懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
薄暗い部屋だった。そして味気ない部屋であった。
ほとんど立方体に近い空間、天井は低く、それに比例するように部屋自体も手狭だ。
家具は、無骨なパイプベッドが一つ、空のグラスと水差しの置かれたサイドテーブルが一つ。
部屋を飾り付けるものは、壁紙を含めて一つも存在しなかった。
剥き出しになったコンクリートの壁には微細なひび割れが無数に走り、建物自体の老朽化を声高に叫んでいる。
およそ光源と呼べるものは窓から立ち入る星明かり程度のものだが、肝心要の窓はどれも小さく、漏れ入る星明かりはぼんやりと殺風景な室内を露わにするだけで、人の心を楽しませるには程遠い。
よほど夜目が利く者でも、目が慣れるまでに余程の時間を必要とするであろう部屋に、濃厚な異臭が立ちこめている。
鼻腔の奥を痺れさせるような、消毒薬の匂いであった。それに加えて、僅かな血生臭さが漂っている。
病院の廊下を歩いたときに感じる、慣れない人間ならば少し眉をひそめるような匂いに近い。
耳をすませば、ぽつり、ぽつり、と、周期的な音が聞こえる。
水が滴り落ち、その水自体の作り出した水面に跳ねる音だ。
外で雨でも降っているのかと、窓を覗いてしまうような音だった。
しかし、音自体は部屋の中から聞こえている。
ベッドの脇に立てられたガートル棒の高いところに、透明な薬液のたっぷり詰まった点滴が吊され、その薬液が滴り落ちているのだ。
その、ぽつり、ぽつり、という音に、時折うめき声が混じる。
喉の奥を絞り上げるような、苦悶に満ちた声だった。
少女の、声だ。
まだ年若い、子供特有の高い声で、苦しげに少女が呻いている。
ベッドに横たわった少女だった。
真白い清潔なシーツの上に、力なく横たわっている。まっすぐに伸ばされた左手の肘の裏側に、点滴用の注射針が打ち込まれ、チューブをサージカルテープで止められていた。
そして、下着姿である。ほっそりと引き締まった少女の身体を隠すものは、上半身には薄手の綿シャツが一枚だけ、下半身は年相応に飾り気のないスポーティなショーツのみである。
そのショーツから伸びる健康的な太ももに、痛々しく包帯が巻かれていた。決して軽い怪我ではないことが、幾重にも巻かれた包帯に血が滲んでいることから伺い知ることができた。
傷のもたらす苦痛ゆえだろうか、身体の至る所に珠のような汗が浮かび、少女が身じろぎする度に小さな川の流れになってシーツに滑り落ちていく。
痛ましさと、僅かな艶めかしさを混ぜ合わせたような光景だった。
コツコツと、ドアをノックする音が聞こえて、少し間を置いてからドアが開いた。
少女が、自由になる右手を持ち上げて、瞼を覆い隠すようにした。部屋の暗さに慣れた彼女の瞳には、ドアから漏れる電灯の光ですらが毒であった。
「お加減はいかがですか、ウォル」
「ヤームルどの……」
ヤームルと呼ばれた初老の男性は、後ろ手にドアを閉め、ベッドの脇に設えられたサイドテーブルの上に、銀製の盆を置いた。
盆の上には、小さなお椀と匙が乗っている。
お椀は、柔らかく煮られた粥で満たされていた。どろどろとしたそれは見た目に悪いが、いかにも消化に良さそうである。
ヤームルはパイプ椅子を引き出し、そこに座った。空のグラスに水を注ぎ、ようやく身体を起こした少女に手渡してやる。
「すまん」
少女はそれを一息で飲み干した。
「おかわりは」
「お願いしよう」
汗でじっとりと重くなった下着を無造作に脱ぎながら、少女が言った。
ヤームルは、二杯目の水を少女に手渡し、その代わりに脱ぎ捨てた下着を受け取った。
少女の汗を限界まで吸った下着は、驚くほどに重たくなっていた。
「厚かましい話だが、替えの下着をお願いできるだろうか」
「その前に身体をお拭きしましょうか。すごい汗です」
「うん、そうだな。べたべたして気持ちが悪い」
「シーツは……」
「そこまで贅沢もいえん。今はこれで十分だ」
少女はうっすらと笑った。
普段であれば、太陽が笑ったように思える少女の笑みが、どこか力ない。
傷が影響しているのか、やはり体調が悪いのか。
暗がりに沈んだ少女の顔から読み取ることはできなかった。
ヤームルは痛ましさを顔には出さず、熱いおしぼりを手に取った。
「ご自分で出来ますか?」
「悪いがお願いしていいだろうか?これでは中々自由に身体を動かせない」
少女は、注射針の刺さったままの左腕を指さして言った。
「では、失礼します」
ヤームルは、よく絞ったおしぼりで、少女の身体を拭き清めた。
ごしごしとこするようにではなく、繊細な陶磁器を扱うような、慎重な手つきだ。
これには少女のほうがまいってしまった。彼女が、今とは違った姿で戦場を疾駆していた時など、濡らした綿布で真っ赤になるほど強く肌をこすったものだ。そうしないと、どうにも汚れが落ちた気がしない。
「もう少し強くしてもらっても構わないのだが」
「これ以上は肌を傷つけます」
「少々傷つくくらいなら大丈夫だぞ?別に女子供というわけでも……今はあるのだが……まあ大丈夫だろう」
「なりません。これほどきめ細やかな肌をお持ちなのですから、もう少しご自分というものに頓着してあげてください」
一通り汗を拭き取ったあと、ヤームルは、上半身を裸にした少女に清潔なシャツとショーツを手渡した。
「お食事は食べられますか?」
新しい下着に袖を通し、少し精気を取り戻した様子の少女は、はっきりと首を横に振った。
「駄目だ。折角用意していただいて申し訳ないのだが……。正直に言うと、食べ物の匂いだけで吐き気がする。これで喉を通るとは、到底思えん」
「分かりました、これは下げさせていただきましょう。もし、少しでも食欲が戻れば、その時は遠慮無く申しつけください」
「重ね重ね申し訳ない。ご迷惑をおかけする」
ウォルが、深々と腰を折った。無論ベッドに腰掛けたままの姿勢である。今の少女には、きちんと立ち上がることすら難しかったのだ。
ヤームルが盆を持って部屋から退出しようとしたとき、少女が彼の背中に向かって問いかけた。
「ここはどこだろうか。もちろん、俺はこの星の地理に明るくないから、言われても分からないとは思うのだが……」
「あの地下道を抜けて、車で一時間少々といったところにある、しけた隠れ家でございます。これでも私は臑に傷持つ身の上でして。こういった場所には詳しいのですよ」
「以前にもここを使ったことがある?」
「懐かしい記憶でございます。まさか、もう一度ここを使うはめになるとは夢にも思いませんでしたが、因果は巡るものですな」
優しい声だった。
自分の中の大切なものを愛でている声だ。
少女は、目の前で淡く微笑むこの男の、内面深くに立ち入ろうとは思わなかった。
粥を片付けたヤームルが、部屋に戻ってくる。その時には、少女は下穿きを履き替えていた。
「だいぶお悪そうですね」
ヤームルの言葉に、ウォルは項垂れたように頭を下げた。
「すまん。助太刀をすると言っておきながらこのざまだ」
「体調を崩しておいでなのですから仕方ありますまい。我らが何とか逃げられたのは、あなたに急を告げてくれた奇特な誰かのおかげでございます。感謝こそすれ、謝罪を受ける謂われなどございません。それに、あなたは、命を賭してお坊ちゃまを助けてくださった。このご恩、この老いぼれの短い一生を掛けて、必ず返させていただきます」
少女は、力なく笑った。
◇
その時、少女──ウォルは、一日の仕事を終えたあとの気怠い満足感に浸りながら、テーブル席に腰掛けていた。
夕刻の早い時間から、深夜まで立ち仕事を続けていたのだ。多少慣れてきたこととはいえ、ふくらはぎ辺りに張りを感じてしまうほどには疲労していた。あんな、常につま先立ちを強制するような靴を履いているのだから当然だ、と思う。
それに、長い時間話しっぱなしだから舌もだるい気がするし、客が次々と勧めてくる酒杯を片端から空にしていったものだから、いかに酒豪のウォルとはいえ些か頭の奥が疼くのだった。
くわえて、奇妙に身体がだるい。胃の奥がむかむかして気持ちが悪いのは二日酔いにおなじみの症状であるが、それとは種類の違う不快感が、胃のさらに一つ奥の臓器から沸き上がってくる気がする。身体の節々も疼くように痛むし、なによりひどいのが下腹と腰周りの、ずんと響くような重たい痛みだった。
おそらくは慣れない重労働に、身体が抗議しているのだろう。よく考えれば、自分が間借りしているのはまだまだ子供、ウォルのいた世界ですら親の庇護を受けていておかしくはない年頃である。
少し無理をさせすぎたかと思い、ウォルは苦笑した。
「それにしても、酌女がこんなに大変な職業だとは露とも知らなかった」
心の底からの言葉であった。
男だった頃は、酌を受ける立場で何度かその相手をつとめてもらったことのあるウォルだが、その時は、酌女がこれほど苦労の多い職業だとは思わなかった。気の食わない客の相手をするのはもちろん大変だろうが、それを抜きにすれば仕事で堂々と酒を飲めるのだから、羨ましいと思ったほどだ。
しかし、彼女らが働く様を見るのと、いざ自分で酌をする立場になってみるのとでは、仕事の印象が全く違う。
正反対といってもよかった。
あれほど華やかに見えた女性たちがこれほどの苦労をしていたことを思うと、正しく頭が下がる思いである。一見すると優雅に見える白鳥も水面下で必死に水掻きを動かしているとはよく言う例え話ではあるが、この場合の彼女たちがその白鳥なのであって、めでたく白鳥の仲間入りを果たす羽目になったウォルは、今まで自分の杯を満たしてくれた諸先輩たちに畏敬の念を捧げたのだった。
そんなウォルの内心はともかく、今日一日は終わったのだ。
仕事自体が望んだものだったか否かは置いておいて、一日の仕事を終えたあとの達成感や満足感というものは格別なものがある。それは国王の執務であろうが場末の酒屋のバニーガールであろうが、この少女にはあまり変わらないものだったのだろう。疲労の色濃い白粉顔にも安らかな笑みが浮かんでいる。
「お疲れ様でした、ウォル」
そんな少女に声をかけてきたのは、先程の舞台でピエロを演じていたヤームルであった。
メイクを落とし、服装もいつも通りの簡素で動きやすいものに着替えている。ゆったりと身体を包んだ麻の装束の下には、老いてなお鍛え抜かれた身体があることをウォルは知っている。
「うむ、もうそろそろ慣れてきた仕事だが、やはり疲れる。というよりも、慣れてきてしまった自分に少々嫌気がさすのだが……」
特大の苦虫をまとめて噛み潰したような顔の少女である。
ヤームルは、孫でもあやすように快活に笑い、真っ白い顎鬚を撫でながら笑った。
「人間、若い時の苦労は買ってでもしろと申します。ならば結構なことではありませんか」
好々爺然とした笑い声に、黒髪の少女も苦笑するしかない。
「こう見えて、若いという年頃ではないのだがなぁ。しかしまぁ、こういった類の苦労とは無縁の生活を送ってきたのも事実だし、天罰覿面といったところだろうか」
妙に実感のこもった声である。
確かに、一見少女にしか見えないこの少女は、その実、男として、戦士として、そして王として70年の歳月を生き抜き、そして天寿を全うしたのであるから、目の前で微笑む初老の男と変わらないだけの人生を過ごしている。
しかし、そんなことを少女自身以外の誰も知っているはずがないから、ヤームルは、どう見ても自分の孫娘くらいにしか見えない少女を、慈愛に満ちた視線で見遣るのだ。
「それこそもう慣れましたが、しかし、普段のあなたの口調にはどうしても違和感が残りますな。仕事中の愛らしい話し言葉も、男にとっては魅力的に聞こえるものですぞ。どうでしょう、いっそあの口調を普段のそれにしてしまうというのは」
喉の奥でくつくつと笑いながら、ヤームルは言う。
とどめ、あるいはダメ押しの一撃は、極めて効果的に少女の急所をえぐった。
「勘弁してくれ……。仕事中の俺は別人だ。思い出したくもない」
今は紬姿の少女が、テーブルにばったりと倒れこむ。
ヤームルの言うとおり、バニー姿で、男に媚びたように甘ったるい声で話す少女は可愛らしかった。少なくとも、どこか老成した雰囲気で男言葉を操る少女よりは客の受けも上々であった。
ウォルは、今まで自分がされてきたことを、してみただけだ。彼女は、自分が不器用な男──何の因果か今は見目麗しき女の子である──だと信じて疑っていなかったから、いきなり自己流の接待など出来るはずもないと思っていたので、若い頃、シッサスの酒場で自分が酌女たちにされたようにした。
そうしたら、評判はうなぎのぼりである。自分を目当てにくる客も多い。こうなると正しく後の祭りで、いまさら素の自分をさらけ出すわけにもいかなくなったと、そういう次第だ。
まったく厄介なことになったものだと、美しい黒髪をくしゃくしゃにかき回しながらウォルは唸り声を上げた。
「駄目だ。このままでは、肌に白粉の匂いが染み付いてしまうし、あの気持ち悪い芸妓言葉が舌に残りそうだ。そうなっては、あいつに何を言われるか分かったものではない」
この場合のあいつとは、当然のことながら、この少女の現在の妻であり将来の夫となるべき、黄金色の頭髪をした少年のことである。
ウォルは、その少年の鼻の確かなこと、耳の確かなことを誰よりも知っていたから、ふとした調子に今の自分がばれてしまったとき──あの甘ったるい口調でリィに話しかけでもしたらと思うと、心臓が止まる思いである──に、どんな顔で笑われるのかと思うと気が気でなかった。いや、笑われるだけならまだしも、まかり間違って慰めの言葉でもかけられようものなら、即刻家出をしてしまう自信があったのだ。
既に、バニー姿の自分は見られてしまった。それは事実であり、どうしたって覆しようがない。でも、いや、だからこそ、これ以上の失態はどうしても避けたいウォルである。
「女として生きることに今更怯懦は感じないが、しかし譲れんものは確かにあるのだ。今の生活を続けていると、それすらが薄れてしまいそうになる。それが一番恐ろしい……」
ぶつぶつと真剣な表情で呟くウォルに、ヤームルは少し不思議そうに、、
「良いではありませんか、まったき少女となって過ごしたとして、何か問題でも?」
ウォルは、詳しいことまでヤームルに説明はしていない。していないのだが、しかしこの、どこからどう見ても絶世の美女の卵にしか見えないこの少女が、実は全く違う生き物であることを、この男は承知していた。
「あなたが今までどのような生き方をしてきたのか、この爺は知る術もありませんし無理に知りたいとも思いません。ですが、女として生き、女としての幸福を見つける。それも立派な生き様ですぞ」
「いや、それは承知してるのだが……。そして、受け入れるつもりもある……つもりなのだが、だからといって俺は俺であることを捨てようとは思わん。それに、あいつもそれを望むとは思えんしなぁ」
「あいつとは、あなたの婚約者のことですか?」
ウォルはしっかりと頷いた。それから、はたと気づいたような表情で、目の前の老齢の男に問いかけた。
「どうしてそのことを知っている?」
ヤームルは、やはり悠然と笑い、
「お嬢様から聞きました。何でも、黄金色の狼こそがあなたの伴侶であるとか」
ウォルは頷き、
「いかにもそのとおりなのだが、何か含むところでもあるような顔だな」
「ええ、それはもうたっぷりと。わたくしもお嬢様と同じく、冷たく凍えきったあなたをお坊ちゃまが連れてこられたあのときからずっと、あなたこそお坊ちゃまの伴侶に相応しいと思っております。そして、お坊ちゃまこそあなたの伴侶に相応しいと。その思いは今も変わっておりません」
「またその話か。残念だがそれはお断りすると、メイフゥどのにもはっきりと伝えたはずだ」
ウォルは、げんなりした顔である。
メイフゥにヤームル、あとは店の主人夫婦、そしてウォルの同僚であるバニーガールたちは、ことあるごとに、ウォルとインユェをくっつけようとするのだ。口で言うだけならまだしも、それとなく食事の席を隣合わせにしてみたり、それらしい雰囲気を作り上げてから部屋に二人きりにしてみたり。
だが、当然のことながら、二人の仲が進展する気配は全くない。どれほど強引に機会を設けても、少女の方は暖簾に腕押し糠に釘であるし、少年のほうは真っ赤になってどもるだけである。
押しかけ仲人たちは、その度に特大のため息をつき、少年の意気地のないことを喉の奥で罵ったりするのだった。
「まぁ、少々ひねくれてはいるが、インユェも根はまっすぐな少年だと思う。それなりに好感も覚えてはいるが、だからといって彼と生涯添い遂げようとは思わん。それは、インユェでなかったとしても同じことだ」
「しかし、黄金の狼である少年とやらは別なのですか」
「別というかなんというか……。俺が女であり、あいつが男で、そして俺が子を成さねばならないとしたとき、それが一番自然な気がすると、その程度のことなのだがな」
ウォルは、やや憮然とした口調で言った。自分で口にしておいて、その内容が自分でも信じられないような、そんな口調だ。
どうやら、見た目にはどこぞの姫君のようにしか思えないこの可憐な少女は、恋やら愛やらとは全く違う視点でもって自分の伴侶を定めたのではないだろうか。
そんなことをふと考えて、ヤームルは痛ましさを表情に出さないよう苦労した。
「ところでヤームルどの。首尾は如何程?」
はっとしたヤームルの視線の先には、先程までの、砕けた雰囲気の少女はいなかった。
こちらを見る視線が、矢尻のように鋭い。声そのものが背筋を叩きつけてくるようですらある。
遠い昔、海賊船の艦橋で、これと同じような声を聞いたことがあるなと、ヤームルは思った。連邦軍の艦隊に半包囲されたとき、あるいは長年追い求めた敵をもう少しで牙にかけられるというとき。絶望に満ちた艦橋を、あるいは歓喜に緩んだ艦橋を、叱咤し引き締める声だ。
戦士の、いや、指揮官の声。
「……芳しいとは、お世辞にも申し上げられませんな。憂国ヴェロニカ聖騎士団を自称する無頼漢どもの支部をいくつか血祭りにあげましたが……」
「それではトカゲの尻尾を寸刻みにしているようなものだ。どれほど派手に痛めつけても、大元のトカゲは大して痛くもないだろうよ」
「仰る通りです。旧世代の海賊の戦い方を見せるなどと大言壮語を吐いておいて、恥ずかしい限りでございます」
ヤームルは項垂れたように頭を下げた。
ヤームルとメイフゥは、酒場での仕事が終わると、両手では到底抱え切れないような物騒な道具を山ほど車に積んで、どこかへと姿を消した。その度に、翌日の新聞の一面を、憂国ヴェロニカ聖騎士団の支部の一つがこの世から姿を消したことを報じる記事が飾っていた。
世間ではこれを、現政権の指導体制に反感を覚える保守過激派のテロであると報じている。まさか、旧い友を殺された海賊の報復であるとは思いもつかないのだろう。少なくとも、彼らの用意した重火器は、一介の個人が準備出来る武器の範疇を、質量ともに大きく凌駕していた。
「きゃつらの首魁が、アーロン・レイノルズ大統領に近しい人間か、それとも大統領本人の関係者であろうことは察しがつきます。あれほどの好き放題をやっておいて、しかし野放しにされているという一事をして間違いありますまい。もとは海賊であるわたくしなどが申し上げるのもおかしな話ですが、あれは人の皮を被った畜生の類、生かしておけば百害あって一利なしの者共です」
「そこだ。それが、どうにも俺には腑に落ちんのだがな」
ウォルは、腕組みをしながら唸った。
「俺自身、奴らに拐かされかけた身だからよく分かるが、あれは頚木から放たれた野獣の類だ……こんな言い方をすると、我が同盟者どのから『野獣に失礼だ!』と怒鳴られそうなのだが……とにかく、あんなものを放置していては、間違いなく国そのものを腐らせる毒になるだろうし、いずれは飼い主の手も噛むようになるだろう。この国の王は、なぜあのような者たちを子飼いにするのだろうか」
「わたくしは人を導くような御大層な立場を得たことが一度もないからよくわかりませんが……支配者にとって一番恐ろしいものは、同等の立場の別の支配者に狙われることではなく、自分の足元にいる被支配者たちが反旗を翻す事なのではないでしょうか。特に、今のこの国のように歪な過程を経て成立した政権にとっては、それが最も危惧されるはず。であれば、自分たちの思い通りに民衆を押さえつけることのできる暴力機関は、現政権にとってみれば非常に都合のいいものでしょうな」
少女は頷いた。自分から望んだわけではないが、王として長く君臨し続けた彼女には、ヤームルの言うことが実感として分かる。無論、好悪の念は別にして、であるが。
「それはヤームルどののおっしゃるとおりだと思うのだが、それにしても他にやりようがあるのではないか?もう少しましな人選をせねば、あれらそのものがこの国の根幹を腐らせる白蟻なのだから、いずれはこの国を巻き込んで共倒れだ。そんなことも分からぬほどに、この国の王は頭が悪いのか?」
ウォルの言う事は至極もっともだったので、ヤームルもとっさに返す言葉を見つけることが出来なかった。
確かに妙な話ではあった。アーロンが大統領に収まるまでの見事な手並みに比べれば、その支配体制は呆れるほどに手際が悪い。自分の子飼いの連中には特権を与え好き放題をさせる。結果として外の人間の足は遠のき、この国の基幹産業の一つでもある観光業に致命的な打撃を与える始末。国際社会からも轟々たる非難を浴び、このままでは連邦からの除名も現実味を帯びてきたような段階だ。
政権を奪取してから一年と経過しない段階でこの体たらくである。
まったくやっていることが支離滅裂だ。到底まともな政治的センスの持ち主であるとは思えない。
ウォル自身、かつて似たような国を間近に見たことがある。
他ならぬ、ウォルが治めていた国のことだ。
あそこでも、今まで自分たちの崇めていた君主に嫌気が差した民衆や貴族たちが、その君主を追い出すという事件があった。しかし、王家の乗っ取りを企んだ僭王を追い出してみれば、次に居座ったのが権力を笠に着て好き放題をするごろつきどもであり、民衆は慌ててもとの君主を呼び戻したのだ。
こう言ってみると身も蓋もないのだが、これらは全てウォル自身の経験したことである。そして、あのとき、あの不思議な少女に出会うことがなければ、デルフィニアという国はごろつきども──改革派の手に落ち、いずれはタンガやバラストといった国に飲み込まれていたはずである。
それでもデルフィニアという国が一応の面目を保てたのは、些か逆説的ではあるが、ペールゼン侯爵という人物の個人的な手腕であったことは否定しようがない。あの男がいなければ国王自らが自分の国を出奔するという不祥事は起きようがなかったが、その後は彼がいなければデルフィニアは坂を転がり落ちる丸石のごとき惨状を呈していたに違いない。
だが今のこの国には、そういった意味での抑止力すら存在しないのではないかと、ウォルは感じていた。
「権力を得て旨い汁を吸おうとするのは結構だが、それにしてもやり方がお粗末すぎる。権力をおもちゃにしてやりたい放題、というのとも少し違う気がするしな。それとも、狂信者というのはこんなものなのだろうか?」
「ウォル、あなたの仰ることは非常によくわかります。確かにきゃつらの遣り口はどこか妙です。ヴェロニカ教の復権を謳いながら、しかしそこに主眼を置いていないような……。もしもお題目通りに、ヴェロニカ教の教えに立ち返ることのみを目的にするならばあのような者どもをのさばらせておく必要もないわけですから……。どうにも不可解ではありますな」
ヤームルは、見事な口ひげを撫でながら首をかしげていた。暢気とさえいえるその様子からは、毎夜、友人の仇敵を血祭りにあげている戦士の風情は見当たらない。
しかし、彼らの目的は、この国の現状を正すことなどではない。
ヤームルは口調を少し変えて、
「いずれ、やつらの首魁には己の所業に相応しい罰を与えるとして……ウォル、あなたの方は如何ですか。もう、慣れない武器の扱いには慣れましたかな?」
「いや、これがなかなか難しくてな。ヤームルどのやインユェのようにはいかん」
ヤームルのいう『慣れない武器』とは、ウォルのかつていた世界には無かった武器──即ち銃のことである。
この少女が自分たちの復讐を手助けすると言ったとき、果たしてどれほど使えるのかを見極めるために、様々な武器を試させてみた。
ナイフやロッドの類は、文句なしの合格。インユェが及びもつかないのはもちろんのこと、百戦錬磨のメイフゥやヤームルですら舌を巻く有様である。
だが、それに比べて銃の扱いはお粗末なものだった。お粗末というよりは、銃という存在のことを全く知らないようですらあった。
無傷の的を前にして、銃を片手に途方に暮れる少女であったが、彼女への救いの手の持ち主は意外なところにいた。
『仕方ねえな、貸してみろ。こう使うんだよ。よく見とけ、へたくそ』
銀色の髪の少年──インユェが、強引に少女の手から銃をもぎ取り、無造作に引き金を引きまくった。
その全てが、的の中心、人間でいえば急所にあたる部分に命中していた。
インユェは、優れた射手であった。生来の勘の良さと、目の良さ。こと射撃に関しては、メイフゥもインユェには一歩及ばず、いずれはヤームルをも追い越すだろう。
インユェの神業的な射撃の腕前を目の当たりにしたウォルが、感嘆の溜息を吐き出す。
そして、見よう見まねで銃を構え直し、もう一度的に向かって引き金を絞った。
結果は、先ほどよりはまし、しかし合格点には程遠いといったところか。的の端っこのほうが、僅かに欠けていた。
『……うまくいかんな』
『だから、お前は構え方からして間違ってるんだ。ああ、もう、そうじゃなくてだな……』
見慣れない武器に戸惑うウォルを見かねたのか、インユェはウォルの構えを直し、握り方を教えた。
やや突っけんどんな言い方ではあったが、銃を扱うときのコツを丁寧に指導した。
その甲斐あってか、それともこの少女には天分があったのか、おそらくは少女にとって初めて扱う武器にもかかわらず、ウォルの銃の腕前はめきめきと上達していった。
『おお、当たったぞ!すごいなインユェ、お前の言うとおりにしたらこの通りだ!』
『ばーか、それくらい当たり前だ』
不機嫌を装った少年は、耳まで真っ赤である。
これで二人の中も少しは進展するかと期待した周囲だったが、彼らの期待は見事に裏切られた。インユェはコーチの後に少女を街へと誘うことはしなかったし、ウォルの方は新しい玩具に夢中で彼のことは視界に入らないという有様だったのだ。
どちらが悪いかといえば、どちらも悪い。しかし、不甲斐ないのは間違いなく少年のほうだったので、インユェは、身に覚えのない溜息の大合唱を聞いて気分を悪くするはめになった。
「とにかく、実戦で使うにはもう少し修練が必要だろうな」
「あまり焦らないことです。あなたほどの勢いで上達される方を、私は見たことがありませんからな。ロッドではあれほどこてんぱんにされた以上、銃のほうでこのまま追い抜かされては立つ瀬というものが無くなってしまいます」
「ご謙遜を。ヤームルどのやメイフゥどのの剣の腕も、恐るべきものだった。貴方たちほどの使い手は、俺の知る人間にもそうはいなかったと思う」
「お世辞でも有り難く頂戴しておきましょう。ところで──」
ヤームルは、孫のような年齢の少女の顔を覗き込んだ。
「顔色が優れないご様子ですが、どこかお悪いのですか?」
ウォルも、自覚があったので驚いたりはしなかった。
下手に強がらず、今の自分の体調をありのままに口にする。
「身体全体がどうにもだるい。頭も痛いし、特に酷いのは腹痛だな。これは本格的に風邪かもしれん」
「どれ、熱は……」
乾いた掌が、少女の額に当てられる。
少しだけかさついてひんやりとしたそれは、熱で火照った少女の額に心地よかった。
「……確かに、少し熱がありますな」
「やはりか。風邪など、ここしばらくひいたことはなかったのだが……」
「明日はゆっくりと休んでください。幸い、明日は店も休みですし、小うるさい親父もいない。身体を労るにはもってこいです」
この店の店長とその妻である女将は、子供がいない。だからこそ、自分達の子供のようにウォルを溺愛している。
文字通り、目に入れても痛くない有様だ。
店の売り上げに貢献する、金の卵を産む雌鳥だからではない。それどころか、最近はウォルを店に立たせること自体渋っていたりするくらいである。
第一、二人とも、この店はもう閉めるつもりなのだ。女将のほうはまだ未練があるようだが、普段は尻に敷かれがちの主人がそう断言すると、彼女もしぶしぶといった様子で同意していた。
今は、二人ともこの店にはいない。少し前から、女将は別の、もっと安全な場所に居を移している。主人は、店にも顔を出すなと言っているらしいのだが、あんたにそこまで言われる覚えはないと凄まれて、不承不承に黙認しているらしい。
主人も、先ほど店から出て行った。武器弾薬の仕入れの関係で、少し遠い得意先まで足を伸ばしているためだ。
もしも二人がこの場所にいて、ウォルが体調を崩していると知ったならば、あれやこれやと世話を焼いてくれたことに間違いはない。それ自体は有り難ことなのだが、風邪引きの身としては静かに休ませて欲しいのも事実である。
ウォルは、苦笑した。
「では、その親父どのが帰ってくるまでに身体を治すとしよう」
「それがいいでしょう」
ウォルは、自分の部屋に帰ろうと立ち上がった。
キッチンから水音が聞こえるから、誰かが残った皿洗いをこなしてくれているのだろう。
おそらくは面倒見のいいメイフゥだと思う。皿洗いはいつもウォルの仕事だったから、こんな時は有り難い限りだ。
ああ、今日も一日、よく働いた。
あとは、狭い風呂に入って化粧を落とし、ルームメイトであるメイフゥに就寝の挨拶をしてから、二段ベッドの梯子を登って布団に潜り込むだけである。
その布団も、かつての自分の寝室には間違えても存在しなかった煎餅布団であるが、不思議と寝心地が悪くない。
ここでの生活は、ウォルの性に合っていた。無論、夜の女として働くことに納得したわけではないのだが、こういう質素な、それとも肩を寄せ合うような暮らしは遠慮が無くて心地良い。
かつて、王宮での豪奢な生活を拒否し続け、あくまで自由民としての筋を通し続けた親友が、何故その有り様に拘り続けたのかが、少しだけ理解できた気がした。
照明を落とした人気のない店内を、ふらつく足取りで横切り、店の奥へと向かおうとした。
その時。
店のスピーカーが、大音声で叫んだ。
『ウォル、ウォル!そこにいる?いるわよね?わたしはダイアナ、さっきあなたと話していた船の女神よ。あなたがそこにいることを前提で話すから、良く聞いてね!』
流れているのは妙齢の女性の、色つやのある声なのに、その声が間違いなく切羽詰まっている。
ただ事ではない。ウォルの身に、緊張が走った。
ヤームルも尋常ではない空気を悟り、声を潜めながら呟いた。
「これは何事ですか、ウォル。船の女神とはいったい……、いや……ダイアナ?その名前は……」
「しっ」
ウォルが、指を立てて、耳をそばだてた。
『今、その店にこの国の特殊部隊が突入しようとしてる!目標は、あなたの身柄の確保とその他の人間の抹殺!表口も裏口もだめ、待ち伏せされてるわ!すぐに助けが行くから、それまで何とかして頂戴!』
突入してくる特殊部隊に対して『何とかしろ!』とは凄まじい指令だが、ウォルは有り難く思った。今から敵が来ると知っているのと、全く知らずに奇襲されるのでは気構えが違うし、ほんの僅かな時間でも反撃の体勢が整えられれば戦況は一変する。
ウォルはその時間を無駄にするつもりは毛頭無かったし、それはヤームルも同様であった。
この声の主を疑うという選択肢は、最初から存在しなかった。ダイアナはリィの友達なのだ。それ以上信頼するに足る理由など、ウォルの中には存在しない。そして、この少女についてはヤームルも無二の信頼を置いているのだから、彼にとっても同じ事である。
ならば、取るべき戦術は二つに一つである。
即ち、逃げるか戦うか。
「どうする、ヤームルどの?」
「突入してくる連中を退けても、二次三次の突入班の相手をしなければならないだけでしょう。ここは逃げの一手が最善かと」
「だが、肝心の退路はどうする?表口も裏口も押さえられてしまっているようだが……」
「ウォル、お忘れですか。ここは悪い海賊の巣穴ですぞ。そういう場所には、秘密の逃げ道の一つや二つは用意しておくものです」
悪戯っぽく堅めを瞑った老人がどれほど心強かったか、ウォルなどには計り知れない。
そもそもこの少女は、およそ王らしくない王であった。オーロン王のように奸智に長けるわけでもなければ、ゾラタス王のように非道を厭わない徹底さを備えているわけでもない。
だが、ただ一つ、他の王より抜きんでていた点があるとすれば、それは人を見る目の確かさであっただろう。そして、一度信じた人間を信じ続ける、頑迷ともいえる懐の深さ。
たった一度命を助けられただけの少女に、自分と、自分が守るべき全ての人々の命運を預けた。山賊と、それとも夜盗と揶揄嘲弄される人々に信を置き、彼らの信頼を勝ち得た。
少女より偉大な王は、かの大陸の歴史上に存在しただろう。その中には、全ての国を跪かせる帝王もいたかもしれない。
しかしその中に、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンほどに人使いの上手い王はいなかったはずである。
今もウォルは、目の前にいる初老の男に、自分の命運を預けようと決意した。この男に出来なければ、それは誰にも出来ないことなのだと納得した。
「こちらへ、急いでください」
その男は、憎らしいほど平然とした様子で、ウォルを店の奥へと誘った。ウォルやメイフゥ達の寝床のある方向である。
そこに、逃げ道など無い。この店から脱出するならば、多少強引にでも表口か裏口を突破するしかないはずだ。
それでもウォルは、ヤームルの先導に従って、店の奥を目指した。万が一そこに何もないのならば、自分が死ぬだけの話だ。それ以上ではない。
いや、それは違うかとウォルは思い直した。
自分が死ねば、この少女の身体も死ぬのだ。一度、救いようのない死を強制された少女が、もう一度死ぬことになるのだ。
この少女の身体を、もう一度、あの真っ暗闇の中に置き去りにしていくのか。
死ねない。絶対に、どうしたって死ねない。
煮え立つ何かを押さえるように、強く歯を噛んだ。
「おい、ウォル!今の放送は何だ!」
横合いから、勇ましい女性の声が飛びかかってきた。
研ぎ上げた刀で氷を両断したように、鋭く澄んだ声だ。
それでいて、隠しきれない猛々しさが滲み出るようである。
メイフゥが、そこに立っていた。
一糸纏わぬ姿である。さきほどまでシャワーを浴びていたのだろう、張りのある褐色の肌には、珠の水滴がぽつぽつと浮かんでいる。くすんだ金色の髪も、たっぷりと水分を含んで艶々と色めき立っている。
そこに、異性であるヤームルが立っているのに、恥じらいもせず、身体を隠そうとすらしない。むしろ、自分の身体を見せつけるように、威風堂々と立っている。
ヤームルもこの光景には慣れっこなのか、それとも孫のような少女の裸にはそもそも動揺する性質ではないのか、平然とした様子だった。
むしろ、今は同性のウォルのほうが、僅かに気圧されてしまうような気っぷの良さである。
「お嬢様、時間がありません。今すぐにここを引き払います」
メイフゥは驚きもせず、抗議もしない。頷くことさえしなかった。
無言で、ヤームルの後を追い、ウォルと肩を並べた。
「ちっ。どっかで下手をうったかな。こんなに早くあたしらの仕業だとばれるとはね」
昨今巷を騒がしている、憂国ヴェロニカ聖騎士団支部への襲撃事件。すでに二桁の支部を壊滅させているのだから、彼らは赤い布を見た闘牛のように、目の色を変えて犯人を追っていることだろう。
この星の上で自分達が襲撃されるとしたら、それ以外の理由が思いつかない。メイフゥはそう確信していた。
だが、ウォルはその意見に懐疑的だった。
まず、突入してくるのがこの国の特殊部隊というのが妙な話だ。武力にものを言わせる無頼漢どもが、その顔に泥を投げつけられたのである。敵の所在地を見つければ、自分達で報復しようとするのが当然だろうに、何故突入してくるのが無関係の軍隊なのか。
それに、凶悪なテロ組織の壊滅が目的ならば、どうして自分だけが捕縛対象となっているのか。全員を捕縛する、もしくは皆殺しならば筋が通るが、おそらくはここにいる誰よりもこの世界の人間と縁の薄い自分だけを生かして捕まえようとする意図が分からない。
これは、一連の事件とは全く別の意図が働いていると考えた方が妥当なのかも知れない。
しかし、それよりなにより、まずは生きてこの窮地を脱することである。
店の奥へと急ぎながら、
「ところでメイフゥどの。インユェはどうした?」
「ああ、あいつなら今の時間は部屋で大人しくしてるよ。なにせ、あの部屋は共用だ。一人っきりになれる時間なんて、そうそうねえからな」
メイフゥが、人の悪い笑みを浮かべた。
「あいつだってお年頃の男の子だ、周りに人がいない時でないとやれないことが色々とあるんじゃねえの?」
指で卑猥な形を作り、抜き差ししたりする。
緊迫した状況とは裏腹に、ウォルは膝から砕けそうになった。
まったく、この娘は本当に女なのだろうか。勇ましさや強さでいえば男と見紛うほどに屈強な女性はいくらでもいたが、そういう次元とは別のところで、この少女からは女性を感じることが出来ないのだ。
生まれを間違えたとしか思えない。
なんとも失礼な感想をウォルが抱いたとき、ふと頭の隅を違和感が掠めた。
インユェが、自分の部屋にいる?
メイフゥは、先ほどまでシャワーを浴びていた。
では、炊事場で、自分の代わりに皿を洗っていたのは……?
ウォルは、咄嗟に身を翻し、来た道を引き返そうとした。
その時、何かが破裂する轟音が、少女の耳を強かに叩いた。