懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
目を閉じると、今でも幼き日の小さな出来事が、鮮明に浮かび上がってくる。
優しかった両親、泥だらけになるまで遊んだ友人達、美しき我が故郷。
故郷。ああ、我が故郷。その言葉に、思いもよらず胸が熱くなってしまった。
故郷という言葉は、人の心を否応なく揺さぶるらしい。それが、失われて二度と戻らないこの身であれば尚更なのだろうか。
私がまず思い浮かべるのは、夕暮れ色に染まった山々の遠望だ。
山間に飲み込まれていく黄金のような太陽は、自分の周りだけを鉛丹色に染め、彼に見放された空はだんだんと夜に溶け込んでいく。
幾重にも重なる帯雲の間から、一番星が見える。街の学者に聞けばあの星は何という名前で、その恒星系にどれだけの人間が住んでいるのかを得意げに講釈してくれるのだろうが、私が生きていくうえでどんな関わりがあるだろう。
たぶん、ない。だから、あれは一番星という名前で、それで十分だ。
遠く、カラスの鳴き声が山の中から聞こえてくる。辺りが暗くなって、今まで身を潜めていた小さな虫達もいっせいに思い思いの声で鳴き始めた。
風が、冷たい。秋が来る。この山の秋はすごく短いから、あっという間に冬になるだろう。全てが白く埋め尽くされる、寂しい季節だ。
私は、冬が嫌いだった。秋の深まった、もの悲しい山もあまり好きではなかった。だから今のうちに、夏の最後の残滓を目に焼き付けておこうと、小高い丘に登ったのだ。
濃紺から黒に染まりつつある東の空、辛うじて赤みがかり夕焼けの残滓を残す西の空。いつの間にか太陽は山々の向こう側に姿を消し、空には満天の星が瞬いていた。
今から家路を急いだのでは、真っ暗な山道を灯りもなく歩くことになるだろう。この山で人を襲うような獣と出くわすことはめったにないが、夜の山の恐ろしさと畏ろしさを私は十分に弁えていたから、今日はここで夜を明かそうと決めていた。そのための装備をちゃっかりと用意している。明日、家に帰った時のお説教は少しだけ億劫だが、今日にはそれだけの価値があるはずだ。
高台から、村を見下ろしている。私は、ここから一望される風景が、何よりもお気に入りだった。
眼下に広がるのは、時代から忘れられたような、小さな小さな集落だ。名前も無い集落である。外の人間は、何かもっともらしい名前を付けているのかもしれないが、自分達にとっては唯一の帰るべき場所なのだから、名前などいらない。ここは、自分達の村なのだ。
赤茶けた大地に、ぽつりぽつりと家が散らばっている。その中に、一体どれだけの人生を詰め込んでいるのだろうか。多くはきっと、この村の外に出ることもない命だ。
自分も、この村に骨を埋めるのだと思う。
友達はそれが嫌だと、街に出て一旗あげるんだと息巻いているが、私には友達の気持ちが欠片ほども理解できなかった。
ここで、死んだように、時を止めたように死んでいく。それは確定した未来であり、他のなによりも幸福を感じさせる未来だった。
父も母も、そうだったのだ。この村で生まれ、この村で出会い、この村で結ばれた。そしてこの村で死んでいくのだろう。
なら、きっとこの村で生まれた自分も、この村で誰かと出会い、そして結ばれるのだろう。そして共に老いて死んでいくのだ。
私の脳裏に、勝ち気な笑みを浮かべる、幼なじみの少女の顔が思い浮かんだ。その頃は、彼女のことを考えると胸が締め付けられるように痛んだ。それは確かな痛みのはずなのに、その甘い痛みが、どこまでも愛おしかったのを覚えている。言葉にすると面映ゆいのだが、あれが私の初恋だったのだと思う。
そういえば、あの少女の名前は、なんといったか。
忘れてしまった。顔も、霞を掴むようにしか思い出すことが出来ないのだから、いわんや名前においておや、だ。
耄碌したものだ。私が彼女の名前を忘れてしまったならば、もうこの世には彼女の名前を覚えている人間は存在しないことになる。それが少しだけ、辛い。
私は木立にもたれかかり、ほう、と息を吐き出した。山の空気に冷やされて少しだけ白んだそれが、何故だかとても貴重なものに思えて、手で捕まえようとした。
するりと、指の間から逃げていく。
もう一度試そうとは思わなかった。
掌を眺める。もう、闇に沈んで、掌の皺だってはっきりと見えることはない。
指の間から、光が見えた。
村の、粗末な家々から漏れる、竃の火だ。
もう、食事時なのだろう。我が家では、父と母と妹と弟と、本当ならば自分の五人で食卓を囲んでいるはずなのに、どうしてか自分はここにいる。家には一応の書き置きを残しているから、お父さんもお母さんも、またかと呆れていると思うが、きっと心配していることだろう。
薄明かりの中、所々で白い煙が立ち昇っている。あれは、マキスの家の煙突。
その向こうに見えるのがうちの家。
一番向こうに見えるあの煙突は、確かハーシィの家のはずだ。ハシバミ色の瞳をした、可愛らしい女の子だ。まだまだ小さくて舌っ足らずな彼女のお母さんは、この村でも一番の料理の名人のはずだから、きっとハーシィは食卓にご馳走が並ぶのを今か今かと待ち侘びているのだろう。
そんなくだらないことを考えているうちに、思いの外、時間が流れていたようだった。
やがて煙も見えなくなり、狐火のように儚い灯火が、点々と村を灯していた。
見慣れた風景だ。そして、どうしたって見飽きることのない風景だ。
もう、何百年も昔から、この世界。
遠い宇宙の果てから人類がこの星を訪れて、その頃から、ずっとこの世界。
どんどん豊かになっていくこの星で、ほとんどの人間に馬鹿にされ、いつの頃からか絶滅寸前の野生動物のように奇異の視線で珍しがられ、いずれは文化遺産とかいう名目で保護までされて。
それでもこの村は、ずっとこの村だったのだ。外がどう変わろうと、外の人間がどう変わろうと。星が二つの国に分かれ、意味のない殺し合いに耽ろうと。
この村は、この村だった。
今までも、今も、これからも、その先も、ずっと。
永遠に、ずっと。
この村の、はずだった。
◇
いつの時代も、成功した人間というものは高みに居を構えたがるものらしい。
険しい山間に城が多く設けられるのは、そこが防衛に適した拠点だからという理由だけではない。
遠く過去、人がたった一つの星の上で馬と弓を頼りに戦を繰り広げていた時ならばまだしも、地球という揺りかごから振り落とされ、宇宙に生き場を求めた人類に、山間に設けられた城など不要極まる代物のはずだ。
石を切り出し、堀を設け、矢狭間を設えたところで、衛星軌道上から荷電粒子砲で狙撃してくる巨大宇宙戦艦に対してどのような守りを期待できるというのか。
だが、あるいはだからこそ、身分を得た人間は、不思議と城を求めた。それも、中世と呼ばれる古代の様式を、滑稽な程に珍重した。そこに住むことが一つのステータスになると確信しているかのように。
この城も、不自然なほどに都市部から離れた、交通の便の悪い山間に建てられていた。
それほど歴史のある建物ではない。そこかしこに、わざとらしく刻まれた罅やら苔やらなどがあるが、足首まで埋まるような絨毯を一枚めくって少し穴でも掘ってみれば、古代にはあり得なかったH型鋼によって組まれた骨組みや、城の各所に電力を供給するケーブルが覗くはずである。
確か、くだんの騒ぎで辞任に追い込まれた政治家の一人が、たんまりと溜め込んだ賄賂を吐き出して作った建物のはずだった。もとはヴェロニカ教に由来する建物だったらしいが、それを買い取り、改修したらしい。元々の城に手を加え、より豪奢に、より大きなものに作り替えた。
惑星ヴェロニカでは野生動物の多く生息する山間部を居住用に開発することは厳禁とされているが、国の中枢に食い込んだ政治家ならばそのルールを曲げさせる程度、どうということもなかっただろう。
その政治家も、今はこの惑星のどこにもいない。
彼が失踪したのは、この星の住人の血税を懐にくすねたからでも、過去の醜聞を揉み消すために邪魔な連中の口を永遠に塞いだからでもなく、ただ肉を口に運んでしまったという一事によってだった。他の星であれば、どうしてそれが非難の対象になるのか、首を傾げてしまうような出来事で、彼らは文字通りに職を奪われ、生きる場所を奪われ、帰るべき故郷も失った。
哀れなことだと、全てを奪い取った張本人は溜息を吐き出した。
そして、腰掛けている。
この城で一番広く、一番華やかな広間の一番奥に、一段高く造り上げられた豪奢な椅子だ。
人はそれを玉座と呼ぶだろう。例えこの城に王がいなくとも、それは確かに王座なのだ。
痩身の老人は玉座に腰掛けたまま、どこを見るでもない倦んだ視線を宙空に彷徨わせていた。彼がここに座るのは、この椅子が一番尻に合うのと、天井から吊り下げられたモニターを眺めるのに具合がいいからだ。
権勢に興味がなかったわけではない。人並みに興味はあった。人の上に立ち、頂から見下ろす景色とはどのようなものなのかと。
それほど悪いものではなかった。全てが自分に傅き、全てが自分の思うままになる。自分だけではない。自分に近しい者、例えば不肖の息子など、正しくこの世の春を謳歌し、やりたい放題にもほどがあるような有様だ。
だが、それを叶えた後には、何も残らなかった。金が残り、権力が残り、名声が残っても、胸の空虚さはそのままだ。
もう、ずっと昔から、ぽっかりと空いた胸の穴は、何をどうしたって埋まることはなかった。
当たり前だ。そう易々と埋まってたまるか。
元々、空っぽだったのだ。全てを失って、折角空っぽになっていた。
空っぽであれば、耐えることも出来ただろう。手に入れなければ、失うこともなかっただろう。出会わなければ、恋い焦がれることもなかったのだ。
だが、彼は満たされてしまった。手に入れてしまった。そして、出会ってしまった。
芳醇とした、香しい、あまりにも瑞々しい、それは奇跡だった。
全てを失い、自分で自分に終止符を打つために、ほとんどやけっぱちで訪れた荒野で、彼は出会ってしまったのだ。
天使に。
それが彼の人生の全てだった。
もし自分が、恥知らずにも自叙伝でも出すならば、厚さは表紙と裏表紙の二ページ分、それと紙の一枚が加わればいい。
そして紙にはこう記されるのだ。
『私は天使と出会った』と。
その他のことなど、彼、もしくは彼女と出会えた、その一事に比べれば一体どれほどのことだというのか。
身を粉にして働き、おそらくは信じられないほどの幸運の末に一つの会社を興した。それもまた、おそらくは信じられないほどの幸運の末に並み居る競争相手をごぼう抜きにして、この宇宙でも五指に数える程の規模に成長した。一国の大統領となり、誰しもが彼を尊敬し、彼の名前を知らない人間はこの星には存在しない。
だからどうした。
老人の預金通帳には、常人であれば目を疑わんばかりの数字が刻まれている。たった一度の人生ではどうやっても使い切れないほどの金だ。日々をあくせくしながら小銭を稼ぐことに躍起な人間からすれば、無限に、それとも夢幻に等しい金銭だろう。
だからどうした。
人にとって、己の認識しきれない数字は無限と同義だ。ならば、どのように放蕩を重ねても使い切れない金銭にどのような意味があるのだろうか。人を溺れさせるに、本当の底なし沼は必要無い。ぎりぎりに足が届かない沼であれば、それは十分に人の命を奪い得るのだし、きっと底なし沼と呼ばれるものになる。
嵐の海岸で、砂の城を築き上げている気持だった。
どれほど豪奢に、そして見事に城を造り上げても、それが一体何だというのか。その壮大なことを誰かが褒めそやしてくれるだろうが、たった一晩のうちに、その壮大な建造物は風雨と波に洗われてこの世から姿を消す。
老人は、様々な人間と交わった。老人自身が望んだことではない。しかし人も羨む成功を収めた彼は、否応なく自分以外の誰かと交わることを強制された。
その中には、様々な価値観を有する人間がいた。
金を増やすことに、人生の全てを費やした人間がいた。
コンピュータのドットで書かれた数字を血走った目で見つめ、その数字が一つ増えたことに狂喜乱舞し、その数字が一つ減ったことで我が子を拐かされたかのように悶え狂った。
人は彼を狂人と呼んだ。強欲の悪魔に取り憑かれているのだと噂した。
彼は生涯一人の伴侶を得ることもなく、たった一人の我が子を抱くこともついぞなかった。誰かに褒められることも、敬われることも、愛されることもない人生であったらしい。
ただひたすらに、憑かれたように、金を増やし続けた。何を作るためでもなく、何を欲するためでもなく、ただひたすらに金を求めた。
それは報われた。
臨終の時に、彼は己の財産がクーアのそれを追い抜いたことを確認して、満足げに死んでいった。彼は、この宇宙で一番の大金持ちになったのだ。
そして、妻子はおろか親兄弟すらいなかった彼の財産は国庫に納められ、困窮に喘ぐ国家財政を一息つかせるのに役立った。
それだけが、彼の人生だ。
老人は、彼を羨んだ。
なんと素晴らしい人生!彼は、正しく本懐を成し遂げて果てたのだ!
食こそ全て。美食にこそ人生の真実が存在すると断言する人間がいた。
彼女はありとあらゆる星に赴き、ありとあらゆるものを食べた。彼女の辞書には、他のどの人間よりも食べ物の項目が多く、おそらくは血を分けた親兄弟の名前ですらがその項目の一つに過ぎなかったのではないだろうか。
そして、最後は肉親であっても二目と見られないような醜い肉の塊となって、無様に死んだ。
彼女の埋葬方法には土葬が選ばれたが、それは単に、彼女を火葬するために適当なサイズの竃が無かったからに過ぎない。それとも、鳥葬でも選んでいれば、飢えたカラスは彼女の死体で明日へ命を繋ぐことが出来ただろうか。
誰もが彼女のことを嘲笑った。生きながら餓鬼道に堕ちていたのだと蔑んだ。
だが、老人は彼女を羨んだ。
なんと素晴らしい人生!彼女は、正しく彼女のしたいようにして死んだのだ!
永遠の命を求めた人間達を知っている。
全てを手に入れ、全てを跪かせたがゆえに、全てを失うことを恐れたのだ。そんなものがこの宇宙のどこにもないことを知りながら、あるいは目を逸らしながら、彼らは真実の不老不死を求めた。
うら若き処女の血肉を食せば、自分達の寿命が延びると信じていた。そんな馬鹿な話はない。まさかそれが事実ならば、遙か昔、未開の地に住んだという食人族は、驚くほどの長命を誇ったことだろう。だが、そんな話はとんと聞いたことがない。
彼らはきっと気が違っていたのだ。おそらく、彼ら自身もそれを知っていた。それでも、彼らは求めずにはいられなかった。自分達が死ぬことを、到底受け入れることが出来なかったのだ。
永遠の命だと?いずれは老いさらばえるこの宇宙そのものの中で、自分達は精々が寄生虫かそれとも細菌程度の存在でしかないのに、宿主よりも長生きしようというのか。滑稽にもほどがあるぞ。
そういえば最近、あの老人たちの噂をとんと聞かなくなった。今も、怪しげな占星術やら魔法やらを頼りにして、偽りの永遠を求めて泥濘の底を這いずり回っているのだろうか。
誰もが彼らを軽蔑するだろう。哀れむだろう。彼らは決して、英雄譚の主人公にはなり得ない。
しかし、老人は、彼らを羨んだ。
なんと素晴らしきかな人生!彼らは、実現不可能な命題に挑戦し続ける求道者ではないか!
色々な人間がいた。そして、そのいずれもが、老人にとって羨望に値する人間ばかりであった。彼らは皆、自分で、自分の胸に空いた穴を埋めようと必死だったのだ。端から見れば狂人の所業とした思えない彼らの振るまいが、老人にとってはどれほど神聖で冒しがたいものに見えたことか。
彼らのことを思うだけで、老人の胸を熱いものが満たす。
翻って、我が身はどうだろう。
老人は何もしなかった。
ただ、羨んでいただけだ。
己の胸にぽかりと空いた穴から、向こう側に写る風景を眺めて、羨んでいただけだ。
幼児がするように指を咥え、狐がするように他者がもぎ取る果実を酸っぱい実だと決めつけて。
どうして自分はこうなのか。これほどに、度し難いほどに、空虚なのだろう。
もうこりごりだった。他人を羨んで、己を卑下しながら生きるのは。自分は、他者から羨望と尊敬の眼差しを浴びる自分は、どうしてこうも惨めな思いをしながら生きなければならないのか。
思い悩むのはうんざりだ。今は行動すべき時だ。限りある人生なのだから、最後には悔いの無いようにするべきだ。
それが、例えどれほどの人間を不幸にすることであったとして。自分は、その全てを挽きつぶしても本懐を遂げるだろう。
この萎んだ風船のように面白みのない人生を、ただ一つ、照らしてくれた光。
天使。
会いたい。一目で良い。もう一度だけ、会いたい。
身を焦がすほどに思う。寝ても覚めても、そのことが頭から離れない。
ただ、もう一度会いたいだけだ。そうすれば、このどぶねずみ色の人生に、どれほどの光が満ちるだろうか。
故郷を失い、家族を、友人を失い、全てを失った人間が見る光は、どれほどに美しいのだろうか。
天使に、会いたい。
それだけが、全てを失った老人の、残された全てを支えていた。
「大統領、お疲れですか」
付き人の声が、アーロンを現実へと引き戻した。
玉座の肘掛けに、だらしなく頬杖をついている。そんな姿勢のまま、うとうととしていたのだ。
ぼんやりと霞がかった視線と思考。若い頃はこうではなかったなと、自虐的な思考をしてしまう。それこそが、なによりも老いた証拠なのかも知れない。
「何かお飲み物でもお持ちいたしましょうか」
心配そうにこちらを覗き込んだのは、まだ年若い少女だった。赤みがかった茶色の髪、ほとんど同色でやや茶色の強い瞳、褐色の肌。
今は押し殺しているが、その感情の豊かなことは、勝ち気な瞳の輝きと情感豊かなたっぷりとした口元が教えてくれる。すっきりと通った鼻筋と相まって、何とも魅力的な顔立ちではないか。
年齢を重ねれば、驚く程に化けるだろう。きっと、すれ違うだけで男の心を虜にするような淑女に成長するに違いない。
アーロンは少女を眺めて、目尻に皺を溜、優しく微笑んだ。彼は少女を、いや、少女達を愛していた。
「そうだな、少し汗を掻いたようだ。冷たく絞ったタオルと、何か軽い飲み物でも持ってきてもらえるだろうか」
「承知いたしました。少々お待ち下さい」
色気のない軍服を着た少女は、一礼してから扉の向こうに姿を消した。
アーロンは、ほとんど興味を持つふうでもなく、モニターに視線を戻した。いくつかに分割された画面に、砂嵐のような画像の乱れと、望遠レンズに捉えられた夜の街が映し出されている。
ネオンに照らし出された、白粉の匂いのする街だ。
カメラの焦点は、一つの店に絞られていた。どうやら件の少女が、そこで働いているらしい。
カメラのいくつかは、夜の街を、夜に同化しながら駆ける幾人かの男達を捉えていた。市街戦用のアサルトスーツを纏い、手には物騒なサブマシンガンを構えている。目出し帽を被っているから分からないが、相当に年季の入った兵士であることが、隙のない所作から伺える。
アーロンの顔に、微かな興味が灯った。果たして彼らは、いや、不肖の息子はどこまでのものだろうか。あの太陽相手に鉛の玉が通じるとは思えないが、意外とすんなりと捕まるかも知れない。そうなれば、手柄は息子のものだ。どのように扱おうと自分の口を出す筋合いのものではなくなるから、少女にとっては悲惨な結末になるだろう。自分が女として生まれたことを後悔するだけの陵辱を味わうに違いない。
それもいいだろう。息子の乱行は今日に始まったことではなく、アーロンはその全てを把握していながら一度だってルパートを諫めたりはしなかった。
息子可愛さではない。心底どうでもよかっただけのことだ。
もぞりと姿勢を入れ換え、鷹揚な様子で足を組む。老人の、もう遠い昔に人並みの感情を失ったはずの、死んだ魚のような瞳が、僅かに潤いを帯びていた。
久しぶりに楽しかったのかも知れない。
音もなく扉が開き、先ほどの少女が戻ってきた。手にした銀のトレイの上には、おしぼりと、琥珀色の液体でいっぱいになったグラスが乗っている。
「どうぞ」
「ありがとう」
手渡されたおしぼりで顔を拭う。じわりとにじんでいた汗が拭き取られると、アーロンの顔は年の割には若々しく輝いた。
次にグラスを手渡される。飾り気のない、しかし質の良いグラスに入っていたのは、この星の地酒をリンゴジュースで割ったものだった。
アーロンの好む飲み物だ。
細かく砕かれた氷できんきんに冷えたそれを、喉を鳴らして一気に煽った。胃の腑には何も入っていなかったから、冷たさが腹の底にがつんと来る。少し蒸し暑いくらいの室温には、なんとも心地よい。
サイドテーブルに空のグラスを置く。
少女は、王座の脇に控えた。
「君はどう思う。彼らの作戦は成功するだろうか」
少女を見上げながら問う。アーロンにとって、意味のある問いではない。
少女は、はっきりとした口調で答えた。
「我が国の軍隊は極めて優秀です。私の知る限り、彼らがこういった作戦で失敗したケースはきわめて稀であり、それは今回も同じ事が言えるでしょう」
「優秀と。それが、君たちではなくてもかい?」
「我々も彼らも、ヴェロニカ国に忠誠を誓う軍人です。であれば、彼らの優秀さには疑いようがありません」
「忠誠心と能力は必ずしも一致しないものだと思うが、君の言いたいことはよく分かる。私も、彼らが成功することを祈っているよ」
喉の奥を鳴らすように笑いながら、アーロンは少女を見上げていた視線を、モニターの方に戻した。
「一つよろしいでしょうか、閣下」
「何だろう、言ってみたまえ」
「閣下は、この作戦の成功を望んでおられないのですか?」
「難しい質問だな。私の立場からすれば、ノーと、成功を熱望していると答えるべきなのだろうが……」
しばし黙考して、
「軍人である君を前にしてこんなことを口にするのを許して欲しい。正直に言えば、どうでもいいと思っている。テルミンの言うとおり、あれは生け贄としては極上の素材だ。奴自身はそこまで気がついていないのかもしれないがね。あれを神に捧げることが叶えば、この国には正しく太陽が宿るだろう。誰しもがこの国を畏れ敬い、道行きを妨げようとは夢にも思わなくなるに違いない」
「そんなものですか」
「その返事は信じていないようだな。私はこれでも、昔は占い師のまねごとくらいはできたんだ。星を読み、森羅万象を読み、下々の者たちに託宣を授けるのさ。そういう家柄だったからね」
「はぁ」
「だからこそ分かる。あれを手に入れるのはそう容易いことではない。神の一人子を奪おうとするに等しい行為だ。どれほど上手く段取りを付けても、必ず邪魔が入る。あれは、そういう星のもとに生まれている」
愛されているのさ、不平等なことに、とアーロンは心底楽しそうに呟いた。
モニターには未だ目立った変化はない。まだ突入の準備をしているのだろう。
「逆に言えば、あれは手に入れられないのが当然の娘だ。失敗して元々の作戦と思っていれば、失敗したときのショックが少ない。卑怯な考え方だと思うかい?」
「いえ、決してそんなことは……ただ……」
「ただ?」
「少し意外でした。あなたはもっと、その……」
「遠慮はいらん。言いたまえ」
本来であれば、軽々しく会話をすることすら憚られる相手である。
少女は意を決したように、
「無礼をお許しください、閣下。私は、あなたはもっと神というものを盲信しているのだと思っておりました」
「ふん?」
「あなたが国民の上に立つ、その拠は正しくそこにあるはずです。腐敗したヴェロニカ首脳陣を一掃し、この国に真の教えを再びもたらす、そう言ってあなたは至高の権力を手にした。違いますか?」
「その通りだ」
「そういう人間は──甚だ無礼な物言いをお許しください、往々にして大きな勘違いを起こしやすいものだと思います。神の力を己の力と勘違いする、神に向けられた忠誠を己に向けられた忠誠であると履き違える。そして、己の絶対正義を盲信し、そこに神の寵愛があると信じて疑わない……」
「なるほど、確かにそういう人間は歴史上散見されるのは事実だね」
そして、そういう人間こそが、他者に対して、最も容易く最も残酷になることが出来るのだ。この世で最も多く人の命を奪うのは、悪の教典ではなく正義の教書であり、悪魔の誘惑ではなく天使の裁断である。
「閣下は極めて果断に、そして苛烈に保守勢力を一掃なされました。その様子を見て、私は、あなたは真実、神の教えに身を捧げられているのだと思ったのですが」
「私は何も信じてはいないよ」
少女は、思わず息をのみ、大統領の顔を見下ろしてしまった。
この人は、今、何を言ったのだろうかと、耳を疑った。
「閣下……」
「私は何も信じてはいない。信じるべきものは全て失った。彼らは皆、彼らの神を信じていたというのにね。神は、救いの御手は差し伸べて下さらなかったのさ」
「……」
「信じる者は救われる。この世はそうあるべきだ。だが、そうではない。だから、私は何も信じない。簡単な話だろう?」
「それは……ヴェロニカの神であっても、ですか」
大統領は嬉しげに首肯した。
「だが、勘違いはして欲しくない。私はきちんとヴェロニカ教の教えに身を捧げている。例えば今、教典の何ページ目の何列何行目にどのような文言が書かれているのかを問われれば、私は寸間の淀みなく諳んじて見せよう。ヴェロニカ教の発展してきた歴史、聖人たちの名前と生没年とその偉業、全てを答えることが出来る。これはきっと容易なことではないと思うが、どうだろう」
「それは……きっとそうでしょう」
「だが、神は信じていない。神を信じるには、私の人生は少し慌ただし過ぎた。神を信じる者たちを愚かだと蔑むつもりはないが、私にはどうしても出来なかったんだ。もしかしたら……」
「もしかしたら?」
「私がこの国の生まれではないのが原因かも知れないね」
「はっ?」
少女の口が、思わず飛び出た言葉の形のままに、戻ることはなかった。
先ほどのアーロンの一言は、それほどに予想を外れた言葉であった。
「でも……でも、閣下の経歴では、確かに惑星ヴェロニカの生まれであると……」
「少し地位と金のある人間ならば、電子頭脳に鼻薬を嗅がせるくらいは難しい話ではないということだよ。幸い、肉食疑惑と違って、これは血液検査をしても分からない」
少女は今度こそ愕然とした。
アーロン・レイノルズが、この国の出身ではない。それは、ヴェロニカ国の大統領の資格を有しないということになるからだ。
惑星ヴェロニカで生まれ、ヴェロニカ国籍を持ち、ヴェロニカ教を信奉していること。これが、惑星ヴェロニカの最高指導者に名乗りを上げるための、唯一無二の条件なのである。
冗談であっても、彼の政治生命に関わるような失言だ。そんなことを、自分のような一軍人に打ち明けるなど、何を考えているのだろう。
この人は、嘘を吐いて自分をからかっているのか。それとも、他に意図するところがあるのか。
少女は咄嗟に判断することが出来なかった。
「私の故郷は、惑星ヴェロニカの地表のどこにもない。それどころか、この宇宙のどこにもない。これは、感傷的な意味で言っているのではないよ。自分のことを覚えてくれている人間が残っていないとか、すっかりと姿形を変えてしまったとか、そういう意味ではないんだ。私の故郷は、物理的に、この宇宙には残っていない」
「それは……例えば、ダムに水没してしまったとか、それとも地盤沈下で沈んでしまったとか、そういうことですか」
「前者は違うだろうね。だが、ある意味では後者に近い。あれは正しく天災だった」
「天災」
「それとも、神の意志だろうか。私の生まれは、元を辿ればジプシーに行き着くらしいから、こんなところに根を張らずに宇宙を放浪しろと、そういう意味だったのかも知れない」
「……」
「全くもって余計なお世話というか何というか。しかし、私の人生で一番神を身近に感じた瞬間と言えば、それはあの時に他ならないだろうな。人の営みなど、彼の人の前では正しく砂上の楼閣に等しい。昨日まで絶対だと確信していた価値観が、一瞬で砕かれるんだ。足下の地面が実は薄っぺらな張りぼてで、その下には阿鼻叫喚の地獄が広がっている。それを思い知らされたんだ、嫌というほどにね」
そう言った最高権力者の顔は、なんとも悲しげだった。
「閣下は──」
「ん、なんだね?」
「閣下は、それを悔いておられるのですか?」
悔いる、という表現がどうして口をついてでたのか、少女には分からなかった。
だが、この老人は、ただ嘆き悲しんでいるのではない。理不尽に怒っているわけでもない。
何か、遣りきれない何かを胸の奥に封じ込めて、その痛みに悶えているような、そんな気がしたのだ。
「……故郷を亡くした人間なんて、この宇宙ではそれほど珍しい存在ではない。二度と故郷に帰れない人間なんて、星の数ほどいる。大丈夫、私は私を不幸だと思ったことはないよ」
アーロンは、少女の赤みがかった茶色の髪を、指先でもてあそんだ。
「私は、君たちと一緒だ。君たちと共に、故郷を失った……」
「……お言葉ですが閣下。我々の故郷は、この星です。そして、あなたが私たちの父親です」
「そうだな……。ああ、その通りだ……」
アーロンは鈍重な動きで立ち上がり、老いの浮いた両の手で少女を抱きしめて、柔らかな頬に唇を寄せた。
どれくらいそうしていたのかは分からない。ただ、それは少女にとって幸福と呼ぶに値する時間だった。
離れていく手のぬくもりを名残惜しく思う。だが、今の自分がこの人に甘えるわけにはいかない。
自分は、この方に仕える軍人なのだから。
少女は、何かを振り切るようにしてモニターに目を向けた。
正しく、その刹那であった。
モニターに、僅かな動きがあった。闇夜に溶けこむような色合いの迷彩服を着た男達が、低くかがんだ姿勢のまま件の店へと駆けていったのだ。
作戦が、始まった。
少女の意識が、否応なくモニターに集中する。
「閣下は、先ほど神を信じていないと仰いました」
「信じていないさ。だからこそ、私の故郷を粉々にしたのは神と呼ばれる存在以外の何者でもないことを、私は確信している。そう考えれば、楽なんだよ。落ち着けるんだ。諦めもつく。あれがもしも、ただの人間の仕業だとすれば……私は、道化以外の何者でもないな」
少女の脳裏に、突入時の標準的なマニュアルが浮かんだ。
あの建物のように地下に作戦目標があるのだから、その出入り口の全てから一斉に突入し、電撃的に作戦を終わらせるのが最良である。無駄な時間は敵に予想外の行動を取らせる。
扉のドアノブに特殊なプラスチック爆弾を仕掛ける。これは爆発音は最小限で、しかし超高熱を発するため、ドアノブ周辺の金属が融解し軟化する。その上でドアノブを排除して解錠すれば、ドアそのものを吹き飛ばすよりもよほど隠密性に優れ、ピッキングに頼るよりも確実性に優れる。
次に、ドアを開き、中にフラッシュバンを投げ込む。これは、音と光で出来た凶器だ。例え光を直接浴びなくても、その凄まじい爆裂音だけで人は容易に思考力と平衡感覚を奪われる。このような地下構造の建物であれば、さぞ効果的に作戦遂行を助けるだろう。
カメラが、僅かに、本当に僅かに震えた。それは、少女の思い浮かべたタイミングそのままだった。
「さて、始まったようだが……不肖の息子のお手並み拝見といこうか」
「不肖の息子……ですか」
「あれの指揮をしているのは、ルパートだよ。君も知っているだろう?」
名前を聞いて、少女の顔が曇った。
その名前の持ち主に、お世辞にも好感情を抱いているとは言い難い渋面である。
「その顔は、奴め、まさか君に乱暴を働いたのではあるまいな!?」
アーロンの語勢がはっきりと強まった。それは、少女をして狼狽えさせるほどに激しいものだった。
「いえ、私はあの方から一切の乱暴を振るわれたことはありません」
「私に遠慮することはない。あれの乱行はある程度見逃しているが、君たちに手を出したとあっては許すことはできない。正直に言いなさい。怖がることはないよ。君たちは私の息子であり娘、そしてかけがえのない宝なんだからね」
アーロンの言葉のどこにも嘘偽りはなく、その瞳は真剣に少女の身を想って怒っていた。
それらの言葉が、実の両親を持たない少女にとって、どれほど暖かでかけがえのないものに感じたことだろう。
「本当です。あの方は、そもそも私たちに性的な興味を感じないようですから……」
人形、と呼ばれた。
ゴミ、と呼ばれた。
怒りも、侮蔑も、興味すらないも言葉で、そう言われた。先ほどのアーロンの言葉の正反対に位置する言葉がこの世にあるとすれば、それはルパートの口から漏れ出す言葉である。
「ただ、あの方のなさる女性への振る舞いを見ていると、同じ女として、どうしても嫌悪を覚えずにはいられません」
この城には、おそらくは元から世間に顔向け出来ないような目的で作られた地下室がある。
それでも、果たしてこの城の設計者は、これほどまでに陰惨な目的のために地下室が使われるのだと、想像しただろうか。
少女は、何度かルパートに言いつけられて、その部屋に監禁された少女の世話をしたことがあった。
埃と黴と、汗と淫臭と、そして血生臭さの立ちこめた室内。
少女自身と同じ年の頃の少女たちが、全裸で壁に貼り付けになり、ベッドの上で蹲り、檻の中に閉じ込められていた。
皆、うつろな目をしていたのを覚えている。
そして、口々に言うのだ。
殺して、と。
止めてでも放してでも、帰してでもなく、殺してくれと言う。そんな彼女たちに、人間としての尊厳は残されていなかった。
家畜である証として、焼き印と、鼻輪が付けられていた。酷いものになると、四肢の欠損した少女すらいた。
それが、ルパートなりの愛情表現なのだ。彼は真剣に少女達を愛するが故に、彼女たちを壊していく。同じ女に生まれた身で、どうしてそんな男に好意を感じることができるだろうか。
少女には、どうしてこの賢明で優しい父親から、あのように愚昧で冷酷な息子が生まれるのか、不思議でならなかった。そして、どうしてこの優しい人が、あのような無体な振る舞いを黙認しているかも。
然り、息子が少女自身に乱暴をしたわけではないと知ると、アーロンはたちどころに興味を失ったようだった。
「そうか、ならばいい。あいつにも一応の分別があったようで、よかった」
「……あの方が指揮をしておられるというのは、やはり、あの写真の少女を手に入れるためでしょうか」
「そうだろうな。奴め、ヴェロニカ教の発展のため、心を鬼にして使命に身を捧げるなどと抜かしていたが、あれがそんな殊勝な人間ではないことくらい親である私が一番よく分かっている。あの少女を一度手に入れたら、適当な言い訳をでっち上げて、是が非でも渡しはすまいよ」
「閣下はそれでも良いのですか」
「構わん。あれは、正攻法ではどうしたって手に入れることの出来ない存在だ。意外とルパートのような外道のほうが上手くやるかも知れん。それだけの話だ」
少女は、なんとも居たたまれない気持ちになった。
今回の作戦対象であるあの少女も、地下室の少女たちと同じ目に遭わされるのだろうか。あの美しく精気に富んだ瞳が、男の欲望に穢されて、人形の如くうつろになっていくのだろうか。
そうであれば、あまりに哀れであると思う。
「しかし、それは全てルパートが上手くやった時のことだ。奴が失敗すれば、そのときは今度こそ君たちにお願いすることになるだろう。君たちが彼女を捕まえたならば、そのときは君たちの好きにすればいい」
「わかりました」
それがいい。あの男が失敗して、私たちがあの少女を捕まえればいいんだ。
そうすれば、あの子は清らかな身体のまま死んでいくことが出来るだろう。それが彼女自身にとっても一番いいはずだ。
少女は密かに誓った。
「さて、そろそろ良い頃合いだが、誰も出てこないな」
アーロンの言葉に、少女も画面端の時刻表示を確認した。
確かに、先ほど画面が震えた瞬間からかなりの時間が経過していた。通常の作戦行動であれば終了していてもおかしくはない。
突入部隊の手際がお粗末で思ったより手間取っているのか、それとも予想外のトラブルがあったか。
後者であろうと思う。
そのとき、ビルの裏口を写していた望遠カメラに、通りを横切り路地へと消えていく何かが写った。
ほんの一瞬のことである。
二人組の男だ。しかも相当に体格がいい。
明らかな不審人物であった。
「今のは──」
「確認してみます」
アーロン自身が騒がしいのを嫌ったために消音していたが、部隊の通信はこの場所でも拾うことが出来る。
少女は、ボリュームを引き上げた。
砂嵐じみた雑音の中に、怒号のような声が飛び交っている。
『……だから言っているだろう!男と女の二人組にやられた!くそ、やつらはそっちに向かったはずだぞ!』
『何者だ、その連中は!?』
『そんなこと俺たちの知ったことか!ただ、やられた俺たちが言うのも変な話だがおそろしく手際が良かった!おそらくは素人じゃない!ちくしょう、一撃で顎の骨をへし折られたのは初めてだぜ!』
『──わかった。突入部隊と狙撃手には連絡しておく。お前達の持ち場には予備人員を回すから、治療班と合流して、作戦からは外れてくれ』
『了解』
男と女の二人組。
先ほどの人影は、どこからどう見ても男二人組にしか見えなかったが、あれがそうなのだろうか。そういえば、裏口にもスナイパーが配置されていたはずだが、どうして彼らは難なくビルに辿り着くことが出来たのか。
先ほどアーロンが言った、愛されているという言葉が脳裏に蘇る。
まさか、と思う。しかし熟練の特殊部隊は突入したまま戻らず、予想だにしなかった援軍まで現れる始末だ。何か、人智の及ばない何かが彼女を守っているとでも言い訳をしなければ、説明がつかないように思えてしまう。
『奴が失敗すれば、そのときは今度こそ君たちにお願いすることになるだろう』
これが、自分達の戦う相手になるのだろうか──。
「……ゴ。マルゴ。聞こえているか?」
少女は我知らず、食い入るように画面を睨み付けていた。
その少女を、アーロンは真剣な表情で見ている。
少女は僅かに狼狽した様子で、
「失礼を。何でしょうか、大統領」
「先ほどの映像を、拡大できるか」
「先ほどと言われますと」
「裏口へと進入した、不審者の二人組だ。あれをもう一度見てみたい」
「承知しました。やってみます」
少女は手元にある機械を慌ただしく操作した。
記録映像の中から適当なコマを抽出し、その中から出来るだけ鮮明に写っているものを選び、画像処理を施す。
明るさを変え、画質を補正し、可能な限り拡大する。
「これくらいでよろしいですか」
画面に写っていたのは、確かに男と女の二人組であった。遠目には男が二人にしか見えなかったが、片方はおそろしく体格のいい女性だったのだ。
そして、なんとも目立つ二人組であった。体格の良さは別にしても、男は野性的な面持ちの美男子であるし、女のほうは、飛び抜けた美人というわけではないが、どこか人を惹き付ける魅力のある顔立ちをしている。
「大統領、この二人がどうかされましたか」
「……いや、これでいい。これで十分だ。これで十分だ……」
アーロンは、自分の言葉を噛み締めるように、何度も言った。
十分だ、十分だ、十分だ……。
少女は、さすがに異変を感じて大統領の顔をのぞき込み、そこに異様を見た。
燃えさかる赤い炎。彼と反対の立場に身を置く人間からは、死んだ魚と称される青い瞳が、彼の身の内に宿った炎を写して揺らめいていた。
「……お父さん」
「我が娘よ。私の不明を許しておくれ。私は、私自身の言葉を今こそ撤回しよう」
大統領は、立ち上がった。死に神が取り憑いたような痩躯に、得体の知れない力が充ち満ちていた。
「神は存在する。信じる者は救われる。少なくとも、私は救われる。今、それを確信した」
アーロンは、微笑んでいた。普段の冷酷な笑みではない。心安らいだ、邪気の無い笑みで。
それを見て、少女も嬉しくなった。
「行っておくれ。みんなを連れて行っていい。全ての面倒は私が見るから、多少の無茶も大丈夫だ。この作戦に関する限り、全ての指揮権を君に預けよう」
どこに、とはあまりに間の抜けた質問だ。
少女は、自分の成すべき事を知っていた。
「承知しました」
「ただし、一つだけお願いがある。聞いてくれるかな?」
「なんでしょう」
「この男性だ。この男性も、決して殺さずに、出来るだけ丁重にここに招待してほしい。ああそうだ、この女性が彼にとって大切な人なら、この人も連れていてくれると素敵だ」
アーロンが指さしたのは、画面に映し出された男女であった。
「閣下はこの二人を知っているのですか」
「女は知らない。でも、男は知っている。よく知っているよ」
アーロンは、本当に嬉しそうに、初恋の人と再会したように嬉しげに、言った。
「この人はね、マルゴ。私の命の恩人なんだ」