懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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転章

 少女は、空を見上げた。

 自分の真上、ちょうど天頂の位置に、白く光る太陽が鎮座坐している。

 あとは、抜けるような青空だけだ。薄雲一つだってありはしない。

 朝の、肌を刺すような寒気は消え失せて、いつの間にか汗ばむような陽気になっている。事実、もう何時間も野山を駆け巡った少女の額には、珠のような汗が浮かんでいるのだ。

 少女は、それをぐいと拭った。泥だらけの手で拭ったから、額は真っ黒になった。

 彼女の近くに誰かがいれば、笑いながらそれを指摘してくれただろうが、しかし彼女は一人である。一人で野山を駆け巡っているから、そんなことはどうでもいいことだった。

 しばらくそのまま野遊びをした。

 腹が空けば、たわわに実った木の実を囓った。不思議と、毒のある木の実に当たることは無かった。どれほど美味しそうでふっくらと膨らんだ木の実でも、どうしても食べる気がしないものがあった。まるで一面に黒カビが生え揃って、蛆虫が湧いたチーズくらいに食べる気がしない。

 少女は、それを食べてはいけないことを知っていた。

 喉が渇けば、小川の水で喉を潤した。探すのに手間はかからない。馥郁と甘い水の香りが、手招きをしながら自分を呼ぶのだ。お誘いに乗ってふらふらと歩くと、まるで飲んでくれと言わんばかりに透き通って冷たい水が、我が物顔でさらさらと流れている……。

 少女は、掌を椀代わりにして水を掬うことはしなかった。そんなことは意地汚くてみっともないことに思えたからだ。

 代わりに、きらきらと陽光を跳ね返す水面に顔を寄せて、舌で直接水を舐めた。

 ぴちゃぴちゃと軽やかな音が鳴る度に、焼け付くような喉の熱さが癒えていく。

 美味だった。

 たらふくに冷たい水を飲み、もうお腹一杯になった頃合いである。ようやく彼女は、水面に自分の顔が映っていることに気がついた。すると、額が真っ黒に汚れていて、どうにも格好の悪い有様であった。

 本来であれば手で洗ってやるのがいいのだろうが、それすら面倒であった彼女は、えいやと川に飛び込んだ。

 川は浅いように見えて意外なほどに深いことも多く、そういう時は往々にして命に関わるような事故も起きやすい。少女とてそれくらいのことは知らないわけではないのだが、小川の中で飛ぶように泳ぐ小魚たちが、その涼やかな有様が、あまりに羨ましかったのだ。

 元々、服は身につけていない。そんなもの、あちらこちらから張り出した木の枝やら何やらに引っかかって鬱陶しいだけである。早々に脱ぎ捨てている。

 生まれたままの姿の少女は、自分の腰ほどの深さの小川の中を、たいそう嬉しそうに泳いだ。

 山嶺にはまだ白いものが残り、朝には息も白くなる季節の川水であるから、それなりに冷たい。長く入っていれば、痺れるような冷たさが痛さに変わるような、そういう冷たさである。

 しかし少女は嬉しそうだった。その黒髪を水浸しにして、しなやかな四肢を踊らせるように動かし、川の流れの中ではしゃいでいた。

 妖精が遊んでいるようだった。

 十分に満足したのだろう、少女は身体を起こし、川底に足を付けて立ち上がった。頭を、そして全身を激しく振るわして、余分な水分を弾き飛ばす。

 大理石のように滑らかで張りのある肌と、黒絹の上に漆を重ねたような髪の毛から、盛大に飛沫が舞い散った。それだけで、彼女を覆う水のほとんどは消え失せた。磨き抜かれた鏡面のような肢体は、水の精霊の求愛を、素っ気なく袖にして見せた。

 ばしゃばしゃと水を掻き分け歩き、岸に片足をかける。

 その時、足下に目を落とすと、一匹の獣が自分を睨みつけていることに気がついた。

 睨みつけている。それは正確では無いかも知れない。何というか、呆気にとられたような、それとも興味津々のような、間の抜けた顔立ちだ。

 それより何より、何故この狼は、水の中から自分を見つめているのだろうか。それが一番不思議で、そして可笑しかった。

 思わず首を傾げてしまう。ねぇ、あなたは何故そんなところから私を見つめるの?

 すると彼女も首を傾げた。どうしてそんな簡単なこともわからないのかしら?

 少女はぷっくりと頬を膨らました。だって、初めて顔を合わせた見知らぬ人に、いきなり失礼な口を訊かれたのだ。ちょっとおつむにこない方がどうかしているもの。

 すると、狼も頬を膨らました。あちらも、どうしてか怒っているようだった。きっと何もかもが自分の思うとおりにいかないと癇癪を起こすような、お嬢様狼なのだ。

 もう知らない。少女は思った。あんな聞き分けのない我が侭お嬢様は、どこかで彼女の帰りを心配しているお父さん狼とお母さん狼に、お尻を叩かれてしまえばいいんだ。

 ざばりと陸に上がる。

 二、三歩歩き、振り返る。

 すると、川の中のどこにも、あのおしゃまな雌狼の、黒い瞳はなかった。きっとお腹が空いたから、家に帰ったんだろうと思った。

 少女は首を傾げて、それから先ほどよりもなお速く、風のように俊敏に駆けだした。

 大地を蹴り、藪を抜け、木々の間を駆けていく。

 景色が凄い勢いで流れていく。

 走る、走る、走る。

 何故走るのか、と問いかけるものはいない。今の彼女は、ただ走るだけが生態の生き物だ。それだけで、少女は完成している。

 舌を出して、喘ぐように酸素を取り入れる。肺腑を満たす冷たい空気が官能的だ。

 喉が渇いた。さっきあれほどお腹一杯に味わった水など、異次元の彼方に消え失せてしまった。

 筋肉が甘い疲れに痺れる。もうへとへとだ。へたり込んで、天を仰ぎながら一息吐きたい。そう思う少女と、まだまだ走りたい、私の欲望はまだまだこんなものじゃあないと叫び猛る彼女がいる。

 等分にいる。

 だから少女は、木に登った。駆け上った。手を、足を使い、地を駆けるのとほとんど変わらない速度で、見たこともない程に太い幹回りの大樹に、駆け上った。

 世界が、見たかった。

 自分を含む世界が、どれほどに広いのか。どこまで駆ければ世界は終わるのか。

 自身の体重を支えられる限界ぎりぎりまで幹が細くなった頃合いに、少女は世界を見下ろした。

 鬱蒼とした緑が、どこまでも広がっている。

 波打つような木々の群れは、そのまま緑柱石色の波頭だ。ここは、大地に根付いた大海原だ。

 少女は、無性に泣きたくなった。

 どうして自分はこんなところにいるのか。

 たった一人で!

 仲間が欲しい。少女の胸中を、強烈な焦燥感が襲う。それは間もなく胸を掻き毟りたくなるような郷愁の念に変わり、最後に凍えるような孤独と恐怖に変わった。

 探さなくては!

 自分と同じ毛皮を持つものを。自分と同じ爪を持つものを。自分と同じ牙を持つものを。

 俺は、それを知っている。俺の、一番大切な人だ。人のかたちをした、この世で一番誇り高い獣だ。

 金色の毛並み。聖緑の瞳。

 魂魄を洗い流すような、清冽で不敵な笑み。

 おれだけの、たいよう。

 

 ――何という、名前だったのだろうか。

 

 忘れてしまった。

 遠い昔のことだ。

 

 少女は吠えた。

 喉を開け放ち、肺腑にため込んだ精一杯の空気を、一息に吐き出した。

 悲しげな遠吠えは万里に響き、彼女の恋慕をあの獣に届けてくれるだろうか。

 少女は泣いていた。止めどなく涙を流し、嗚咽の代わりに吠えた。

 そして耳を澄ます。きっと誰かが、自分を探して吠え返してくれるはずだ。

 静寂の向こうに、自分の声だけが木霊する。自分の声を仲間の声と聞き違えることが出来れば、少女はどれほどに幸福だっただろうか。

 少女はもう一度吠えた。涙声の混じった、憐れを誘う声で。

 どうして、どうして誰も応えてくれない?どうして私を置いて、違う世界に旅立ってしまった?

 彼女は、どうしようもないほどに一人だった。

 だから、手を離した。

 虚空に身体を遊ばせる。内蔵を踊らせるような浮遊感。

 死んでもいいと思った。でも、死にたいとは思わなかった。

 天を掴むように生え揃った枝に、手を伸ばす。当然、彼女の体重を支えるには至らない。

 ばきりと折れ飛ぶ。

 その衝撃で、掌が酷く痛んだ。ひょっとしたら皮が裂けて、血が滲んでいるかも知れない。

 だからどうした。痛みは、苦しみは、生があってこそ。命あっての物種。

 次の枝に手を伸ばす。ばきりと折れる。

 次の枝にも手を伸ばす。ばきりと折れる。

 ひらりと地面に落ちた。足が少し痺れたけど、別に痛くは無かった。掌も、赤くなっているだけで血は流れていなかった。

 ぺろりと舐める。

 そして再び駆けだした。

 どこかにいるはずなのだ。自分が探し、自分を探してくれる、誰かが。

 鼻先を合わせて、挨拶をしよう。きっとあいつは笑いながら応じてくれるはずだ。

 舌で毛繕いをしてあげよう。こないだは下手くそだと言われたから、今度こそ見返してやるんだ。

 原っぱの上で、取っ組み合いをしよう。上になったり下になったりしながら、ごろごろと転げ回るんだ。まるで、子供の頃に返ったみたいに。

 そしてお腹が空けば、きっとお母さんが、大きな獲物を捕まえて帰ってきてくれる……。

 

 いつ頃の思い出なのだろう。

 いつになったら思い出すのだろう。

 私は獣だ!

 この爪は獲物を捕まえるために。この牙は獲物を引き裂くために。

 この足は大地を蹴るために!この鼻は風を嗅ぐために。

 そして遠吠えを!

 

 鎖。

 

 私をつなぎ止める。

 暗い籠の中。どこにも行けない。私を押し殺す、四面体。

 さぁ、今日も始めよう。今日はどこから切り裂かれたい?君の筋肉は、桃色で、とても綺麗だねぇ。

 拍動する心臓が、鮮血を跳ね散らす。その生暖かい液体が頬を伝い、唇の中に滑り落ちる。

 鉄臭い。

 懐かしい、味。

 それだけが、私に残された、野性。

 組み敷かれる。荒い鼻息。精々、私の上で腰を振ればいい。

 どれほど希おうと、あなたの精では私は穢せない。

 私を穢せるのは、この世でただ一匹。

 金色の獣だけ。

 だから私は穢れてなんていない。汚されたなんて嘘だ。

 今日も、四面体の隅で、蹲って眠る。

 糸で繋ぎ止められたばらばらの四肢が、薬臭くて鼻が曲がりそう。

 目が覚めれば、私は無限の草原に。

 ああ、悪い夢だった。お母さん、聞いてください。私は、二つ足で歩く、気持ちの悪い化け物に捕まる夢を見ました。それは怖かったでしょう、さぁ、お母さんの毛皮の中でもう一度眠りなさい。きっと、そんな夢のことは忘れてしまうから。

 

 それも、夢だってわかってる。

 

 

 高いところへ。

 一番高いところへ。

 おぞましい穴蔵よりも、世界一のっぽの大木よりも、聳え立つあの銀嶺よりも。

 私の声を、万里の向こうへと響かせるために。

 あったかいところへ。

 一番あったかい場所へ。

 あなたの隣に。

 私の魂の、あるべき場所に。

 

 走って、走って、走って。

 

 やがて、出会った。

 もう一度、出会った。

 

『よお、久しぶり』

 

 それは、私に向かって、気安く手をあげた。

 木々の隙間、猫の額のように小さな草むら。

 腰まで埋まるような、草の海。風が鳴き、草が腰を折る。

 髪が、ゆらゆらと舞う。

 涙を、手の甲で拭った。この人の前で、涙は流したくなかった。

 この人を、悲しませたくなかった。

 

『……だれ?』

 

 少年は、両手を天に掲げて、大いに嘆いたようだった。

 その大仰な様子が、何故だか微笑ましかった。

 

『オレだって大概冷たい人間だけどさ、自分の恋人のことは忘れないぜ、普通』

『ああ、そうなの、すっかり忘れていたわ』

 

 そうか。

 この子は、私の恋人なのか。

 うん、そう言われればそんな気がする。もう、ずっと前から、ずうっと前から、そうだったの。

 そんなふうに納得した私を、少年は薄く笑いながら見つめていた。

 

『とにかく腹ごしらえにしよう。肉を喰えば、頭の悪いお前の脳味噌にだって、幾分血が回るだろう』

『うん、そうね。もうお腹ぺこぺこ』

 

 少年の傍らに、彼の身体ほども大きな猪が転がっていた。

 どこかで見たことのある、猪のような気がした。

 昨日、夢でも見たのかも知れない。

 

『生?焼く?煮る?揚げる……は無理だけど、蒸すくらいならなんとか』

 

 意外と器用なようだ。

 私は地面に腰を下ろして、どかりと胡座を組んだ。

 

『ああ、もう、そんな格好でそんな格好……。色々丸見えだぜ』

 

 あちゃあと片手で顔を覆った少年は、その実、指の隙間から私のほうをしっかりと見ていた。

 どうでもいい、そんなこと。

 今はお腹一杯にお肉を食べたいんだ。どろどろとして薬っぽい流動食にはもう飽き飽き。

 だから、速く、早く食べさせろ。そうしないと、お前の肉に食らいつくぞ。

 

『おお、怖え怖え』

 

 目の前の皿に、良く焼けた肉が並んでいた。

 爪で切り分けてみると、中はまだピンク色で、ほのかに血が滲んでいる。

 ちょうどいい塩梅だった。私の喉がごくりと鳴り、腹がぐうと鳴った。

 大きく口を開けて、肉に齧り付く。

 がちん、と鳴った。

 溢れ出すはずの肉汁が少しだって無いし、熱々のはずの肉の食感が舌に感じられない。

 何も無い。

 齧り付く前に、取り上げられたのだ。

 少年が、悪戯気な笑みで微笑っていた。

 

『……それ、食べたいんだけど』

『オレが捕まえた獲物だぜ。上げ膳据え膳ってのは、ちっとばかし態度がでかいんじゃねえかい?』

 

 けけっと、その容姿には相応しく無い、小悪党みたいな顔で笑った。

 ちらりと除いた白い歯が、その銀色の頭髪と同じくらいに、きらきらと輝いていた。

 それは、私が大好きな、輝きだった。

 私は溜息を吐き出した。惚れた弱みである。その喉笛を噛み裂くのは、新婚初夜の楽しみに取っておこう。

 

『……食べさせてください』

 

 ちょっと突っ慳貪に言ってやった。

 悔しさ半分、甘え半分である。

 すると少年は、どこから取り出したのか、彼の髪と同じ色のフォークで肉片を突き刺し、私の口の前でゆらゆらと揺らすのだ。

 

『……何の真似?』

『お前が言ったんだろ、食べさせてくれって』

 

 ふむ、そう受け止めることも出来ようか。

 受信者の悪意が挟まっているとはいえ、私の責任でもある。

 諦めて口を開く。やっぱり悔しいから、目は瞑ったまま。

 

『おらよ』

 

 むぎゅう、と奥まで詰め込まれた。

 そのままフォークごと噛み砕いてやろうと思ったが、せっかくの肉を金属塗れにするのも勿体ないから、止めた。

 フォークが抜かれた後で、もぐもぐと咀嚼する。

 新鮮な血の味が、何よりのご馳走だ。お腹の奥が、暖かくなる。

 知らず、頬が綻ぶ。

 

『ああ、いいなぁ、今のお前の顔。押し倒したくなるなぁ』

 

 にやにやと笑われた。

 とっても腹立たしいが、まだまだ食べ足りない。今は褒め言葉だったということにしておくとする。

 抗議の声は肉と一緒に飲み込んで、もう一度口を開く。こんなの、いつ以来だろう。

 また、喉の奥まで肉を詰め込まれた。

 嘔吐きそうになるが、そんな勿体ないことは出来ない。数回噛んだだけで、ほとんど強引に飲み込んでやる。

 そしてまた、生まれたてのひな鳥のように口を開ける。

 少年は、その度に小馬鹿にしたような軽口を叩いて、淡々と肉を運んでくれた。

 まるで、親鳥みたいに。

 ようやく人心地がついた頃には、猪はほとんど骨だけになっていた。

 

『……すっげえ食欲。お前、その細い身体のどこに入るのよ……ってそこかい』

 

 少年はがっくりと項垂れた。

 彼の指さす私のお腹は、妊婦さんみたいにぽっこりと膨らんでいた。

 うむ、満腹。

 

『ご馳走さまでした』

『はい、お粗末様でしたって言いたいところだがよ』

 

 ひょいっと身体を持ち上げられた。お腹のところを抑えないように、優しい体勢で。

 抗議の声を上げるまでもなかった。

 

『ちょいと失礼』

 

 草むらの中に放り込まれた。

 何だ、こんなところでするのかと思った。

 

『交尾?』

『あれ、期待してた?』

 

 きしし、と少年は笑った。

 

『うん、少しだけ』

 

 心にも思っていないことを言ってみる。

 然り、少年は呆気にとられたように目を丸くして、居心地悪そうに頬を掻いた。

 少しだけ、可愛らしかった。

 

『それもいいけど、また今度でな』

 

 しぃ、と指の前に人差し指を立てる。

 悪戯気な表情はそのままだから、それほど危ないことがあるというわけでもないのだろうか。

 私もつられて、思わず笑いそうになったけど、何とか我慢した。

 頭を撫でられた。いい子いい子、という意味らしい。

 思わず目を細めてしまった。

 直後、風に乗って、何人ぶんかの足音が近づいてくるのがわかった。がちゃがちゃと騒がしい音が付いてくるのは、鎧で武装した兵士だからだろう。

 やがて木の幹の影から、何人もの兵士が姿を現した。俺にとっては見慣れた姿だ。

 

『おい、これを見ろ!』

 

 食べ残しの猪の骨に、兵士が群がる。

 そんなにお腹が減っていたのかと思ったが、勿論そういうわけでもないらしい。散らかしっぱなしの食器やら食べかすやらを触って、剣呑な面持ちで囁いた。

 

『どこに行った!?』

『まだ暖かい!それほど遠くには行っていないはずだ!』

『探せ!』

 

 頷き合った兵士達は、散り散りに別れて森の奥へと走っていった。

 どうやら、誰かを捜していたらしい。それが私でないのなら、きっともう一人のほうだろう。それに、私を捕まえに来るのは、きっと綺麗に頭を撫でつけて、ぱりっとしたスーツを着こなしたトカゲみたいな男の人に違いないのだから。

 これは、ひょっとしたらとんでもない事態なのだろうか。

 でも、大丈夫。私の爪と牙は、あんな貧弱な鎧なら噛み砕いてみせる。

 そして、私の恋人を助けるのだ。何故なら、あの娘だって、きっと同じことをするに違いないのだから。

 一人一人狩っていけば、危険は無い。

 

『おい、落ち着けよアンタ。そんな怖い顔してどこいくつもりだい?』

『……怖い顔?』

『そんなに牙を剥いて、今にも噛み付きそうだったぜ』

 

 何を、当たり前のことを。

 敵は、殺さないと。喉笛を噛み切って、頸椎を噛み砕いて、もう二度と立ち向かえないようにしてあげないと。

 今度は、私が殺されてしまう。

 殺されてしまう。

 もう、あいつに会えない、なんて。

 絶対に。

 

 いやだ。

 

『ああ、もう、泣くなよ、鬱陶しい』

『ひぃ……ん。ぇぐっ、ひぃ……ん』

 

 抱き締められた。

 頭を、ぎゅうっと。

 良い匂いがする。私が大好きな匂いだ。

 そして、あたたかい。

 とても安心した。

 

『だって……だって、もう、にどと、あえない、いやだ、とっても、かなしい……』

『ああ、それはそうだな、悲しいよなぁ』

 

 頭を撫でられている。

 懐かしい感触だった。その懐かしさがまた哀しくて、どんどん涙が溢れてきた。

 遠い、遠い昔だ。

 この人は、私を慰めてくれたんだ。

 戦争が、とても大きな戦争があったんだ。

 もう、明日には二人とも生きていないのに。そんなこと、私のお腹の中に居る、この子だってわかっていた。

 

『死んじゃうよう、いかないでよう』

『ああ、そうだね、カマル。でも、君は生きておくれ。そして僕達の子供に、この世界を見せて上げてほしい』

『嫌だ!絶対に行かせない!』

 

 大きな手に、思いっきり噛み付いた。

 少しだけ鉄臭くて、甘い液体が、口の中に溢れ出す。

 私は、夢中でそれを啜った。愛する人が愛おしくて、愛おしくて。

 夢中で啜った。

 

『ああ、その激しさが君だ。ほんの少しだって君に相応しく無い。そして、なんて君らしい』

 

 男は、緑柱石色の瞳で、微笑んだ。

 手が、離れていく。このまま、私が噛み締めたままでも、この人は手を引き抜くだろう。どれほど肉が裂け、骨が砕けても、この人はそういう人だ。

 私は、聞き分けのいい子狼みたいに、口を離した。

 人間みたいな歯形が、可愛らしく、手の甲に刻まれていた。

 

『君が狼だったのは幸いだ。やつらだって、君が狼になって逃げおおせるなんて、想像も付かないだろう。だから、逃げなさい。君は逃げなくてはいけない』

 

 嫌だ嫌だと頭を振る。

 どうしようもなく、その言葉が正しいのはわかっている。それでも、ここで彼を置いていけば、二度と会えないのもわかっている。

 目尻に涙を溜めてむずがる私に、夫は、優しく言い含めるようにして囁いた。

 

『君は、生まれ方を間違えたね。本当は、君のような女の子こそが太陽に相応しい。男は、殺し奪い取るだけだ。女は、命を育むことが出来る。どちらが太陽に相応しいなんて、考えるまでもないことなのにねぇ』

 

 男は微笑った。

 私は――どうしたのだろう。

 

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