懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第三十九話:Boy beats girl.

 静かな部屋に、ぽつりぽつりと、水の滴る音が響いている。

 耳を澄ませば何とか聞こえる程度のその音が、不思議に耳について、中々眠ることが出来ない。

 

 ──獣は、食べて眠って傷を癒すものだ。

 

 遠い昔に、妻がそう言っていた気がする。

 ならば、多少無理をしても、何かを腹にいれておくべきだっただろうか。

 既にヤームルが部屋を出て、しばらく時間が経つ。あの粥も、きっと冷え切ってしまっているだろう。

 今さら温めなおしてもらうのも悪いと思い、ウォルが無理矢理に眠るため、瞼を落としたその時。

 遠慮がちに扉をノックする音が、少女の耳に届いた。

 

「……ウォル、もう寝てるか……?」

 

 おずおずとそんなことを聞いてくる。

 そこに誰がいるのか、少女にははっきり分かっていた。そして、その少年がどれほどの自己嫌悪と戦っているのかも。

 だからこそ、少女は彼を拒む言葉を持っていなかった。

 

「いや、ちょうど眠れなかったところだ。話し相手がいてくれると助かる」

「……ふん」

 

 扉が開いた。同時に、部屋の明かりも、一番弱い橙色の光で灯された。

 開け放たれたドアから入ってきたのは、銀髪の少年だけではない。

 腹の虫を刺激する、食べ物の香りも一緒だった。

 

「インユェ、それは?」

「……さっきお前が粥を食べられなかったって聞いて……俺も、風邪とかのときの粥ってあんまり好きじゃねえんだよ……だから、スープ、作ってみた……食べるか?」

 

 長髪を後ろで一括りにし、エプロンを身につけ、手には分厚いミトンを纏った姿は、お世辞にも男らしいとは言い難い。

 しかし、この少年には、勇ましい戦装束などよりも似合っているように、少女は思った。

 

「そうだな、少し腹が減っていたところだ。いただくとしよう」

 

 銀製の盆を受け取り、それを膝の上に載せて、簡単なテーブルとする。

 湯気の立つスープは、上品な琥珀色に色づいていた。具はなかったが、様々な具材で出汁を取ったのが一目で分かった。

 汁そのものも澄み切っている。丹念に灰汁を取ったのだろう。

 ウォルは、匙でスープを掬い、口に運んだ。

 うまかった。

 乾いた身体に染みいるような、滋味溢れるスープだった。

 

 

 凄まじい爆音が店内を満たしてから、この薄暗い部屋で目覚めるまでの記憶を、ウォルは持っていない。

 あのあと自分がどうなったのか、ウォルはほとんど覚えていないのだ。

 

 轟音。

 意識を丸ごと消し去るようなそれに、思わず蹲りそうになる。

 だが、精神や魂を無視したところで、体だけが反応していた。

 何も恐れず、駆け出す。

 廊下を突っ切り、ホールまで。

 そこで、自分と同じように、鼓膜を強かに攻撃され、足取りの覚束ない少年を見つけ。

 彼を狙う、いくつかの銃口。

 ああ、助けなければ。

 

 太ももを貫通する銃弾の衝撃に記憶を失ったのかも知れないし、体調の悪化がそうさせたのかも知れない。

 とにかく、ウォルはほとんどを覚えていなかった。

 ただ、耳を押さえて調理場から顔を出したインユェをいくつもの銃口が狙っていたこと、咄嗟に駆け出し彼の体を突き飛ばしたことは、朧気ながらに覚えている。

 どうして自分があんなことをしたのか、未だによくわからない。

 命を賭けて助けなければならないほどに、この少年と深く繋がっているかと問えば、おそらくは否だ。

 だが、そうしなければならないという、強迫観念に近いものが体を突き動かしていた。

 それだけの話だ。

 

 

「――それにしても大丈夫かよ、その傷。痛そうだなぁ、きっと跡が残るぜ。可愛そうになぁ」

 

 意識をそこに戻すと、インユェが、嫌らしい笑みを浮かべていた。

 にやにやと、下卑た笑みを浮かべている。

 無神経そうに、それとも無神経を装ったインユェは、パイプ椅子を引き出し、そこに座った。

 少女は、もう一匙スープを掬い、それを啜った。

 やはり、うまかった。

 満足げに吐息を吐き出した少女に、場違いに憎々しげな声が叩き付けられた。

 

「一言いっておきたいんだがな、ウォル」

「なんだ」

「お前、いい気になってんじゃねえぞ」

 

 少年が、精一杯にドスを効かせた声で、言った。

 少女は、その声の主を無視するように、もう一口スープを啜った。

 

「お前は俺の奴隷なんだ。俺はお前のご主人様なんだ。だから、お前が俺を、命を賭けて庇うのは当然のことなんだ。そこんとこは分かってんだろうな?」

「ああ、分かっているとも」

 

 少女は、素っ気なく言った。

 

「だいたい俺は、あんなもん、簡単に避けられたんだ。別に、助けなんて必要じゃなかった。だから、礼なんて言わねえぜ」

「分かっている。俺がやりたくてやったことだ。誰に感謝してもらおうとも思わん」

 

 少女の視線は、膝に載せたスープ皿にだけ注がれている。

 少年の方を、見向きもしない。

 それが、少年には気に入らない。

 いや、少年には、あらゆる事が気に入らなかった。

 少女の受け答えもそうだ。少女の返答は、一々少年の欲しがっている答えのはずなのに、押し並べて彼の心にささくれを作っていく。それも、血が出るほどに深く、痛いものばかり。

 少年は、その痛みを呪詛の言葉に置き換えて、続けた。

 

「しっかし不憫だよなぁ、お前もさ。この世界には、墨の入った女ってだけでもう駄目な男も山ほどいるのに、そんな目立つところにでっかい銃創をこしらえた女なんて、まともな嫁の貰い手はいねえぜ、きっと」

「そうかも知れんな」

「お前はこれから一生、新しい男に抱かれる度に、その傷は何だって聞かれるのさ。で、お前は何て答えるんだ?転んだ傷だって誤魔化すかい?それとも、好きでもない男を庇って撃たれたんだって正直に言うのか?ははっ、そんなこと言ったら、間違いなく気まずくなるだろうな。男の方も萎えちまうんじゃねえの?」

 

 早口に捲し立てた。

 その言葉を聞いていないかのように、少女は静かに食事をしていた。

 皿には、もうほとんどスープは残っていなかった。

 皿を傾けて、最後の一匙を掬い、口へと運んだ。

 

「そうだ、なんならよ、俺の妾あたりにしてやろうか?奴隷に比べりゃあ大出世だ。もちろん、俺はきちんとした女と所帯を構えるつもりだがよ、お前の心がけ次第じゃあ、情けをかけてやらねえこともねえぜ。傷もんの女には、望外の幸運ってやつだろう?」

「ごちそうさま、インユェ。たいへんうまかった。もう一杯、おかわりを貰えるだろうか」

 

 ウォルは微笑みながら、空の皿を差し出した。

 何の蟠りもない、純粋な微笑みだった。

 それを見たインユェは、羞恥以外の感情でもって、白皙の肌を真っ赤にした。

 

「ウォル、てめえ──!」

「このスープはとても美味だな。インユェ、お前が作ったのか?」

 

 少女の首元を締め上げようとしていた両手が、空中で制止した。

 インユェは、浮かしかけた腰をそのままに、目の前の少女を見つめていた。

 少女は、もう笑っていなかった。漆黒の瞳を怒りに似た何かに染めながら、少年を射貫いていた。

 きっと、彼女の整った唇から、信じられないほどに醜く自分を罵る言葉が生まれるに違いない。

 ああ、そうだ、それでいい。自分は、その言葉に見合うだけの卑劣漢で、唾棄に値する忘恩の徒なのだ。

 

 これでようやく──。

 

 少年の総身から、力が抜けかけた。

 

「あまり、自分を責めるな」

 

 項垂れかけた頭を上げてみれば、自分を見つめる少女の瞳のどこにも、怒りの色は無い。

 ただ、気の毒そうに、哀れむように、自分を見ているのだ。

 インユェの心の奥底に、再び炎が沸き上がった。燻っていた火種に油を注いだように、ものの見事に燃えさかった。

 ぱぁん、と、肉が肉を打つ音が、狭い室内に響く。

 少年は、少女の頬を打っていた。

 歯を食いしばり、目を血走らせ、鼻の穴を膨らませて──獣の顔で、少女の頬を打っていた。

 命の恩人を、殴っていた。

 拳でなくせめて掌で打ったのは、少年の最後の矜持だったのかも知れない。

 しかしそれすらも、青ざめたウォルの頬が赤みを増すにつれて、音を立てるように崩壊していった。

 インユェは、理解した。

 これから自分は、外道として生きていくのだ。女を犯し、弱者を踏みつけ、己の享楽のみを追い求める生き方しか出来なくなるのだ。

 男として踏み越えてはいけない最後の一線を、こうも容易く踏みにじってしまった。

 もう、駄目だ。もう、耐えられない。

 少年は、部屋から逃げだそうとした。少年は、今までの自分から逃げだそうとした。

 そして、逃げられなかった。

 少年の服の裾を、少女の細腕が掴んでいた。

 

「離せ!」

 

 泣き喚く幼児のように、腕を振り回した。

 今度は拳が、少女の頬にめり込む。

 ごつりと、目を背けたくなるような音が響いた。

 インユェは、大風に吹かれた木の葉の如く、容易く吹き飛ぶ少女の身体を夢想した。

 だが、少女はぴくりとも動かなかった。

 柔い頬に少年の拳をめり込ませたまま、感情の凪いだ瞳で少年を見ている。

 片方の鼻の穴から鼻血を垂らし、それでも自分を見ている。

 少年は、その瞳の中に、醜く歪んだ自分の顔を見た。

 思わず叫び出しそうになるほど、恐ろしい光景だった。

 これほど恐ろしい光景が、他にあるだろうか。

 それは、自分の弱さそのもの、そして罪そのものなのだから。そんなものを正面から見せつけられるならば、死んだ方がましである。

 

「座れ」

 

 ウォルが、有無を言わさぬ声で言った。

 インユェに、少女の声に逆らうだけの気力は残されていなかった。

 今の少年に相応しい、風船が地に落ちたような軽い音と共に、パイプ椅子に腰掛ける。

 もう、まともに少女を見ることすら出来なかった。

 彼は、負けたのだ。何か、大切なものに背を向けて、逃げ出した。

 もう、誰と戦っても勝てる気がしなかった。生まれたばかりの子犬に吠え立てられても、泡を食ったように逃げ出すだろうと思った。

 

「俺はお前を殴らんぞ」

 

 少女の言葉に、もう顔を上げることさえ怖かった。

 少女の瞳に再び射すくめられることを思うと、指先一つ動かすことが出来なくなるほど、緊張で体が強張った。

 

「……そんなことをしたら拳が汚れるってか?はっ、それはそれは……」

「違う。今のお前には、何もしないことが最も過酷な罰だからだ」

 

 信じられないことを聞いたように、インユェが頭を上げた。

 怯えきった、刑場に引き出された罪人のような顔はしかし、自分を慰める漆黒の瞳と相対する。

 

 ──許された。

 

 安堵を感じた自分に、何よりも殺意を覚えた。

 

「すまねえ……」

 

 謝罪の言葉は、意外なほど軽やかに口から飛び出てくれた。

 

「悪かった……俺のまぬけのせいで、お前をこんな目に遭わせて……俺、何て謝ればいいか分からなくてよう……」

 

 ぽつり、ぽつりと、液体の落ちる音がする。

 今までは一つだったそれが、二つ三つと増えていく。

 その音に合わせるようにして、シーツに暗い染みが浮いていく。

 少年は、シーツの端を握りしめて、漏れでそうになる嗚咽の声を、必死に噛み殺していた。

 そのまま、包帯の巻かれた少女の太ももに、そっと手を乗せる。

 少年の指は、かすかに震えていた。

 

「痛かったろうなぁ……すまねえ、何て謝ったらいいのか、分からねえけど、すまねえ……本当に、ごめんなぁ……」

「謝ることはないと言ったはずだぞ。俺は、俺の好きでお前を助けた。なら、撃たれたのは俺が間抜けだったというだけの話だ」

「だから……なんでお前は、そういうことを……」

 

 今度は、はっきりと嗚咽混じりの声だった。

 少年は、悔しいのだ。悔しくてたまらないのだ。

 歯を軋らせて嗚咽を噛み殺し、それでも嗚咽が漏れてしまうほどに、悔しくて悔しくてたまらないのだ。

 自分の無力さが、悔しい。

 無力な自分が、悔しい。

 許せない。

 少年は、自分に対する殺意と戦っているのだ。

 少女は、そのことを知っていた。

 知っていて、少年を慰めようとはしなかった。

 無惨ともいえる赦免の言葉を少年に与える以外、何もしようとはしない。

 自分が叱れば、その分だけ少年の重みを預かることになる。

 だから、しない。

 何故なら、少年がまさに今戦っている痛みは、少年自身に力で乗り越えるべき痛みだからだ。

 

「俺、どうしたらいいんだろうなぁ……姉ちゃんも帰ってこない……きっと、きっと奴らに捕まったか、やられちまったんだ……」

「メイフゥどのがそう易々とやられるものか」

「じゃあ、なんでこんなに遅いんだよ?どうして、俺をひとりぼっちにするんだよ?」

 

 目を赤く腫らして、口を情けなく歪ませた少年は、驚くほどに無力だった。

 そして、哀れだった。

 ほとんど生まれたての赤子のようだった。

 姉ちゃん、姉ちゃんと、何度も呟いている少年に、無頼を気取った資源探索者だった彼の面影はどこにもない。

 少女の胸が、ずくりと疼いた。

 あまりにも弱々しい少年を見ていると、何かを思い出しそうになるのだ。

 魂ではなく、身体に刻み込まれた、異質な記憶。どう頑張っても像を結ばない、ほどけた雲のようなそれが、少女の胸を柔い針で刺激する。

 

『誰かを愛してしまったあの子を許してあげて──』

 

 幽玄な少女の、消え入るような声が、ウォルの耳に蘇った。

 彼を抱きしめようとする体、それを許さない魂。

 相反する二つの要素の妥協点として、少女は、少年の手を握りしめてやった。

 少年の手は、意外なほどに小さく、柔らかかった。

 少年が、許されたように小さな力を込めて、手を握り返してくる、

 少女と少年は、しばらくそのままだった。

 

「──すまねえ、情けないところを見せた」

 

 時計の秒針が一周するほどの時間の後に、少年が立ち上がった。

 それは、先ほどまでの少年の顔立ちではない。

 泣き腫らした目には鋭さが宿り、情けなく歪んでいた口元には不敵な笑みが刻まれている。

 後ろ頭を勢いよく掻きむしり、照れたように言った。

 

「もう、これでお前には、一生頭が上がらねえなあ」

「うむ、正しくその通りだ。あそこまで情けない有様、そうはないぞ」

「容赦ないんだからなぁ、本当に」

 

 インユェは苦笑した。

 

「じゃあ、手始めにスープのおかわりでも持ってくるよ。それと、サンドイッチくらいなら腹に入るかい?」

「そうだな、お願いしよう」

 

 少年が腰を浮かせる。

 そのままキッチンへと向かいかけたその時、ウォルの寝そべったベッドの脇に目を向けて、

 

「その前に、点滴がそろそろ終わりそうだから……」

 

 サイドテーブルの上に空のスープ皿を置いたインユェが、少女の左腕に刺さった針を、慎重な手つきで引き抜いた。

 針を抜く瞬間に、ぞくりとする、痛みとも痒みとも判別できない微妙な感覚が、ウォルの神経を冒した。

 針を刺していた箇所に、ぷくりと、真っ赤な血が盛り上がる。インユェはそこに絆創膏を貼り付けた。

 ようやく左腕の自由を取り戻した少女は、痺れの浮かんだ関節を二三度動かして、それが自分のものであることを確かめた。

 

「抗生剤が効けば、化膿することはないと思う。足も、銃弾は貫通してたから多分大丈夫だろうってヤームルが。やっぱりちゃんとした医者に診せた方がいいんだろうけど……」

「気にするな。これくらいの傷、慣れっこだ。酷いときなど、一週間飲まず食わず、眠らしてさえもらえずに、拷問をされたことだってある」

「拷問だと!?」

 

 予想だにしなかった少女の言葉に、少年は思わず目を剥いていた。

 少年の、竜胆色の瞳に、急激に色がついていく。それは、己の所有物を穢された雄のみが発する、激烈な攻撃色であった。

 

「言え、ウォル!どこのどいつがお前をそんな目に遭わせやがった!絶対に許さねえ!俺がぶっ殺してやる!」

 

 少年は、呪いの叫びを発しながら、少女の肩を掴んだ。

 凄まじい力の込められた指が肩肉に食い込み痛いほどであったが、少年は気がつかない。それだけの余裕を、失ってしまっていた。

 

「耳元で喚かんでくれ、一応は病人だ」

 

 にもかかわらず、下着姿の少女は、くすくすと笑った。

 少女の肌の柔さを期せずして確認した少年は、やはり耳まで真っ赤にして、

 

「わ、わりい……」

「それに、悪いがインユェ、お前に復讐は無理だ。なにせ、俺を思う存分に嬲ってくれた男は、既に死んでいる」

「死んでいる……?」

 

 少女はこくりと頷き、

 

「俺の怒りを雪ぐために、実の兄に首を刎ねられてな。そして、その首は蜜蝋に漬けられて、わざわざ俺のところまで送られてきたのだ。そこまでするかとも思ったが、そうでもしないと恐ろしくて夜も眠れなかったのだろうと思うと、滑稽でもあったな」

 

 少年は唖然として、不吉な笑みを浮かべる少女の顔を見遣った。

 目の前で、痛々しげに包帯を巻き、ベッドに腰掛けたか細い少女が、自分とは違う生き物に見える。

 背中が僅かに反る。脳の一部が、この少女は危険だと、自分を捕食できる生き物だと告げる。

 冷や汗が一筋、少年の麗美な頬を伝った。

 

「ウォル……お前、何者だ?」

「今の俺の名前は、ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタイン。だが昔は、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンという名だった」

「ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン……?」

「もう慣れたことだが、この名前を聞いて首を傾げられるとどうにも違和感があるな」

 

 少女は快活に笑った。

 

「ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン。大華三国に覇を唱えし王。獅子王。デルフィニアの太陽。闘神の娘の夫。色々な名前で呼ばれたが、どうにも自分のこととは思えない」

「ちょっと待て。デルフィニア……?そもそも、王っていったい……?」

「デルフィニアは国の名前で、俺が生きていた頃は、世界で最も栄えた国だった。そして、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンはその国の王だった男の名前だ」

 

 インユェは、まばたきすら忘れたように固まってしまった。

 口を半開きにしたまま、辛うじて回転している頭の中を、薄ら寒さが満たしていく。

 目の前の少女は、自分をからかっているふうではない。少なくとも彼女自身は、自分の言っていることを信じ切っている。

 ならば、この愛らしい少女は、正気を失ってしまったのか……。

 悲しげに眉根を寄せた少年が、切羽詰まったような表情を浮かべて、直後にパイプ椅子の倒れる音が部屋に響いた。

 少年は、暗い部屋の中、少女を抱きしめていた。両の手に満身の力を込めて、ぎゅうと、情熱的に。

 

「大丈夫だ、ウォル。絶対に俺がお前を守ってやる。傷だって、すぐに治る。傷跡だって残らない、いや、残さない。俺、いい腕の医者を知ってるんだ、闇医者だけどな。そいつに頼めば、この程度の傷、跡形もなく治るさ。そしたら、そしたら……」

 

 インユェは言葉を失って、少女の顔を見つめた。

 傷を負い、身体を弱らし、それでもなお毅然と自分を見つめ返す漆黒の瞳。

 年若い少年は、その瞳の主を、どうしても手に入れたくなった。誰にも渡したくなかった。

 彼は年若くして幾多の星海を渡り、数え切れないほどの死地も潜っていたが、これほど自分の感情をもてあますのは初めてだったのだ。

 だから、自分の胸の中に収まった少女が苦笑しているのにも、到底気がつかない有様だった。

 

「……あのな、インユェ。俺の話を聞いていたか?」

「ああ、聞いていたさ。お前はデルフィニアとかいう国のお偉いさんだったんだろ?」

「そして、男だった。齢七十を越えるおじいさんだ」

「だからどうした。今のお前はれっきとした女じゃねえか。何の問題がある」

 

 ウォルはやはり苦笑した。苦笑するしかなかったと言った方が正確かも知れない。

 この少年は、先ほどの言葉を信じていないのだ。きっと錯乱した少女が、現実逃避に紡ぎ出した空想話程度にしか思っていないはずだった。

 だが、ウォルが口にしたことは紛れもない事実である。今は少女の身体に宿っているのは、紛れもない戦士の、男の魂なのだ。

 これで事実を知れば、果たしてこの純情な少年はどう思うだろうか。ひょっとしたら自分を恐れ憎むかも知れないと思い、それは少し嫌だなと思った。

 少女は、その細腕で、やんわりと少年の胸を押し返してやる。

 インユェはさして抵抗をせず、少女を抱擁から解放した。

 倒れたパイプ椅子を引き起こし、再びそれに腰掛ける。そして、思い詰めた声と表情で、しかし努めて明るい声で、言った。

 

「今度、さ」

「うむ?」

「この一件に片が付いたら、俺の星に来ないか?」

 

 いつもはきらきらした瞳が、伏せ目がちになっている。

 母親に許しを乞う幼子のように、怯えきった瞳だった。

 

「あいにく、連邦大学にかえったら課題が山積みだ。補修だって鬼のように待っているはずだし、そうそう時間が取れるとは思えない」

「なら、待つさ。いつまでだって待ってやる。あんまり遅いと、攫いに行くかも知れないけどな」

 

 少年は、噛みつくような笑みを浮かべた。

 そして、息を一回飲み込み、震える声で、言った。

 

「俺の星に来たら……その……」

「その?」

 

 少女が、悪戯げに小首を傾げる。

 少年は、真っ赤になって、必死になって、男みたいになって、言葉を探した。

 彼の生涯初めての、女を口説き落とすために用意したとびっきりの言葉は、思ったよりも野暮ったかった。

 

「……馬の乗り方をさ、教えて欲しいんだ。頼めるかい?」

「馬?」

「いつか言ってたじゃねえか、馬に乗りたいって。俺、あんなもんの乗って何が楽しいのかって思ってたけどよ、お前がそう言うなら、一度乗ってみたいんだ。駄目かな?」

 

 少女は笑った。悪意のある笑みでも、馬鹿にした笑みでもない。

 目の前で、心の底から怯える少年のことが好ましくなって、思わず微笑んでしまったのだ。

 遠い昔に自分の妻が、しゃちほこばった少年騎士に口づけたときの気持ちが、少しだけ分かった。

 

「その言い方は何ともお前らしくないな。なにせ俺はお前の奴隷で、お前は俺のご主人様なのだろう?」

 

 少女の言葉に目をぱちくりとさせた少年は、毒気を抜かれたように肩から力を抜き、息を一つ吐き出すと、いつもの彼らしく不機嫌を装った表情で、

 

「じゃあ、ご主人様からドレイのウォルに命令だ。今度、俺に馬の乗り方を教えてくれ、いや、教えろ」

「ああ、今日を生き残れたら、存分に」

 

 二人は、声を合わせて大いに笑った。

 涙を零しそうになるほど笑いながら、インユェは思っていた。

 インユェは、もっと他に、少女に言うべき言葉を持っていたのだ。

 今度……今度、自分の星に来たら。

 美しいところなのだ。ずっと昔、後ろ足で砂を掛けてしまった、何よりも美しい場所。

 大切な人もいる。気の良い友人もいる。墓の下で眠る母親も、きっとお前のことが好きになる。

 だから。

 そこに、俺と一緒に行ったなら。

 ずっと、一緒にいてほしい、と。

 ずっと、一緒に生きて欲しい、と。

 少年は、喉の奥までその言葉を引き出して、肺の奥底に再び仕舞い込んだ。きっと、いつか、そのうちに、この少女に伝えることを誓って。

 その時、玄関のドアを荒々しくノックする音が、室内に響いてきた。

 インユェが、がばりと顔を上げる。

 

「姉さんだ!姉さんが帰ってきた!」

 

 その顔は、喜びに充ち満ちていた。

 ウォルも、その顔を見て、少しだけ嬉しくなってしまった。

 

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