懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
老人の口元が、蜜を含んだように綻んでいた。
照れくさそうに耳の後ろを掻いている。
皺の浮いた頬を赤らめ、死んだ魚のような眼を細めて。
男は、微笑んでいた。
「天使と出会った、だと?」
「はい。私は、天使と出会ったのです」
ケリーの問いに、アーロンは、もう一度大きく頷いた。
「赤茶けた大地、形を変えた大地。あらゆるものが姿を変えてしまった大地の上で、彼の人は歌っておられた」
大気のない星の上である。
そこは、宇宙の真空空間とほとんど変わらない。
音が伝わるはずがない。いや、そんなところに生身で立っていては、数秒も保たずに人は死ぬ。
焼けるか、凍るか、破裂するか、押しつぶされるか。
とにかく、死ぬ。
だが、それは、その人は、その御方は、ただ、立っていた。
そして、歌っていたのだ。
──あなたの家に、この者達を、お招き入れください。
──疲れた肩をもみほぐし、旅塵に汚れた赤子を拭き清めてください。
──最後の時に、あなたを思った魂に、大きな哀れみを。
──わたしの潰れた喉で、希います。
──終末の時に、彼らの魂が安らがんことを。
──跪き、ひれ伏して、お願いします。
──灰のように砕かれた彼らの御霊に、出来うる限りの救いを。
大気のない星が、風をそよがす。
彼の人の長い黒髪が、草の海のように、柔い風の中を泳いでいく。
光が、微細に砕かれた水晶となって彼の人に付き従う。
白い肌。なめらかな頬を、ひときわ大きな水晶が伝い落ちていく。
長い睫で飾られた瞳から、とめどなく水晶がこぼれ落ちていく。
両の手は、祈るように胸の前で組まれ。
一心に、一心に。
彼の人は、歌っていた。
紅よりも鮮やかな唇から、星そのものを慰める歌が紡ぎ出される。
病みつかれた者を癒す声。
みなしごを暖かい場所へと誘う声。
全てを許し、全てを与える声。
赤一色の大地の片隅で、誰に見られるでもなく、誰に聞かせるでもなく。
淡々とこだまするこの歌は、ゆるゆると、死者を彼岸へ送り届けるだろう。
ああ、そうか。
この人は、悲しいのだと、理解した。
「私は、既に自分が生きていないのだと思いました」
この世のこととは思えなかった。
この世のことであると信じるには、其の人はあまりに美しすぎた。
この世のおとであると信じるには、其の声はあまりに美しすぎた。
男は、自分が涙を流していることに、気がつけなかった。
機密性の保たれたヘルメットの中で響いているのが、自分の慟哭だとは気がつけなかった。
涙を垂れ流し、嗚咽を垂れ流し、荒涼とした大地に跪き、何を考えることすらも出来ずに。
男は、天使を見上げていた。
「その時、私は理解しました。この人が、惑星ウィノアを滅ぼしたのだ、と」
かすかに震える旋律は、後悔でも贖罪でもない感情で彩られていた。
そうだ、悲しいのだ。
この人は、悲しんでいる。
悲しみという感情に色があるならば、きっと今のこの人の髪の色のように、光を飲み込む黒さだろう。
自分の愛し子を、自分の手にかけなくてはならない、悲しさ。
自分の声が、誰にも届かない悲しさ。
今、自分が眼にしている光景。荒涼とした大地に、誰もいない、何も動かない。
それが、悲しくて悲しくて堪らないのだ。
だから、泣いている。
泣き声を歌にかえて、歌っている。
誰のためでもない。自分のためでもない、歌だ。
今はない、何かを惜しむ歌。
前ではなく、後ろだけのために歌われた歌。
だからこそ、からっぽだった男の胸には、その歌が、形良く収まった。
最初からそこにあるべきものだったのだ。
そして、男は恋をした。
「どれほどの時間が流れたでしょう。私は、いつの間にか生命維持装置の電源をつけていました。死ぬのが嫌だったというよりは、その歌を聴けなくなるのが嫌だったのだと思います」
天使の姿は消えていた。
それでも、歌だけが聞こえる。美しい、身を捩りたくなるほどに美しい歌が、鼓膜を優しく振るわしている。
やがて、その歌の最後の甘さが虚空の中に消えたとき、男は立ち上がっていた。
そして、一歩。
もう使うことはないだろうと思っていた、おんぼろの宇宙船に向けて、一歩。
男は、歩いた。
それは、彼が故郷を失ってから初めて歩む、一歩だった。
「それから、私は身を粉にして働いた。今までの私を嘲笑うような幸運の数々が舞い降りて、たちまちに私は大富豪の仲間入りを果たした。美しい妻を得た。子宝にも恵まれた。それでも、私の心が満ちることはなかった」
会いたい。
天使に会いたい。
一目でいい。会うだけでいい。遠目から眺めるだけで構わない。
愛されたいとは思わない。触れるなんて恐れ多い。手に入れようなんて烏滸がましい。
ただ、会いたい。どうしても会いたい。
その一心が、男を支えていた。
「天使の伝説がある星は、全てに足を運びました。中には天使を見たという人もいた。大仰な奇跡譚もあったが、それは全て嘘っぱちでした。どこに行っても、私は彼の人の残り香さえ感じることはできませんでした」
どれほど追いかけても、彼の人には出会えない。
男は、絶望した。
絶望して、絶望して、絶望して。
そして、気づいた。
「追い求めて出会えないならば、お呼びすればいいのですよ。私が、彼の人を、私の下へと招けばいい。なるほど、なんと単純でしょうか。これほど簡単なことに気づけなかったなど、お笑いぐさ以外の何物でもありますまい」
くすりと、アーロンは笑った。
眼に、異様な熱が点っている。
狂気、ではない。狂った人間というものを、ケリーは嫌というほどに見てきている。
どろどろとした、コールタールの腐ったような、おぞましい黒。ネズミやゴキブリですらが腐臭に顔を顰めるような、おぞましい黒。
それとも、全てを失った空白。
だが、この男の視線には、そういった異様がない。
その代わりに、熱がある。
燃えさかる炎とは違う。全てを焼き尽くす燎原の大火ではない。
とろとろと、肉を柔らかく煮るための、鍋にかける火のようだ。
決して強くはない。肉を焦げさせてはならないし、鍋を吹き零してもいけない。
しかし、決して途絶えることのない、火。
肉が軟らかく煮えるまで、とろとろと、とろとろと、鍋底をあぶり続ける、粘着質な火。
この男の眼には、一つのために全てを切り捨てた、取り返しのつかない熱が込められているのだ。
「一つ、いいかい?」
ケリーは、自分の声が掠れているのを自覚した。
皮肉を装った声も、意識しなければ出すことができない。
「どうぞ、存分に」
魚の笑ったような顔で、アーロンが答えた。
「俺の知る限りじゃあよ、あの星に起きたことは、虐殺された特殊軍兵士の怨念がそうさせたっていうぜ。天使がやらかしたなんて、そんな馬鹿な話、一度だって聞いたことはないんだがね」
「なるほど、特殊軍の怨念とやらを体現なさる方が言うと、なかなか真実みがある」
アーロンは鷹揚に頷いた。
「だが、それを言うならば、死者はどこまでいっても、どれほど積み重なろうとも、死者の域を出られません。死者が生者に害を為そうなど、正しく片腹痛い。どれほど滑稽であろうと、どれほど嗟嘆であろうと、この世は生者が織りなすもの、肉無き者の出る幕など、どこにもありはしませんよ。例えば、あなた自身が大虐殺に関わった人間を片端から殺して回ったようにね」
ウィノアの亡霊と呼ばれた男は、眉一つ動かさない。
ただ、目の前に座った男の、焦点の合わない瞳を睨み付けている。
「ならば、どうしてあれが天使の仕業だってことになるんだ?俺の知る限りじゃあ、天使だって幽霊やら亡霊やらと変わらないくらいに眉唾なものだと思うんだがな」
「では、試みに問いましょう。どうして惑星ウィノアは、あのようなかたちで滅びなければならなかったのですか?そこに、天使という存在を抜きにして、あのような天災を語れるものですか?」
ケリーは、口を開かなかった。
相手が、それを望んでいるとは思えなかったからだ。
「たまたま、遠く離れた宙域で赤色巨星が寿命を迎えようとしていた。たまたま、その赤色巨星と惑星ウィノアをつなぐゲートが存在した。たまたま、そのゲートに固定化とかいう訳の分からない現象が生じた。たまたま、超新星爆発を起こすタイミングに、惑星ウィノアはそのゲートの前を通る軌道にあった。たまたま、そのゲートを塞ぐためのジャマーが機能しなかった……」
熱に浮かされたように、アーロンは語った。
たまたま、たまたま、たまたま。
全てが、偶然だと。彼自身、一縷だって信じていない有様で。
「そして、たまたま、その星では、人類史上類を見ないような、非人道的な虐殺行為が行われ、無数の救われない魂が悲嘆の声を上げていた」
そう、例えばあなたの友人達のように。
アーロンは、そう締めくくった。
しっかりと糊の利いたシャツの下で、ケリーの体がむくりと膨れあがった。
怒りに、全身の産毛が逆立っていた。
「この全てのたまたまを、たかが怨霊ごときが成し遂げたと?それとも、怨霊の無念を体現する、あなたのような人間が独力で成し遂げたと?ふん、それこそおとぎ話、勧善懲悪の怪奇小説だ。もしもあなたが、この時期に、既にクレイジーダイアンと人の呼ぶ感応頭脳と出会っていたとしても、出来たのは、そうですな、無粋なジャマーを排除するか、それとも無効化するか程度のものだったでしょうね」
ケリーは、答えなかった。
否とも応とも言わない。
「何が惑星ウィノアの崩壊を招いたのか、それは分かりません。もしかすると大虐殺とは全く関係のない事柄だったのかも知れないし、それとも本当に特殊軍兵士達の無念だったのかも知れない。だが、それはただの切っ掛けであって、崩壊をなさしめたものは全く別であるはずです」
「あんたは、それが天使だと言いたいんだな?」
アーロンはにんまりと笑い、
「一連の全てが天の意志であるとするならば、それを顕現するために使わされる存在こそを天使と呼ぶのです。ならば、あの一連の悲劇は、全てが彼の人の掌の上で行われたこと。私は、そう確信していますよ」
アーロンは、忘我の表情で目を閉じた。
彼の脳裏には天使の歌声が響き渡り、天使の悲しげな顔が映し出されているのだろう。
ケリーには、それが許し難かった。理由は、分からない。
「じゃあ、あんたはどうして俺を恨まないんだい?」
ケリーの声に、アーロンは目を見開いた。
白目の中に黒目がまん丸と浮かぶほどに、かっと見開いた。
そして、心底不思議そうに言うのだ。
「失礼ですが、ケリー、あなたは私の話を聞いてくれていましたか?」
「あんたに、そう馴れ馴れしく呼ばれる覚えはねえな」
「では、海賊王とでもお呼びしましょうか。とにかく、私はあなたのおかげで──あなたがた、東西ウィノア特殊軍のおかげで、あの方と出会えた。私は、生きる目的と出会えたのです。なら、その恩人を、どうして恨むことなど出来るでしょうか。あなたは、私にとって、命を救ってくれた大恩人なのですから」
「何がウィノアの崩壊の切っ掛けになったか分からないってわりには、ずいぶんと買いかぶってくれるんだな」
「それはもう。少なくとも私自身は、あれが全て貴方方を慰めるための喜劇であったのだと知っていますから。あなたたちを無理矢理に喜劇の舞台に立たせていた劇作家と観客たちは、今度は自分達が無理矢理に喜劇の舞台に立たされるはめになったのです。無論、私も含めたところでね」
故郷を、両親を、初恋の少女を、全てを失ったはずの男は、こともなげに言った。
ああ、そうか、と、ケリーは理解した。
全てが、逆転しているのだ。
この男は、全てを失ったから、天使などという奇跡と出会ってしまった。
だが、この男は、全てを失ったからこそ天使と出会えたのだと思い込んでいる。
そして、その切っ掛けを作った、自分たち特殊軍に感謝しているのだ。それが、彼から全てを奪い去った原因にもかかわらず。
ケリーに口中を、限りなく苦々しい何かが満たした。それを取り除くために、コップの水を一気に呷った。
「……なるほどね、よく分かったぜ。あんたがいかれちまってるってことがな」
「ええ、その通りです。私は、心底天使に狂っている」
そのことを、自覚している。
狂気に堕ちながら、しかし己を見失っていない。腐り、肉が融け落ちていく精神を直視しながら、まだ自分を保っている。
むしろ、己の腐り落ちていく様子を、求めている。
目の前で笑っている男は、歴とした狂人だった。それも、筋金入りで狂っている。
では、その狂人が、何故自分を己の居城にまで招いたのか。
気まぐれなどではありえない。まして、本当にお礼を言うだけなど、どう考えてもおかしい。
狂人であるが故に、それなりの行動原理を備えた上で、自分が必要だからこそ巣穴に招待したと考えるべきであった。
「一応言っとくがよ、俺はあんたの恋する天使さんの電話番号なんて知らねえぜ?」
ケリーは巫山戯ながら言った。
そして、目の前の男の顔色を注視する。
男の顔色は、露程も変わらない。
「ええ、知っていますよ。むしろ、あなたが天使の所在を知っているとしたならば、私は嫉妬であなたを殺してしまうかも知れませんね」
ケリーは苦笑した。
事実、彼はいつだって天使と連絡を取ることが出来るのだ。それが、この男の言う天使と同一かどうかを別にして。
ケリーは、悠然とした様子で長い足を組み、憎々しいほどに落ち着いた声で、言った。
「じゃあ、なんで俺をこんなところにまで招いた。お為ごかしはもういいさ。そろそろ本当のことを言ってくれねえと、胸焼けの一つも起きちまうってもんだぜ」
「あなたには、最後の仕上げをお願いしたい」
アーロンはテーブルの上に肘を突き、組んだ手の上に顎を乗せた。
焦点の合っていない、魚めいた瞳に、病んだ光が点る。
その、得体の知れない威圧感。ケリーも、長い人生のうちで、これほど奇妙な男と相対したのは初めてだった。
己に危害を加えようとしているわけではない。騙して利得を奪ってやろうと思っているわけでもない。
自分に向けられているのが、ある種の好意であることも分かる。
にもかかわらず、いや、だからこそ、この男の前にいるのが耐え難い。同じ空間で息をするのが拷問に近い。
ケリーは、半日ほど顔を見ていない自分の妻の顔が、恋しくなってしまった。
「最後の仕上げだと」
「ええ、私がこれからすることの、最後の仕上げです」
「何をしろってんだよ」
「私は何も強制しません。あなたのしたいように為さってくれればいい」
男の声に、抑揚はない。
先ほどまで男を包んでいた感動も、ない。
じっとりと粘ついた、湿度のようなものがあるだけだ。
「言ってることがわかんねえよ」
「さっき言ったとおりですよ。私は、この星に天使を招きたい。そのための最後の仕上げを行うのが、あなたということになりますか」
「天使を招くだと?」
アーロンは、頷いた。
「何故、あの時、あの場所に天使がいたのか、私は考えました。昼夜を問わず、必死にね。そして、ある結論に辿り着きました」
「へぇ、どんな」
「天使はね、惑星ウィノアが滅びたから、あそこにいたんですよ」
だからね、と続ける。
「もう一度ウィノアが滅びれば、あの方は、もう一度姿を見せてくださるんですよ」
ケリーの背筋に、冷たいものが走った。
「簡単なことじゃないですか。だからね、私は、この星に惑星ウィノアを作るんです」
アーロンは、大きく手を広げた。
まるで、自分を見ている天使に、歓迎の意を伝えるように、大きく、大きく、天を掴むように。
その顔は、無限の至福に満ちていた。
「いったい何が、天使をあの星に使わし、そしてあの星を滅ぼしたのかは分かりません。しかし、あの星の何かが、天には許し難かった。だからこそ、天使があの星を滅ぼした。ならば、そっくりそのまま、あの星と同じ星を作り出すことが出来れば、天使は再び舞い降りるに違いありません。そうすれば、そうすれば、私は再び天使と出会うことが出来る!もう一度会うことができるんですよ!」
狂っている。
そんなこと、出来るわけがないのだ。
よしんば出来たとして、その天使とやらが姿を見せる道理はないはずだ。
だが、この男の中で、それは既定した事項であった。
「そして、神は私に微笑んでくださった」
満面の笑みを浮かべたアーロンが、感動に声を震わしながら言った。
「最も難しいと、内心で諦めていたというのに、神は哀れな子羊に、救いの手を差し伸べてくださったのです」
「……何のことだ」
「先ほども見たでしょう、私の愛し子達を」
ケリーの体が、はっきりと強張った。
琥珀色の左目に灼熱が宿り、虚空を写した右目に滅びが宿る。
憤怒に顔がゆがみ、総身の毛が逆立つ。
鬼が、いた。
「てめえ、何をしやがった」
「言ったでしょう、私は、この星にウィノアを作る、と」
「きさま……」
「なら、ウィノアの象徴たる彼らを、起こさないわけにはいかないじゃないですか。放射線にやられて、ほとんどの死体は使い物になりませんでしたが、ほんのごく一部、まだ使い物になるものがあった。あの大穴の奥底に廃棄されたもののうち、できるだけ状態のよかった骨の髄から遺伝情報を抽出し、培養する。まさか成功するとは思いませんでしたよ。彼らの瞳が開くのを見た瞬間、私は確信しました。やはり天は、私の為すことに寵をくださっているのだと」
ケリーの口から、ばきりと、硬質な音が響いた。
噛み締めた歯の、砕ける音であった。
「墓を……あいつらの墓を、暴きやがったな!」
この場合の笑顔は、肯定以外の何物でもなかった。
◇
ああ、そうだった。
どうして、こんなに大事なことを忘れていたのだろう。
全てを、思い出した。
戦が、あったのだ。
大きな大きな、世界そのものを揺るがすような戦だ。
広大な宇宙の隅々にまで剣戟の音を響かせて、生きとし生けるもの全ての鼻腔を血臭で満たして。
我々は戦った。
女も子供も、老人も、病で倒れたものも。
全てが、死力を尽くして戦った。
負ければ、死ぬからだ。
降伏は意味をなさない。皆殺しにされるだろう。
だから、戦った。
剣を持てる者は剣を持ち、盾にしかなれないものは盾を持ち。
我々は、戦った。
侵略者は、恐るべき相手であった。
この世界に住むどういう生き物とも違う、異形の生物。
悪夢の海から這い出してきたとしか思えない、醜悪な容貌。
人智を越えた力を振るい、屈強な戦士たちを紙のように千切り捨てていく。
趨勢は、明らかだった。結果など、火を見るまでもない。
降伏は意味をなさなかった。皆殺しにされた。
私と、私の妻と、私たちの主以外は。
私たちは、逃がされた。
私は、最後まで戦うと言ったのに。
妻は、共に死のうと言ったのに。
主は、悲しそうに微笑みながら、何も言わず。
私たちは、一度だって見たことのない、森の中にいた。
逃がされたのだと、理解した。
私は、地に伏せて泣いた。
今まで苦楽をともにしてきた仲間達と、一緒に死ねないことが悲しかった。
そんな私を、妻は慰めてくれた。
肩に天鵞絨のような毛皮をこすりつけ、頬を暖かい舌で舐めてくれる。
妻も、泣いていた。紫水晶に似た瞳から、とめどなく涙が溢れていく。
彼女の群れも、皆殺しにされたのだ。
もう、彼女一匹だ。
もう、誰も、彼女とともに歌うことはない。
もう、彼女の遠吠えは、一人空しく夜に響くだけだ。
どれほど悲しいのだろう。どれほど恐ろしいのだろう。
どれほど、心細いのだろう。
彼女の、四つの足が、生まれたばかりのように震えていた。
私は、妻を抱きしめた。
私も、溢れ出る彼女の涙を舐め取った。
誰に毛繕いをされることもなくなって、ごわごわになった毛皮を、優しく噛んでやった。
奇妙に塩辛い味が、何よりも彼女に相応しいと思った。
そして、愛し合った。
私も妻も、二つ足で立つ獣の姿になり、柔草の絨毯の上で、いつ果てるともなく交わった。
毎日、毎日。
真っ赤な果実が、だんだんと熟していくような、甘美な日々だった。
朝起きれば、目の前に、最愛の人の寝顔がある。
共に狩りをし、どちらの獲物が立派かを競い合った。
肉を思うさまに貪り、ときには野を駆け、ときには湖を泳ぎ。
夜は、満天の空の下、精根尽き果てるまで絡み合い、疲れたら抱き合いながら眠った。
誰に邪魔もされない。他の何者もいらない。
夢のように安らかな、日々だった。
いずれ、彼女の腹の中に、私の子供が根付いたと知らされたとき。
全てが、終わりを告げた。
心臓が、早鐘を打っていた。
どくどくと、酸素のたっぷりと溶け込んだ血液が、体中に送り出されていく。
何のためかと、問うまでもない。
駆けるためだ。戦うためだ。奪い返すためだ。
この手から奪われた、最愛の雌を、この手に奪い返すのだ。
あの柔い肌を、銀色の髪を、竜胆色の澄んだ瞳を。
誰にだって触れさせてなるものか。
あれは、俺のものだ。俺だけのものだ。
あいつは、俺のものなのだ。
俺の、雌だ。
あの身体を思うさまに味わっていいのは、俺の舌だけなのだ。
だから、今すぐに起きろ。夢の世界の残滓など、綺麗さっぱり振り払え。
あの時は、駄目だったじゃないか。
今度こそ、間に合えよ。
起きろよ。
今すぐ起きろよ、俺。
起きろよ、シャムス。
起きろよ。
インユェ。
目覚めと同時に、体が覚醒した。
少年の体を、ぬるりとした汗が濡らす。前髪が額に張り付いて、払っても払ってもべったりと言うことを聞いてくれない。
心臓が、破裂寸前に騒いでいる。もう、あと少しでも燃料が注ぎ込まれれば、エンジンそのものが焼き付いて使い物にならなくなるに違いない。
ああ、そうだ。
最後の光景が、胸を抉り取りたくなるような後悔と共に、蘇った。
また、助けられたのだ。
屋敷に突入してきたのは、自分達と同年代の、子供だった。
歯が立たなかった。
まるで、炎が乾いた草原に放たれたかのように、隠れ家は彼らに侵略された。
自分の、せめてもの抵抗など、歯牙にもかけてもらえなかった。
『逃げよう』
一緒に逃げよう。
そう言った。
どこかで聞いた台詞だ。どこかで、誰かが、自分に向かって言った台詞だった。
なのに、黒髪の少女は、淡く微笑んで、自分の足を指さして。
『この足では、逃げられない』
その通りだ。
大穴の開いた足では、人は走れない。
人は、二つ足で立つ、獣なのだから。
ああ、そうだ。
もし、自分に、四つの足があるならば。あの時の彼女のような、体ならば。
自分の背に、この少女を乗せて、思うさまに駆けることが出来ただろうに。
歯痒かった。また、自分は助けることが出来ないのか。
その時、遠くから、低く這うエンジンの音が聞こえた。
今度こそ、姉さんだと分かった。
『ウォル!姉さんが、今度こそ姉さんが帰ってきた!』
背後で、鉄拵えの扉が、悲鳴を上げていた。
遠からず、押し入られる。一刻の猶予もない。
なら、せめて、この少女だけでも。
そう思った少年の視界が、僅かに揺らぎ、首の後ろに鋭い衝撃に気がついて。
力の抜けていく四肢。霞んでいく視界。遠くなる意識。
少年は、小さくなるような、声を聞いた。
『連中の狙いは、どうやら俺らしい。お前だけでも、逃げてくれ』
嫌だ。
いやだ、カマル。
逃げるときは、君も一緒に──。
そして少年は、助けられた。
一晩で二度も。同じ、愛する少女から。
己に対する殺意が、ぐつぐつと煮えたぎっている。地中奥深くから、赤々とした溶岩がそうするように、今か今かと爆発する時を待ち望んでいる。
もし、この場に鋭いナイフが転がっていたならば、少年はためらいなく己の胸に突き立てていたに違いなかった。
そして、少年は体を起こした。
死に損ないだ。ならば、拾った命の使い方は決まっている。
助ける。死んでも助ける。あの黒髪の少女を、絶対に。
それが叶えば、この役立たずの命など、何ほどの価値があろうか。
見慣れぬ部屋、初めて見る天井に、彼は刹那の恐れも抱かなかった。
低いベッドから起き上がり、目の前にあったドアを開け放った。
朝日に塗れた部屋には、見慣れた人物と、初めて見る人物がいた。
粗末な木のテーブルを囲み、向かい合って座っている。
ともに、長い髪の女であった。
「おう、起きたか、クソチビ」
硬質な金色の髪を持つ少女が、物憂げに言った。
いつもの、からかい口調ではない。喉の奥に感情をこし取るフィルターがあって、そういう、余裕とか皮肉とかいうものを根こそぎ奪い取られたみたいに、その声は重たかった。
メイフゥ。少年の、双子の姉であった。
「姉貴。ヤームルとウォルは、どうした」
少年の声である。
だがそれも、昨日までの少年の声ではなかった。
少年が少年たる、甘さとか溌剌さとか青臭さとか、もしくは若々しさとかいう装束を脱ぎ捨てた、男の声である。
視線も鋭かった。
怒りではなく、だかそれ以上に猛々しい感情に濡れた瞳を、自らの姉に向けている。
明らかに、少年は、昨日までの少年ではありえなかった。
「ヤームルは、ウォルは、どうした」
もう一度。
メイフゥは、答えた。
「攫われた」
「誰に」
「んなもん知るかよ」
「何のために、ウォルは攫われなくちゃならなかったんだ」
「知らねえっつってんだろうが、この馬鹿」
インユェはテーブルまで荒々しく歩み寄り、古めかしい木の板に、思い切り拳を叩き付けた。
朝食の盛られた皿が、一様に宙を踊った。
「ふざけてんのかよ」
メイフゥは、座ったまま、弟の顔をじろりと睨めあげて、
「じゃあ、こう言えば満足か?ヤームルはぶっ殺された。ウォルは、決してあたし達の手の届かない地の底に連れ去られて、下種な男達の慰み者にされている。かわるがわる下卑た男に乗っかかられて、腰を振られて、今もお前の名前を泣き叫んでるってよ」
インユェの脳裏に、文字通り最悪の結果が想像された。
あの清冽な瞳が、美しい肌が、気持ちのいい笑い声が、見ず知らずの男の嬲り者にされているとしたら。
喉の奥に、何か致死性の汚泥でもつかえたように、少年は咳き込んだ。テーブルに突っ伏して、涙を零しながら、懸命に咳き込んだ。
背中を摩る姉の手にも気づけない有様で、少年は苦悶した。
苦悶しながら、姉の襟首を、思い切りに締め上げた。
「げほっ、げほげほげほっ……、て、めぇえぇっ!」
「今さら何を慌てていやがんだ、このぼけなすが!昔っから、女が攫われるってことは、そういうことだろうが!そんなこともわからねえで、てめえは暢気にウォルを手放しやがったのかよ!」
「好きで手放したんじゃねえ!」
「当たり前だ!どこの世界に、惚れた女を好きこのんで手放す奴がいるか!だからてめえは間抜けってんだ!」
「うるさい、静かにしろ」
二人の間に割って入ったのは、声だった。
静かな、女の声だ。
インユェは、声の主のほうへ振り向く。
そこにいたのは、やはり女だった。
姉よりも、さらに一回り大きい、恵まれた体格。
緩やかにウェーブした、赤金色の髪の毛。
ブルーとグレイの混ざったような、奇妙な瞳の色。
極上の美人ではない。だが、一目見ただけで忘れがたいような、強烈な個性がある。
不思議な女だった。
「あんた、なに?」
感情を抑えた声と表情で、インユェは、その女に近寄っていった。
きしきしと、不安定な床が、悲しげに啼く。
その声すらが、今のインユェには鬱陶しかった。
この世から、自分とあの少女以外、あらゆるものが消えて無くなればいいと思っていた。そうすれば、彼女を害するものはどこにもいなくなるのに。
なのに、この女はなんだ。
どうして、自分に命令するのだ。
理不尽な怒りが、少年の胸中で燃えさかっていた。
「あんた、なんだよ。どうして、こんなところにいるんだよ。誰が、ここにいていいって言ったんだよ」
「わたしは、うるさいと言った。静かにしろと言った。それが聞こえなかったのか?」
「黙れよ。さっさと出て行け。あんたなんか、誰も呼んじゃあいないんだ。それなのに、俺に指図するんじゃねえよ。何様のつもりだよ、あんた」
「聞こえなかったなら、もう一度言ってやる。その、生まれたての雛鳥みたいにぴーちく喧しい口を閉じて、さっさと席に着け。そして、飯を食え。お前の姉が、お前のために用意した朝飯だ。ありがたく喰え」
女が、悠然とした様子で、ミルクに浸したシリアルを口に運ぶ。
インユェは、そのスプーンを、思い切りなぎ払ってやった。
匙に盛られていたミルクとシリアルが飛び散り、女の顔を汚した。跳ね飛ばされたスプーンが部屋の壁にぶつかって、神経に障る音を立てた。
その音が、少年には忌々しかった。
「次は、顔面を殴るぜ。それとも、そういうのがお好みかよ。なら、今すぐ真っ裸になって、ベッドの上で尻を突きだしな。優しく引っぱたいてやるよ」
女は、インユェに一瞥をくれるでもなく、脇に置かれたナプキンで汚れた顔を拭った。
そして、緩やかに立ち上がる。
そうすると、女の上背は、インユェよりも遙かに高い。
優に頭一つ分は高いところから見下ろされて、インユェは、僅かにたじろいだ。
しかし、必死の強がりを込めて、女を睨み付ける。
「わたしに、面と向かってそういうことを言う男は、中々貴重だな」
にやりと、不敵な笑みで笑う。
そうすると、もとから印象の強かった顔立ちが、より鮮明に、蠱惑的な色彩を帯びる。
この女性には、こういう表情が何よりも相応しいのだと、インユェは理解した。
そして、その瞬間に、左頬を恐ろしい力で張られていた。
腰のあたりで回転するように、インユェはぶっ倒れた。
天地がひっくり返ったのだと、勘違いした。
「まず一つ。わたしに被虐趣味はない。そういう女が好みならば、わたし以外の人間をあたることだ。ちなみに言うならば、君が想いを寄せる少女にもその傾向はない。残念だったな」
インユェが、口の端から血を垂れ流しながら、必死に立ち上がろうとする。
口が、意味のない言葉を発しながら、わなわなと動いている。
振り返り、女を見上げる視線には、無限の憎悪が込められていた。
ほう、と、女は内心で驚いた。この自分が、ほとんど手加減無しでぶん殴ったのに、こういう表情が出来るのかと、軽く眼を見張っていた。
「この、くそ、あまぁ……!」
「次に一つ。わたしは、わたしより年下の男に組み敷かれる趣味もない。君の年齢では、明らかに荷が勝ちすぎる。筆下ろしをしてほしいならいい女郎宿を紹介してやるぞ。君の器量なら、手取り足取り優しく教えてもらえるだろうさ」
腹を、思い切り踏みつけられた。
素足ではない。大岩が落ちてきてもびくともしないような、頑丈なブーツの靴底で、だ。
ぐえ、と、かえるの潰れたような声が、口から飛び出た。
苦痛よりも、羞恥で顔が赤らんだ。
足を、必死にどかせようとするが、そこに根が生えたように動かない。
少年は、床に貼り付けになった。
「最後に、もう一度だけだ。静かにしろ。そして飯を食え。それがお前の義務だ。これ以上駄々をこねるなら、口の中に腕を突っ込んで胃に直接飯をぶちまけてやるが、それでもいいか」
「ん、だとぉ……!?」
「惚れた女を、目の前で攫われたのだろう?それが悔しくて堪らないのだろう?なら、飯を食え。そして力を蓄えろ。今度は、惚れた女を奪い返してやるんだろうが。ならば、喰え」
女が、少年の腹を踏みつけた足に、力を込める。
少年の腹筋が、きしきしと、悲しげに軋んだ。
少年の喉の奥から、獣の唸るような声が響く。
少年の整った顔が真っ赤に染まり、こめかみに血管が浮く。
少年の両手が、女の履いたブーツに食い込む。
女の巨体が、僅かに持ち上がった。
「ほう、やればできるじゃないか」
「ど、け、って言ってんだ、この売女がぁ……!」
「根性は認めてやる。だが、口が悪いのは男としてみっともないぞ」
女は、インユェの襟首をむんずと掴み、壁に投げつけた。
それも、片手だ。
インユェは受け身を取ることも出来ず、強かに背を打った。
呼吸が止まる。白まった視界のあちこちが、無意味にちかちかとして鬱陶しい。
ああ、このまま眠ることが出来たら、どれほど心地いいだろう。
そういう、悪魔にも似た甘美な声が、少年の耳を優しく嬲った。
だが少年は、必死の思いで体を起こした。
そして、睨み付ける。目の前の女が、全ての元凶であるかのように。
「わたしもだ」
女が、言った。
顔に、苦渋が浮かんでいる。
少年は、理解した。
この女も、自分と同じだと。
自分と同じ、自分に対する殺意と戦っているのだと。
「わたしも、目の前で夫を奪われた。為す術もなく、だ。あんな恥辱、生まれて初めて、いや、二回目か。あの男がわたしの目の前から消えていったのは、な」
皮肉げに頬がつり上がる。
瞳が、いつの間にか金色に染まっている。
全身が、怒気に包まれて陽炎のように揺らいで見えた。
「わたしは、あの時のわたしではない。わたしは、この時のために鍛え上げたのだ。だから、わたしはわたしの夫を助ける。妻として、当然の権利を行使する。それを邪魔するやつは、誰であろうと、例え夫の初恋の女性であろうと、許さん。八つ裂きにしてくれる」
鬼が、吠えた。
少年を、戦慄が突き抜ける。
インユェは、歯を噛んで体の震えを殺した。
そうしなければ、自分は二度とこの女の前に立てなくなる。
きっと、小便を漏らすだろうと思った。
そんなことは認められない。もう、そんな自分はまっぴらごめんだった。
強くなる。強くなりたい。その思いが、今の少年を支えている。
痛む四肢に怒号を飛ばして、立ち上がる。
そして、よろよろとみっともなく歩き、テーブルに着いた。
目の前に、不細工な料理が並んでいた。
自分が作れば、もっと見栄えよくできるのに。
ふん、と鼻を鳴らして、箸を手にした。
初めて食べる姉の手料理は、旨くもなく、不味くもなかった。
「わたしの名前はジャスミン。ジャスミン・ミリディアナ・ジェム・クーア。しばらくの間、君たち姉弟と行動を共にすることになるだろう。まぁ、よろしくな」
目の前で悠然とコーヒーを啜る女。
インユェは目の前の女を睨み付け、口いっぱいにメイフゥの作った朝食を頬張りながら、忌々しそうに言った。
「俺の名前はインユェ。銀色の月って書いてインユェだ。よろしくな、くそおんな」
咲き誇る竜胆のように鮮やかな、紫色の瞳が、憎悪に似た色で染まっていた。