懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第三話:追憶

 男は、なんだか暖かいところを漂っていた。 

 温い、湯と水のちょうど中間温度の液体に浸かっている感覚だが、しかし少しも息苦しいところがない。時折吹いてくる優しい風が、少しばかり火照った身体をちょうどよく冷やしてくれて、心地良いことこの上ないくらいだ。

 ふわりふわりと、足下が覚束ない感覚がなぜだか楽しい。男はうっとりとした微笑みを口元に浮かべていた。雪のように真っ白だった髪がいつの間にか黒々としていることにすら気がつかない様子だ。

 光が、瞼を通って男の瞳に感じられた。優しい、橙色の光だ。冬の朝、分厚いカーテンを突き抜けて部屋の中を淡く照らすような、儚くて優しい光。もういつから感じているのか分からなかったが、しかしいつまでもその光に包まれていたいと思う。

 瞼の奥に、甘い痺れがある。覚醒と睡眠の間を行ったり来たりする、あの甘い感覚。もう五分、あと五分と言って妻を困らせた、宴会の翌日の目覚めのような…。

 時折、全身を穏和な鎖に繋がれているような気がした。一度冷たい鉄の鎖に繋がれたことがあったが、この鎖は、ある意味においてはそれよりもたちが悪い。何せ、反抗しようとする気力が涌かない、いや、むしろ積極的に繋がれていたいとすら思えてしまう。この生温くて良い匂いのする空間に比べて、目を開けた後に待っている世界の、なんと猛々しくなんと恐ろしいこと。

 ここには、何も無い。冷たいもの、痛いもの、歯痒いもの。人の心を突き刺して止まない、尖ったものが何一つ無いのだ。

 男は、幸せだった。もう、何一つ思い出せなくなるほどに幸せだった。少しずつ自分の身体が光に溶けていくのを知っていながら、しかしそれ以上に幸せだった。もしこのまま全てが溶け去って、この世界の一部として永遠に彷徨うことが出来るならば、それは何よりも幸福なことなのではないかと思った。

 男の部分は、もうほとんど残っていなかった。足は溶け、手は消え去り、胴体も半ばまで失われている。普通ならば苦悶でのたうち回らねばならないような惨状の身体で、しかし精悍で彫りの深い顔には平温と安堵の表情しか刻まれていない。母の胸に抱かれた、幼児のような表情で、ただ眠りについている。

 それでも、男は考えていた。

 

 ―――何か。何か、忘れていないか。

 

 男は、瞼の裏にだけ存在する指を、指折り数えて考えた。遠くに聞こえる潮騒のように穏やかな音が思考を痺れさせていくが、千々に散らばりそうになる思考を必死に寄せ集め、指折り数えた。

 

 ―――まず、俺は何がしたかったのか。

 

 ―――昔、昔、ずっと昔だ。もう、五十年近くも前のこと。俺は、何がしたかったのか。

 

 ―――何かがしたかった。

 

 ―――血が沸き狂い、はらわたがねじ曲がり、灼熱の吐息が噴きこぼれるほどに、何かを求めた。

 

 ―――何だった。

 

 ―――何が、欲しかった。

 

『おれの父も、血のつながらない育ての親だった』

 

 ―――そうか。お前の父上も、そうだったのか。

 

 ―――そして、お前もそうだったのか。

 

 ―――お前も、血が沸き狂い、はらわたがねじ曲がり、灼熱の吐息が噴きこぼれるほどに、何かを求めたのだな。

 

『他の誰も言わないならおれが言ってやる。黙って殺されたりするな。倒すべき敵を見定めて、一人も逃すな』

 

 ―――そうだ。そうだな。それが、お前だ。

 

 ―――その猛々しさが、恐ろしさが。

 

 ―――冷たさが、痛さが、歯痒さが。

 

 ―――その鋭さが、お前だ。

 

 

 ―――そして、為した。お前と同じように。それだけだ。

 

 

 ―――なら、もういいのではないだろうか。

 

 ―――するべきことは、全て為したのだろう?

 

『誰がお前を鎖に繋いだ!!』

 

 ―――ありがとう。

 

 ―――心の底からそう思った。

 

 ―――お前は、他の誰よりも、俺のために怒ってくれたんだ。それが何よりも嬉しかった。

 

『おかしなもんだ。お前の血もうまい。人間なんかまずくて食えたもんじゃないのにな』

 

 ―――そんなことを言われて喜ぶ人間なんか、地の果てまで探してみろ。

 

 ―――見つかるものか。

 

 ―――俺くらいのものだ。

 

 ―――俺はな、確かに嬉しかったのだ。

 

 ―――誰も寄せ付けないお前の誇り高さが。そのお前が、俺のすぐ隣で眠ってくれたことが。

 

 ―――誰が言えるか、そんな恥ずかしいこと。

 

『化け物と呼んでもいいぞ』

 

 ―――血に染まった口元。

 

 ―――崩れ落ちそうになる膝を叱咤しながら、それでも立ち続けた。

 

 ―――だって、王妃の前で怯えて後退る王なんて、格好悪いもの。

 

 ―――全部、お前が悪いのだ。全く、どうしてそのような王女を王妃にしようと思ったものか。

 

『やあ』

 

 ―――昇る朝日を背負った少年。

 

 ―――全てがお前なのに、何一つお前じゃあない。

 

 ―――でも、それはやっぱりお前だった。この世の全てが変わっても、お前だけは変わらない。そんなこと、誰が知らなくても俺だけは知っている。

 

『ありとあらゆる神々の祝福が、この偉大なる王の上にあるように』

 

 ―――最後まで非道い奴だ。

 

 ―――俺は、お前がいなくても王でなくてはいけない。王妃は王がいなければならないが、王妃がいなくても王は王でなければいけない。

 

 

 なんたる不公平!

 

 

 ―――それでも、うん。

 

 ―――そうだな。

 

 ―――だからこそ、お前は帰ったんだな。

 

 ―――任せろ。この世界は、俺達に任せろ。

 

 ―――安心して、帰るがいいさ。

 

『助太刀するぜ』

 

 ―――何を?

 

 ―――お前のような小僧に、一体何が出来る?

 

 ―――逃げろ。逃げないと、お前まで一緒に…。

 

 ―――一緒に…。

 

 ―――一緒に…?

 

 ―――一緒に、なんだろう。

 

『ぜひともお前に王冠をかぶせてみたくなった』

 

 ―――お前は。

 

 ―――俺と一緒にいてくれると言う、お前は。

 

 ―――何一つ与えることが出来ない俺に、何もかもを与えてくれる、お前は。

 

 ―――お前の、名前は。

 

『リィ。友達はみんなそう呼ぶんだよ』

 

 

 ―――リィ。

 

 

『お前がお前である限り、戦士の魂を忘れないでいる限り、お前が国王だ』

 

 

 ――リィ。

 

 

『そういう意味なら、お前がおれのバルドウだな』

 

 

 ―リィ。

 

 

『おれは、おれのバルドウを勝たせるまでは、後に引く気はない』

 

 そうだ。

 

『決まってる。お前がおれのバルドウだからだ』

 

 リィ。

 

 お前だ。

 リィ。お前じゃないか。

 

『この剣と戦士としての魂に賭けて』

 

 そうだ。

 

 俺は。

 

 俺は、俺の剣と、俺の戦士としての魂に賭けて。

 

 お前と、もう一度。

 

 もう一度。

 

 

 ごぼり、と、何も無い空間に泡が立った。

 首だけになった精悍な顔が、ゆっくりと瞼を開いた。

 そこには、夜空のように漆黒の、猛々しい戦士の瞳があった。

 

「あーあ残念、目覚めちゃったのね」

 

 首だけになった男の前に、幼い少女が浮かんでいた。橙色の優しい光を背景に、何も無い空間をぷかぷかと漂っている。

 男にとって、見たこともない少女だった。白い髪、色素の薄い肌、ごく薄い茶色の瞳。

 儚い、という言葉では表せないほどに色の淡い、少女だった。病弱な印象を通り越して、幽玄ですらある。

 そこにいるのに、そこにいないような。

 一目で、現世の人間ではないと、そう確信した。

 

「…君は?」

「私は、そうね、化け物かしら」

「そうか、化け物か」

 

 男は平然と頷いた。

 

「驚かないの?それとも、嘘だと思った?」

「いや、君が嘘を吐いているとは思わんし、それなりに驚いてもいる」

「そうは見えないわ」

「免疫があるからな。しかし、その化け物である君が、一体こんなところで何をしている?」

「私?私はね、あなたを食べようとしていたのよ」

 

 少女は、くすくすと笑いながら言った。

 男は、真剣な声で尋ねた。如何にも不思議そうに。

 

「どうして人などを食べようとする?」

「どうしてって?」

「人などうまいものではない。俺の妻が言っていた」

 

 少女は目を丸くした。丸くして、それからお腹を抱えて笑い始めた。

 

「ええ、ええ、その通り!人なんて美味しいものじゃあないわ!」

「では、何故君は人を喰うのだ?」

「人を食べるんじゃないの。私はあなたを食べるのよ。だってあなた、とっても美味しそうなんだもの」

 

 今度は男が笑った。

 

「君は、妻と同じことを言うのだな」

「同じこと?」

「妻もな、俺の血を舐めてうまいと言った。人などまずくて喰えたものじゃあないと言いながら、俺の血はうまいと言ってくれた」

「…そんな人を奥様にしていたの?」

「自慢の妻だ」

「…ひょっとして、さっき言ってた免疫って…」

「まったく、あいつと一緒にいて驚かされなかったことなど一度足りとて無い」

 

 男は大真面目に頷いた。

 少女は、男の瞳をまじまじと見つめて、それから盛大に溜息を吐き出した。

 

「…あなた、よくこんな状況で惚気ていられるわね」

「こんな状況?」

「もう、あなたは首以外の全てを私に食べられちゃってるの。もう少しで、頭も丸ごと頂いちゃうわ。なのに、怖くないの?」

「それは困る」

 

 正しく手も足も出ない様子の男は、まじめくさった口調で言った。

 

「俺は、死ぬわけにはいかん」

「おかしな人。あなたはもう死んでいるのよ」

「それでもだ。俺は、あいつともう一度会うまでは、どうしても死ぬわけにはいかんのだ」

「あいつ?」

「俺の妻だ」

「何で会いたいの?」

「夫が妻に会いに行くのに、理由などいるものか」

 

 男の言葉に、少女は大きく頷いた。

 全く、男の言葉は正しい。

 

「やっぱりあなた、いい男だわ」

「ありがとう」

「でも、それだけに手放すわけにはいかないわね」

 

 少女の声に、何か怖いものが混じった。

 男の存在しない背筋を、ぞくりと冷たいものが走り抜けた。

 

「ふふっ、ホントは優しく蕩かしてあげようと思ってたんだけど、あなたみたいに綺麗な人なら悲鳴だって美味しそう。もう、飛びきり残酷に噛み砕いてあげようかしら」

 

 少女は、頬を引き攣らせるように嗤った。

 めしめしと、少女の内側から低く鈍い音が響くのを、男の聴覚が捕らえた。

 男の目の前で、少女の顔が変形していった。

 鼻が前に突き出て、口が耳元まで大きく裂け、その端から剣山のように細かく生え揃った牙が覗いた。牙の先には粘ついた唾液が絡みつき、肉の腐ったような吐息が擦れて奇妙に高い音が鳴る。

 明らかに、人の笑みではなかった。

 猛獣のような、笑みだった。

 それを見て、男は大きく溜息を吐き出した。

 

「困った」

「…何が?」

「いや、これはいよいよ手詰まりらしい」

「当たり前よ。だって、あなたはもう、手も足も付いていないのだから」

「そんなことは関係ない」

 

 男は、そう言った。

 きっぱりとした口調だった。

 

「手が無かろうが足が無かろうが、関係ない。この俺には、まだ口がある。牙がある。ならば戦える」

「私に勝つつもり?」

「俺はバルドウだ。化け物だろうが悪魔だろうが、誰にだって負けるものか」

 

 はったりにもならないはったりを、男は口にした。

 女は、剥き出しにした牙をそのままに、きょとんと目を剥いた。

 

「…バルドウって何?」

「…君のような化け物が、バルドウを知らんのか?」

「とんと聞いたことないわ」

「おかしいな。有名な神の名前なのだが」

「ふーん。私って結構神話とかには強いつもりなんだけどなぁ。そういう家の生まれだったし」

「なら、なおのことおかしい。バルドウは、こんなに小さな男の子だって知っているほどに有名な神様だぞ」

 

 男は、自分の腰の辺りに手をやろうとして、その両方がすでに無いことに気がついた。

 なんともばつの悪い顔になった。 しかし、どこかでなぞったことがあるような、そんな会話であるように男などは思った。

 

「…まぁ、いいわ。なら、そのバルドウ様が何故困っているの?」

「いや、もしこのまま君と戦うとする。当然、俺は勝つだろう」

「…ええ、そうね。なんだかそうなるような気がしてきたわ」

「そうすると、君を倒した俺は、いよいよ自分が今どこにいるのかがわからなくなる。俺は妻に会いたいのだがな」

 

 ふーむ、と男は唸った。

 うーん、と少女も唸った。

 

「それは困るわね」

「ああ、とても困っているのだ」

「なら、助けてあげようか?」

 

 少女は、恐ろしげな顔をそのままに、言った。

 

「いいのか?」

「気紛れよ。いやなら止めとくけど」

「いや、助かる。大いに助かる」

 

 手があれば、少女の手を握らんばかりの有様である。

 苦笑した少女は、いつの間にか元の少女だった。白い、抜けるように色の薄い顔が、にこやかに笑っている。

 

「私の体、貸してあげる」

「体?」

「そう。そうすれば、首だけになったあなただって、奥さんを捜しに行けるでしょう?」

「それはそうかもしれんが…君はどうなる?」

「私はもう、疲れちゃったから。こんな中途半端なところに留まって、あなたみたいに美味しそうな魂をしゃぶったりしているの」

 

 それは、悪戯好きな少女の顔だった。

 

「では、用が済めば必ず返す」

「じゃあ言い直すわ。私の体をあげる。もともと、使い物にならないおんぼろだもの。文句を言われたって受け付けたくないくらいのね。それより、あなたって男の子でしょう?女の子の体でいいの?」

「そんな些末事、どうでもいい」

 

 普通の男ならば頭を抱えて悩むような大決断を、男はさらりと切り流した。

 

「些末事って…そんなの、あなたの奥さんがあなただって気づいてくれないかもよ?」

「それはない。それだけは絶対にない。あいつならば、俺がどのような存在になったとしても一目で気がつくだろう」

「なんで?なんでそう言い切れるの?」

「俺の妻だからな」

 

 少女は、両手を上げてばんざいのポーズをした。もう降参と、もしくはお腹一杯と、そういう意思表示らしかった。

 

「しかし…やはり困ったな。そんな大事なものをただでもらうわけにはいかん」

「持ち主があげるって言ってるのよ。欲しくないの?じゃあここから出さないわよ」

「いやいや、それはもっと困る!」

 

 男は慌てた声でそう言った。

 少女は、白い掌を口元に当てて、くすくすと微笑った。

 

「じゃあ、やっぱりあげるわ。いらないものだし、それに…」

「それに?」

「あの子には、幸せになってもらいたいのよ」

「あの子?」

「私の体のこと。あれは、きっと私とは別の生き物(・・・・・・・・)だったの」

 

 少女の身体が、だんだんと薄れていった、ように見えた。

 それは少女の存在が消えかけているのではなく、男がその空間から弾き出されつつあったからなのだが、しかし男にそんなことは分からない。

 男は、慌てた様子で言った。

 

「おい、逃げるな。俺は、まだ君に聞きたいことがある」

「なら、一つだけ、許してあげるわ。なんだって、でも一つだけ」

 

 男は、薄れつつある視界の中で、必死に考えた。

 考えて、たった一つの質問を、口にした。

 

「君の、名前は?」

 

 少女は、嬉しそうに頷いた。

 

「そう。それが、きっと正解ね。でも、何で私の名前なんて知りたいの?」

「恩人の名前を知らずに安穏と過ごす事なんて出来ない。それだけだ」

「損な性格ね。でも、私は好きだな」

 

 そして、言った。

 

「私の名前は、ウォルフィーナ」

「ウォルフィーナ?」

「ええ。狼女(ウォルフィーナ)よ」

 

 男の消えつつある頭部が、感心したように目を開いた。

 

「いや、こういう偶然もあるものなのだな」

「偶然?」

「俺の名は、ウォルという」

「あら」

「そして、俺の妻は黄金の狼なのだ」

 

 今度は、自らを狼と名乗った少女が、感心したように目を開いた。

 そして、やはり優しく微笑った。

 

「じゃあ、やっぱりあなたにあげるわ。あの子、とてもいい子だけど使いにくいの。変身だって出来ないし(・・・・・・・・・・)

「かたじけない」

「いいって。でも一つだけ条件があるんだけど、聞いてくれる?」

「何でも言ってくれ」

 

 もう、白い陽炎のようにしか見えない少女は、おそらくは微笑を浮かべたまま、言った。

 消えつつある意識の中で、妙にもの悲しい声だけが聞こえた。

 男は、とうぶんの間は、その声を忘れることは出来ないだろうと思った。

 

「あの子を愛してあげてね。そして、あの子を愛した人を愛してあげてね。きっとあなたには残酷なお願いだけれども、誰かを愛してしまったあの子を許してあげてね。そして、あの子を幸せにしてあげて。それが、私のお願い」

 

 ずいぶんたくさんの『一つだけ』もあるものだと苦笑し、そして男の意識は暗い闇の中に沈んだ。

 

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