懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第三十話:ヴァルプルギスの夜

「まぁ、話は分かったぜ。だがよウォル、黄金狼の知り合いのお前が、どうしてこんなところでバニーガールなんてやってんだ?」

「話せば長いのだが、聞いてくれるだろうか?」

「おお、いいぜ。幸い、今日は飲むつもりで来たからよ。酒の肴になる話なら大歓迎だ」

「……実は――」

 

 

「ただ今・連邦標準時4月30日午後0時00分・契約の日時に・なりました。ただ今をもちまして・本船の所有権は・債権者であるEUFBへと移転されます。本船のクルーは・速やかに最寄りの宇宙港へと・本船を寄港させ・EUFB債権回収担当者の指示に・従ってください」

 

 無機質な人口音声が船内に響き渡った。

 船長室でそれを聞いたインユェは重たく溜息を吐き出した。もし手元に酒でもあれば、浴びるほどに飲んでやりたい気分だった。

 

「ったく、分かりきってることを一々言うんじゃねえ!」

 

 代わりに、手近にあった雑誌を、スピーカーに思い切りぶつけてやる。

 無論、そんなことで事態が好転するはずもない。

 今日が、借金の返済期限だったのだ。

 彼ら自身が作った借金ではない。亡父の古い友人だという得体の知れない男の借金を、ほとんど詐欺同然の契約で肩代わりしてしまったものである。それも、完全にインユェの独断で。

 そして今日、この船――インユェにとっては亡き父の遺品でもある長距離航行型外洋宇宙船《スタープラチナ》号の所有権は、EUFB――エストリア・ユニヴァーサル・フィナンシャル・バンクへと移転してしまったのだ。

 船を借金の抵当に入れるというのは、珍しいことではない。人が宇宙に飛び出す前、船が海の上を浮かぶことしか出来なかった時代も、船に対する抵当権というものは存在した。

 しかし、人が宇宙に進出し、船が宇宙空間を航行するようになってから、話はそう簡単ではなくなってしまった。宇宙という空間が一つの星の海に比べてあまりに広大であるため、抵当権の行使としての船の差し押さえが著しく難しくなってしまったのだ。具体的にいうと、借金の踏み倒しが増えた。

 それを防ぐために考えられたのが、宇宙航海には欠かせない、感応頭脳に対するロックである。

 借金の抵当に入れたとき、船の感応頭脳に専用プログラムがインストールされ、所定の日時までに借金の返済が確認できない場合、感応頭脳は最寄りの港までの航海以外、あらゆる命令を受け付けなくなる。無論、緊急事態を除いてだが。

 これは非常に有効な措置であった。一度完成された感応頭脳に対して後から手を加えるのは、アレンジャーと呼ばれる非合法な人間の手を借りなければ困難であり、その依頼料は莫大な金額になる。少なくとも、借金の利子にすら喘ぐ船乗りに捻出できる金ではない。

 また、感応頭脳が航海の必需品である以上、それを押さえられるということは逃亡その他の踏み倒し行為をそのまま防ぐということであり、船乗りの首根っこを押さえる行為でもあった。彼らは、船乗りには相応しくない絶望に満ちた足取りで近くの港まに寄港し、借金取りの足音を震えながら待つのだ。

 そして、先人のほとんどがそうであったように、長距離航行型外洋宇宙船《スタープラチナ》号の現在の所有者であるインユェにうてる手立ては、全く無くなってしまっていた。

 死ぬ思いで赴いた前回の資源探査は、まるで幽霊星のように奇妙な星こそ発見できたものの、具体的な成果は全く無し。一文にすらならなかった。強いて言うならば、彼の姉であるメイフゥが捕まえた十匹ばかりの鹿がその成果と言えなくもない。

 雪だるま式に膨らんだ借金は、今日一日の利子の返済ですらままならないほどに大きくなっている。

 宝くじは当たらず、神は自分を見放した。

 インユェは、鉛のような溜息を吐き出した。

 

「……ちくしょう」

 

 毒づくための呟きですらがどこか力無い。

 この船は、この船だけは誰にも渡したくなかった。これは、彼らの父が残してくれた、ただ一つの遺品だというのに。

 どうしても、誰にも渡したくない。

 なのに、打つ手がない。

 

 ――いや、それは違うか。

 

 インユェは打算を働かせた。

 方法は、無いわけではないのだ。無論借金の全てを清算するのは不可能だが、次の期日を設けるための追い銭くらいならば、作ることも出来る。

 しかし、しかしその方法は――

 

「お坊ちゃま」

 

 背後から、声がかけられた。

 インユェは行儀悪く椅子を回し、声の主を見上げた。

 この船には、自分と、自分の姉以外、もう一人の人間しか乗っていない。

 新雪が如き白髪を綺麗に撫でつけた、老齢の男。しかし、鍛え抜かれた体躯には老いの影はちっとも見当たらない。

 インユェら姉弟の後見人であり、この船の乗組員でもある、ヤームルという男だった。

 

「ヤームルか」

「さて、ついに年貢の納め時といったところですかな?」

 

 ヤームルは、寧ろ楽しげに言った。

 

「いやに楽しそうじゃねえか。そんなに、俺が苦しんでいるのが楽しいか?」

 

 インユェは、呪いを込めた視線でじろりと睨みつけた。今日の事態を生み出したのが自分の軽率な行動だと自覚しているための後ろ暗さもあり、どうしても険を含んだ言い方になってしまう。

 口にした瞬間に、インユェは猛烈に後悔した。怒りを向ける矛先を間違えた、その自覚があった。

 しかしヤームルは露ほども気にせず、やはり楽しげに、

 

「いえいえ、滅相もない。しかし、まぁ、手の足も出ないという状況が何とも昔を思い出させますな。いいではありませんか。得てして、こういう手詰まりの状況を如何に脱するかを考えることこそ一番面白いもの。山登りは、山頂に居続けることに意味は無く、登る途中と降る途中にこそ華があります故」

 

 髪と同じく、純白に染まった見事な口ひげをしごきながら、本当に楽しげに言うのだ。

 インユェは呆れて言葉もなかったが、なるほどそういう考え方もあるのかと思い、少しだけ肩の辺りが軽くなるのを自覚した。

 そうだ、一度手放したものはもう一度手に入れればいい。何度負けたって、最後の瞬間に勝っていればいい。

 最初から最後まで勝ち続ける必要はないし、それは不可能でもあるし、第一面白くない。

 ならば、船を手放すのは仕方がない。それで一度借金を清算してしまうべきだ。少なくとも、法外な年利の利息を支払うだけに右往左往するなんて馬鹿げている。

 しかし何事にも元手というものは必要だし、勝負には実弾が必要だ。船を売っぱらった後に手元に何も残りませんでしたでは再起の機会も巡ってこないだろう。

 インユェは決断した。

 

「よし、決めた。あの女の子は売り払おう」

「……はっ?」

 

 ヤームルが怪訝そうな顔をする。

 

「……あの娘、とは?そして売り払うとは一体……?」

「ほら、俺があの得体の知れないふざけた星で拾ってきた、あの娘だよ。まだ目を覚ましていないからはっきりわからないが、中々顔立ちも整ってるみたいだし、少女趣味の変態金持ちにでも売りつけりゃあそれなりの金になるぜ、きっと」

「……お坊ちゃま。難しい顔で何をお考えかと思えば、そんな馬鹿げたことを考えておいででしたか……」

 

 沈痛な面持ちで、ヤームルは溜息を吐き出した。

 

「もう二度と、そのような非道を考えなさいますな。かの少女、坊ちゃまが知恵と剣をもってもぎ取った戦利品ならばともかく、ただ森の中で拾っただけでございましょう。いわばあの少女は、親に捨てられた子犬や子猫も同然の、無力で哀れな存在。それを人非人に売り渡して資金を得るなど、世に蔓延る下賎な人攫いや人買い連中と何が違います。御館様が知れば、間違いなく嘆き悲しむでしょう」

 

 折角のアイデアを真っ向から否定されたインユェは、怒るというよりも寧ろ驚いた。

 

「いや、そうは言うがよヤームル。この船はすぐに銀行に差し押さえられちまうし、さしあたり俺達の手元に勝負金は無い。そんな状況で小難しいことは言ってられねえぜ。そりゃあ、俺だって心は痛むが、ここはあの娘に女郎小屋に入ってもらって……」

「お坊ちゃま、船やら家やらは一度売り渡しても、もう一度買い戻せばよろしい。しかし、一度売り渡した品性や魂は、誰からも買い戻す事が出来ません。そのことをお忘れ無く」

「じゃあ一体どうするっていうんだ、ヤームル。さっきから俺のアイデアにけちをつけてばっかりだけど、当然、それなりの考えがあってのことなんだよな?」

 

 じろりと睨みつける。

 ヤームルは、のんびりとした調子で、

 

「とりあえず、邪魔な感応頭脳は取り外してしまいましょう。そうすればこの船を銀行屋どもにむざむざくれてやる必要もございません」

 

 さらりととんでもないことを言った。

 インユェは、椅子からずり落ちそうになるのを何とか堪えた。

 そして思ったのだ。目の前の、生きた沈着冷静とでも言うべきこの男でも、血迷うことがあるのだろうかと。

 

「……ヤームル、お前、本気か?」

「はい、無論でございますが、何か問題でも?」

「……それで、どうやって船を動かすんだ?」

 

 銀行が宇宙船を担保を取るときに、まず感応頭脳を押さえるのにははっきりとした理由がある。

 この時代、長距離の航海において感応頭脳を搭載していない船はまず存在しない。あまりに危険で出来ないのだ。

 ショウ駆動機関の運用やゲートを利用した跳躍は無論のこと、目的地までの航路の算定、はては船内環境の整備など、感応頭脳のおかげで成り立っている領域というのは想像以上に広い。感応頭脳を取り外すということは、それらを全て手作業でするということだ。

 インユェには、ヤームルのやろうとしていることは完全に狂気の沙汰だと思えた。

 

「なになに、私が初めて船に乗ったときは、まだ感応頭脳など利かん坊の赤子も同然、かえって無いほうが航海は順調に行く程度のものでした。それを思えば、今更感応頭脳の一つや二つが無くなったところで別段困ることも御座いますまい」

 

 この言葉には、流石のインユェも言葉を無くした。

 

 ――感応頭脳なしで宇宙を飛ぶ……?

 

 ヤームルは事も無げに言うが、感応頭脳付きの船による航海に慣れ親しんだインユェなどに言わせれば、それは致死性の罠の張り巡らされた狭い廊下を灯り無しで歩くような、もしくは高層ビルに渡された細い鉄骨の上を目隠しして歩くような愚行であり、遠回しな自殺としか思えなかった。

 やはり、どう考えても目の前の男はとち狂ってしまったのだ。

 なんだかんだ言ってヤームルを頼りにしていたインユェは、暗澹たる気持になった。

 これはいよいよ手詰まりかと。

 

「まぁ、口で言っても信じていただけないでしょう。今後のことについても一応のあてがありますので、坊ちゃまは黙ってその椅子に座っていてくださればよろしい」

「いや、まて、ヤームル、考え直せ。そうだ、一人売り払って足りないなら、もう一人、辛うじて生物学上は人間の切れ端に指先だけ引っかかってる、女の領域からはとっくにはみ出しちまってどう見ても女に見えないけど、一応は女に見えなくもない女がいるじゃねえか。この際あいつもセットで売っぱらえば、そんな自殺行為をしなくても……」

 

 

 ――ふぅん、インユェ、てめえ、あたしのことをそんなふうに見てやがったのかぁ……

 

 

 ぼそりと、そんな声が聞こえた。

 地獄の底から響くような、重々しく、そして嬉しそうな呟きだった。

 インユェは、背後から聞こえるその声と、自分の顔から血の気が引いていく音を、ほとんど同時に聞いていた。

 ぎちぎちと、油の切れた機械人形のような音を発しながら首を巡らせる。

 粘い、精神性の汗がだくだくと流れ落ちていく。例え摂氏百度のサウナに入れられたとしてもこれほどの汗は掻かないだろうという、いっそ見事な量の汗だ。

 

 そしてインユェはそこに見た。

 

 聳え立つ山巓のような長身。

 

 全てを嬲り殺す悪魔のように歪んだ目元と、全てを許す聖母のように微笑んだ口元。しかし到底隠しようもないほどに鋭い犬歯が、彼女の獣性を主張している。

 

 硬質な金の髪は、彼女の発する気勢によって、風に吹かれたようにゆらゆらと揺らめく。

 

 片方の掌でもう片方の拳を握り、ぼきぼきと盛大な音を鳴らす。それをすると指が太くなるよ、とは既に手遅れの忠告だ。

 

 彼女の名をメイフゥ。歴とした、インユェの双子の姉である。

 

 インユェは、そんな姉を見上げながら、白魚のように真っ青な顔で、金魚のようにぱくぱくと口を動かした。

 なんとか言い訳を紡ごうとしているのに、もはや何の言い訳も思い付かない、そんな様子だった。

 擦れた声で、ようやく言った。

 

「あ……あね、き……」

「その通りだ、チビガキ、お前の愛しい愛しいお姉さまだ」

 

 メイフゥはその大きな掌で、インユェの銀髪を撫で回した。

 手つきが、そろそろと優しいのがかえって恐ろしい。

 そして、物凄い猫なで声で言った。

 

「さてクソチビ、そんな愛しいお姉さまから、可愛い可愛い弟に質問だ。お前、さっきあたしのことを、お前の愛しいお姉さまのことを、一体何て言ったかな?」

「いえ、あの、姉さんの美貌は宇宙を超えて遙か天の国まで届きそこに住まう天使を嫉妬させ、その優しさは遠く地の底に住まう地獄の鬼ですらが感動の涙を流すと言いますか……」

「そうか、うんうん、よく分かってるじゃねえか、アホチビ。あたしも良くできた弟を持って幸せだよ。ところで――」

 

 頭を撫で回す掌の力が、だんだんと強くなる。

 獲物を攫う大鷲のようにインユェの頭蓋をがっしと握り、抵抗しようとする首の筋肉を無視してぐりぐりとこね回す。

 インユェは、自分の首から響くばきばきという音が、どうか頸骨の砕けた音ではありませんようにと願った。

 

「さっき、ちらっと聞こえた、『辛うじて生物学上は人間の切れ端に指先だけ引っかかってる、女の領域からはとっくにはみ出しちまってどう見ても女に見えないけど、一応は女に見えなくもない女』ってのは、当然にあたしのことじゃあないんだよなぁ……?」

「も、もちろんじゃないか、いやだなぁ、姉さんってば、あ、あははは……」

 

 インユェの哀しげな声が、本人の意図しないビブラートを伴って狭い船長室を満たす。

 もはや彼の首は、ボールハンドリングされるバスケットボールのようにぐるんぐるんとこね回され、果たして人間の首関節はここまで柔軟だったかとヤームルを悩ませるに十分な可動性を見せていた。

 

「当然、あたしみたいなか弱い乙女を女衒に売り渡してせこい種銭を稼ごうなんて、不埒なことも考えちゃあいねえよなぁ?」

「は、はい、もちろんです、おねえさま……」

「当然、森の中で拾った見ず知らずの女の子を変態趣味の金持ちに売り渡すなんてことを、恥ずかしげもなく言うつもりもねえよなぁ?」

「まったく、かんがえたこともございません……」

 

 メイフゥが手を止めたのは、インユェの回答に満足したからでも慈悲の心が働いたからでもない。

 ただ、真っ青を通り越して土気色になってきた弟の顔色を見て、これ以上彼の三半規管をいじめたら船長室に盛大な吐瀉物がまき散らされるはめになることが明らかだったからだ。

 幼い頃、何事かもわからずに、操縦席に座る父の背中を眺めた遠い日の思い出を、ゲロ塗れにするつもりはないメイフゥである。

 完全に目を回しているインユェをひょいと担ぎ上げ、言った。

 

「よしよしバカチビ、お前の気持ちは十分に伝わったぜ。そんな賢い弟に、優しいお姉さまのプレゼントだ。これから同じベッドの中で、お互いくんずほぐれずにしっぽりと語り合おうじゃねえか」

 

 当然、男女の営みという意味ではない。

 姉の開発した新関節技の実験台的な意味だ。

 インユェは、間違いなく半日の間は、自分の関節がどこまで曲がり、どこからは取り返しのつかないことになるのか、そのギリギリのラインを強制的に再確認させられるのである。人間の関節はどこまで逆方向に曲がるのか、その限界に挑戦すると言っても良い。

 完全に拷問である。

 被害者は、哀しげな、聞く者の憐れを誘う声で命乞いをした。

 

「た、助けてくれぇ!もうしません!もう絶対にお姉ちゃんの悪口は言いませんから殺さないでぇ!」

「何を人聞きの悪い。今からやるのは姉弟の仲を深め合う、ただのスキンシップだぜ。なぁ、ヤームル?」

「はい、その通りでございますなお嬢様。ただ、後見人たる私が申し上げるのも情け無い話ですが、お坊ちゃまには少々軟弱なところがおありのご様子。そこらへんも、その、なんですか、一切の手加減なく思い切りたたき直して頂けると、私の手間が省けます」

「おーう、まかしとけヤームル。もう二度と甘ったれたことなんて吐けないよう、徹底的に躾けてやる」

「助けてー!誰かー!殺されるー!」

 

 ドップラー効果を残しながら、双子の姉弟は廊下の向こうへと消えていった。

 それを見届けたヤームルは、小さな溜息を一つ吐き出し、コンソールへと身体を向けた。

 そして、誰に言うでもなく呟いた。

 

「はてさて、あの偏屈男はまだ性懲りもなく生きているのかな?」

 

 彼の脳裏に浮かんだのは、かつて星々の大海を自分と共に駆け抜けた、鮮紅色の思い出を共有する友のことだった。自分よりも一足先に船を下りたその男は、故郷で小さな酒場を開いていると風の噂に聞いたのだ。

 そして、その故郷――惑星ヴェロニカこそが、今から自分達の向かう目的地である。

 

「あの星の連中が恩を忘れていなければ――いや、恩を忘れるということを忘れてくれていれば、入国審査くらいはパスできるはずだが、果たしてそう上手くいくものかね?」

 

 自分の思考に軽くけちをつけつつ、ヤームルは猛烈な勢いでコンソールを操作した。

 完全な手動で宇宙を飛ぶのは彼にとっても久しぶりだったが、宇宙を股にかける大海賊団の水先案内人であった頃の腕は、まだまだ錆び付いていないらしかった。

 

 

 がしがしと頭を掻きながら、ウォルは目覚めた。

 重たい目覚めだった。二日酔いの朝のように、頭の奥に鈍い疼痛がある。

 思考の回転速度がいまいち上がらないのを、ウォルは自覚した。

 それでも何とか柔らかな寝台から体を起こし、ぐるりとあたりを見回す。

 すると、そこは白一色に統一された清潔な部屋だった。

 一人きりで寝ていた。

 まず、全てが夢だったのかと思った。黄金色の狼と再会したのも、少女の身体に転生したのも、救われない哀れな魂と出会ったのも。

 いや、そもそも自分が一国の王であったこと自体、妄想じみた夢だったのではないだろうか。

 そんなことを考えながら、何となく自分の掌を眺めた。

 小さな、白い掌。一度だって剣を握ったことのないような――握る機会すら奪われてしまったような――真白い掌。

 

「……ああ、夢ではなかったのか……」

 

 それは安堵の呟きだった。

 ウォルは、改めて自分のいる部屋を確認した。

 やはり、白一色に統一された清潔な部屋であったが、その壁は、あちらの世界で一般的な、石積みのそれではない。つるりと、どこにも継ぎ目のない整ったものだった。

 見慣れない、正確に言うならば、知らない部屋だった。記憶のどこをひっくり返してもこんな部屋は知らないし、当然足を踏み入れた覚えもない。

 ならば、どうして自分はこんなところでぐうすか眠りこけていたのか。普通に考えれば自分の足でこの寝台へ入ったはずだし、違うならばそれ自体が異常である。

 これはいったいどういうことかと、ウォルは首を傾げた。

 頭の奥の疼痛は、まるで連夜の徹夜仕事の後、思うさまに惰眠を貪った朝のような按配だ。どうやら、相当に長い間眠っていたらしい。

 霞んだ目を擦りながら、ぼんやりと考える。

 

 ――はて、俺はこんなところで何をしているのだろうか?

 

 ようやくそのことに考えが至った。

 自分がどうしてここにいるのか、いつからここにいるのか、分からない。

 いったいここはどこだろうか。見慣れない部屋。無機質で、そもそも人の住んでいる気配がない。家具も、ドアの横に置かれた古めかしい柱時計以外、何も見当たらない。

 ドアノブが付いただけの飾り気のない扉が、もしも鉄格子で出来ていれば、牢屋か何かと勘違いしてしまうような部屋だ。

 ふと自分の体が目について、何となく眺めてみる。

 袖のない、簡素な服を纏っていた。見覚えのない形状なのでその用途はいまいちわからないが、その飾り気の無さと生成の綿の色合いから、ひょっとしたら下着の類なのかも知れない。少なくとも、自分からこんな服を着た覚えは全く無い。

 確か、あの緑の星で、リィ達と別れて、山に入って……それから……。

 

 ――『よお、久しぶり』

 

 ずきり、と、目の奥が痛んだ。

 

「目ぇ、覚めたか?」

 

 いつの間にか開け放たれた扉から、女の声がした。

 大柄な女だった。

 飛び抜けて大きい、というわけではないが、いわゆる平均的な女性の体格からすれば桁外れに大きい。寝台に体を起こした姿勢のウォルなどからすれば、正しく見上げる程に大きい。

 その女が身に纏っていたのは、体のラインの浮きにくい、ゆったりとした装束だった。形状そのものは就寝時に羽織るローブなどに近いようだが、色遣いが遙かに鮮やかであり、素材もぱりっとしたものが使われている。腰帯には色取り取りの花が描かれ、なんとも愛らしい。

 ウォルが不思議そうに見ていると、その女性が、

 

「この服かい?」

「ああ。なんとも珍しい服だが、綺麗だ」

「紬っていうんだ。格好いいだろう」

 

 まんざらでもないふうで、そんなことを言った。

 確かに、女性らしい艶やかさのある服だった。

 しかし、その服の袖からの覗く女の二の腕は、引き締まっていて、そして太かった。辛うじて女性らしさを損なわないぎりぎりのラインを見極めたようなその腕は、鋼の鉄条を束ねたようであり、艶めかしいニシキヘビの胴体のようでもある。

 また、ゆったりとしたその服の下から伺える体型も、出るところは出て引っ込むところは引っ込むという、世の女性の理想のような形だ。腰帯の下の胴回りなど、抱けば折れてしまうそうな程でしかないのではないか。

 顔立ちは、既に完成された女性の美を誇っている。浅黒く灼けた肌、やや大ぶりだが形の整った鼻、色っぽく肉付きの良い唇、そしてきりりと鋭い目つき。硬質な金色の髪とも相まって、歴戦の女戦士といった風貌だ。

 だが、女性の灰褐色の瞳には、まだどこか幼さが残っている。ひょっとしたら意外に年若いのかもしれない。少女の溌剌さと女性の色香を混ぜたような、どこか妖しい雰囲気がある。

 そんな、どうにも人目を集める容姿の女性にまじまじと眺められては、流石のウォルもなかなか二の句を告げず、絞り出すような声で言った。

 

「え、と……すまない、どうやら混乱しているらしい。少し待ってくれ」

「あたしの名前はメイフゥだ」

 

 その女性は、何の気負いもなく言った。

 何ともぶっきらぼうな自己紹介だったが、その無造作さがこの女性には相応しい。竹を縦に割ったような気持ちよさがある。

 目を白黒させていたウォルだが、その頬は次第に笑みの形を作っていった。

 

「では、メイフゥどのと。俺はこの世界にはまだ慣れんのだが、珍しい名前だな」

 

 普段のウォルであれば、初対面の人間――しかも女性である――の名前を珍しいと評する無礼を口にすることはなかっただろうが、しかし今は寝起きで頭が働いていない。ウォル自身は知るべくもないのだが、彼女はこの船に運び込まれてから、丸三日も眠りこけていたのだから。

 メイフゥも、その点には深く突っこまなかった。目の前の少女に不似合いな『俺』という一人称も、『この世界にはまだ慣れん』という奇妙な言い回しにも、である。

 その代わりに、片頬だけを釣り上げたシニカルな笑みを浮かべながら、言った。

 

「確かに、奇妙な名前だ。字だって奇妙なんだぜ。ほら、あたしの名前はこうやって書く」

 

 メイフゥは手近にあったメモ用紙に、懐から取り出した筆で自分の名前を書いた。

 ウォルも初めて見る文字だ。こちらの世界でもあちらの世界でも、こういった文字は見たことがない。

 

「……これは、何と読むのだ」

「こっちの『美』っていう字が『メイ』、こっちの『虎』っていう字が『フゥ』。要するに美しい虎って書くのさ、あたしの名前はね。このうち片方は正解で片方は間違いだ。まったく、こんなか弱い少女の名前に虎っていう字を入れるあたり、あたしの名付け親のセンスはどっかおかしかったに違いねぇ」

「いや、なんとも貴女に相応しい名前だと思うが……」

 

 確かに、くすんだ金色の長髪と褐色の肌は、まるで虎の縞模様のようだったし、飢えた肉食獣のような獰猛な雰囲気もそれに近い。

 ウォルは、両方の文字が正解だと思ったのだ。

 それを聞いたメイフゥは、くすくすと、含むように笑った。

 

「一応褒め言葉だと受け取っておくぜ。ちなみに、あんたの名前は?」

「俺の名前はウォル。ウォル……あっ」

 

 ウォルは、自身の苦い失敗を思い出した。

 ここで自分の本名――ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタインという長ったらしい名前だ――を名乗れば、もしかしたら自分の義父であるヴァレンタイン卿や、その息子であるリィに累が及ぶのではないかと思ったのだ。

 目の前にいる女性は、例えば人攫いのような卑劣な人種ではないように思える。加えて、ウォルは長年の経験から、自分の人を見る目にはそれなりの自信があった。

 しかし、何事にも用心するに如かずだ。

 自己紹介の途中で黙り込んでしまったウォルに対して、メイフゥは、機嫌のいい猫のような表情で、

 

「食うかい?」

 

 いつの間にか片手に乗せていた大皿を、ウォルのほうに差しだした。

 皿の上には、鮮やかな紅色の肉片と、色取り取りの香草が所狭しと並んでいた。

 どうやらある種の料理らしいのだが、これが料理だとすれば飛びきりに野趣溢れる料理だ。見る人によって豪快とも乱暴とも受け取ることができる様相である。

 ウォルが言葉を失っている前で、メイフゥは気安く皿に盛られた肉片をつまむと、口の中に放り込んだ。

 ウォルは、ゴクリと喉を鳴らした。一体いつから眠っていたのかは知らないが、喉の奥の消化器官は、今自分の中に何一つ消化するべきものが入っていないことを、グウと、間の抜けた音をもって告げた。

 

「……それは?」

「鹿の生肝だ」

 

 指先を舐めながら、メイフゥが言った。

 ウォルは、再びごくりと喉を鳴らした。

 新鮮な鹿の生肝は、正しく猟師達だけに許された特権とでも言うべき料理だった。

 時を置けば赤黒く変色し、血生臭くなって食えたものではなくなるが、仕留めたばかりの鹿から取り出した生肝は、命そのものを体現したように美しく、他のどんな料理よりも旨い。事実、国王であった時のウォルも、狩りの度にこの料理を楽しみにしていたくらいなのだから。

 ウォルは、今にも口の端から涎を流さんばかりの様子で、心底感謝しながら言った。

 

「有難い。どうにも腹が減っていたところだ」

 

 差しだされた大皿から出来るだけ大振りな肉片を選んで、メイフゥがしたのと同じように指先で摘み、口の中に放り込んだ。

 内蔵特有の血生臭さは、ほとんど無かった。上手に血抜きをしているのと、やはり肉そのものが新鮮なのだろう。あれほど綺麗な肉の色だったのだから、新鮮なだけでなく、余程にいいものを食べて育った鹿の肝に違いない。

 二、三度咀嚼すると、舌に絡みつくほど濃厚な肉のうまみが口中を満たした。普通、生肝といえば蕩けるような舌触りが特徴だが、この肝は驚くほどに歯応えがあり、しかし何度か噛んでいると雪のように儚くとけてしまう。

 

「――旨い」

 

 頬を綻ばしたウォルを見て、メイフゥは呆れたように、

 

「冗談のつもりだったんだが、本当に食うかね。気に入ったぜ、お前。どうだい、もう一切れ」

「いただこう」

「こいつも一緒に食ってみな。もっと旨くなる」

 

 メイフゥが差しだしたのは、深い緑色をした、植物の茎のようなものだった。鉛筆の芯ほどの太さで、離れていても尚爽やかな香りが鼻を刺激する。

 満面の笑みを浮かべたウォルは、それを受け取って、肉と一緒に口の中に放り込んだ。

 離れていても匂いが届くほどに香りの強い香草なのだ、口の中に入れれば、ほんの僅かに残っていた血生臭さなどたちまちどこかに消えてしまう。噛むと、弾力のある肉の歯触りと、ぱきぱきと小気味よく折れる香草の歯触りが楽しい。

 これはいい、そう思ったウォルが、調子に乗って二、三度咀嚼すると――。

 

「……っ!」

 

 鼻の奥を、つんとした痛みが襲う。

 火酒の灼けるような刺激とも唐辛子の暴力的な辛さとも違う、不思議な感覚だった。鼻の粘膜が引き攣れるような、形容し難い刺激である。

 ウォルは、思わず涙ぐんだ。

 それはメイフゥにとっても期待通りの反応だったのだろう、ウォルを眺める彼女の目にはしてやったりという悪戯げな光がある。

 やっとの思いで口の中を空にしたウォルは、涙目になって、呟くように言った

 

「……これは強烈だな」

「山葵っていうんだ。結構いけるだろ?」

「うむ、旨い。出来ればもう一つ、いただいていいだろうか?」

 

 今度こそ目の前の少女は根を上げるに違いないと思っていたメイフゥは、再び驚いたような顔になって、今度は呆れながら首を横に振った。

 

「気に入ってもらえたのは嬉しいんだが……ま、そろそろやめときな。何せ、あんたは丸三日も眠りこけてたんだ。空っぽの腹ん中にこんな重たいもんを詰め込んだら、吐き戻すのがオチだぜ」

「むぅ……残念だが仕方ないか」

 

 メイフゥの言葉に正しさを認めたウォルは、残念そうに皿に並んだ肉を眺めた。 

 まるでおあずけを言いつけられた子犬が如き、しょぼくれた顔つき。その様子を楽しげに見遣ったメイフゥは、

 

「まだ腹が減ってるなら、粥でも作って届けさせようか?」

「本当か?それはありがたい」

 

 少量の食物を入れたことでようやく動き出したウォルの胃は、ますます食べ物を欲してグウウゥと盛大な鳴き声をあげた。

 メイフゥは、目の前の少女をまじまじと眺めた。

 普通の少女であれば、腹の虫の声を聞かれれば頬の一つも赤らめそうなものだが、目の前の少女にはその様子が少しも見られない。それどころか、ぱたぱたと振られる犬の尻尾が幻視される程の喜びようで、自分の腹の虫が鳴いたことなど気がついているかも怪しい。

 苦笑いを浮かべたメイフゥは手近にあった内線を取り、

 

「おい、クソチビ。大至急、ミルク粥かなんかを作って、医務室まで持ってこい。……そうだよ、例の女の子が目を覚ましたんだ。眠り姫は大変お腹を空かせていらっしゃるらしいからな、超特急だぞ……うるせぇ!あの程度でぐずぐず言ってんじゃねえ!今度は本当にへし折るぞっ!」

 

 びくりとウォルの肩が跳ねるほどの勢いで、メイフゥは受話器をフックに叩き付けた。

 ウォルは、やはりこの女性の名前に『虎』の一文字が与えられていのは、決して間違いではないと確信した。

 そんなウォルの内心には気付かぬふうに、全く先ほどと変わらない笑顔のメイフゥが、言った。

 

「ところで、あんたの自己紹介がまだだったと思うが、一体あたしはあんたのことを何て呼んだらいいんだ?」

 

 そういえば、とウォルは赤面する思いだったが、やはり軽々しく本当の名前を告げるのも憚られる。もしも大切な人に迷惑が及んだとき、この世界の自分はあまりにも無力なのだから。

 数瞬の逡巡があって、ようやく口を開いたウォルは、

 

「ウォル。もしくは、フィナ・ヴァレンタイン。どちらも、この世界のきちんとした本名ではないのだが、どちらも間違いなく俺の名前だ。本当の名前を明らかに出来ないのは失礼な限りだが、なんとかご勘弁願えないだろうか?」

 

 メイフゥはしっかりと頷き、

 

「じゃあウォル、本当の名前とやらは気が向いたときに話してくれればいいさ。それより聞きたいんだが、お前、あんな星で一体何をやってたんだ?」

「実は――」

 

 そこでウォルははたと思い出した。

 一体どうして自分がこんなところにいるのか、どうやってあの星から運び出されたのか、それはわからない。

 しかし、自分は一人であの星にいたのではない。

 リィ、シェラ、ラヴィー殿……。

 きっと彼らは、気が狂わんばかりに自分のことを心配してくれているのではないだろうか……。

 

「すまん、メイフゥどの!悪いが電話を貸して……」

「おい、姉貴!持ってきたぞ!だいたいなぁ、あの女の子は俺が拾ったんだから、俺のものなんだ!何で俺が俺のもののために、ミルク粥を拵えてやらなきゃならねえんだよ!」

 

 開いた扉の向こうに、エプロン姿の少年が立っていた。

 見知らぬ、ウォルの初めて見る少年だ。

 なのに、ウォルの身体は、その少年のことを知っていた。

 心臓が、どくりと一度、嬉しそうに跳ねた。

 その時、空白に満ちた時間の中で、部屋の片隅に置かれた柱時計の時報が、重々しく響いた。

 長針と短針は、午前0時を指し示している。

 日付は変わり、5月1日。

 その日はまさしくヴァルプルギスの夜。

 生者と死者の交わる、たそかれときの祭りの日であった。

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