懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第二十七話:The Other Day, I Met a Bear

 ウォルの足跡は、意外と早く見つかった。

 淡々と続くその足跡は、山道を登り、川を渡り、木に登り、まるで無邪気な少女の様子を物語るように続いていた。

 いつしか森は開け、地面は土から岩場に代わり、道は険しさを増し。

 最後に、崖があった。

 轟々と、水が岩とぶつかる音が、地の底から響いてくる。

 昼間であっても底を見通すことも出来ないような、深い、深い崖の縁。

 そこで、足跡は途切れていた。

 引き返した跡はおろか、そこを降った跡すらない。

 無論、身を隠せるような草むらも。

 そして、そこに少女の姿がないならば。

 残された選択肢は、一つだけ。

 少女は、そこから身を投げたのだ。自らの意思か、不運な偶然か。

 理由など、分からない。

 もう、誰にも分からない。

 ただ、少女は既にこの世にはいないのだ、と、全てが少年に教えていた。

 涙は、無かった。

 嗚咽も無かった。

 拳を握りしめる、乾いた音だけが、あった。

 

「……行こう、エディ」

「……ああ」

 

 谷底から吹き上げる哀しげな風は、少女の魂を天へと運んだのだろうか。

 

 

「あいつは、昼までには帰るって言ったんだ。そして今、あいつはここにいない。それなのにどうして平然としていられるもんか」

 

 そう言ってリィは小屋を飛びだした。

 昼食の用意を終えていたシェラは、リィを諫めるべきかどうか迷った。

 野山を歩いていれば時間の感覚を忘れることなど珍しいことでもないし、少し遠くに足を伸ばしすぎただけかも知れない。

 もう少しだけ待てば、きっと何事もなかったかのように、あの黒髪の少女はひょっこり顔を出すだろう。

 

『おや、シェラ、もう昼食の準備も終わらしてくれていたのか。これは悪いことをした。さぁ、これ以上料理が冷めないうちに頂こう。おいおい、リィ、きちんと謝っているじゃないか。頼むから機嫌を直してくれ……』

 

 そんな脳天気な台詞が、今にも扉の向こうから聞こえてくる気がする。

 

 ままあることではないか。

 普段慣れ親しまない大自然に興奮した子供が、時間も忘れて野遊びに興じる。

 彼の帰りを待つ両親はたいそう気を揉み、いよいよこれは捜索隊に救援を求めなければいけないという段になって、満足げな顔をした子供がひょこりと帰ってくる。

 両親は精一杯のしかめっ面で子供を叱り、内心で彼の無事を神に感謝するのだ。

 珍しいことではない。よくあることだ。

 しかしそれは、いわゆる一般的な少年少女の場合に限定される話である。

 シェラの知る、ウォル・グリークという男――今は何の因果か少女である――の性分は、その限定枠からは大きく外れる。

 あの『お化け屋敷の大親分』は、これぞ大事と普通の人間なら思うようなことに関しては意外なほど大らかなのに、逆にどうでもいいと思うような些末事ほど気を使っていた。

 山を一人歩きするというのは、危険な行為である。一度方角を見失えばたちまち遭難の危険がでてくるし、出張った木の根や大きな石に躓いて足を捻挫すればその場から動くことだって出来なくなる。

 その程度のこと、リィもウォルも承知の上だ。それでもウォルは自分一人で出かけた。そして、自分が約束した時間に遅れることで、仲間がどれほど心配するかが分からない彼女ではない。

 何かがあった、と考えるのが自然である。

 ならば、どう考えても正しいのはリィだ。

 シェラもリィを追おうとした。

 

「待って。街の中ならいざ知らず、こういう場所なら人捜しはエディの領分だよ」

「ルウ、しかし……」

 

 肩に置かれた手は温かく、自身を見つめる蒼玉の瞳はなお優しかった。

 

「それにね、シェラ。誰かがここで待っていないと、行き違いになったときに面倒なことになるでしょ。万が一、王様が怪我をして半死半生の態でここに辿り着いたなら、それを治療できる誰かも必要だ」

「不吉なことを言わないでください!」

 

 シェラにしてみれば、ルウが言うと冗談には聞こえないのだ。

 ルウはくすりと笑って、

 

「ごめんね。でも、そういう可能性だってないわけじゃない。なら、やっぱり誰かがここで待っていないと」

「……はい」

 

 シェラは、不承不承と頷いた。

 

「それに、二次遭難のこともある。シェラのことを馬鹿にするわけじゃないけど、エディや僕なら、あの程度の山の中なら絶対に迷わない。それだけは絶対だ。どんなに暗くなったって、真っ昼間に一本道を歩いているのと変わらないからね」

 

 山に親しんだ登山家などか聞けば『何を自惚れているんだ馬鹿者!』『山を舐めるな!』とでも雷を落としそうな台詞であったが、シェラは、この青年の言っていることが完全な事実であることを知っていた。リィは人の身でありながら、野生の狼と同等かそれ以上の身体能力と方向感覚を有しているし、ルウはそもそも人間では無い。

 誰にどの役を割り振るのが適当か、神ならぬ人間であっても明らかであろう。

 

「……では、陛下……ウォルが帰ってきたら、狼煙を上げます。原始的ですが、通信機器の働かないこの星ではそれが一番分かりやすいでしょう」

「うん。お願いするね、シェラ」

 

 見る人を安心させる人好きの良い笑顔を浮かべてから、ルウは先行したリィを追いかけて、小屋を飛び出した。

 一人残されたシェラは、最悪の事態に備えて動き出した。

 まずは熱い湯を沸かし、備え付けの医薬品の場所を確かめる。

 その後で、きっとお腹を空かして帰ってくるだろう黒髪の少女のために、冷めても美味しい料理の一つでも拵えておこうか。

 

「それにしても……一人残されるというのがこれほど侘びしいことだとは……」

 

 これが長い間、腕利きの行者として諸国を放浪した自分なのだろうかとシェラは訝しんだ。あの頃は、何時晴れるとも知れない暗闇の中で、心音と吐息を押し殺して一晩を明かすなど、どうとも思わなかったくせに。

 これは、堕落なのか。それとも変化なのか。

 シェラは、自分の問いに対して、気の利いた解答を用意できなかった。

 

 そして、日は沈み、月が昇り、月が沈み、日が昇り、再び沈んだ。

 

 こつり、と、靴底と木の床のぶつかる音がした。

 烟るような月光の中、うとうととしていたシェラは、文字通り跳び跳ねるようにして椅子から体を起こした。

 いつの間に眠っていたのだろうか。

 行者として、過酷な任務についていた頃の自分からは考えられない失態だ。

 舌打ちを何とか堪えたシェラは、急いで扉へと駆け寄った。

 その向こうに誰がいるかなど、考えるまでも無い。

 きっと、彼らが帰ってきたのだ。

 

『すまんすまん、シェラ、遅くなった。遠出をしていたら道に迷ってしまった。いやはや、やはりリィの真似などするものではないな』

『なにがいやはやだ。お前、本当に反省してるのか?シェラだって寝ずにおれ達を待っていてくれたんだぞ。ほら、さっさと謝れ』

『うむ。心配をかけたな、シェラ。今後軽率な行動は慎むから許してくれ』

『ほんと、心配したんだからね、王様。もし今度同じようなことをしたら、すぐにでもエディのお嫁さんになってもらうから覚悟しとくように』

『……すぐに、とはどういう意味だろうか、ラヴィー殿?』

『うんとね、今日から数えて十月十日後には、エディと王様の可愛らしい赤ちゃんが生まれてくるっていうことだよ』

『……それは全力で勘弁願いたいものだな』

 

 そんな、苦笑と安堵に満ちた会話が、すぐ目の前に待っている。

 だから、嘘だ。

 靴の音が、たった一人分しか聞こえないなんて。

 自分は夢を見ているのだ。

 暗い、暗い、絶望に満ちた夢を。

 ぎいぃ、と、錆びた音をたてて、扉が開いた。

 

「ただいま、シェラ」

 

 闇の中に、闇の青年が立ち尽くしていた。

 

「ルウ……」

「ごめんね」

 

 血の気の通わない顔に精一杯の微笑みを浮かべたルウは、そう言った。

 シェラは、ルウが何を言おうとしているのか、分かっていた。

 分かっていて、それでもなお問うた。

 信じられなかったのではない。

 信じたくなかったのだ。

 

「ルウ。二人は……」

「手遅れだった」

 

 何が、と尋ねることが出来れば、どれほどに幸福だっただろう。

 シェラは、頭から全ての血液が降っていく音を聞いた。

 

「そんな……」

「王様は、崖から落ちた。多分、自分の意志で」

「……」

「あの高さじゃあ、十中八九、助からない。それに、下は流れの速い川だった。遺体も見つからないと思う」

 

 その言葉を聞いてシェラが真っ先に感じたのは、疑念ではなく怒りだった。

 自分よりも大切な何かを侮辱された時にだけ感じる、はらわたを焼くような怒りだった。

 

「あの方が、御自ら崖に身を投げたと、そう仰るのですか!?」

 

 一組の掌が、木の机を強かに叩いた。

 頑丈な机が大きく撓むほど、強烈な一撃だった。

 大きな音が、静まりかえった山小屋に響いた。

 シェラは、喘ぐような呼吸を繰り返している。目尻には薄く涙すら浮かべている。

 ルウは、ぽつりと、石をこぼすように呟いた。

 

「……崖の縁に、足跡が一つ。引き返した形跡は勿論、そのまま崖を這い降りた形跡も無かった。僕やエディみたいに空を飛べるならともかく、それが出来ないはずの王様はどうやってその場から姿を消したんだろう。飛び降りた、以外の方法があるなら教えて欲しい」

「だからといってッ!」

 

 ルウは目を伏せたまま、シェラの怒りに身を晒していた。

 きっとこれは、大切な人の死を自分以外に伝える役目を負った者の義務なのだ、と知っていたからだ。

 聡明なシェラが、そのことに気付かぬはずがない。ならば、シェラは全てを承知で故のない怒りをルウにぶつけているのか。それとも、ここまで激した己の感情を制する術を、未だ知らないのか。

 後者だろうかと、ルウは思った。あちらの世界では暗殺者として数多の罪無き人を殺めた経験のあるシェラも、実のところ二十歳程度の若者だ。烈火の如く荒ぶる感情を前に為す術が無かったとして、誰がそれを責めることが出来るだろう。

 シェラは、不安定な語勢で続ける。

 

「あの方が自分から世を儚まれた?敵の手に落ち、虜囚の辱めを受け、獣が如く鎖に繋がれ、それでも全てを諦めなかったあの方が?あげく、度重なる拷問と飢餓に衰弱した体で、しかも素手で飢えた猛獣の前に引き出されたときも、俯くことなく前のみを見据えていたあの方が、自ら死を選んだ?一体何故に!?」

「なら、夜道に足を踏み外したのかも知れない。突然、強い風が吹いたのかもしれない。誰かに突き落とされたことだってあるかも知れない。でもね、シェラ」

 

 ルウは、決定的な一言を口にした。

 

「王様は……ウォルは、もうこの世にはいないんだ」

 

 

 手札の正確さは、この際残酷だった。

 凶暴だったと呼んでもいい。

 束ねられたカードを何度も切り、分厚い束の中から無作為に数枚のカードを抜き取る。

 絵柄は、全てが一緒だった。

 数学的な確率論に置き換えるのも、馬鹿馬鹿しい程の確率だ。

 その全てが、単一の事象を表していた。

 この絵柄だけは、どうやったって読み間違いようがなかった。

 あの日、アマロックを占った手札は、この絵柄だった。だから、どれほど急いだって間に合わないことを、青年は知っていた。

 あの日、キングを占った時も、同じ絵柄だった。そして青年は、彼の人の魂を己の体の内で慰めた。

 ずっと、そうだったのだ。

 大きな鎌を担いだ、死に神の模様。

 それは、幼児とて見間違いようのない、死の具現だった。

 

「……エディ。もう止めよう。これ以上、何度占ったって……」

「もう一度。もう一度だけ頼む、ルーファ」

 

 虚ろな瞳でそう呟いたリィの手には、別れの際にウォルが携えていた、武骨な鉈が握られている。

 崖の下、岩を削るような激流の中で、二人が苦労して見つけたものだった。

 幸運にも、僅かながらに流れが穏やかな場所に転がった大きな岩と小さな岩の間に挟まっていたのだ。

 刃は曲がり、柄の部分は完全に拉げている。

 底を見渡すことすら出来ないような断崖絶壁から落ちて、岩石質の川底に叩き付けられたのだから無理もないだろう。

 それは、鉈を人の体に置き換えても同様の、いや、それ以上に酸鼻を極めた状態になるのは明らかだった。

 肉は潰れ、骨は砕け、血が飛び散る。

 およそ、人の形を残さぬ死。しかし、宇宙船の爆発に巻き込まれたとか、跡形も残さないのとは違う。人が最も目を背けたくなる、死。

 実際に残されていたのは、僅かな血痕だけだった。

 激流が全てを洗い流したのは、寧ろ少女にとっての救いだったのかもしれない。

 しかし、残された人にとってはどうだろう。

 目の前から、愛する人が消えた。

 死体も残さずに、消えた。

 ならば、どうしてその死を信じることが出来るだろうか。

 それが人の弱さで、だからこそ人の最も美しいところだと、ルウは知っていた。

 もう一度、手札を丹念に切った。

 こっそりと一枚の札を抜こうかと思ったが、それでも出てくる結果は同じだろう。絵札の柄が代わり、少し表現が遠回しになるだけだ。

 そのまま、切った。

 そして、数枚の札を抜いて、並べた。

 先頭に来たのは、大鎌を携えた、死に神だった。

 

「エディ……」

「……もう一度。もう一度だけ……」

 

 鉈を握りしめるリィの手から、赤い液体が滴っていた。

 ルウはそれを、まるでリィの痛んだ心が流す、涙のように感じた。

 詰まるところ、自分が流す涙と同義語だ。何故なら目の前の少年は、自分の心の半分を持っている。

 唇の端を噛んだルウは、もう一度、手札を切った。

 そして、カードを並べて、先ほどと同じ落胆を味わった。

 

 今度は、もう一度、と、懇願する声は響かなかった。

 

 ルウは、無力だった。神にも例えられる彼が、自分が如何に無力な存在かを噛み締めていた。

 あの時、自分の数少ない友人にして、魂の相棒たるリィの父親が、無惨に殺された時。

 ルウに出来たのは、怒りと無念に震える幼子の魂がこれ以上汚れることのないよう、抱き締めてやることだけだった。

 余命幾ばくもない母親が、生まれたばかりのジェームスを自分に託した時。

 ルウに出来たのは、哀しい定めを背負った魂が迷うことの無いよう、微笑って見送ることだけだった。

 きっと、今回もそうなのだろう。

 絞り出した声は、酒で灼けたようにしゃがれていた。

 

「……エディ。もう止めよう。シェラだって待ってる。いつまでもここにいるわけには、いかないよ」

 

 それに応えるリィの声は、しかし、はっきりと穏やかなものだった。

 

「ああ、ルーファの言うとおりだな」

「……じゃあ」

「だから、ルーファだけ、先に戻ってくれ」

 

 すくっと立ち上がったリィは、手を庇にしながら、太陽を見上げた。

 

「ルーファなら、今から帰れば、日が暮れる頃にはあの山小屋にたどり着ける。そうすれば、ダンの迎えにもぎりぎり間に合うだろう」

「エディ?」

「おれは、あの馬鹿を連れて帰るってシェラに約束した。だから、きっちりと連れて帰る。例えそれが、どんな姿だったとしても」

「無茶だよエディ!こんな急流に流されたんだよ?見つかりっこない!それに、それに、もしも見つかったって……」

 

 ――それは、もう、王様じゃない。

 

 ――それは、人の形をした、それとも人の形を辞めてしまった、肉の塊だ。

 

 ――それは、誰よりも、君が一番理解しているんじゃないのか。

 

 ――アマロックを目の前で失った、君が。

 

 ルウは、舌の上に乗った言葉を、辛うじて飲み込んだ。

 リィは微笑った。

 相棒が何を言おうとしているのかが、痛いほどに分かったからだ。

 そんなリィを見上げながら、ルウは、

 

「……手札は万能じゃない。手札が間違わなくても、僕がそれを読み間違うことはあり得るんだ。それでも、僕には、王様が生きているとは思えない」

 

 リィは無言で頷いた。

 

「なら、どうして……」

「自分でも馬鹿なことを言ってるって分かってる。だから、ルーファは先に戻ってくれ。シェラも連れて帰って欲しい」

「……エディが帰らないのに、あの子がこの星を離れるはずがないでしょ」

「無理矢理にでも連れて帰ってくれ。あいつ、作品の提出期限だって近いのに、無理して付き合ってくれたんだ。これ以上迷惑をかけるわけには、いかない」

「……なら、エディも一緒に帰るべきだ。ウォルがこんなことになって、その上エディも帰ってこないとなれば、アーサーやマーガレットがどれだけ心配するか。二人だけじゃない。ダンも、キングもジャスミンも、君を知ってる全ての人が心配する。エディ、君は王様の世界に行って、変わった。君はアマロックを失った直後のように、この世界に一人ぼっちじゃあないんだ」

「ああ、知ってる」

 

 座り込んだままのルウが仰ぎ見たリィの顔は、哀しいほどに穏やかな笑顔だった。

 

「だからこそ、だよ、ルーファ。おれ自身、全く実感は無いんだけど。もしも、おれを変えたのがあいつならさ、そのあいつを、冷たい水の中でひとりぼっちにさせておくわけには、いかないじゃあないか」

 

 

 宇宙船《ピグマリオンⅡ》の中は、そのまま服喪の空気に満たされていた。

 船員は皆、ウォルのことを知っていた。

 最初こそ顔立ちの整った少女だな、程度の認識であったが、アクションロッドで叩きのめされ、飲み比べで負けて、賭け事でこてんぱんにされて、その顔は忘れようもないほどに、記憶に焼き付けられた。

 なのに、不思議と憎らしく思えない。

 どうしたって浮かんでくるのは、してやられた自分に対する苦笑いと、少女の微笑みにつられた、軽やかな笑顔だけ。

 まるで、遠い昔に取っ組み合いの喧嘩をした――あるいは共に悪戯を企んだ――悪ガキという名前の親友を思い出したときのように、少女を思い出している。

 思い出せば、必ず笑っていた。

 痛い目にしかあわされたことはないなずなのに、屈託のない、輝くような微笑みに、いつしか心を奪われていたのだ。

 その少女が、あの太陽のような少女が、既にこの世にはいないという。

 誰もが、それを信じなかった。きっと、たちの悪い冗談だろうと。

 しかし、ルウのことを知っている船員は、彼がそういう冗談を、どれほど酒に悪酔いした時だって絶対口にしないと知っていた。

 だから、ウォルという、まるで少年のような名前の少女は、天に召されたのだ。

 別に、悲しむべきことではない。

 宇宙に生きる男達にとっての『死』とは、町内会の当番のようなもの。いずれは自分のところに回ってくるし、どれほど気が進まなくても引き受けざるを得ない。

 あの少女には、それが少し早すぎただけのことだ。

 気の良い船員は、少女の魂の安らかなることを願って、静かに杯を傾けた。

 不謹慎だと眉を顰める者もいるかも知れないが、彼らにとってはこれが死者を悼む最上の礼儀なのだ。誰にも文句を言われる筋合いはない。

 だが、より死者に近しい者達は、杯を傾けて故人を偲べるほど、恵まれた立場にはいなかった。例えばそれは少女の友人であり、あるいは彼女の一時的な保護者を引き受けた大人などである。

 

「一刻も早く、ご両親に知らせるべきだろう」

 

 心持ち青ざめた顔で、ダンは言った。

 船長室にいるのは、《ピグマリオンⅡ》の船長たる彼と、ルウ、そしてシェラだけである。

 この話を聞いて最初こそ激しい動揺と遣り所のない怒りに我を忘れたシェラであったが、今はその反動か、魂が抜けたように穏やかだ。常でさえ白磁のように色の薄い肌は、白さを通り越して薄青くさえあるように見える。

 ルウは、いつも通りの様子だ。それとも、いつも通りを装えていると、そう言う方が適切だろうか。

 そんな二人を前にして、年長者たるダンは淡々とした口調で言った。彼も、仕事柄、こういった事態は初めてではない。

 

「私はヴァレンタイン夫妻には何度かお目にかかったことがあるが、あの方々は養子であっても、いや、だからこそ、自分の子供と変わりない愛情を注げる人達だ。ウォルが死んで、悲しまないはずがない。我々は彼女の死について少なからぬ責任を負わなければならない以上、知らせるのは、早ければ早いほど良いはずだ」

 

 至極もっともな意見だった。

 アーサーとマーガレットの為人を知るルウは、深く頷いた。

 

「僕もそう思う。でも、少しだけ待って」

「どうしてだ」

 

 ダンの短い詰問に、ルウは応えようと口を開いた。

 

「それは――」

「私が、無理を言いました」

 

 ぼそり、とシェラが呟いた。

 

「シェラ、君は――」

「ダン船長。私は、アーサー卿とマーガレット夫人には、言葉で言い表せないほどお世話になりました。君さえ良ければ自分達の子供にならないか、とさえ言ってくれたのです。そして私は、ウォルにも深い恩義があります。私の魂を救ってくれたのはリィですが、それもあの方あってこそなのですから」

 

 だからこそ、ウォルの死は、自分が直接伝えたい、とシェラは言った。

 

 本来ならば、その役目は自分以外の誰かが――輝くような金髪と、緑柱石色の瞳を持つ少年が――引き受けただろう。しかし、リィはシェラを大学惑星に帰して、自分はヴェロニカに残った。

 余人が聞けば、逃避だと、責任逃れだと罵るかも知れないが、シェラは、これがリィなりの筋の通し方だと理解していた。

 リィは、本当にウォルの死体が見つかるまで、それともはっきりとした遺品が見つかるまで、あの星を離れないだろう。それが砂漠の中に落とした指輪を見つけることよりもなお困難だったとして、あの少年はそれを諦めない。例えそれが、何年、何十年という歳月を費やしてなお不可能な絶事であろうとも、だ。

 どことなく、リィには相応しくないような気もした。

 これは、仮初めとはいえ夫婦の契りを結んだ夫への、最後の義理立てなのだろうか。もしくは自分の過ちで死なせてしまった戦友に対する後悔。それとも、彼は本当は、ウォルが死んだことを信じていないのかもしれない。

 全てが間違えている気がした。同時に、全てが正鵠を射ているような気もする。

 シェラは、際限のない懊悩を振り切るように、拳を強く握りしめた。

 

「……とにかく、私は一度大学惑星に戻り、ベルトランに赴き、卿と夫人にウォルの不幸を伝えなければなりません」

「その後は、どうするのかね?」

「そんなことは決まっています、ダン船長。私の居場所は、あの人の隣にしかありませんから」

 

 シェラは薄く笑って、船長室を後にした。

 ダンは、シェラの真っ直ぐに伸びた背中を眺めて、痛ましく思った。こんな時でも背を曲げることすら許さない少年の強さが、かえって憐れを誘ったのだ。

 

「それにしても……」

 

 自分と同い年の少年少女を指して『あの人』『あの方』とは不思議な言い様であるが、彼らに、いわゆる常識というものがどれほど歯が立たないかを知っているダンは、口をつぐんだ。

 辛うじて苦笑と呼べる表情を浮かべたダンは、

 

「ルウ、お前はどうするんだ」

 

 おそらくは、誰よりも罪悪感に押し潰されそうな、黒髪の青年に声をかけた。

 

「あの星に滞在している間は、お前が引率者だったんだ。無論私も含めてだが、事故そのものに関わっていなかったとしても、何らかの責任は負わざるを得ないぞ」

「うん、そうだろうね」

 

 困ったような笑みを浮かべて、ルウは言った。

 

「多分、学校は辞めなくちゃならないし、金銭的な賠償責任だって負わなきゃならないだろうね。当然だよ。でも、そんなことよりも、アーサーやマーガレットに事情を説明する時のことを考えると、何十倍も憂鬱だ。人攫いと罵られるのは構わないけど、あの二人に『人殺し』と、『娘を返せ』と言われたら……きっと、すごく痛いんだろうなぁ」

 

 ダンも、同じことを考えていた。

 突然、無理矢理に大切な人を奪われた遺族が、その事故の責任者に向ける糾弾の視線は、凶器そのものだ。

 怒り狂ってくれるならまだ救われる。一番辛いのは、あらゆる感情を失ったように見える、ガラス玉のような瞳だろう。

 その、ガラス玉のように透明な瞳を向けながら、辛うじて耳に届くくらいの小さな声で、彼らはぼそりと呟くのだ。

 何故、あの人は死んだのか、と。

 何故、あの人は死ななければならなかったのか、と。

 あの視線を向けられて平然としていられるのは、人間の皮を被った悪魔か鬼かに違いないとダンは確信している。

 そして、ほとんど間違いなく、遠からぬ未来の自分は、その視線に晒されるのだ。無論、一切の遮蔽物も無しに。

 ダンは、思わず大きな溜息を吐いていた。考えるだけで憂鬱な、神経に鑢を掛けるような未来図だ。

 これなら安定度80のゲートに船を突っこむ時のほうがいくらか気が楽だと、若干現実逃避的な思考をダンが始めた時、

 

「ごめんね、ダン。僕達に付き合ったせいで、とんでもないことに巻き込んじゃった。どんなふうにお詫びをしても許されることじゃないけど……本当に、ごめんなさい」

 

 黒髪の青年は、深々と、これ以上ないというほどに深く、頭を下げていた。

 それを見たダンは、少しだけ鼻白んだ様子で、

 

「……お前が厄介事を持ってくるのは今に始まったことじゃない。それに、今回に限って言えば、お前が悪いわけじゃない。気にするな」

 

 ダンは、項垂れた様子のルウの肩を一つ叩いて、船長室を後にした。

 一人残されたルウは、常闇に染まった強化アクリルガラスの外を眺めて、この世界のどこかを漂っているであろう、リィの婚約者の魂を想って目を閉じた。

 

 

 大学惑星、ティラ・ボーンは、お祭り騒ぎだった。

 TBO、ティラ・ボーン・オリンピックと呼ばれる一大スポーツイベントが催され、そのおこぼれを与ろうとばかりに、星中のあちこちで大小様々なイベントが開催されている。

 普段は学生やその家族、あるいはこの星で働く教育機関等の職員以外、めったに見ることのない人間達――例えばマスコミ関係者や観光客など――も数多く、あらゆる場所で人の数が倍増している。

 これを見て、血気盛んな若者達が喜ばないはずがない。浮き足立つ街の空気に誘われるようにして、気の合う同性の仲間を、あるいは気になる異性の友達を連れ出し、学舎の外に繰り出すのだ。

 そして、普段は厳格な学校側も、こんな時ばかりは多少のはめを外すくらいは大目に見る。地中から吹き出すマグマのような活力とエネルギーを閉じ込めることが、如何に困難で如何に危険なことか、老獪な彼らは知り尽くしていた。

 無論、はめを外しすぎた者達には、放校処分も含めたところで、厳しい罰が待っている。学生達もそれを弁えているから、傷害事件や薬物事件など、深刻な非行行為はここ十年発生したことはなかった。

 しかし、そういうふうに浮かれ騒ぐことができるのは、あくまで外から祭りを見学出来る、ある種の幸せ者だけである。

 祭りを企画する者や運営する者、あるいは監督する者達は、喧噪の中に飛び込んでパレードに興じる余裕などは無い。各所で発生する小火を、小火騒ぎのうちに消し止めるために躍起である。

 ティラ・ボーンという星が『連邦大学』という異名を持つとおり、この星で最も多くの割合を占める人間は、学生達である。従って、TBOの運営自体も学生の主導によるところが大きい。予算の決定や警備など、極めて重要な一部を除けばその運営は学生に任されていると言っても過言ではない。そんなところに、他の惑星のオリンピックとは違う点を見い出すことが出来る。

 運営に携わる各種委員会に所属する学生達は、お祭り騒ぎを羨む暇もなく東奔西走しているわけだが、それ以外にも、この祭りを楽しむどころではない心持ちの者もいる。

 他でもない、TBOの出場選手だ。

 それも当然だろう。何せ、これは普通のスポーツ大会とはわけが違う。種目と階級によっては、下手なプロスポーツ中継などよりも、遙かに注目度の高い試合もあるのだ。

 例えば、サッカーやベースボール、アクションロッドやモータースポーツなどは特に人気が高く、そのトップレベルの選手の中には、いまだ学生でありながらスポンサーとプロ契約を結んでいる選手も少なくない。

 逆に、そんな一握りのエリート選手と同じ舞台に立ちながら、しかし彼らより低い評価に甘んじているような選手にとって、TBOは自分の力を世に示す絶好の機会といえるから、鼻息を荒くする選手が増えるのも当然である。

 連邦大学中等部、ウェルナール校に所属するジェームス・マクスウェルなども、そんな選手の一人であった。彼は数ある競技の中でも最も層の厚い競技の一つであるアクションロッドの中等部門で、見事ウェルナール校、アイクライン校等を含んだ学区の代表の座を勝ち得たのである。

 もっとも、彼は将来的にアクションロッドの世界で食べていくつもりは毛頭無い。彼は、尊敬する父親と一緒に、船乗りとして宇宙を駆けてみたいと思っているのだから。

 ではそんな彼が何故アクションロッドの練習に血道を上げたかといえば、その理由は一つではない。

 

 将来船乗りとして宇宙に出たときに護身術として役立つから、という理由。

 

 一刻も早く強い男になって、母親をあの男(実は扮装したジャスミンであったわけだが)から取り戻したい、という理由。

 

 しかし一番大きかった理由は、少し前にジェームスを襲ったとある事件だろう。

 その事件の中で、ジェームスはトリジウム密輸組織のアジトに潜入し、武装した兵士と戦わざるを得なくなった。

 当然、ただの中学生であるジェームスに為す術などあるはずもない。飛び交う銃弾の中で震え居竦むしか出来なかった彼が生き残ることが出来たのは、ヴィッキー・ヴァレンタインという、彼の友人の活躍があったからである。

 そして、そのヴィッキー・ヴァレンタインは、騒動の中でいくつもの怪我を負った。ジェームスが見れば、どうして命があるのか不思議に思える程の重傷もあった。

 ジェームスは、そのほとんどが、自分を庇って負った傷だということを承知している。そして、自分がヴィッキー・ヴァレンタインという少年に対して、到底返し得ない程の借りを作ってしまったことも。

 その時、彼は、偉大なる父に向かって、誓約したのだ。

 いつか、自分はヴィッキーの力になる、と。

 命を賭けて、受けた恩を返す、と。

 

 ――いつの日か、あの少年が困っているときに、手を差し伸べられる自分でありたい。

 

 だからこそ、ジェームスは真剣にアクションロッドの練習に取り組み、晴れて学区代表という栄誉を勝ち取ったのだ。

 だが、それは栄誉であると同時に、学校の代表として無様な姿は見せられないという、強烈なプレッシャーにもなる。

 プレッシャーに押し潰されて試合を始める前に己に負けるか、それともバネとして奮起し試合に備えるか。勝負は試合の前に始まっている。

 ジェームスは、翌日に試合を控えたその日、試合会場のある大陸から飛行機とバスを乗り継ぎ、自分の住処であるフォンダム寮に帰ってきた。

 何がしたかったわけではない。ただ、ヴィッキー・ヴァレンタインに、リィに会いたくなったのだ。

 彼ならば、今の自分を見て、何と言うだろうか。

 たかが試合に緊張する自分を見て、鼻で笑うかも知れない。それとも激励の言葉をくれるだろうか。実のところ自分の試合などにはあまり興味を持っていないかも知れない。それも十分にあり得る。

 どれでもよかった。どれでも、リィに会わずに明日の試合に挑むより、素晴らしい結果が得られる気がした。

 だからこそ、わざわざ試合の前日に遠く寮まで足を運んだというのに、リィは不在であった。

 二、三日前から休暇を取り、どこかの惑星でキャンプをしているらしい。

 

「それで、いつ戻ってくるんですか?」

「事前の休暇申請の予定なら昨日か今日辺り帰ってくるはずなんだけど……まだ寮には帰ってないみたいねぇ」

 

 学生課の女性職員は、メガネをずらしながら寮の退出記録を見て、そして言った。

 

「一緒に行ってるフィナ・ヴァレンタインも、シェラ・ファロットも帰ってきてないみたいだし……休暇の延長をするなら早く手続してもらわないと困るんだけどねぇ……」

「そうですか……ありがとうございました」

 

 ジェームスは、がっくりと肩を落とした。

 苛立ち紛れに、飲みかけのパックジュースを一息で飲み干す。

 そして、なおもぶつぶつと続ける職員に礼を言って、事務室を立ち去ろうとすると――

 

 開いた扉の向こうに、黒い壁が出来ていた。

 

 ――あれ。こんなところに壁があったら、出入りが出来ないじゃないか。

 

 そう思ったジェームスだったが、直後に気がついた。

 

 ――あれ。俺は確か、この扉から入ってきたはずなのに。

 

 事実関係の不整合に一瞬茫然とした直後である。

 その壁が、どこかのんびりとした声で、人の言葉をしゃべった。

 

「――あのう、すみません、学生課ってここでいいんでしょうか」

 

 ジェームスは、ぎょっとして、思わず後退った。

 そして、その物体の全体像を視界に収め、やっとのことで理解した。

 壁だと思ったのは、黒いスーツだった。正確に言うなら、黒いスーツを纏った、とてつもなく巨大な人間だった。

 ジェームスが思わず天を見上げると、そこには扉を窮屈そうに潜った、厳めしい大男がいた。

 大きい。尋常ではなく大きい。

 ジェームスの父親、ダン・マクスウェルは、常人と比べれば相当に立派な体格を有している。それに、父の知人には、天を突くほどに大きな人もいる。

 その彼らと比べても、目の前にいる男は、遙かに大きかった。それは縦にも、そして横にもだ。

 のっぽ、という印象はない。背が高い、という印象もない。無論、肥満という印象もない。

 ただ、巨大なのだ。ラグビーやアメリカンフットボールの前衛選手をそのまま拡大印刷したかのように、大きく、幅広く、そして分厚い。

 加えて、その巨大な体の上に乗っかっている顔も、尋常では無かった。

 感情を感じさせない、まるで鑿で切り込みを入れたように細い目と、その奥の小さな瞳。彫りは深い造りなのに、目も鼻も口も、顔のパーツ全てが小さい。

 四角くエラの張った輪郭はコンクリートブロックのようで、その周囲を短く刈り込まれた蜂蜜色の髪が覆っている。頬はそげ落ち、無駄な肉の少なさは病的ですらあった。

 異相であった。凶相と言ってもいい。

 果たしてこれは人間かと、ジェームスは思った。熊か象の化け物だと言われた方が、しっくりくる。

 その思いは事務所にいた全ての人間が共有したものだったのだろう、先ほどまで忙しく手を動かし声を飛ばしていた職員の全てが、時間が止まったかのように動かない。存在を忘れられた電話が、空しく呼び出し音を鳴り響かせている。

 事態の原因が自分にあることを承知しているのだろう、男はのんびりと辺りを見回し、申し訳無さそうに腰を屈めて、そして言った。

 

「あの、ほんとにすみません。……ここ、学生課じゃなかったでしょうか?」

 

 何とも心細そうなその声をきっかけに、止まっていた時間は動き出した。

 先ほどジェームスの対応に出た女性職員が、ずれたメガネを掛け直し、応対のために窓口に出る。

 

「あ、あの、どういったご用件でしょうか!?」

 

 声が若干裏返っていたのは隠しようもなかったが、しかし彼女の応対は賞賛すべきものだった。悲鳴を上げなかっただけでも大したものだ。

 しかし、彼女の手はテーブルの下に設えられた非常警報ボタンに、しっかりと添えられていた。いつこの大男が逆上して暴れ出しても、即座に警備員に知らせられるようにするためだ。無論、駆けつけた警備員がこの大男を取り押さえることが出来るかどうかは、全くの別問題である。

 全職員の視線が集中する中、事務室の出来るだけ端っこのほうを歩いた大男は、窓口に立つ女性職員を前にして、やはり申し訳無さそうに腰を屈め、片方の手で頭を掻き、もう片方の手を懐に入れた。

 部屋全体に、緊張が走った。

 女性職員は、汗ばんだ指先で、非常警報ボタンを半ば押しかけた。

 

「えっと、私はこういう者なんですが……」

 

 懐から取り出されたのは、男の掌からすればあまりに小さな、一枚のカードだった。

 男の公的な身分を証明する、身分証であった。

 だが、そのカードの効果は十全に発揮されたとは言い難い。

 何せ、内容を確かめる前に、緊張の極みに達した女性職員が泡を吹いて卒倒してしまったのだから。

 

「ああっ!?大丈夫ですか!?」

 

 くらりと崩れる女性の体を咄嗟に支えた大男は、大いに慌てた声でそう言った。

 彼にしてみれば、それは女性を助けるための行為で、それ以外の何物でもない。

 だから、彼にとって不運だったのは、彼の紳士的な行為が第三者の視点から見れば、突如現れた凶悪な暴漢が憐れな女性に襲いかかり、気絶させたようにしか見えなかったことだ。

 

「貴様、何をするっ!離れろ!」

 

 義憤と正義感に駆られた男性職員が、大男に飛びかかった。

 おそらく何らかの護身術の心得があったのだろう、体格のいい男性職員(無論、大男と比べれば大人と子供程度にしか見えない)は大男に向かって体当たりをかまし、パンチやキックを次々と放つ。

 しかし大男は、そもそも自分がそんな攻撃に晒されていることに気がついていないようで、慌てた様子で気を失った女性職員を抱え上げ、手近にあるソファに運ぼうとする。

 当然、この紳士的な行為も、第三者から見れば、憐れな女性職員が凶悪な暴漢に誘拐されそうになっているふうにしか見えない。

 ついに、誰かが非常警報ボタンを鳴らした。大きな警報音が鳴り響く。

 時を置かずに警備員が駆けつけ、何があったのか、近くにいる職員に詰問する。

 

「あ、あの大男が突然ケイシーを襲って!は、早く捕まえてください!」

 

 金切り声と怒号が錯綜する。

 正しく修羅場であった。

 ジェームスは、半ば惚けたような様子で、その光景を眺めていた。

 一体何が起こっているのか、分からなかった。

 

「君!君は離れていなさい!」

「すぐに部屋から出て!」

 

 ジェームスは、警備員に押し退けられるようにして、部屋の隅の方に追いやられた。

 

「さぁ、観念しろ!」

「大人しくしろ、化け物め!」

 

 警備員が、金属製の警棒を振り回す。

 それが男の腕やら腰やらにぶつかって、寒気のするような音が辺りに響く。

 

「あの、違うんです!俺、何もしてないです!それよりも、早くこの人を医務室に……!」

 

 悲鳴のような声が聞こえるが、誰も耳を貸さない。

 大男は、倒れた女性職員をかばうように、その上に覆い被さっていた。

 警備員はその上から、警棒や靴底で、容赦なく大男を痛めつけていた。

 事態を遠巻きに眺めていたジェームスは、流石に何が起きているか、気がついた。

 大男は何も悪いことはしていない。ただ、あまりにも全てのタイミングが悪すぎただけなのだ、と。

 助けなければ、と、ジェームスは思った。

 

「やめろよ!その人、何も悪いことしてないだろ!」

 

 人垣に向かって、精一杯の大声で叫んだ。

 しかし、怒号が飛び交いけたたましく警報の鳴る中で、少年の声は誰の耳にも届かなかった。

 ジェームスは、叫んだ。

 何度も叫んだ。

 業を煮やして人垣の中に突っこんだりもしたが、容赦なく弾き出されるだけだった。

 その間も、大男に対する暴行は続いていた。亀の姿勢に丸まった大男の後頭部や背中に向かって、警棒や靴の踵が容赦なく振り下ろされている。

 

 ――このままじゃあ、あの人は殺されてしまう。

 

 ジェームスは、ほとんど泣き出しそうになった。

 

 ――誰か、誰か、いないのか。

 

 縋るように、辺りを見回す。きっと、金色の、柔らかにウェーブのかかった髪の毛で飾られた頭を、探していた。

 

 ――誰か、誰か。

 

 ――父さん、ルウ、ヴィッキー、誰でも良い。誰か――

 

「一体、これはどうしたんですか、ジェームス!?」

 

 柔らかな、聞く者の耳に心地良い、声。

 ジェームスは、それが誰の声が、知っていた。

 振り返ると、そこには、色素の薄い銀色の髪をした少年がいた。

 

「シェラ!」

 

 目を丸くした美貌の少年は、手近にいた知り合い――ジェームスに、事態の説明を求めた。

 

「この騒ぎは一体……?」

「助けて!あの人、何も悪いことをしてないのに、このままじゃあ殺されちゃう!」

 

 何とも要領を得ない説明だったが、恐慌を来していたジェームスにそれ以上を求めるのは酷というものだろう。

 シェラは咄嗟に、己のなすべきことを悟った。とにかく、この混乱を収拾することが第一のようだ。

 

「失礼」

 

 シェラは、ジェームスの手から、空になったジュースパックを奪い取り、刺さったままのストローから、思い切り息を吹き込んだ。

 ぱんぱんに膨らんだそれを地面に落として、

 

「ジェームス、耳を塞いでください」

 

 ほとんど時間的な余裕はなかったが、ジェームスは素直に従った。

 しろ、と言われれば素直に従う。それが非常時であれば尚更だ。

 一連の事件で、ジェームスは確かに成長していた。

 そんな彼をきちんと確認したかどうか。シェラは、地面に落ちた紙パックを一息で踏みつぶした。

 刹那、耳を劈くような破裂音が、事務室に響いた。

 

「何だッ!?銃撃か!?」

「爆発物か!?」

 

 そんな声に、事務室中の人間が頭を床に伏せた。

 そして、警備員が一斉に、銃を構えながら振り向くと、

 

「――どうも、こんにちは。一体何があったんですか?皆さんでこんなに大騒ぎして」

 

 にこやかな、天使か女神と見紛うほどに美しい子供が、両手をばんざいさせた体勢で立っていた。

 呆気にとられたのは警備員だけではない。その場にいた全員が一様にシェラのほうを見つめ、大きく口を開けていた。

 

 

「おお、痛てて……」

 

 顔中に小さな青あざを作った大男――ヴォルフガング・イェーガー少尉が軽く呻いた。

 場所は医務室である。しかし、気絶した女性職員が運ばれたのとは別の、少し離れた別校舎の医務室だ。

 それは、ヴォルフが女性職員に危害を加えることを恐れての措置ではない。ただ、ようやく目を覚ました女性職員が再び気を失うことを防ぐための、やむを得ざる措置である。

 

「災難でしたね」

「ああ、全くだ。これだから、今まで一度も行ったことの無い場所に、一人で行くのは嫌なんだ」

 

 苦笑いを浮かべたシェラから冷たいおしぼりを受け取ったヴォルフは、所々に血が滲んだ大きな顔を、一息で拭い取った。

 

 あれから、事務室は更に大騒ぎだった。

 ヴォルフの無実を主張するジェームズと、女性職員が被害を受けたと主張する事務員達。

 事態を重く見た学校側は事務室に備え付けられた防犯ビデオを確認したが、どう見ても正しいのはジェームスの主張であった。大男――ヴォルフは女性職員が倒れるまで、指一本たりとて彼女に触れることはなかったのだ。

 加えて、ヴォルフの公的な身分が共和宇宙軍に所属する軍属であることが分かり、混乱に拍車をかけた。民間人を傷つけることを恐れて無抵抗に徹した軍人を、事実関係を碌に確認することなく、警備員と職員とでよってたかって私刑したのだ。

 日々刺激的な事件のスクープに飢えるマスコミなどが嗅ぎ付ければ、狂喜乱舞しそうな事件である。そうすれば、世間の非難は当然学校側の対応に集中するだろう。

 これは、事態が表沙汰になれば学長クラスの責任にまで発展しうる、大問題であった。

 現場責任者たる事務局長は、顔を青くして大汗を掻きながら、平身低頭の態でヴォルフに謝罪した。そして、お互いに公的な身分を持つ者同士なのだから、どうか内々にことを収めて欲しい旨を、あの手この手で諭したのだ。

 ヴォルフにとっても、これ以上身辺が騒がしくなるのは望まざるところだったので、適当なところで矛先は収めた。ただ、今後のことも考えて防犯ビデオのコピーは確保し、さらに思いっきり貸しを作るかたちではあったが。

 そのささやかなる対価として、今後の学内での自由行動を約束されたヴォルフは、満足げな吐息を吐き出してもう一度顔を拭った。彼は面倒な手続は大嫌いだったので、今後の任務において自由に校内に出入り出来るのは有難かったのだ。

 ごしごしと顔を拭うと、ほとんどの汚れは綺麗に落ちていた。

 こうしてみると、あれだけの暴行を加えられた割に、驚くほどに怪我が少ない。

 シェラは、やはり苦笑いしながら言った。

 

「やはり、あなたはお丈夫なんですね」

 

 これにはヴォルフも苦笑いである。

 

「生憎、それだけが取り柄でここまで生き残ってこれたようなもんだ。あの程度の攻撃で根を上げてたら、俺は今までに十回は死んでるよ」

 

 楽しげに会話する二人を、ジェームスは呆気にとられながら眺めていた。

 シェラやリィが、所謂普通の中学生とは何か違う、何かを隠していることは、ジェームスも薄々気がついている。

 しかし、シェラは、この大男と一体どこで知り合ったのだろうか。

 様々な想像を巡らせてみるが、しっくり来るものは一つとしてなかった。

 例えばこの大男が軍の秘密工作員で、リィ達がその警護対象とかならば……などとも考えたが、それはいくらなんでもスパイ映画の見過ぎというものだと、内心で自分の妄想をせせら笑った。

 実のところその妄想は、完璧な事実とはではいえなくとも、ニアミス程度はしていたのだ。だが、シェラもヴォルフもジェームスに事実を伝えるつもりはなかったから、妄想はあくまで妄想として片付けられ、ついにジェームスが事実を知ることはなかった。

 

「それより……えーっと、君の名前は何て言ったっけか」

 

 話題が突然自分に向けられて、ジェームスはどきりとした。

 ヴォルフは寝台に腰掛け、ジェームスは立ったままの姿勢だったのだが、それでもヴォルフの視線のほうがやや高い。

 気後れしたジェームスだったが、しかし胸を張って言った。

 

「ジェームス。ジェームス・マクスウェルです」

「ジェームス、ならジェムか。ありがとうな、ジェム」

 

 ジェームスは、この大男がにこりと笑うのを初めて見て、驚いた。

 普段は凶悪犯顔負けに人相の悪い男だが、一度笑うと何とも言えない愛嬌がある。例えば熊やらライオンやらの猛獣が笑うことがあれば、こんな表情をするのではないかという、無邪気な様子だ。

 思わずつられて笑いそうになったジェームスだが、あえてしかめ面を作って、言った。

 

「あの、ジェムっていう呼び方、止めてくれませんか」

「んっ、どうしてだ?」

「子供っぽくて嫌なんです、そう呼ばれるの」

 

 その言葉を聞いたヴォルフは、傍目から見れば気の毒そうなくらいに傷ついた顔をして、

 

「そうか。いや、悪いなぁジェームス。俺、そういうところに気が回らなくて、いつも怒られるんだよぅ。許してくれなぁ」

 

 そして、深々と頭を下げた。

 慌ててしまったのはジェームスである。

 彼はあくまで普通の中学生なのだから、こんなふうに真正面から大人に頭を下げられることなど今までになかったのだし、名前に対する拘りだって別にそれほど重要なものではない。言ってしまえば、ただの意地である。

 だから思わずジェームスは謝罪の言葉を口にしそうになったが、そこは思春期の少年特有の頑固さ、あるいは羞恥心があって、思わずそっぽを向いて膨れた振りをしてしまった。

 

「いいよ、別に。でも、これからは気を付けてよね」

「ああ、すまんな、ジェームス。それと、改めてありがとう。お前が俺を助けようとしてくれなきゃ、俺、ひょっとしたらあそこで死んでたかも知れん。本当にありがとう」

 

 そう言ってヴォルフは、ジェームスの両手を握った。

 ジェームスはどぎまぎしながら、

 

「そんな、お礼を言われるようなことはしてないって。騒ぎを収めたのだってシェラだし……」

 

 その言葉に、シェラは優しく微笑みながら、首を横に振った。

 

「そんなことはありませんよ、ジェームス。あなたが私に為すべきことを伝えてくれたからこそ、私も事態を収拾するために一役買うことが出来たのです。一番頑張ったのはあなたです」

 

 ジェームスは、惑星ヴェロニカでの事件でリィが入院した折に、シェラから厳しく叱責された。そのことから、彼にはほんの少しだけ苦手意識を持っていたのだが、だからこそ正面から彼に褒められると、背中のあたりがむずむずしてしまった。

 

「あ、あの、俺、これから用事があるから……」

 

 顔が赤くなっていることを自覚したジェームスは、逃げるようにして医務室から飛び出した。

 思い出したかのように、シェラが叫んだ。

 

「あ、そうだ、ジェームス!」

 

 部屋から出たばかりのジェームスは、廊下から顔だけを出す格好で、

 

「何だよ、シェラ」

「ヴィッキーからの伝言です」

「……あいつ、何て言ってた?」

 

 ジェームスは、ごくりと唾を飲み込んだ。

 そんな彼に、シェラは不敵な笑みを向けながら、こう言った。

 

「絶対に負けるなよ、と」

 

 その言葉を聞いたジェームスは、恥ずかしさ以外の感情で顔を真っ赤にして、

 

「――もちろんさっ!」

 

 思いっきり廊下を駆けていく音が、少しずつ小さくなって、やがて消えた。

 ヴォルフが、ぼつりと呟いた。

 

「いい子だな」

「ええ、本当に」

 

 そう呟くシェラの横顔は、ジェームスと同学年の少年のものとは到底思えない。

 ヴォルフは、彼らの事情を一から十まで聞いたわけではない。聞いたわけではないが、しかしこの恐るべき美貌を誇る少年が、見た目通りの存在ではないことを知っていた。

 

「それにしても無茶をしたな、シェラ」

 

 そんな事情の全てを飲み込んで、面白そうにヴォルフは言った。

 シェラは小首を傾げて、

 

「何がですか、ヴォルフ?」

「いや、あのとき、紙パックを踏みつぶしたことさ。あんなことしたら、警告無しで発砲されても文句は言えねえぞ」

 

 それを聞いたシェラも、面白そうに答えた。

 

「ご忠告痛み入りますが、あの方々の銃に狙撃されるほど、私の腕を錆び付かせた覚えもありませんので」

「警備員程度の銃なら、警戒するにも値しないと?」

 

 シェラは、軽く肩を竦めることでそれに答えた。

 そして言った。

 

「それを言うならヴォルフ。あなただって、もう少しやりようがあったのでは?あの人数であれば、好きなように制圧できたでしょうに」

 

 痛いところを突かれたヴォルフは、明後日の方向を見遣りながら、顎の無精髭をさすって、

 

「……お袋がよう、あんたは体が大きい、だから絶対に人に手をあげたらいけないってしつこく言うからさぁ」

 

 予想外の返答に、シェラはその大きな瞳を一層大きくして、それからくすくすと笑い始めた。

 ヴォルフは生来冗談が下手なたちであったので、こういう時にはほとんど事実を正直に答えることにしている。今回のそれも全くの事実であるから、笑われても仕方ないと思っていた。

 

「ふふ、し、失礼しました、ヴォルフ」

「いや、別にいいんだがな……なぁ、ところでシェラよ」

 

 むっつりとした様子で、ヴォルフは続ける。

 

「どうしましたか?」

「一つ聞きたいことがあってな。それを聞くためにわざわざこんなところまで足を運んだんだが……ウォル……あっと、ここではフィナ・ヴァレンタインで通してるんだっけか。ま、いいや。とにかく、あいつは今どこにいる?」

 

 シェラは、ぴたりと笑いを収めた。

 

 ――そうだ、この人は、陛下の、ウォルの特殊警護官の任務に就いているのだった。

 

 ならば事実を伝える義務がある、とシェラは思った。考えてみれば、ウォルがこの世界に来て、最初に深く関わった人間がヴォルフなのだ。少なくとも、彼には事実を知る権利があるはずだ。

 シェラは、居住まいを正し、自分を頭上から眺める視線に相対した。

 ヴォルフは、シェラの顔が青ざめたのを不審に思いながらも、彼が一体何を言っても狼狽することのないよう、心構えをした。

 

「……ヴォルフ」

「どうしたんだ、シェラ、改まった様子で」

 

 固い、そして擦れた声で、シェラは言った。

 

「陛下は……ウォルは、お亡くなりになりました」

 

 決定的な一言だ。

 シェラは、自分で言っておいて、果たしてこれは現実なのかと疑った。

 あの方が、デルフィニアの太陽が、死んだ。しかも、こんなにも呆気なく、誰に顧みられることもなく。

 あってはならないことだった。そんな死に方、あの人に、少しも相応しく無い。

 固く握られた拳は、血の気を失って真っ白になっていた。

 そんなシェラを見て、しかしヴォルフは、眉間に深い皺を寄せた顔で尋ねた。

 

「……すまん、シェラ。上手く理解できなかったんだが、もう少し分かりやすく説明してくれるか?」

「何度でも言います。ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンは……それともウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタインは、死にました。崖から落ちて、その下にあった急流に飲み込まれて。まだ、御遺体も回収できていません」

 

 その言葉を聞いたヴォルフは、一層難しい顔をした。

 この、普段は脳天気な大男には些か相応しく無い、不審と疑念を体現したような表情で。

 しばらく唸り声を上げて首を傾げ、そして言った。

 

「……シェラよぅ。それは何かの冗談かい?」

「……はっ?」

 

 今度は、シェラのほうが、はっきりと不審の表情を露わにした。

 

「……私は、こんな悪質な冗談を真顔で言えるほど、器用な人間ではありません」

 

 聞く人が聞けば『どの顔でそんなことを言えるのか!』と叫びそうな台詞ではあるが、少なくともシェラの本心であった。

  

「信じたくない気持は分かります。私だって、あの方が身罷られたなど、信じたくない。いや、到底信じることが出来ない。しかし――」

「いやさ、信じるも何も、あいつ現に(・・) ――」

 

 ヴォルフは、何かを言いかけて、慌てて口をつぐんだ。

 その瞬間、ぴたりと、医務室の中の時間が止まった。

 シェラは、ゆっくりとウォルの方を見た。

 ヴォルフは、既に表情を消していた。しかし、ヴォルフの小さな目が僅かに泳いだのを、シェラは見逃さなかった。

 

 ――今、この男はなんと言った?

 

『いやさ、信じるも何も、あいつ現に(・・) ――』

 

 ――現に。

 

 ――その後に、何が続く。

 

 ――現に。

 

 ――現に。

 

 ――現に、ウォルは。

 

 ――生きているじゃあないか(・・・・・・・・・・・・)――

 

「ヴォルフ、あなたは何を知って――!」

 

 刹那、言いかけたシェラを置いて、ヴォルフの巨体が医務室のドアに向かって駆けだしていた。

 シェラは、ヴォルフが全力で走るのを初めて見たのだが、それは彼の巨体には相応しく無い、シェラが瞠目するほどに敏捷な動きだった。

 

 ――出遅れた!

 

 まともに走れば、ヴォルフがシェラに勝てる道理はない。

 しかし、一瞬の心的動揺を覚えたシェラの四肢は、持ち主の意志に反して鈍重にしか動かない。

 シェラは、はっきりと舌打ちをした。こちらの世界の平穏な生活はここまで自分を錆び付かせたのかと、恥じ入る想いだった。

 それでも、ヴォルフを逃がすわけにはいかない。もしかしたら、あの男は、ウォルに関する情報を持っているのかも知れないからだ。

 

「くそっ、待て!」

 

 我ながら間抜けなことを言っていると思いつつ、ようやくシェラは走り始めた。

 

 ――きっとヴォルフは、車を使ってアイクライン校まで来ているはずだ。

 ――馬であるならまだしも、自動車で逃げられては追いつけるはずがない。

 ――ならば、廊下を出て、校舎の玄関に辿り着くまでが勝負か。

 

 急激に思考を回転させながら、廊下を飛び出る。

 すると――

 

「……えっ!?」

 

 シェラは思わず驚きの声を上げていた。

 何故なら、廊下を出てすぐ、一歩か二歩程度を進んだところで、ヴォルフの巨大な背中が静止していたからだ。

 一体何があったのか、と、訝しんだのは一瞬である。

 事態は、すぐに判明した。

 

「逃げたら、殺すよ」

 

 穏やかな、優しささえ感じさせる声が、究極の害意を伝えていた。

 

「反抗したら、殺す。逃げる素振りを見せても、殺す。僕はあなたが好きだけど、それでも殺す。僕にそれが簡単に出来ることくらい、あなたなら分かってくれるよね」

 

 ヴォルフは、ぴくりとも動かない。

 いや、動けない。

 何故なら、ヴォルフの前に立っているのは、人の形をした悪魔そのものだったからだ。

 

「さぁ、部屋に戻るんだ。あなたには、聞きたいことが山ほどある」

 

 ヴォルフは、大人しくその言葉に従った。

 そして、その大きな背中に隠れていた人物を、シェラの視界が捕らえた。

 

「ルウ!」

「うん、一日ぶりだね、シェラ」

 

 それは、昨日ティラ・ボーンに到着した直後に別れた、フサノスク大学工学部所属の大学生、ルーファス・ラヴィーその人だった。

 

 

「ほんと、シェラがここにいてくれて良かった。僕、拷問とか、あまり得意じゃないんだ。力が強すぎるから、すぐに殺しちゃうんだよね。その点、元ファロット一族のシェラは、そういうの得意でしょ?」

 

 そう言って、ルウは微笑った。

 

「ええ、そういうことは私に任せてください。生かしたまま四肢を切り落とす、頼むから殺してくれと泣き叫ばせる、意志のない人形にしてから洗いざらい吐かせる、何でも得意ですよ」

 

 そう言って、シェラも微笑った。

 

「ああ、もう、わかった!何でもしゃべるから、真顔でおっそろしいことを言うんじゃねえ!」

 

 ヴォルフは両手を挙げて、『まいった』の姿勢のまま、叫んだ。

 それでもヴォルフは丹念に縛りあげられ、まるで罠にかかった猪のような有様で、目を血走らせた二人の前に座らされた。

 生きた心地がしないな、とヴォルフは思った。

 

「……で?一体何が聞きたいんだ?」

「じゃあ、ヴォルフ、あなたはさっき、何て言いかけたの?」

 

 尋問役はルウのようだ。

 当然、何か怪しい動きをしたり、嘘を吐いていると判断すれば、シェラに指令が下る。その場合、この世に生まれたことを後悔するような痛みが被尋問者を襲うのだろう。

 そのことが分かっているから、被尋問者であるヴォルフは全ての質問に正直に答えるつもりだった。意地や命はもっと価値のある場面で賭けるべきであり、こんな人外生物を前にして後生大事にするものではないと、彼は確信していた。

 

「だいたい予想はついてるんだろ?現にあいつは生きている、そう言おうとしたんだよ」

 

 ふてくされた様子でヴォルフは言った。

 正直に話さなければいけないのが悔しいというよりも、縄でぐるぐる巻きにされた今の自分の格好が情けないので、それが気に入らないらしい。

 しかし、ルウやシェラにとって、そんなことは全くどうでもいいことだったから、尋問はそのまま続いた。

 

「じゃあ、次の質問だ。あなたは何故、そのことを知ってるのかな?」

「……わかったよ、教える。だから、この縄を解いてくれ。……ったく、そんな顔するんじゃねえ。今更逃げたりしねえよぅ」

 

 唇を尖らせながら、伝法な口調でヴォルフが言った。

 どうもこの男は、興奮するとこういう口調になるらしい。

 シェラはルウの方に目配せしたが、ルウが頷いたので、ヴォルフを縛る縄を解いてやった。

 ヴォルフは、両腕が自由になると、スーツの内ポケットから、小型の通信機のようなものを取り出し、二人の前に置いた。

 

「……これ、何?」

「要人警護用小型チップの受信端末だ」

 

 ヴォルフは再び機械を手に取り、スイッチを入れた。

 

「ほら、見てみな」

 

 ルウとシェラが、顔を寄せ合うようにして画面を覗き込む。

 画面は、いくつかの数字と、安定したリズムで刻まれる、はっきりとした波形を映し出していた。

 

「これは……バイタルサイン?」

「そのとおり。つまり、この端末で受信できるチップを仕込んだ要人は、今のところすこぶる健康、間違えても幽霊やゾンビの類じゃあねえってこった」

 

 ヴォルフは、不機嫌な様子で頭を掻き毟った。

 どうにもバツが悪そうであった。

 

「これは完全に言い訳なんだがな。俺だって、好きこのんでこんなモンをウォルに仕込んだわけじゃねえ。だがよ、給料ってのは、紙で出来た、この世で一番頑丈な首輪でな。俺がキンキンに冷えたビールで晩酌するために、ウォルにはちっと悪いことをしたとは思ってるんだが……」

「ヴォルフ!」

 

 ルウが、叫んだ。

 

「……なんだい?」

「答えて。このバイタルサインは、誰のものなの?」

 

 ヴォルフは、きょとんとした表情で、言った。

 

「だから、言ったじゃねえか。これはウォルに仕込んだって」

「……いつ?」

「あいつがまだ入院してたとき、一度ケーキの差し入れを持ってったことがあってな。その中に仕込んどいた。一度消化器官の中に入れれば、中に仕込んだチップが自動的に……小腸だったかな、大腸だったかな……まぁ、とにかくそこらへんに張り付いて、あとは半永久的に稼働する。まだ実践配備のされてない、軍の中でも機密中の機密だよ」

「……じゃあ、ウォルが今どこにいるのか、分かるの?」

「簡単だ。そうじゃねえと、要人警護用の意味がねえだろうが。だから、俺もお前らに聞きに来たんだよ。何でウォルがあんなところにいるのか、ってな」

 

 ヴォルフは、先ほどと同じように機械を操作してから、二人の前に機械を差しだした。

 

「これが、ウォルの現在地だな」

 

 それは、記号と数字の羅列だった。

 シェラは勿論、ルウも何のことかわからない。おそらく、軍用の暗号か何かだろう。

 頭を捻っている二人を見て、そういえばこの二人は軍関係者ではないことを思い出したヴォルフは、

 

「この数字が指し示すのは、現在、惑星ヴェロニカの中緯度地域にウォルがいると、要するにそういうこった」

 

 シェラは、思わず立ち上がった。

 

「ルウ!陛下が生きているのなら、すぐにリィに連絡を!」

「ちょっと待って、シェラ」

 

 逸った様子のシェラを制止してから、ルウは慎重に問うた。

 

「ヴォルフ、ウォルはどこにいるって言ったの?」

「だから、惑星ヴェロニカだって」

「……あ」

 

 シェラは、思わず声を上げてしまった。

 確かに、ヴォルフは言った。惑星ヴェロニカにウォルはいる、と。

 だからこそ、シェラは思ったのだ。今すぐにでも、いまだ惑星ヴェロニカに留まっているリィに連絡を取って、ウォルの居場所を教えよう、と。

 しかし――

 

「ヴォルフ。一応聞くけど、惑星ヴェロニカって、どんな星?」

 

 つい先日まで自分達がいた星、あれは、確かにヴェロニカという星だった。

 だが、あの星がヴェロニカという名前を授かった後に、ヴェロニカという名前を頂いた政府が、あったはずだ。

 普通に考えれば、そんなことはあり得ない。しかし、あの星は、普通に考えたらあり得ない手段をもって秘匿されていた。

 だから、あり得ないことが起きてしまった。

 この宇宙で唯一、同じ名前を持つ星が、二つ。

 そのうちの一つが、惑星ヴェロニカ。

 もう一つが、旧称ペレストロス共和国。

 現在の名前を――

 

「ほら、なんつったか、あの、どう贔屓目に見ても旨そうに見えない変な草しか食っちゃ駄目っつう、この世で一番俺に不向きな教義を掲げてる、ヴェロニカ教徒の星だよ」

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