懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第二十四話:赤ずきんは森へと消えた

 朝霧に烟る日の光を浴びて、二人は同時に目を覚ました。

 薄ぼんやりと開いた二人の瞳に、まず最初に映り込んだもの。それは、曙光をそのまま梳ったような金髪であり、あるいは夜空にさんざめく星々を散らしたような黒髪であった。

 そして、リィとウォルは互いの瞳を見つめて、またもや同時に柔らかい笑みを浮かべた。

 

「おはよう、ウォル」

 

 あちらの世界では、何度となく交わされた挨拶だ。

 たった二人だけの旅路、冬の残滓も色濃い初春の朝ぼらけに。

 軍靴と蹄の行進する音の響く、血生臭い戦場で。

 頭に酒精の疼きの残る、西離宮の宴の翌日に。

 彼らは、何度となく挨拶を交わし、互いの瞳を覗き込んだ。

 ウォルは、そのいくつかを思い起こし、そしていくつかを思い出した。

 喧嘩をして、そして目覚めたこともある。その時の、何とも気まずく居たたまれない想い。悪いのはあいつのはずなのに、何故か自分こそが大罪人であると勘違いをしてしまう。

 どのようにして謝ろうか。それとも、自分が謝る必要などないのではないか。あいつから謝るべきなのだから、俺は黙っていよう。いやいや、俺の方が大人で男なのだから、こちらから折れてやるべきだろうか。

 そう悶々と繰り返し、寝起きの鈍い頭を抱えながら起き上がる。

 そういう時は決まって、廊下の曲がり角の隅っこのほうや寝室に設えられたテラスの手摺りの上――それも三階や四階にある――などで、ひょこりとこちらを覗き込む、なんとも愛らしい小猿を見つけるのだ。

 その小猿は、普段の、金色の狼のように雄々しく勇ましい様子はかなぐり捨てて、おどおどとこちらを見上げるような頼りない視線を寄越しながら、可憐な唇を開いて言ったものだ。

 

『おはよう、ウォル』、と。

 

 その台詞、もしかしたら万の騎馬兵を相手取るよりも、遙かに重大な勇気を込めて放たれたであろう、短い台詞。それを聞いただけで、くだらない蟠りなどは朝日の昇る地平線よりも遙か彼方に消え失せてしまう。

 同時に、一抹の寂しさと悔しさを味わう。この台詞は、俺の方から先に言うべきものだったのではないか。これでは、まるで俺の方が子供のようではないか。

 しかし、こんな、不意打ちのような拍子で出くわして、こちらが呆気にとられている間に先に口を開くのは、とんでもなく卑怯な真似ではないだろうか。それも、一度や二度ではない。ことある事に、毎回だ!

 そんな、ぐるぐるとした思考の全てが、それこそ子供じみている気がして、結局ウォルは苦笑しながら挨拶に応じるのだ。

 それこそ、今の彼女のように、はにかんだ笑みを浮かべながら。

 

「ああ、おはよう、リィ。今日もいい一日になりそうだ」

 

 二人がロッジに戻ると、腹の虫を刺激する良い香りが漂ってきた。

 コトコトと何かを煮る音が聞こえる。トントンと軽快に響くのは、シェラの操る包丁の音だろう。

 

「おはようございます、リィ、ウォル。もう少しで出来上がりますから、待っていて下さいね」

 

 キッチンから、銀色の頭がひょこりと覗いた。

 まるで本物の女性のような、いや、本物の女性であっても裸足で逃げだしたくなる程に整った顔立ちの少年、シェラ・ファロットは、朝帰りをした二人を見ても顔色一つ変えなかった。

 

 

 シェラの朝は早い。

 あちらの世界ではそれこそ朝夕と無い仕事に携わっていたわけだし、遅寝を楽しむほどに余裕のある身分だったわけでもない。それに、彼の中でも最も厄介で重大事だった仕事――デルフィニア王女の暗殺――にかかずらうようになってからは、曲がりなりにも王女の侍女として恥ずかしくない立ち振る舞いをしなければいけなかったわけで、当然朝は誰よりも早くなる。そんな生活を3年近くも続けていれば、それは習慣というよりは生態として身についてしまうものなのだ。

 今朝も、当然のことながら誰よりも早く起きたシェラである。

 陽は未だ昇らず、窓の外もまだ暗かった。当然のことながら別に早起きしなければならない理由も無かったのだが、二度寝を決め込む気にもならず、何となく起き出した。

 寝室から出て居間に向かうと、強烈な酒精の香りが立ちこめていた。

 立ち並んだ空の酒瓶の山を見て、流石のシェラもうんざりとした。何せ、大の付くような蟒蛇が三人(第三者の視点から見れば四人だ)、日を跨いでもなお杯を酌み交わし、語りに語ったのだ。その腹の中に消えた酒の量たるや、並の酒場で消費される一日の酒量を遙かに上回っていたであろう。

 酒場であれば、その片付けは給仕に任せればいい。しかしここは酒場でないから、給仕以外の誰かが片付けを引き受けなければいけないわけだ。

 シェラは、誰に言われることもなく、それが自分の役割だと思っていた。彼が自らの主人と定めた少年は当然除くとして、他の二人にだってこんな仕事をさせるつもりはなかった。何せ、一人は主人の魂の相棒であり、そしてもう一人はかつてのデルフィニア国王なのだから。

 もっともそれは後付の理由であり、掃除洗濯炊事に片付けと、いわゆる家事雑事にカテゴリされる仕事は、シェラ自身嫌いではなかったりする。散らかっていた部屋がすっきり整頓されるのは気持ちがいいし、汚いものがピカピカになれば笑みも零れようというものではないか。

 それでも、物事には限界というものがある。何せ、冗談抜きで立錐の余地もないほどに酒瓶やら皿やらが転がっているのだ。まずは自分が立つ場所を確保することから始めないと、掃除だってままならない。

 溜息を一つ吐き出したシェラは、とりあえず近場にある酒瓶を拾い出した。これらのゴミは、当然の事ながらこの星に置いていくわけにはいかない。宇宙船の発着場まで、もう一度持って帰らなければならないのだ。行きしなに比べればその中身が空になっている分軽いことは軽いのだが、しかし面倒なことではある。

 そうして、ほとんど音もなく宴の始末を開始したシェラであるが、居間のほぼ中央に、巨大な芋虫が転がっていることに気がついた。あたりを空の酒瓶に囲まれ、何とも器用に自分が寝転がるスペースだけを確保したその芋虫は、しかし当然のことながらただの芋虫ではない。

 もぞもぞと身体を震わせると、その先端から、人間の頭がぴょこりと顔を見せた。

 鈍重に瞼を持ち上げた、ルウであった。

 

「んー……しぇらぁ……?」

 

 これが、『神の一族』とも呼ばれるラー一族の――そしてその中でも飛びきりの異端として恐れられている――青年だろうか。シェラの目には、どう考えてもそのような危険物には見えないのに。

 然り、シェラは、ようやく日が差してきた部屋の中でまだまだ眠たげな青い瞳の青年に、小さな声で挨拶をした。

 

「はい、おはようございます、ルウ」

「んー……おはよぉ……」

 

 頭のエンジンがアルコールで錆び付いているらしいルウは、何とも気のない返事を返した。

 このロッジの建っている地域の季節は、偶然のことながらティラボーンのそれと同じく晩春のそれであり、早朝は相当に冷え込む。一歩建物の外に出れば、まだまだ息も白くなろうかという頃合いだ。

 ルウは、その身を包んだ厚手の毛布を、これこそ我が命綱とばかりにしっかり掴み、棘を逆立てたハリネズミのように厳重に纏っていた。

 どうやら昨晩、シェラが白旗を上げて寝室に籠もった後も、相当に飲んでいたらしい。そしてそのまま酔い潰れ、ウォルかリィのいずれかが、とりあえず毛布を掛けてあげたのだろう。

 

「ルウ。眠たいのでしたらまだ寝ていて構いませんよ。まだまだ朝は遠いですし」

 

 シェラは柔らかくそう言った。

 

「ありがとぉ……ごめんね、しぇらぁ……」

 

 普段であれば、部屋の片付けをシェラ一人に任せるのを良しとせず飛び起きるであろうルウも、物凄い力で瞼を引きずり落とそうとする睡魔の誘惑に敵わず、呻き声のような返事を漏らして眠りの世界に舞い戻っていった。

 そんなルウの様子を見て、そういえばとシェラは辺りを見回した。

 寝室に、人の気配は無かった。

 ならば、残りの二人も居間で寝ているものだとてっきり思い込んでいたが、しかしリィの姿もウォルの姿も見当たらないのだ。

 はて、とシェラは首を捻った。あの二人はどこに消え失せたのだろうか。

 別に心配しているわけではない。あの二人をどうこうするなど、飛びっ切りに腕利きの行者を百人集めたってできるわけがないのだ。ましてここは、自分達以外に人のいない無人の惑星である。

 シェラは、酒瓶と酒瓶の間を、抜き足差し足で歩いて出口へと向かった。途中、ルウの隣を歩いたが、安らかな寝息が聞こえるだけで起き上がる気配は無い。

 扉を開ける。

 外はまだ薄暗く、東の空が僅かに白み始めた程度だ。

 予想していたこととはいえ、朝露に濡れた空気はまだまだ冷たかった。しかし、その冷たい空気を肺一杯に吸い込むと、得も言われぬ爽快感がある。安っぽい比喩であるが、まるで自分が生まれ変わったような、そう錯覚するような心地よい感覚だ。

 寝間着姿にサンダルという、普段の彼からは想像も付かないほどに砕けた格好をしたシェラは、ロッジに設えられたテラスから、外を見回した。

 地平線の遙か向こうに聳える山々は険しく、まるで天に向けられた刃のようだ。その刃先はいまだ白く、冬の残滓を振り払えていない。

 そのすそ野に広がる黒々とした絨毯のようなものは、もう少し日が差せば鮮やかな緑色に変じるのだろう。梢の間を渡る風は、馥郁たる香気が満ちているに違いない。

 どこかで、一番鶏が啼いた。無論、家畜化された鶏などいるはずもないから、何か、見たことも聞いたこともない種類の鳥なのだろう。しかしシェラなどには、その鳥がきっと鮮やかな尾羽を持っている気がしてならなかった。

 ぼんやりと、明けゆく空を見つめる。じわじわと、泣きたくなるほど少しずつ白みゆく東の空。星を隠していた薄雲が照らし出され、花嫁を覆い隠すヴェールのように儚げに見える。

 我ながら安い感慨を抱いたものだとシェラは苦笑し、本来の仕事に取りかかることにした。

 丸太で拵えられた階段を下ると、目の前に広大な湖が広がっている。その岸に至るまでの短い道程は若々しい草花で満たされた草原に覆われていて、どこかから小さな虫の鳴き声が聞こえる。

 そこに、並んで横たわった、二人分の影があった。

 

「おはようございます、リィ、ウォル」

 

 シェラは幾分安堵に満ちた挨拶をして、少し早足で歩いた。

 当然、二人とも既に起きているものだと思った。何故なら、自分がここにいるのだ。

 リィは野生の獣そのまま、自分のテリトリーに他人が入って、暢気に眠りこけていられるほどに気の長い生き物ではなかったし、ウォルも、国王である以上に戦士であったから、眠りながらも他者の気配に敏感であった。

 そんな二人が、わざわざこちらから挨拶までしたのに、目を覚まさないはずがない。シェラはそう思っていたから、挨拶をした後でしまったと思ったものだ。無論、挨拶が聞こえるような距離に立ち入って目を覚まさない二人ではないのだが。

 しかし、その割には妙であった。お返しの挨拶もないし、そもそも二つの影が動く様子がない。

 

「あれっ?」

 

 シェラの口から、疑問符を伴った呟きが漏れだした。

 もしかしたら何かがあったのだろかと、朝二人の姿が見当たらなかったときよりも、シェラの心臓は不安に震えた。

 早足で、しかし足音は全くたてることなく近づく。すると、夜目の利くシェラであるから、僅かな明かりの中でも二人の姿を良く見ることが出来た。

 

「おやおや……」

 

 こんどの呟きには、幾分か呆れの成分が含まれていた。

 何せ、あちらの世界では、至高の王と王妃でありながらついぞ一度も閨を共にしなかった二人が、しっかりと服を着込んでいるとはいえ、抱き合いながら眠っていたのだ。

 シェラは含み笑いを漏らしつつ、やはり足音も密やかに二人の元へと歩み寄った。

 まるで、昼寝を楽しむ野生の兎の元に忍び寄っていくような、何とも愉快な緊張感を楽しみながら、しかしシェラの表情は引き締まっている。何せ、これから一生かかったって見られない光景を、今ならば拝むことが叶うかも知れないのだ。必死になって、寧ろ当然だろう。

 抜き足差し足忍び足、普段だってほとんど足音というものとは無縁のシェラが柔い地面の上を慎重に歩むものだから、虫だって目を覚まさないほどに密やかな音しか立たない。

 やがて二人の傍まで辿り着いたシェラは、そーっと二人の寝顔を覗き込む。

 ようやく青空と呼べるほどに青みが差してきた東の空、そこから漏れ出す淡い陽光に照らし出された二人の天使の寝顔。お互いがお互いを守り合うように、しっかりと背に回された二組の腕。唇が触れ合いそうなほどに近づいた柔らかな頬が二つ。

 どちらの寝顔も、生まれたての赤子のように無垢である。少し開いた唇の隙間から、すうすうと穏やかな寝息が漏れ、それと合わせて胸が僅かに上下する。

 リィとは長い付き合いのシェラであるが、これほどに安らいだ寝顔のリィは初めて見る。どれほど気配を殺して近づこうと、寝室の扉を開ける前には身体を起こしているリィであるから、そもそもリィの寝顔を拝むこと自体が珍しいのだ。それこそ、前代未聞の夫婦喧嘩に発展した例の睡眠薬事件と、あとは数えるくらいしかシェラはリィの寝顔を見た記憶が無い。

 そして、そのいずれもが、まるでつくりもののような、生気の抜け落ちた顔であった。普段のリィが生命力に煌めいている分、その落差も相まってそう感じたのだろう。

 シェラはその理由を、瞳が閉じられているからだと思っていた。リィの、彼自身が持つ生命そのものを凝縮したような、緑色に輝く瞳。どれほど秀麗で整った顔をしていようとも、その一つの要素、しかし絶対的な要素が抜け落ちているならばリィの顔はリィたり得ないのだ、と。

 だが、今のリィの、そしてウォルの寝顔はどうだろう。二人の瞳は、当然のことながらその瞼に覆い隠されて見ることは出来ない。しかし、今のリィの寝顔は紛れもなくリィの顔であったし、ウォルのそれも彼女自身のものであった。

 その理由はわからない。その理由を言語化する術を、シェラは持っていたかった。

 ただ、理屈とは最も遠いところで、感情で、シェラはそれが当然だと思った。

 この二人は、つがいの猛禽なのだ。自分以外のために心の底から怒り、鋭すぎる爪と嘴を互いの柔らかな羽毛で覆い隠し、寒さに凍える夜には身を寄せ合って眠る……。

 余人が見れば、『無垢なる天使たち』とか、『恋人』とでも名付けそうな情景であったが、シェラには、二人の寝顔につけるタイトルなど一つしか思い浮かばなかった。

 

「『信頼』とは……少し安すぎるでしょうか」

 

 呟き声は、果たしてヒュプノスの御手に委ねられた二人に届いたのだろうか。

 シェラは、ごちそうさまでした、とでもいうふうに軽く手を合わせ、来たときと同じような足取りで小屋に帰っていったのだ。

 

 

「うん、美味い。前にこの星で食べた鹿よりも、全然こっちのほうがいいな」

「こないだは満足な調味料もありませんでしたから。それに、ルウが仕留めてくれた鹿のほうが脂もよくのっていますし」

 

 テーブルの上には、これは果たしてディナーかパーティーかというほどの料理の山が並んでいる。とても深酒をした翌朝の朝食とは思えない。そういう朝は、お粥とかシチューとか、疲れた内臓にも負担の少ない料理が喜ばれるのだ。

 しかし、それはあくまで一般人の胃袋に限った話である。シェラは、自分が主人と仰ぐ少年の鉄の胃袋には何度も驚かされた過去があるから、当然のことながらそれに見合った料理を拵えたのだ。

 鹿肉のロースト、鱒と岩魚のスモーク、レバーペーストと茸のテリーヌ、各種ナッツを混ぜ込んで焼き上げたパン、内臓と香草の煮込み、木イチゴと山桃を搾ったジュース……。一体、どうやればこれだけの短時間、しかもたった一人で作ることができるのか、流石のリィやルウであっても頭を傾けざるを得なかった。

 それでも、そのように些細な疑問は、若々しい身体が今日一日分の燃料として希求する栄養の群れの前ではあまりに脆弱だったらしい。シェラ以外の三人は、手を合わせるのももどかしく、色取り取りに盛られた豪華な料理の征服に乗り出した。

 まるで手品師がスカーフを被せたかのように、次々と空になっていくシェラの力作達。その光景をにこやかに眺めながら、しかしシェラは、内心で奇異の念を覚えた。

 

「おや、ウォル。あなたもよく食べるのですね」

 

 口いっぱいに料理を頬張り、まるでリスのようになっていた少女は、シェラの方を見て何かを言いたそうにしていたが、とりあえず口の中のものを飲み下すことに専念したらしい。忙しなく顎を上下に動かして、歯応えのある鹿肉をようやく喉の奥に押しやった。

 そしてナプキンで口元を拭き、それから唸るように言った。

 

「それだ、シェラ。俺も不思議に思う。あれだけ飲み食いした翌朝ならば、いくら俺だってこんな重たい食べ物、見るのも嫌だったはずなのだがな。どうしてこうも腹が減っているのだろう。不思議だ」

 

 その理由は、おそらくウォルの身体がリィと同じ、狼の変種とも呼べる生き物のそれに変じたことによるものだっただろう。

 ウォルは今更ながらに、これは何と便利な身体かと思った。何せ、いくらでも食べることができるのだ。食べるというのは、放蕩癖とは縁のないウォルにとって、ほとんど唯一といっていいような楽しみであったから、美味しい料理を目一杯詰め込むことのできるこの体は確かに便利がよかった。

 そして、何故だか料理が旨い。きっと、味覚を含んだ五感が、元々よりも鋭いからだろう。以前よりも深いところで料理の質が楽しめているような、そんな気がする。

 

「今更どの口でほざくかよ、我が夫。その口にどれだけの食い物を放り込んだのか、忘れたとは言わさないぞ」

 

 鹿肉のロースト、その最後の一切れを横取りされたリィは、ほんの少しだけ恨めしげな視線で隣に座ったウォルを睨みつけた。

 しかし、当のウォルは、お返しとばかりに非難を込めた視線で、リィを睨みつけたのだ。

 これにはリィの方がたじろいだ。

 

「……なんだよ、ウォル。何か文句でもあるのか?」

「ある。大いにある。リィ、俺はお前が、そんなに薄情者だとは思わなかったぞ」

「何だよ、お前が大食らいなのは本当のことだろう?」

「そんな些末事ではない!」

 

 シェラは、千切ったパンを口に運びかけて、その手を止めた。その隣で、ルウも同じように目を白黒させていた。

 果たして何事かと事態を見守る二人の前で、ウォルは続ける。

 

「昨日、約束したばかりではないか。昨日の今日でこれでは先が思いやられるぞ」

「何のことだよ、おれはお前が何を言いたいのか、全然わからない。きちんと説明してくれ」

「リィ、お前な、人のことをうすらとんかちだとか女の敵だとか唐変木だとか認知症の熊だとか散々なことを言っておいて、それはないのではないか!?」

「……そこまで言ったかな?」

 

 リィは首を捻ったが、昨日はしこたま飲んだから今一つ記憶が頼りない。

 そこまで深酒をしなかったシェラは、前の二つはともかく、確か後の二つは言っていなかったような気がしたが、この際黙っておいた。

 

「とにかく、だ。お前は昨日、俺の前で誓っただろう。早くも約束を違えるつもりか?」

「……一体なんて?」

「俺をお前の妻に迎える、とだ!ならば、妻のことを夫と呼ぶのは如何なものだろう!?」

 

 シェラが、手に持ったパンの切れ端を、ぽとりと落とした。

 ルウは、口に含んだ木イチゴと山桃のジュースを気管にやり、盛大に噎せ返った。

 

「げほっ、げほげほげほげっほ!」

 

 吹き出したジュースは、あわや新妻(?)の顔を直撃するところだったが、当の新妻たるウォルはテーブルクロスの端を持ち上げることで盾として、被害を最小限に防いだ。

 その鮮やかな手並みだって、今のシェラやルウには遠すぎる。彼らの頭は、遙かに深刻で由々しき事態を処理するために手一杯だったのだから。それに、ルウは肉体的にも一大事、正しく瀕死といった有様であったが。

 当然、ラー一族である彼がこの程度のことで死ぬはずもない。しかし、目には涙が浮かんでいたし、額には脂汗が浮かんでいるし、盛大な咳は留まるところを知らないし、涎やらジュースやらで顔中がべたべただ。

 いつもの、密やかで神秘的な青年というイメージなどどこにもなく、ルウはひたすらに悶絶し続けた。

 その横で、ようやく我に返ったシェラが、口を開いた。

 

「……あの、もう、何というか今更なのですが……、ええ、色んな意味で今更なのですが……一体どういうことでしょうか?」

 

 本当に、今更である。

 一体、この夫婦は、何度自分を仰天させれば気が済むのだろう。

 こちらの世界に来て、自分が生まれ育った世界とは桁違いに進んだ文明を見聞きし、確かに驚きもした。一度など、洗脳されたあげく全くの別人を演じさせられたことだってある。しかし、これほどに、心底余裕無く驚かされたのは、リィとウォルが再会する前は無かった気がする。

 分かっていたことだ。全く無害な薬品が、混ざり合うことで致死性のガスを放つことがあるように、この二人の個性は混ぜ合わせることでその劇薬度合いが飛躍的に増加するのだと。

 朱に交わって赤くなる、とは良く言う諺であるが、この二人の場合、朱が染め合って真っ赤になっているに違いない。

 二人だけでじゃれ合っている分には構わないが、自分のように人畜無害な人間にはできるだけ心臓に優しい毎日を与えてくれるよう、誰よりも真っ赤に染まっている自覚のないシェラは、神様に祈りを捧げた。

 そんないじましい銀髪の少年の目の前で、またしても痴話喧嘩が――夫婦漫才とも呼ぶ――が繰り広げられていた。

 

「ウォル!お前、前も言ったけどな、こういう夫婦の間だけの秘密を人前でぽんぽん話すんじゃない!こんなことが学校で知れてみろ、おれ達はそのまま珍獣扱いだぞ!」

「しかしだな、これはお互いの剣にかけた、崇高な誓いだろう?ならば衆目の知るところになったとして、別に恥じるところがあるとは思えんが」

「それとこれとは別問題だ!だいたい、おれはあんな馬鹿げた約束、剣に誓った覚えなんてないぞ!ああ、そうだとも、それこそ剣にかけて誓ってやるさ!」

「おや、それはおかしいな。俺は確かに、剣と戦士としての魂にかけて俺を妻に娶ると、そう誓ってもらった気がするのだが……うーん、歳を取ると耄碌していかんな」

「この性悪女!都合のいいときだけぼけたふりをするんじゃない!」

「冗談だ、そう怒るな、我が夫」

 

 全身の毛を逆立てんばかりのリィであるが、隣に座ったウォルはどこ吹く風である。これも、培ってきた人生経験の差であろうか。

 しかし、時が変われば立場も変わり、被告人席に座って弾劾を受けるのはウォルになったりするわけで、結局は似た者同士と、そういう結論に落ち着くのだろう。

 ぎゃあぎゃあとうるさい二人を前にして、シェラに背中をさすられて何とか人心地を取り戻したルウが、涙を指で拭い取りながら口を開いた。

 

「ごほっ、けほっ。……あ、あのさ、エディ、ウォル。一体どういうことかな?シェラじゃなくても聞きたいと思うんだけど」

「……もう、本当にくだらないというか阿呆くさいというか……。どうやらおれとこいつは、こちらの世界でも夫婦にならざるを得ないらしくてさ」

「折角、リィと同じ生き物の身体になったのだからな。誰かと番わねばならないなら、選ぶのはこいつ以外あり得ん。それを伝えただけだ」

「で、でも、既にお二人ともオーリゴ神の前で誓いを交わされているのでは……?それに、妻とは……?」

 

 シェラは、この世界のものではない神の名を口にした。

 果たしてあれを結婚式と呼んでいいのかどうかは別として、形式上は確かに夫婦であった二人である。何を今更といえば何を今更なわけだが、しかしそれはウォルが夫として、そしてリィが妻としてのことだ。

 ならば、ウォルが妻となるということは……。ようやく頭が回転してきたシェラは、その事実の恐ろしさに身震いしかけた。

 そんな少年の前で、一応はその主であるらしいリィは、胡散臭そうに横に座った少女を指さした。それも、視線すら寄越さずに、親指でだ。

 

「こいつの物好きもここに極まれり、だ。どうやらこいつは、女としておれと夫婦に――要するにおれの妻になりたいらしいんだ」

「うむ、その通りだ。前は男として、誰にも恥じることのない一生を全うしたからな。今度は心機一転、女としての一生を送る覚悟を決めたわけだ」

 

 どうだまいったかとばかりに胸を反らしたウォルである。

 シェラは、果たして幾度目か知れないが、やはりげんなりとして肩を落とした。だが、その隣に座った青年は、夜空の星々もかくやという程に目を輝かせている。

 

「じゃ、じゃあさ、王様はエディのお嫁さんになってくれるの!?」

「そのとおりだ。そしてこいつもそれを快く受けてくれたぞ」

「あくまで仕方が無く、しぶしぶと、だぞ、ルーファ」

「うわぁい!」

 

 ルウは突然に立ち上がり、テーブル越しにウォルの華奢な身体をひょいと持ち上げ、思いっきりに抱き締めた。

 

「やった!うれしい!うれしいね!おめでたいね!」

「こらこら、ルウどの。前は王妃の間男だったあなたが、今度は俺の間男になるつもりか?」

「そうでも構わない!だって、こんなに嬉しいんだもの!」

 

 ルウは、ウォルの顔に思い切り頬ずりをした後で、唇の雨を降らせた。

 額に、瞼の上に、頬に、鼻先に、そして唇に。ところ構わず口づけた。それは、となりで見ていたシェラが、幾分はらはらしてしまうほどに熱烈なものだった。

 この喜びようには、流石にウォルも些か辟易とした。

 

「こら、ルウどの。俺には、男に口づけられて喜ぶ趣味はないぞ。それに、俺の事はウォルと呼んでくれる約束ではなかったのか?」

「あ、ごめんごめん、ついうっかり。熱くなりすぎました」

 

 ウォルの小さな身体が、やはりひょいと持ち上げられて、もとの席にすとんと落とされる。

 ウォルは、手元に置いてあったナプキンで、ごしごしと顔を拭った。キスされたことは置いておいて、しかし先ほどの残滓としてルウの顔に残っていた涙やらジュースやらは綺麗に拭き取らないとべたべたして仕方がない。

 ほっと一息ついた少女に対して、自分も綺麗に顔を拭ったルウは尋ねた。

 

「で、で、式はいつ挙げるの?赤ちゃんはいつ生まれるのかな?賑やかなほうがいいから子供はたくさん産んでね?家はどこに買うの?僕も近くに住んでいい?」

「気が早いぞルーファ。おれ達は未成年だから、まだまだ結婚なんて先の話だ。昨日済ませたのは、あくまでただの婚約だよ」

 

 この二人の間で交わされる言葉の中に、たったの一つだって『ただの』で括られるものが無いことを知り抜いているシェラは、なんとも懐疑的な視線でリィをじろりと見たのだが、当のリィは素知らぬふうであった。

 そしてルウは、リィの言葉に若干不満げであった。若干唇を尖らせながら言った。

 

「なんだ、そんなつまらないこと。何なら、あの人に電話して頼んでみたら?未成年でも、中学生同士でも結婚できるように、法律を改正して下さいって」

 

 あの人とは、おそらくはこの宇宙で一番忙しい政治家である、あの人である。

 ウォルは、自分との短い会談の中で、枯死するのではないかというほどに冷や汗を流していたマヌエル・シルベスタン三世の、老け込んだ顔を思い出していた。

 

「いや、ルウどの。かの人にそんな無理難題を持ち込んでは、法律が改正される前に過労と心労で倒れかねんぞ」

「いいじゃないか、別に。あの絵の時だって、とことん頼りにならなかったんだし。今度くらいは役に立ってもらおうよ」

 

 自分の愛する人達以外のことでは、やや冷淡にもなるルウである。しかしこれが彼の本心ではないことを三人とも理解しているから、なんとも微妙な笑みを浮かべるに止めた。

 

「その気持は嬉しいのだがな、ルウどの。俺はあまり急がれても困るのだ。気持の整理とか腹をくくって覚悟を決めるとか、そういうことには思ったより時間がかかるらしくてな」

「どういうこと?」

 

 ルウは可愛らしく小首を傾げた。

 リィは、小馬鹿にしたような笑みを浮かべながら、再び自分の夫――そしてどうやら将来の妻のほうを指さして、言った。

 

「こいつ、おれにプロポーズをしておいて、でも抱かれる勇気は無いんだとさ」

 

 悪戯気な言葉に、むっとした調子でウォルが応じる。

 

「おい、その言い方は酷いな。俺がまだお前に抱かれたくないと言ったのは、臆病からではなく気持の踏ん切りの問題だ。リィ、お前の言い方では、まるで俺が初夜に怯える花嫁のようではないか」

 

 とても、その少女の愛らしい唇から飛び出したとは思えない言葉であった。

 リィは、アペリティフとして出されたシェリー酒の残りを自分のグラスに注ぎ、まるで水のように乾かした。事実、この大蟒蛇には、この程度では全く水と変わるところがないのだが。

 

「似たようなものだ。だって、夫婦の契りは結びたいのに同じベッドに入るのは怖いなんて、そのまんま初々しい乙女の気持ちじゃないか。世間ではそれを、勇気がないとか臆病だとか言うんだぜ」

「全く違う。それはただ、男に身を委ねるのが恐ろしいからだろうが。俺はな、男に抱かれるのが、想像するだけで気色悪いのだ。それが例えリィ、お前であってもな。第一、あちらの世界のお前だって、どうしたって男に抱かれるのを嫌がったではないか。似たようなものだろう」

「いーや、一番根本的なところで違うね。おれは、おれから男に抱かれたいと思ったことなんて一度もないんだ。それがお前は、おれに抱かれたいのに抱かれるのが怖いときている。これはどう考えたって臆病者の仕儀だぜ」

「この、言わせておけば……!」

 

 少女の声に険が篭もったので、ルウもシェラも慌てたように腰を上げかけた。

 そんな二人の目の前で、いっそ勇壮な様子で立ち上がったウォルは、寝間着代わりに来ていた薄手のスウェットを脱ぎ捨てた。

 

「決闘だ、リィ!今から、俺が臆病者かそうでないか、思い知らせてやる!寝室で待っていろ、今から身を清めてくるから!」

 

 下着姿で言い放ったウォルは、今度はその下着を脱ぎ捨てようとした。

 これは、シェラが飛びついて止めさせた。

 

「陛下!誰がどう聞き違えても、それは決闘ではありません!」

「放せシェラ!ここまで侮辱されて、男として黙っていられるか!」

「今のあなたも、誰がどう見間違えても男には見えませんから、御自重下さい!」

 

 必死に暴れるウォルを、こちらも必死に後ろから羽交い締めにするシェラである。

 聞き苦しいわめき声と、勇ましい少女の表情にさえ眼を瞑るならば、それは卑劣な男がか弱い少女を襲っている現場に見えないこともないはずなのだが、やはりどこからどうみてもそうは見えない。精々、やんちゃな妹に手を焼くお兄ちゃんといった有様だ。

 リィはそんな二人を意図的に視界から外して、溜息を一つ漏らしながらルウの方に向き直った。

 

「あのさ、ルーファ。お祝いをしてくれるのは素直に嬉しいけど、あまり先走らないで欲しいとも思うんだ。昨日も言ったけど、こういうことはできるだけそっとしておいて欲しい。駄目かな?」

 

 寧ろ許しを乞うような視線で、リィは言った。

 ルウは、少しだけ驚いた表情になり、それから優しく首を横に振った。

 

「ううん、僕の方こそごめん、昨日だってあんなに怒られたのにね。でも、やっぱり嬉しくって。だって、僕の一番大切な人が、その人のことを一番愛してくれる人を見つけたんだもの。これが嬉しくないはずがないでしょう?」

「ま、それもそうだな」

「だから、早く赤ちゃんの顔、見せてね。それとも、可愛い赤ちゃんを優しく抱き上げるエディの顔、なのかな?」

 

 なんともこの人らしい言い分に、リィも苦笑するしかない。

 

「どけー、シェラー!俺は、俺は男としてリィに一矢報いねば、死んでも死にきれぬー!」

「それが、これから夫と寝所を共にするご婦人の台詞ですか!落ち着いて、今の自分を見つめ直してからそういうことはして下さい!」 

「はーなーせー!」

「でも、肝心の花嫁がこれじゃあなぁ……」

「うーん……」

 

 リィとルウは、ほとんど同時に溜息を吐いた。確かに、どれほど美しく魅力があるといっても、今のウォルのように色気の『い』の字もないような女性を果たして抱くことができるのか、リィにとっても前途は多難なようだった。

 難しい顔をして悩んでいたリィは、何かを閃いたような晴れやかな顔でシェラに言った。

 

「そうだ、シェラ。お前、女らしさってやつをウォルに叩き込んでやってくれないか?そうすれば万事上手くいくと思うんだけど」

「あ、それは名案だね!流石エディ!」

「あの、私のことを少しでも憐れと思うなら、どうかそれだけは勘弁して下さい……」

 

 俯せの姿勢で床に転がったまま暴れ狂う少女を、まるで荒馬に跨る若武者が如く馬乗りの姿勢でやっと制した少年は、疲労と諦念を込めた恨めしげな声を発した。

 

 

 日が高くなってから、四人は山小屋の目の前に広がる、広大な湖で泳ぎを楽しんだ。

 自分達以外の人目を気にする必要が無いから、四人とも裸である。シェラなどは、せめてウォルには水着を着て欲しいと懇願したのだが、先ほどの恨みも含めたところで、すげなく断られてしまったのだ。

 結局、あちらの世界で水浴びを楽しんだときの様子そのままに楽しげに泳ぐウォルとリィ、二人の様子を優しく見守るルウ、そして赤く染めた頬を明後日の方向へと向けるシェラという構図が出来上がり、今に至るわけだ。

 

「あー、疲れたぁ……」

「そうか?まだまだ俺は泳げるが?」

「わかったよ、ウォル。確かにお前はスーシャの河童だ。いつだってエラ呼吸を始めてくれ」

 

 リィが、珍しく疲労に満ちた声を出した。

 彼だって、別段泳ぎが苦手なわけではない。本職の競泳選手が相手ならいざ知らず、例えば身の程知らずなサッカー選手が相手ならば、50メートルコースのプールで周回遅れにぶっちぎる程度には早く泳ぐことができる。

 しかし、ものには限度というものがあるだろう。

 遙か広大な湖、その端から端まで泳いで競争をしようと誘われた時は、流石のリィも、己の夫の正気を疑ったものだ。何せ、リィのずば抜けた視力をもってしても、対岸は霞むほど遙か向こうにあるのだから。

 リィも必死に泳いだ。しかし、スーシャの湖で、半日どころか一日中泳いでいたというウォルの泳ぎと底なしの体力には、流石に付き合いきれなかったらしい。ギブアップこそしなかったものの、ウォルよりずいぶん遅れて元の場所に戻る羽目になってしまった。

 

「おい、ウォル。次は山駆けで勝負だ。今度こそ負けないからな」

 

 種目を問わず勝負事には結構こだわるリィであったから、いくら相手が自分の夫であったとしても、勝ち逃げされるのは業腹であった。

 ウォルは満面の笑みを浮かべて、言った。

 

「おうよ、望むところだ……と、言いたいのだがな。勝負は午後に預けさせて貰ってもいいか?」

「午後に?別に構わないが……どうかしたのか?」

「いやなに、少し確かめたいことがあってな」

 

 それは、この少女には珍しく、どうにもはっきりとしない口調だった。

 まるで何かを隠しているような、奥歯の間にものが詰まったような、もどかしい感じだ。

 リィも、少しだけ怪訝に思ったが、しかし別に問い質すほどのことでもないと思い、口に出しては何も言わなかった。

 そんなリィを尻目に、ウォルはざばりと岸に上がり、タオルで水気を拭ってからいそいそと服を着た。

 

「……どこか行くのか?」

「心配しなくても昼食までには戻る」

「お前のことだから別に心配なんてしないけど……一応、身を守るものくらいは持って行けよ?」

「ああ、わかっているさ」

 

 ウォルは、リィを安心させるように、手に持ったものを高々と掲げた。それは薪割りなどで使う小型の鉈だったが、この少女が使えば、そこらの騎士はもちろんのこと、狼や熊であっても十分に太刀打ちできるだろう。

 

「じゃあ、行ってくるよ、リィ」

 

 片手を上げて走り去る少女を、リィは湖に浮かんだまま見送った。

 しかし、リィの瞳からは、普段の彼の瞳が持つ鮮烈なまでの輝きが失われ、靄のようなものがかかっているように見えた。

 そんな彼の背後で、盛大な水音が巻き起こった。

 そこに誰がいるかなど分かりきっていたから、リィは振り返らなかった。

 

「心配なら、一緒に行ってきたら?将来の奥さんなんだから、大事にしてあげなくちゃ」

「おれはあいつの母親じゃないんだ。いつもべったり付き合ってやる必要なんてないさ」

「なら、どうしてそんな顔をしてるの?」

 

 リィは答えられなかった。ただ、胸の奥にわき起こる嫌な感じ――虫の知らせとでも呼ぶかも知れない、締め付けられるような悪寒と戦っていた。

 

 そして、それは的中した。

 

 昼食の時間が過ぎ、日が傾く時間になっても、ついにウォルは山小屋に戻らなかったのだ。

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