懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
既に日も傾こうかという頃合いに、ヤームルは目当ての酒場をもう一度訪ねた。
先ほどドアを叩いた時は、準備中の看板が立っていただけでなく、中に人の気配そのものが無かったので、出直すことにしたのだ。
流石に今の時間になっては料理の仕込みその他諸々の開店準備がいるから、店の中からは人の気配がする。
ヤームルはあらためて、ドアを引いてみた。
鍵は、かかっていなかった。
「まだ準備中だよ。おもての看板が見えなかったのか」
ヤームルを出迎えたのは、ぶっきらぼうな声だった。
確かに、表には準備中の看板が下りているし、酒場と称される店が開くような時間にはまだ早すぎるのも理解している。しかしここまで不機嫌な調子で出迎えられては、果たしてこの店に客商売をする気があるのかと疑いたくもなる。
だが、ヤームルは気分を害したふうではなく、込み上げてくる懐かしいものを噛み殺すかのように苦笑した。
「聞こえなかったのかい。邪魔だからさっさと出て行ってくれと言ってるんだがね」
「相変わらずだな、ブルット。そんなあんばいでよく店が潰れないものだ。よっぽどこの星の神様に愛されてるのか、それとも女将さんが苦労しているのか」
ブルットというのは、この酒場のマスターの名前であり、しかしそうではない。
遠い昔、大地を耕す鍬よりも宇宙を駆ける翼にこそ価値を見いだしていた若き日に、その名を使っていたことがあった。
ブルットという名を持つ男は、宇宙にその名を馳せた、大海賊団の一員だった。
海賊団。しかし今の海賊のように無法者の集まりというよりは、宇宙の荒くれ者といった意味合いが強い。昔はそうだったのだ。
しかし、どのような美辞麗句で飾り付けようと、それは犯罪者の集団だ。到底お天道様に顔向けできるような過去ではない。
だが、たとえ人から後ろ指をさされる脛に傷持つ身の上だったとして、彼はあの頃の自分を恥じたことは一度もない。もっとも輝かしい星を追いかけて、自分もその群れの一つとなったのだ。
だからこそ、同じ流星の一つであった旧友との再会を、喜ばないはずがなかった。
薄暗い店の中に、椅子の倒れる派手な音が響いた。
「ヤームル!ヤームルじゃねえか、生きてやがったのかよこの野郎!」
「それはこっちの台詞だ。まったく、年賀の挨拶の返しも寄越さないとは、それでも一国一城の主か?」
「あん?ああ、あのけったいな文のことか?なんだか小難しいことばっか書いてるから、読まずに捨てちまったい。そもそも連絡するならするで、恒星間通信なりなんなり、もっとすぱっとした方法があるじゃねえか。小便臭い小娘みたいに、まどろっこしく手紙なんか使わなくったってよう」
「ばかやろう。そのまどろっこしさが粋なんだろうが。まったく、我らが突撃隊長殿はいつまでたってもそこらへんの理解が不自由だな」
「はん、水先案内人のてめえがそんなだから、俺らの船団は、やれ奇人変人の集まりだ、やれ時代錯誤の船乗り連中だとか、同業者からして散々な言われようだったじゃねえか。おかげでこっちは大変だったんだぜ」
「誰よりもその呼ばれ方が大好きだった野郎が言っても少しも説得力がないぞ、『かぶきものブルット』」
聞き絶えて久しかった昔の通り名を聞いて、だぶつきはじめた腹の肉を震わせながら、酒場のマスターは笑った。
ヤームルは、あらためて懐かしき友の顔を見た。
かつては精気に満ちて黒々としていた頭髪も、少し頼りない様子になっている。色街の女達を虜にした不敵な笑みも、無数の皺に埋め尽くされた赤ら顔の中に見いだすことは出来なかった。
「変わらないな、ブルット」
「ああ、そうだな、おめえと同じくらいには、俺も昔と変わってねえよヤームル」
皮肉げに口元を歪めながら、酒場のマスターが言った。
なるほど、つまりは自分も相当に老いているということかと、ヤームルは自慢の口髭をしごきながら思った。考えてみれば、この癖だって現役時代にはなかったもののはずである。
「で、店長殿。お邪魔なようなので外で待たせて頂きたいのだが、この店は何時に開くのですかな?」
「おう、すっかり忘れてた。今日はこの店の特別記念日でな、なんとたった今開店したところさ。お客さん、運が良いったらねえぜ」
「ほう、それはめでたい。ちなみにどんな記念日だね?」
「聞いて驚け。今日はな、しみったれた場末のマスターがくそったれの死に損ない爺と傷の舐め合いをするっていう、由緒正しい記念日なのさ」
「そういうものは厄日というのだと思うが、まぁいいさ。美味い酒が飲めるなら、それ以上のことは願うまいよ。ただ、それ故に美味い酒を頼むぞ」
「まかせとけ。今年も良い酒が出来たんだ。あいつもお前に飲ませたがってたぜ」
そう言ってマスターはカウンターの奥に姿を消した。
ヤームルは、カウンター席の一番端に腰掛けた。他に客がいるわけでもなかったが、自分には中央の席に座る資格、あるいは勇気が欠けていることを彼は知っていた。
もう一度、店内を見回す。
意外なことに、かなり広い店だった。昔、風の噂にこの男が所帯を持ち酒場のマスターをやっていると聞いたときは、カウンター席しかないような狭っくるしい店でさぞ頑固親父をやっているのだろうと予想していたのだ。片方は正解だったようだが、片方は間違いだったらしい。
それに、センスも悪くない。席の配置もそうだし、店内を飾る装飾品も、高級品とまでは言えなくとも質は良い。それらが、華美と悪趣味のぎりぎりのラインを見極めて配置されている。
おそらくは、彼の夫人のセンスなのだろう。少なくとも、自分の知るブルットという男に、こういう気の利いたところは欠片程度にしかなかったはずだ。
ヤームルの口から感嘆の吐息が漏れ出していた。
「驚いたかい、俺がこんな店を持っているのがさ」
よく磨かれたカウンターの上に、小さなグラスが二つ、置かれた。
こんな店だから、例えばバカラのロックグラスでも出てくるのかと思ったが、ヤームルの目の前にあるのはどこにでも売られている安物のタンブラーであった。
しかも、相当に使い古されている。飲み口のところが僅かに掛けているし、透明なはずのガラスが薄く曇ってしまっている。
到底、客に出すグラスではない。
しかし、ヤームルはそのグラスが何なのかを知っていたから、一言の抗議も入れなかった。
「懐かしいな。こんなところにまだ残っていたのか」
「ああ。もうこの一組で最後さ。何せ、船に乗っていたときのお前らときたら、酒を飲む度に賭け事はする喧嘩はする、踊る喚く歌い騒ぐ。夜が明けてみりゃあ、無事なグラスの方が珍しいってなもんだったからなぁ。最後に残るのは、こいつみたいな安グラスってわけだ」
「否定はしないが、その急先鋒だった男には言われたくないな。お前が一体いくつのコップを囓って使い物にならなくしたか、覚えているのかブルット?」
「そうだったかい?いやぁ、人間年は取りたくないもんだねぇ、すっかり忘れちまってたぜ」
笑いながら、手慣れた手つきでグラスに酒を注いでゆく。
タンブラーの縁に軽く盛り上がるまで琥珀色の液体が満ちたところで、ブルットは酒を注ぐのを止めた。
美しい琥珀色だった。飲むまでもなく、香りを肺に入れるまでもなく極上の酒であることがわかる。
乾杯はしないのが、船団の作法だった。グラスを打ち合わせて中身の交換などせずとも、毒を仕込むような卑怯者は一味に存在しない。それが理由だ。
ヤームルは無遠慮にグラスを口元まで運んだ。表面張力は均衡を崩さず、一滴の雫も溢れることはなかった。
「カラ酒か。今年も良い出来だ」
「そりゃあそうさ。なにせ、シスの野郎が仕込んだ酒だからな、美味くねえはずがねえ」
「なるほど、その通りだな」
それは、海賊団結成時メンバーの中で一番最初に船を下りた、仲間の名前だった。
シスが海賊団を抜けると言ったとき、真っ先に反対したのはブルットだった。その豊かな声量と溢れ出んばかりの表現力でもって、仲間の変節を嘆き慰留を乞うた。ヤームルも、声を大にこそしなかったものの、内心ではブルットと同じ気持ちだった。
シスは、優れた航海士であった。まだ感応頭脳も今ほど発達していなかったあの頃、船団の命運を一手に握っていたのは彼であったと言っても過言ではない。地表の天候などよりも遙かに読みにくく、そして荒れ狂う宇宙の天候を読み切る。自分達の船団が今どの宙域を飛んでいるのか、次の目的地までの航路はどれがもっとも早いのかを正確に算定する。ヤームルは、感応頭脳も含めたところで、シス以上の航海士を未だ見たことがない。
『う、奪うのがね、嫌になったんだよ。だ、だから、な、何かを作りたくなったんだ』
ある日突然、シスは船を下りると言った。
弱気な表情はいつもの彼のものだったが、一度言いだしたら、仲間の誰よりも頑固なのがこの男だった。
元々、荒事に向いた男ではなかった。仲間内ではただ一人、宇宙物理学の博士号持ちであり、海賊にはちっとも似合わない白衣を引っかけた姿は新入り連中からは奇異の目で見られるのが常であったし、多くの場合は侮られたりもしていた。当然それは、彼の航海士としての腕前を確認するまでの、ごく短い時間でしかなかったのだが。
少なくとも、その海賊団にとっての彼は、なくてはならない存在だったのだ。ヤームルもブルットも、自分達などよりも彼の方が、一味にとって必要な人材であると確信していた。
だからこそ二人も、内心では安心していた。何故なら、彼らの頭領が、必ずシスを引き留めるはずだからだ。
シスにとって、頭領は大恩ある人物である。宇宙物理学会を牛耳る大物教授に目をつけられ、世間からも学会からも完全に干されていたシスを拾い、彼の理論を実践できるなによりの場を与えたのが一味の頭領だったのだから。
当然、頭領もシスを慰留するだろう。そしてシスも思いとどまり、全ては今までのままだ。
そんな、確定した未来像のような確信は、しかし完全に裏切られる。
頭領は、シスを慰留しようとはしなかった。
そうか、と、一言だけ呟き、あとはシスに船を下りるため必要な手続を取るよう、また他の団員がそれを邪魔することがないよう固く言い渡し、それ以外は何も言わなかった。
ブルットは、大いに憤慨した。これが、長年の苦楽を共にした仲間への仕打ちなのか。いくら本人の望みの叶うようにしたとはいえ、あまりに冷たすぎるのではないか。
ヤームルも、秘密裏に頭領に掛け合い、シスへの慰留を試みるよう願い立てをしたりした。だが、頭領はその話題には一切耳を貸さなかった。
そして、シスが船を下りた。
あとは、まるで櫛の歯が欠けるようだった。
勝手知ったる顔が、一人減り、二人減り、三人減り……。やがて、その海賊団は、この共和宇宙から姿を消したのだ。
当時は、ヤームルもブルットも、頭領の判断を心苦く思った。口にこそ出さなかったが、もしもあの時、頭領がシスを引き留めてさえいれば、海賊団は解体しなかったのではないかと、そういう思いがあったからだ。
しかし、今にして思えば、頭領は既に時代の趨勢を感じ取っていたのではないだろうか。海賊という単語に含まれる意味が、ただのごろつき連中と同じ意味に貶められる時代の訪れを感じて、彼は静かに旗を降ろしたのではないか。
ヤームルは、最近はそう思うようになっていた。
いつの間にか、グラスは空になっていた。
「俺も年老いたな」
「何だって?」
ヤームルのグラスを酒で満たしながら、ブルットが問うた。
「今よりも、昔を楽しく感じられる。あの頃に帰りたいと願ってしまう。それは詰まるところ、俺が老いたということだろう」
「そうさなぁ。そうかも知れねえし、そうじゃあねえかも知れねえし」
「ふん、まるで酒場のマスターみたいな口調じゃないか、ブルット」
「そう聞こえたんなら重畳だ。何せこれでも、俺は一国一城の主なんだからな」
懐かしい会話に口元の皺を増やしながら、ヤームルは再び杯を口へとやった。
なんとも上品な酒だった。シスは、船乗り連中が好むような癖の強い酒はからっきしだったのを、ヤームルは思い出していた。
「そういえばシスの奴、最近はこの酒を送ってこなくなった。毎年毎年、こいつをちびちびやりながら、彼と彼の内儀の睦まじい様子に嫉妬するのが新年の決まり事だったんだがな」
それは、シスが船団を下りてきっかり十年後から数年前まで、およそ三十年間続いた、季節の便りのようなものだった。
最初に送られてきた包みの中には、ようやく納得のいく物が作れるようになったから是非飲んでほしい、自分のわがままのせいでみんなには迷惑をかけたと、彼らしい神経質そうな文字で便りがしたためられていた。
いつしか便りはなくなり、代わりに写真が同封されるようになった。そこには、日に灼けて少し健康そうになったシスと、彼の歳からするとやや幼すぎるのではないかという風貌の彼の妻が映っていた。
二人の間に子供が映り込むことはついになかったが、二人はとても幸せそうだった。
「シスは元気か」
「死んだよ」
ブルットは、素っ気なく言った。
ヤームルは、問い直したりはしなかった。その代わりに、眼光に怖いものを込めて、目の前の男を睨んだ。
「どうして死んだ」
「殺された」
「誰に殺された」
「憂国ヴェロニカ聖騎士団とかいう、ピエロみたいな連中だ」
「憂国ヴェロニカ聖騎士団?」
ヤームルは問い返した。
聞いたことのない名称だ。彼が以前――五十年以上も前に惑星ヴェロニカを訪れた時には、そんなもの、影も形も無かったはずである。
もっともその時は、ヴェロニカ共和国という国家自体、存在していなかったのだが。
「なんだ、それは」
「去年、この星の大統領が替わったことは、知っているか」
ヤームルは頷いた。
詳しい経緯は知らないが、前任の大統領の任期満了に伴う選挙が行われ、完全な泡沫候補と思われていた新人が奇跡的に当選を果たしたという話だ。
惑星ヴェロニカは連邦加盟国とはいえ、辺境惑星の一つにも数えられる星であるから、その程度の話を知っているだけでもある程度事情通と言えるだろう。
ブルットは頷き、
「じゃあ、その大統領選挙の最右翼候補だった、マークス・レザロ元上院議員が、選挙の直前に出馬を取りやめた理由は?」
「そこまでは知らん」
「食肉疑惑さ。それも、ご丁寧なことに一家揃ってのな」
食肉疑惑と聞いて、ヤームルはすぐに脳内で文字に変換することが出来なかった。
ヤームルの実感として、肉を口にすることが大統領選挙の出馬取りやめなどとは結びつかなかったからだ。しかしこの星の特殊な事情を勘案すれば、確かにそれは致命的な悪印象を与え得る、一つの事件であることを理解した。
「発端は、大統領の長男であるチャールズ・レザロが、その学友ともどもある誘拐事件に巻きこまれたところから始まる。まぁその事件自体マークスの身から出た錆だっていう噂もあるが、そこらへんは置いておこう。未開発の惑星に10人近い子供が長期間置き去りにされたっていう前代未聞の誘拐事件だったわけだが、不思議なことに死者の一人も出なかった」
「食糧はたっぷりと置いていってやったのか。当然だな。人質の命を無闇に危険に晒すようじゃ、それは誘拐とは言えない」
ブルットは首を横に振った。
「食糧は一切用意されていなかった」
「……本当か?」
「ああ。それどころか、雨風を凌げるような場所すらもない、完全な大自然の中に子供達は置き去りにされたらしい」
「それじゃあ、保って三日だ。それ以上は命に関わるぞ。誘拐と言うよりも、未必の故意による殺人未遂じゃないか」
「ああ、俺もそう表現した方が正しいと思う。しかし現に、少年達は一人も死ななかった。何人かの怪我人くらいは出たそうだが、一応は全員無事に親元に帰されたそうだ」
ヤームルは半信半疑だった。
インユェやメイフゥのような少年少女ならば別段、ごく普通の子供が何の準備もなく未開発惑星に取り残されてどうやって食物を採取するというのか。木の実は毒があるかも知れないし、狩猟の経験などあるはずもない。第一、道具自体がなかったはずだ。そんなものをご丁寧に用意してくれる犯人ならば、そもそも食糧を渡しておくだろう。
もし仮にブルットの言っていることが事実ならば、おそらくメイフゥを上回るような狩りの名手がその子供達の中にいたのか、それとも偶々砂漠の中のオアシスを見つけるような幸運に恵まれたのか、いずれかだろうと思った。
「事件の詳細は俺も知ってるわけじゃねえ。しかし重要なのは、無事に救出された子供達の中に、ヴェロニカ教徒であるチャールズ・レザロが含まれていて、その親が次期大統領と目される上院議員だったってことだな」
なるほど、それは日々スクープに飢えたマスコミ連中が、好餌と飛びつくわけである。
二週間を超えるような長期間、食物無しで人が生きていけるはずがない。肉なり植物なりを口にしなければ命に関わる。
当然、その子供達も何か栄養を摂取していたはずだ。おそらくは偶然食用の木の実を大量に発見したとかだと思うのだが……。
子供達は、歓喜したに違いない。これで自分達は生き延びることが出来る、と。
だがここで、残酷な問題が一つ持ち上がる。
子供達の中に、ヴェロニカ教に帰依する少年が一人、含まれていたのだ。彼は肉食及び自生する植物の摂取を厳に禁じられている。幼い頃からの厳しい教育は、すでに刷り込みと呼ぶべき領域にまで達しており、彼は最初のうちはその木の実なりを口にすることを強く拒んだだろう。
しかし、結果として彼は無事に救出されたのだ。ならば、何かを食べていない方がおかしい。
「そっとしておいてやればいいのに、病院まで押しかけたマスコミ連中が、医師から聞き出したらしい。チャールズ・レザロには動物性のタンパク質を数回にわたって摂取した形跡が見られ、衰弱はそれほどでもないってな。医師を責めるわけにはいかんだろう。なにせ、彼がヴェロニカ教徒だって知らなかったんだろうからな。仮に知っていたとしても、場合が場合だ。そういう時はお目こぼしくださるのが神様だろうって思うのが普通だろうぜ」
しかしヴェロニカ教典には、緊急避難的な食物摂取は許されるという文字はどこにも書いていない。
「結果として、チャールズ・レザロの行動は強い非難の対象となった。一番つらいのは本人だろうがよ、親父も相当に焦ったと思うぜ。なにせ大統領選挙を控える大切な身だ。ほんの少しの汚名が当落に直結しかねない。方々に手を回してマスコミに圧力をかけたらしいが、時既に遅しさ。それでも諦めきれなかった野郎は、これもマスコミがスクープですっぱ抜いたんだが、結構小汚いことまでして息子の汚名を雪ごうとしたらしい。一緒にさらわれた子供の一人が無理矢理に息子の口に肉をねじ込んだんだとか、どう考えても無理のある屁理屈まで用意してな」
「結果は?」
「通るわけねえだろう、そんなもん。子供達が通っていた連邦大学の審議会でも、その少年はシロ。間接的に、チャールズが自分で肉を喰ったっていうお墨付きを与えてくれたわけだな。で、直後にマークスは立候補を取りやめて、上院議員も辞した。ま、引き際は心得てやがったのかも知れねえな」
本当は他に諸事情が存在し、立候補の取りやめも議員辞職も、純粋な意味で言えばマークスの意志ではなかったのだが、それは全く公表されない事情である。
結果だけを見るならば、ブルットの説明したところが、ヴェロニカ共和国における一連の事件の経過としておおむね正しいものだった。
「だが、事件はそれでは終わってくれなかったんだ」
「何があった」
ブルットは痛ましそうに言った。
「マークス・レザロのお付きの料理人の一人がな、小金欲しさにマスコミに情報を売ったのさ。息子だけではなく、元上院議員も日常的に肉食行為を繰り返していた、自分は彼の私用宇宙船の中で何度も肉料理を彼に提供したってな。ぺらぺらと、ご丁寧に料理の写真や、美味そうにそれを食うマークスの写真も用意して、だ。多分、ご主人様がもう将来の大統領候補でも現上院議員でもなくなっちまったから、今の内に旨い汁を吸えるだけ吸っておこうってことだったんだろう」
「馬鹿な奴だ。そんなことをして、そいつ自身の今後の生活はどうするんだ?もう誰もそいつのことを信用しないだろうに」
「そんなことも分からない馬鹿だったのか、そこらへんのことを天秤にかけてもなお魅力的なほどの報酬をマスコミが用意したか……それは分からねえ。だが、とんでもない騒ぎにはなったぜ。息子の事件とは桁が違うわな。息子は非常事態にやむにやまれず戒律を破って可哀想ってところだが、親父は日常的に戒律そのものを無視して肉食を続けてたんだ。しかも、既に身を引いたとは言えヴェロニカ共和国の政界の大物だった人物が、だぜ。どっちの方に世間の非難が集中するかなんて言うまでもないだろう」
ヤームルは少し考え込んだ。
ヴェロニカ教の教えを一から理解しているわけではないヤームルには実感として分からないが、例えるならば、正当防衛で人を殺してしまった息子を理由として身を引いた政治家を調べてみれば、じつはその政治家が計画的な連続殺人鬼だったというところだろうか。
なるほど、騒ぎにならないほうがおかしい。
「マークスは当時の上院下院両方の多数を占めていた与党政党の新進気鋭の若手だったわけだが、野党は一斉に噛み付いた。他の、マークスと付き合いのあった議員に食肉疑惑があるってな。国会の場で、公開による血液検査を要求したわけだ」
「与党はその要求を呑んだのか?」
「呑むわきゃねえだろうがよ。考えてもみろよ、マークスが本気でこっそり肉を喰いたがってたんなら、自分の宇宙船の中なんていう場所で食うか?俺なら、遠くの星に視察なりなんなりに行くふりをして、こっそりと、誰の目にも見つからないようにして食うね。っていうことは、マークスが肉を喰ってたのは、一部の人間には公然の秘密だったってわけだ。当然、そのご相伴に与ったことのある連中も多いと思うぜ」
「大騒ぎになりそうだ」
「なったなった、もう蜘蛛の子を散らすような大騒ぎだ。『私はヴェロニカの神にかけて肉を食べたことはありません』、この台詞が公共の電波に流れない日はなかったってくらいさ。しかも、そう言っていた政治家が次の日には食肉疑惑発覚で辞職したりしたんだからな、ただの大騒ぎなんてもんじゃない。星をひっくり返したような大騒ぎだ」
ヤームルは思わず笑ってしまった。
彼は権力というものに何の興味もなかったから、それに無様にしがみつく政治家連中の悪あがきが哀れに思えたのだ。第一、そんなに肉が喰いたければヴェロニカ教徒を止めればいいのだ。なにも嫌いな野菜を食べてまで神の慈悲に縋ることもあるまい。
「じゃあ、政権交代か」
「いや、そう上手くもいかない。与党の政治家連中に、それだけ肉食は浸透してたんだ。っていうことは……」
「なるほど、毛の色が変わっても鼠は鼠か」
「与党側もしたたかさ。自分達がいよいよ駄目かっていうときに、野党側の政治家に血液検査を要求したんだな。俺達を非難する資格が、そもそもお前達にあるのかと」
「当然、拒否する」
「そして、拒否するっていうことは認めてるのと同じことだ。要するに、同じ穴の狢だったのさ、全員な」
ヤームルの目には、傲然と開き直る政治家連中が目に浮かぶようだった。
『確かに私は肉を口にしたことがある。しかしそれは外国の要人との会食の際、やむにやまれず摂取したものだ。それを食わなければ、会談の空気が険悪になり、最悪交渉は決裂していたかも知れない。私はヴェロニカの国益のために、地獄に落ちる決意で肉を喰ったのだ。それは非難を受けなければならないようなことなのか!?』
『私は肉など食べていない。血液検査を拒むのは、このような公開の場で食肉の疑惑をかけられるという恥辱そのものが耐え難いからだ。加えるならば、仮に検査を受けて反応がなかったとしても、野党諸兄は検査そのものに瑕疵があったと開き直るだろう。私はそういった無益なことに国会の議論の貴重な時間が割かれることが愚かだと確信している』
『百歩譲って私が肉を食べたとしよう。ならば、私は公人としての責任を取らざるを得ないだろうが、しかしそれよりも先に責任を取るべき人間が確かに存在する。私は、その人間を明らかにして責任を取らせることこそ、国民が私に期待する私の責任であると信じている。故に、今職を辞しては責任逃れとの誹りを免れまい。私は自身の職責を全うするため、今後もこの役職を退くつもりはない……』
手を代え品を代え、そして言い訳を代えて、彼らが言いたいこと。
それは『俺は政治家を辞めるつもりはないぞ!』、この一事に尽きる。国会開催期間中の不逮捕等、政治家という職に与えられる各種特権。高額な給与、袖の下、その他の収入。社会的な地位。周囲より寄せられる羨望の視線。それらを手放して野に下るなど、どう考えても馬鹿げている。
だから彼らは醜く権力にしがみつくのだ。どうせ国民は愚かだ。喉元過ぎれば、すぐに熱さなど忘れるに決まっているのだから。
「国民の大多数はな、辟易としたのさ。連日連夜繰り広げられる、政治家共の保身のやり取りにな。そのうち、野党側も攻勢を控えるようになった。おおかた連中の頭同士で講和条約の一つでも結ばれたんだろう。もうこれ以上この問題の火を大きくすると、共倒れになりかねない。ここらで一つ手打ちということにしよう、ってな」
「ま、そこらが妥当な線だろう。事実、人間は忘れる生き物だからな。一年もすれば、ああ昔そんな事件もあったな程度には忘れてくれる」
「だが、悪いことに大統領選が直後に控えていた。この国の大統領選はいわゆる直接選挙だからな。国民の声ってやつがそのまま跳ね返ってくる。当然、争点の一つには政治家に対するヴェロニカ教義の徹底をどうするかっていうところも挙げられたんだが、なんともお粗末でな。与党側の候補も野党側の候補も、結局は信仰心の問題だから国が立ち入るところではないと、そもそも問題として重視しないっていう立ち位置だ。そうだろうな、じゃないとお仲間を断頭台に送ることになるんだから」
「正しいが、しかし日和見だな。そこはポーズだけでもいいから、風紀保持の徹底を図るとでも言っておけばいいものを。せっかく国民の支持を取り付けられる絶好の議題を避けて通るなど正気とは思えない」
「疲れてたのさ。国民もそうだが、おそらく政治家連中はそれ以上にな。もうこの話題には触れないでくれっていうのが当時の奴らの正直な心の声だったと思うぜ。だから、与野党含めて、既存の政治家連中は国民の支持を失った。その間隙を縫って当選したのが、我らが大統領アーロン・レイノルズだ」
ブルットの口元が皮肉に歪んだのを、ヤームルは確かめた。
アーロン・レイノルズ。確かこの場所に来るまでに何度か見た名前であり、顔である。
神経質そうな細面に青く濁った瞳がぎょろりと浮いている、どこか商店の軒先にならんだ魚を思わせる、熱のない顔だった。
「やっこさん、元はヴェロニカ教の導師だったって言ってるが本当のところは分からねえ。ただ、熱心なヴェロニカ信者だっていうのは事実らしい。自分は生まれてから母親の乳も含めて一度も動物性タンパク質を取ったことがないっていうのが自慢らしいからな。当然、それなりに厳しい手段でもって政治家連中を取り締まることを公約に掲げた」
「ほう、どんな?」
「過去にさかのぼったところも含めて、程度の軽重を問わずヴェロニカ教義に反した者の無条件即時の公職追放。場合によっては惑星ヴェロニカからの追放。事実上、ヴェロニカ教を破門する処分だといっても間違いじゃねえだろうな。俺も信者だから分かるがよ、この星を追われてヴェロニカ教なんて続けられるもんじゃねえ」
そういえばそうなのだった。
目の前の、ヤームルの記憶している限りでは神とか仏とかから最も縁遠く感じられたこの男も、この星に根付くにあたり、ヴェロニカ教に帰依したのだった。
珍しいことではない。苛烈な半生を送った荒くれ者が、自分の人生をようやく落ち着いて振り返れる年頃になって、突然神の教えに耳を傾けることは、ままある。
自分の奪った命の数に恐れ戦いた者もいるだろう。あまりに荒んだ自分の人生に嫌気が差し、救いを乞う者もいるだろう。中には、ただ心の平穏を欲して神を求める者もいるだろう。
果たしてブルットがどうしてヴェロニカの神に膝を折ったのか、それはヤームルの知るところではないし、知るべきところでもない。彼自身、そう確信していた。
「で、蓋を開けてみりゃあ二位以下に大差をつけて奴さんの圧勝だ。政治家連中の顔もさぞ真っ青になっただろうぜ。なにせこの国大統領には法案の提出権がある、無論それを議論するのは上下両院ってことなんだが、それでもこの問題が盛大に再燃することが決まったようなもんだからな。しかもアーロン・レイノルズは筋金入りのヴェロニカ教徒だ。鼻薬を嗅がすことも出来ない」
「どうしたんだ」
「公約通りの法案が真っ先に提出された。どう考えても当時の政治家どもに飲める内容じゃない、徹底的なやつだ。当然、政治家連中は顔を真っ赤にして廃案にしたよ。こんな法案が通れば恐怖政治の始まりだってな」
「正しいことを言うじゃないか」
なんだかんだいって政治家とは国民の代弁者だ。
現時点で求心力を下げているとはいえ、無碍に扱っていいものではないし、そうするべきものでもない。
ならば、どれほど重大な犯罪を犯したとしても、また戒律に背いたとしても、無条件即時にその身分を奪うなどあっていいはずがない。それは確かに恐怖政治の始まりだ。
「だが、その当時の俺達にはそれが分からなかった。あれだけの醜態を無様に晒してくれた政治家共が何を言っても、自分達を守るための詭弁にしか聞こえない。国民の大部分は、レイノルズの言ってることが正しいと思ったんだ」
「お前もか、ブルット」
「俺か?俺はそんなことは腹の底からどうでもいいと思ってたさ。俺が政治家どもに期待してるのは、税金から抜き取る金を出来るだけ控えめにしてもらって、その上で効率よく社会に再分配してもらうことさ。奴らが人を殺そうと肉を喰おうと、俺には全く関わり合いがない。そんなことは、それこそ神様に任せておくべき領域だと思うがね」
ふん、とヤームルは鼻で笑い、目の前のグラスを空にした。
ただ、先ほどよりは控えめなペースで、その芳醇な香りと味を楽しみながら、ではあったが。なにせ、もうこの酒は二度と造られることが無いのだ。
「もう一度、法案が提出され、同じように否決された。大統領には同じ法案の提出が、三度まで認められている。そして、それが全て否決された場合は下院の解散権を行使できるようになるんだ。同時に、下院は大統領の罷免をする権利が生まれる。そして、三回目の法案が否決されるに至って、大統領は下院を即時に解散した。下院もその報復措置として、大統領の罷免を決議した」
「どうなった?」
「どうもしないさ。そんな短期間で国民の意見が変わるはずもない。寧ろ大統領の地位を得ても何の変節もしなかったレイノルズを賞賛する声が増えたくらいだ。当時の与野党にも奴さんのシンパが相当いたからな、それらを引き抜き、新党を結成して選挙に挑んだ」
「分かりやすいくらいに分かりやすい、急進派と保守派の戦いだ」
「保守派はナチズムの再来を防げとキャンペーンを張って戦ったが、その時に耳を貸してくれる国民はほとんどいなかった。結果として急進派の大勝利。大統領と下院のほとんどを新党、ヴェロニカ愛国党が占めるに至り、上院も抵抗を諦めてこの法案は通過した」
ひゅう、とヤームルの口笛が人気の無い店内に響いた。
なかなか鮮やかな手並みだ。いくら国民の支持があったとはいえ、これほどあっさりと政権を手中にするのは容易いことではない。既得権益の保持者からは各種の妨害もあるだろうし、マスコミを自分の味方にするための手管も必要になる。人を集めれば、その意見の調整も難しい。
アーロン・レイノルズという男は、相当に政治家としての能力が高かったのか。それとも、余程に能力の高い右腕でもいたのか、それは分からないが……。
「即座に、上下両院から数人の政治家が生贄に選ばれて、断頭台に送られたぜ。あらゆる政治的な権利を奪われて、この星から追放されることが決まった」
「その連中は大人しく従ったのか?」
「いや、裁判所に権利の救済を申し立てた。こんな非道がまかり通っていいはずがないってな」
「俺でもそうするだろうな。政治的に完敗したならば、最後は司法に助けを乞うしかない」
「だがしばらくすると、奴らは軒並み訴えを取り下げて、大人しくこの星から出て行ったのさ」
ヤームルは掲げかけたグラスを戻し、ブルットのほうを見た。
ブルットの目が、本日最大に物騒なものになっていた。
「どうして?」
「詳しくは知らねえ。多分、誰に聞いても分からねえ。だが、俺は、政治家ども自身か、それとも家族連中に、何らかの脅迫があったんじゃないかと思ってる。もしくは、もっと直接的に痛い目に遭わされたかも知れねえ」
「なるほど。それをやったのが――」
「間違いなく、あのピエロ共だ。あれは元々、レイノルズが大統領に立候補した直後に、その思想に共感した阿呆のガキどもが結成したもんなんだが、最近は裏から政権の援助も得ているっていう噂だし、警察も取り締まりは遠慮してやがるっていう話だ。それに第一、市民からの人気は悪くないんだ、おかしなことにな」
「どうしてだ?自分達にも累を及ぼしかねない、危険な連中なんだろう?」
「自分達以上に、政治家や官僚、医師やマスコミみたいな、もともとの社会的身分が高くて裏ではやりたい放題だったっていう連中をまず痛い目に遭わせるからさ。それにピエロ共もある程度弁えていて、完全な一般市民はほとんど相手にしない。相手にするとしたら、俺達みたいに大きな声では自分の職業を公言できないネズミか、もしくはこの星を訪れる旅行者みたいにヴェロニカ教徒じゃない連中、それを相手に商売をする、奴らに言わせれば背教者たち。要するに、この星で声高に自分の権利を主張することに何らかの枷のある人間をターゲットに絞って、今はそいつらのほうがやりたい放題さ」
にわかには信じがたいことであった。
しかし、目の前の男が嘘を吐いているとは到底思えないし、またそのことによって何らかの利益を得られるとは到底思えない。
ということは、事実なのだろう。
これが、曲がりなりにも共和連邦に加盟した一つの国家に起きている事態だとは。
過去に惑星ヴェロニカに――というよりは旧ペレストロス共和国に強い関わりを持つ身だったヤームルも、忸怩たる思いだった。
「殴る蹴るの暴力沙汰は日常茶飯事、喜捨に名を借りた恐喝強請、器物損壊に火付け、果ては旅行者の女を集団で襲って、思うさまに愉しんだ後で他の星へと売り飛ばす。やりたい放題にも程があるぜ」
「そこらのヤクザ者でもそこまでしないぞ。そんなことをしておいて、国際問題にならないのか。そんな卑劣漢どもを放置すること自体が十分以上に連邦憲章に抵触していると思うのだが」
「さぁな。そこまでは俺じゃあわからねえよ。ただし、ヴェロニカは国家だ。国家が国家にいちゃもんをつけるには、相当に色々な制約があるってのは俺でも知ってるぜ。多分そこらへんでまごついてるんじゃねえか。ま、今のままいけばヴェロニカが連邦から除名されるのもそう遠い日じゃないとは思うがね」
「ヴェロニカも、連邦加盟の時はあれだけ必死だったのに、もはやそれも惜しくなくなったのか……それとも、他に思惑でもあるのか……」
ヤームルには、分からない。
確かに、ヴェロニカには武器がある。他の国を、ひょっとしたら連邦そのものを相手取ることも出来るかも知れない武器だ。しかしそれは武器であると同時にとんでもない火薬庫であり、一度飛び火すればこの星の全てを焼き尽くすまでその猛火を収めることはないだろう。
だからこそ、当時のペレストロス共和国政府は、海賊くんだりに膝を折ってまで連邦加盟を切望したのであり、それは全く間違いではなかったとヤームルは思っている。
その武器のことを、そしてその経緯を、現ヴェロニカ政府は知っているのだろうか。知らないはずがない。あれは、この星の上層部には公然の秘密のはずだからだ。
それとも、そんなことすらも忘れてしまったのか。自分達への恩義を、忘れること自体を忘れてしまったように。
あり得ないことではないだけに、ヤームルの舌を灼くアルコールはいつも以上に苦かった。
「なんだ、ヤームル。お前、何か知っているのか」
ブルットは、むしろ愉しげにヤームルに尋ねた。剛毅なわりに酒の弱いこの男は、既に酔いはじめているのかも知れなかった。
「ああ、色々と知っている。しかし、これは俺と頭領が墓まで持っていくと決めて秘密だ。悪いが、お前にも話せない」
「そうか、ならばいいさ。精々口を固くしばった死体になりやがれ」
ブルットは豪快に笑った。
気分がよかった。
目の前の仲間は、知らないとは言わなかったのだ。知っていると正直に言った上で、話せないと言ってくれた。自分に許された範囲では全てを正直に話してくれた。それが嬉しかった。
「では、シスが殺されたのは、やつがヴェロニカ教徒ではなかったからか」
「厳密な意味で言えば、違う。シスの野郎が殺されたのは、この星に自生する、野生の植物を勝手に取ったからさ」
「この星に自生する、植物だと?まさか、あの酒の原料のことじゃあないだろうな?」
「そのまさかさ。シスは、野生のカラを採取していた。人の手で育てたカラだけじゃあ、どうしてもこの味が出ないって言ってな。この星の町外れに行けば、どこでだって馬鹿みたいに生えてるやつを、ほんの少しだけ取っていたところを、ズドンだ」
ヤームルは、耳を疑った。
「馬鹿な。カラだぞ。他ならともかく、いくら野生のものとはいえ、カラを採取することが何故罪になる」
「ヤームル。お前さんは知らなかったのか。今やヴェロニカ教じゃあ、カラも含めて、自生する全ての動植物を口にすること自体、重大な戒律違反なんだ。やつらの口から言わせれば、十分以上に死に値する、鬼畜にも劣る所行なんだとさ」
「……いつ、誰がそんなことを言い出したんだ」
「さぁ?教典ってのは、いつだってお偉方様の好き勝手に読み解けるもんだからね。俺っちみたいな下っ端信徒には、そんなことは分かりゃしねえよ」
「……シスは、そのことを知っていたのか」
「知っていた。知っていて、しかしこの酒は俺達が何より楽しみにしているからと、密かに採取を続けていたんだ」
ヤームルは、言葉も無かった。
確かにこの酒は、海賊団の全ての笑顔を思い出させてくれる、ヤームルの何より好きな酒だった。これがなければ、ヤームルの記憶の内から、更に幾人かの顔と声が失われていたかも知れない。
だから、ヤームルはこの酒が届くのを楽しみにしていたし、届かなくなってからは言いようのない寂寥を味わってもいたのだ。
その酒が、友の命を奪ったのだ。
真っ赤に燃える形容し難い熱が、ヤームルの胸中を焼いていた。それは決して、この優しい酒の酒精の燃える熱などではなかった。
「なぁ、ヤームルよう、俺を責めるかい?」
気がつけば、目の前の男は、海賊団の突撃隊長だった男は、場末の酒場のマスターは、赤ら顔で泣いていた。
この男は、泣き上戸なのだ。普段の勇敢な、それとも粗暴な性格から考えるとどうにも似合わないが、そうなのだ。
昔は、酒の席が設けられると必ず泣いていた。自分が殺した商売敵の家族が不憫だと泣き、自室でこっそりと飼っていた子犬が死んだと泣き、友の結婚が嬉しいと泣いた。
とにかく、よく泣く男であった。厳つい顔をくしゃくしゃに歪ませて泣いた。
その度に、仲間は笑った。お前が泣くなと笑った。
ケンカが起きた。泣いて何が悪いとブルットは泣きながら殴り、お前が泣くと気持ちが悪いんだと仲間が笑いながら殴った。
「シスの野郎の憎い仇がすぐ傍にいるのに、俺はこんなところでくたびれたオヤジをやってるのさ。あいつを殺したかもしれねえ野郎が酒を飲みに来ても、俺はへいこら酒をこしらえて持って行くのさ。そうしないと、俺や女房やガキ共の食い扶持が稼げないからな。だから、俺はへいこらするんだ。にっこり、卑屈な笑顔を作ってよ。心の中でこんちくしょうと思いながら、へいこらするんだ。お前と一緒に宇宙に生きてた頃は、生きる価値がないと笑ってた生き方を、俺はしてるのさ。どうだ、可笑しいだろう。滑稽だろう。情けねえだろう」
ヤームルは、黙ってグラスを傾けた。
氷も入れない生の酒が、極上なはずのその酒が、不思議と水くさく、苦く感じられた。
ヤームルにも、妻がいた。子がいた。
そして、それは全て失われた。ヤームルの責任だ。少なくともヤームルは、自身がずっと彼らの傍にいれば、悲劇は防げたのだと確信している。
ブルットの生き方を笑うことなど、到底出来なかった。暴発するのは簡単だ。くたびれた拳銃だって出来る。それに比べて、全てを我慢し、胸の奥に仕舞い込み、日々を生きることの難しさ。暴発した拳銃である自分に、どうしてブルットを責めることが出来るだろう。
だが、ヤームルは何も言わなかった。ブルットが、許しを欲しているとは思わなかったからだ。許しを与えるのは、全て神の仕事だ。高いお布施で生きているのだから、それくらいの仕事はしてもらわないと困る。そして自分はお布施など貰ったこともない。
ブルットは、自身を責めるための刃としてヤームルを欲しているのだろう。それが、誰よりも自身を傷つけたことのあるヤームルには分かる。
しかし、ヤームルには傷ついた友を、この上に傷つける言葉の持ち合わせがない。
だから、黙って酒を飲んだ。
じっくりと飲んだ。グラスが空けば、手酌で飲んだ。つまみは、栽培したカラを軽く炒り、塩を振ったものだった。
気がつけば、ブルットは眠っていた。カウンターにもたれ掛かり、涙で手の甲を濡らして。
ヤームルは、その背にそっと上着を掛ける。
そして、立ち上がろうとしたとき。
「やるっきゃねえよなあ」
背後から、声が聞こえた。
振り返ると、そこには妙齢の女性に見える少女と、少女が立っていた。
二人とも、ヤームルの知った顔であった。
「お嬢様、いらしていたのですか」
「この店で待ち合わせをするって言ったのは、ヤームル、お前だぜ」
「しかし、外には準備中の看板が出ていたでしょうに」
「ならお前はなんでここにいるんだよ」
ヤームルは苦笑した。返す言葉がない。
「仲間の一人を殺されてさ。仲間の一人を泣かされてさ。それでも黙ってるなんて、そんなケチくせえことは言わねえよなぁ、ヤームル」
ヤームルは無言である。
「殺された仲間の無念はさ。泣かされた仲間の無念はさ。誰かが晴らさねえといけねえよな」
「その通りです、お嬢様」
「出来れば、仲間がいいな。殺された仲間の仲間がさ、泣かされた仲間の仲間がさ、その無念を晴らすんだぜ。それでこそ男前ってもんだぜヤームル。義を見てせざるは勇なきなりだぜヤームル。普段からインユェに偉そうに言ってるお前さんが、まさかお前さんがそんなじゃねえよな、ヤームルよう」
「ええ、私は卑劣漢ではありません、お嬢様」
楽しげに牙を剥き出しながら話すメイフゥと、楽しげに口髭をしごきながら話すヤームルを等分にウォルは見守った。
ウォルの見守る先で、ヤームルはにこやかに言った。
「この星を牛耳ったつもりのひよこ共に、旧世代の海賊の戦いというものを一手ご指南つかまつるといたしましょう。いや、久方ぶりに楽しい。この老体にも火が入ろうというものですな」
「格好良いぜ。惚れそうだぜ。それでこそヤームルだぜ、ヤームル」
「しかしこれは私の戦です、お嬢様。お嬢様には差し控えて頂きたいのですがな」
「それは聞けねえな。なにせあたしは、その憂国なんとやらのカス共と、既に一戦やらかして来ちまったんだ」
気がつけば、血塗れの紬を着たメイフゥである。
ヤームルは全てを察して、重たい溜息を吐き出した。これで、自分にはメイフゥをお説教する資格が失われてしまったことに、彼も気がついたのだった。
「では、共に参るといたしましょう、メイフゥ」
「ああ、ヤームル。お嬢様なんて言ったら蹴っ飛ばすぜ」
「それはぞっとしませんな」
メイフゥはくるりと視線を翻し、そしてウォルを見た。
その目が何を言おうとしているか、ウォルには明らかだった。
「さて、ウォルよ。お前さんも、時間が出来たんだろう?なら、遊んでいくがいいさ」
確かに、時間が出来てしまった。
ヴァレンタイン邸に電話しても、連邦大学に電話しても、リィはおろか、シェラもルウも、そしてヴォルフもいない。聞けば、彼らは惑星ヴェロニカに、この星に向かっているのだという。自分がここにいることを知っているのは明らかだ。
どの船で移動しているかの判別が出来ない以上、彼らに直接連絡するのは不可能だ。今は待つしかない。
ならば、彼らが到着するまでの間、如何するか。
インユェ達には恩義がある。自分の命を助けて貰ったのだ。そして、ウォルも一度、自身の復讐を助けられたことがあるのだ。であれば立場を違えた彼女が、見て見ぬふりを出来るはずもない。
ウォルの答えは、最初から決まっていた。
◇
「確かに俺は言った。助太刀すると、言った」
薄汚く、狭苦しい部屋のなかに、少女の身体から立ち昇る陽炎の如き殺気が充満していた。
古びた板の間の上に行儀悪く胡座をかき、腕を組んで、唸り声を上げ続けている。
元々が美しい少女だが、今はその眉間に刻まれた深い皺から、何とも不吉な形相になってしまっている。
どうしても承伏しがたい。
かといって、無碍に断ることも出来ない。
二律背反の命題が、少女を責め苛む。
しかしその少女はただの少女ではない。
ここより遙か遠く離れた時と場所、デルフィニアの地において獅子王と讃えられ、生きた伝説とまで謳われた英雄の中の英雄である。
ならばこそ、彼女の辞書に敗北の二文字はない。如何なる苦境も乗り越えてきた、自負と実績がある。
だが、今彼女の前にいるのは、紛れもない強敵だった。
タンガの狂った天才とも、バラストの古狸とも方向性の違う、最強の敵。ひょっとしたら、怒りに我を忘れた王妃よりも、更に難物。
少女の中に宿る、男としての――覇王としての誇りを粉々に砕く、魔物。
知らず、ぽたりぽたりと、鏡を睨んだガマのような汗が、少女の顎先から滴り落ちた。
少女は、王として生き抜いた前世の記憶を頼りに、何とか自分の生還する方策がないものかと頭を悩まし、知恵という知恵を絞りに絞って――その度に深い絶望を味わった。
そして最後に、ぽつりと、石をこぼすように呟いた。
「しかし、しかし、これを……これを着ろというのか……」
少女の、まるで親の敵を睨みつけるような視線の先には、膝の上にちょこんと置かれた布きれがある。
震える指先で摘んで、おそるおそる持ち上げてみる。
少女自身の感覚からすれば、奇抜な、いや、奇抜に過ぎる衣装だった。
色は、赤い。血潮の、そして情熱の色だ。
てかてかと、真っ赤なエナメル質の素材が光を跳ね返し、まるで濡れたように輝いている。
もう片方の指で摘んで、その布きれを広げてみる。
小さい。想像以上に面積が小さい。
そもそも、これは服と呼ぶべきものなのだろうか?
服ならば、まず防寒性があるべきだ。そのためには、全身を隈無く覆う布があるべきだ。
なのに、この服ともいえない衣装には、胸から上を覆うべき部分は一切存在しない。これを着れば、自然と胸から上は衆目に晒されることになるのだ。この服で、一体どうすれば冬の寒気を耐え凌ぐことが出来るだろう。
そして、女性としてはどうしても衆目に晒すことの出来ない乳房の部位には、流石に控えめながらに小さく膨らんだ覆いが二つあり、そこに何を収めるべきかを自己主張している。しかしそれすらも何とも頼りない有様で、他の部分は袖を通せばピチピチになるくらいに造りが小さいのに、ここだけはどうにもブカブカだ。横からひょいと覗けば色々な部分が見えてしまうのではないかと疑わざるを得ない。
ではブラジャーの類でもつければいいかといえば、背中の部分の布が尻の少し上辺りまで大きく抉れており、到底その手の下着は着けられそうにない。
尻のところには、リンゴほどの大きさの白い塊。どうやら尻尾らしいのだが、そんなものが服としての性能を発揮するうえで何の役に立つのか。
最後に、まるで剣の切っ先のように尖った、股間部分の切れ込み具合。これは、本当に隠すつもりがあるのだろうか。いくら下にタイツを履くとはいえ、それだけで隠せるわけでもなし、ならば最後の砦がこの衣装ということになるはずだが、それも甚だ心許ない。
というか、食い込む。この角度は、間違いなく食い込む。
尻にだって食い込むし、その反対側にだって絶対に食い込むに違いない。男だったら、間違いなくはみ出ている。
バニースーツ。
当然、もこもことしたファーで縁取られた兎耳カチューシャも、まるで首輪のような黒チョーカーも、網タイツもハイヒールも完備である。
ウォルは、この不可思議装束一式を身に纏った自分のことに思いを馳せて、暗澹たる溜息を盛大に吐き出した。
そして、この服を最初に考えついた男(間違いなく男だとウォルは確信している!)に対して、理不尽な怒りが込み上げてくるのを感じた。
――一体、どこのどいつがこんなアホらしい服を考えついたのだ!傍迷惑な!
つくづく、世の男というものは碌な事を考えないと、元・男、しかも国王であったウォルが確信するに足る、なんとも扇情的な――はっきりといえば、下品で馬鹿馬鹿しい衣装であった。
「……シッサスの酒場の踊り子たちだって、もう少し服らしい服を着ていたと思うのだが……」
遠い昔、悪童のような顔をした己の従弟に連れられて、シッサスの外れにある踊り子の劇場に行ったときのことを、ウォルは思い出していた。
あのとき、汗に濡れた薄っぺらな衣装を纏って、恍惚とした表情で踊っていた女達。中には年端もいかない少女もいた。
彼女達は一様に、男の欲望を煽るような、媚びるような表情で踊り狂い、最後には自分達を買った客と共に、劇場の二階へと消えていった。そこで何が行われたのかなど、言うまでもないことだ。
別に、彼女達を蔑むつもりはない。社会の機能の一つとして、男達の欲望をガス抜きする存在は必要不可欠なものだ。過ぎれば風紀の乱れを呼ぶが、適度であれば寧ろ社会の潤滑剤になり得る。酒や煙草と同じものだ。
だが、それとこれとは話が別だ。まさか自分がその一員となるなどと、一体どこの男が考えるだろう。
果たして何度目か知れない、猫のような唸り声を発して(前の体であれば獅子のような唸り声だったはずだ)ウォルは悩みに悩んだ。
そして、再び呟いた。
「……この服を着るのは、百歩譲って認めるとしよう。気に食わない男どもの酌をするのも、我慢する。しかし、しかし――」
その先が無いと、どうして言い切れるだろう。
まさか、自分が酒で酔い潰れるとは思わない。
しかし、それ以外の危険は?
ウォルは、自分がリィほどに薬物に対して敏感ではないことを理解している。
ならば、自分の飲み物に、誰かがさっと薬物を入れれば――。
そして前後不覚になった自分は宿屋の二階に連れ込まれ、服を脱がされ、オーロン王やボーシェンク公のような脂ぎった中年男性の慰み者に――。
ぞぞぞ、と、ウォルの背中を悪寒が貫いた。
「だだだ駄目だ駄目だ駄目だ!冗談では無いぞ!」
想像しただけで、全身の鳥肌という鳥肌が一斉に膨れあがった。髪の毛までがブワリと膨らみ、まるで緊張した猫のような有様だ。
真っ青に青ざめたウォルは、腕で肩をかき抱き、黄金の毛並みをした狼のことを思い浮かべて、ようやく人心地ついた。
そもそも、黄金の狼――自分が夫と定めたリィにだって、未だ身体を預ける気には到底なれないウォルである。それが、見知らぬ他人の、しかも男に抱かれるなど、正しく悪夢としか言い様がない。
ならば――。
「――断るか」
それが最も簡単で安全な気がする。そして彼らに別れを告げ、この星でゆっくりと彼らの到着を待つ。遠からず彼らと合流した自分は、意気揚々とこの星から離れ、メイフゥ達とも二度と顔を合わせることはない。
普通の人間ならばそうするだろう。
だが、ウォルはやはり難しい顔で、首を横に振った。
「……駄目だ。受けた恩は必ず返す、それが男としての、いや、俺が俺であるための最低限の礼儀だ」
とすると、今のウォルに残された選択肢はただ一つ、目の前の衣装を纏って夜の街で働くことだけである。
しかしそれはやはり――。
際限のない懊悩に取り憑かれていたウォルに耳に、野放図な、それとも豪快な女性の声が飛び込んできた。
「なんだぁ、ウォル。お前、まぁだつまらねえことをグチグチ悩んでやがんのか?」
ようやく顔を上げたウォル、彼女の視線の先には、開け放たれた扉と、そこに佇む女性がいた。
リィとは違う、少しくすんだような、腰まで届く金色の直毛。
褐色に灼けた肌と、逞しく引き締まった身体。
端正な顔だちの中で、ぽってりと色っぽい厚めの唇が目を引く。
今、そこには男を誘うように鮮烈な紅が引かれている。
そして、獲物を射殺す鷹のように鋭い視線は、今や嗜虐に充ち満ちている。
ウォルは、その女性のことを知っていた。無論、その名前も。
「……メイフゥどの……」
「いいか、ウォル。こいつは武器だ。あたしら女が、馬鹿な男共をたぶらかしてその財布の中身を差し出させる、金と身体を天秤に賭けたいくさの武器なんだよ」
そう誇り高く言い切ったメイフゥは、既にバニースーツに身を包んでいる。
硬質な、針金を思わせるピンとした金髪の根元から、如何にも場違いな白い耳が突き出し、首には自分が男の所有物であることを示す首輪のような黒いチョーカー。その、世の男性の理想を体現したように豊満な身体を小さな布きれで包み、しかしほんの少しだって恥ずかしがる素振りを見せない。
まるで、戦装束に身を包んだ歴戦の戦士のように、そこに佇んでいた。
背を柱に預け、腕を組み、斜に構えた視線でウォルを射貫きながら、佇んでいた。
そんな風貌にも関わらず、メイフゥは実年齢はウォルの宿った少女のそれと大して離れていない。見た目は、雌虎と子栗鼠ほども異なるというのに、だ。
その雌虎が、重々しく言った。
「戦いってやつは、いつだってそうだ。間抜けな奴から死んでいく。この場合、間抜けな奴から男に食われていくのさ。なぁ、ウォル。お前は馬鹿じゃねえだろう?なら、精一杯に媚びを売って、男共の鼻の下を伸ばしてやりゃあいい。あいつら、こっちが少し気のある素振りを見せてやりゃあ、面白いくらいに金を吐き出すぜ。いっぺんやってみりゃあ、あの感覚はやみつきだ」
その瞳は雄壮。
その体躯は歴戦の勇士のそれ。
間違いない、彼女は、戦士としての魂を身に宿している。
「だからウォル、お前も来い。あたしが、お前を一人前の戦士に仕込んでやる――!」
「……メイフゥどの!」
「行くぞ、男と女の戦場へ――!」
そして、ウォルは、女戦士の差し出した手を――!
「全身全霊でお断りするっ!」
思いっきりはたき落としたのだった。
ぺちんと、可愛らしい音が盛大に鳴り響いた。
「ってえな!ウォル!てめぇ、今更何言ってやがる!敵前逃亡は死刑、古今東西全ての軍隊の常識だぞ!」
「やはり駄目だ!何と言われようと無理なものは無理だ!誰がこんな服着てられるか!確かに卿らには深い恩義があるが、出来ることと出来んことがある!そもそも、こんな服を着ることとヤームル殿の戦いと、どう関わるというのだ!」
ウォルは、手にしていたバニースーツを、やはり全身全霊の力で床に叩き付けた。
「帰る!俺は俺の家に、今すぐ帰るぞ!」
「バカヤロウ!どんな戦いだって、まずは情報戦だ!酒に酔わせた馬鹿な男連中に、しなを作って情報を引きずり出す!別に難しいことじゃねえだろうが!この服着て、男と一緒に酒を飲んで、ちょっと乳を揉ませたり尻を撫で回させてやるだけのことが、どうして出来ねえってんだ!」
「どうしてもだ!十分に許容の範囲外だ!」
女性相手にここまで声を荒げる辺り、ウォルも平静ではない。対するメイフゥは、わりといつも通りである。
二人が怒鳴り合う有様は、虎と栗鼠が唸り声を上げて向かい合っているような、どうにも緊張感の無い様子だったが、当人達は真剣だ。
ひとしきり怒鳴りあった二人は、激しく肩で呼吸しながら睨み合った。
「……おい、ウォル。てめえ、どうしても着ねえってんだな……?」
「……ああ、すまんメイフゥどの。卿らより受けた恩義は、いずれ返させていただくが、それは今ではないようだ」
「……その言葉を、あたしに信じろってのか?文無しのお前の言葉を信じろと?」
「……それでも、だ。俺にも譲れないものがある」
二人の会話に歩み寄りの妥協点は見つからない。
じりじりと、焼け付くような視殺戦は、しかし。
メイフゥが、にやりと笑い。
「そっか。ウォル、無理を言って済まなかったな。あたしも大人げなかったよ」
ふっと、肩の力を抜く。
つられて、ウォルも肩の力を――。
「分かってくれたか、メイフゥどの」
「こんなこと、口で分からすのがどだい無理だったんだ。一度着てみりゃあ、なんてこたぁないのがよく分かる」
「……はいっ?」
その刹那、ウォルの視界で、メイフゥの巨体が大きくぶれた。
次に、何か、大きな力が自分を吹っ飛ばしたのだと知る。
どさりと、背中から床に倒れる。
メイフゥの、素晴らしい早さのタックルだった。
ウォルは最初、自分が何をされているのか分からなかった。それほどに、メイフゥのタックルは速く、美しかったのだ。
動き始めた瞬間には、ウォルの身体に触れていた。
ウォルの身体に触れた瞬間には、既に押し倒していた。
押し倒した瞬間には、既に馬乗りになっていた。
一連の動作が、流れるように無駄がない。魔法のようなタックルだ。それは、メイフゥが自分の弟をいじめるために習得した珠玉の技なのだが、ウォルが知るよしもない。
後頭部を板張りの床にぶつけて、軽い脳震盪を起こしていたウォルは、いつの間にか自分が天井を見上げており、身体の上に誰かがのし掛かっていることを認識する。
次に、自分と電灯の間に、肉食獣の笑みを浮かべた女性の顔が浮かび上がり――。
「さぁて、ウォルちゃぁん。たぁのしいたのしい、お人ぎょ遊びの時間だぜぇ。可愛い可愛いお服に、お着替えしましょうねぇ!」
ウォル用に仕立てられたバニースーツ片手に、メイフゥは思い切り舌舐めずりをした。
まるきり、か弱い女性に襲いかかる不埒な男、そのままの有様で。
見上げるウォルは、心底この女性を恐怖した。
そして、叫んだ。
手足をばたつかせながら、力一杯、腹の底から叫んだ。
「やめろ、変態、痴漢、変質者、性犯罪者、女ナジェック――!!!」
「暴れるんじゃねえ!うぶなねんねじゃあるまいし、黙って天井の染みの数でも数えてやがれ!あとあたしは痴漢じゃねえ!痴女だ!」
「堂々と言えたことかー!」
ウォルという少女が、初めて他人の手で裸にひん剥かれた瞬間だった。
その相手が男ではなく同年代の少女であったことは、ウォルにとって幸か不幸か、それは神のみぞ知ることである。