懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第三十二話:おにのめになみだ

 あたしは、覚えている。

 肌を切り裂く寒風を。

 宝石を鏤めたような夜空を。

 月は、無い。

 草が風に流されて、ざぁざぁと耳障りに鳴く。

 

 あたしは、覚えている。

 遠くに聞こえる、狼の遠吠えを。

 近くに聞こえる、狼の唸り声を。

 闇に浮かんだ、餓えに狂った瞳の群れを。

 

 あたしは、覚えている。

 この手に握った、紅葉のように小さな掌を。

 紅葉のように暖かい、掌を。

 父の言葉を。

 メイフゥ。インユェは、身体が弱いんだ。

 だから、あいつはお前が守ってやってくれ。

 

 あたしは、覚えている。

 あたりはもう、とても静かで。

 暖かかったのは、ほんの一瞬だけ。

 鉄臭い液体は、冷たい風に冷やされて、容赦なく体温を奪っていく。

 ああ、早くお風呂に入りたい。

 だから、帰ろう。

 おうちに、帰ろう。

 一緒に、帰ろう。

 ねぇ、インユェ。

 

 ――おねえちゃん、こわい。

 

 あたしは、覚えている。

 弟の、怯えた瞳を。

 何も掴むことの無かった、掌を。

 

 ――■■■■。

 

 

「……フゥどの。メイフゥどの」

 

 肩を揺らされて、座席に腰掛けた少女は目を覚ました。

 ぼやけた視界に、自分を心配そうに見上げる黒い瞳を見つけた。

 

「ん……あぁ、ウォル、どうした?」

「大丈夫か?たいそう魘されていたようだが……」

「うなされて……あたしがかい?」

 

 回転の鈍い思考を無理矢理に立ち上げ、周囲を見回すと、そこはバスの中だった。

 座席が全て埋まり、ぽつりぽつりと立ち乗りの乗客がいる程度には混み合った車内だ。

 ヴェロニカシティの中心部へと向かうため、二人は、インユェらと別れた場所からバスに乗ったのだった。のぼり路線のバスらしく、ウォルとメイフゥが乗車したときは乗客も疎らだったのが、いつの間にか満席になっている。

 メイフゥは、いくつか奇異と憐憫の入り混じったような視線が自分に向けられていることに気がついた。

 なるほど、どうやらこの様子では、うたた寝しながら唸り声の一つでもあげてしまったのだろう。

 いつの間に眠っていたのだろうか。普段の彼女ならば、このような場所で無防備に眠りこけるなどあり得ることではないのだが。

 地表を走る乗り物のもたらす周期的な振動が眠りを誘ったのかも知れない。

 長期間に渡った航海が意外なほどに神経をすり減らしていたのかも知れない。

 だがそれらは、何の言い訳にもなりはしない。

 無様なことだと、窓枠に肘をかけたまま、メイフゥは自嘲の笑みを浮かべた。

 その拍子に、額に滲んだ脂汗が垂れ落ち、目に入った。汗の塩辛さが涙を滲ませたが、自分は泣いていなかったと言い訳するのにちょうどよかった。

 隣から依然心配そうにこちらを見つめる少女に、ひそひそ声で話しかける。

 

「すまん、ウォル。心配をかけた。あと、ひょっとしたら恥もかかせちまったかも知れねえな。悪かったぜ」

「それは構わんが……」

「別にたいしたことじゃないんだ。あたしにゃお馴染みの、悪い夢ってやつを見ちまっただけさね」

「悪い夢」

「ああ。昔のことを、少しな」

「何かあったのか」

 

 この言葉には、メイフゥが目を丸くした。

 

「ウォル。ここは気を利かせて、何も聞かなかった振りをするのが人付き合いってもんだぜ」

 

 ウォルは首を横に振った。

 どこからどうみても子供にしか見えない黒髪の少女は、

 

「それはそうかも知れん。しかし俺が目覚めたとき、あなたは心の底から親身になって、俺の心配をしてくれたではないか。俺のために怒ってくれたではないか。ならばメイフゥどの、あなたが苦しんでいたのに、ここで見て見ぬ振りをすることこそ人の道に悖る行いだと、俺は思う。だから何があったのか、教えて欲しい。もちろん、俺では頼りにならんかもしれんし、迷惑ならば無理にとは言わないが……」

 

 少し気弱な、しかし真剣な瞳でこちらを見つめながら、そんなことを言うのだ。

 息を飲んだメイフゥは、直後に大きな笑みを浮かべて、ウォルの黒髪をくしゃくしゃに撫で回した。

 撫でると呼ぶには些か情熱的すぎるそれは、ウォルの小さな頭を引っ掴んでぶんぶんと振り回すような様子だったから、ウォルは軽く目を回してしまった。

 

「ああ、なんて可愛らしいんだお前さんは!ちくしょう、あたしが男だったら、絶対に手籠めにしてやるのになぁ!悔しいなあ!決めた!お前、あたしの妹になれ!そんで、一緒に宇宙を旅しよう!連邦大学中等部の学生さんだかなんだか知らないが、そんな埃臭い場所に閉じこもってるよりも何倍も面白い人生ってやつをプレゼントしてやる!」

「わぷっ!め、めいふぅどの、ときとばしょをわきまえられよ……!」

 

 流石に声は潜めながらだったが、メイフゥはウォルを思い切り抱き締めた。

 先ほどまで苦しげに呻き声を上げていた妙齢の女性(何も知らない第三者が見ればメイフゥはそう見える)が突然に隣に座った少女(無論ウォルのことである)に抱きつき、何事かを呟いているのだから、周囲の乗客は言葉を失ってしまっていた。

 姿形こそまったく似ていないものの、共に至極美しい顔立ちであり、また同じような装束を纏っている二人組である。姉妹には見えないが、しかし無関係とも思えない。

 では何が相応しいかと言えば、同郷から観光旅行に来た親戚筋、あるいは年の離れた友人。そこらが妥当かも知れない。

 とにかく、良い意味でも悪い意味でも目立つ二人組であった。

 だが、花は美しければいいかというと、そうでもない。美しければ人に手折られることもあるだろうし、他の花の嫉妬を買う場合もあるだろう。

 当然、邪な思惑を抱いた害虫もたかるのである。

 

「あの、大丈夫ですか?先ほどは酷く魘されていたようですが……」

 

 まだまだウォルを抱き締めて放そうとしないメイフゥに、心配そうな声がかけられた。

 ウォルが見上げると、線の細い青年が、気遣わしげに、そして遠慮がちにこちらを覗き込んでいるではないか。脇に抱えた小さなバッグや勤め人とも思えないカジュアルな出で立ちから、大学生か、それともどこぞの研究所の研究員か、そんな感じだ。

 普通に見れば、突然に気分を悪くした婦人に対して気を使う親切な青年といったところなのだが、ウォルなどにはその青年の、高価そうな銀縁眼鏡の奥にある視線が、どうにも嫌らしいものに見えた。

 自分がこの身体を得てから、人目につく場所を歩くときに、時折向けられる視線だ。そして、男の身体の時は一度として向けられたことのない視線でもある。

 一言で言えば、こちらを欲望を吐き出すための対象として見ている、発情した男特有の脂ぎった視線であった。

 

「もしよろしければ、次のバス停の近くに、知人の経営している病院があります。そこで休憩されては如何でしょう」

「お心遣い、まことにありがとうございます。ただ、そこまでご心配いただかなくとも大丈夫でございます。おそらく、昼食に悪いものでも食べたのでございましょう。少し休めばこの程度」

 

 たおやかな、まるきり女性らしい声がウォルの耳道に響き渡った。

 ウォルは、文字通り我が耳を疑った。果たして、この典雅で美しい声は誰の喉で奏でられたものだろうかと。

 答えは、知っている。しかし、それを認めることを、全ての脳細胞が拒否しているのだ。

 唖然としたウォルを尻目に、青年と淑女の会話は交わされていく。

 

「失礼ですがその服、ひょっとしてこちらの生まれの方ではない?」

「はい、仰る通り、私どもは別の星の者ですが……」

「それはいけない。この星の食べ物は、体質的に受け付けない人が食べた場合、中毒を引き起こすことがあるんです。もちろん普通はそんなことはありませんし、万が一中毒を起こした場合でも普通の食あたりと変わることがないことの方が多い。しかし、ごく稀に重篤化した場合、それが原因で死に至ったケースも報告されています」

「そ……そんな恐ろしいこと!確かに、昼食はこちらの星の方々が食されるのと同じメニューをいただきましたが、誰もそのようなことは仰りませんでしたわ!」

「大丈夫、ご心配なさらずに。すぐに適切な処置を施せば大事に至ることはまずありえません。安心なさって結構です。なおのこと、病院までご一緒させてください」 

「しかし、見ず知らずの方のご好意に、そこまで甘えるわけには……」

「気兼ねすることはありませんよ。なにせ、この星は外から来られる方の落とされるお金で回っているような経済ですからね。あなたに親切にすることでこの星の評判がよくなれば僕も万々歳。ほら、誰も損をしないでしょう?」

 

 青年はさわやかに笑ったが、ウォルなどに言わせれば、娼館の客が馴染みの女郎に向ける笑みと大差無いものにしか見えなかった。

 誘いに乗ってのこのことついていけばどんな饗応が待っているか、考えるまでもないことである。

 些かうんざりした気分で、ウォルは口を開いた。

 

「メイフゥど……もがもが」

「ああ、やはり気分が……」

 

 心持ち顔を青ざめたメイフゥが、しなだれかかるようにしてウォルの方に身体を預けたように、見えた。

 しかしその実、メイフゥはウォルに覆い被さることで、男からは見えないよう巧みにウォルの口を塞いでいたのだ。

 そして、その耳元で囁いた。

 

「黙ってな、ウォル。せっかくカモがネギ背負って来てくれたんだ。これを逃す手はないぜ」

 

 ひひひ、と嗜虐に満ちた笑い声は、完全にいつものメイフゥのそれであったから、ウォルは安心すると同時に茫然とした。なるほど、この世には虫どもの食い物と成り果てる哀れな花もあれば、虫を食い物にする逞しい食虫植物もあるというが……。

 ウォルは人目も憚らずに思い切り溜息を吐いた。

 

「ああ、フィナ。フィナ。しっかりなさい。あなたも気分が悪いのですか?」

「……いえ、お姉さま。大したことはありません。ただ、ほーんの少しだけ、目眩がしただけですので」

 

 目眩がしたのは完全に事実であったので、出来るだけ嫌みったらしく言ってやったつもりだった。

 しかし、語調を整えメイフゥのことも姉と呼ぶあたり、ウォルも乗り気である。

 だいたい、自身が女になってから、以前よりも遙かに痴漢というものに怖気のしているウォルであるから、目の前の男がその種の悪漢であるならば灸を据えてやろうという気もしている。これでもし、この青年がただの好意で声をかけてきたのであれば、平身低頭で謝らなければならないだろうが。

 

「妹さんの体調もお悪いようですし……無理にとは言いませんが、やはり一度横になられた方がいいのではないでしょうか」

「……そうですわね。まことに申し訳ありませんが、ご厚情に甘えることにいたします。次の駅でよろしいのですか?」

「はい。どうやらちょうど到着したようだ。さ、肩をお貸ししましょう」

 

 メイフゥが立ち上がると、青年は驚いた。青ざめた顔で伏せていた女性の肩が、自分のそれよりも少し上にあったからだ。

 座っていたときからそれなりに大柄な女性ではあると思っていたが、これほどとは。自分だってそれほど小さい方ではない、むしろ男の中でも大きい部類に入るはずなのだが……。

 そんなことを考えながら肩を貸すと、やはりそこは女性である、なんとも柔らかい感触が心地良い。

 

「ああ……」

「大丈夫ですか?さ、あと少しですから……」

 

 ふらりと崩れる女性を支えるふりをして、腰に手を回す。

 その瞬間、青年の表情が僅かににやけたのを、ウォルは見逃さなかった。

 どうやらこれは当たりらしい。ウォルの勘も、メイフゥの猟も。

 仮病などではなくズキズキと痛み始めたこめかみを揉みほぐし、ウォルも二人の後に続いた。

 

「お嬢ちゃん、しっかりついてくるんだよ。あと少しだからね」

「ええ、お気遣いありがとうございます……」

 

 覚束ない足取りのメイフゥをバスから降ろした青年は、周囲の風景をきょろきょろと見回し、如何にも頼りなげな表情を浮かべて呟いた。

 

「あれ、おかしいな……確かここらへんに……」

「どうか……したのでございますか?」

「いえ、大したことではありませんので、少し待っていて下さい」

 

 青年は懐から携帯電話を取り出し、手慣れた様子で番号を押した。

 

「ああ、おじさん。こんにちは、うん、元気にしてるよ。あのさ、一つ聞きたいんだけど、おじさんの病院って、リマト通りのバス停のすぐ近くだったよね……うん……うん……えっ、一月前に場所を変えた!?いや、実は、バスで体調崩してる女性を見かけて、おじさんの病院まで連れて行こうと思ったんだけど……多分外の人みたいだから、この星の食べ物にアレルギー起こしたんじゃないかな……うん……いや、そこまでは……わかった、じゃあ少し待ってもらうよ」

 

 携帯電話をポケットに締まってから、青年は申し訳無さそうに言った。

 

「すみません。もうおわかりかも知れませんが、先ほど話していた知り合いの医院――実は僕の叔父の経営する病院なのですが、ごく最近にここから別の場所に移転していたようでして」

「まぁ、そうでしたの。それは困りましたわ」

 

 真実困った様子で、メイフゥは言った。

 心細げな彼女を励ますように、青年は、努めて明るい声を出して言った。

 

「ただご安心ください。事情を話したところ、こちらまで車を寄越してくれるそうですので。それに乗れば、新しい医院までほんの4,5分です。あと少しの辛抱ですから、どうかこのままお待ち下さい」

「いけません、見ず知らずのわたくし共のために、そこまでお手間を取らせるわけには……」

「しかし、あなた方をバスから降ろしておいて、すみませんこちらの勘違いでしたで帰っては、僕のほうも夢見が悪い。ここは一つ、助けると思って僕の好きにさせて頂けませんか」

「でも……」

「姉さん、ここまで仰っていただいて、無碍に断るのも失礼ではないでしょうか。私達もこの星には不案内ですし、ここはこの方にお任せした方が……」

「……そうね。フィナ、ご好意に甘いさせて頂くとしましょう」

 

 メイフゥの言葉に青年は相好を崩し、手近にあるベンチまで二人を案内した。

 二人がベンチに腰を下ろすやいなや、遠くから排気量の大きいエンジンの音が近づいてくるのが分かった。

 

「ああ、来た来た」

 

 見るからに高級車然とした車が、三人の前に止まった。

 ドアを開けて出てきたのは、青年と同じ歳の頃の男性だった。身形のぱりっとした若者で、ほんの少しも怪しいところなど無いように見える。

 だが、メイフゥとウォルを流し見たときの視線が、どこか商品の質を確かめる仲買人めいたものであったことに、ウォルは気付いた。

 予想はしていたことであるが、類は友を呼ぶというか、ゴキブリは一匹見れば三十匹はいると思えというか。

 

「クラウス。君が来てくれたのか。助かったよ」

「久しぶりだねライアン。それにしても、医院の場所を間違えるだなんて君らしくもない。まったく、非常事態だったらどうするつもりだったんだ」

「耳の痛い話だが、とりあえずこちらのお嬢様方を医院まで運ぶのが先だ。すまないが、君も手を貸してくれるかな」

 

 クラウスと呼ばれた青年は快く頷き、顔色の優れないメイフゥを脇から支え、後部座席まで運んだ。

 ウォルは自分がそこまで演技巧者ではないと自覚していたので、ふらつく足取りを装いながら、自分の足で後部座席に乗った。

 女性陣が車に乗り込んだことを確認した青年達は、運転席と助手席に乗り込み、車を発進させた。さりげない拍子で、後部座席のドアもロックした。

 車内では、いかにも当たり障りの無い会話が、病人を刺激しない程度に交わされた。

 どの星から来たのか、何人で来たのか、親は何をしているのか。

 それらの質問に対して、メイフゥはよく答えた。

 

 ――私達は、共和連邦にも属していない辺境の星から参りました。ほら、この服はそこの民族衣装なんですけど、初めて見られるのではありませんか?

 

 ――ええ、私達姉妹二人だけですわ。音に聞こえたヴェロニカ教の寺院を、一度でいいから見たくって。

 

 ――両親は、私達が小さいときに身罷られました。今は、叔父夫婦のところに身を寄せております。でも、とってもよくしてくださるんですよ。

 

 それらの会話の途中で男達の頬がにんまりと歪んだのを、ウォルはルームミラー越しにはっきりと見た。おおかた、これなら誘拐して酷い目に合わせても問題なさそうだと思ったのかも知れない。

 しばらくすると、車は細い路地を選んで角を曲がるようになっていった。

 どんどん道は寂しくなる。

 

「本当にこちらの道であっているのでしょうか。どんどん街中からは離れていくような気がするのですが……」

「大丈夫です。叔父の医院は大きいので、ああいう街の中では土地が用意できなかったらしいんですよ。まったく、慌て者の叔父らしいですけどね」

「そうですか、であれば結構なのですが……」

 

 なお不安げなメイフゥをよそに、車はどんどん人気の無い道を進んで行く。

 最終的に止まったのは、どう見てもそこに医院が入っているとは思えない、ぼろぼろの廃ビルの前だった。

 

「さ、つきましたよお嬢様方。どうぞ下りて頂いて結構です」

「あの、ここに病院が……?」

「ええ、選りすぐりのスタッフ達が、あなた方に最高のサービスを提供してくれるはずです」

「でも……」

 

 どう考えてもおかしいではないか。病院の看板も掛かっていないし、そもそもこんな不衛生な建物に入った病院などに患者が集まろうはずもない。

 またしても何かの思い違いなのではないですか、と。

 メイフゥがそう言おうとした瞬間、ビルの入口から、粗暴な風体の男が数人、走り寄ってきた。

 

「あ、あの人達はなんですか!?」

「ご心配なさらず。あの格好がたまに傷ですか、それでも優秀なスタッフですので」

 

 クラウスはそう言って、運転席側のサイドウインドウを降ろした。

 

「おそいじゃねえか、クラウス。待ち侘びたぜ」

「すまんすまん、でもその分、中々の上物だろう?」

「ああ、今まででナンバーワンじゃねえか?こいつは高く売れるぜ」

「その前に俺達で味見しようぜ。金もいいがよ、最近はご無沙汰だから溜まっちまってさあ」

「お前、そういって前も一人ぶっ壊したばっかだろう!」

 

 どっと笑いが巻き起こった。

 メイフゥは、がたがたと震えている。その隣の少女は無表情で、まるで目の前で何が起こっているか分からない様子だ。

 そんな二人を見て、羊の皮を脱ぎ捨てた狼連中が、その黄ばんだ牙を見せながら醜く笑った。

 

「というわけだ、お嬢様方。まぁ、こいつらが最高のスタッフだっていうのは間違いじゃないんだぜ。残念なことに医療関係はからっきしだが、女を愉しませることにかけちゃあ超一流だ。なにせ、経験人数が違うからね。設備だって超一流なんだぜ。ベッド、カメラ、バイブにドラッグ、なんでもござれだ」

「今月で何人目だっけ、アホな旅行者を拉致ってくるの」

「これで五組目じゃなかったか?」

「忘れちまったよ、そんなこと。我らが女を食べること、パンをかじりワインを飲むが如しだな!」

 

 また下卑た笑いが巻き起こった。

 ウォルは、やれやれといった様子である。どうやら予想の最悪を極める、下種な男に捕まってしまったらしい。これで、平身低頭で謝らなければならないという未来図は消えたわけだが、それが心温まるわけでは全く無い。

 一言も口のきけない少女達を見て、男は満足げに頷くと、

 

「さ、我が身の不幸を嘆くのはとりあえずそこまでにして頂いて、まずは我らの城までご案内しましょう。ご自分の足で歩かれるのと、俺達に力尽くで引きずられていくのと、どっちが好みですかな?」

 

 最初にウォル達に声をかけてきた男が、慇懃な調子で言った。

 確か、ライアンと呼ばれていただろうか。まったくもってどうでもいいことである。どうせ偽名であろう。もしかしたらどうせ二度と会うことは無いのだから、と本名を使っている可能性もあるのだが、だからといってこんな外道の名前をわざわざ覚えておくつもりは、ウォルにもない。

 とにかく、メイフゥとウォルは覚束ない足取りで車から降り、男達に取り囲まれながら薄暗いビルの中に入っていった。

 ビルの中は酷い有様だった。酒瓶や注射器があたりに散乱し、得体の知れない酸っぱい臭いが立ちこめている。到底人の住める環境ではない。ここを住処にしている生き物がいるとすれば、それは正しくゴキブリかネズミの類だけだろう。事実、昼間だというのに薄暗い建物の中では、そこかしこから小さな生き物の這い回る音が聞こえていた。

 何回か階段を上がり、飛び降りて逃げることが出来ないくらいの高さのところになった時分、大きな部屋に辿り着いた。壁をぶち抜き、わざわざ広くしているらしい。

 天井には鉄骨が剥き出しになっており、そこに絡みつくようにしていくつかの撮影用ライトがぶら下がっている。ライトの向けられた先には特大のベッドが設えられており、その脇には鎖のついた手錠や首輪、その他用途の知れない怪しげな器具が山のように転がっている。

 その脇に、さらに男が数人いた。今二人を取り囲んでいる男と合わせれば、十人をいくら超えるほどか。

 

「さて、俺達は優しいからよ、選ばせてやる。どっちからだ?お姉ちゃんか?それとも妹さんからか?同時でも構わねえんだが、映像的には姉妹丼は最後の方が美味しいんだよなあ」

「なんだ、やっぱり俺達でマワしちまうのか?ボスに怒らねえかなあ」

「いいんだよ、黙っときゃバレやしねえさ。それに、ボスはクスリ漬けにした女を徹底的に壊すのも好きだからな、ばれたらそうしようぜ」

「じゃあ、一番手は俺ね」

「バカヤロウ、お前のデカいのをいきなりぶちこんじまったら、それこそ壊れちまうだろうが。ちったあ前ので懲りとけよ、このでか○○!」

 

 またしても哄笑が巻き起こる。

 何人かは、既に酒でも飲んでいるのだろう、顔が赤く息が酒臭い。それならましなほうで、目の焦点がおかしい連中はドラッグを打っているに違いなかった。

 ウォルは軽い目眩がした。別に男がどうとか女がどうとか、そういう議論は好まないウォルであるが、こういう連中を目の当たりにし、その吐き気のする欲望をぶつけられる身になってみると、世の女性というものに申し訳なくなってしまう彼女である。

 彼らの、耳に入れるのもおぞましい言葉にも、肩を撫で回す掌の不快な感触にも、飽きた。

 もう、心底疲れたような口調で、言った。

 

「あの、もうそろそろいいのではないですかな、姉さん」

「ああ、頃合いだぜ、ウォル。よく我慢したな、お姉さまが褒めてやる」

「こんなことを褒めてなどほしくはないのだがな」

「遠慮するなよ。病気とゴミ以外なら、貰えるもんはなんだって貰っておくべきだぜ」

 

 拳の関節を鳴らしながら獣の笑みを浮かべたメイフゥに、先ほどまでも弱々しい淑女と言った様子はどこにも無い。

 硬質な金の髪はふわりと浮きあがり、戦いを控えた獣の背の毛が逆立つ様を思い起こさせる。

 ただでさえ鋭い目つきは、目尻が更に吊り上がったことで取り返しがつかないほどに物騒なものになっているし、興奮で鼻は膨らんでいるし、にぃと微笑った口元からは犬歯、否、牙が見えている。

 どこからどう見ても、今から手籠めにされる哀れな女性という風情ではない。

 ウォルには分かる。目の前の女性は、戦士だ。それも、飛びきり勇猛で、精強で、なによりも危険な戦士である。いや、ウォルでなくとも、一度でも戦場の空気を嗅いだことのある人間であれば火を見るよりも明らかなはずだった。

 しかし、その危険物を取り囲んだ男連中には、その、簡単で重大な一事が分からなかったらしい。つまるところ、目の前いるのが獲物なのか天敵なのかを見分ける、生物が一番最初に備えるべき最も大事な感覚が抜け落ちているのだ。

 猛獣を目の前にした害虫たちは、大いに笑った。

 

「おっ、この姉ちゃん、俺達とやるつもりらしいぜ!」

「いいじゃねえか、そういう映像もマニアには受けるだろ。よし、じゃあ最初にこの姉ちゃんを押し倒した奴が一番乗りな。顔は絶対に殴るなよー、そういうのは後からでも出来るんだからなー」

「りょーかい。じゃ、お兄さんたちとあそびましょうねー!」

 

 数人の男が、メイフゥを取り囲んだ。いずれも、メイフゥと同じくらいか、それよりも大きい男ばかりであった。身体も、一応は引き締まっている。体重だけで見れば、メイフゥに倍する者もいるだろう。

 それでもメイフゥは怯まなかった。それどころか、その灰褐色の瞳は、薄暗がりの中とは思えない程にぎらぎらと輝いているのだ。

 メイフゥは無造作にウォルの方を振り返ると、言った。

 

「ウォル。そっちにいったやつは、自分で何とかしろよ」

「あいわかった。メイフゥどのは思う存分暴れるがよろしかろう」

「なにをごちゃごちゃと言ってやがる」

 

 一番前にいた男は、自分が幸運だと信じて疑わなかった。目の前の美女を押し倒しさえすれば、自分が一番最初にこの女を抱けるのだから。

 確かに標準よりは立派な体格をしているようだが、それでも所詮は女である。男が力尽くで覆い被されば、それをはねのけることができるとは思えない。事実、今までの獲物は全てそうであった。組み敷いた後で暴れたいだけ暴れさせてやれば、最後には大人しくなって、泣きながら喘ぎ声を上げていたのだ。

 所詮女などその程度の生き物なのだ。男の慰み者になるために生まれてきた生き物なのだ。男の情けがなくては生きていくことも出来ない弱い生き物なのだ。だから、自分達が思うさまに犯すのは神が認めた権利なのだ。

 男は、そう確信していた。

 そして、メイフゥの肩に手を置き、こちらをふり向かせようとする。

 ほら、ケンカが始まっているのに相手から目を逸らすなんて、なんて愚かなんだ。これは俺がきちんと躾けてやらなければならない。それは、俺の義務なんだ。

 男は、そう確信したまま、意識を失った。

 何が起こったか、理解は出来なかっただろう。

 それとも、カツンという、硬質な音くらいは聞こえただろうか。

 周囲からその光景を見ていた男達も、何が起きたのか分からなかった。

 ウォルだけは、分かった。はっきりと見て取った。

 男の意識を刈り取ったのは、拳の一撃だ。

 メイフゥの、素晴らしく速く、信じられないほどに重たい、振り向き様の左バックブローであった。

 空気を切り裂くような音と共に放たれたそれは、正確に男の顎を射貫いた。

 男の顎からベキリと骨の拉げる音が響き、衝撃でもって下顎が五センチほど横にスライドし、目がくるりと裏返り、そして男は無様に崩れ落ちた。

 痛いと感じるほどの暇も与えられなかったに違いない、電撃のような一撃だったのだ。

 

「おいおい、この程度、あのアホチビでもかわしてくれるってのに、冗談だろ?」

 

 呆れたように、メイフゥは呟いた。

 呟きながら、思い切り、足下に横たわった男の顔面を、その下駄で踏み抜いた。

 ぐしゃりと、小気味良く音がする。

 足の下で、絶息寸前の魚のように痙攣する男の顔を、なお下駄の底で踏み躙りながら、メイフゥは不敵に嘲笑っていた。

 その体勢のまま体重をかけてやると、ぺきぺきと、男の歯が砕ける音が聞こえた。

 メイフゥは、たまらないというふうに身体を震わせた。

 

「ああ、いいなあ、この音、たまらねえなあ。もっと欲しいなあ」

 

 ウォルでもぞくりとするほどに、艶に満ちた声だ。

 男達の中には、今、目の前の女が何をしているのかを理解できない者がいただろう。

 どうしてこの女は、男の顔を踏み躙りながら、男に抱かれたような声で啼くのか。

 それが、理解できない。

 理解できないから、怖い。

 怖いから、動けない。

 メイフゥの前の男達は、もはや蛇に睨まれた蛙も同然であった。

 

「おいおい、早く来ないと、お前らの、友達の、歯が、全部、無くなっちゃうよ?」

 

 はっとした男達が我に返ると、ごぼごぼと、泡立つような音が聞こえてくる。

 それも、倒れた男の口元から聞こえる。

 見れば、男の口の中に赤い血の池が出来ていた。

 歯が根本から砕けて、溢れ出た血が口腔に溜まり、溺れているのだった。

 その男の、魂が抜けてしまったかのように虚ろな目が、仲間に更なる恐怖を与える。

 だが、男達を縛り付けたのが恐怖であったならば、恐怖から解き放ったものもまた恐怖であった。

 我が身に差し迫った、生命の危機に対する恐怖だ。

 この女を、全員の力を合わせて今仕留めなければ、次は自分が同じ目に合わされるのだ。

 あまりに遅きに失したが、ようやく男達も目の前にいるのが猛獣の類であることに気がついたのだった。

 

「このくそアマぁ!」

 

 最初にやられた男の次にメイフゥに近かった男が、問答無用で蹴りにいった。

 格闘技の素養があるのか、それなりに形になっている。

 中段蹴りである。

 腕に当たれば女の細腕程度はへし折るだろうし、脇腹に当たれば内臓を破裂させる。

 そういう自信のある蹴りであった。

 しかし、蹴りは当たらなかった。

 蹴りが放たれ、それがメイフゥに当たる前に、メイフゥの下駄の爪先が、露わになった男の股間にめり込んでいたからだ。

 ぐちゃりと、湿った音が鳴った。

 

「ああ、この感触、残念だなぁ、二つとも、アウトだなぁ」

 

 感極まった声で、メイフゥが啼いた。

 意味は明らかである。男の睾丸を、二つとも潰してやったと、そういう意味だ。

 その言葉を理解するまでもなく、男は両手で股間を押さえ、その体勢のまま俯せに倒れた。

 その顔が、ウォルにも見えた。

 すごい顔だった。

 この世に、苦痛で歪んだ顔の一覧があるとすれば、その最右翼に並ぶであろう顔だ。

 大の男の顔が痛み一つでここまで歪むのだと、万人に知らしめる顔だ。

 倒れた男の股間のあたりに、赤い水たまりが出来ていた。

 小便と血の混ざった液体だった。

 次の男は、一味の中で一番大きな男だった。

 上背もメイフゥより頭一つ分ほど大きいし、緩んだ腹回りなどを考えれば体重は倍ほどもあるに違いない。

 その大男が、身体ごとぶつかってきた。

 とりあえず押し倒してしまえば煮るのも焼くのも思い通りだと考えたのだろう。

 頭から突っこんでくる大男。

 しかしその思惑は達成されなかった。

 メイフゥはその大男の頭を、無造作に片手で受け止め、そのまま地面に向けて押し潰し、押さえ込んだ。

 それだけで、大男はびくとも動けなくなってしまった。

 

 ――嘘だろ?

 

 大男は四つん這いに蹲りながら、自分の身に起きていることが信じられなかった。

 どう考えても自分の体重の半分しかない女が、どうして片手で自分を押さえ込めるというのか。

 しかも、ぶつかりに行ったときのあの感触。

 まるで大地に根を下ろした大木のように、ぴくりとも動かなかった。

 大男の額を冷や汗が濡らす前に、寒気のするような風切り音が、大男の耳をくすぐった。

 そこまでが、大男の知覚できる限界であった。

 メイフゥの膝が、大男の顔面めがけてすっ飛んでくる音だった。

 ぐしゃり、と、硬い物の拉げる音が響いた。

 

「えげっ」

 

 素っ頓狂な声を最後に、大男は完全に沈黙した。

 大男の鼻が、否、顔面の中央部分が、膝の形に、完全に陥没していた。

 ゆっくりと膝を引き抜くと、にちゃりと、糸を引く血が橋をつくった。

 メイフゥが片手を放すと、支えを失った大男の身体が、ゆっくりと崩れていった。

 俯せに倒れた大男の顔面から、放射状に血が広がる。

 到底、鼻が可愛らしく曲がった程度の出血量ではなかった。

 

「おお、汚ねえ、豚の血だ!」

 

 げらげらと腹を抱えて笑ったメイフゥは、ぴたりと止まり、それから完全に萎縮している男連中に向かって歩き出した。

 だらりと両手を下げ、散歩をするような何気ない様子で。

 それでも、もはや男達に戦う気力は残されていなかった。

 少なくとも、素手で戦う気力は、だ。

 

「こ、殺す!殺してやる!」

 

 調子の外れた声でそう叫んだ男は、ポケットから、細長い、長方形の物体を取り出した。

 一振りすると、中から鋭い刃が姿を見せる。

 バタフライナイフというものだろう。

 男は両手でそれを握りしめ、しきりに刃を動かして威嚇した。

 

「く、来るなよ、近寄ったら殺すぞ!」

 

 先ほどと、ニュアンスが微妙に違う脅し文句を口にしながら男が後退る。

 しかしメイフゥは、男が後退るよりも僅かに早く、前に進んでいく。

 じりじりと、距離が詰まっていく。

 まるで獲物をいたぶるような速度だ。

 

「く、来るなっつってんだろうが、この化けモン!」

「へぇ、ひかりもん、出すかよ。じゃあ、殺すつもりが、あるってことだよな?なら、殺されるつもりも、あるってことだよな?あたしは、お前を殺してもいいってことだよな?」

「は、はぁ?何言ってんの?意味わかんね!意味わかんね!意味わかんね!頭おかしいんじゃねえか、てめええ!」

「嬉しいぜ、だってこんなに、おなかが、ぺこぺこだ、もう、我慢ならねえ、もう、たまらねえ」

「ひ、ひぃぃぃ!?」

 

 先ほどまでも恍惚とした視線だったメイフゥだが、既にウォルなどから見ても様子がおかしい。

 確かに、戦場において血に狂った兵士は精神に変調を来した振る舞いをみせることがあるが、その一線を更に越えている。

 まるで、飢えた野獣のように、静かな、それでいて隠しきれない狂気を孕んだ、人以外の生き物の気配を放っている。

 リィとは違う。リィがウォルの前で初めて人を喰い殺したときも確かに人外の気配を放っていたが、それとはまた別種の生き物の気配である。

 ウォルは、ぞくりと背筋に冷たいものが走る感触を覚えた。

 

「く、くるな、くるな、くるなぁ!」

「だめだ、だめだだめだだめだだめだだめだ。行くぞ、いま行くぞすぐ行くぞほら行くぞさあ行くぞもう行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞいくぞいくぞいくぞいくぞ」

「ひ、ひいいいいい!」

 

 甲高い悲鳴を上げた男の目がくるりと回り、膝から崩れ落ちるのをウォルは見た。

 極度の緊張に神経が絶えきれず、失神したものと思われた。

 まるで神の前に跪いた信者のような姿勢の男、その股間から、濃いアンモニア臭が漂ってきた。

 失禁したらしい。

 それを見たメイフゥは、拗ねたように口を尖らせた。

 

「なんだ、つまんないの」

 

 まるで、おもちゃに飽きた幼女のような口調だった。

 しかし、おもちゃはまだまだあるのだ。

 ぐるりと、首を回す。視線の先には、彼女のおもちゃが、肩を寄せ合わせて震えているのだ。

 ああ、まだまだ愉しめるのだ、と。

 

「次は、ピストルか?ショットガンか?マシンガンか?爆弾?装甲車?戦闘機?宇宙戦艦?なんでもいいぞ?なんでもいいから、かかって来い。あたしを退屈させるな。死ぬまで戦え。死ぬまで戦って、死ぬまで戦ったら死ね。あたしが殺してやる」

 

 全てを受け入れる聖母のように手を広げたメイフゥは、男連中には悪魔にしか見えなかったはずである。

 

 

「落ち着いたか?」

 

 水の入ったペットボトルを渡し、呆れたようにウォルは言った。

 ペットボトルを受け取ったのは、散々返り血に塗れたメイフゥである。喉の渇きを潤すと、流石に少し疲れた様子で、苦笑しながら言った。

 

「いやぁ、思ったよりも楽しめたな。まさかこんなにいやがるとは、正しくゴキブリの如しだ」

 

 彼女の灰褐色の瞳の先には、山と積まれた男達の身体がある。

 そのいずれもが重傷であった。骨が折れているか、睾丸が潰れているか、意識を失っているか。平気な顔で立ち上がれる者は一人としていないだろう。明日から、少なくとも一月の間は病院のベッドで過ごさなければならない者が過半のはずである。

 先ほどの男達の言動と、この場に残されていたいくつかの物証から、ここにたむろしていた男連中が今まで数多くの女性に非道を働いていたのは間違いない。であれば、同じ女性である(?)メイフゥから痛い目に合わされるのは因果応報ということになるはずなのだが、それにしても哀れを誘う有様であった。

 

 ――当然の報いとはいえ、何とも凄惨な……

 

 第三者のように評するウォルであるが、しかし彼女もメイフゥほどではないにせよ数多くの戦果を誇っている。

 メイフゥを相手取るのが無謀であると判断した数人の男が、ではその妹を人質に取ろうとしてウォルの元に殺到したのだ。

 何せ、見た目は中等部の、しかも低学年程度の少女のウォルである。どう考えてもこちらを相手にしたほうが賢い。

 

『おらぁ化け物!てめえの妹がどうなっても、ぶへっ!』

 

 しかし、相手はウォルである。どのような姿形をしていても、ウォルである。

 ここではない他の世界で、闘神バルドウの現し身と呼ばれた戦王であり、将兵なくともデルフィニア随一の剣士であった男である。

 まして、その魂が宿っているのは、現世の戦女神と呼ばれたその妻と同じ生き物の身体なのだ。見た目はどれほど可愛らしいミニカーであっても、フレームは超々硬度合金製であり、積んでいるのはドラッグレース用のモンスターエンジンである。

 素手であることを差し引いても、そこらのならず者の手に負える相手ではない。

 当然の如く、安易にウォルに矛先を違えた男達は、見た目と強さが必ずしも比例しないのだという教訓を身体に叩き込まれて、地に伏せることとなった。それにしたって血に狂ったメイフゥの相手をせざるを得なかった連中に比べれば幾分ましな結果ではあったのだろうが。

 

「ヤームル殿の言っていた『火遊びもほどほどに』とはこのことであったのだな」

「ああ、そんなこともいってたな、ヤームルのやつ。くそ、これじゃあばれちまうかな、派手に遊んだこと」

 

 血の染み込んだ紬を苦々しげに眺めながら、そんなことを言った。

 つまり、こういうことは初めてではないということだ。

 メイフゥは年齢のわりに成熟した外見をしているから、少し隙を見せてやればいくらでも男は釣れる。その中で、自分が遊んでもやっても問題のないごろつきを見繕い、今までの悪事のお灸を据えてやる。それが彼女の趣味なのだ。

 なんとも物騒な趣味であるが、この実力を見る分には、今まで一度だって危ない目にあったことがないのではないだろうか。街のごろつき程度が束になってかかっても、彼女の身を危険に晒すなど不可能事にしか思えない。

 しかし、それが最も危険であるということに、おそらくメイフゥは気付いていない。

 

 ――難儀なことだ。

 

 インユェとは違う意味で姉の方も厄介なのだとウォルはあらためて悟った。

 そんなウォルの内心を知って知らずか、メイフゥは返り血に塗れた自分の身体を見て、あらためて溜息を一つ吐き出した。

 ヤームルからお小言を頂くのは、この女傑をして憂鬱にさせるらしい。

 

「ま、先のことに頭を悩ませても仕方ねえな。やるべきことから片付けちまうとするか」

 

 よっこいしょと立ち上がったメイフゥは、倒れ伏した男共のうち、比較的傷が少ない、まだ呻き声らしきものをあげることの出来ている男の所まで歩いて行った。

 そして、髪を鷲掴みに掴んで、強引に引き起こした。

 引き起こされた男の顔は、何とも情け無い顔だった。形の良い鼻は歪み、銀縁メガネのレンズの片方は砕けてしまっている。ちらりと見えた白い前歯も、幾本か欠けているようだ。

 だが、ウォルはその顔に見覚えがあった。最初、バスの中で自分達に声をかけてきた男だ。なんという名前だったかは既に忘れてしまったが。

 

「おい、起きろ」

「な、なんだよ、これだけのことをやっといて、まだ何か用があるのかよ」

 

 口調もはっきりしている。どうやらメイフゥは、この男だけは手加減して倒したらしい。

 男は、自分が比較的無事なことについて、何か都合よく勘違いをしたのだろう、いかにも強気な口調で続けた。

 

「お前、こんなことをしておいてただで済むと思うなよ。俺はな、憂国ヴェロニカ聖騎士団のメンバーなんだ。調子に乗るなよ、絶対に、死んだ方がましだっていう目に遭わせてやる。生臭い肉食女め!必ず神の報いを受けさせてやるからな!」

「おお、怖え怖え。怖すぎて、元凶をもとから断ちたくなるなぁ。そうだ、その口を二度ときけなくしてやろうかなぁ。そうすりゃあ、誰が誰を殺したか、わからなくなるもんなぁ」

 

 男が、黙り込んだ。

 くだらないことを言っていると殺すぞというメイフゥの意志は、はっきりと伝わったらしい。

 青い顔で口をつぐんだ男に、メイフゥは優しげな声で、

 

「おいおい、黙り込むなよ。お前さんには聞きたいことがあるんだからさ」

「……なんだよ」

「あれだよ」

 

 くい、と親指で後ろを指す。

 ウォルも、そちらに視線をやる。

 部屋の隅である。

 そこには、黒い、そして四角く大きな物体が、どんと置かれていた。

 金庫であった。

 

「そ、それがどうした……」

「察しが悪いなぁ。ほれ、寄越せよ、鍵と暗証番号」

 

 メイフゥはにこやかに、手を差し出した。

 男は、見下げ果てたように笑い、

 

「はん!次は強盗の真似事かよ!これだから生臭共は……!」

 

 そこから先は言えなかった。

 メイフゥが、鼻頭を殴りつけたからだ。

 

「げふっ……げほっ……」

「ほら、鍵と暗証番号」

「お、俺はそんなもの知らな……!」

 

 もう一度、殴りつけた。

 

「鍵と暗証番号」

「ほ、ほんとうにしらな……!」

 

 もう一度。

 

「かーぎーとっ!あーんーしょーうーばーんーごーうっ!」

「……!」

 

 もう一度。

 メイフゥは、溜息を吐いた。

 

「あのなぁ。お前さんが、この巣のゴキブリ共のボスだってことくらい、わかってるんだ。あんまりあたしを舐めると、鼻が顔の中に埋まって、これからの一生を口で息して生きていくことになるぞ。そんなの、息苦しいだろう?今だって息苦しいはずなんだからな」

 

 メイフゥは、鼻血でどろどろになった男に、優しげに言い聞かせた。

 そしてもう一度殴り、言った。

 

「鍵と暗証番号は?」

「ごほっ、ゆ、ゆるしてくれ、あのなかにはとんでもないモンがはいってるんだ。おれやあんたの命くらい、簡単にぶっとんじまうくらいのやつさ。そんなもん持ってったって、碌なことねえぜ。あんただって死にたくないだろ、な?」

「お前さん、頭が良さそうなツラのわりに、脳味噌が可哀想だな。それともあたしが殴り過ぎちまったのか?いいか、よく聞けよ。あたしは連邦未加盟の辺境出身で、宇宙生活者だ。あんたをここで殺したって、痛くも痒くもないのさ。ひょいと逃げりゃあこの国の警察は追ってこれねえし、連邦警察はけちなちんぴらが一人死んだくらいじゃ動かない。ほら、あたしはちっとも困らない。ここまでオーケー?」

 

 一発殴った。

 

「あたしはあんたが吐くまで問答無用で殴り続けるぜ。それこそあんたが痙攣しはじめて糞小便を垂れ流しても絶対に止めねえ。死ぬまで止めねえ。そもそも、別に金庫の中身が頂けなくても、あたしが死ぬわけじゃあないんだからな。死ぬまで殴り続けてやる。ではここで問題だ。ここであたしに問答無用で殴り殺されるのと、げろった後で逃げだす算段を考えるかそれともボスとやらに精一杯言い訳してどうにか許してもらう可能性を残すのと、どっちがいい?それとも、その程度の損得勘定も働かせられないくらいに貧弱シナプスなのか?だったら生きてる価値もねえよ」

 

 メイフゥはからからと笑った。

 

「じゃあ、くだらねえ問答は終わりだな。そうだ、やっぱりお前さん、しゃべってもしゃべらなくてもいいぜ。あたしが勝手に殴るからさ。死ぬまで殴るからさ。気が向いたら、差し出したいモンを差し出せばいいやな」

「ちょ、まって……!」

 

 メイフゥは晴れ晴れとした笑顔のまま、大きく拳を振りかぶった。

 血塗れの紬の袖から覗く二の腕が、おそろしい程に太い。普段のメイフゥの倍以上はあるのではないだろうか。

 みしみしと筋肉が軋む音が聞こえてきそうな、見事に引き絞られた二の腕だった。男であっても、ここまで見事な上腕二頭筋を持つ者はそういないだろう。

 その腕に思い切り殴られれば、一体どうなってしまうのか。

 男の口を縛っていた紐の強度も、そこまでが限界だった。

 男は泣きながら脇の下に手を入れ、小さな包みを取り出した。

 逆さにして中身を取り出すと、小さな鍵と、折りたたまれたメモ用紙が出てきた。

 メイフゥはそれを受け取ると、

 

「最近はさ、間違えた鍵を差し込んだり暗証番号を入れたりすると、自動的にロックして、通報まで済ませてくれる便利な金庫があるらしいぜ。ま、そんなことはねえと思うが、一応聞いておく。もしお前さんがそんな姑息な真似をしても、もう一度言うが、あたしは一向に困らねえんだよ。あんたを殴り殺してこの星から逃げ出すだけだからな。さて、何か思い出すことはねえかな?」

「そ、そうだ、忘れてたよ!鍵はそっちが本物で、パスはこっちが正解だった!」

 

 男は、先ほどの包みを取り出したのとは逆の脇の下から、まったく同じ大きさの包みを取り出した。

 中には、やはり同じく鍵とメモ用紙が入っている。

 メイフゥは、引ったくるようにそれを奪い、最後にもう一度男の顔面を殴った。

 

「……かはっ……お、おい、おれはあんたのいうとおりに、かぎをわたしたじゃねえか!」

「おお、説明が足りなかったな。こいつは忘れっぽい脳味噌を活性化させる、あたしの国に四千年前から伝わるショック治療さ。もしよければもう一発いっとくかい?」

「……!」

「言っとくが、もしこれ以上あんたがド忘れしてる場合は、あたしの知りうる限りのショック療法であんたの記憶力を取り戻させてやるつもりだぜ。そこんとこはオーケー?」

 

 男はかくかくと首を縦に振った。メイフゥに髪を掴まれたままだったので、なんとも滑稽な様子であったが。

 男の目を覗き込んだメイフゥは、満足げに一度頷き、それから男の髪の毛を放してやった。その拍子に男はべちゃりと地面に張り付き、抜け落ちた大量の頭髪がひらひらと宙を舞った。

 メイフゥはずんずんと金庫に向かって歩を進め、その前に蹲った。

 

「お、おい、あんた!もう一度言うが、最初に渡した鍵と、次に渡したパスだぞ!絶対に間違えてくれるなよ!あんたが間違えて金庫がロックしても、俺は悪くねえからな!」

 

 だから殺してくれるなと、そういう意味だろう。

 男の悲鳴を一顧だにせず、メイフゥは金庫に鍵を差し込み、暗証番号を打ち込んだ。

 かちりと、鍵の開いた音がする。

 舌舐めずりする表情のメイフゥが分厚い鉄の扉を開けると、そこには……。

 

 

「いやぁ、大漁大漁!」

 

 ほくほく顔のメイフゥがハンドルを握っている。その隣にウォルが座っている。

 二人が乗っている車は、当然、彼女らの持ち物ではない。連中の車の中で、一番見栄えのいいものを奪ったのだ。

 彼女達が廃ビルに連れてこられた時と、同じ車であった。

 

「時給になおしたら2000万から3000万ってとこか?話に聞くクーア財閥の総帥だって、こんなに高給取りじゃないだろうさ!」

 

 後部座席には、どっさりと札束の入ったカバンが無造作に置かれている。アジトに置かれていた金庫の中に、詰め込まれていたものだ。

 おそらくはまともな金ではないだろう。叩けば埃どころか、被害者の血液や涙さえ滴りかねない、汚れた金である。

 到底あんな奴らに使わせるには勿体ない。こういうものは、もっと素晴らしい使われ方をするべきだ。メイフゥはそう確信している。そして自分ならば、その素晴らしい使い方が出来るのだとも確信していた。

 だから頂いたのだ。誰に恥じるつもりもない。

 そして、メイフゥがバスの中で男に声をかけられてから今まで、ほんの二時間ほどしか時間は経っていないのだ。割のいい狩りだった。メイフゥが鼻歌の一つも歌いたくなったとして、それは無理もないことであった。

 

「それに、こんなもんまで頂いちまって……!」

 

 メイフゥが嬉しげに弄んでいるのは、コンピュータのチップであった。

 そこにどのような情報が入っているのかは分からないが、しかしあの男が必死に守ろうとしたのはどう考えても札束ではなくこちらのほうだ。

 この中にどんな情報が入っているのか、それを使えばどれほどの金銭を生み出すことが出来るのか。

 メイフゥの頭の中は、今が春の盛りであった。響くのはホトトギスの鳴き声ではなくソロバンを弾く音であり、舞い散るのは桜ではなく紙幣の吹雪であったが。

 

「それもこれもお前のおかげだな、ウォル!お前がバスの中でタイミングよくあたしを起こしてくれたから、あの野郎が上手いこと釣れたんだ!半分はお前の分け前だぜ、ウォル!」

「……俺はいらん、そんな金」

 

 ウォルは、不機嫌を隠そうともせずに、言った。

 メイフゥは、驚いたりはしなかった。寧ろそれが当然であるとすら思った。

 

「何だよウォル、まだ怒ってんのか。別にいいじゃねえか、げす野郎に肩を撫で回されたくらいよう。野良犬に舐められたとでも思って忘れろよ」

「そんなことに腹を立てているのではないことくらい、メイフゥどのなら分かっているはずだが?」

 

 視線も寄越さずに、ぴしりとした調子で言った。

 

「悪漢にきつい灸を据えるのはいい。少しやりすぎな気もするが、相手が相手だ、十分に許容の範囲内だろう。しかし、その金を奪うまでしては、奴らのしていることと何が違うというのだ。だいたい、その金は奴らが非道をして、哀れな女性達を売り飛ばすことで作った金だろう。それをメイフゥどのは、気持ちよく使うことが出来るというのか」

「ああ、出来るね。あたしはこの金を使うことに、何の罪悪感も覚えない」

 

 朗らかな口調で続ける。

 

「逆に聞くがよウォル。お前さん、この金はどうするべきだと思うね?今から奴らに返しに行く?そうすりゃ奴らは泣いて今までの罪を詫びるかも知れねえがよ、この金は今日にでも奴らの酒とクスリのために消えちまうだろうさ。じゃあ、売られていった女を捜して助け出すために使うか?そんなこと無理だね、これっぽっちの金じゃあな。この広い宇宙のどの星にだって、身売りされた女の行き着く女郎宿はあるんだ。第一、女連中がもう既に墓の下にいないっていう保証もない。そんな中から奴らにさらわれた女を捜すなんて、砂漠に落とした針を探すようなもんさ。それとも、哀れな女の霊とやらを慰めるため寺にでも寄付するかい?そうすりゃ喜ぶのは坊主ばかり、やつらが金ぴかの仏像に自分の名前を彫るためにこの金は有難く使われちまうだろうさ。さて、お前さんはどの使い方を選ぶんだい?」

 

 ウォルは何も話さず、前だけを見ていた。

 

「金に綺麗も汚いもないさ。金は金、それ以上でもそれ以下でもない。百歩譲ってもし仮に金に綺麗だの汚いだのがあるとしても、それを言っていいのは汚い金を捨てるだけの余力のある金持ち連中だけだぜ。あたしらみたいに、明日を生きる金もないような貧乏人は、汚い金であっても縋り付くしかないのさ。第一こいつは、あたしが命を賭けて奪った金だぜ。もしもあたしがヘマをやらかしてたら、今頃あいつらの慰み者だったんだ。心も体もぼろぼろになるまで弄ばれて、最後は場末の女郎宿か、変態趣味の金持ち連中の性奴隷が関の山さ。なら、こいつは労働の質に見合った正当な対価だと、あたしは思うがね」

 

 理屈で言えば、メイフゥの意見は至極正しい。非の打ち所が無い。

 そして、ウォルもその程度のことは百も承知なのだ。金の綺麗汚いなど、国王として国の運営を司った彼女からすれば、一番最初に潜り抜けた煩悶である。

 しかしウォルにはそれが気に食わなかった。理屈を抜きにして気に食わない。だから、ふてくされたように言った。

 

「燃やしてしまえ、そんな金」

 

 メイフゥは、目を丸くしてウォルの方を見てから、火がついたように笑った。

 笑いすぎて、危うく前の車に追突するところであった。

 

「……何がおかしい」

「いや、ウォル、あんた、やっぱり可愛いよ。あたしの妹にしたい、いや、絶対にしてみせるぜ」

「俺は、既にある方の養子になっているのだ。これ以上、養い親を持つつもりはない」

「あんたがあたしの親の養子にならなくたって、あたしの妹になる方法なんて、あるじゃないか」

 

 メイフゥは、気安く言った。

 ウォルが、何を言っているのかと問う前に口を開き、こう言った。

 

「あんたがインユェの嫁になればいい」

 

 流石のウォルも唖然として、ハンドルを握ったメイフゥの顔を見た。

 メイフゥは、もう笑っていなかった。

 真剣な表情で、言った。

 

「あいつだって、あんたのことを憎からず思ってるはずさ。あんたさえよければ、明日にだって祝言は開けるんだぜ?あたしの国には、やれ年齢制限だやれ親の許可だ、そういうしちめんどくさい決まり事はねえからな。なに、結納金なら心配はいらねえ。この金の半分を使えば十分に足りるだろうしな」

 

 結納というものが何なのかウォルには分からないが、おそらくはメイフゥの生まれ育った文化において、花嫁が必要とする何かなのだろう。ウォルはそう理解した。

 

「……本気か、メイフゥどの」

「本気も本気、大本気さ。これが冗談でしたなんて言ったら、その場で腹をかっさばいて死んでやる」

 

 大真面目な様子のメイフゥに、ウォルは一つ苦笑を漏らして、

 

「ありがたい話だが、お断りさせて頂く」

「どうしてだい?インユェは確かにまだちいせえ男だが、将来性はあるぜ。なにせ、あたしの弟で、あの海賊王の息子なんだからな」

「……海賊王?」

 

 聞き慣れない単語に、ウォルは問い返した。

 

「あれ、知らないかい、海賊王。最近、海賊王のトリジウム鉱山がどうとかで、話題になってるアレさ」

「それがどうしたというのだ?」

「この広い共和宇宙に蔓延る、数多の海賊達の頂点に立った男。それが、あたしとメイフゥの親父どのさ。だから、あいつは将来、大きな男になる。もちろんあたしなんかよりも、ずっとずっとだ」

 

『暴力をもって奪い取る海賊達の時代は、俺の代で終わりだ。お前達は、知力と胆力でもって掠め取れ』

 

 遠い昔、そう悲しげに言った父の顔を、メイフゥは既に覚えていない。

 ただ、見上げる程に大きい長身、壁のように広い肩幅、潮の灼けたような匂いと機械油の匂いの入り混じった、不思議な匂い。そして女性ならば誰しもが恋に落ちるような笑顔は覚えている。

 事実、メイフゥの初恋は、その時に始まり、その人が父だと知った時に終わったのだ。

 淡々と語るメイフゥの言葉に、嘘があるとは思えなかった。

 だがウォルは、首を横に振った。

 

「インユェがどれほど素晴らしい男に育ったとしても、駄目だ」

「どうして?」

「俺は、もう婚約を済ませてしまったからな」

 

 今度はメイフゥが唖然とする番だった。

 唖然としすぎて、アクセルから足を放してしまった。

 それでもしばらくの間はのろのろと前へと進んだ車は、やがて慣性の力に負けて、道のど真ん中で止まった。

 後ろの方からけたたましいクラクションが鳴らされるが、メイフゥはまったく気にしなかった。というよりも、気にする余裕が無かったのだ。

 

「……マジか?」

「ああ、マジもマジ、大マジだ。これを冗談と後で言うならば、俺はその場で首を括って死んでやってもいい」

 

 魂を抜かれたような様子のメイフゥが、ふらりとハンドルに寄りかかり、力無く項垂れてしまった。

 あまりに放心した様子に、流石のウォルも心配になった。

 

「メイフゥどの、大丈夫か?」

「大丈夫ちがう。全然ちがう。むしろ大ショック」

 

 彼らの後ろに出来ている渋滞は、既に危険な長さになっていた。

 いずれ堪忍袋の緒の切れた運転手の誰かが、この車に詰め寄るだろう。その時に相手をするのは、あまりの驚きに我を失った獣である。

 一刻も早く、車を再発進させる必要があった。

 

「ああ、最初にあんたを見たときから、インユェの嫁にぴったりだと思ってたんだ……今でこそあいつの器じゃあ分不相応だけど、もう少し大きくなればあいつにお似合いだと……ウォルになら、インユェを預けられると思った……思ってたのになぁ……」

「……前から聞こうと思っていたのだが、メイフゥどの。あなたは、ことある事にインユェに突っかかるが、インユェのことを憎く思ってのことか?」

 

 茫然自失の態のメイフゥは、力無く首を横に振った。

 

「では……」

「あのさ、ウォル。お前、兄弟はいるかい?」

 

 ウォルは、刹那、首を縦にも横にも振れなかった。

 血の繋がった兄弟、という意味で言えば、一人もいない。彼女の、父方のみ血の繋がった兄弟は全て非業の死を遂げ、だからこそ彼だった彼女のもとに、王冠などという碌でもないものが転がり込んできたのだから。

 しかし、義理の兄弟ということであれば、こちらの世界で得たばかりだ。黄金の狼と、その愛すべき家族達……。

 思い起こすだけで暖かな名前を指折り数えたウォルの耳に、寒気のする声が飛び込んできた。

 

「じゃあさ、ウォル。その兄弟から、ばけものって呼ばれたことは、あるか?」

 

 そう呟いたメイフゥの瞳に、薄く涙が浮かんでいるのを、ウォルは確かに見た気がした。

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