懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
ケリーとジャスミンは全力で疾走した。体の隅々にまで滾る血液が送り込まれ、頭は、間近に備えた戦闘に向けて沸騰しそうな勢いで回転している。
あの少女は、いい少女だった。笑顔は可愛らしいし、一緒に酒を飲んでいて楽しいし、妙な言い方だが侠気がある。将来は驚くほどの美人になるだろうこと請け合いだ。それに、あの子には、二人の大恩人である少年と腕を組んでヴァージンロードを歩くという大事な仕事があるのだ。折角だから二人の子供の顔も拝んでみたい。だから、こんなところで不逞の輩に引き渡したり、死なせるなんて以ての外だ。
しかし、二人は正しく百戦錬磨である。片方は、たった一人の相棒を供にして宇宙を駆け回り、海賊王とまで謳われた男である。そしてもう片方は『魔女』と称される共和軍の猛者である。思考の一部を熱く滾らせつつも、他の一部で事態を冷静に把握しようと努めている。
この場合、正面突破はいかにも不味い。最悪だ。対テロチームが突入したのだから、腕利きのスナイパーが随行していないはずがない。どこか狙撃に適した高台で、酒場の出入り口をスコープに収めて、今にもトリガーを引き絞らんとしているに違いなかった。何の装備もなく彼の標準に飛び込もうならば、無慈悲な死に神の鎌が銃弾に化けて、二人のこめかみを吹き飛ばすだろう。
二人は申し合わせたように走る向きを変え、薄暗い路地に入った。
「ダイアン、例の酒場の周辺地図、それに見取り図は拾えるか?」
生ゴミのたっぷり詰まったポリバケツを蹴飛ばして駆けながら、ケリーが叫んだ。
「今送るわ。……不味いわね、さっきの男たち、もう息を吹き返したみたいよ」
「ちっ、半日は足腰が立たねえようにぶん殴ったつもりだったんだが……なまったかな?」
「それとも、この国の軍隊はきっちり鍛えているか、どちらかだろう。どちらにせよ、あまりありがたいことではないな」
ケリーに少しも遅れることなく走るジャスミンが、忌々しげに呟く。もとが軍属の彼女であるから、柔弱な軍人というものには侮蔑を通り越して嫌悪の念すら抱くのだが、この場合だけはその信念を曲げてもいいと思った。敵の勇猛を望むのはゲームの勝負の時だけで十分であり、命を賭けた闘争については逆のほうがいいに決まっている。
事実、ヴェロニカ軍の練度は、中央に名だたる大国の軍隊と比較しても見劣りしたものではない。装備の充実ぶりは一歩も二歩も劣るが、辺境国にはつきものの宇宙海賊との戦闘やテロリストグループの制圧で鍛えた実戦経験は装備の差を補って余りあるものがあった。
それに、いくら装備が脆弱といっても、今の二人の軽装備とは比べるべくも無い。唯一アドバンテージがあるとすれば連中の主回線をすでにダイアナが掌握していることだが、よほどの間抜けでも無い限り、緊急用の回線の一つや二つは用意しているだろう。
先ほど二人が殴り飛ばした連中は、通信不能になった主回線は切り捨てて、部隊の本部に通信を飛ばしているだろう。すでに自分達の存在は明らかになっていると思った方がいい。
であれば、事態は一刻を争う。こちらの装備は、ハンドガンが二丁に、携帯用の貧弱なナイフが数本程度なのだ。万全な装備の軍隊に正面からかち合っては勝負になるはずもない。
ケリーは、相棒から送られてきた周辺地図を義眼に写したまま疾走した。酒場の入ったビルの区画をぐるりと迂回して、その裏口を目指した。
多少のタイムロスは覚悟の上である。
果たして、裏口のある通りはすぐに見つかった。
驚くほどに、道が狭い。体格のいい二人は、肩を傾けるようにして体をねじ込まなければ入ることもできないような、狭い通りだ。これでは、扉をキチンと開けることも難しいのではないだろうか。通りの入り口には、収まりきらないゴミやら吐瀉物やらが散乱して、如何にも饐えた臭いが充満していそうだ。
だが、通りに飛び込むためには、幅の広い道路を横切らなければならない。
その手前で、ケリーが足を止めた。ジャスミンは、それを非難の視線で見遣ったりはしない。この男が止まるのだから、止まるだけの理由があるのだ。
風を切るような速度で走って、しかし少しも息を乱さないケリーが、遙か上方を眺めて、忌々しげに呟いた。彼の異名にもなっている義眼が、奇妙な色に光っていた。
「不味いな。こっちにもスナイパーだ。きっちりしていやがる」
視線の先は、二人が物陰にしているビルの屋上である。高さはそれほどでもない。せいぜい、四階か五階建てくらいものだろう。射程距離はまだまだ余裕があるのだろうが、あの隘路に照準を合わせるならば、このビルの屋上くらいしかスナイピングポイントが見つからなかったに違いない。
このまま道路に飛び出して隘路に飛び込めば、飢えた猛獣の前に生き血を引っ被った状態で飛び出すよりも悲惨な結果になるだろう。だが、このビルの入り口に回り、階段を駆け上がって、スナイパーを始末する。それがどれほどのタイムロスになるか。
ケリーが舌打ちをしかけたとき、
「行ってくる。すぐに戻るから待っていてくれ」
とんでもなく軽い調子で、妻が言った。
呆気に取られる暇すらない。ジャスミンはビルの壁面に取り付き、ほんの僅かなでっぱりに指をかけて、体をひょいと持ち上げた。次は二階の小さな窓の庇部分。次はひびわれたコンクリートに指先をねじ込み、無理矢理に手がかりにする。それを繰り返すうちに、彼女の立派な体躯は、ひらりひらりとケリーの遙か上方まで運ばれていた。
まるでヤモリか蜘蛛だ。とても人間になせる技ではない。もしかしたら熟練のロッククライマーならば同じような芸当も可能なのかも知れないが、彼女と同じだけの身長と体重をほこり、しかも重量級のハンドガンを脇に抱えてこんな事ができる人間を、ケリーは寡聞にして知らない。するりと屋上に消えた我が妻を眺めながら、後から後から沸き上がってくる笑いの発作を噛み殺すのに苦労していたほどだった。
程なくして、
「おい、海賊。ちょっといいか」
遙か上方から声がかけられる。ジャスミンが屋上に姿を消してから、30秒と経っていない。銃声は聞こえなかったから、もっと穏便な方法で──おそらく話し合いではないだろうが──かたをつけたに違いなかった。
「どうした」
「少しどいてくれ」
「何だって!?」
返答する間もなく、何か黒い塊が、屋上から落っこちてきた。夜空を背景に、真っ赤な髪が舞い上がったのが見える。
ジャスミン本人だ。
「この馬鹿!」
ビルの五階、地上20メートルからの自由落下となれば、いくら頑強なジャスミンでもただで済むはずがない。骨折で済めば御の字といったところだ。
ケリーは、咄嗟に受け止めるべく落下地点に割り込んだが、冷静に考えれば、十分に加速された体重80キロを超えるジャスミンの体を受け止められるはずもない。それは、彼の知る一人の少年を除けば、間違いなく不可能ごとである。
こりゃあ潰されるな。
せめてクッション代わりにはなるだろうかと絶望的な気持ちで衝突を待つケリーの頭上で、しかしジャスミンの体は急停止し、夫の腕の中には妻の柔らかな体がぽすんと収まったのだ。
「……何をしているんだ、海賊」
ジャスミンは、ケリーの両腕で掬い上げるように抱きかかえられた姿勢のまま、胡散臭げに夫を見上げた。
よく見ればジャスミンの腕には、ヘリからの降下にも使われる頑丈なロープがしっかりと握られている。激突の直前に、それで急制動をかけたのだろう。レンジャー部隊に配属されたこともある彼女にとっては造作もないことだったに違いない。
「……一つ聞いてみたいんだが、女王、あんた、いつもそんなもんを持ち歩いているのかい?」
「いや、さっきもらった」
「もらった?」
「親切なおじさんにな。気を失った人間に装備は生かせないからな。せいぜい有効に利用させてもらうさ」
そう言ったジャスミンの背中には、なるほど小振りなバックパックが背負われている。
彼女が屋上に姿を消してからの僅かな時間で、おそらくは百戦錬磨の特殊部隊員を素手で仕留め、その装備を奪い、ロープ降下の準備までしてのけていたのか。
なるほど、共和軍の猛者どもから赤毛の雌虎の異名を勝ち得た実績は伊達ではないらしい。その雌虎が腕の中からギロリと睨め上げてくるだから、ケリーの頑丈な心胆も僅かに冷えた。
「わたしがどけと言ったらどいてくれ。危ないじゃないか」
「ああ、まぁ、俺もそのつもりだったんだがなぁ。しかし、一応はあんたを助けようとしたんだぜ?もう少し感謝してくれると嬉しいんだがね」
「わたしを助けようとしてくれたのには素直に感謝するが、わたしが無謀にもあの高さから飛び降りたのだと判断されたのには腹が立つ。差し引きゼロだ」
あっさりと言ってケリーの腕から体を下ろし、ジャスミンは、先ほどまで自分を抱え上げていた腕の中に、冷たい鉄の塊をねじ込んだ。
銃身の短いサブマシンガンで、ケリーにも馴染みの銃種であった。ハンドガンと比べればその威力には天と地ほどの開きがある。
「こいつはありがたい」
「さっさと行くぞ。時間が惜しい」
そう言ったジャスミンの足は、裏口に向けて走り出している。
ケリーもそれを追って走った。
人通りの絶えた道路を横切り、ビルの隙間に体を捻り込み、駆ける。スパイアイで人影がないことは確認しているが、最低限の用心は怠らず周囲に警戒を走らせる。
酒場の裏口は、錠前が破壊された状態で開けっ放しになっていた。敵はこちらからも突入していると思われた。
二人の長身からすればあまりに狭く、そして低い入り口を、背中を曲げながらくぐり抜ける。目の前に現れた下りの階段は、一度足を踏み外せば捻挫程度では済まない怪我を負いそうなほどに急で、長く、しかも足場が狭い。その上、照明の類がもともと無いのか、それとも電源を断っているのか、足下手元すら見えないような暗がりである。
義眼のケリーであればまだしも、ジャスミンには相当厳しい環境条件だ。いくら夜目の利く彼女であっても、限界というものがある。
それでも二人は三段飛ばしで一気に駆け下りた。店内に充満する硝煙の臭いが、二人の速度をより速くしていた。
降りきると、すぐに曲がり角がある。ケリーはジャスミンを差し置いて先行した。荒事の手前は甲乙を付けがたい二人であるが、こういう状況ではケリーのほうが、スパイアイを備えている分だけ向いている。
ジャスミンもそれを弁えているから、ケリーの後ろにつき、後方の警戒に回った。
階段に負けず劣らず狭い廊下を、銃を構えながら音もなく駆け抜ける。いくつかドアを潜ったが、その全てが開けっ放しになっていた。既に誰かが通った後なのだろう。
厨房らしき部屋を抜けると、先ほどまで二人が杯を傾けていた店内にたどり着いた。正面から突入したチームは、まずここを制圧したはずだ。
しかし、誰の姿もない。所々に薬莢が転がり、戦闘が行われた形跡は残っているのだが、人っ子一人いない。
だが、それにしてはおかしい。突入した部隊は少女の身柄の確保と、その周囲の人間の殺害を任務としているはずだ。ならば、少女が連れ去られたとしても、彼女の仲間の死体が残されていないと勘定が合わない。加えて言うならば、リィの婚約者と名乗ったあの少女が、いくら生え抜きの特殊部隊が相手とはいえ、そう易々とされるがままになるだろうか。
真っ暗な店内を油断無く見回しながら、訝しんでいたジャスミンの肩を、軽く叩くものがあった。
ケリーの手であった。
どうした、と、声ではなく視線で問う。
ケリーは、くいと立てた親指で、店の奥の方を指す。そこに何かがあるのだろうか。
こういった状況であるから、一々問い質すのは時間の浪費であり、命を危険にさらす行為だ。すでに自分の指揮権をケリーに預けたつもりのジャスミンは、おとなしく指示に従い、ケリーの後を追う。
少女が舞っていた広い舞台に駆け上り、その舞台袖から中に入る。
奥は意外なほどに奥行きのある廊下が続いていて、扉がいくつも並んでいる。小脇の部屋は店で働く女たちの控え室のようになっていて、色濃い硝煙の臭いの中に白粉や香水のけばけばしい香りが残っている。やはり狭い廊下は無数の弾痕が刻まれ、ここで激しい戦闘があったことを物語る。
ケリーは、いくつかある扉に目もくれず、一番奥にある扉を開いた。真っ暗な部屋の中は、どこか生活感の溢れる造りになっていて、おそらくは住み込みで働く店員の居室になっていたのではないかと思われた。
部屋の奥には、何もない。どん詰まりだ。
さすがに我慢の効かなくなったジャスミンが、ぼそりとした声で問い質した。
「どういうことだ。ここに何がある」
「熱源がここで途切れてやがる。どういうこった?」
ジャスミンは唖然とした。
どうやらケリーは、移動する人間の残す熱を追って、この部屋まで辿り着いたらしい。そういう機能の暗視装置があることはもちろん知っているが、それを義眼のサイズまで軽量・小型化し、他の機能と並立させるとなると簡単なことではない。
「……その目には、いくつの機能がついているんだ?」
「さぁな。ことあるごとにダイアンがバージョンアップしてやがるから、最近は俺もよく分からなくなってきたところだ」
「ひょっとしたコミックの異星人や超能力者みたいに、ビームの一つも出るんじゃないのか?」
「そんなわけねえだろって笑い飛ばせねえところが厄介だな。あんたと一緒のベッドで眠るときは気をつけるとするさ」
肩を竦めたケリーである。
軽口を叩き合ってしまった二人だが、気を取り直したふうに室内に入る。
部屋は、めちゃめちゃに荒らされていた。壁には弾痕、箪笥や鏡台といった家具は軒並み蹴倒され、カーペットは捲られている。台風が一過したとしても、このような有様にはほど遠いだろう。
ケリーはしばらく周囲を眺めていたが、熱源が不自然に途切れている壁を見つけて立ち止まった。
「へぇ。これはこれは……」
義眼の機能を切り替えて壁の向こうを透視すると、不自然な空洞がある。手で叩くと妙に籠もった音がするから、間違いない。
ジャスミンも、その音で気がついた。
「隠し扉?そんな馬鹿なものが、この世に実在したのか?」
どう考えても褒めている調子ではない。
だが、ケリーは場違いに嬉しげな笑みを浮かべて、言った。
「いいじゃねえか、隠し扉。隠れ家や秘密基地にはもってこいだ。男のロマンって奴だな」
「それが許されるのは、せいぜい男の子までだ。立派に成人してからこんな馬鹿なものを作る奴は、それこそ馬鹿というんだ」
「あんたの言うとおりだな、女王」
しかし、仮にも店の中にこんなものを作るということは、店長には後ろ暗いところがあるのか、それとも臑に傷を持つような人間なのか、どちらかだろう。
とにかく、壁のあちら側に人が消えたというならば、こちらも追いかける必要がある。
ケリーは、壁のあちこちを押してみた。すると、意外なほどにあっさりと壁はくるりと周り、その向こうの小部屋が露わになった。
小部屋には、本当に何もない。が、その床にはただ一つ、大きな穴がぽっかりと空いていた。ご丁寧なことに、穴にはきちんと縄梯子が掛けられている。
覗いてみると、穴はかなり深いようだった。奥から風が吹いてくることから、それなりに広い空間があるのだろう。いきなりどん詰まりの部屋がある、というわけではないらしい。
耳を澄ませてみると、どこからか散発的な銃撃音が聞こえた。
「どうするね、女王」
「行くしかないだろう。と、少し待て」
既に先ほど奪取したバックパックの中から暗視用ゴーグルを引っ張り出していたジャスミンである。店内ならばまだぎりぎり視界があったが、これ以上照度が下がれば戦うどころの話ではなくなるからだ。
ゴーグルを装着して、細かい調整を施す。
短い意思確認の後に、先にジャスミンが縄梯子を下った。ケリーは穴の上から銃を構え、万が一に下から銃撃があったときに対応できるよう構えている。
ジャスミンはするすると縄梯子を下る。彼女の主観としてはずいぶん時間を掛けて、客観的には驚くべき早さで梯子を滑り降りていく。
しばらくすると縦穴が終わり、開けた空間が見えた。ジャスミンはポケットから手鏡を取り出し、手のひらだけを縦穴の外に出して敵の姿を確かめようとしたが、そこには何も写らなかった。もちろん物陰からこちらを狙っている可能性はあるが、先に進まない訳にはいかない。縄梯子を手放し、ひらりと地面に降り立つ。その足場を確認するよりも早く周囲を警戒し、いつでも攻撃ができる姿勢を整える。
しばらく息を潜めていたが、どこにも敵の影はない。
「ここは……?」
短く呟いた。
落ち着いて自分のいる場所を確認すると、その異様さにあらためて気がついた。
剥き出しになった地面、どこまでも続く円形の洞穴。前も後ろも、あまりに奥行きがありすぎて暗視ゴーグルを用いても先が見えない。天井の高さは人の身長を倍したほどだが、こういった場所特有の閉塞感から一段と狭く、息苦しく感じる。
光源と呼べるものは、剥き出しの土壁に張り付いた苔が僅かに燐光のように淡い光を散らしている程度で、暗視用ゴーグルがなければ視界の確保は困難を極めるに違いなかった。
特別な知識を持たない人間が、前近代的なトンネルといって思い浮かべるのが、こういう場所かも知れない。
自然にできたものではないだろう。ジャスミンは地質学に造詣は薄く、ケイビングの趣味も持ち合わせていなかったが、ここまで面白みのない洞窟が自然にできあがるはずがないことくらい、素人にだって分かる。
縦穴が続いているのは地下鉄か下水道か、そういったものだと思っていただけに、さすがのジャスミンも言葉を失ってしまった。
どういう場所だ、ここは。
思わず立ち尽くした彼女の背後に、軽やかな着地音が聞こえた。
「……なんだってんだ、ここは?どうして酒場の秘密扉がこんな場所に続いてるんだよ。一昔前のスパイ映画じゃあるまいし、男のロマンのしちゃあやり過ぎだろう」
もっともな感想である。
ジャスミンもケリーも、とことん現実感に乏しい光景を目の当たりにして暫し呆然としていたが、遠くから聞こえる銃撃音に我を取り戻した。反響を繰り返した音は、容易に音源を掴ませてくれない。となれば、頼りになるのはケリーの義眼の追跡能力だけである。
「追えるか、海賊」
「アイアイサー」
「それを言うならアイマムだ、馬鹿者」
「なんだつまらねえ、相当言われ慣れてるみたいだな、女王」
二人は同時に走り出した。
途中、いくつか枝分かれした道があり、通路はいささか迷路じみた様相を見せ始めたが、ケリーにしてみればそれは容易な迷路であった。なにせ地面には、見逃しようのない矢印がきっちりと刻まれていて、自分を出口まで導いてくれているのだ。これならば迷えというほうが難しい。
だが、それは自分だけに限られた天使の福音ではないことを、この男は承知している。正式な軍隊、しかもその生え抜きの特殊部隊ともなれば、自分の義眼と同程度の機能を持ち合わせた装備はきっちりと備えているだろう。目印となる熱跡も、決して枝分かれなどすることはなく、猟犬が獲物を追跡する様子がありありと浮かび上がっている。
もし、ウォルたちがこの暗がりに身を潜めるつもりならば、それは必ず失敗する。その認識が二人の足を速くした。
何度か、地獄の穴のように口を開けた脇道に飛び込み、緩やかに起伏を繰り返す土道を駆ける。二人が履いているのは底の分厚いブーツだったため、どうしても大きな足音が洞内に反響する。どこかで待ち伏せしている敵がいれば、二人の存在は遙か先でも知れてしまうに違いない。
加えて、いつからか、空気の中に異臭が混じり始めていた。二人にとって馴染み深いその生臭さは、生きている人間が流した血の臭いに違いなかった。
ジャスミンもケリーも、無言で走った。
いったいどれほど走ったのか、頑強な二人が軽く息を乱し始めたときである。
通路のど真ん中に、何かが横たわっているのを、二人は見つけた。
小さな岩か何かかとも思ったが、どうやら人が倒れているらしい。
油断無く銃を構えたまま、ケリーが近づく。その足音は聞こえているはずだが、倒れた人影はぴくりとも反応しない。さもあらん、ケリーの義眼には、肌寒いくらいの洞内の気温に同化しつつある、人影の体温が見て取れていた。
近づいてみると、物々しいアサルトスーツに身を包んだ、大柄な男の死体だった。片手に銃を構えたまま、俯せに倒れて死んでいる。
あたりには濃厚な血の臭いが立ちこめており、おそらくは自身の流したであろう血の海の中で息絶えている。先ほどから漂っている濃厚な血臭は、この死体が原因かも知れず、この死体だけが原因では無いのかも知れない。
「女王、こいつは……」
「ああ。さっきこの装備をいただいた親切なおじさんと、同じ格好だな」
つまり、ウォルたちを捕縛するために出動した特殊部隊の隊員ということだ。
「生きているのか?」
「いや、死んでやがる。だが妙だな、銃で撃たれたような形跡はないんだが……」
大柄な男の後ろ姿、そのどこにも銃弾を撃ち込まれたような跡はない。
まさかこんな場所で銃を構えたまま毒殺されたわけでも、病死したわけでもあるまい。そういったケースが絶対にないとは言わないにしても、ここで発生する可能性は極僅少なはずである。
ケリーは無言で、男の死体を仰向けに蹴り転がした。
そして、言葉を失い、思わず目を背けそうになった。
顔の上半分が、ごっそりと削れている。
唇のやや上、拳法などでいえば人中といわれる急所を境にして、人の顔が存在しない。側面から見れば、耳のやや前の部分、こめかみから前面が消し飛んでいるような格好だ。
抉れた顔面からは乳白色の脳髄や桃色の筋肉組織がのぞき、おそらくは鼻腔と思われる赤黒い空洞には、少しずつ溢れていく血液が溜まり始めている。
切断面は、意外なほどになめらかだ。緩やかな弧を描きながら、右から左へ、それとも左から右へと抜けている。鈍器を使ったのでは、どれほど上手く殴り抜けてもこうはいかない。銃弾で吹き飛ばしても同じだ。刃物による切断傷にも見えるが、そうすると横から見た切断面が僅かに湾曲しているのはどういう理屈だろうか。
「なんだこりゃ。けったいな死体だな」
ケリーの軽口も、どこか重々しく響いた。
「……急ごう」
ジャスミンは死体に哀悼を捧げるでもなく、装備品であろうサブマシンガンを奪い取り、洞穴の奥へと急いだ。
血臭は、薄くなるどころか、鼻の奥を痺れさせるほどに濃くなりつつある。風は、進行方向から吹いてくるというのに、だ。
いったいいくつ、先ほど確かめたのと同じ死に様の死体が転がっているのか、検討もつかない。そして、その中にあの少女の死体が無いと、誰が言い切れるだろう。
自分達の呼吸音と足音しか聞こえない寒々しい環境が、催眠術のように二人の精神に傷を付ける。
最悪の結果が、まるで既定の事実のように思えてしまう。二人はそれが危険な妄想だと知っていたが、衝動的に沸き上がってくる少女の死体の映像を封じ込める術を持っていなかった。
苦行の如き疾走は、しかし永遠には続かない。
進行方向から何者かが近づいてくるのに、先行していたケリーが気がついた。
ケリーは身振りでそれを伝えると、ジャスミンとともに脇道へと姿を隠し、足音が近づいてくるのを待った。
少しずつ大きくなる足音、そして乱れた呼吸音。がちゃがちゃと装備がぶつかる音が聞こえる、隠密など意識にないような無様な走り方だった。
奇異に思った二人だが、成すべき事は一つである。足音が自分達の側を通ろうとした刹那、音もなく背後に忍び寄り、首筋を掴んで脇道へと引きずり込んだ。
ケリーが、足音の主の、僅かながらの抵抗を嘲笑うように地面へと叩き付け、後ろ手に関節を決めて制圧する。その隙に、ジャスミンはアサルトスーツ姿の男の首筋から携帯型無線機をむしり取り、靴底で踏みにじった。
「所属ならびに官姓名を名乗れ」
後頭部に銃口を突きつけて、感情を込めない声で問う。
男は、予想外の女性の声色に驚いたのか、暫しの間身じろぎをしたが、諦めたように力を抜くと、
「……ヴェロニカ正規軍、陸軍特殊部隊第22連隊所属のクラーク・グリフィン上級軍曹だ。貴兄らに、捕虜としての扱いを要求したい」
「よし、グリフィン上級軍曹、了承しよう。これより君は我々の捕虜だ。話が早くて助かる。先に言っておくが、我々は、君たちの捕獲対象である少女、君たちの言うところの凶悪なテロリストの首魁である少女の友人である、不貞の輩だ。そして我々は君が素直である限り、必要以上の暴力を振るうつもりはない。それは理解したか?」
「理解した。わたしは君を何と呼べばいい?」
「ジャスミンと呼べ」
俯せに制圧されたグリフィン上級軍曹、その背の上で、ケリーがくすりと笑った。まさかこの男も、いかめしい口調で自分を尋問するこの女の本名が、ジャスミンという可愛らしいものだとは夢にも思うまい。
「ではジャスミン、尋問の前に一言だけ言わせてほしい。わたしは、君たちとわたしの身の安全のために、わたしの身柄を解放し、可及的速やかにここから立ち去ることを勧める」
「ほう、なぜ?」
「この先には化け物がいる。わたしの部隊は全滅した。おそらく、あれはわたしを狙って追ってくるはずだ。さっさと逃げないと君たちもわたしもあれの牙にかかって食い散らかされるはめになるぞ」
おそらくは軍の猛者であろう男が、切羽詰まった調子で言った。
どう見ても、嘘や冗談を言っているふうではない。交渉にはお決まりの駆け引きでもないだろう。喉を絞ってぎりぎり叫ぶのを堪えたその声が、この男が先ほど味わったであろう身の毛もよだつような恐怖を存分に体現していた。
何かがいるのだ。この暗闇に紛れて、何かが。
「……グリフィン上級軍曹、その話は後で聞くとしよう。その前に質問に答えろ。本作戦における、君たちの随行人数は?」
僅かに口ごもったが、しかしこのまま時間を浪費することに何より恐怖を覚えたのか、意外なほどにすんなりと口を割った。
「……二分隊、突入したのは12人だ」
「当然、近代的な火器によって十分に装備していたはずだな。目標は達成したか?」
「未だ作戦目標である少女の確保及びその障害となる敵の排除には至っていない。目標は少数だったが、中々練度に優れた兵がいたようだ。敵ながらあっぱれだと思う」
「君を除いて、何人が生存している?」
「分からないが、いたとしてもそれほど多くはないだろう」
「君たちの指揮権は、いったい誰にある?」
「……質問の意図するところが理解できないが、通常通り、上官が指揮権をもっている。それ以外の指示で我々が活動することは、よほどの非常事態を除けばあり得ない」
「ほう、通常の指揮系統による、と。ますます奇妙だな。わたしの掴んだ情報では、あの少女にはテロ容疑はもとより、万引きで補導された経歴すらないようだが、そんな少女を捕まえるために特殊部隊が出動するのが常なのか、この国は?」
「……君たちの得た情報の正誤は、この際問題ではない。我々に与えられた情報は、この店を拠点として凶悪なテロリストが活動しており、写真の少女がその首魁であるというものだけであり、我らの任務はその捕獲及び殺害だ。その正義を量るのは我々の任務ではなく、公正な裁判にて行われるべきことだろう」
男の言葉はもっともであった。軍属の長いジャスミンは、内心で首肯する。人体の末端で動く手足が脳の指令の是非を疑わないように、実行部隊である兵士たちは上官の命令の是非を問わない。善悪もだ。どれだけ非人道的な作戦であっても、それに疑問を覚えることは許されないのだ。
そして、これで、ウォルの身柄の確保がヴェロニカ軍の上層部の意志であることがはっきりした。ジャスミンはヴェロニカ軍の指令系統には明るくないが、共和軍ならば、特殊部隊は上級士官の直轄部隊である。直接の指令を下したのが誰かは置いておくにしても、木っ端軍人の暴走程度で動かせる部隊ではないだろう。当然のことだが、誰が最初に命令を下したのか、いち上級軍曹に尋問したところで正答を知っているはずがない。
あとでダイアナに調べてもらうことを、しっかりと頭の付箋に書き込んだ
「では次の質問だ。君たちは、この場所がどこかを知っているか?」
「知らない。ヴェロニカ・シティの地下にこんな場所があるなんて聞いたこともなかった。そもそもこんな地下道を掘ること自体、ヴェロニカ教の教義に反している。恐るべき背徳だ」
「……我々はヴェロニカ教の教えに誓いを捧げていないからよく分からないのだが、地下道を掘ることが何故教義に反するんだ?」
「ヴェロニカ教では自然との調和を何よりも重んじる。人が最低限生活するのに必要な居住空間や田畑を開発するために山を切り開くのは許容の範囲内だが、このように無闇矢鱈に土を掘り返し地形を変えては自然は元に戻らなくなる。それが背徳だといわず、何という」
「そこらへんの機微は我々には理解できない。君も、この場で理解を求めようとは思わないだろう。つまらないことを聞いた。では次に……」
ジャスミンが矢継ぎ早に質問をしようとした、そのとき。
「──おーい、……こいよぉ……」
おぉん、と、遠くから声がした。何度も反響を繰り返して彼らの耳に辿り着いたそれは、到底人の声には聞こえない、不吉なものであった。
ひたりと、首筋を生暖かいもので撫でられたように、ジャスミンの背筋が粟立った。
こつこつと、彼女の構えた銃口に堅い物が当たる。グリフィン上級軍曹が、銃口を向けられた以外の恐怖によって、がたがたと震えていた。
「言わんことではない!貴様たちのせいで、俺はここで奴に殺される!あのとき、あのときさっさと逃げておけば……!」
「喚くな。貴様の言う化け物とやらに、そんなにラブコールを送りたいのか?もう少し小さな声でしゃべれ。そも、あれはなんだ?化け物と言うが、いったいどんな化け物だ?異星人か?それとも悪霊?吸血鬼?狼男?種類によって駆除方法が違うらしいからな、しっかり特定してから答えろ」
どうにも的外れな尋問のようであったが、ジャスミンの口調はまじめである。
自分達を追ってきているのが真実の化け物であるならば、今までの涜神行為を心から詫びて神様に救いを乞うくらいしか助かる術はないのだろうが、生き物、もしくは自然現象であるならば話は別だ。生身の自分達でも、いくらでも対処のしようがある。
ならば、まずは実物を見て、その脅威に晒されたことのある人間から、化け物とやらの詳細を聞き取るべきだ。それが一番生きる可能性を高めてくれる。
そして、その唯一の生き残りと思しき男は、先ほどまでの冷静な口調を一変させて、喘ぐように答えた。
「わ、わからないんだ!最初、天井を何かが通ったと思ったら、ダニーがやられた、顔面を吹き飛ばされて、それを追いかけて、奥まで、早すぎて銃は当たらない、どんどんみんなが殺されて、俺はようやくここまで逃げてきたのに、ちくしょう、どうしてこんなことに!てめえらのせいだ、てめえらの!」
男の泣き声が、空虚な洞穴を駆け抜ける。
「……ああ、そんなところにいるのかよ、心配させるなよ、自殺しちまったかと思ったじゃねえか」
先ほどよりも遙かにはっきりとした声が聞こえた。
おそらくは、化け物とやらも彼らの居場所に気がついただろう。
「ほ、ほら、お前らのせいで気づかれちまった!くそっ、神様、俺はまだ死にたくねえよ、なんで俺がこんな目に……!」
「ああ、もう、うるさい」
ジャスミンは無造作に引き金を引いた。銃口からグリフィン上級軍曹の後頭部までの短い距離を目映い光線が疾走し、彼の巨躯はぴくりとも動かなくなった。
「おいおい、殺したのか?」
「馬鹿を言うな。わたしには捕虜となった兵を殺して楽しむ趣味はない。うるさいから寝かしつけただけだ」
確かに、彼女の手に握られた大口径の光線銃は、その出力を麻痺レベルに設定してあった。これほど接近して撃たれれば常人であれば障害の一つも残りかねないが、この大男であればたぶん大丈夫だろう。だからといって事態は何一つ好転していないのだが。
「さて、どうするね女王。俺たちはウォルを助けるためにこんなところまできて、どうやら最初に矛を交えるのは、特殊部隊の兵隊さんじゃなくて怖い怖いお化けのお仲間らしい。十字架も大蒜も、銀の弾丸もあいにく用意しちゃいねえ。逃げるってのも一つの選択肢だと思うぜ」
「知っているか、海賊。わたしは実は、ごく稀に怪奇小説を嗜むことがある。嵐の夜、吹きすさぶ風の声をBGMに寝台で読む怪奇譚などは最高だな」
「ふん?いや、とんと知らなかったぜ。じゃあ何かい?良い機会だから化け物の顔の一つでも拝んでおこうってかい?」
「違う。ここで逃げ出したりしたら、今度から笑って怪奇小説を読むことができなくなるじゃあないか。あいにく、嵐の夜に、十字架を抱えて布団にくるまる趣味はない。やるときは、がんがん行く。相手が誰だろうとな──」
──ふぅん、そいつは良い心がけだねぇ、お姉さん。