懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)   作:shellfish

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第四十四話:Alea iacta est

 朝食が済んだタイミングを見計らうようにして、ジャスミンの手首に巻かれた通信機が、電子音を鳴らした。

 

「朝ご飯は終わった?」

 

 年若い女性の声が聞こえた。

 綺麗な発音で、堂々とした声だった。声の若さの割に、やや落ち着きすぎている気すらしてしまう。

 その声の主に、ジャスミンが答えた。

 

「ああ、ちょうど終わったところだ」

「そう、よかったわ。じゃあ、そろそろね」

 

 嬉しそうな声に、何か、怖いものが混じっている。

 その声を聞くジャスミン以外の二人──メイフゥとインユェの耳に、ぞくりと、背筋を冷たい指でなぞられたような違和感が走った。

 遊園地で風船を配る可愛らしいマスコットキャラクターの、風船を配るその手に、鋭い刃物を見つけてしまったような違和感、そしておぞましさ。

 だが、その気配を放っているのは、姿の見えない声の主だけではなかった。

 

「ああ、そろそろだろうな」

「そろそろ、こちらの番よね」

「そうだ、何だってそうだ、オフェンスとディフェンスの役割は入れ替えてもらわないと、ゲームも面白みがなくなってしまうからな」

「おいたの過ぎる悪ガキには、きつくてでっかいお灸を、たっぷりと据えてあげないとね」

「正しくそのとおりだ。それはもう、嫌と言うほどに、嫌と言おうが泣き叫ぼうが聞く耳を持たないほどに、でっかくてきっついお仕置きが必要だとも」

「うふふふ」

「ふははは」

 

 ちっとも笑っていない声と顔で、二人の女傑は高らかに笑った。

 姉弟の背に、じとりと冷たい汗が滲んだ。

 この場合、恐ろしい味方というのは心強い味方のことと同義なのだが、何故か今の会話を聞いているとそうは思えない。強烈な抗がん剤が患者自身に強い痛みをもたらすように、あの二人は味方にとっても劇物なのではないだろうか。

 心持ち顔を青ざめたインユェが、隣に立った姉に、小声でささやく。先ほど、目の前の正体不明の女に痛めつけられた、体の節々が不吉に痛んだ。

 

「おい、メイフゥ。通信機の向こう側の奴はともかく、あのでかおんなは何者だよ。お前の知り合いなのか?」

 

 同じく声を潜めたメイフゥが、硬質な金の髪をがしがしと掻き回し、

 

「あたしだって、あの人が何者か、詳しいところは知らねえんだよ」

「知らねえ……って、そんな暢気なこと言ってて大丈夫かよ。これから、間違いなく荒事が待ってるんだぜ。いざって時に足を引っ張られたらかなわねえぞ」

「ああ、そいつは大丈夫」

 

 メイフゥは、頬を引き攣らせるように笑い、

 

「あの人、あたしより強えもん」

 

 その言葉を聞いたときのインユェの顔は、いっそ見物というべきであった。

 普段は端正な、そして僅かに険を含んだ表情が、見事なまでに抜け落ちて、これ以上ないというくらいに呆気にとられた顔になる。

 目は大きく見開かれて、顎が床に付きそうなくらい、だらしなく口が開かれる。

 鼻水が垂れていないのが不思議と思えるほどに、間の抜けた顔だった。

 

「お、おいおい、姉貴よう、今がどういう状況か分かってんのか?そんな、笑えない冗談を飛ばしてる場合じゃねえだろうが」

「ああ、その通りだな、お前にしちゃあ珍しく正論を吐くじゃねえか。だから、あたしは一言だって嘘は吐いちゃいねえよ」

「……冗談だろ?」

「何度も同じことを言わせるなよ。あの人はな、あたしと正面から、素手で、一対一で戦って、あたしを叩きのめしてくれたんだ」

 

 少年は、耳を疑った。次に、姉の正気を疑った。最後に、これが現実かと疑った。

 姉が、いつもいつも自分をこてんぱんにやっつける姉が、負けた。

 しかも、女に。

 ありえない。故郷の星でも、姉は最強だったのだ。どれほど腕に自信のある荒くれ者でも、片手であしらう姉である。本気の姉と正面から戦って生きていられるのは、自分達の育ての親であるヤームルくらいだろうと、弟であるインユェは信じていた。

 それが、負けた。

 目の前の女に。

 

「……信じられねえ」

 

 というよりは、信じたくないのである。

 それなりに腕に覚えのある人間は、自分の傍にいる最も強い人間をこそこの世で一番強い人間だと、我知らずに思い込んでしまうものなのだ。それが、自分を軽くいなすような強者であれば尚更である。

 インユェも、そう思っていた。姉は最強である、と。この世に、姉に勝てる人間はいない、と。

 その姉が、負けた。

 しかも女に。

 同世代のうちでは比較的現実対処能力の高いこの少年も、それを信じることができなかった。

 

「それとな、インユェ。もう一つ、信じたくないことを教えておいてやるよ」

 

 メイフゥは、自分よりも背の低い弟の肩を、優しく叩き、

 

「その人のケツをベッドの上で引っぱたいてやるって、さっき言ったんだぜ、お前」

 

 一瞬、なんのことを言われたのか分からない顔をしたインユェだったが、事態の恐ろしさに思いが至ると、滑稽なほどに狼狽した。

 元々色素の薄い肌の色は、皮膚の下にある血管が透けて見えるくらいに白くなっているし、サウナに入ったみたいに汗をだらだらと流している。おそらくは、全てが精神性の脂汗だ。

 インユェは、視線で姉に救いを求めた。嘘だと言ってくれと、必死にすがりつく。

 返答は、無慈悲であった。メイフゥは、心底お気の毒といったふうに、目を閉じながら首を横に振った。

 

「お、お姉ちゃん、どうしよう、おれ、殺される!」

「知るかよ、ばーか」

「し、知るかよって、そりゃねえよ、お姉ちゃん!」

「いい男ってのはな、てめえのけつくらいてめえで拭くもんだ。謝るなりぼこられるなり、さっさとかたをつけてこいよ」

「お、お姉ちゃん!」

 

 少年の姉は、いかにも無情な様子で割り当てられた自室へと引き上げた。

 目の前でバタリと閉じられた木の扉が、少年の瞳には絶望の象徴に思えた。

 椅子から半分腰を浮かした少年が、おそるおそると振り返る。

 そこには、歯を剥いた虎のような表情でこちらを眺める、長身の女がいた。

 

「さて、インユェといったか。君の姉の実力は嫌というほどに理解させてもらっているが、君がどの程度使えるのか、知っておきたい。腹ごなしに、どうだ?」

 

 手には、練習用ではない、実戦用のロッドが二本。

 くい、と顎でしゃくるようにして、表に出やがれと促している。

 

「ベッドの上で尻を叩かれて悦ぶ趣味は残念ながら持ち合わせていないが、こいつで殴ったり殴られたりにはそれなりの造詣がある。このわたしに、あそこまで啖呵を切ったんだ、まさか腹が痛いとか、そういう情けない逃げ口上は言わんだろうな」

 

 ──ああ、ウォル。俺はここまでみたいだ。願わくば、君の前途に幸多からんことを……。

 

 思い切りに項垂れた、死人のような顔色のインユェは、とぼとぼとした足取りで、先に外にでたジャスミンの後を追った。

 

 

 自室に引き上げたメイフゥは、大柄な体をベッドに横たえ、何となく天井を見上げていた。

 なんとも味気ない幾何学模様を目で追いながら、ぼんやりと考える。

 ついこないだまで、自分達の身に、こんな厄介事が起きるなんて考えてもみなかった。 

 父親の顔は、ほとんど覚えていない。母親は、そんな父に恨み言の一つを零すでもなく、自分達を女手一つで育ててくれた。

 その母親が、死んだ。

 だから、自分達は旅だった。もう、故郷の星にいる理由がなかったから。

 引き留めてくれる人も、少なからずいた。そのことが、メイフゥには意外であった。中には、自分に手酷く痛めつけられたはずの少年がいて、顔を真っ赤にしながら、自分と一緒になってほしいとまで言ってくれたのだ。

 そのときのことを思い出すと、少女の秀麗な顔に苦笑いが浮かんだ。

 あのとき、もしも頷いていたら、自分にはどんな人生が待っていたのだろう。故郷の、草の海に埋もれるような、狭く小さな家々。自分も、母親やたくさんの女達と同じようにその中で、子を産み、育て、そして緩やかに満足しながら死んでいったのか。

 そんなの、ちっとも自分らしくない。それでも、そういう幸せに憧れない女がこの世のどこにいるだろう。

 

「ああ、こんなの、たかだか十四の女の子、花も恥じらう乙女の考えることじゃあねえよな」

 

 少し眠ろうと思っていたメイフゥであったが、くだらないことに思いを馳せて目が覚めてしまった。無理に眠ると体が重たくなるから、それは嫌だった。

 如何にも億劫そうな様子で体を起こす。すると、窓の外から鈍い音が響いてくるのに気がついた。

 庭に植えられた灌木の向こうで、燃えさかる赤毛とくすんだ銀髪が踊っている。

 ゆうに頭一つ分は異なる身長の男女──高いのは女のほうである──が、ロッドを手に大立ち回りを演じていた。

 終始優勢なのは、言うまでもないことであるが、女のほうである。インユェは、十分に手を抜いた自分にさえ太刀打ちできない程の実力でしかないのだ。それが、自分を素手で倒してのけるジャスミンに勝てるわけがない。

 どうせ二、三度強かに打ちのめされて、それで終わりだろうと思っていた。

 事実、破れかぶれの打ち込みを容易くいなされたインユェは、無様な様子で踏鞴を踏み、その隙に右脇腹──人体の急所、肝臓がある──を思い切り打ち込まれていた。

 ずん、と、耳を塞ぎたくなるような鈍い音が響いた。

 

「え、ぇ、ぇ……!」

 

 少年は、情けない悲鳴を零しながら、蹲る。

 直後にびしゃびしゃと、吐瀉物の零れる音がした。

 少年の、開け放たれたまま戻らない喉から、人のものとは思えないうめき声が漏れ続ける。伏せられたままの顔が持ち上げることはなく、目の前の地面を見つめたままだ。

 

「どうした、それでお終いか」

 

 ジャスミンは無慈悲な視線で少年を見下ろし、ロッドを地面に叩き付けるようにした。

 ばしん、と、耳をつんざくような音が、窓ガラスを振るわす。

 まるで、新兵をしごく鬼軍曹そのままである。

 

「情けない、貴様の姉は素晴らしい戦士だったぞ。その弟だと聞いて少しは期待していたのだが、なよついているのは外見だけではないらしいな。一度死んで、今度は女に生まれなおせ。貴様の器量で女に化ければ、馬鹿な男どもが蝶よ花よと愛でてくれるだろうさ」

 

 インユェが、蒼白になった顔色をそのままに、ジャスミンを睨み付けた。

 口元に、べったりと吐瀉物が張り付いている。乳白色が僅かに黄みがかっているのは、朝食のミルクと胃液が混ざっているからだろう。

 到底立ち上がれる体ではないだろうに、手にしたロッドを杖代わりに、少年は立ち上がった。足下はふらつき、生まれたての子鹿よりも頼りない様子だったが、それでも少年は立ち上がった。

 呼吸が浅いのが、遠目にも分かる。どう考えてもダメージが回復しているようには思えない。

 普段なら憎まれ口の一つでも返すのがインユェの性分であったが、それすらもない。体の隅々に薄い酸素を送り込む作業で手一杯、無駄口を叩く余裕などどこにもないのだ。

 だが、インユェの前に立つ赤毛の女戦士は、何に感慨を抱くでもない、無機質な視線で少年を見遣り、

 

「それでどうした。まさか、立ち上がれば褒めてもらえるとでも思っているわけではないだろうな。貴様は、何のために立ち上がった。その、末期の老人の杖のようにしたロッドは、何のためにある。それとも、貴様が殴れるのは、ベッドの中で服従した女だけか」

 

 インユェの視線に、いっそうの殺気が籠もる。視線だけで目の前の敵を殺せるように、睨み付けている。

 そして、杖代わりにしていたロッドを持ち上げ、上段に構えた。体は震え、手は戦慄き、今にもロッドを取り落としそうな有様で。

 そんな、半死半生の様子の若人に対して、ジャスミンはやはり一切の寛恕なくロッドを構え、再び思い切りに打ち込んだ。

 インユェは、頼りない足取りでその一撃を躱し、がら空きになったジャスミンの頭部に逆撃を叩き込もうとする。

 だが、それすらがジャスミンの誘いであった。

 少年の、おそらくは最後の力を込めた撃ち下ろしを、半身になって躱したジャスミンは、再びがら空きになった少年の右脇腹に痛烈な一撃を打ち込んだ。

 再び響く、鈍く不吉な音。潰れる肉の悲鳴。

 インユェは、もはや呻き声を漏らすことすら出来ずに、その場に崩れ落ちた。

 ダンゴムシのように丸く地に伏せた少年の体が、ぴくぴくと痙攣を繰り返す。

 目が限界まで見開かれ、目玉がこぼれ落ちそうだ。口は、なんとか酸素を取りこもうと窒息寸前の魚のように戦慄くが、肝心の肺が機能を放棄しているから、寸分のガス交換だってできるはずがない。

 分かっていたことだが、勝負ありだ。どう考えても勝ち目のない勝負だったのだ。

 インユェにとっても良い教訓になったはずだった。この世には自分より強い人間など星の数ほどもいて、その中で自分が生きていくためにはどうすればいいのか。無闇矢鱈に牙を見せびらかし、己の威を隠さずに歩けばどういう目に遭うか。それをこの勝負から学び取れないようでは、どうせ長生きは出来ないだろう。

 そう思っていたメイフゥは、窓ガラスに映り込んだ自分の顔に驚いた。

 瞳孔が縦に避け、柳眉が文字通りに逆立っている。鼻の頭に皺が寄り、口が、ほとんど耳まで裂けて、獰猛な牙が剥き出しになっている。硬質な金の髪が逆立ち、親の敵を睨み付けるように窓の外の女性を凝視していた。

 まるで、子猫を守る母猫のような形相だ。

 ああ、あたしは今、怒っているんだな、と、そこで初めて自覚した。

 暫し呆然として、それから窓の外の女性と目があった。

 ジャスミンは、はにかむように微笑んで、片目を瞑って見せた。あんまり怒らないでくれと、そう言われた気がした。

 メイフゥは、赤面した。そも、ジャスミンは本気でインユェを打ってはいない。拳を交えたメイフゥだからこそ、ジャスミンの実力は嫌と言うほどに理解している。もしもあの人が本気でロッドを打ち込んだならば、一撃で肝臓が破裂して、インユェは彼岸へと旅立っているはずだ。

 十分に手加減して、きかん坊の弟を躾けてくれているのである。感謝こそすれ、怒るなど見当違いも甚だしい。

 メイフゥは、肩を落として小さくなってしまった。

 それを確かめたジャスミンは、少しだけ安心したように息を吐くと、自分の足下で蹲っている少年に向けて、

 

「さて、もう終わりかね、少年」

 

 少年は、答えない。そも、聞こえているのかすら確かではない。

 インユェは、その声を聞いていた。しかし、その声を理解することは出来なかった。

 体の中を、単一の、そして圧倒的な感覚が支配していた。

 痛みである。

 脇腹で爆発したそれが、無数の茨となって全身の血管を引き裂いているのだと思った。自分が今、人のかたちをしていないのではないか、無数の肉片に分かたれているのではないかと疑った。

 目を見開いているというのに、すぐ目の前にある芝生が理解できない。その緑が、脳に情報として伝わる遙か手前で、痛みによってかき消されてしまう。

 ならば、ジャスミンの声など、インユェに理解できるはずがないのだ。

 ジャスミンは、肩を一つ竦めた。彼女には似合わず、なんとも後味の悪そうな顔だった。

 

「足手まといだな、貴様は。もう無理することはない。この家でゆっくりと休んでいろ。ヤームルという御仁とウォルは、わたしと貴様の姉が連れて帰ってくる。約束する」

 

 ジャスミンは、少年の肩に優しく手を置いた。

 少年の体が、ぴくりと、怯えるように動いた。

 

「心配はいらん。ウォルも、一筋縄ではいかない男……いや、少女だ。彼女の同盟者であり婚約者である少年からしてそうだからな。ただ大人しく捕まっているとも思えない。わたしの夫もそうだ。上手くすれば救出どころか、反撃だって可能だろう」

 

 その言葉に対して、インユェの反応は劇的であった。

 がばりと、顔を起こす。

 苦悶の汗に塗れ、屈辱の涙に塗れ、鼻水と涎と吐瀉物に塗れた、ちっとも美しくない顔だ。

 蒼白の顔だ。

 それが、僅かに赤らんでいた。頬のとある一点を中心に、少しずつ、しかしはっきりと。

 ジャスミンは、内心だけで僅かにたじろいだ。もう二度と動かないと思っていた、死体のような少年が動いたのだ。しかも、紫色の瞳には、自分に対する敵意ではない、猛烈な敵意が浮いている。

 自分ではない誰かを見ながら、痛みすら忘れる程の殺意をその瞳に宿している。

 

「……な……て……た……」

 

 唇が、蝶の羽音よりも小さく、儚く震える。

 

「……なんだと?」

「いま……なんて……いいやがった……」

 

 かすかな声だった。

 かすかな声のはずなのに、鼓膜を突き刺すような声だった。

 同時に、インユェの蝋人形じみた指が、ジャスミンの軍用ブーツを掴む。

 頑丈だけが取り柄の、軍用ブーツである。掴まれたくらいでは何の痛痒も感じない。

 にもかかわらず、分厚いブーツ越しに感じられる細い指先が、そのまま足首の骨に食い込んでいるような、不気味な感触をジャスミンは味わっていた。

 そして、気がついた。

 少年の表情だ。

 哀れを乞うように顰められていた幼子のそれが、誇りを傷つけられた男のそれに変じている。

 そんな表情を浮かべる男のことを、ジャスミンは知り尽くしていた。

 昔、彼女が所属していた軍の猛者の中に、今の少年と同じ顔をして、上官と決闘した阿呆がいた。

 自分の女を賭けて戦う、男の顔だ。

 そして、先ほどの自分の台詞を思い出す。

 

 ──ああ、なるほど、そういうことか。

 

 少年の内心に理解の追いついたジャスミンは、出来るだけ人の悪い、悪辣な声で、言ってやった。

 

「そうか、君は知らなかったのか。あの少女にはな、すでに婚約者がいる。わたしもよく知る、素晴らしい少年だ」

 

 インユェの顔に、赤みが広がっていく。

 死にかけだった瞳に、色が宿っていく。

 嗚咽を漏らすだけだった口から、歯を食いしばる音が聞こえてくる。

 

「強いぞ、その少年は。わたしよりも強い。わたしも、何度も命を助けられた。力だけではない。本当の意味で強い少年だ」

 

 ──それは、君よりも、な。

 

 無言の声が、インユェの誇りに傷をつけた。

 

「そして、美しい少年だ。彼がウォルと二人で歩けば、それはそれはお似合いだろうさ。一度だって見たことがないが、さぞ目の保養になるだろうな」

 

 ──それは、君とウォルが一緒にいるよりも、な。

 

 無言の声が、インユェの誇りに傷をつけた。

 

「彼らは、わたしたちなどには想像もつかない、深い絆で結ばれているらしい。今まで、幾度となく背中を守り合って戦ったと聞いている。無二の友だと、最高の同盟者だと。ならば、そんな二人が結ばれるのは神様が定めた運命だと思わないか?」

 

 ──だから、君はウォルとは結ばれないのさ。

 

 無言の声が、インユェの誇りに、特大の傷をつけた。

 

「だから、君は眠っていろ。ウォルの婚約者たる少年も、じきにこの星に到着するだろう。ウォルがさらわれたと聞けば、髪の毛を逆立てて怒るだろうからな。そうすれば、いかなる敵であってもものの数ではない。あっという間にウォルを取り返してくれるさ。別に、君がいてもいなくても同じことだ」

「……そうかい……あいつには……婚約者が……いたのかよ」

 

 少年は、呆気なく、ジャスミンのブーツから手を放した。

 握るものを無くした掌が、宙で、如何にも中途半端に開かれたまま戦慄く。

 そして、握りしめた。

 その拳を地面に突き、顔を上げた。

 もう片方の手で、取り落としていたロッドを掴み、膝に活を入れ、無理矢理に伸ばそうとする。

 痛みは、まだ彼の体を支配しているだろう。

 それでも、無理矢理に立ち上がる。このまま眠っているなど冗談ではない、というふうに。

 

「その婚、約者とかいう、野郎が、ウォルを、あの雪山に、一人、置き去りに、しやがった、のか」

 

 ぎりぎりに立ち上がった少年は、膝に手を突き、うつろな視線で、斜めの地面を睨み付けている。

 呼吸が荒い。口の端からは、血の混じった涎がだらだらと垂れている。

 唇の端を、噛み切っているらしかった。

 

「あいつの体、信じられないくらいに冷たかったんだぜ、もう、絶対に助からねえって思った、でも、絶対に助けなきゃって思った、びっくりするくらいに軽かったんだ、あいつの体……」

 

 熱に浮かされるように、ぶつぶつと、言葉を紡いでいく。

 ジャスミンは、一言も言わない。

 突き放すでも受け入れるでもなく、じっと少年を見つめている。

 やがて少年が、ロッドを構えた。

 手は、やはり震えている。足下は覚束ない。痛打を受けた脇腹を庇うような、情けない構えだが。

 少年は、構えた。戦う意志を見せた。

 少年が、戦おうとしていた。

 それを見ていた少年の姉は、ほとんど泣きそうになった。顔を滑稽に歪ませて、瞳の奥から熱い塊が漏れ出しそうになるのを、必死で堪えていた。

 

「あいつを拾ったのは俺だぜ。なら、あいつのご主人様は俺なんだ。なら、俺が、俺の奴隷を、ウォルを助けないで、誰が助けるってんだよ。俺を抜きにしてあいつのことを語るんじゃねえ。婚約者だと?いいじゃねえか、そんなやろう、俺が叩きのめしてやる!」

「いいだろう。やせ我慢でもそこまで啖呵を切れるなら大したものだ。わたし好みだよ、少年」

「少年じゃねえ、インユェだ!」

「言わせてみろ!」

 

 そして、メイフゥは二人から視線を外した。これ以上、涙を流さずに弟の姿を見ることができなかったからだ。

 カーテンを閉め、弟の雄叫びから耳を塞ぐようにして、ベッドに寝転がった。

 再び見上げた天井の幾何学模様は、奇妙に滲んで、なんとも見にくかった。

 

「あーあ、情けないったら。これでも、故郷じゃあ冷血無比でならしたつもりだったのになぁ」

 

 僅かに滲んだ涙を指で拭い、かすれた笑みを浮かべる。

 そうか、こうすればよかったのか。

 今まで、何度となく痛めつけてやった。そうすれば、いつかは自分を跳ね返してくれるのだと期待して。あの時、食料の尽きた極限状態の船で、殺すつもりで襲いかかってもみた。なのに、弟はやられっぱなしで、少しだって自分の思うとおりにならなかった。

 それが苛立たしくて、余計にきつく当たってしまう。その繰り返しだ。

 インユェから戦う術を奪ったのは、自分である。だから、あの子には、できるだけ強くなって欲しかった。

 せめて、今のままの姿で、一人でも生きていくことができるように。

 

『誰にも登れないほどの高みに成っている果実を、強引にもぎ取ろうとするのは馬鹿の仕様です。ただひたすらに果実が落ちてくるのを待つのは、間抜けの仕様です。どうすれば安全に、そして迅速に果実を我がものに出来るか、そのことにこそ頭を悩ませなさいませ』

 

 育ての親の声が、メイフゥの耳に蘇るようであった。

 そうか。最初からこうすればよかったのだ。

 いや、最初も何も、これはインユェが、あの少女を拾ってきたからこそ為せる方法で。

 好いた雌を守ろうとするのは、奪い取ろうとするのは、雄として当然の本能ではないか。

 ああ、あのやせっぽちのはな垂れ餓鬼も、一応は雄だったんだなあ。

 メイフゥは、泣き笑いのような表情で天井を見上げていた。

 天井に、故郷の、草の海が映り込むような気がした。

 さわさわと、耳朶をくすぐる風の囁き。

 背が、草にしみこんだ夜露で濡れる。見上げる蒼天はどこまでも深く、いつの間にか落ちてきているような、浮かび上がっていくような、奇妙な感覚。

 無限に続く、緑の絨毯。白く小さな、自分達の住処。

 

 暗闇。

 

 赤々と、不吉な明るさを帯びた満月。

 血に狂った、狼の群れ。

 どうしてこんなことをしてしまったのか。

 無限の後悔が、足首を掴んで、上手く走ることができない。

 大人には内緒で、弟を連れ出してしまったのだ。

 蛍を見てみたいと、そう乞われたのではなかったか。

 一年の半分を床で過ごす、体の弱い弟だ。

 自分に残された、最後の肉親だ。

 自分が死ぬのは構わない。

 でも、小さな弟が死ぬのは、どうしても我慢ならなかった。

 だから、戦ったのだ。

 無我夢中で戦った。

 初めて、自分がどういう生き物かを知った。

 殺すということが、どれほど恐ろしいことかを知った。

 溢れだした血が、生暖かくて、でもすぐに冷たくなることも知った。

 

『おねえちゃん、こわい……』

 

 弟の、紫色の瞳が、怯えていた。

 紫色の瞳の中で、血に塗れた自分が、嗤っていた。

 すごい顔で、血に酔って、舌なめずりをしながら。

 嗤っていた。

 ああ、インユェ。

 頼むから。

 お願いだから。

 わたしを、おねえちゃんを、そんな目で、見ないで。

 

 どれほどそうしていただろう。少女は、ほとんど白昼夢を見ていた。

 懐かしい夢を見ていたのだ。

 彼女の、一番深いところにある頑丈な箱の、その一番奥に仕舞い込んだ、思い出だった。

 悪いのは、自分だ。悪い自分の、夢だった。

 息を荒くついたメイフゥは、頭の奥に蟠る頭痛を抑えるように、額に手を当てていた。

 その時である。

 隣室の片隅に置かれた小さな機械装置から、軽快な電子音が鳴り響いた。そして直後に、電子音よりも遙かに軽やかな、女性の声が聞こえた。

 

「ジャスミン?ちょっと、ジャスミン、いないの?」

 

 我を取り戻したメイフゥは、素早く窓まで駆け寄り、身を乗り出すようにして叫んだ。

 

「お姉様、電話だぜ。朝方の、例の女の人からだ」

「了解した。すぐに行く」

 

 そう言ったジャスミンの足下には、大の字に寝転んだインユェがいた。

 ぜいぜいと息は荒いが、その眼は十分に生きていた。まだ、戦う意志で充ち満ちていた。

 喘ぎつ途切れつ、必死の有様で言った。

 

「逃げ、るの、かよ、くそ、おんな……」

「毒づくのもいいが、もう少し息を整えてからにすることだ。ちっとも腹が立たないぞ、そんな様子ではな」

 

 ジャスミンが僅かに笑いを含みながらそう言うと、インユェは舌打ちを一つ漏らして黙り込んでしまった。

 起き上がる気配はない。

 ジャスミンは、それを叱咤しなかった。先ほどから、かなり力を込めた攻撃を何度も叩き込んでいるのだし、それでも食らいついて反撃してくる少年には驚かされもした。

 これなら、戦える。少なくとも、己の死を、他人の死を、己の責任として背負い込むことができるだろう。

 今は、少し休ませてやろうと思ったのだ。

 ジャスミンが部屋に戻ると、居間に置かれた大型テレビいっぱいに、美しい女性のかたちが映り込んでいた。

 ふわふわとして色の明るい金髪、澄んだ青色の瞳、きりりと引き締まり豊かな知性を感じさせる顔立ち。しかし口元は花のように綻び、彼女の母性を感じさせる。

 そのことを彼女に伝えれば、いったいどんな顔をするだろうか。自分は機械で、母親になることなどありえないのだから、母性が備わっているという表現は論理的ではないと一刀両断するかも知れない。

 それは、見紛う事なきケリーの相棒、ダイアナ・イレブンスの姿であった。

 

「あら、ご機嫌そうじゃない、ジャスミン」

 

 画面上のダイアナは、きちんとジャスミンのほうに視線を寄越してから、楽しげに言った。

 よく見れば、テレビの上方に、小さなカメラが取り付けられていた。双方通信用のお粗末なカメラだが、ダイアナにしてみればそれで十分なのだろう。

 

「ああ、ご機嫌だとも。蛹が脱皮する瞬間というものは、なんだって心が躍るものだ。それとも、食玩の箱を開ける瞬間、といったほうがいいかな。いったい何が飛び出してくるか分からないというのは、どきどきしていいな。若さが戻ってくるようだよ」

「そう。ジャスミンはああ言ってるわ、メイフゥ。あなたの弟さんって、なかなか素敵なんじゃないの?」

「はん、あれはただのちびがきで、まだまだ尻の青いひよっこさね」

 

 ひよこの姉が、ほんの少しだけ、嬉しそうに言った。

 

「おや、自己紹介はもう終わっているらしいな」

 

 意外そうなジャスミンの声に、メイフゥが頷く。

 

「ああ。この美人さんが感応頭脳だってのが、まだ納得できねえがよ」

「あら。それを言うなら、あなたみたいな可愛らしい女の子がケリーとジャスミンを追い詰めたなんて、わたしだって納得できないわよ」

「そうかい?じゃあ思い知らせてやろうか……って、流石に宇宙船と生身で喧嘩はできねえよなぁ」

 

 メイフゥがなんとも残念そうに言うので、ジャスミンは吹き出してしまった。

 どうやらこの少女は本当に力比べが好きらしい。彼女くらいの年代であれば、普通は色恋やらおしゃれやらで頭がいっぱいのはずなのに、なんとも不思議な少女だ。それに、ダイアナが感応頭脳だと即座に納得できるあたり、現実対処能力も高い。

 まだ幼さの残る少女であっても、戦力としては十分以上に合格点であった。

 

「で、ダイアナ、いったい何の用だ」

「つれないわねぇ。用がなきゃお話の一つもできないの?」

「そうだな、お前からのお茶のお誘いなら喜んで受けたいところだが、その時はもう少し目を楽しませてくれるような格好でいて欲しい。今みたいな格好では、折角の美人が台無しだ」

「そうかしら。これはこれでお気に入りなんだけど」

 

 ダイアナはそう言って、自分を包む装束を見た(……という映像を作り出した)。

 今、ダイアナのほっそりとした肢体を包み込んでいるのは、彼女の瞳と同色のきらびやかなドレスでもなければ、普段の彼女の好むぱりっとした船員服姿でもない。

 頭には無骨な軍用ヘルメット、体には野戦用の迷彩スーツを身に纏い、白皙の頬には泥でペイントが為されている。

 今からジャングルに飛び込む女性兵士のような、物々しい出で立ちだった。

 

「なんでもまずは形からっていうじゃない。気分よ、気分」

 

 うきうきと、これから買い物に行く少女のような表情で、ダイアナは微笑んだ。

 こうなると、ジャスミンは苦笑するしかない。

 

「そんな姿のお前が最前線に出張らなければならない戦いは、すでにこちらの負け戦だよ。で、その格好でお茶のお誘いでもないだろう。本題は?」

「今朝方あなたに依頼されてた件よ」

 

 ジャスミンの顔、にわかに引き締まる。

 瞳が、わずかに金色の輝きを帯びた。

 

「何か分かったか」

「昨日の夜、確かにヴェロニカ陸軍の特殊部隊に出動命令が出されてるわ。あなたの聞いたとおり、命令系統は通常のそれ。要するに、兵隊さん達は正式な任務の一環としてウォルを捕まえようとしたの。そのこと自体に疑わしいところは無かったってことね」

「全てが疑わしすぎることを除けばな」

「命令の発信源を辿ってみたけど、ヴェロニカ陸軍の司令官あたりがきな臭いわ。どうしてそんなお偉方が、あんな少女一人を手に入れようとしたのかも含めてね」

「どうせ、そいつの思惑ではないだろうさ。どこかで横車を押す馬鹿がいたか、それともそんな馬鹿の歓心を買おうとしたか、そんなところだろう」

「それでも、末端の兵隊さん全員を相手取るよりは遙かに効率がいいでしょう。ターゲットの一人として認識しておいた方がいいんじゃない?」

「無論だ。徹底的に締め上げてやる」

 

 まるで、生活指導の教師が不良学生を相手にするような台詞である。

 仮にも一国の軍隊のトップを相手にして言う台詞ではない。

 

「ついでに、あらためてウォルの犯罪歴を調べてみたの」

「どうだった」

「もう、出るわ出るわ。ここ数年の未解決テロ事件のほとんどの首謀者が、彼女っていうことになってたわ。大量殺戮の愉快犯で、武器麻薬人身売買何でもござれの闇商人。よくぞここまで悪人に仕立て上げたと感心するくらい、とんでもない人物像になってるわ。わたしの名誉のために言っておくと、昨日は間違いなくそんな記録はどこにも、この星のコンピュータのどこにも存在しなかったのにね」

 

 ジャスミンは痛烈な舌打ちをした。

 昨日の晩の段階で、ウォルの身の上は、完全無欠に清廉潔白なものだった。それが、一晩でこの有様である。

 第一、ウォルはついこないだまで、この世界には存在しない人間だったのだ。その彼女が、どうしてそんな華々しい犯罪歴を拵えられるというのだろう。

 

「馬鹿な。まだ十四歳の女の子だぞ、あくまで連邦政府の形式上ではだが」

「超の付く天才児が、遊び半分で犯罪組織をまとめ上げ、世間を震撼させるテロ事件を演出した。あなたの寝ている間の事件だから知らないのも無理はないけど、そういうことも実際にあったのよ」

「それは知っている。だが、何のためだ。どうしてウォルを極悪非道の犯罪者に仕立て上げる必要がある?もう、彼女は奴らの手の中だぞ。今更そんな記録を偽造する意味があるとは思えないが」

「自分の手の中にあるから、なんでしょうね。よく分からないけど、彼女を何かに利用するつもりなんでしょ。そのためには、あの子が超極悪人で、どんな扱いをしてもいいような身の上でないと都合が悪かった。そんなところじゃないの」

 

 もう一度、ジャスミンは力一杯に舌打ちをした。

 ダイアナの予想は尤もだ。そして、その予想から導き出されるありとあらゆる未来図は、そのいずれもが心温まるとは言い難い、曇天色のものでしかなかった。

 

「ちなみに、三人の行方は追えないのか」

「駄目ね。ケリー達を拉致した車は追跡できたのだけれど、いつの間にか中身がごっそりと変わっていたわ。今はヴェロニカシティのレンタカー会社の倉庫の中よ。今さら調べても、何の痕跡も残ってないでしょうね」

「途中で乗り換えたか」

「多分ね。何度かトンネルを走っていたから、その途中だと思うわ」

「乗り換えた車の追跡はできなかったのか?」

「無茶言わないでよ。そんなことしたら、あの時間にあの道路を走っていた全ての車の追跡をしなくちゃいけないわ。わたしは百目の怪じゃないんですからね!」

 

 画面に映った美人は、唇を尖らせて拗ねてしまった。

 ジャスミンは、別にご機嫌取りの言葉を用意したりはしなかった。

 一人難しそうな顔で考えていると、横から声をかけられた。

 

「なぁ、お姉様よう。このべっぴんさん、どうやって軍隊の命令の発信源なんかを辿ったんだい?まさか色仕掛けか?」

 

 ジャスミンは目を丸くした。

 

「……どうやったら、感応頭脳が人を色仕掛けできるんだ?」

「いや、この姉さんなら十分にできそうな気がするんだけど……。実際に顔を合わさなくても、この調子でしなの一つでも作ってやれば、ころりといく男はいくらでもいそうだぜ」

「あら、嬉しいことを言ってくれるじゃない、メイフゥちゃん。お姉さん、とっても嬉しいわ」

 

 画面の女性が、百点満点の笑顔を浮かべた。

 

「でも、そうじゃないの。わたしは人間の男性よりも、感応頭脳のほうにファンが多くてね、そっちを誘惑する方が得意なのよ」

「なるほど、軍の感応頭脳をたらし込んだってわけか」

「あなたみたいに可愛らしい女の子が、下品なことを言うものじゃないわ。正式にお誘いして、丁重にお願いしたら、快く色んなことを教えてくれたのよ」

「よく言う……」

 

 彼女のお願いが、他の感応頭脳にとっては所有者の命令よりも強烈なことを知り尽くしているジャスミンが、呆れながら呟いた。

 その呟きが聞こえていただろうに、おそらくは意図的に無視したダイアナが、感心しきりのメイフゥに向かって語りかける。

 

「あなたも、この機会に何か調べておきたいこととかないの?好きな異性のプロフィールとか、なんでもござれよ?」

「いや、そういうのは別にないんだけど……」

 

 ジャスミンは『それは法に抵触しているぞ』という当たり前の一言を飲み込んだ。正しく今更のことだったからだ。

 そんな彼女を尻目に、ダイアナとメイフゥの、初対面とは思えないほどに気安い会話が繰り広げられている。

 

「実は、一つお願いしたいことがあってよ」

 

 メイフゥが、目尻を下げながら、なんともだらしない顔で言った。

 

「何?あなたみたいに可愛らしい女の子のお願いなら、わたしにできることだったら何だって引き受けちゃうけど?」

 

 メイフゥは、ごそごそとズボンのポケットをまさぐり、中から小さなケースを取りだした。

 黒く頑丈そうなそれを開くと、中には小さな記録チップが入っていた。

 

「それは?」

 

 興味深そうに、ダイアナが問う。

 

「いや、こないだ親切な人からもらったんだけどよ、あたしの腕じゃあロックが解除できないんだ。金儲けに繋がりそうな匂いがぷんぷんしてるんだけど、これじゃあ生殺しだぜ。あんたなら、こいつの解除くらいお茶の子さいさいじゃねえかと思うんだが、どうだい?」

「おかしなことを言うわね。親切な人にもらったんなら、その人に解除パスも聞けばいいじゃない」

「それが聞けねえからこうして頼んでるんじゃねえかよ。けちけち言わずに、な、頼むよ」

 

 メイフゥは両手を合わせて、画面に映る美女に向けて拝み込んだ。

 いったい、どういう経緯でその親切な人と出会い、そしてどういう経緯でそのチップを譲り受けたのか。叩いてみれば、目の前が真っ白になるほどの埃が舞い上がるに違いなかった。

 だが、荒事には慣れっこのダイアナであり、ジャスミンである。深くは追求しなかった。

 

「どうする、ジャスミン?」

「そうだな……。どうせ今すぐに動ける状況でもなし、その程度であれば構わないんじゃないか?あまり時間がかかるようなら後回しにすればいい」

「……分かったわ。半時間だけやってみて、駄目ならこの騒動が終わるまでおあずけ。それでいい?」

「やたっ!話が分かるぜ姉さん!」

 

 いつの間にか姉さん扱いをされてしまった感応頭脳は、呆れたような表情を作りながら、ジャスミンとメイフゥの後ろにあるパソコンを指さした。

 

「その中に入れて頂戴。あとはこっちで勝手にやるから」

 

 連邦宇宙軍の統制コンピュータですら苦もなくハッキングするダイアナであるから、どれほど難解なパスがかかっていようとものの数ではないだろう。おそらく、お茶でも飲んでいるうちに解除が終わるはずである。

 いそいそとパソコンにチップをセットするメイフゥを尻目に、ジャスミンは台所に行き、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを出して、直接呷った。火照った、そして空っぽの胃に冷たい温度が流れる感触は、何度味わっても飽きることがない。

 その時、がちゃりとドアの開く音が聞こえた。そして、ゾンビのように足を引きずりながら、誰かが部屋に入ってくる。きっとその顔は、下手なゾンビよりはさらに血色が悪いに違いなかった。

 その誰かのために、ジャスミンはもう一本のボトルを冷蔵庫から出した。きんきんに冷えて、胃の奥から体を冷やしてくれそうなやつだ。

 キッチンからジャスミンが戻ると、泥と汗に塗れた少年が、崩れ落ちるように椅子に腰掛けた。

 そして、地の底に住まう亡者のごとき声で、言った。

 

「み……みず、みず……」

 

 ジャスミンは無言で、インユェの前にボトルを置いてやる。

 まるでゴム紐の弾けるような勢いで体を起こしたインユェは、震える手ももどかしく蓋を開けると、猛烈な勢いで水を飲み下していく。口に収まりきらなかった透明な液体が、口の端から零れていくのにも気がついていないに違いなかった。

 貪るような有様の少年は、自然と噎せた。思い切り噎せた。あんな様子で水を飲んで、気道にいかないほうがおかしいのだ。

 げほげほと盛大に咳を吐き出し、悶絶する少年に、二人の女傑は溜息と苦笑いで応じた。

 

「まったく、ちったあましになったと思ってみれば、ちっともいけてねえなぁ」

「千里の道も一歩からと言う。まぁ、今日はこんなものだろう」

 

 収まりかけているとはいえ、まだ咳き込んでいたインユェに、二人の声は届かない。

 涙の浮かんだ顔を起こしたときには、いつもと同じように冷ややかに自分を見つめる姉の視線を見つけただけであった。

 

「なんだよ。なんか文句でもあんのかよ」

「……お前なぁ。その可哀相な脳みそに、少しは教訓ってやつを叩き込んどけよ。つんけん尖るのもけっこうだがよ、時と場合によっちゃあ寿命が縮まるぜ、それじゃあ」

「ふん、下げたくもない頭を下げてへぇこら生きるより、そっちのほうが何倍もましだとおもうがね」

「がきの考え方だ、そいつは」

「んだとぉ?」

「ちょっと、楽しそうなところ悪いんだけど」

 

 横合いから声がかかる。

 人心地のついたインユェが視線を横にやると、大型のテレビ画面いっぱいに映り込んだ佳人が、呆れたように自分を見ていた。

 ふんわりとした金色の髪、透明感のあるブルーの瞳、柔らかで整った輪郭。

 瞳には深い知性が宿り、しかし男の甘えをくすぐるような悪戯っけも忘れていない。

 紛れもない、極上の美人だ。

 だが、今のインユェにはどうでもいいことだった。今の彼の心は、ただ一人の少女の持ち物だったのだ。

 それでも、なんとも残念な格好だな、とは思った。画面に映り込んだ女性は、まだ、例の迷彩服姿なのである。もう少し見栄えのする衣装を着ていれば少年の抱く感想も違ったものになったかも知れないが、こんな色気のない服では、少年の心を射貫くには華不足だったようで。

 インユェは、いかにも訝しげな表情で姉のほうを振り返り、画面を指さしながら、

 

「そういえば姉貴よ、こっちの胡散臭いのは何者だよ。あの女の仲間か何かなのか?」

「あら、胡散臭いとはお言葉ね。これでもダイアナ・イレブンスっていう立派な名前があるんですからね。失礼しちゃうわ、まったく」

 

 画面の女性が、頬を膨らませながら言う。

 媚びるようではないのに、しかしどこまでも男心を虜にするであろう、女性の表情だ。世の男性の大半は、この表情を見ただけで、画面の女性に恋してしまうに違いなかった。

 だが、例外というものは何事にもあるようで。

 ダイアナを見ていたインユェは、いっそう眉を顰めて、

 

「……やっぱり胡散臭え。なんか、年増の婆が一生懸命若作りしてるような、そんな感じだぜ」

 

 ぴしり、と、画面上の女性の表情が、固まった。

 まるで、パソコン画面がフリーズを起こしたような、見事な有様で。

 それでもやがて、ぎぎぎ、と、油の切れた歯車みたいな音をたてるようにして、女性の表情が変わっていく。

 頬が持ち上がり、目がにこやかに細められ、笑顔と呼ばれるかたちになる。

 しかし、勘違いしてはいけない。というよりも、こういう場合の女性が本当に笑っていると思える男性は、一生結婚できないか、それとも長生きできないか。

 なんとか平静を装ったダイアナは、口の端を引き攣らせて、怖いもの知らずの若者に語りかける。

 

「やぁねえ、こんな綺麗なお姉さんをつかまえて、年増の婆だなんて、心にもないこと言っちゃって。照れ隠しもほどほどにしておかないと、可愛くないわよ?」

 

 意訳するならば、『その臭い口を閉じて二度と開くな殻の取れないひな鳥が。けつの穴から手を突っ込んで奥歯をへし折るぞ』であるが、年若いインユェは、勇敢、それとも無謀、おそらくは鈍感であった。

 挑発的に眉を顰めてやり、からかうような口調で言った。

 

「はっ、そういうしゃべり方が気色悪いって言ってるんだろうが。なんつーか、古くせえんだよ、あんた。一世代前の家電製品か、それともジャンク屋に転がってる、パーツ取られた後の宇宙船みてえだぜ」

 

 女性を評するには、なんとも風変わりな形容である。その点、船に乗って宇宙を駆けることに青春を費やしていたインユェは、普通の少年とは感性が若干ずれている。

 普通の女性であれば、的の外れた罵詈雑言に、かえってやる気を削がれてしまったかも知れない。

 だが、この場合、彼の口調は極めて効果的に対象者の心を抉った。この上なく効果的と言っても良かった。何せ、彼の話している相手は、本物の機械であり、そして宇宙船の感応頭脳であるのだから。

 先ほどと寸分変わらない笑顔を浮かべたままのダイアナが、煮えたぎるマグマを押さえつけたような、灼熱を感じさせる声で呟いた。

 

「い、一世代前の家電製品……ジャンク屋の宇宙船……」

 

 常に時代の最先端の性能を維持することが、自身の存在証明であるといっても過言ではないダイアナである。そして、世間の三世代は先を行くと謳われた超頭脳を誇るダイアナである。

 その彼女に対して、ポンコツと言ってのけたのだ。

 これほど屈辱的な台詞は他にはない。

 然り、彼女の怒りを表すように、画面に映ったダイアナの画像が、一瞬だが、しかし激しく乱れた。

 インユェは、それがただの電波障害によるものだと思った。

 残りの二人はそうは思わなかった。

 ダイアナのことをよく知らないメイフゥですらが、顔を引き攣らせて腰を浮かせた。いつでも逃げ出せる準備だ。

 そして、ダイアナのことを、おそらくはこの世で二番目に理解しているであろう女性──少年の向かいに腰掛けていたジャスミンが、あめ玉を飲み込んでしまったように目を丸くして、目の前の少年をまじまじと見つめながら一言。

 

「……少年。悪いことは言わん。死にたくなかったら、さっさと土下座するなり裸踊りを踊るなりして謝れ。平身低頭して罪を詫びろ。そうすれば、まだ間に合うかも知れん」

「ああ?なんで俺が、こんな得体の知れねえ女に頭を下げなきゃならねえんだよ」

「ねぇ、ジャスミン。その部屋、少し蒸さない?」

 

 映像のダイアナが、胸元のシャツを引っ張り、手で顔を扇ぎながら、普段と寸分変わらぬ口調で言った。

 困ったような、楽しむような声だ。

 そして、その瞳には紛れもない危険信号が点っている。

 その蓋を開けてみれば、いったいどのような魑魅魍魎が牙と爪を研いでいるのか。

 ジャスミンのこめかみを、冷たい汗が伝った。

 安全装置の外れた銃口を、突きつけられた感覚に近い。

 ジャスミンが、慌てて何かを口にしようとしたが、しかしダイアナはその暇すら与えずに、

 

「そうだわ、きっとそのおうち、風通しが悪いのよ。でも大丈夫、今からたっぷりと風通しを良くしてあげるわ」

「やめろ、ダイアナ!」

 

 制止するジャスミンの声と重なるようにして、じゅ、と何かの焦げる音がした。同時に、インユェの目の前のテーブルから白い煙が立ちのぼった。

 嫌な臭いが鼻をつく。

 はて何事かと思って見てみると、テーブルに、小さな円形の穴が開いていて、その周りが黒く焦げているのだ。

 穴を覗き込むと、ちょうど真下、床にも同じサイズの円形の穴が開いていた。

 もしやと天井を見上げると、やはりテーブルに開いた穴のちょうど真上に、同じサイズの穴がある。優れて視力の良いインユェは、穴の先に青く澄んだ空を見た。

 つまり、屋根から床に至るまで、一直線に、奇妙な穴が穿たれているのだ。

 はて、先ほどまで、こんな穴があっただろうか。

 これは何だろうと首を傾げる。

 

「なんだ、こりゃ?」

「動くな、馬鹿者!」

 

 再び、じゅん、と、湯が沸き立つような音が聞こえて、テーブルに穴が開いた。

 今度は、少年のすぐ横、顔の真下にほど近い場所である。

 やはりテーブルの真下の床にも、ほぼ同程度の小さな穴が開いており、天井にも同じような穴が開いている。

 先ほどと違うことと言えば、ただ一つ。室内を、髪の毛の焦げた嫌な臭いが満たし、少年の銀髪が数本、焼き切られて宙を舞ったことくらいであろうか。

 きょとんと表情の抜け落ちた少年は、しかし次の瞬間、自分の置かれた状況に気がついた。

 

 ──狙撃されている!

 

「わ、わぁぁっ!?」

 

 もうぴくりとも動けないと思っていた乳酸塗れの体は、意外なほどに敏捷に反応した。具体的に言うと、インユェは思い切り後ろにひっくり返った。

 椅子が床にぶつかる盛大な音が室内に響き、埃が一緒に舞い上がる。

 インユェは、這うようにして部屋から逃げようとした。その後で部屋に残されるであろう二人の女性のことなど、毛頭気にかけない有様である。

 あたふたと四肢を動かし、地を這うオオトカゲみたいに間抜けに、しかし本人からすれば至って真面目に逃げようとしたインユェの鼻先で、またしても直径二センチほどの穴が、無慈悲に穿たれた。

 

「ひ、ひぃぃっ!?」

 

 方向を変えて、かさかさと這い逃げる。手足が不規則に動く。これなら、木から落ちたナマケモノのほうが、幾分機動的かも知れない。

 だが、本人は間違いなく必死だ。

 そんなインユェを嘲笑うかのように──事実、いたぶりながら、彼の逃げ道の先に穴が開く。

 じゅん、と、粟立つような音が聞こえたと思うと、蒸発した木材の形容しがたい臭気が鼻をつくのだ。

 弾丸ではなく、超高出力のレーザーによる、成層圏からの狙撃である。

 少し着弾点がずれていれば、彼の命をあっさりと奪うであろう、一撃だ。

 腰を抜かした少年は、四つん這いの姿勢からへなへなと後ろに崩れ、だらしなく足を投げ出した状態で座り込んでしまった。

 恐怖に意識を失いかけた少年。だが、最後の藁にしがみつくようにして、叫んだ。

 

「お、お姉ちゃん!た、助けて!」

 

 困ったときの姉頼みである。先ほどまで、姉や、姉以外のもう一人の女性のことなど忘れて、我先に逃げだそうとした少年の言葉とは思えない。

 一部始終、少年の様子を見守っていた彼の姉は、たっぷりと呆れを含んだ溜息を吐き出して、

 

「だから言ったろうが、つんけん尖るのもけっこうだが時と場合によっちゃあ寿命が縮まるぜ、ってよ」

「な、なんのはなしだよっ!」

「何で自分だけが狙撃されてるか、考えてみ」

 

 そう言われて見てみれば、メイフゥもジャスミンも、平然と椅子に腰掛けている。

 当然のことではあるが、二人の周囲に狙撃された様子はない。先ほどから狙い回され、醜態を晒しているのは、自分だけだ。

 これはどういうことかと辺りを見回すと、必死に笑いを堪えた表情で自分を見る、画面の女と目があった。

 直感的に、インユェは理解した。どういう理屈か知れないが、自分を狙撃したのはこの女なのだと。

 その瞬間に、先ほどまでの恐怖を上回る、羞恥と怒りがインユェの顔を赤らめた。

 

「て、てめえか、このポンコツ女!」

 

 癖というよりは、もはや生態と評した方が正確かも知れないインユェの暴言。

 対するダイアナからの返答は、へたり込んだ少年の、股間の数ミリ先への狙撃であった。

 木材の焦げた臭いに、繊維の焦げた臭いが混じる。

 少年のズボンの、股間の継ぎ目の部分が、焦げて穴が開いていた。少しずれていれば、少年の男性自身が一生役に立たなくなっていたことは明白である。

 少年の口が、ぱくぱくと、呻き声すら漏らすことなく上下する。

 

「ごめんなさいねぇ。最近はあまり整備に裂く時間が無くて、システムの一部が暴走しちゃってるみたい。これじゃ、ジャンク呼ばわりされても返す言葉もないわよねぇ」

 

 冗談ではない。いったいどうすれば、システムの不具合程度で自分が狙撃されなければならないのか。だいたい、ここまでの精度で誤射が起こる可能性が、どれほどだというのか。

 どんなに愚かな人間でも、今のダイアナの言葉を額面通りには受け取らないだろう。

 

「それに、最近は弾道計算もミスが多くなっちゃって……。これじゃあ、感応頭脳失格だわ。だって、いつ手元が狂って、人間を殺しちゃうか分からないんだもの」

 

 にこやかな、この上なく嬉しそうな顔でそんなことを言う。

 この時点で、遅まきながら──本当に遅まきながら、インユェは悟った。目の前の女性は、姉か、それとも先ほど散々自分を痛めつけてくれた女と、同じかそれ以上に、怒らせてはいけない存在だったのだ、と。

 

「極めつけには、耳も遠くなっちゃって……。ねぇえ、そこのあなた。さっき、わたしのことを何て言ったかしら?よく聞き取れなかったんだけど、もう一度言ってくださる?」

 

 ここで毒づくことができたならば少年の愚かさも本物であったのだが、少年はもう少し賢明であり、同時に尻の穴が小さかった。

 片頬を引き攣らせて、揉み手を作り、不自然この上ない表情で笑いながら、

 

「あ、ははは、イレブンスさんは、今日もご機嫌麗しゅう、まことにお美しいかぎりで……」

「あらぁ、イレブンスだなんて堅苦しい、ダイアナでいいわよ、ダイアナで」

 

 画面の女性は、正しく天使のような顔でそう言った。

 インユェは、へこへこと頭を下げながら立ち上がり、股間の辺りを手で覆い隠しながら部屋を出て行った。

 しばらくすると、廊下の向こうから、水で何かを洗う音が聞こえた。

 少年の姉であるメイフゥが、溜息を吐き出した。

 

「……ったく、小便漏らすくらいなら最初っから黙っとけっつうの」

「いいじゃない、可愛らしくって。わたし、ああいう分かりやすい子、けっこう好きかも知れないわ」

「なら、もう少し優しく可愛がってやれ。冗談は構わないが、折角用意した隠れ家を穴だらけにしてくれたのは少しやりすぎだ。雨が降ったらどうする。盛大に雨漏りを起こすのは確実だぞ」

「怒らないでよ、どうせ長く使うものじゃないでしょ。それより、メイフゥちゃん。さっき頼まれてた件、終わったけどどうする?」

 

 廊下の向こうに視線を投げていた少女が、飛び上がるような様子で画面に近づき、

 

「まじで!?早すぎるだろ、ダイアナの姉御!」

「うーん、姉さんから姉御へは、ランクが上がったということでいいのかしら?」

 

 苦笑したダイアナに、

 

「もっちろんさね!あれだけややっこしいパスをこんなに早くとっちめるなんて、それだけで尊敬に値するぜ!」

「ふふん、まあね。わたしじゃなきゃ、きっと一ヶ月はかかってたわ」

 

 先ほどポンコツ呼ばわりされた鬱憤を晴らすように、ダイアナは胸を張った。

 それを讃えるメイフゥの顔は、輝くような笑顔である。

 それとも、舌なめずりする獣の顔。だがその獣の瞳はドルマークで描かれるに違いなかった。

 テレビ画面のダイアナの前で正座するメイフゥ。ジャスミンは少女のお尻に、ぱたぱたと振られる尻尾を幻視した。

 

「じゃあ、この画面にデータを送るけど、それでいい?」

「ああ!」

 

 瞬間、ダイアナの顔が消え、味気ない暗色の画面にいくつかのグラフと数字が羅列された。

 中央には、緑と濃紺で色分けされた模様のようなものが描かれている。

 メイフゥは首を傾げたが、ジャスミンにははっきりと見覚えがあった。ゆっくりとした足取りでテレビに近づき、メイフゥの隣に腰を下ろして、言った。

 

「地図だな」

「地図」

「ああ。ヴェロニカ共和国……というよりは、惑星ヴェロニカの世界地図だろう。ダイアナ、平面図を立体に起こせるか」

「ええ、ちょっと待ってね」

 

 球体の星を平面に表そうとすると、どうしても齟齬が生まれる。方角を正確にすれば面積がちぐはぐになり、距離を正確に表せば大陸相互の位置関係が把握しずらいといったように。

 さして時間を待たず、画面中央に立体的に描かれた球体が映し出された。

 言うまでもなく、惑星ヴェロニカの全景である。

 その上に、小さく赤い点が、いくつも描かれている。

 都市を表しているのかと思ったジャスミンだったが、どうにも違うようだと理解した。この国の首都であるヴェロニカシティのほぼ真上にその赤点が付されてはいるが、その他の著名な都市と赤点が必ずしも一致しないのだ。

 

「ダイアナ、この赤い点はなんだと思う?」

 

 真剣な表情で画面に食い入っていたジャスミンが、言った。

 ダイアナは、残念そうな声で、

 

「どうにも駄目ね。この印と、ヴェロニカ共和国に現存するあらゆるデータを比較検討してみたけど、どれも合致しなかったわ。人口の分布図でもないし、何かの産地を表しているわけでもない」

「そうか……」

 

 ジャスミンは、メイフゥの方を振り返り、真剣な表情で問うた。

 

「メイフゥ、さっきのチップは、本当は誰から奪ったものなんだ?」

 

 もらって、ではなく、奪った、である。この点、ジャスミンは間違えていないと確信している。

 メイフゥも、全く悪びれた表情を見せなかった。海賊たる父を持つ彼女は、その父親を心底尊敬しているのだし、この年まで所謂一般的な倫理観というものとほとんど触れずに育ったせいもあり、そういう意味での罪悪感は持ち合わせていない。

 彼女の内側に存在する最重要な行動原理は、己に恥じるところのないよう生きるということであり、自分とウォルを拐かした痴漢どもからこのチップを奪い取ったことは、その原理にちっとも抵触していなかったのだ。

 

「ちっとばかし前に、お世辞にも身なりがいいとはいえない野郎どもの家に招待されたことがあってね。危うく貞操を穢されそうになったんだけど、そこはなんとか切り抜けてさ、戦利品がこいつってわけよ」

「なるほど、顔と体を餌にして馬鹿な男どもを釣り上げ、思うさまに暴れ回り、ついでに懐も温かくして帰ってきたというわけか」

 

 にべもない言い表し方であったが、完全に事実に即していた。この点、ジャスミンは、メイフゥという少女の本性をほとんど理解していたと言っていい。

 自分の所業を暴かれたかたちのメイフゥだが、気まずそうな表情はちっとも見せず、むしろ嬉しそうにジャスミンを眺めていた。たった一晩一緒にいただけで自分のことをここまで理解してくれる人間がいるとは、彼女は想像だにしなかたのだ。

 しかも、強い。そして侠気に溢れている。

 

 ──ほんとに惚れそうだぜ。

 

 メイフゥは、これでジャスミンが男であれば今すぐに押し倒してやるのになぁ、と、高望みの溜息を吐き出した。

 

「ちなみに、それはただのごろつきどもだったのか?」

「まぁほとんどはな。ただ、そこの頭は、憂国ヴェロニカ聖騎士団と関わりがあるとかないとか言ってたかなぁ……」

 

 メイフゥは遠い表情をしながら言った。

 事実、彼女にとってあの事件は遠い過去の出来事であった。もし街中であの建物にいた男どもとすれ違っても、彼女は哀れな獲物の顔をちっとも覚えていないだろう。仮にあちらが覚えていて、泡を食って逃げ出したとしても、身に覚えのありすぎる彼女はいったいどの事件で関わった獲物なのか首を傾げるだけに違いないのだ。

 

「憂国ヴェロニカ聖騎士団……確か、真のヴェロニカ教の教えを取り戻すとか何とか喚きながら街を闊歩する、きちがい共のことだな」

 

 一刀両断の意見であったが、メイフゥは見事に首肯した。

 

「あれ、お姉様も知ってるのかい?」

「ああ、昨日、すれ違った程度だがな。そういえば、メイフゥ、お前達が戦っていたというのも……」

「ああ、そういやそうだったな」

 

 メイフゥは、ぽんと手を鳴らした。長いこと、チップのことなど忘れていたのだ。

 しかし、こうすると、データのことが俄然気になる。何故なら、憂国ヴェロニカ聖騎士団のトップは、現政権と蜜月の関係にあると言われているのだから。

 そして、ウォルを拐かしたのはヴェロニカ軍の中枢であり、当然のことながら現政権とも親密な付き合いがあってもおかしくないはないのだ。

 何かがジャスミンの脳裏に閃き、警鐘に似た神経に障る音を鳴らし始めていた。

 

「あっ、これって……」

 

 その時、テレビのスピーカーを借りて、女性の声が部屋に響いた。

 ダイアナの声であった。

 

「どうした」

「ん、別に大したことじゃないんだけど……」

 

 画面には相変わらず無味乾燥な数字とグラフが羅列されているが、ジャスミンは、そこに気遣わしげなダイアナの顔を幻視した。

 

「大したことじゃなくてもいいさ。今の私たちには、藁だったとしても掴める物はダイヤモンドよりも貴重なんだからな」

「それもそうだけど……。でも、正直わたしにはあまり意味のあることとも思えないのよ。それでも怒らない?」

「ああ、私の父と、私の愛機に誓って怒らない」

 

 子供をあやすような口調で、ジャスミン。

 それに安心したのか、それとも踏ん切りがついただけなのか、ダイアナが、あまり気が進んでいませんという内心がありありと滲み出た声で言った。

 

「……さっきの赤い点の付された箇所の極近辺に、ヴェロニカ教の聖地と呼ばれる遺跡のいくつかが存在するの。それだけよ。全体から見れば数パーセント程度だし、だからといってそれ以上に気になるデータもないのだけど……」

「ヴェロニカ教の、聖地?」

「ええ。原始自然崇拝のヴェロニカ教らしく、ほとんどは険しい山地か荒野のど真ん中ね。それに、遺跡っていってもそれほど大仰なものじゃないわ。小さな石造りのモニュメントみたいなものが建っていて、その周囲が立ち入り禁止になっているだけ」

「写真を用意できるか?」

「少し待って……。これでいい?」

 

 画面が切り替わり、先ほどよりははるかに鮮やかな色彩が映し出された。

 この国特有の、奇妙に赤茶けた大地が映し出されている。空の、のっぺりとした青との対比が強烈で、一瞬くらりと目眩を起こしそうなほどだ。

 そこは、何の変哲もない荒れ地であった。空の青、大地の赤茶以外に存在するのは、風雨に摩耗した石造りのモニュメントの灰色だけ。それ以外には、背の低い雑草の一つだって生えてはいない。

 なんとも侘びしい風景であった。これが、仮にも惑星一つを席巻している宗教の聖地とは思えない。ジャスミンの想像する聖地とは、金箔を分厚く張り付けた神像が鎮座し、信者がひっきりなしに巡礼に訪れて列を作るというものだったから、ギャップも激しい。

 

「他も、程度には差こそあれだいたい似たり寄ったりだわ。人間って不思議よね。どうしてこんな殺風景なところに神を住まわせたがるのかしら」

 

 ダイアナが、心底理解できないといった調子で言った。別に蔑んでいるふうではない。機械らしからぬ感性を持つ彼女であっても、理解できないことがあるというだけだ。

 そして、それはジャスミンも同感であった。自然が偶然に作り出したとは思えない絶景は確かに世界各地に存在するのであり、そこにはある種の神々しさを感じないでもないが、今、テレビ画面に映し出されている風景にそういった感情、あるいは感傷を引き起こすものは存在しなかった。

 

「ちなみに、その聖地には一体どういう由来があるんだ?」

「最初にこの星を訪れたヴェロニカ教の始祖達が、そこで神様とか天使を見たそうよ。そこで、どこの星にでも転がってるような、有り難いんだか有り難くないんだかわからない、曖昧な預言を授かったそうだわ」

「聞く人が聞けばそうでは無いのかも知れないが、なんとも有り難みのない話だ。それこそ、どこぞの誰かが昨日思いついたような感じだな」

「同感ね。そもそも宗教って、そんなものかも知れないけど」

 

 ダイアナと話しながら、ジャスミンの興味は急速に薄れつつあった。

 このデータが元は憂国ヴェロニカ聖騎士団のものだったと聞いて、その隠れ家か、それとも資金源になる麻薬畑でもあるのかと思っていたが、写真を見る限りそう言ったものはなさそうだ。こんなだだっ広い荒野のどこを探しても、ウォルやケリーが隠されているとは思えない。

 無論、意味のないデータであるはずはないのだ。しかし、現状でその解明ができないのであれば不必要に拘る時間も存在しない。知的好奇心を満たすために費やす時間は、今のジャスミンたちにはあまりに貴重すぎた。

 

「ふぅむ」

 

 ジャスミンは顎に手をやり、考え込んでしまった。

 後ろから、うずうずした様子のメイフゥが声を掛ける。

 

「なぁ、お姉様。どうだい、銭になりそうな話かい?」

「……どうだろう。今のところ、そういうふうなデータとも思えないのだが……」

 

 珍しく煮え切らない様子のジャスミンである。今は、地図から視線を外して、その横に羅列された数字の群れと格闘しているようだ。

 縦書きのデータの一番端には、規則正しい数字の列が並んでいる。おそらくは、共和宇宙の暦だろう。もしかしたら暗号化されて別の意味があるのかもしれないが、厳重なロックが掛けられていた以上、その線は薄い気がする。

 だが、年号の横の数字は、全く意味が分からないし、規則性も掴めない。

 やはりこのデータのことは、今は頭の隅に置いておくに止めるべきだろう。ジャスミンはそう思った。

 

「ちぇっ。折角飯の種をゲットしたと思ったのになぁ。な、ひょっとしたらさ、この星に移民してきた最初のヴェロニカ人がそこにヴェロニカ教のお宝を隠したとか、そういうことはねえのかな?」

 

 あまりに子供っぽいこの意見に、ダイアナが苦笑で答える。

 

「それは中々鋭い意見だけど、この場合は考えにくいわね。メイフゥちゃん、この星に移住してきたのは、元々故郷の星で迫害されていたような貧しい身分の人達でね、どう考えてもそんなお宝を埋めて隠しておくような余裕があったとは思えないのよ。考古学的に価値のある遺物が埋められていることはあっても、金銀財宝がざっくざくってことはないでしょうね」

「ちぇ、そうかよ。ま、ダイアナの姉御が言うならそうなんだろうなぁ」

 

 諦めきれないといった調子のメイフゥが、唇を尖らせる。

 そんな少女の意見を聞いていたジャスミンが、小さな、本当に小さな声で、無意識に呟いた。

 

「お宝を……埋める……?」

 

 ジャスミンの脳裏に、閃光が走る。

 猛烈な勢いで思考が回転していくのがわかる。そのあまりのスピードに、ジャスミンは目眩を覚えた。全身から、体という五感を奪われ、自分がもっと自由な生き物だと錯覚しそうになる。

 だが、その、快と不快の狭間を漂う感覚を味わいながら、ジャスミンは理解した。

 そうだ。

 そう考えれば、全てのつじつまが合うのではないか。

 ヴェロニカ共和国の連邦加盟を、大国エストリアが強力に後押しした理由。

 ヴェロニカ教の教義に、自生植物と肉食の一切を禁じるという、極端な教義がもうけられた理由。

 こんな辺境の惑星が、中央に名だたる列強から強い非難を受けても強気一辺倒でいられる理由。

 そして、もしかしたら今回の騒動──彼らの孫であるジェームスやリィの誘拐に端を発し、今、ウォルやケリーの拉致に至った、全ての遠因。

 もし、そうだとしたら、このデータは……。

 ただならぬジャスミンの様子に気がついたダイアナが、気遣わしげな声をかける。

 

「ちょっと、どうしたのよジャスミン。顔が青いわよ、大丈夫?」

「あ、ああ。ちなみに、ダイアナ、少し調べ物を頼めるか?」

「いいけど……どうしたのよ、突然」

 

 最後の声は意図的に無視する。

 

「さっきのデータを映してもらえるか」

「……はい、どうぞ」

 

 画面が、先ほどの、数字とグラフの羅列されたそれに戻る。

 ジャスミンは、それを指で追った。画面の一番端、共和宇宙歴と思われる数字が規則正しく並んだ行である。

 そのあるところで、指が止まる。

 

「ダイアナ、共和宇宙歴627年、その年に発生した主な事象を調べてくれ」

 

 ほとんど間を置かず、

 

「共和宇宙連邦の前身、共和宇宙同盟の主席ウィリアム・ベッカーの暗殺未遂。それに端を発する、シリウス星系の内乱勃発。中央では、食料生産を主に担っていた惑星スピウネルその他の同時発生的な超異常気象で記録的な食糧不足が発生し、長期的な混乱が起きてるわね。他には……」

「いや、それで十分だ」

 

 ジャスミンは、627年の列を調べる。そこに記された数字は、他の行のそれに比べて、遙かに大きなものであった。

 再び一番端の行に戻り、数字を下に追っていく。

 

「704年」

「エストリアとマーズの平和友好条約の署名が行われているわ。他には、ラヴォス星系とルガル星系を結ぶ航路に大規模な宇宙嵐が発生して長期間停滞、結果として航路が使用不能になり、ラヴォス星系に経済を依存していたルガル諸国が大規模なダメージを受けて、相当数の経済難民が発生したみたいね」

「781年」

「その年は、さっきとは反対にエストリアとマーズの軍事的緊張が最高潮になった年ね。当時の連邦主席サクラ・アカシアが有能な政治家でなかったら、共和連邦はその年に消滅していたと言われているわ」

 

 ジャスミンは、他にもいくつかの年号を言った。そして、ダイアナは暗記の得意な受験生さながらに、その全てにさらさらと答えていった。

 その度に、ジャスミンの細い指が画面を横滑りし、その列に書かれた数字を確認する。そのどれもが、他の年の列に記された数字よりも、遙かに大きなものであった。

 なるほど、どうやら間違えていないらしい。ジャスミンは、震える息を吐き出した。

 だが、疑問は残る。

 このデータがそういうものだとして、どうしてそんなものをいっかいのごろつき風情が手にしているのか。

 それに、流出したのは、これ一つだけか?いや、それはあり得ない。おそらく、驚くほど広範囲にばらまかれているだろう。

 それを手にした人間の中に、自分と同じことに気がつく人間がいないと言い切れるか?

 ジャスミンは、誇大妄想的な自信家ではなかった。ならば、自問の答は否だ。

 そして、その不幸な人間が、十人、いや、五人もいれば……。

 もしも、もしも自分の考えが間違えていないなら……。

 

「なぁ、お姉様。何か分かったのかい」

 

 ジャスミンは、メイフゥの声を、深海から這い上がったときの酸素のように聞いた。

 

「ああ、わかった」

「じゃあ、このデータは、一体何なんだい?」

「種さ」

 

 振り返ったジャスミンの笑顔が、常にないほどに強張っている。

 メイフゥは、ただ事ではないと悟る。そして、押し殺すように震えるジャスミンの声を、初めて聞いた。

 

「これをばらまいた人間は、心底狂っているぞ。これは、到底人目に触れさせて良いデータではない」

「……種って、何の種だよ?」

「悪意だ。メイフゥ、これを拾ったのがお前で良かったよ。これは、無限の悪意の象徴だ」

 

 メイフゥの耳朶に、呪いのような寒気が広がった。

 それでも、あえて軽々しい口調を作り、言った。

 

「……へぇ、お姉様って詩人だね。でも、あたしは頭が悪いからさ、もう少し分かりやすく言ってくれないと分からねえんだけどな」

「なら、こう言えば分かりやすいか?もし、このデータの真実に気がついた人間が、この星に五人もいれば……」

「五人もいれば?」

 

 メイフゥの、唾を嚥下する音が、不吉に響いた。

 

「この国に内乱が起きる。間違いなくな」

 

 ジャスミンは、すっくと立ち上がった。

 

「準備をしろ、メイフゥ。すぐにここを発つ」

 

 普段は人の風下に立つことを良しとしないメイフゥが、自然と従いそうになる声だった。

 そして、目の前に控えた戦いを、ちっとも恐れない、戦士の声だ。

 戦慄に武者震いをしそうになったメイフゥは、肩を抱くようにして立ち上がり、不敵な表情を浮かべた。

 

「戦いかい?」

「ああ、お前の力を、存分にふるって欲しい」

「嫌だって言われてもふるわせてもらうぜ。ちなみに、場所は?」

 

 ジャスミンは、ちっとも笑うでもなく、

 

「ヴェロニカ教の総本山に、殴り込みだ」

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