懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
「フィナ!おおい、フィナ!お客さんだぜ!こっちに来い!」
「はーい、今行きますー!」
フィナ・ヴァレンタイン――ウォルは、手に持ったビールジョッキを急いで配膳し、マスターの待つカウンター席まで駆けていった。
ふと足下を見る。
最初は何度も足を挫きそうになったハイヒールも、既に足に馴染んでいる。当然、白い兎耳も、黒いチョーカーも、赤いバニースーツも、目の荒い網タイツも。
皮肉なことに、メイフゥの言ったとおりであった。一度着てみれば、何と言うこともない……というよりも、決して飛び越えてはいけないラインを強制的に、しかも一息で飛び越えさせられてしまった。
結果として、今のウォルに、バニースーツを着ることに対する心的な抵抗は少ない。
幼さを消すための化粧――アイメイクに白粉、口紅など――も、手慣れてしまった。
既に彼女は、男として二度と引き返すことの出来ない、遙か彼岸まで行き着いてしまったのだ。
『一人殺すのも二人殺すのも一緒だ!』
そう叫ぶ殺人犯の気持ちが、ほんのちょっぴりだけ理解できてしまう自分が悲しいと、ウォルは目尻に浮いた涙をそっと拭った。
◇
ウォルがこの店で働き始めて、既に一週間が経つ。
仕事はおおむね順調であった。接客のコツも分かってきたし、適当なところで客をあしらう技術もわかってきた。客の受けも上々で、目立ったトラブルも無い。
それに、この酒場の客層は、年端もいかない今のウォルに欲情するほど特殊な趣向を持つ人間はいなかった。精々、我が子にするようにウォルの頭を撫でてやったり、面白半分で脇腹をつんつんとつつき、可愛らしい悲鳴を上げながら飛び上がるウォルを見て面白がる程度だ。
要するに、ウォルの身体を性的な意味で味わってやろうという人種――いわゆる小児性愛者はほとんどいなかったわけだ。もう少し噂が広がれば事態も変わるだろうが、今のところは彼女のことを小動物のように可愛がる客が大半を占めている。当然、無理に酒を勧めたりもしない。
たまに、踊り子に手を出す――尻を撫でたり胸を揉んだりしようとする――不届き者がいたりするが、そういった悪質な客はウォルが剣呑な殺気を込めて睨みつけてやるとすごすごと退散した。
だからウォルは、よっぽどのことが無い限り客のされるがままであり、頭を撫でられたり膝に乗せられたりした体勢のまま、仕事の愚痴や女房に対する不満等を聞き、適当に相づちを打った。
しかし、それだけのことで、この小さく可愛らしいバニーさんの人気はうなぎ登りであった。何せ、元が人生経験豊かな元・国王である。実に聞き上手であったし、ふとした拍子に溢すアドバイスも適切だ。
客の方も、あどけない少女の言葉であるだけに最初は笑いながら聞くが、しだいに真剣な、救いを求めるような様子でウォルの助言に耳を傾ける。時には涙をこぼし、懺悔のようなことをする者も少なくない。
そして最後にはウォルを情熱的に抱き締め、財布の中身のほとんどをチップとして渡し、晴れ晴れとした笑顔で帰っていくのだ。
元が面倒見のいいウォルであるから、そのようにして人を導くのは嫌いではない。それに気の良い客がほとんどだったので、一緒に酒を飲んで馬鹿話をするのも中々に楽しい。
しかし――しかし、ふとした拍子に、自分を醒めた視線で見つめてしまうのだ。
例えば今だって鏡を見ると、愛らしい少女が、愛らしい格好で、しかし親の敵を見るようなすごい視線でこちらを睨みつけている。これが誰かと問われれば、間違いなく自分以外の何者でもあり得ない。
もし、万が一にも今の自分を、妻に――未来の夫に見られたら……あちらの世界に残してきた、ポーラや我が子や孫達に見られたら……。
――リィ。俺は、俺は汚れてしまったよ……はは、あははは……。
底冷えのする笑みを何とか引っ込めたウォルは、一応のサービススマイルを浮かべて、新たな客に相対した。
「ご指名ありがとうございまーす、フィナ・ヴァレンタインでーす。本日はよろしくお願いしまーす!」
勢いよく下げた頭を上げると、そこには唖然とした表情で自分を見つめる、二組の視線があった。
薄暗い酒場のカウンターの外れに、その巨体を押し込めるようにして座っている。
ウォルも、流石に表情にこそ出さなかったものの、かなり驚いた。
何せ、その二人は大きかった。
二人とも、かつての自分と同じ程度か、それ以上に大きい。しかも一人は女性なのだ。
ウォルがこの世界で初めて知り合った大男、ヴォルフガング・イェーガーなどを比較の対象にさえしなければ、目の前の二人はこの世界でも最大級の体格を有していると言って良いだろう。
その二人にじろじろと眺められたのだから、流石のウォルも内心でたじろいだが、気を取り直して言った。
「とりあえずー、飲み物は何にしますかー?ビール?ウィスキー?お酒が苦手なら軽いカクテルもお持ちしますけどー?」
語尾を間延びさせた間抜けな言い方も、慣れた。
心の中で血涙を流しながら、しかしウォルの笑顔には一切の綻びも見られない。
正しくバニーさんの鑑であった。
「……飲み物は、今のところ間に合ってるんだが……その、お嬢ちゃんは、この店で働いてるのかい?」
大きな二人組のうちの男のほうが、目をぱちくりさせながら言った。
少しとぼけたような表情であったが、ウォルは、この男が整った容姿をしていることに気がついた。無論彼女にはそういう趣味はないのだが(この場合、なんとも複雑な意味になる)、内心で感嘆の溜息を吐かせる程に、その男は美男子であったのだ。
その男の疑問に答えるように、マスターが言った。
「その子は、俺が宇宙にいたときのダチのお嬢さんなんだが、ちょっと事情があってうちで働いてもらってるんだ」
「しかし、この子は明らかに未成年だぞ。普通のウェイトレスとして雇うならともかく、この手の店で働かせるのはまずいだろう。それともこの星の法律では、この年の子供を酒場で働かせても構わないのか?」
今度は、女のほうが若干険の篭もった声で言った。
赤毛の、何とも迫力のある風貌の女性だった。女性を評するに『迫力のある』とは如何なものかとも思うが、それ以上に相応しい表現もない。それは、外見も、体格も、そして内に籠もった魂も、である。
そのわりに、発言の方は至極まともであった。ウォルのような幼い少女――少なくとも見た目は――を夜の街で働かせるなど、いわゆる良心的な大人の行いではない。しかも、男のやる気を沸き立たせるような、扇情的な格好をさせてである。
痛いところを突かれたはずのマスターは、しかし苦笑して、
「あんたの言うことはもっともさ、ミズ。ただ、一つ聞きたいんだがね、どうして夜の街で子供を働かせちゃいけないんだい?」
「決まっている。夜の街は色々と誘惑が多くて教育上よろしくない。それに、何かあったときに、子供では自分の身を守れないだろう」
これも至極もっともな意見だった。
マスターはしきりに頷き、
「まったくもってあんたの言い分は正しい。だが、あんたの言い分が正しいとすりゃあ、もしも既に色んな誘惑にも負けないくらいに価値判断のしっかりした、自分の身は自分で守れる子供がいたならば、こういうところで働いても問題無いわけだ」
贔屓目に聞いても詭弁にしか聞こえない意見であったが、赤毛の女性は厳しい表情で頷いた。
彼女の脳裏に浮かんだのは、自分の孫と同級生の、金色と銀色の髪をした美しい少年達だった。彼らが全てを承知の上で色街に生き場を求めると決断した場合、自分はそれを制止する言葉を持たない。
だが、目の前の少女は――。
「だ、そうだぜウォル。後は好きにやんな」
マスターは手をひらひらさせて、違う客の注文を取りに行った。
置き去りにされたかたちの三人であったが、そのうちの体格のいい夫婦の間に、にゅうと腕が差し込まれた。
その手は、テーブルに置かれたグラスを引っ掴み、中に入っていた美酒を持ち主の口へと運んだ。
まるで手品師がハンカチーフをかけたように、グラスの中身は空になった。中に入っていたのは相当にきつい蒸留酒だったというのに。
呆気に取られている二人を尻目に、手の持ち主であるウォルは、口元を腕でぐいと拭い、
「――旨い。これこそ酒だ。鼻に甘く舌に辛く、喉に滑らかで胃を燃やす。やはり、酒はこうでなくてはな」
先ほどまでの接客中、中途半端に気を利かせた客の奢りで甘ったるいカクテルばかり飲まされていたウォルの、魂からの一言であった。マスターの許可も出たのだから、男に媚びる女のような、甘えた口調もする必要はない。
ようやく口直しができて気をよくしたウォルは、舌舐めずりをする有様でボトルを掴み、手酌でおかわりを注いだ。そして、そのままの勢いで飲み干した。
茫然とその様子を見守っていた二人組の女性のほうが、
「なぁ、海賊。最近の子供というものは、こういうものなのだろうか。私が子供の時は、もう少し遠慮した飲み方をしていたと思うのだが」
子供の時は虚弱な体質だったその女性は、単純に自分とは比較できないとは思いつつも、しかし目の前でかっぱかっぱとグラスを空にする少女には軽く目を見張らざるを得ない。
然り、男の方も頷きつつ、
「いや、俺がガキの時分だってもう少し大人しい酒を飲んでたもんだが……お嬢ちゃん、あんたそんなに飲んで大丈夫なのか?」
可愛らしく両手でグラスを口に運んでいたウォルは素っ気ない素振りで、
「心配ご無用。この身体になってから少々弱くはなったが、この程度で根を上げるほど軟弱でもない。それより、あなた方のグラスの方が空のようだ。ささ、ぐいっといってくれ」
ウォルは慣れた手つきでボトルから酒を注ぎ、二人のグラスを満たした。
この時点で、どうやら目の前にいる少女が姿通りの存在ではないことを悟ったのだろう、二人は落ち着きを取り戻した様子で、ウォルが酌をしたグラスを手に取った。
男はそれで唇を湿らし、首を傾げながら問うた。
「……前の身体は、もっと酒に強かったのかい?」
「人にうわばみと呆れられる程度には。まぁクコ酒の五本を空けても酔わないのは俺くらいのものだったな」
えへん、とぺったんこな胸を反らしたウォルであるが、聞く者にはクコ酒というものが何だか分からない。話の流れからして相当に強い酒なのだろうというところまでは想像もつくが、まさかそれが異世界の酒であるなどと誰が知るだろう。
加えて言えば、ウォルがクコ酒を五本も空けるという無茶をしでかした時、彼女――その時はまだ彼だった――は強かに酔っぱらい、剣一つで憎い仇の首を取りに行くと言い放ったのだ。それでよく何の臆面もなく酔っていなかったなどと言えるものである。この場に、彼女の同盟者か、それとも幼なじみあたりがいれば、猛烈な勢いで突っこんでいたはずだ。
そんなことは神ならぬ人の身では分かるはずもない。だから、女は首を捻りながら、別のことを言った。
「なぁ、海賊。最近の子供というものは、ころころ自分の身体を変えることが出来るものなのか?」
「どういう意味だ?」
「知り合いの少年が、私の胸を見て重たそうだと言ったことがあってな。聞いてみると、以前は自分にも付いていたと……代わりに今は股の間がもぞもぞすると、そう言っていたのだが」
「ああ、黄金狼のことかい?確かに、あの競技会の時のあいつは、むしゃぶりつきたくなるようなべっぴんさんだったがよ」
妻の前で、妻以外のことを表現するには如何と思われるような喩えであったが、妻のほうもあっけらかんと、
「私もそう思う。全く、男にしておくのが勿体ない程の美女だった。私が男だったら間違えても放ってはおかないだろうな」
「俺だって、あいつが女だったら間違いなく放っておかないぜ。そんなの相手さんに失礼ってなもんだ」
「違いない」
二人は深く頷きあった。まったく、この二人は本当に永遠の愛を誓い合った夫婦なのだろうかと、誰しもが首を傾げる有様で。
少なくとも普通の夫婦であれば、そもそも夫のほうが妻の前で、妻以外の女性を口説きたいなどとは言わないし、妻の方もそれを聞いて涼しい顔などはしていない。『私のことをもう愛していないのね!』などと喚き立てるのが普通だし、夫婦とはそうあるべきものだ。
なのに、当の妻はといえば夫の言い分に憤るどころか、深く深く同意しているのだから、やはりこの二人はどこかおかしい。
先ほどの勢いとはうってかわってチビチビとグラスを傾けながら、ウォルは目の前の大型夫婦のやり取りを見守っていた。
「あなた方のお知り合いにも、自分の身体の着替えが出来る方がおられるのか?」
身体の着替えとは妙な表現ではあるが、最初の営業スマイルと口調などどこかにうっちゃってきた様子でウォルが問うた。
その、どう考えても少女には相応しく無い口調に些かの違和感を憶えつつ、男は頷いた。
「流石に大勢じゃあねぇけどな」
男は内心で指折り数えた。
自分を蘇らしてくれた黒い天使とその一族。
彼らに『着替えさせられた』人間であれば、自分と妻を含めて6人といったところか。
男は悪戯っぽい表情で声を潜めさせ、ウォルの耳元で言った。
「かくいう俺だって、着替えさせられた人間なんだぜ」
「ほう!では卿も、もとは女性だったわけか!いや、であれば是非女性であったあなたとお会いしたかったものだ」
「いや、俺は新しくて若い身体を用意してもらっただけだ。男と女を入れ換えるなんていう、贅沢な思いはさせてもらってねぇんだよ」
唇を尖らせて、如何にも残念そうに夫は言った。
その妻は苦笑しながら、
「なんだ、海賊。お前は性転換願望があったのか?」
「別にそういうわけじゃあねえがよ。折角一度死んで生き返ったなら、それくらいのハプニングがあったって面白いだろう?まぁ、俺が女になったらダイアンが嘆き悲しむかもしれねえがな」
「彼女はむしろ大喜びでお前を飾り付けると思うぞ。そうなった時は覚悟しておくことだな。少なくとも一ヶ月の間は、お前は彼女のお人形さんだ」
「女王、そういうあんたはどうなんだい?一回くらいは男になりたいとかは思わねえのか?」
「私か?私が男になったら、そうだな、とりあえずジンジャーの相手をするのが大変だ。彼女のことだから、出会ったその日のうちに婚姻届でも用意しかねない。重婚は流石にまずいし、お前との離婚届を出すつもりも今のところはないからな。遠慮しておくとしよう」
「違いない!」
夫は手を叩いて喜んだ。
第三者からすれば何とも幼稚な、『たられば』遊びの会話であったが、その二人にすれば十分以上に現実味のある話だ。例えば黒い天使が酔っぱらって茶目っ気の一つでも起こせば、明日にでも我が身に降りかかりうる話なのだ。
一人だけ会話に置いていかれたかたちのウォルは、やはりチビリとグラスを傾けて、感慨深げに呟いた。
「やはり天の国、なんとも奇妙奇天烈な世界だ……」
その呟きを聞いたわけではないのだろうが、女はその青みがかった灰色の瞳を少女の方に向け、
「ええと、フィナ嬢だったか?それともウォル嬢と呼べばいいのかな?」
「フィナ嬢でお願いする!」
ウォル嬢という呼ばれ方を生まれて初めてされて、耐え難い寒気を感じたウォルは、間髪の間を入れることもなく断言した。
「ではフィナ嬢。君も我々と同じく、着替えさせられたのかな?」
何とも微妙な質問ではあったが、その瞳は真剣そのものだった。
先ほどまでの会話とこの少女の口振りを勘案すれば、この少女自身も何者かの手によって着替えさせられた可能性が高いと、そう思ったのだ。
女の知り合いの中で、面白半分に他者の姿を変えて楽しむ者はいない。それは、神と例えられるラー一族の中でも規律に抵触する行いであったし、ラー一族以外の者にそんなことが出来るはずもないからだ。
しかし目の前の少女は、自分から望んで少女の姿に変えてもらったというわけではなさそうだ。そもそも、一体誰の手によって姿を変えられたというのか。
事と次第によっては自分達の身の安全にも関わる話であるから、女の瞳も真剣だ。若干金色の輝きを帯び始めているのも気のせいではあるまい。言葉を換えれば、物騒の辛うじて一歩手前といった眼光だ。
だというのに、ウォルはのんびりとした調子で言った。
「俺は着替えさせられたことはないな。ただ、この身体を借りているだけだ。そしてこの身体の持ち主は別にいる」
「……よくわからないんだが、説明してくれるかな?」
「信じてもらえるかどうかは分からんが、俺はこの世界ではない別の世界の生まれでな。そこで大恩ある人と出会い、別れ、そいつを追いかけてこの世界までやってきた。しかし、魂一つでやってきてしまったため、体がない。だから、少しだけ無理を言ってこの子の体を貸してもらうことにしたのだ」
二人は流石に耳を疑ったが、しかし頭ごなしに少女の話を笑い飛ばしたりはしなかった。何せ、死後の世界とかいうあやふやな場所は置いておいて、魂というもの自体の存在には人並み以上に理解のあるからである。
グラスの中の蒸留酒を胃に運びながら、少女の話に聞き入った。
「じゃあ、お嬢ちゃんが着替えさせられたんじゃあなければ、一体誰が着替えさせられたんだい?」
確かに、先ほど目の前の少女は『あなた方のお知り合いにも、自分の身体の着替えが出来る方がおられるのか?』と言った。
『にも』という言い方からして、彼女か、もしくは彼女に近しい誰かが姿変えをしたのだと思ったのだが、彼女自身ではないという。
ならば必然、彼女に近しい他の誰かが、着替えを行ったということになるはずだ。
「まぁ、あいつの場合は何かの手違いで性別が変わってしまっていたらしいのだが……。あとで男に戻った姿を見たときは、正しく心臓が止まるかと思った。顔の造りそのものには大差がないのに、どうしてここまで雰囲気が変わるのか不思議だった」
「へぇ。じゃあ、お嬢ちゃんの知り合いにも、男なのに女の格好をさせられてた奴がいたわけか」
「ああ。俺の妻だ」
「妻?じゃあ、もしかして、こっちの世界まで追っかけてきたってのも……」
「ああ、それも妻だ。普通に家出する分には構わんのだが……実際、一月や二月の間の家出はしょっちゅうだったのだが……まさか世界を超えて、四十年の間も家出されるとは思わなかった」
「するとお嬢ちゃん。ひょっとして、あんた、元は男かい?」
「うむ。誰がどう言おうと、俺は男だった。今も男のつもりなのだが……これではなぁ……」
ウォルは悲しげに、自分の胸辺りを撫でた。そこは、同年代の少女と比べてもやや迫力に欠ける起伏しか有していなかったが、それでもはっきりと膨らみ始めていた。
前の、分厚い筋肉に覆われた胸板ではなく、女性の柔らかな乳房がそこにはある。
これで『俺は男だ!』とは、なかなか言いにくい。
そして、二人のほうも、薄々とそのことには気がついてはいたのだが、あらためて目の前の少女が元男だと言われると現実感が薄い。
まじまじとウォルの顔を見つめながら、こんなことを言った。
「はー、このかわいこちゃんが元男ねぇ。孫チビあたりが見たら、一発でいかれちまいそうだぜ」
「それは仕方ないだろう。女の私から見ても、この子は相当に可愛らしいぞ。思わず抱き締めたくなるくらいだ」
「やめとけよ女王。あんたが思い切り抱き締めたら、骨の一本や二本は折れちまうぜ、多分」
「うん。だから困っているんだ。馬力はあるんだが、調節のほうがあまり上手でないからな。こういうときは普通の女くらいの力しか無いほうがいいと思う。残念だ」
「別に俺は構わんぞ。この体は見た目より丈夫でな、少々乱暴に扱ったくらいではびくともせん」
ウォルは誇らしげに言った。
すると女が、何とも心細そうな声で、
「……本当にいいのか?」
「貴方が構わないなら。俺も、美しい女性を抱き締めるのは嬉しい」
今回は抱き締められるわけだが。
「……嘘をついていないな?」
「おう、どんと来てくれ。しかし、奥方が目の前で他の男を抱き締めるというのは、夫君にとってはまずいのではないか?」
「そのなりでいまさらだろうが。そもそも、その女が他のどこで男を銜え込もうと俺は別にかまわねえぜ。そいつだって、俺がどこで他の女を引っかけても文句は言わねえさ」
それは夫婦としてどうだろうと、ウォルは思った。
しかし、赤毛の女性は真剣な表情で頷いた。
「海賊、お前の言うとおりだな。別に私は、お前が他の誰と遊んでもかまわない。ただ、その時は出来るだけ上手に遊んでくれることを願うばかりだ」
この場合の上手とは、『種を撒いても咲かせるな』という意味ではなく、相手を傷つけるなという意味だ。
「だろ?俺もあんたも、遊び相手はいくらでも見繕えるが――」
「完全に替えの効く相手となると、この広い宇宙でも探すのは酷く手間がかかる。こいつはこの宇宙で最高の船乗りで、私はこの宇宙で最高の戦闘機乗りだからな。だから問題無いのさ。フィナ嬢、納得したか?」
ウォルは、呆気に取られつつも頷いた。
そして思い出した。彼女の従弟夫婦も、お互いの恋愛については不干渉に近い立場を取りつつ、しかし夫婦としてはこの上ないと言っていいほどに仲睦まじかったことを。
要するに、人それぞれなのだ。少なくとも自分が口を出す話ではない。
ウォルは晴れ晴れとした顔で頷いた。
その、無邪気で愛らしい笑顔を見てしまった女は、ウォルの肩に大きな掌を置き、
「……話は戻るが、本当にわたしが君を抱き締めてもかまわないんだな?」
「いいと言うに。大丈夫、他ならぬ俺が保証する」
「では遠慮無く」
「むぎゅぅ」
女はウォルの身体をひょいと持ち上げ、その顔を自身の胸に埋めるようにして抱き締めた。
確かに情熱的な抱擁ではあったが、骨が軋むということはなかった。無論折れるたりもしない。寧ろウォルは、その女性の身体の柔らかいことに驚いたくらいだった。先ほどの話から、筋肉質で固い感触を覚悟していたから驚きもひとしおだった。ただ、その豊満な乳房に顔を押し付けられて、危うく窒息しそうにはなったが。
「おい、女王。そのままじゃあ、その嬢ちゃん、気を失うぞ」
端から見ていたその夫が、苦笑混じりに指摘する。
女は、はっとして、その力を緩めた。
すると、ぷはぁ、と間の抜けた声を発して、胸の谷間から自分を見上げる、黒い瞳を見つけるのだ。
女は、たまらないふうに、声を震わせた。
「海賊、どうしよう。わたし、これ欲しい。持って帰りたい」
「そりゃあ無茶ってもんだ。間違いなく未成年者誘拐だぜ」
「やはりそうか……犬や猫ならいくらでも出すんだが、仕方がない。残念だ。至極残念だ。こんな子が生まれるなら、息子だけじゃなくて娘も生んでおくんだった」
「今からでも頑張るかい?俺は別に構わねえぜ」
「それは嬉しい提案だが、止めておこう。今から年の離れた妹が生まれたら、兄の方が間違いなく目を回すぞ」
「そいつはいい!ちびすけの次の誕生日のプレゼントは、あいつの妹に決定だ!」
頭の上でよく分からない会話が交わされる間、男ならば誰もが羨むかたちで窒息寸前だったウォルは目を白黒させていた。
そして気がついたときには、カウンターの椅子以外の柔らかい何かの上に座らされていることに気がついた。
女の、程よく弾力のある太腿の上だった。ウォルは、女にすっぽりと抱かれるかたちで、男のほうと向かい合っていた。
「で、どうだったね、女房に抱かれた感想は?」
男がにやにやしながら聞くと、ウォルは生真面目なふうで答えた。
「柔らかかった。それに、良い匂いがした」
男は、堪えられないというふうに爆笑した。
「そうかそうか、そいつはよかった!俺も、自慢の女房を褒めてもらって嬉しいぜ!」
男は膝を叩いて笑った。
そして、気を取り直したふうにして、言った。
「しかし、話を戻すがよ。あんたが昔は男だったとして、自分の妻が元は男だってことを知りながら、それでも永遠の愛を誓ったのか?」
「加えれば、元は男の俺を前にして、今は男のそいつも俺を妻にすると誓ってくれた。何ともありがたいことだ」
ウォルは厳めしく腕組みをしながら、しみじみとした調子で言ったものだが、聞く方は平静ではありえない。
同性愛とか性同一性障害とか、そういう分かりやすい話の遙か斜め上を行った、正しく奇妙奇天烈な話である。
それを聞かされた二人は、少女の頭上で視線を交わしながら、何とも言えない表情を浮かべていた。
「……海賊。お前はことあるごとに私達の結婚を型破りだ、破天荒だと言うが……」
「上には上がいるもんだねぇ……」
男が、元は男だった女を妻に娶り、世界を超えて今度は自分が女としてその妻の妻になる。たとえ文章にして一から読んでもわけのわからない説明を、この二人はよく理解した。
そして女は、にこりと笑いながら、自分の膝の上にちょこんと座った可愛らしい生き物に、言った。
「では、君は、君の大切な人と再会できたわけだな」
ウォルもまた肩越しに振り返り、満面の笑みを浮かべていた。
女には、それが太陽が笑った顔に見えたのだ。
「ああ。誰に感謝をすればいいのやらわからんが、しかし感謝の言葉もないほどに感謝している。さしあたり、この体の持ち主の少女には一生頭が上がらんだろうなぁ」
そこで、三人共が声を上げて笑った。
人目を引く大柄な男女と、バニー姿の少女という三人組が談笑しているのは何とも奇妙な有様だったが、不思議と絵になった。
三人とも、自分達が決して口外すべきではない重要な話をしていると自覚している。しかし同時に、目の前にいるのがそれを話しても問題無い人物であることも確信していた。
何とも愉快な夜だった。
やがて笑いを収めた男が、声を弾ませながら、
「しかし、どんだけぶっ飛んだ話でも、探してみりゃあよく似た話が転がってるもんだな。黄金狼の話を聞いたときも世の中には不思議な話があるもんだと散々驚かされたが……」
「ほう、似たような話と。それは一体どんな?」
男は不敵に笑い、
「ま、こいつは俺の恩人から聞いたんだがよ。どうやらそいつも、男から女の身体に着替えさせられたうえで異世界とやらに迷い込んだことがあるらしい」
「ほう!それは本当か!」
ウォルは目を輝かせた。
「それは是非聞きたいな!差し支えなければ話してくれるか!?」
「今更おあずけなんて、殺生な真似はしねえよ。聞いたところでは、そいつ、ある日突然目が覚めたら、ここじゃあない全く別の世界にいたんだとさ」
うんうんと、ウォルは頷く。
男も、目の前に可愛らしい少女がいて、その子が自分の話を熱心に聞いてくれるのであれば悪い気はしない。
身振り手振りを加えて話した。気分は古代ローマかギリシアかの講釈師のそれだ。
「そしたら、目の前でいきなり戦いが始まった。方やたった一人の戦士が剣を携え、方や十人を超えるような兵士の群れがその戦士を取り囲んでいる」
「なんと卑怯な!」
「だろう?そいつもまさしく、あんたと同じことを思ったのさ。だから、たった一人の方の味方をして戦い、二人で十人の刺客を切り伏せた」
「おおっ!」
酒の神の助けもあり、ほろ酔い加減のウォルは拳を固く握り、思わず歓声を上げた。
どこかで聞いた話の気がしないでもなかったが、目の前の男の言によれば、この世には似たような話などいくらでも転がっているとのこと。
きっと、よくある既視感ならぬ既聴感だと思い、目で話の先を促す。
「それでも二人で十人を叩き伏せるのは楽な作業じゃないから、二人はようやく落ち着いた頃合いになって、お互いの情報を交換するんだ。だが、そこで驚くべきことが判明するんだな」
「それは一体?」
「なんと放浪の戦士にしか見えなかったその男が、王座から追われた王様だったらしいんだ。しかもそいつ、その時点でようやく自分が女になってることに気がついたらしい。なんとものんびりしたことだが、しかしそれ以上に黄金狼らしいぜ、まったく」
「……王座から追われた、王様?」
どこかで聞いた話の気がしないでもなかったが、目の前の男の言によれば、この世には似たような話などいくらでも転がっているとのこと。
自分にそう言い聞かせたウォルは、おそるおそるといった調子で話の続きを促した。
「それで、その先は……?」
「まぁ俺も聞きかじった程度だからよく知らないが、紆余曲折あってその男は王座に返り咲き、憎い憎い敵の首も取ったんだと。あとは、放浪の旅に出ようとしたそいつを無理矢理王女に据えて、めでたしめでたしってやつさ」
「……」
どこかで聞いた話の気がしないでもなかったが、目の前の男の言によれば、この世には似たような話などいくらでも転がっているとのこと……と片付けることは、流石にのんびり屋のウォルにも出来なかった。
ふらりとあらわれた得体の知れない少女を王女に迎えるのは、例えこの世に世界がいくつ転がっていようと自分くらいのものだという自覚が、彼女にもあったようだ。
裏返ろうとする声をなんとか宥めつつ、ようやくの有様で呟いた。
「……その先は……国を取り返した国王は、一体どうなったのだ?」
「そっから先のことは聞いてねえな。そもそもこいつも酒の席での話だから、どこまで本当かは分からねえしな。だが、あいつが言った以上は間違いなく事実なんだろうぜ。なぁ、女王」
「ああ。彼は、そこで何物にも代え難い無二の同盟者を得たと、嬉しそうに、それ以上に寂しそうに言っていた。あの子は、そういうことについて口が裂けても嘘は言わないだろう。いや、嘘をつくことが出来ないといった方が正しいな」
「ああ、だからよ、きっと王座を取り返した後の王様も、賑やかにやりつつも最後まで幸せだったに違いねえさ。なんたってあいつは黄金狼の中の黄金狼だからな」
「意味が分からないぞ、海賊」
黄金狼。
考えてみれば、自分の伴侶を指し示すに、これほど相応しい呼称は他にあるだろうか。
そう言えば、あの星で飲み明かしたあの夜、リィは言っていなかったか。この世界でも、大切な友達ができた、と。
曰く、この宇宙で最も腕のいい宇宙船乗りである。
曰く、この世界の常識から最も遠いところにある夫婦であるが、何故かその息子と孫は常識人である。
曰く、一度は自分と戦い、危うく殺されるところだった。
曰く、大柄な赤毛の妻と、漆黒の頭髪の美丈夫の二人組である――。
確かに、先ほど彼らは言っていた。自分達は船乗りであり、戦闘機乗りであると。
戦闘機という単語はともかく、船乗りと言った場合、ウォルにとって馴染み深いのは文字通りの海の男達の操る帆船のことである。
しかしこの時代、この世界における船乗りとは……。
「試みに尋ねるのだが……その、あなた方の職業はひょっとして、宇宙船乗り?」
男の方が嬉しそうに、
「さっきもそう言わなかったかい?その通り、俺もこいつも、他の何よりも船を愛する宇宙生活者さ」
「……そのお年で、お孫さんもおられて、連邦大学に通っている?」
「……なぜ君はそんなことまで知っている?」
頭上から聞こえる声と、自分を抱き締める腕に剣呑なものが籠もったが、いっぱいいっぱいのウォルはそんなことも気がつかない。
そして『自分はその孫の同級生です。ついでに同じ寮に住んでいます』とは流石に言えず、ウォルは最後の質問をした。
「ひょっとしてひょっとすると……卿らの名は……」
「俺はケリー。こっちがジャスミンだ」
『驚くなよ、ウォル。実はな、こっちの世界でも友達が出来たんだ!』
『友達?狼か、それとも馬か?』
『違う。でも、極めつけにぶっそうだ。ケリーとジャスミンっていうんだけど……』
そう言っていたリィの言葉を思いだしたウォルは、目の前の怪獣夫婦の顔をまじまじと見つめ、なるほどリィの人を見る目は間違えたことは無いと、その確信を新たにした。