懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第二話:再会

「そんなことが…」

「黙っていたのは悪かった。いらぬ心配をかけたくなかったっていうのもあるし、正直に言うならば大したことじゃあないと思ってたから」

 

 リィは素直に己の非を認めて、ぺこりと頭を下げた。

 かつて、政府絡みの厄介事で、リィの身にどのような災難が降りかかったのかを知っているシェラは、その表情をずいぶん強張らせていた。彼が、その、銀色の月の如き美貌を曇らせるのは、いつだって自分以外の大切な人のためだ。

 しかし、口に出してはこう言った。

 

「そうですね。このように大切なことを隠しておかれたなんて、大変ショックです。穴埋めに、今度、とても美味しいと評判のケーキ屋さんに付き合ってもらいますから、覚悟しておいて下さい」

「げっ、本気か?ちぇっ、わかったよ…それにしてもシェラ、言うようになったなぁ」

 

 シェラにとってみればほんの軽い冗談のつもりかも知れないが、しかしリィの眉はかなりの急角度で顰められていた。

 それでも、それ以上の謝罪は不要であるという意志は汲み取ったのだろう。リィは気を取り直したように続ける。

 

「一応、みんなの安全も含めたところで気を配っていたんだ。でも、この三日間、政府の人間はおろか、不審者の一人だって彼らに接触することはなかった」

「しかし、ルウの手札は、貴方がこの家に滞在している間に何かが起きることを指し示している」

「そうだ。だから、何かが起こるとすれば今日しかない。なら、少しは気を揉まない方がおかしいってもんだろ?」

 

 今日、といってももう陽も高い。あと数時間もしないうちにこの星を発たないと、予定日に連邦大学に到着するのは難しくなってしまう。一日二日里帰りが長引いたくらいで、進級に響くようなことはない。少なくとも、普段の学業態度は、成績も含めたところでそれ程悪くはない二人である。しかし、ルウの占いにリィの帰省中に事件が起きると出た以上、それは今日中に起きるのは決まり切っているのだ。

 それでも―――それでももし、今日何も起きなかったら?

 リィにとって一番恐ろしいのは、自分の目と手の届かないところで、彼にとっての大切な人が傷つくことである。

 

「リィ。もしお許し頂けるならですが、私がしばらくここに残って、皆さんを護衛した方がいいのではないでしょうか」

 

 無論、今日中に何も起きなかった場合のことである。

 リィは、シェラの申し出に、首を横に振って応えた。

 

「馬鹿を言うな。お前にだって、お前の生活がある。確か、裁縫科の連中に頼まれてたパッチワークの期限、今週末なんだろう?」

「…そちらはなんとかします。今は、この家の方々の安全の方が重要でしょう」

「考えすぎだ、シェラ。ルーファが何かあると言ったら、必ず何かあるんだ。だから、気を張っていなければいけないのは、今日、俺達がこの家を離れるまで。もしそれまでに何にも起きなければ、それはルーファの占い自体が見当違いだったのか、それとも手札を読み違えたのか、どちらかだ。いずれにせよ、俺達がこの家に留まらなきゃいけない理由はない」

「リィ…」

「案外さ、何も起きないんじゃないのか?俺達は、世にも珍しい大事件の目撃者になれるかも知れないぞ」

 

 リィは、無理矢理に作った笑みを、シェラに向けた。

 確かに、あのルウが占いを外したとなれば、間違いなく一大事である。少なくとも、惑星ボンジュイに住む人外連中は、茫然自失に陥るか、頭っから信じないか、それともこの世の終わりを確信するか。いずれにせよ、からかいや慰めや苦笑いなどの至極当たり前の反応は誰一人からも返ってこないだろう。

 そして、リィはといえば、相棒の占いが外れるなんて少しも考えていない。

 だからこそ、狩りに備える狼のように、四肢から髪の毛の先に至るまでを緊張させて、想定外の事態にも出遅れないように気を張っているのだ。

 ごくり、と、シェラは唾を飲み込んだ。壁に掛けられた、時代遅れの古時計の短針を眺める。彼らがこの家を発つ時刻まで、あと三時間を切っていた。

 

「あと、三時間…」

 

 シェラは、思わず呟いた。

 リィは、窓ガラスに映る己の緑玉が如き瞳を、じっと見つめていた。

 

 

 

「じゃあな、エドワード。向こうでも身体に気をつけるんだぞ」

「俺が身体を壊したことなんてあるのか?あるんなら、俺が聞きたいくらいだ。それと、エドワードは止めろ、アーサー」

「確かに、風邪やら病気やらで身体を壊したことはなかったな。しかし、怪我でひやひやさせられたことは一度や二度じゃあないはずだが?それと、ぼくをアーサーと呼ばないでくれ。だって、ぼくはお前のお父さんなんだからな」

 

 もう、お決まりといっていいやり取りである。シェラも慣れたもので、険を含み始めたリィの横顔を見て見ぬ振りをしながら、マーガレットやデイジー・ローズにお別れの挨拶をしていたりする。

 

「どうもお邪魔しました、マーガレット」

「ううん、何が邪魔なものですか。とっても楽しかったわ」

 

 銀色の髪をした天使と、天使のような幼さを残した夫人が、大声で口論を続ける―――といっても大声を張り上げているのは片方だけなのだが―――遺伝的には粉う事なき親子の傍らで、にこやかに別れの挨拶を交わしていた。

 シェラの手には、華やかな刺繍の施されたクロスで包まれた小包が抱えられている。その、小包と呼ぶにはやや大きすぎる包みの中には、先ほどシェラとマーガレットが協力して焼き上げた色取り取りのパイやケーキが詰め込まれている。無論、連邦大学にて首を長くして金銀天使の帰りを待ち侘びている、黒の天使へのお土産だ。

 シェラはもともと、料理や菓子作りを好む少年だった。理屈ではなく、自分の手が何かを生み出すということが楽しいのだ。ただでさえそうなのだから、自信の作品を食べてくれるのがルウのように親しい人間であれば嫌が応にも力が入る。まして、マーガレットは彼にとっての菓子作りの師匠と言っても過言ではない存在だから、彼女の前でいいところを見せようと、いつもよりも多少作りすぎたとしてもそれは仕方のないことなのである。

 そんな理由がいくつか重なって、シェラが小脇に抱える包みは、ちょっとした旅行カバンの中には到底入りきらないような大きさになってしまっていた。

 そんなシェラを少し心配そうに見ながら、マーガレットは言った。

 

「ねぇ、シェラ。こんなに持って帰って、ちゃんと食べられる?きっと、リィはちっとも頼りにならないと思うんだけど」

「ええ。この点に関して言うならば、リィはちっとも頼りにならないでしょうね」

「じゃあ、貴方とルウだけで食べるの?」

「まさか。いくらルウでも、これは多すぎますよ。私もそれほど食べる方ではありませんし…。そうですね、余った分は…寮の友人にでも配るとします」

 

 『余った分は…』の後で真っ先に思い浮かんだのが、愛想の欠片も無い端正で無口で冷たい、同じ世界出身の誰かさんの顔だったことは努めて意識から追い出し、シェラは少しぎこちない笑みを浮かべた。そんなシェラの内心の葛藤には気づかぬふうで、マーガレットは手を合わせて微笑んだ。

 

「それは良い考えね。じゃあ、伝えておいてくれる?いつもリィが迷惑をかけてごめんなさい、これからも彼にとっていい友達でいて頂戴ね、って」

「マーガレット、リィは誰かに迷惑をかけるようなことはしませんよ」

 

 あくまで、その誰かがリィに『迷惑』をかけることさえなければ、の話だが。シェラは心の中で苦笑した。

 

「でも、その言葉は伝えておきます。きっと、みんな喜んでくれるでしょう」

「そうね。そうだと素晴らしいわ」

 

 マーガレットはほんの少しだけ背を曲げて、シェラの滑らかな額の上にキスを落とした。シェラも、マーガレットの頬に軽く唇を触れさせた。

 

「それじゃあね。また、いつでも帰ってきてね」

「はい。また近いうちにお邪魔させて頂きます」

「違うわシェラ。お邪魔するんじゃないの。帰ってくるのよ」

 

 シェラの喉で、言葉が詰まった。

 

「マーガレット…」

「ここはもちろんリィの家よ。でもねシェラ、ここはもう貴方の家でもあるの。自分の家に『お邪魔する』なんて、変な言葉遣いだと思わない?」

 

 シェラは、少しだけぎこちなく微笑んだ。こういう無償の優しさには、些か慣れていない彼だった。

 

「…ええ、そうですね。また、近いうちに帰ってきます」

「待ってるわ。また一緒に、お菓子を作りましょうね。ふふ、貴方と一緒に作るとお菓子の出来がいいのよ。やっぱり、腕の良い先生がいると違うわね」

「何を仰るんですが。私など、まだまだあなたの足下にも及びませんよ」

「そうね、見慣れない調味料の使い方なら私の方が上手だけど…。それも、一回使い方を教えたら、全部自分のものにしちゃうんだもの。神様って不公平よねぇ」

 

 マーガレットは、くすくすと微笑んだ。その薔薇色の頬が、沈みゆく斜陽に照らされて、さらに赤く色づいていた。

 シェラはそれを眩しいものを見るように眺め、それから軽く一礼した。

 

「おい、シェラ。そろそろ行こう」

「はい、リィ。それでは皆さん、お体に気をつけて」

 

 いまだ口論の興奮が冷めていないのか、少し鼻息の荒いアーサーと、小さな掌をひらひらとさせて二人を見送るマーガレットと、暮れなずむ太陽に染められた二人の髪の毛を宝石のように眺めるデイジー・ローズの三人が、一対の天使を見送った。ドミューシアとチェイニーは早くも背中を向けて、屋敷の方に向かっている。何か、見たいテレビの番組でもあるのかも知れなかったし、こういう別れの場面が、例え一時的なものにすぎないと分かっていても苦手なのかも知れなかった。

 そんな、どこにでもある、ありふれた別れの挨拶を済ませたリィとシェラは、屋敷の入り口に止められたリムジンの方に歩いていく。白く艶やかに塗装されたリムジンの傍らには、ヴァレンタイン家の執事であるメドウズが、しっかりと背筋を伸ばしながら立っていた。初老の老人であるが、しっかりと着こなされた衣服には一分の隙もなく、白髪の交じった髪の毛はきっちりと撫でつけられ、その身ごなしはどこからみても天性の執事としか言い様のないものであった。

 そんな彼に、リィは手をあげることで挨拶をした。如何にも気軽で、そしてリィらしい挨拶に、メドウズは几帳面なお辞儀をして返礼した。

 

「メドウズも、もう少し気さくに接してくれると有り難いんだけど…」

「あの方は、どこか懐かしいですね。実は、私もああいうふうに振る舞えた方が気楽でいいのですが…」

 

 どこまでも使用人気質の抜けないシェラである。

 そんなシェラの申し出に、リィは無慈悲な返答をした。

 

「駄目。お前が俺にそんな態度を取ったらどうなると思う?物凄く浮くぞ、俺達」

「それはそうですが…。二人きりの時くらいはいいのでは?」

「二人きりの時は、あの頃からリィって呼んでただろ。…ま、それは置いといて、だ」

 

 シェラは、隣を歩く少年の纏う空気が変質したのを、敏感に感じ取った。

 それは、劇的と言っていいほどだった。まるで突然何の前触れもなく、そこに途方もなく美しい野生の獣が現れたような、寒気と高揚感を綯い交ぜにしたような感覚である。

 

「…結局、何もありませんでしたね」

「気を抜くな。間違いなく、何かある。それも、俺達がこの屋敷の敷地から出るまでに、だ」

「何故分かるのですか?」

「項の辺りがちりちりする。なるほど、こんなの初めてだよ」

 

 ふと横を向いたシェラの目に、ぴりぴりと逆立ったリィの項の毛が見えた。

 シェラは、ごくりと唾を飲み込んだ。口中が、からからに乾いていた。

 

「リィ…」

 

 シェラ自身、その後に何と続けるつもりだったのか分からない。

 しかし何を言うつもりであったとしても、彼はその目的を達することは出来なかっただろう。何故なら、彼の視線の先に立つ黄金の戦士が、戦場に立つ戦士さながらに殺気だった様子で、ぴんと立てた人差し指を唇に当てたからである。

 それを見て、シェラははっとした。

 

「…聞こえるか、シェラ」

「…はい。車、ですね。それもかなり排気量の大きい…」

「近づいてくる。間違いない。こいつだ」

 

 その言葉が終わらないうちに、ドレステッド・ホールの広々とした門の前に一台のリムジンが止まった。それは、ヴァレンタイン家のリムジンとは好対照の、漆黒に塗装された豪奢な車体のリムジンであった。

 音もなく運転席のドアが開き、車体と同色のスーツを纏った大柄な男が姿を現した。

 大柄な、男だった。ほとんど真四角の厳めしい顔、刃物のように細く鋭い目つき、短く刈り込まれた蜂蜜色の髪。スーツの袖から覗く拳は岩のようにごつごつとしていて、肩幅は広く、視線の配り方や身の置き方には一分の隙もない。

 顔の造り自体は意外に若々しく、まだ青年と呼んでも差し支えないような歳の頃に見えたが、しかしどこからどう見てもデスクワークで身を立ててきた種類の人間には見えなかった。

 その男の鋭い視線が、リィの視線と交わった。

 リィは、ほんの少しの興味と、それ以上の敵意を綯い交ぜにした無遠慮な視線で男を射貫いたが、しかし男に怯えた様子は見当たらない。

 シェラは、内心で嘆息した。彼の知人を除いたところで、この世界にもこれほど剛胆な人間がいるのかと思った。

 

「失礼ですが、当家に何か御用でございましょうか」

 

 いつの間にか門のところまで駆け寄っていたメドウズが、執事の役割として、見知らぬ客の応対をする。如何にも堅気に見えないその男を前にしても、少しも怯えたところを感じさせないのは流石というべきであった。

 男は、門のすぐ外で立ち止まり、武骨に頭を下げ、そして言った。

 

「このような時間に、事前に連絡を入れることもなく伺った非礼をまずお詫びさせて頂きたい。その上で尋ねたいのだが、こちらがヴァレンタイン卿のご自宅で間違いなかっただろうか」

 

 男の声は、その外観に似合った、地の底から響くようなバスである。肝の細い人間であれば、その声を聞いただけで居竦んでしまうだろう。

 しかし、メドウズは臆した様子もなく応えた。

 

「然様でございます。失礼ですが…」

「申し訳ない。重ねて非礼をお詫びするが、私は身分も姓名も明かすことが出来ないのだ」

 

「ふーん、人の家を訪ねておいて名前も明かせないなんて、非礼で済ませられるものじゃあないと思うぞ」

 

 男は、初めてぎょっとした表情で、声のほうを向いた。

 そこは、彼のほとんど目の前だった。巨漢と称していいだろう彼の視界の下限に、金色の髪をした、天使のような少年が立っていたのだ。

 男は慌てたように数歩後ずさり、腕を上げて構えた。握り拳で頭部を挟み込む、近代格闘技においてはスタンダードと言っていいスタイルの構えである。それも、付け焼き刃などではなく、しっかりと板に付いた構えであった。

 その様子を見て、天使のような微笑みを浮かべた少年は、獣が唸るような声で、ぼそりと呟いた。

 

「やるのか?」

「…やらない。それは、今の俺の任務ではない」

 

 ゆっくりと構えを解いた男の低い声は、やや擦れていた。

 男の額に、大粒の汗が浮かんでいた。彼の長い軍属経験において、任務中にここまでの接近を許したのは初めてだった。

 目の前にいるのは、見た目通りの少年ではない。男は、その認識をあらたにした。

 

「…君が、エドワード・ヴィクトリアス・ヴァレンタインか?」

「…やはり目的は俺か。全く、お前らは一体何度痛い目にあったら気が済むんだ?何度も何度もあいつを止める俺の身にもなってみろ。それと、その名前で俺を呼ぶな。俺は、自分の名を名乗ることも出来ない無礼な奴に、俺の名を呼ぶ権利を与えた覚えはない」

「なるほど、聞きしに勝るじゃじゃ馬らしい。そして何より質が悪いのは、その大言壮語に似合うだけの実力を兼ね備えていることだろうか」

 

 男は、軽く頷いた。もう、どこにも狼狽した様子は無かった。

 シェラが、緊張した面持ちでリィの横に立った。その手には、一族独自の獲物である、鉛玉と銀線が握られている。その後ろで、メドウズが色を失った顔で立ち尽くしていた。剛胆な彼であっても、全く予想だにしなかった事の成り行きについて行けていないようだ。

 男は、最早メドウズには一瞥もくれず、シェラの方を一瞬だけ眺めてから、今度はさっきよりもはっきりとした声でこう言った。

 

「何か勘違いをしているようだから断っておくが、私の目的は君ではない。私は、グリンディエタ・ラーデンという人物に会いに来た」

「何っ!?」

 

 予想外の言葉にリィは軽く眉を動かしただけだったが、シェラは大きな声で叫んでしまった。これで、しらを切り通すという選択肢は失われたといっていい。シェラは、己の失態に唇を噛んだ。

 

「やはり、知っているのか。君に聞くのが一番手っ取り早いという話は、間違いではなかったらしいな」

「…その名前をどこで聞いた」

 

 リィが低い声で尋ねる。

 男は、リィの殺気をかわすように、軽く肩を竦めた。

 

「―――おいおい、そんなに怒らないでくれ。君が曰く付きの人物であることは聞いている。無論、詳細は知らないがね。こんな、飛びきり美しい以外はどこからどう見ても普通の少年が、超一級の機密事項なんだぞ。お前、一体何をやらかしたんだ。きっととんでもないことをしでかしたんだろう?こう見えて、俺は臆病で有名なんだ。そんな顔で睨みつけられたら、寿命の十年位は簡単に縮まっちまうよ」

「…はぁ?」

 

 リィは、思わず素っ頓狂は声を上げた。それほどに、男の態度の豹変具合はすさまじいものがあった。

 先ほどまで険しかった顔つきが、急ににこやかに笑い崩れている。そうすると、もとの厳めしい表情とのギャップもあって、奇妙なほどに人懐っこい容貌になる。まるで、酒に酔っぱらった陽気な熊が、自由自在に人語を語り始めたような塩梅である。

 

「名前を教えられないのは、それも任務のうちだからだ。尊敬する父ちゃんと母ちゃんからもらった名前だからな、別にやましいところがあるわけでもなし、ちゃんと名乗りたいのは山々なんだよ。勘弁してくれないか?」

「分かった。人にはそれぞれ立場というものがある。一応の配慮はしよう」

「助かる」

 

 男は気安く頭を下げた。

 

「しかし、俺のことを名前で呼ぶことまで許可したつもりはないからな」

「ああ、わかってるさ。俺だって、任務が終わったらさっさと帰りたいんだ。家の冷蔵庫の中に、突いたら凍っちまうくらいに冷えたビールが入ってる。手早く終わらせて、それを煽って、そしてベッドに直行するんだ。それが、俺の人生の喜びだ。それに比べて、全く、お前の目の前に立っていると、猛獣の檻の中に突っ込まれた時のことを思い出していけねえ」

 

 急に、伝法な口調になった男が、鼻の頭を掻きながら笑った。

 

「じゃあ、さっさと任務を終わらせて帰るといい」

「ああ、そうさせてもらいたいね。だからさ、グリンディエタ・ラーデンってえ奴に会わせてもらえると嬉しいんだがね」

「だから、俺の名前を呼ぶことは許可していないと、そう言ったはずだが?」

 

 男は、その小さな目を丸くした。

 シェラは、相変わらず警戒は緩めないままで、目の前の男に少しだけ同情した。

 

「…お前さん、確かエドワード・ヴィクトリアス・ヴァレンタインってえ名前じゃあなかったのかい?…いけねえ、またやっちまった。悪いなぁ、俺、頭が悪いんだよ」

「謝罪を受け入れよう。そして、あんたの疑問に答えると、俺はエドワード・ヴィクトリアス・ヴァレンタインであり、そしてグリンディエタ・ラーデンでもある。両方、正式な俺の名前だ」

「はぁ…。そりゃあまた…」

 

 男は、無遠慮な視線で、リィの爪先から頭の天辺までをじろりと眺めた。

 今更ながらに、男の身長は、おそらくキングの長身よりもなお頭一つほどに高い。おそらく、リィが今まで直接出会った人間の中で、一番大きいのではないだろうか。

 そんな男を、見上げるようにして、リィは言った。

 

「あんた、でっかいな。…何喰ったら、そんなに大きくなれるんだ?」

「さぁ?目の前にあるものは、あるだけ喰ってきた。甘いも酸いも、辛いも苦いもだ。おかげで、少々腐った食い物くらいじゃあ腹を下さない。全く、便利な身体だよ」

「それじゃあ、俺はあんたほどは大きくなれない」

「ほう。腐ったものは駄目かね?」

「いや、それくらいは問題無い。でも、甘いものだけは駄目なんだ」

 

 男は、まじまじとリィの顔を見つめた。

 

「ふーん、お前さん、女の子みたいに可愛らしい顔してるのになあ。どっちかっていうと魂の方が本物か」

「あんた、魂が見えるのか?」

「いや、これは語弊があった。魂なんて見えないが、しかし向かい合えば、雰囲気っつうか気合の色っつうか…。お前さんのは、獰猛な狼だな」

「それも俺の資料に載ってたのか?」

「いや、俺はそこまでしっかりと資料を読み込む方じゃあないからなぁ」

 

 男は、顎の辺りをぽりぽりと掻いていた。

 シェラは、ほとんど唖然としながら、その魁偉な容貌の男を、見上げていた。リィの、輝かしい美貌からも、そして猛々しい獣性からも目を背けず、しかししっかりと相対することの出来るこの男は一体何者かと、心底警戒した。

 間違いない。この男が、ルウの占いに出た『おかしなこと』なのだ。

 

「で、お前さん―――いや、こんな呼び方で済まないんだが…」

「なら、俺のことはリィと呼んでいい」

「あー…そりゃあ嬉しいんだがねぇ。やっぱり、こっちの名前を教えないでお前さんの名前だけ呼ぶのは失礼な気がするからさ、遠慮しとくよ」

「そうか。なら、あんたのいう任務ってやつを、さっさと終わらせたらどうだ?」

「そうだな。そうすりゃあお前さんも俺も、晴れて自由の身になれるってもんだな」

 

 男は苦笑して、そして言った。

 

「お前さんに会わせたい人間がいるんだよ」

「俺に会わせたい?」

「正確に言やあ、お前さんに会いたいって言ってる人間だな」

 

 リィは小首を傾げた。

 自分が目立たない人間ではないと言うつもりはないが、しかしここまで大仰な真似をされてまで誰かに面会を求められる覚えもない。

 

「不味いか?」

「うーん、実際に会ってみないとなんとも…。当然、そいつの名前も言っちゃあ駄目なんだろ、あんた」

「いや、別に問題はないが、当人に止められてる。絶対に、自分の名前をあんたに伝えないでくれって」

「はぁっ?」

 

 自分の名前を伝えないでくれ。それはつまり、自分の名前を伝えれば、何らかの不利益があるからに違いないだろう。例えば、その名前を聞いただけでリィが飛んで逃げだすとか、そういうことだ。それが事実かどうかは別にして、当人はそう思っているのだろう。

 リィ自身、人から恨みを買わずに生きてきたなどと、聖人君子のようなことを到底口に出すことは出来ない人生を送っている。侮辱や攻撃には、相応以上の報復は欠かさなかったからだ。そして、この世には因果応報という言葉の意味を弁えない輩が数多くいることだって弁えている。

 今までの会話を黙って聞いていたシェラは、こっそりとリィに耳打ちをした。

 

「…リィ。正直に申し上げて、きな臭い気がします。ここらで引き上げて、ヴァレンタイン卿に後の処理を任せた方がいいのでは?」

 

 いわゆる普通の異常者やら犯罪者やらを相手にするには、年長のアーサーと警察機構に任せた方が話は丸く収まる。彼らの対応が薬物療法による長期治療なら、リィやシェラのそれはメスや鉗子を用いた外科的療法による短期治療だ。非常事態には効果的だし、その効果は劇的だが、しかしその分反動がすさまじい。間違いなく、何らかの隠蔽工作が必要になるのである。

 リィは、そんなシェラの助言に、小さく頭を振った。

 

「確かにお前の言うとおりなんだろうけど、ここまで来ると俺にも興味が湧いた。そもそも、ルーファだって、占いの結果が凶兆だとは言わなかったんだ。あいつが読めない未来なんて、そうそう拝めるものじゃあない。ここはいっちょ、腹を据えて拝んでみようじゃないか」

「リィ…。わかりました、最後までご一緒させて頂きます」

 

 溜息混じりにシェラは言った。もう、こうなるとてこでも意見を曲げないのがリィという人間である。それは、彼が王妃という要職に就いていたときからの付き合いのシェラにはわかりきっていることだった。

 もしもの時はせめて自分がこの人の盾になるという気で、シェラはリィの傍らに控えた。

 

「じゃあ、とりあえずそいつに会ってみるよ。連れてきてくれ」

 

 男は、安心したように息を吐き出した。

 

「助かる。会わないって言われたらどうしようかと思ってたんだ」

「連れてきてるのか?」

「ああ、後部座席に乗ってる。呼んでいいか?」

「いいって言ってるだろ」

 

 少し不機嫌なリィの声に、男は苦笑で応えてから、門の脇に停めたリムジンの方まで歩いて行った。そして、後部座席のドアを開けて中を覗き込み、そして言った。

 

「おう、会ってくれるってよ」

「そうか、ヴォルフ殿にはご迷惑をおかけした」

 

 それは、少女の声だった。

 当然、リィの知らない声だった。

 

「シェラ。今の声、聞き覚えはあるか?」

「いえ、全く」

 

 しかし、どこにも敵意の籠もっていない声である。それどころか、おそらくは初対面の相手と顔を合わせる前だというのに、どこにも緊張した様子がない。

 伸びやかな、いっそ暢気といってもいい声だった。伸びやかな声で、ヴォルフと呼んだ大男と会話を続けている。

 

「なあ、嬢ちゃん。一応言っとくけど、お前さんが会いたがってる奴は一筋縄じゃあいかない難物だぜ?本当に、あれが嬢ちゃんの会いたがっていた恋人なのかい?」

「ふむ。もし、いかにヴォルフ殿であっても容易くあしらうことが出来るようであれば、それは俺の探していたグリンディエタ・ラーデンではないということだ。そして、恋人という表現は少々語弊があると思うが」

「ああ、そうだったっけか。ま、どうでもいいや」

 

 男は、その巨体を後部座席から引き抜き、そして忠実な執事のようにドアの横に控えた。

 開け放たれた、後部座席のドア。

 そこから、一人の少女が姿を現した。

 白い花柄のワンピースを身に纏った、小柄な少女であった。

 

「―――っ!!!」

 

 シェラは、隣で立つリィの雰囲気が、再び変わったことに気がついた。

 思わず、彼の顔を覗き込む。

 

「リィ…?」

 

 そこには、まるで零れださんばかりに大きく見開かれたエメラルド色の瞳と、唖然と半開きになった唇があった。惚けたような表情であったが、この人に限ってはそれすらが美しい。

 しかし、彼が、予想を遙かに超えた驚愕に打ちのめされているのは、端から見ても明らかだった。少なくともシェラは、これほどに驚いているリィを見たことがない。

 

「リィ、どうしたんですか!?」

「…おい、うそ、だろ…?」

「リィ!リィ!しっかりしてください!」

 

 シェラは、相変わらず驚愕の表情を浮かべたまま硬直してるリィの肩に手を乗せた。

 リィは、震えていた。まるで瘧を煩ったように、ガタガタと、細かく。

 シェラは狼狽えた。何か、尋常ではない事態が起きつつあるのは明白だった。

 リィは、あの少女を見た瞬間に、我を失ってしまった。ならば、その少女にこそ原因があるはずである。シェラは、あらためて、リムジンから降り立った少女を睨みつけた。

 

 やはり、知らない顔である。穴が空くほどに見つめても、記憶の琴線に触れることはない。

 

 上背は、それほどではない。歳の頃は自分達と同じくらいに見えるから、同年代の少女達の中では標準か、やや低いくらいだろう。

 黒い艶やかな髪の毛が、卵形の形のよい顔を飾り付け、そのまま流れ落ちるように腰の辺りまで伸びている。肌は白く、その髪の毛と、そして髪の毛と同色の瞳の色を引き立たせる。淡い桃色に染まった唇は、威厳すら感じさせるような微笑みによって飾られている。

 

 美貌の、少女だ。

 

 流石のシェラも、一瞬言葉を失った。それほどに、少女は美しかった。

 しかし、それはただの美しさではないように、シェラなどには思えた。

 美しい。それは間違いない。だが、ただ美しいというだけならば、華やかに自らの身体を飾り立てた少女がいくらでも街中を闊歩しているが、しかしそういう上辺だけの美しさではなく、もっと深いところから立ち昇る、色濃い美がある。

 それは何なのだろう。

 それを考えて、シェラには思い当たるところがあった。

 

 リィだ。

 

 リィの持つ、猛々しいまでの美しさ。野生の動物。それも肉食獣のみが持つ、完成された機能美にも似た美しさ。それは、大輪の華の煌びやかさの中に、濡れたように輝く白刃を隠し持っているからこその美しさである。

 それを、この少女からも感じる。しかしそれは、リィと比べても遙かに直接的な、戦う者、戦場に生き場を求める者、戦士としての美である。

 そう思ってから、はたと気づいた。

 

 ―――この少女を、どこかで見たことがある―――

 

 一体、どこで。

 腕利きの行者であったシェラが、一度見た人の顔を忘れるということはあり得ない。故に、シェラと少女は間違いなく初対面に違いないのだ。

 しかし、シェラの五感は、その少女のことを知っていると、決してこれが初めてではないと告げている。

 シェラは、ほとんど恐怖にも近いような感情を込めて、少女の瞳を凝視した。

 その、髪の毛と同じ、漆黒。夜空の上に墨を流したような、黒真珠が如き黒。それは、確かにどこかで―――。

 

「おう、シェラ。壮健そうではないか。些か縮んだようだが、それもラヴィーどのの魔法かな?」

「なっ!?」

 

 黒髪の少女は、如何にも気安くそう言った。

 シェラの、少し纏まりかけた思考が、何百光年も向こうの銀河系の彼方にまで飛んで行ってしまった。

 無理もない。こちらはあの少女の名前も知らないのに、あっちは自分の名前を知っている。そして、ルウの名前まで。

 これは、一体―――!?

 

「リ、リィ…」

 

 シェラは、茫然自失の態で、縋るように傍らの少年の方を振り返った。

 そこには、先ほどよりは幾分か自分を取り戻した、しかしまだまだ青ざめた顔の、黄金の狼が、いた。

 

「…なんで、お前がここにいるんだ…?」

 

 物々しい声である。

 それに、黒髪の少女は、肩を竦めながら応えた。

 

「それが、40年振りに顔を合わせた夫への台詞か?」

 

 40年?

 いや、それよりも、夫?

 この人、リィの夫を名乗ることが許された人間など、この世にはいないはずだ。

 

 いや、待て。

 

 いる。

 

 確かに、この人の夫を名乗ることの出来る人物が、たった一人だけ。

 

 それは、確かにこの世の人ではない。

 

 この世の人ではないが、しかし―――!

 

「答えろ!答えによっちゃあ、ただじゃあおかないぞ、ウォル!」

「やれやれ、久しぶりに顔を合わせてみればこれか。全く、いつまで経ってもお前は変わらないのだな、リィ」

 

 黒髪の少女は、その瞳に薄い涙を浮かべながら、しかし本当に嬉しそうに微笑んだ。

 シェラは、今度こそ自分の意識が遠くなるのを感じた。

 彼が最後に見た黒い瞳は、確かに、デルフィニア国王ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンの、夜空の如き漆黒の瞳であったのだ。

 

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