懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第二十六話:少年と茨姫、出会うの縁

 長距離航行型外洋宇宙船《スタープラチナ》号は、正しく絶体絶命の危地にあった。

 だからといって、例えば飢えたライオンよりも獰猛な宇宙海賊に襲われているわけではないし、20センチ砲の通用しない正体不明の巨大不定形宇宙怪物と戦っているわけでも、巨大隕石との衝突を間近に控えて安っぽいパニック映画のような大混乱に見舞われているわけでもない。

 もっと地味で、しかし最も根源的な危機だ。

 航海自体は順調そのものである。長距離航海ではつきものと言ってもいい感応頭脳の不具合や、動力関係の故障もない。心配された宇宙嵐も発生せず、凪いだ宇宙空間はベルトコンベア付の廊下のように、船を目的地まで運び届けるだろう。

 しかし、そんな、船乗りならば誰もが恋い焦がれる幸運の女神に愛された航海を続けながら、その船は絶体絶命の、そして空前絶後の危機に直面していたのだ。

 

「……ない……やっぱりない……」

 

 キッチンの棚の全てを引っ張り出した少年は、絶望に満ちた声で呟いた。

 

「ひょっとしたら、この奥に……」

 

 流しの下の棚に体ごと突っこんで、パイプの裏を手探りで探す。しかし期待した、例えば缶詰なりレトルトパウチなりの手触りがあるはずもなく、指先は虚空を掻き毟るのみ。

 わかっていたことだ。

 何故なら、そこは既に、一度ならず探したところだ。そこだけではない。もう、この船の中で人が立ち入ることのできるスペースは、あらゆるところを探したのだ。

 冷蔵庫の中、娯楽室のキャビネットの引き出し、緊急脱出艇に備え付けられた非常用リュックサックの底に至るまで……。

 そして、無い。

 どこにも、無い。

 チョコレートの一欠片、肉の一片、米の一粒すらも。

 もう、徹底的に無いのだ、食料が。

 すっからかんの棚から這い出た少年の顔には、色濃い諦めと絶望が等量に含まれていた。

 

「ふ……ふふ……そりゃそうだ。もう探したもんな、四回も五回も……そりゃあないよな……」

 

 虚ろな視線で半笑いしながら、ぶつぶつと独り言を呟く少年というのは、端からみれば相当に怖い。しかしこの船には彼を含めて三人の乗組員しかいない上に、残りの二人は空腹を宥めるため、そして余分なカロリーの消費を抑えるためにひたすら横になっているはずだから、夢遊病患者のような有様で一人笑う少年は誰に見咎められることもなく、ふらふらとした足取りで操縦室へと向かった。

 長い廊下――空腹ならば尚更長く感じる――を、高山病に罹った登山者のように頼りない歩調で踏破した少年は、扉の横のタッチパネルに指を翳して指紋照合を済ませると、普段の数倍は重たく感じる扉を開いて中に入った。

 だだっ広い室内。本当なら数十名のクルーを収容してなお余りあるほどに広い部屋には、少年と、もう一人分の気配しかない。そしてその一人は、死んだように床に寝転がったままぴくりとも動かない。

 少年は寝転がった人影を無視して操縦席へと向かった。仮に声をかけたとして、もしその人影が心地よい睡眠を貪っていた場合、そして万が一にも腹一杯にご馳走を食べる夢を見ていた場合、それを邪魔した不届き者にどのような仕置きが下されるかわかったものではないからだ。

 這うようにして操縦席まで辿り着いた少年は、目の前の高解像度モニタに広がる宇宙を眺めたが、そこに映っているのは、遙か数百光年は彼方に点在する恒星系を除けば、何もない、光すらないような真空だけである。

 

「座標は……N49-KS1173か……」

 

 それは、居住可能不可能の別を問わず、そもそも惑星自体を持たない恒星の名前である。

 中央銀河からは遙か辺境に位置するこの恒星系は、遠い昔、ようやく人類が数百光年単位の移動を可能にした頃――ゲートの存在が確認され、それを利用した重力波エンジンの開発が為された頃――には新たな居住用惑星の存在が期待されたが、惑星そのものが存在しないことが分かるに至って、人の記憶と記録からは忘れられた存在であった。

 無論、広大な宇宙を股にかけて活躍する宇宙生活者達にしても、そんなものは全く無益な存在である。例えば連続跳躍の途中、エンジンを休ませるためにやむなくこの宙域に錨を降ろすことはあっても、この宙域を目指して跳躍をする者は皆無だ。

 では、そんな宙域を、何故《スタープラチナ》号が飛んでいるのか。

 暇を持てあました金持ちの道楽ではない。いくら時間と金を浪費することに生き甲斐を見い出す類の物好きであっても、このように何も無い宙域をのろのろと飛ぶことに快感を覚えるものはいない。第一、この少年の身なりからして、どう考えても『金持ち』という表現は相応しくなかった。

 彼らは、正しく生きる手段の一つとして、この宙域を進んでいるのだ。

 

 有益資源探索者(トレジャーハンター)

 

 未発見居住用惑星や貴重資源含有惑星を求めて、宇宙を放浪する者達の総称である。

 この種の職業で言えば、遠い昔はゲートハンターと呼ばれる、未発見ゲートを発掘しその使用料で生計を立てる者が主流であったが、ショウ駆動機関ドライブの開発にいたりその数は激減、今は趣味以外でそんなことをしている人間は存在しない。

 その代わり、飛躍的に広がった人類の行動範囲の空白を埋めるように、人類にとって有益な資源を探し、それを企業や国に売却することで日々の糧を得る人間が増えた。

 彼らもその一員である。

 しかし、今回の航海は、お世辞にも首尾の良いものとは言えなかった。

 未だ、目標は見つからず。

 そもそも、その目標自体がこの宙域に存在するかどうか自体、分からないのだ。

 彼らは有益資源探索者(トレジャーハンター)であり、年若くともそれなりの経験と場数を踏んでいる。しかし、例えば貴重な鉱物資源を多量に含んだ星や、四級以上の居住可能惑星を見つける可能性など、万に一つとは言わなくても相当に低いものであることは間違いない。

 それは彼とて理解しているのだが、食糧も尽き、もう少しで水も無くなる船に乗り、行く当てなく宇宙空間を漂うというのは心安らぐ状況では全く無い。

 かといって、今から引き返したところでどうなるものでもない。そもそも食料や水を買う金自体が無いのだし、その反対に借金だけは彼らの首を回らせなくするに十分なだけ存在する。今回の航海が失敗に終われば、当然の如く彼らの愛船である《スタープラチナ》号は手放さざるを得ないが、それだけでは借金が完済できるかどうか甚だ怪しい。

 強制労働で済めば御の字、下手をすればマフィアに身請けされ、辺境宙域の名も知れぬ星に、変態どもの愛玩奴隷として売り飛ばされることだってあるかも知れないのだ。

 加えて言うなら、仮に今から直近の有人惑星を目指して飛んだとしても、辿り着く遙か手前で食糧や水が尽きるのは明らかだった。もうだいぶ前に、今引き返せばなんとかなるかも知れないというギリギリのところで、この船の乗組員全員が、前に進むことを決めてしまっていたからだ。

 要するに、背後のルートは断ち切られている。

 道は、前にしか存在しない。

 少年は重たい溜息を吐き出した。このまま順調にいけば、どうやら長い間苦楽を共にしたこの船が自分達の墓標になるようだと思い、流石に絶望的な気持ちになったのだ。

 そんな彼の背後で、何かがもぞりと動く気配があった。

 

「う、んん……。……おーい、インユェ。生きてるかぁ……?」

 

 密閉された無機質な空間に、ぶっきらぼうな声が力無く響いた。

 もぞりと動いたのは、先ほどまで大の字で床に寝転がっていた人影である。どうやら本当についさっきまで眠っていたのだろう、声の端々に夢の世界の残滓が色濃い。

 そして、その人影からインユェと呼ばれた少年は、操縦席に座ったまま体を捻り、億劫そうな声で答えた。

 

「……おーう、まだ生きてるぞー……」

「……ちっ」

 

 少年の生存報告に対する返答は、短い舌打ちであった。

 発した者の不愉快を人に伝え、そして聞いた者を間違いなく不愉快にさせるその音は、インユェの耳にも確かに届いた。

 ただでさえ空腹で気が立っていたことも手伝って、元々気が長いとは言えない性質のインユェは露骨に眉を顰めながら舌打ちをした人間を睨みつけ、如何にも不機嫌な声で言った。

 

「……おいこら、メイフゥ。今の『ちっ』ってのは、一体どういう意味だ?」

「決まっとるだろが。性懲りもなくまだ生きてやがったのか、さっさとくたばりやがれこのクソチビが、って意味だよ」

 

 それは、何ともちぐはぐな台詞と声の組み合わせであった。

 別に、台詞自体は特別珍しいものではない。場末の酒場や、荒くれ者の集まる路地裏にでも行けば、酒臭い吐息と共に吐き出される台詞である。些か教養に欠けるようであるが、眉を顰める人はあっても首を傾げる人はいないだろう。

 しかし、今の声を、そして台詞を聞けば、大方の人間は首を傾げるか、それとも自分の耳を疑うか。

 何せ、どこの無頼漢がくだを巻いているのかというこの台詞が、明らかに年若い少女の声として打ち出されていたのだから、どう考えても異常である。

 声の主、メイフゥと呼ばれた少女は、清潔に磨かれた床に直接寝そべって、放心したような様子で天井を見上げていた。

 

「考えてもみろ。てめえみたいなアホチビが死んだって、この世界の皆々様は何一つ困らねえ。それに引き替え、てめえがくたばればあたしが喜ぶ。そりゃあもう喜ぶ。ほら、こりゃあどっちがお得か考えるまでもないだろ。第一、バカチビが生きてたっていい事なんて一つもねえぞ。だから、さっさと死ね。今すぐ死ね。なんならあたしが手伝ってやる」

「俺が死んだとして、お前が何で喜ぶんだよ!」

 

 酷い言われようだ。しかも、それを言ったのが自分の双子の姉……であるはずの少女なのだから、インユェは憤然として怒鳴った。

 メイフゥは、蠅を追い払うような仕草で手をひらひらとさせ、

 

「ああ、もう、怒鳴るな。空きっ腹に響くだろが」

「なら、怒鳴らせるような冗談を言うなっ!」

 

 至極もっともな話である。

 が、メイフゥはのそりと体を起こし、見るものの背筋に寒風を感じさせるような、酷薄な笑みを浮かべながら言った。

 

「おいおい、あたしは生まれてこの方、冗談や嘘を言った憶えはないぜ」

「な、なんだよ?」

 

 恐るべき姉の、どう考えても不吉そのものを体現した表情に気圧されたインユェだが、一応の虚勢は張りながら答えた。

 

「はっ、俺が死んで食い扶持が増えるとか思ってるんだったら残念だったな。もうこの船には、缶詰の一個だって残ってないんだからな」

「ああ、そりゃあ残念だ。でも、生きた肉なら一つ、少々サイズに難在りだが転がってるじゃねえか」

 

 《スタープラチナ》号は、まさか遙か昔の貿易船でもないのだから、生きた牛や豚などを積んでいるはずもない。それは金が無いとかでは食料が尽きたとかとは別問題であり、そんなものはそもそも存在しないのだ。

 インユェは、この姉でも空腹と恐怖で錯乱することがあるのだろうかと、寧ろ感心しているようだった。しかし、よく考えてみれば、如何に気性が荒いとはいえメイフゥは女なのだ。進めば餓死して地獄、引けば娼館に売られて地獄というこの状況で気丈に振る舞えというほうが難しいのかもしれない。

 ああ、これは自分がしっかりしなければ、と、固い決意を抱きつつ姉の顔を見たインユェは、彼女の灰褐色の瞳が、形容し難い光を放っていることに気がついた。それは、例えるならば藪に潜んだ餓狼が、暢気に草をはむ子鹿をじっと見つめるような……。

 

「……あの、姉さん。つかぬ事を伺いますが、何故俺をそんな目で見てるのですか……?」

「ああ、うん、別に何でも無いぞ、気にするな。本当に……本当に何でも無いから……」

 

 メイフゥは、いつの間にか身を乗り出しながらインユェにじりじりと近づいてきている。その間も、表情を消した、ある種人間的な感情の全てを押し殺したような空っぽの視線で実の弟をじっと見つめている。

 何でも無い視線ではない。絶対にない。長年、この姉の理不尽な暴力に晒され続けてきた少年は、本能的な恐怖を感じた。

 それでも、まさか。いくら人非人の姉とはいえ、そんなことは。

 

「あ、あはは、あはははは」

 

 インユェは、腹の底に最後の力を込めて、力無く笑った。そうでもしないと何かとんでもないことになるような気がしたのだ。

 そして背中に脂汗を流しながら、裏返った声で言った。

 

「で、でもさ、牛でも豚でもいいから、死ぬ前に腹一杯食べたいよな。こう、焚き火の上に吊して、丸焼きにしてさ――」

「よしわかった、そういう死に様でいいんだな?この船の中で焚き火ってのも中々骨が折れるが、可愛い弟の遺言だ、なんとか都合をつけようじゃねえか」

 

 今までのさして長いとも言えない人生の中で『可愛い弟』などとは一度足りとて呼ばれたことのないインユェは、後に続く物騒な単語よりも、その一言にこそ自分の運命を悟った。

 

「……あの、姉さん?」

「それと、悪いなインユェ。お前はその肉を食えないんだ、絶対に。でも、あたしがお前の分も、文字通りお前の分もきちんと食ってやるから、安心しろ」

「……何故?」

「決まってるだろうが。お前、どうやって自分の肉を喰うつもりだ?タコか?」

 

 そりゃあ、はらぺこのタコは自分の足を囓って飢えを凌ぐというが、それとこれとは問題が違う。違いすぎる。

 事ここにいたって、インユェは、流石に自分がどういう立場に置かれているのかを理解した。

 どうやら自分は、目の前の獰猛な女に、狙われているらしい。食物連鎖的な意味で。

 

「おい、メイフゥ!冗談もほどほどに……!」

「畜生、こんなの拷問だ。何せお腹と背中がくっつく程に腹が減るってのがどういう状態か、正しく味わっている最中だってえのに、目の前に活きが良くて美味そうな肉がいるんだ。……ああ駄目だ、もう我慢できねぇ」

 

 まるで月明かりに照らし出された猫科の獣のように目を爛々と輝かせながら、メイフゥはそんなことを言った。

 インユェは、思わず椅子からずり落ちそうになった。彼は、双子であるにも関わらず姉であるメイフゥよりも二回りほど体が小さかったのだし、彼女の豊かな金色の髪の毛が、まるで獅子の鬣かそれともオオワシの冠羽のように見えたというのもある。

 正しく蛇に睨まれた蛙といった有様で、おそるおそる、最後の希望に縋るように尋ねる。

 

「……冗談だよな?」

「冗談だ。ああ、冗談だとも。冗談であることを神様に祈るといい。祈ったままそこを動くな」

 

 じゅるりと涎を啜りながら、メイフゥはそんなことを言う。しかもいつの間にか体を起こしていたメイフゥの姿勢たるや獲物に飛びかかる寸前の虎そのもの、その上、にやりと歪んだ口元から白く輝く犬歯が覗いているのだ。

 

 ――喰われる!

 

 反射的に椅子から飛び退いたインユェの背後を、巨大な何かが、猛烈な勢いですっ飛んでいった。

 そして直後に響く盛大な破砕音。

 

 ――危なかった。

 

 床に這いつくばったインユェ、は内心で名前も知らない神様に感謝の祈りを捧げた。これでもし一瞬でも飛び退くのが遅ければ、憐れ少年は実の姉――しかも双子――の非常食に成り果てていたのであろうか。

 真っ青になって振り返った少年の視界に、跡形もないほどぐしゃぐしゃに壊れた金属製の椅子と、その端っこを咥えて持ち上げながらこちらを睨みつける姉という、果たしてこれが現実のことかどうか疑ってしまう悪夢のような情景が映り込んだ。

 そしてメイフゥは、口に咥えた椅子の残骸をさも不味そうに吐き出し、不思議そうに言った。

 

「……何で避ける?」

「誰でもよけるわっ!」

 

 インユェは、声を限りに叫んだ。

 

「メイフゥ!お前、本気で俺を殺すつもりか!」

「別に、まだ殺すつもりはねえよ。とりあえず足か腕の一本でもつまみ食いしようかなと思っただけじゃねえか。大袈裟に喚くな、男の子だろうが」

「男の子だろうがなんだろうが、どこのどいつが黙って腕やら足やらを囓られてやるもんかよっ!?あと、『まだ』ってなんだ、『まだ』って!?」

「ああ、別に黙って囓られてくれることはねえぞ。寧ろ、泣き叫べ。その方が盛り上がるってなもんだ」

 

 嗜虐的な笑みを浮かべた少女は、ゆらりと立ち上がった。それだけで、インユェなどにはこの部屋が一回り小さくなったように感じた。それほどに、メイフゥは、横にも縦にも大きかった。

 若干14歳にして180センチを越える長身としなやかに長い手足、健康的に浅黒く灼けた肌、そしてその下に隠された良く撓る鋼線を束ねたような筋肉。針金と見紛うほどに強い直毛はヘアバンドで後ろに流され、あたかも金糸で織られたマントのように彼女の背中を飾り付けている。

 それは、到底年若い少女の風貌ではない。正しく、全宇宙をまたにかけて暴れ回る、女海賊の威容である。

 化け物だ、と、インユェは思った。先ほどからチビチビと侮られている彼ではあるが、同年代の少年達と比べてもそれほど小柄な方ではない。しかしこの姉と並ぶとどうしても見劣りしてしまう。彼の、色素の薄く抜けるように白い皮膚とくすんだような銀髪が、どうにも不健康な印象を与えるというのも大きいのだが、何よりメイフゥの存在感が尋常ではないからだ。

 実際、この二人を並べてみて、双子の姉弟だと一目で見抜ける人間がどれほどいるだろうか。

 整った顔立ちにはどこか通じるものがあるのだが、その他の材料があまりに正反対すぎる。威風堂々とした女丈夫たるメイフゥと、線が細く一見するとなよついた印象すらあるインユェ。これではまるで、屈強な女将軍に捕まった漂泊の王子様である。

 インユェはそんな自分が嫌で、幼い頃から彼なりの努力を惜しまなかった。毎食後には必ず牛乳を飲み、身長を伸ばすための努力をした。後見人に我が侭をいって棒術を教えてもらったり、自分よりも体の大きなガキ大将に喧嘩を挑んだりして、姉より強い人間に、もっと言えば姉を守れるだけ強い男になろうとした。

 そしてその努力は成功したと言っていい。母のお腹の中でさえ姉に栄養を奪われたのか、赤子の時から小さく、そして虚弱だったインユェは、少なくとも同年代の少年達と比べてそれほど見劣りのしない体格にはなったのだし、腕っ節では誰にも負けない自信をつけた。

 だが、その努力が報われたとは言い難い。何せ、メイフゥはインユェが成長する以上のペースでぐんぐん成長し、それに比例するかのように健康的で逞しく――ぶっちゃけて言えば腕っ節が強くなっていた。

 結果として、物心がついたときから、インユェがメイフゥに喧嘩で勝ったことは、一度もないのである。

 しかも、彼ら姉弟が、有益資源探索者(トレジャーハンター)という、お世辞にも堅気とはいえない職業に就いてから、姉は水を得た魚のように元気になった。もう、野性的と言っていいほどに元気になった。最近では、インユェは自分の姉のことを、辛うじて人類というカテゴリの端っこに引っかかった化け物だと考えている。

 そんな姉が、涎を垂らしながら自分に迫ってくるのだ。これが恐ろしくないはずがない。

 

「ま、まて、はやまるなメイフゥ!」

 

 決して獲物を逃がさないよう、大きく腕を広げながら迫ってくる姉に向けて、インユェは精一杯の説得を試みた。

 

「よく考えてみよう!俺みたいなやっせぽちのチビガキ、どう考えても食える部分は少ないぞ!」

「大丈夫、人体のうちに占める骨の割合なんて、精々10パーセントやそこらだ。いくらチビなお前だって、40キロくらいは食える部分があるってことになる。小腹を満たすには適量だ」

「いくら腹が減っているからって人を喰うのはどうだろうっ!?」

「大丈夫、遭難の末、飢餓に苛まれて人肉食に至った人間は特段珍しい存在じゃねえ。もし誰かにばれたら『あの子は今も私と一緒に生きています!』とでも泣きながら宣ってやる。だから安心して喰われろ」

「ひ、人の肉は美味くないぞ!肉を喰う動物の肉は不味いんだ!だから、人の肉だって……!」

「大丈夫、非常時だ。鼻を摘んで喰ってやるさ」

「ちょ、やめ……ぎぃやぁぁぁぁ――!」

 

 繰り返すようだが、長距離航行型外洋宇宙船《スタープラチナ》号には三人の乗務員がいる。

 操縦室――船の中でも最も重要な部屋の一つである――で、文字通り食うか食われるかの取っ組み合いを繰り広げる二人を、冷ややかに見つめる男がいた。

 これは、若者とは言いがたい。どちらかと言えば老境にある、と表現するほうがしっくりくる。しかし、その顔に刻まれた幾多の皺とは裏腹に、背筋はほんの少しも曲がっていなかったし、衣服に身を包んでいても分かる程に鍛え込まれた体のどこにも贅肉がついているようには見えない。

 そして、細めた瞼の奥から、見る者によっては柔和とも鋭利とも感じられる不可思議な視線で、姉弟のやり取りを見守っていた。

 最初に気がついたのは、メイフゥだった。

 

「おう、ヤームル。ちょっと待ってろ、すぐに終わるから」

 

 必死で暴れるインユェを押さえ込みながら、軽く手をあげて挨拶をする。

 いつの間に部屋に入っていたのか、ヤームルと呼ばれた老齢の男性は、同じく軽く手をあげてそれに応じた。そして暢気な調子で言った。

 

「また姉弟喧嘩ですかな?いや、元気な様子で結構結構」

「ちょっとまてヤームル!これのどこが姉弟喧嘩に……いててててっ、噛み付くなこの馬鹿!」

 

 いつの間にか俯せに組み伏せられたインユェ、その上にのし掛かっていたメイフゥは、弟のズボンを器用に剥ぎ取り、剥き出しになった太腿の裏側にガブリと噛み付いた。

 幼い少女が年上の兄弟と喧嘩した時に噛み付いたとか引っ掻いたとかとは、次元が違う。この場合の噛み付くとは、正しく本当の意味で『噛む』、つまり食料を食い千切って咀嚼するという意味で使われる『噛む』なのだから。

 当然インユェは思いっきり暴れたが、上にいるメイフゥの体はピクリとも動かない。余程上手に人体の『つぼ』を押さえているのだろう、憐れな弟がどのように足掻いたところで、姉の巨体はうんともすんとも言わないのだ。

 もはやこれまで。自分は実の姉に、しかも双子の姉に喰い殺されるのだと、自分の運命を呪ったインユェの耳に、救いの神様の声が聞こえた。

 

「これこれ、メイフゥお嬢様。いけませんよ、立派な淑女がはしたない」

 

 ヤームルが、やんわりとメイフゥを窘めた。

 成熟した男性の、豊かで落ち着く声だった。

 流石のメイフゥもこの老人には逆らいがたいのか、『あと一歩のところで』という無念の表情を隠さないまま、ヤームルを見上げる。

 インユェは、なんとか助かったようだと一息ついた。下半身にパンツ一丁だけという格好は恥ずかしいし、メイフゥが噛み付いた箇所はずきずきと痛むが、肉を食い千切られた程の痛みはない。どうやら、神様がまだ生きていて良いと仰っているようだ。

 それでも、彼の白い皮膚に刻まれた歯形は、真っ赤で、十分に痛々しいと言えるものだったが。

 そして、どこからどう見ても淑女という形容が相応しいとは思えない少女、メイフゥは、ぶすっとした調子で、

 

「……わかったよ。しょうがないなぁヤームル、半分こだぞ」

「勝手に人の体を山分けするなぁ!」

 

 インユェは必死に喚いたが、メイフゥがそれを耳に入れた様子はない。馬耳東風、というよりは、シマウマの悲鳴をライオンが聞き流しているのに近いかも知れない。

 このような情景は見慣れたものなのだろうか、好々爺然としたヤームルは落ち着いた調子で、

 

「それは有難いお言葉ですが、お嬢様、問題の所在が違うのではありませんかな?」

「……?」

 

 メイフゥは可愛らしく首を傾げた。目をぱちくりとさせたその表情は年相応で可愛らしいものだった。

 

「あたしは何か悪いことをしたのか?」

「悪い!大いに悪い!だから、さっさとどけぇ!」

「うるせぇ、少し黙ってろ」

 

 ぐえ、と、蛙の潰れたような音が響いて、インユェは大人しくなってしまった。

 メイフゥが、彼の背後から、首筋を上腕部でもって締め付け、頸動脈を締め上げたのだ。チョークスリーパー、もしくは裸締めと言われる危険な技である。しかも、完全に『おとして』しまったのでは意味がないので、意識が途切れるぎりぎりのところで締める力を緩めている。

 インユェにしてみれば、たまったものではない。たまったものではないが、だからといって暴れ回ることは出来ないし、声を上げることも出来ない。

 手も足も出ないとはどういう状態か、正しく生きた標本見本にされているのだ。言うまでもなく、犯人は実の姉であり、ヤームルの言うところの『お嬢様』だ。

 そんな『お嬢様』を見下ろしながら、ヤームルは大きな溜息を吐き出した。

 

「お嬢様。御館様のお言葉をお忘れですか?」

「えっ……?……あ、うん……」

 

 その、たった一言でもって、メイフゥの血色の良い顔はみるみる青ざめ、力無く項垂れてしまった。

 まるで飼い主に叱られて耳を垂らした子犬さながらの様子だ。

 

『暴力を持って奪い取る海賊達の時代は、俺の代で終わりだ。お前達は、知力と胆力でもって掠め取れ』

 

 それが、メイフゥとインユェの父の言葉だった。

 もう、顔も覚えていない父親だ。最後に会ったのは、彼らの歳が片手の指で数えられる程のものだった時のはずだから、無理もない。

 だが、最後に、別れ際の言葉だけは鮮明に覚えている。そして、その台詞を口にした、父の寂しそうな顔も。

  知力と胆力でもって掠め取れ。

 どう考えても子供を育てるに健全な標語とは思えないその一言が、彼ら姉弟の生きる道しるべになっているのだ。

 すっかり意気消沈したメイフゥは、緩慢な動作で立ち上がり、同時に弟をその牙と爪から解放した。

 

「……ごめん、ヤームル」

「はい。些か頭に血が上っていた……それとも、血が足りていなかったようですな。ま、あまりお気になさらずに。しかし、誰にも登れないほどの高みに成っている果実を、強引にもぎ取ろうとするのは馬鹿の仕様です。ただひたすらに果実が落ちてくるのを待つのは、間抜けの仕様です。どうすれば安全に、そして迅速に果実を我がものに出来るか、そのことにこそ頭を悩ませなさいませ」

「……うん」

「おい、その場合の果実って俺のことか?俺が喰い殺されかけたのはどうでもいいのか?」

 

 憐れな被害者の抗弁は、当然の如く無視された。そこは、別に悪いことではないらしい。

 先ほどの、野生動物顔負けの俊敏さはどこへやら、弱々しい少女のような足取りで、メイフゥは操縦室から出て行った。

 その項垂れた後ろ姿を見送ったインユェは、やれやれどうやら自分は助かったらしいと、安堵の吐息を吐き出した。

 

「……助かったよ、ヤームル」

「いえいえ、お二人の後見人として、当然のことをしたまでです。しかし……」

 

 後見人は、いまだ床にへたり込んだままのインユェを見下ろして、

 

「少し、鍛え方が甘かったのでしょうかな。メイフゥ様も些か正規の規格からは外れたご婦人ではあらせられますが、しかしご婦人はご婦人。それに一方的に叩きのめされ、剰え衣服まで剥ぎ取られるとは……。お坊ちゃま、今の貴方を見れば、御館様はさぞお嘆きになるでしょう」

 

 嘆息しながら、そんなことを言った。

 これに対しては、インユェとしても言いたいことが山ほどある。

 まず、比較の対象がおかしい。あれは、どう考えても人類ではない。一割くらいは辛うじて人類の端っこにぶら下がっていたとしても、残りの九割は化け物の領域に足を突っこんでいる。要するに、四捨五入をすれば間違いなく化け物に分類される生物だ。

 そんな姉と比べられては、弟としては立つ瀬がないのだが、もうそこらへんは何を今更というか、インユェも割り切ってしまっていたりする。

 第一、自分は被害者である。あのとち狂った姉が、まさか生きた人間――しかも血を分けた双子の弟である――を自分の食料にするなどという暴挙にでなければ、このみっともない諍いは未然に防がれていたのだ。

 インユェは、中途半端な笑みを浮かべながら、言った。

 

「無茶言うなよヤームル。あんな化け物と比べられたら、いくら俺だって……」

「お坊ちゃま」

 

 静かな、しかし逃げ道を断つように鋭い声だった。

 思わず見上げたインユェは、そこに、想像したよりも遙かに厳しい視線を寄越す、育ての親を見つけた。

 

「お坊ちゃまは、いつまでお坊ちゃまなのでしょうか?」

「……ヤームル?」

「私は、いつになったら、お坊ちゃまのことをご主人様と、あるいは御館様と呼ぶことができるのでしょうか?」

 

 その、深い思慮と憂いに満ちた視線に、インユェが立ち向かえたのは、本当に一瞬のことだった。

 思わず視線を逸らした14歳の少年は、遣り切れない恥ずかしさと、ほとんど八つ当たりに誓い怒りを感じて、吐き捨てるように呟いた。

 

「……あれは化け物だ。だいたい、そんなに強い奴のことが好きなら、お前は俺のことなんか見捨てて、メイフゥだけの従者になればいいじゃないか!」

「……お坊ちゃま。その台詞、間違えてもお嬢様の前では口にはなさいますな」

「どうしてだよ?俺の身が危ないってか?そんなのいつもの――」

「お嬢様が、傷つかれます」

 

 思わず耳を疑ったインユェだ。

 果たして、この忠実な家令は、何と言ったのだろう。

 傷つく?あの、姉貴が?

 あり得ない。どう考えても、天地がひっくり返ってもあり得ない。

 あまりに突拍子もない台詞に怒りを吹き飛ばされてしまったインユェは、ほとんど発作的な笑いの衝動に襲われた。

 大いに笑った。

 

「おいおい、あんたがそんなに冗談好きだとは知らなかったぜヤームル。アレが傷つく?あの『窮奇』のメイフゥが?俺が化け物扱いしたくらいで?ありえねぇって!宇宙がひっくり返ってもありえねぇ!」

 

 ヤームルは、インユェを窘めようとはしなかった。

 ただ、ぽつりと一言だけ、

 

「お坊ちゃま。あなたがお嬢様を化け物と呼んだのは、一体何度?」

「……えっ?」

 

 インユェは笑いを収めて、考えた。

 メイフゥを、あの姉を、化け物と呼んだ回数。

 もう、数え切れないくらいに呼んだ気がするが……しかし最近は怖くて呼んでいない。

 

「……憶えてねえよ」

「では、最後にそう呼んだのは?」

「……おい、ヤームル。お前、何が言いたいんだ?」

 

 老境の男は、それには答えなかった。何も言わず、かつては黒々としていたであろう、新雪のように真っ白な髪を手で撫でつけると、

 

「精進なさいませ。肉体的には勿論、精神的にも、そして人間的にもです」

 

 そう言って、部屋を出て行こうとした。

 インユェは、流石に顔に血が上るのを感じた。お前はまだ子供だ、と馬鹿にされたように感じたのだ。

 すっくと立ち上がり、食い付くような調子で叫んだ。

 

「おい、ヤームル!お前!」

「一つ、よいことを教えて差し上げましょう、お坊ちゃま」

「ああっ!?」

「あなたは先ほどから、ご自身の姉君を、余程化け物と思い込みたいようですが……」

「思い込みたいんじゃねえ!アレはどう考えても化け物だろうが!どこの女が、体当たり一つで操縦席をめちゃめちゃに出来るんだよ!」

 

 インユェは『操縦席だったもの』を指さしながら言った。

 もっともな台詞である。あれが普通の一般女性に出来る仕業ならば、この世界における男と女の役割の過半が入れ替わるだろう。

 くすりと笑ったヤームルは、一層柔和な表情で振り返り、

 

「では、姉君以外の女性ならば、坊ちゃまは遅れを取らない?」

「当たり前だ!女なんかに負けてたまるか!」

「それは威勢のよろしいことで。しかしお坊ちゃま。この宇宙は広く、人の歴史はなお広い。私はね、若かりし頃、今のお嬢様よりも遙かに猛々しいご婦人を拝見したことがあります」

「……はぁ?」

 

 インユェは、あらためて己の耳を疑い、次に目の前の男の正気を疑った。

 姉より、あの姉より、あの化け物よりも猛々しい女?そんなものが、この宇宙にいる?

 それは、少年の想像力の翼では到底たどり着けない、遙か彼岸の現実だった。

 要するに、少年は信じなかった。そんなものがいるはず無いと、一笑に付した。

 

「そんなものがいるなら、是非見てみたいね。もしもこの船が無事どっかの惑星に着いたら、是が非でも俺の前に連れてこいよ」

「私としても是非もう一度お会いしたいのですが……風の噂に、既に身罷られたと聞きました。今生でまみえることは、ないでしょうな」

 

 ほらやっぱり嘘じゃないか、と嘲ろうとしたインユェは、老人の、遠く美しい過去を懐かしむ目を見て、言葉を飲み込んだ。

 年若い彼も、言っていいことと悪いこと、その最低限の分別くらいはつくのだ。

 その代わりに、ばつが悪そうに銀色の頭を掻き毟って、

 

「……姉貴みたいな女が何人もいるんなら、それだけで男の居場所はごっそりと奪われちまうんだろうな、この世から」

「ええ、全く。しかし、ああいった女性がいるからこそ、世の男性も奮起出来るというものでしょう」

「ああ、嫌だ嫌だ。絶対に会いたくねえ。間違えても会いたくねえ。前言撤回だ、ヤームル。そんな女、間違えても俺の目の前に連れてくるなよ。俺は姉貴だけで十分だ」

 

 少年は苦笑して、老人もそれに倣った。

 ヤームルは一礼すると、そのまま扉の向こうに消えた。

 それを見届けたインユェは、しばらくの間立ち尽くしていた。

 

 ――あの姉よりも猛々しい女が、本当にこの世にいるのだろうか。

 

 そう考えて、あらためて恐ろしくなったのだ。

 軽く身震いした少年は、めちゃめちゃになった操縦席の代わりに折りたたみ椅子を置くと、最後の希望を込めて、高解像度モニターの向こうに映る宇宙空間をじっと睨みつけた。

 

 

 

 三日経った。

 当然、星は見つからない。

 食料だって尽きたままだし、昨日、人が生きるために最も大事なもの――水が枯渇した。

 船内から、人の気配が絶えて久しい。インユェはここ二日間、ずっと操縦室に籠もっているが、その間誰もこの部屋には入ってこなかった。

 ひょっとしたら、この船で生きているのは自分だけかも知れない。

 少年はそう思ってから、苦笑した。老境にあるヤームルなどはともかく、あの姉が自分よりも先に死ぬとは到底思えなかったからだ。

 だからといって、三日前のように元気であるとは、とても思えない。人は水を失うと急激に衰弱するからだ。

 インユェも、その例に漏れなかった。喉を掻き毟りたくなるような渇きは絶え間なく彼を苛んだし、じっと宇宙空間を眺めていると何度となく幻覚に襲われた。

 姉が、本物の化け物になって自分を喰い殺す。

 反対に、化け物になった自分が姉の死体に食らいついている。

 何も無いはずの宇宙空間を、真っ白い衣を纏った人達が、静かに行進していく。

 いつの間にか、自分が深い森の中にいる夢も見た。暗い暗い森の中で、たった一人で火を囲み、ひたすらに誰かを待ち続ける。

 待ち人は、来たのだろうか。それとも、あの自分も、今の自分と同じように、孤独に死んでいったのだろうか。

 答えなど、分かりきっているというのに。

 

『……だれ?』

 

 そんな幻聴が、聞こえた。自分は、一体何と答えたのだろうか。

 ただ、その少女は、どこかで見たことがあるような気がした。

 

 はっと顔を上げる。

 眠っていたのだろうか。

 時計を見る。さっきから、五分も経っていない。それでも、確実に意識は失っていた。

 こうやって、徐々に、徐々に死んでいくのかと思うと、叫び声を上げたくなるほどに怖くなった。少しずつ狂って、最後には自分が自分とも分からないまま、道ばたの野良犬のように呆気なく死ぬのか。

 それは嫌だった。死ぬときは、せめて死ぬときくらいは、自分の好き勝手に死にたい。

 だからといって、今更救難信号を打つ気にはならない。こんな辺境を飛ぶ船があるとは思えないし、助かるはずもないのにそんなことをするのは、見苦しいようで嫌だった。

 静かに決心したインユェは、姉の部屋に繋がる回線を開いた。どうせ死ぬなら、そういう死に様のほうが、男らしいと思ったのだ。

 しばらく待ったが、スピーカーからは何の返事も無かった。

 常のメイフゥならあり得ないことだ。いつもの彼女であれば、不機嫌そうな声で『何の用だアホチビ』と罵るか、それとも無言で回線をぶった切るか。

 そのいずれでもないということは、既に死んでいるのか、それとも受話器を取ることも出来ないほどに衰弱しているのか。

 インユェは、ぼうっとモニターを眺めながら、そんなことを考えた。そして、もう一度呼び出して反応が無ければ、自分から姉の部屋に赴こうと思った。

 喰い殺されるために。

 それもいいさ。女性を助けるために、その糧になって死ぬというのも、中々に男らしい死に方じゃないか。やけっぱちにそんなことを考えていた。

 モニターに反射した自分の顔は、かつての面影がどこにも見えないほどに窶れ、衰弱している。竜胆のようだと誉めそやされた紫色の瞳はどぶ色に濁っているし、腕だって、まるで棒きれか何かのようだ。これでは食べ甲斐はないだろうと思うが、そこらへんは我慢してもらおう。

 そんな自分の鏡像を眺めながら、もう一度呼び出しブザーを押した。

 がちゃり、と、回線の繋がった音が聞こえる。

 ああ、姉は生きていた。つまり、自分は死ぬんだ。そのことが、何故だか妙に嬉しくて、そんな自分がおかしくて、ぼんやりとモニターを眺める。

 これが、最後に眺める宇宙だと思うと、それが映像化された電子情報だと知っていても、なお感慨深いものがある。

 ほとんど焦点を合わせることすらせずに、ぼうっと画面を見つめていた。

 

 その時。

 

 正しくその時、インユェの痩せた背中に、電流が走った。

 見間違いか。それとも、幻覚だろうか。

 目を擦った。頬を叩いた。それも、一度ではない。何度も何度も。

 だが、それはそこにあった。頬を赤く張らしたインユェを嘲笑うかのように、それとも祝福するかのように、そこにあった。

 計器類は、一切の反応を示さない。感応頭脳だって相変わらず無慈悲に沈黙したままだ。

 しかし、やはりそれは、そこにあったのだ。

 

『……い。おい、インユェ……おいってば』

 

 姉の声が聞こえる。しかし、それがどこか遠い。

 それでも、事実は伝えないといけない。

 

『おい、インユェ!聞こえてるのか!それとも、まさか本当にくたばったのか!あたしはそんなの、絶対に許さねえぞ!お前があたしより先にくたばるなんて、そんなの――』

「……ほしだ……」

『……あん?おい、インユェ、お前今、何て言った?』

 

 その時になって、ようやく目の前の現実に、思考回路が追いついた。

 少年は、声を限りに叫んだ。それが、彼の為し得る、最も盛大な歓喜の表現方法であったのだから。

 

「星だ!惑星だ!青い、大気と水のある惑星だ!助かった!姉さん、俺達、助かったよ!」

 

◇ 

 

 タラップから駆け下りたインユェは、まず、目の前に広がる広大な湖へと向かった。

 手には、携帯型の浄水器と、同じく携帯型の成分解析用機械を抱えている。

 今にも水の中に飛び込み、思うさまに喉を潤したいという欲望と戦いながら成分解析用機械の端末を浸すと、水質は極めて良好、飲料水としての使用に十分耐えうるという結果が出た。

 それはつまり、この星が第二級以上の居住可能惑星であることを示している。

 インユェは、喉の渇きも忘れて、強くこぶしを握りしめた。第二級以上の惑星ならば、間違いなく億単位の金で取引される。

 これで、下手すれば難民と間違われかねないような、貧乏宇宙放浪生活ともおさらばだ。

 疲れを忘れたような足取りで船まで戻ってきたインユェを、憔悴したようすのメイフゥと、やや窶れた感はあるもののそれでも毅然としたヤームルが出迎えた。

 

「で、如何でしたかな?」

 

 別段声をうわずらせるでもなく、淡々とした調子で尋ねたヤームルであったが、それに答える少年は、誇らしさと喜びと、いくつもの輝かしい感情で頬を赤らめながら、

 

「驚くなよ!あそこの湖、全部が飲用可能な水だ!つまりこの星は第二級以上の居住用惑星だ!これで俺達は大金持ちの仲間入りだぞ!」

 

 少年は、大いに胸を張った。何せ、この宙域を探索することを決定したのは、他ならぬインユェである。そして、この星を発見したのも彼なのだから、論功行賞でいえば、第一等は間違いなく自分のものだと確信していた。

 そして、それは完全な事実であり、この星を発見した功績はインユェのものだった。

 別に、誰もそれを横取りしようとは考えない。インユェの不思議な勘の良さは、姉であるメイフゥも認めるところだったし、だからこそ惑星が存在しないという、有益資源探索者であれば見向きもしないであろう宙域への探索を了解したのだから。

 にもかかわらず、インユェを見つめる二人の視線はほろ苦い。まるで、おもちゃの宝物に目を輝かす幼児を見守るような、そんな視線だ。

 流石に様子がおかしいと思ったインユェは、恐る恐る尋ねた。

 

「おい、どうしたんだよ二人とも。これが嬉しくないのか?」

 

 浄水器で濾過した水を飲み、人心地ついたメイフゥは、やや申し訳無さそうに、そして気の毒そうに言った。

 

「……あのな、アホチビよ。今回は別にお前が悪いわけじゃない。それに、あたしだってお前に助けられた。それは認めてやる。ありがとな」

 

 インユェは、言葉も出ない程に驚いた。

 姉が、あの姉が、自分に礼を言った。ありがとうと言ってくれた。

 それが、信じられなかった。そして、それ以上に嬉しかった。もしかしたらこの星を見つけた瞬間よりも、彼は嬉しかった。

 なのに、当の姉は、ほんの少しだけ輝きを取り戻した豪奢な金髪を掻き毟りながら、

 

「だけど、考えてもみろよ。ここが第二級以上の居住使用可能惑星だとして、だ。なら、なんでこの星は船の計器に反応しなかったんだろうな?」

「……それは、そういう星なんじゃあないのかよ。ほら、肉眼では見えるけど、計器には反応しないし上陸も出来ない、幽霊星の噂だってあるじゃないか」

「確かに、この広い宇宙だからな。そんな不思議な星があったっておかしくはない。おかしくはないんだが、そういう意味で言えば、この星はその中でも飛びきりにおかしな星だ」

 

 インユェには、姉の言っている意味が分からない。

 無言で話の続きを求める。

 

「お前が着陸準備に走り回ってる間にな、この星の周りを調べてみた。そしたらよ、何があったと思う?」

「……何があったんだよ」

「一世代以上前の、高性能電波吸収パネル。当時なら、一枚であたしらが一生食っていけるくらいの馬鹿みたいに値の張る代物が、うじゃうじゃとばらまかれてた」

「……だからどうしたんだよ!」

「要するに、ここを発見したのは、あたしらが最初じゃないってことだよ」

 

 

 少年は、打ちひしがれて、森を歩いていた。

 姉は珍しいことに――本当に珍しいことに、彼を一通り慰めてから先に森に入っていった。当面の食糧を確保するためだ。元々、狩猟や戦闘には際立った才覚を見せるメイフゥのことだから、さして時を待たず、しっかりと獲物を獲って帰ってくるだろう。

 育ての親でもある後見人は『あまり気を落とされることのないように』と優しく肩を叩いた後で、湖に釣り糸を垂らしている。どうやら魚の豊富な湖だったようで、あっという間に山のような魚を釣り上げていた。

 そしてインユェは、何をする気にもなれず、薪を拾いに行くと言って森の中に入ったのだ。

 先ほど、あれほどに軽かった足が、嘘のように重たい。考えてみれば、水分だけはきっちりと補給したとはいえ、正しくそれだけのことで、腹の中はすっからかんなのだ。足取りが重たくて、寧ろ当然なのかも知れない。

 姉のことが、ふと頭を過ぎった。あれも一応人間なのだし、かなり衰弱していたのも事実だ。あんな状態で狩りに出るなど、いくら彼女でも無茶だったのではないだろうか。その役は、自分が変わるべきだったのではないか。

 そう考えて、それすらもどうでもいいと思った。とにかく、今は何も考えたくはない。

 足下に転がる枯れ枝を、ぼつぼつと拾う。

 別に、集める必要のない薪だ。水や食糧は尽きていたが、クーアシステムによる駆動系は生きているのだから、水さえあれば、キッチンで料理は出来るし部屋で暖を取ることも出来る。

 要するに、自分は無駄なことをしている。何一つ役に立たないことをしている。

 だからといって、今は他のことを何もしたくなかった。それが甘えだとは分かっていたが、今はあの二人に甘えたかったのだ。

 だって、仕方ないじゃないか。

 あれだけ苦労して、冗談ではなく死にかけながら、ようやく見つけた未登録居住用惑星が、自分のものにならないなんて、絶対に間違えている。

 彼はそう主張したのだが、姉と育ての親の反応は冷ややかだった。

 

『一体どこの馬鹿が、どんな理由で、電波吸収パネルなんてものをばらまいたのかは分からねえ。だがよ、頭がいかれてるかどうかは置いといて、相当な金持ちだってのは間違いねぇ。下手すりゃあ国一つを買い取れるような金を出して、こんな未開発の星を隠したんだからな。頭のぶっ飛んだキチガイの類だ。余程重要な機密がこの星に隠されているなら話は別だが、それにしちゃあ警備が全くされてないのがおかしい。だからよ、本当に信じられねえが、きっとこの星を最初に見つけた馬鹿は、完全に趣味でこの星を隠したとしか思えねえんだよ』

 

 姉はそう断言した。

 趣味で星を丸ごと隠す、そんな、そんな馬鹿な話があるか。

 

『信じる信じねえはお前の自由さ。だがな、どちらにせよこの星が人為的に隠されてたってのは間違いねえし、これを隠した奴は相当な実力者だ。そいつを出し抜いた上でこの星を売ってボロ儲け、ってのは難しいだろうなぁ。だからよ、今回のは命が助かっただけでも良しとしてスッパリ諦めろ。なっ?』

 

 そういって、少し強く肩を叩かれたのだ。

 信じられなかった。

 もしも宝くじが当たって、大喜びで家族に当選を教えて、その後になってから番号間違いを見つけた人間でも、今の自分よりはまだマシな心境に違いない。

 肩すかしにも程がある。

 

「はぁ……」

 

 口を開けば、漏れ出すのは溜息だけだ。

 情け無い。この星を見つけただけで、よく調べもせずに有頂天になってしまった自分が情け無いし、今の腐った自分も情け無い。何より情け無いのは、そんな現状を十分に理解しながら、どうしても頭を切り換えることの出来ないしみったれた今の自分だ。

 何となくくさくさして、足下の小石を思いっきり蹴飛ばした。

 ゴルフボールより一回り小さいくらいのその石は、小気味が良いほど良く飛んで、木の幹に何度かぶつかった後で、茂みの向こうに姿を消した。

 インユェは、その様子が、何故だか楽しかった。だからもう一度その小石を思いっきり蹴ってみようと、茂みの向こうを覗き込んで小石を探していたら、妙なものを見つけた。

 

「なんだ、こりゃ……?」

 

 それは、骨だった。

 小さな骨ではない。大きな、おそらくは獣の骨だ。あたりをよく探してみると、猪らしい生き物の頭蓋骨と、焚き火をした跡があった。

 きっと誰かがここで焚き火を熾し、猪の肉を焼いて食べたのだろう。

 言うまでもなく、火を使って獲物を調理するのは、未知の生命体がこの星に生息している可能性を除けば、人間だけだ。

 そして、この星にいるのは、自分達以外には、あの妙な衝立でこの星を隠した、この星の最初の発見者だけだろう。

 誰か、この星をあんなもの電波吸収パネルで覆い隠すことが出来る――しかもただの趣味で――くらいに金を持った誰かが、友人か、家族かそれとも恋人かと、ここで食事を楽しんだのだろうか。自分達が無限の闇の中で、一片の肉も、水すらもなく、迫り来る死に怯えていたときに、その誰かは、ここで思うさまに腹を満たし、酒を飲み、歌を歌ったのだろうか。

 そう考えると、インユェの心に、黒くもやもやしたものが広がった。それは多分、怒りとか嫉妬とか悲しさとか、そういう負の感情を混ぜ合わせて煮詰めたものに違いなかった。

 つまり、この少年は思ったのだ。このやり場のない怒りは、自分をこのような事態に追い込んだ真犯人を痛めつけることで発散させよう、と。

 胸の中をぐらぐらとした黒い炎で燃やしながら、しゃがみ込んで灰を触ってみる。すると、思ったよりも暖かかった。

 きっと、この薪を起こした野郎は、まだ遠くまで行っていない。

 インユェの端正な頬が、にやりと不吉に歪んだ。そうすると、この少年の顔は、やはり双子の姉とそっくりの、狩りを楽しむ猛獣の顔つきになる。

 静かに辺りを見回し、耳を欹てる。

 聞こえるのは、遠くで鳴く獣の声、そして鳥の声。近くで聞こえる、草の葉の擦れる音、虫の鳴き声。

 しばらく、そのまま動かずに、まるで森と一体化したようにじっと意識を集中する。

 すると、がさりと不自然な音が正面の藪の中から聞こえた。

 

「そこかっ!」

 

 インユェには、それが人間のたてた物音だという確信があった。野生の生き物ならば、このように不用心な個体は直ぐさま他の獣の餌に成り果てるしかないからだ。

 きっと、まさか自分達以外の人間がこの星にいるとは思わずに、驚いて隠れたのだろう。もしかしたらお世辞にも小綺麗とは言えない自分の身形を見て危険を感じ、咄嗟に身を隠したのかも知れない。

 

 ――ならば、期待には応えてやらないといけないな。

 

 どうやって痛めつけてやろうか。どうやって命乞いをさせてやろうか。どうせこちらは失うものは何も無いのだ。折角だから、どうにも胸くその悪いこのもやもやが晴れるまで、散々付き合ってもらおうじゃないか。

 そんなことを考えて、藪の中に分け入っていく。途中、茨のような棘が頬を傷つけたが、ほとんど気にならなかった。

 すぐそこに迫った暴力への期待に身を委ねたインユェは、興奮に頬を赤らめて、鼻息も荒く藪を進んで行く。

 

 そして、太陽の光が、ほとんど姿を隠すほどに深い藪の中で、彼は見つけた。

 

 それは、少女だった。

 黒い、長い髪。陶器のように滑らかで白い肌。山岳民族が好むような粗末な衣服。

 どこをどう見ても、金持ちの娘には見えない。少なくとも、あんな大がかりな仕掛けをしてこの星を隠すような、大馬鹿の金持ちの娘には。

 そんな少女が、まるで茨に守られるようにして、安らかな寝息を立てて眠っていた。

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