人には『おれには夫がいる』とはっきり言うって」
「それはそうだ。しかしそれは、あくまでお前の相手方にだろう?これからは、俺の方にもきちんと話を通して欲しいのだ」
リィは腹の底から胡散臭そうに眉を顰め、そして問うた。
「…要するに、おれと婚約したいと、そういうことか?」
「おお、それそれ、正しくそういうことだ!」
ウォルはしたりと膝を打ち、喉に刺さった魚の骨が取れたように晴れ晴れしい顔で、大きな声を上げた。
リィは、特大の溜息を吐いた。言葉にはしなかったが、どうやらおれは夫選びを間違えたらしいと、ほんの少しだけ思った。
「……今でも一応、おれとお前は夫婦のはずなんだけどなぁ……」
「しかし、今の俺はお前の夫だ。そして俺は、今度はお前の妻となるべく婚約を申し込みたい。いけないか?」
「……そんなことを申し込まれた妻は、この宇宙が始まって以来、おれが最初だろうさ。いや、こんな馬鹿げたこと、これから先だってあってたまるもんか」
「ああ、俺もそう思う。そうでないと、法律の整備が煩雑で仕方ない。これはたった一度だけの特例であるべきだ」
「そういう問題か……?」
「迷惑か?」
「いや、お前らしいなと感心していたんだ」
ウォルは、噛み付くような笑みを浮かべた。
「馬鹿にしているか?」
それに答えるリィの顔だって、今にも噛み付きそうなくらいに微笑っていた。
本当に、嬉しそうだった。
「半分は。いや、三分の二、それとも四分の三くらいかな?」
「それはずいぶんな話だ」
「自業自得だ」
必死のにらめっこが続いたのは、ほんの一瞬の話。
すぐに二人してお腹を抱えながら笑い転げた。
一面の草原を転げ回ると、青々とした若草を濡らす夜露が二人の身体をひんやりと静めていく。
二人は同時に身体を起こして、荒く乱れた息を整えた。
そして、少女は問うた。
「ところで、色よい返事は頂けるのかな、我が妻よ」
「でもなぁ…」
「まさかリィよ、世界を越えてまでお前に会いに来たこの俺のささやかな願いを無碍にするとか、そういうつれないことは言わんよな?」
「お前さ、やっぱりおれと別れた時と比べると、少し性格が悪くなったと思うぞ」
「まぁ、否定はせん。人間40年生きていれば色々ある」
今は少女の身体に宿る戦士の魂は、憮然と肩を竦めた。
確かに色々とあったようだった。リィはそのことを敢えて聞こうとは思わなかった。それは彼が聞くべき事ではなく、ウォルが必要だと判断すれば必ず話してくれる、そういう類のものだったからだ。
「で、返事の方がまだだったと思うが?」
これで三度目の問いだ。
隣で腰掛ける少女の声に、少年は苦笑を浮かべた。
まるで、下手な恋愛小説だ。女が積極的に男に迫り、情け無い男がようやく重たい腰を上げる。
まったく、いつのまに自分達は、例え外面だけでもそんな砂糖菓子のような関係になったのかと、リィは、この世界かそれともあちらの世界かの神様にほんのちょっぴりの恨み言を呟いた。
「ん?何と言ったのだ?」
「いや、こっちの話だ」
リィは、肩だけではなく全身を竦めるようにして、言った。
もう、何もかも諦めたような、そんな表情で。それでもどこか、この奇想天外な事態を楽しむように晴れ晴れとした表情で。
「わかったよ我が夫。毒を食らわば皿までだ。おれはお前を妻に娶るべく、この操を捧げることをここに誓おう」
その言葉に、ウォルは今までで一番に真剣な表情を浮かべた。
剣呑と、そう呼ぶ一歩手前の表情だったが、口元が微妙にひくついている。
少女は、笑いを堪えていた。
そして、最後の問いかけをした。
「剣と、戦士としての魂にかけて?」
リィは呆れたように叫んだ。
「酔った勢いの話なんかにそんな大切なものをかけられるか!」
「違いない!」
それが限界だった。
二人の戦士は、満天の星空のもとで、再び笑い転げた。
彼らの笑い声は、無限の夜空に吸い込まれて、二人以外の何者の耳にも届かなかった。
ひとしきり笑い転げ、荒々しく乱れた息を整えつつ、二人は並んで寝転びながら、星空を見上げていた。
背中で潰れた青草の、なんとも懐かしい香りが二人の鼻を擽る。初夏の空気は夜露に濡れ、少し冷たい程であったが、しかしちっとも寒さを感じない。体以外のものが、圧倒的なまでの暖かさに満たされているからだ。
「遠いな」
呟いたのはどちらだったか。
呟いた方も、聞いた方も、よく分からなかった。
それは、どちらもが同じことを考えていたからだ。
「これほどに遠いとは、思わなかった」
「ごめんな。忘れていたわけじゃあないんだ」
「ああ。俺も、すまなかった。何度か、お前の心根を疑った。もう俺達の、いや、俺の事など忘れてしまったのではないかと、疑った」
「おれがこっちに帰ってきてからまだ一年もたっちゃあいないんだ。どんな薄情者だって忘れるもんか」
「俺は、40年待ったよ」
しみじみとしたその声に、リィは、喉の奥の言葉を飲み込んだ。
ウォルが何気なく呟いたその言葉には、二人の間に横たわっていた時間の濁流に相応しいだけの、無限に近い重みがあった。
真実はどうあれ、かたちとしてはウォル以外の何かを選んでこの世界に戻ってきたリィには、何も言えなかった。その思いは、リィ以外の何かを選んで自分の世界に残ることを選んだウォルにしても同じものだったのだろう。
無論、ウォルはリィのことを非難していない。そんなこと、考えたことすらない。それが分かるからこそ、リィは何も言うことができなかった。
「でも、こんなに遠いんじゃあ仕方ない。だからリィ、お前を許そう」
「ああ、ありがとう、ウォル」
ウォルは、リィの声のする方に体を向けた。
リィは、ウォルの声のする方に体を向けた。
すると、二人は向かい合って、自分の腕を枕にしながら寝転んでいた。
鼻先が触れ合うような距離に、お互いの顔がある。
どちらも、あの世界で背中を守りあった、お互いの顔ではない。
しかし、それはどうしようもないほどに、二人が夢見た顔であった。もう一度会いたいと、せめて夢の中で会わせて欲しいと、何度も祈り、その度に新たな失望と寂寥を味わい、それでも求めた、二つの世界でただ一人の同盟者の顔だった。
「可愛らしくなっちまってまぁ。イヴンやバルロが見たら腰を抜かすぞ、きっと」
リィの小さな手が、ウォルの滑らかな頬を撫でた。国王であった男の頬の感触は、滑らかであったが固く、青銅の彫像めいた印象があったものだ。それが今は、しっとりと肌に吸い付く柔らかな少女の頬になっている。
その少女は、くすぐったそうに身を捩った。
「馬鹿を言うな。イヴンや従弟殿なら、今の俺を見れば一目で口説き落としにかかるに違いない。腰を抜かしている暇などあるものか」
「ああ、それは同感」
今度は、ウォルの手がリィの髪を撫でた。リィの髪は、彼が王妃であったと時に比べれば、幾分癖の弱い巻き毛になっているが、夜空のもとでもきらきらと輝くその黄金色だけは見間違いようもない。そして、そのなめらかな触り心地もだ。
少年は、少女の掌の暖かな感触を愛でるように、うっとりと目を閉じた。
しばらくそのまま、お互いの小さくなってしまった体を、小さくなってしまった己の掌で愛撫し続けた。
誰かが今の二人を見たならば、極上の毛並みを持つ生まれたての子猫が、じゃれ合いつつも互いを毛繕いしている、そんな様を思い起こしたかも知れない。
やがて、リィは目を開けた。その緑柱石色の瞳に、己の漆黒の瞳が映り込んだのを、ウォルはきちんと確かめた。
「なぁ、リィ。俺はまだ聞いていないぞ」
「うん?」
一瞬不思議な顔をしたリィだったが、目の前の少女が何を言いたいのか、何を言って欲しいのかを察したのだろう、すぐに穏やかな微笑を口元に浮かべた。
そして、万感の思いを込めて言った。
「おかえり、ウォル」
おかえり、と。
無論、ウォルにとってのこの土地は、全くの異郷の地である。それどころか、世界そのものが違うのだ。
しかし、リィは言った。おかえり、と。
その言葉の意味を、ウォルは理解していた。
それは、住み家のことでもなければ、故郷のことでもない。
それは、魂の在処の問題だ。
だから、おかえり、なのだ。
お前の魂は、おれの隣こそが一番相応しいと、そういう言葉なのだ。
それを理解してたから、ウォルもまた、万感の思いを込めて言った。
「ああ、ただいま、リィ」
二人はそれからしばらく無言で見つめあい、どちらからか目を閉じた。
顔を寄せていったのは、今の性別の役割として、リィからだった。
唇と唇が触れ合う。愛情ではなく、友情と、それ以上の絆を確かめ合うための、浅くて優しい口づけだった。しかし、二人の間に横たわった時の空白を埋めるような、長くて長い口づけだった。
かつて二人の間には、星々ですら丸ごと飲み込むような時の濁流が横たわっていた。
今、彼らは同じ時間の中を息づいている。
そして彼らは、温もりを求めるように、あるいは決して離さないように互いの体を抱き締めて、同時に眠りに落ちた。自分の腕の中で自分の背中を預けることの出来る戦友が眠っているという、何物にも代え難い充足感を供にして。