懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他) 作:shellfish
◇
最初に聞いたのは、両親の声だった。
「おい、よくやった、メグ!子供だ、俺達の子供だよチキショウ!」
「ええ、あなたにそっくり…きっと、頭のいい、優しい子になるわ…」
「何言ってるんだ!ほら、目元なんてお前にそっくりじゃないか!この子は美人になるぞ!チキショウ、誰にもわたさねえぞ!この子は俺と結婚するんだ!」
「ふふ、それじゃあ私は捨てられちゃうのかしら?」
「バカヤロウ!俺がお前を捨てれるわきゃねえだろ!俺は、お前と結婚したままこいつも嫁にしてやるんだ!」
「そんな、無理よ。だって、この星の法律では、一人の旦那さんは一人の奥さんしかもてないわ」
「なら、その法律を変えてやる!見てろ、俺はこの星の知事だろうが総理大臣だろうが、なんにだってなってやるんだ!」
なんだか、よく分からないことを言っていた。
それでも、何故だか、とても嬉しかったのを覚えている。
◇
最初に見たのは、両親の顔だった。
多分、生まれてから二日目のことだ。瞼は重たくて持ち上がらなかったけど、瞼を透過する太陽の光が、二回くらい明るくなってから暗くなったから。
「すげえ!見てみろ、メグ、こいつの瞳!」
「ほんと…なんて綺麗な緑色…まるで、エメラルドみたい…」
「あははは、こいつはすげえ!俺のは茶色、お前のも茶色なのに、この子はこんなに綺麗な緑色だ!こいつ、すげえよ!きっと、神様に愛されてるんだ!」
「…あなた、私を疑わないの…?」
「馬鹿言うな!俺はな、お前を疑うくらいなら、目と耳と口を縫い付けて自分の部屋に閉じこもった方がいくらかましだって思ってるんだ!いいか、メグ!もしも同じことをもう一回でも言ったら、いくらお前でも許さないからな!」
「ええ、ええ、分かったわ、アート。もう、こんなつまらないこと、一度だって口にしない。だから、一度だけ言わせて。ありがとう、あなた」
初めて見た母の顔は、ビックリするくらいに綺麗で、夕焼けみたいに赤かった。
きっと風邪でも引いているのかなと思ったけど、何だったんだろう。
◇
最初に話したのは、生まれてから二週間後だった。
今までだって、散々しゃべりたかったのに、喉が上手く動いてくれなかったのだ。
だから、初めて自分の意志を言葉に出来たときは、飛び上がるほどに嬉しかった。
「…お、かあ、さん…」
「…え?」
「お、かあさん…」
「…え、エディ…?」
「おかあさん、だいすき…」
「そんな、そんな、何であなた、しゃべれるの…?」
母は、何故だかとても怖がっていた。後から知ったのだが、赤子は半年くらいはほとんど何も話せないという。それに、話し始めも「まんま」とか「わんわん」とか、そういう言葉らしい。
私は、そんなことは知らなかった。それに、私は大抵のことは一度聞けば忘れないのだ。あとはそれを操るだけなのだから、他の皆がどうしてそんなに長い間何も話せないのかわからない。
そもそも、そんなに長い間自分の意志が伝えられないなら、どうして人は生きていけるのだろうか。子供は、早く独り立ちしないと親に見捨ててられてしまうものだと思っていた。
私は、父親と母親に認められたくて、必死だった。
なのに、お母さん。どうして、そんなに怯えた顔をするの?
「おかあさん?」
どうして、何も応えてくれないの?
私は、心底不思議だった。
◇
初めて立ち上がって歩いたのは、生まれて一月後のことだった。
どうしてこんなに不安定な姿勢で移動しなければいけないのか、わからなかった。
人には四本の手足があるんだ。ならば、その全てを使ったほうが安定するし、第一相応しいじゃないか。ほら、二つしか輪っかのない乗り物よりも、四つの輪っかがある乗り物の方が安定するでしょ?
だから私は、四本の足で歩く方が好きだな。
でも、知ってるよ。人間は、どうしたって二本の足で歩く獣なんだ。
だから、私は二本の足で歩いたの。もう、お母さんを怖がらせたくなかったから。
「おかしいわ、アート!この子、絶対に普通じゃない!」
「落ち着け、メグ!」
「この子、ハイハイだってしなかった…!ハイハイだってしないで、掴まり歩きだってしないで、どうしていきなり歩けるの!?」
「それはこの子が神様に愛されているからだ!こないだ、そう話し合ったじゃあないか!」
「そんなの、私達の子供じゃない!」
「メグ!」
「私が欲しかったのは、私だけの、私達だけの子供よ!神様なんて、そんな訳の分からないものが愛した子供じゃない!」
「メグ、止すんだ!エディだって聞いているんだぞ!」
「いいじゃない!あの化け物に、聞かせてあげればいいんだわ、一体自分が何者なのかって!神様に愛された!?結構じゃないの!それなら、きっと私達の愛情なんて無くったってすくすく成長するんだわ!」
「メグ!」
ぱぁん、と、何かが何かを叩く音が聞こえた。
お母さんが、凄い勢いで居間から飛び出して、そのまま自分の部屋に駆け込んでいった。
途中で、私に目も向けてくれなかった。
私は、いつまで廊下にいればいいのかな。もう、三日もここにいるのに。そろそろ、お母さんの匂いが恋しいのに。
お腹も、へったなぁ。
◇
初めてお客さんが来たのは、生まれてから半年が経った日だった。
綺麗に髪を撫でつけてぱりっとしたスーツを着た、見るからに人好きのする笑顔の男性が、突然に私の家を訪れた。
「―――どうでしょうか、ヴァルタレン卿。貴方方の愛するご息女にとっても、決して悪い話ではないかと思いますが」
「…しかし、あの子は我々の子供だ。そのように無責任な…」
「ええ、お気持ちはお察しします。しかし、これは厳然たる事実なのです。貴方方が御存じではなくとも当然ですが、悲しいかなごく稀に、エドナ嬢のような子供が生まれてしまう。我々は、それを特異能力者と呼んでいます」
「特異能力者…」
「特異能力それ自体はなんら問題無い。寧ろ素晴らしいことと言ってもいい。通常の人間とは比べものにならない程に高いレベルの能力を生まれ持っているわけですからね。しかし、それが彼女の幸福に直結するかといえば、それはやはり別問題であるといわざるを得ません。もちろん、彼女が特異能力者として生まれたことについて、誰にも責任はありません。貴方にも奥方様にも、無論エドナ嬢ご本人にも、です。重要なのは、彼女という存在を普通の子供と同じような形で社会に溶け込ませたのでは、誰一人幸福にならないと、そういうことです」
「そんな…」
「私とて、このように非道なこと、進んで申し上げたいわけではございません。しかし、考えてみてもください。生まれて二週間で言葉を話し、一月で自在に歩き回る。そのような子供が、他の子供にどのような影響を与えるか」
「…」
「遠からず、彼女は他の子供に排斥されるか、それとも彼女の方から積極的に他の子供を排斥にかかるでしょう。もちろん、それは彼女の責任ではない。それが、人間社会というものの脆弱さなのです。いや、ある面ではそれは自衛機能なのかも知れない。異分子を排除することで群れの遺伝子プールを正常に保つための、ね」
「あの子は…あの子はそんな、化け物じゃあ、ありません…」
「親として、貴方が彼女を信じたい気持は痛いほどによく分かります。私自身、二児の子供です。彼らは、私自身の命にも等しい存在だ。もちろん、貴方にとってのエドナ嬢も同じでしょう。その子が、赤の他人からまるで化け物のような扱いを受けたのでは、憤られるのも当然というものです。もしも私が貴方と同じ立場に立たされれば、このように無礼な客、殴り飛ばして玄関から放り出しているでしょう。私は貴方の寛容に、心から敬服申し上げます。正直に申し上げれば、私は今日ほどに仕事場に出かけるのが嫌だった日もありません」
「…」
「しかし、ヴァルタレン卿。私は、貴方や貴方の娘さんが憎くて、このような事を申し上げているのではありません。そのことだけは、分かって下さい」
「…はい。それは、ええ、わかる…つもりです」
「結構。であれば、よく考えて見て下さい。今後、あの愛らしい、正しく天使のような子供にとって、どのような環境で育つのが最も幸福か。果たして、貴方方だけでこの子を幸福にすることができるのか」
「そんな…私達には…一体どうしたらいいか…」
「結論を急ぐ必要はありません。幸い、時間は我々の味方です。よく考えて、そして最良の結論を導き出して下さい。無論、貴方方夫婦と、何よりもこの子にとって最良の結論を、です。そのためならば、我々は協力を惜しみません。いつでもご相談ください」
「…これは…?」
「私のデスクへの直通回線の電話番号です。今日は、ここらへんで引き上げさせて頂きます。もしよろしければ、またご連絡ください」
男は、小一時間話すと、何事も無かったかのように帰っていった。
途中で、私と目があった。
男は、にこやかな微笑みを私に向けた。まるで、トカゲか蛇が笑ったような、どうにも気持の薄ら寒くなるような微笑みだった。
気持ち悪い!
お母さん、お母さん、私を抱き締めて!
お父さん、私を離さないで!
私、ずっと良い子でいるから!
◇
初めて両親のもとから離れたのは、生まれてからちょうど一年が経った日だった。
黒塗りの、ぴかぴかとした車が、家の前に止まった。
私は、きっとこれに乗って、どこかのレストランに行くのだろうと思った。人間は、子供や恋人の誕生日を、そうやって祝うものだと知っていたからだ。
その頃の私にはもう歯も生え揃っていたので、あまり固くないものであれば自分で咀嚼して食べることが出来た。だから、レストランのメニューに並んでいるだろう、プリンやケーキなんかに思いを馳せて、私の胸はどきどきと高鳴っていたのだった。
なのに、様子が少し、おかしかった。
こんな、ぴかぴかの車で行くのだから、きっと値段の高いレストランに行くのだと思った。なのに、お父さんもお母さんも、普段通りの格好のままだった。そういうところにはおめかししないと入れてもらえないと知っていた私は、この二人が早く着替えてくれるようにと願ったものだ。
「エドナ」
「どうしたの、おとうさん?」
「良い子で、いるんだぞ」
ぎゅう、と抱き締められた。
お父さんは、泣いていた。
「エドナ」
「どうしたの、おかあさん?」
「ごめんなさい…あなたのお母さんになれなかった、私を許して…」
ぎゅう、と抱き締められた。
お母さんは、泣いていた。
「時間です」
黒い車から、綺麗に髪を撫でつけてぱりっとしたスーツを着こなした、どこかで見たことのある男が降りてきた。
その表情は沈痛そのものといった様子だったが、体のどこからか、強い安堵の香りが漏れ出していた。
そう、長い間時間を掛けた大仕事がやっと終わったと一息吐く、そんな感じの、安堵に満ちた香り。
「ご息女は、我々が責任をもって育ててみせます」
「はい。しかし、ここでもう一度だけ誓って下さい。貴方自身にではなく、連邦政府の名にかけて」
「はい、ヴァルタレン卿。何にだって誓わせて頂く。我々連邦政府は、エドナ・ヴァルタレン嬢を、必ず幸せにしてみせます。私の誇りと、我々が頂く連邦憲章に謳われた、万人が幸福を享受する権利にかけて」
男は、とても力強く、そう言った。
お父さんは、確と頷いた。
お母さんは、泣き崩れた。
私は、きょとんとしていた、と思う。
「おとうさん、おかあさん、このひとはなにをいっているの?」
「エドナ、よく聞きなさい。もう、お父さんはお前のお父さんじゃなくなるんだ。そして、お母さんもお前のお母さんじゃなくなる」
「よくいみがわからないわ。おとうさんはわたしだけのおとうさんだし、おかあさんはわたしだけのおかあさんじゃない」
「…ああ、そうだエドナ、その通りだ。相変わらずお前は頭が良いな」
ごしごしと、お父さんの大きな掌が、頭を撫で回してくれた。
お父さんは、私が算数のドリルを解いたり、子供向けの漫画を読んだりする度に、こうやって私を褒めてくれる。少しだけ、寂しそうに。
私は、心底それが嬉しかった。
「えへへー」
「お前は、俺達の天使だ。でも、俺達だけの天使じゃなかった。その金色の髪も、エメラルドみたいな瞳も、きっと俺達以外の誰かのために用意されたものだったんだ」
「おとうさん、それはちがうわ。エドナは、おとうさんとおかあさんだけのこどもだよ」
「…ああ、そうだな。そのとおり、だな…」
また、ぎゅうと抱き締められた。
少し強すぎるくらいの力が込められていたから、私はちょっぴり苦しかったけど、でも我慢した。
だって、お父さん、泣いていたもの。だから、私が我慢してあげないといけないんだって分かっていたから。
「ヴァルタレン卿…」
「ええ、分かっています…。分かっています…」
父は、名残惜しそうに私を離して、立ち上がった。
私はその男に手を引かれて、そのまま車の後部座席に乗せられた。この男と手を繋ぐのはとても嫌だったけど、でもお父さんがそうしなさいって言うから、そうした。
車が、鈍いエンジン音を立てて、発進した。
私は、後ろの方を振り返った。そこには、お父さんに寄りかかって泣き崩れるお母さんと、私に向かって手を振るお父さんがいたから、私は手を振り返した。そしたら、お父さんは笑ってくれた。今までで一番寂しそうに、そして辛そうに。
間もなく車は曲がり角を曲がり、二人の姿は見えなくなってしまった。
それでも私は、ずっと後ろの方を向いていた。
「アルファに連絡。ブラボーは目標を確保した。繰り返す、ブラボーは目標を確保した。オーバー」
そんな冷たい声が聞こえたけど、私はずっと後ろを見ていた。
ずっと見ていた。
◇
それからのことは、あまり書きたくない。
だって、痛いか、苦しいか、寂しいか。
その、どれかの文字で埋め尽くされてしまうからだ。
でも、三つだけ。
◇
私に初めて友達が出来たのは、お父さんとお母さんと別れてから、五年が経った頃だった。
もう、毎日の感覚がなかったのだけれども、多分それくらいだと思う。真っ白な部屋に入れられてから、意識があるときは、食事の度に床に傷を付けていた。その数が三千本を越えた頃だった。意識を失ったまま、あるいは手術台で一日を過ごし事も珍しいことではなかったから、その分を足してやれば多分それくらいだ。
その頃の私は、凄く荒れていた、と思う。
いや、寧ろそれまでの私が、私ではなかったのだ。それが薬物投与や、それとも頭の中を弄くられた結果なのかは分からない。しかし、私は自分がこんなところにいてはいけない、自分は人間の群れの中にいてはいけないと、強迫観念にかられるように、そう信じていた。
全く皮肉なことではあるが、そういう意味ではあの男の言は正しかったのだろう。
私は、ひとではなかった。
私は、狼だったのだ。
出せ。
ここから、出せ。
この地の底から、私を、解き放て!
漆黒の森に、新緑の草原に、紺碧の大海原に!
私は、この体は、そこにいるべきものだ!
叫んだ。
暴れた。
噛み付いた。
その度に、ばちばちと弾けるように痛い何かを押し付けられて、ベッドの上に縛り付けられて、三日間くらいは折檻された。それは、とても痛かったから、とても嫌だった。でも、それ以上にこんなところで一生を過ごすのは嫌だった。
そんなことでは、大地を駆け抜けるためのこの脚が、風の匂いを嗅ぐためのこの鼻が、獲物の肉を切り裂くためのこの牙が、あまりに可哀想すぎるではないか!
痛いのは、皮膚でもなければ痛覚神経でもない。私の脳だ。魂だけだ。
私の魂だけだ。
それ以外の部分、私を私たらしめる部分は、痛みを感じていない。
痛みを感じることすら出来ずに、その無念を飲み込んでいるのだ。声にならない悲哀の叫びをあげながら!
それ以外の部分を救うために、私の脳は我慢しなければいけなかった。我慢して、我慢して、我慢して。
私は、狼で在り続けた。
『おい、あれ、何やってんだ?』
『ああ、お前、ここに来てまだ日が浅いか?あれはな、地面に穴を掘ってんのさ』
『コンクリートの床に、素手でか!?』
『ああ、なんてったって、あいつは■■だからな』
かりかり、かりかり
『しかし、いくら■■だっつっても、そんなことしたら…』
『ああ、爪が剥げるわな。だからよく見てみな』
『…うわ、アレ全部、生爪かよ!?』
『ココがいかれてんだよ、なんてったって■■だ』
かりかり、かりかり
『でも、一体どうしてあんなことしてるんだ?』
『さぁ?■■の考える事なんて、人間様に分かるわけないだろうが』
『にしても、あんなに必死になぁ…』
『きっと、穴を掘ってその中に糞でもしたいんだろう。さ、飯にしようぜ』
かりかり、かりかり
『おい、あれ、何やってんだ?』
『ああ、お前、ここに来てまだ日が浅いか?あれはな、いかれてんだ、それだけさ』
『でも、いくらいかれてるからって、あんなに必死に鉄格子を噛むものかね?』
『いかれてんだよ、なんてったって■■だ』
がじがじ、がじがじ
『それにしたって、血が吹き出てるぞ』
『ああ、もうあいつの歯はほとんど残っちゃいない。あいつの足下を見てみな』
『…うわ、アレ全部、砕けた歯かよ!?』
『だろ?俺もここに初めて来たときはさ、驚かされたもんさ。その時は、素手で床に穴を掘ろうとしてたかなぁ』
がじがじ、がじがじ
『でも、一体どうしてあんなことしてるんだ?』
『さぁ?■■の考える事なんて、人間様に分かるわけないだろうが』
『にしても、あんなに必死になぁ…』
『きっと、鉄格子を食い物と勘違いしてんのさ。さ、俺達も飯にしようぜ』
がじがじ、がじがじ
抵抗しろ。抵抗しろ。
最後まで、諦めるな。戦い続けろ、最後まで。
それが義務だ。この体に宿った魂としての、狼の主たる私の義務だ。
そして、この体を、太陽の下に。
この体を、兄弟の、仲間達のところに。
いつの日か、いつの日か。
『ねえ、貴女は、どうして■■って呼ばれてるの?』
いつも通り、拘束具に包まれて床に放り投げられた私に、誰かが話しかけてきた。
もう、ほとんどの歯が抜け落ちた口では、隙間風のような声しか出せなかったが、私は答えた。
『わたしが、おおかみだからだ』
白い服に身を包んだ、可愛らしい看護婦は、興味深そうに私の目を覗き込んだ。
『あなた、狼になれるの?』
『いや、私は狼にはなれない』
『■■なのに?』
『それはただの渾名、もしくは私を示す記号だ。私の魂は、きっと君と同じ、人間だよ』
その日の会話は、それだけだった。
彼女は私の口に流動食のチューブを差し込み、そして檻の中から出ていった。
その日の、血の味の混じったどろどろとした液体は、いつもよりも少しだけ美味しい気がした。
それから、彼女との会話が、唯一の楽しみになっていた。
『へぇ、外の人達は、そんなことをして遊ぶのか』
『ええ、これくらいのボールを蹴ってね、それを相手のゴールに入れたら得点、そして得点の多い方が勝ちよ』
『どうして、手で運んじゃあ駄目なんだい?』
『それがルールだからよ』
『変なの』
『ねえ、■■。貴女の髪の毛って、とっても綺麗ね』
『そうなのかな。よく分からないよ』
『ううん、とっても綺麗。まるで、細く鋳梳かした黄金を身に纏ったように見えるわ』
『黄金って何?』
『ええと、言葉で説明するのは難しいわね。…これのことよ』
『ああ、君の耳飾りに使っている、この素材か。うん、とっても綺麗だ』
『貴女の髪も、これくらいに綺麗なのよ。太陽の下ならとっても映えるんでしょうけど…』
『…■■。起きてる?』
『どうしたんだい、シャム、そんな真剣な顔で』
『明日、貴女にまた、検査が施される』
『ああ、知っているよ。また内蔵をこね回されるのかな?私、あれは嫌いなんだけど』
『その時に、貴女の麻酔を抜く。水で薄めて、ほんの少し体が重たくなるくらいの量にしておくわ』
『それって、私に死ねって言ってるのかな?』
『そして、手足の拘束も緩めておく。私が何を言ってるか、分かるわね?』
『シャム…どうして君が、そんな…』
『私はね、太陽の下で輝く、貴女の瞳と髪を見たくなったの。それだけよ』
◇
私が初めて友達を失ったのは、その翌日だった。
『起きているか、■■』
気に食わない、声がした。
いつも私の体を弄くり回し、その度に、脚をもがれたバッタみたいに跳ね回る私の体を、下卑た視線で眺める、男だ。
あの、髪を綺麗に撫でつけてぱりっとしたスーツを着た男と、どこか似ている気がした。
その男が、何かに酷く怒っていた。いい気味だと思った。
『自分が何をしたのか分かっているか、■■』
『…私は、君が何を言っているのか、分からない』
『では、君の回りを見たまえ』
私は、体を起こそうとした。でもやっぱり、体は何か重たいものに縛り付けられてたから、体を起こすことは出来なかった。
なのに、私の嗅覚は、この部屋で何が起きたのかを正確に把握していた。
『何人死んだ?』
『…六人だ。さぞ満腹だろうな、化け物!』
『満腹?』
『そうだ、貴様は、その呪われた力で皆を引き千切り、その血を舐め啜ったのだ!覚えていないとはいわさんぞ!』
『悪い、覚えていない』
正直に言ったら殴られた。
理不尽だと思った。
じくじくと痛む鼻頭から流れ落ちるどろりとした血が、唇の中に流れ込んできた。そのせいで、果たして元々口の中に血の味があったかどうか、分からなくなってしまった。
それでも、事態は明白だ。
どうやら、私は失敗したらしい。
きっと、初めて見る他人の血に、狂ってしまったのだ。今までの、溜まりに溜まった、澱のような怒りが爆発してしまったのだ。
そんなもののせいで脱走に失敗するとは、間抜けな話である。
誰よりも、シャムに悪いことをした。きっと、手酷く叱られてしまっただろう。
『どうだ、少しは思い出したか!?』
『いや、ちっとも。しかし…』
『…しかし何だ、化け物』
『その割には、あんたは平気そうなんだな。私なら、まず真っ先にあんたを喰い殺しそうなものだが』
もう一度、思い切り殴られた。
今度は、鼻の奥で、鈍い音が鳴った。
なるほど、こんなにひょろひょろでやせっぽちの老人でも、思い切り殴れば鼻の骨の一つも折るくらいは出来るらしい。
ごぼごぼと、喉の奥に血が逆流した。
『貴様が、貴様が…!』
『…ごほっ。どうしたんだよ、お前らしくもない』
『娘が、娘が、貴様から私を、私を…!』
怒りと悲しみに震える男の手には、どこかで見たような、きらきらとした耳飾りが握られていた。
それは、私の髪と同じ色の、きらきらとした耳飾りだった。
『あー…なんていうか、その、さ』
『…』
『あんたとシャムってさ、ちっとも似てないよね』
その日、私はかつてない程にばらばらにされた。
麻酔は、シャムが作った、水で薄めたものだった。
それでも私を殺さないあたり、この男の医者としての能力は相当に高いものだったようだ。
◇
私が初めて私を見たのは、最後の時だった。
いつもと同じように目を覚ました私は、ぷかぷかと浮いていて、上の方から私を見下ろしていた。
生まれて初めて、鎖から解き放たれたような、そんな気がした。
そして、私はどきどきしていた。だって、私は初めて見ることが出来るのだ、自分の顔を!みんなが天使のようだと褒めてくれた私の顔は、一体どんなだろう。
そして、自身の顔を見てみて。
私は、がっかりした。シャムが褒めてくれた、私の髪と瞳を初めて見ることが出来ると心躍らせたのに、なんてことはない、彼女は嘘を吐いていたのだ。
そこには、綺麗な緑色の瞳も、金色の髪の毛も、なかった。
そこに寝転んでいたのは、薄い、ほとんど何の色にも染められていない、辛うじて茶色と呼べるかどうかと言う程度に色づいた濁った瞳と、糸くずみたいにぱさぱさの、真っ白の髪をした、お婆ちゃんだった。
私は一体、それほど長い間、ここにいたのだろうか。てっきり、私は十年くらいしかいなかったんだと思ってたのに。私は頭を捻った。
それにしても、酷い有様だった。
頭を、所々血で滲んだ包帯でぐるぐる巻きにされ、ところどころからよく分からない針みたいなものが飛び出して、それが部屋を埋め尽くした機械に繋がっている。
顔は皺で覆われ、ぼんやりと、宙空に浮いた私を見つめるようにぼんやりと開いた瞳は、しかし何にも映さずに、ぱりぱりに乾いている。
体には、頭に突き刺したのとは違う種類の針と、チューブみたいなものがいっぱい突き刺さっていた。生きることを諦めた体を生かすためには、これくらいの装置が必要になるのだろうか。
その機械の一つに、ほとんど上下しない波線が描かれて、その横によく分からない数字が書かれていた。
一体なんだろうと思ってみていたら、波線はやがて直線になり、その横の数字はゼロになってしまった。もう、それを見ていても面白くないから、私は地上に飛び出た。ただ、この体を一緒に連れて行ってあげることが出来ないのが、唯一心残りだった。
◇
それ以上のことは、既に彼女を止めてしまった彼女のことだ。ここに書き記す意味はない。
ただ、久しぶりに彼女が見た両親は、十歳程度の可愛らしい子供を育てていた。その髪の毛は陽光に煌めく黄金ではなく、その瞳は両親と同じ濃茶色だった。
三人は、とても幸せそうだったから、彼女もとても嬉しかった。
それが、俺の見た、